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地底への降下、そして

霧ヶ湖の水面は、まるで黒いガラスのように静かだった。佐藤美咲はボートの縁にしがみつき、懐中電灯の光を水面に当てた。

光は水を貫き、湖底の神殿の輪郭を浮かび上がらせる。苔に覆われた石柱、無数の影が漂う祭壇。

あそこに、姉・彩花の魂が縛られている。

美咲の胸は恐怖と決意で張り裂けそうだった。

悠斗はボートのエンジンを止め、潜水装備を点検した。

酸素タンク、ゴーグル、ナイフ。湖底に潜るための最低限の準備だ。

彼の顔は青ざめていたが、目は揺らがなかった。


「美咲、準備はいいか?」


美咲は頷いたが、腕の痣が焼けるように痛んだ。

青黒い波紋のような模様は、首から胸、背中まで広がり、彼女の身体を湖に変えようとしているかのようだった。


「悠斗…本当にこれで終わる? 水神を止められる?」


「分からねえ」悠斗は正直に答えた。


「けど、爺さんが言ってた。神殿の祭壇に水神の核がある。壊せば、呪いは終わるかもしれない。だが、代償は…」


「代償?」


美咲の声が震えた。

悠斗は目を逸らし、湖を見た。


「水神は生贄を欲しがる。誰かが残らなきゃ、湖は静まらねえ」


美咲は息をのんだ。


「それって…誰かが死ぬってこと?」


「考えるな。今は行くしかねえ」 


悠斗は酸素タンクを背負い、ゴーグルを装着した。


「お前はボートで待機しろ。俺が潜って…」


「嫌!」美咲は叫んだ。


「私も行く。彩花がいるんだ。あそこに。自分で確かめたい」


悠斗はしばらく美咲を見つめ、ため息をついた。


「…分かった。けど、絶対に俺の後ろにいろ。湖は狡猾だ」


二人は潜水装備を整え、ボートから湖へ滑り込んだ。水は冷たく、まるで氷の刃のように肌を刺した。

美咲は息を整え、悠斗の後を追って潜った。

懐中電灯の光が水を切り、湖底へと導く。深い。あまりにも深い。

光が届かない闇が、彼女たちを飲み込もうとしていた。


湖底に近づくにつれ、神殿の全貌が現れた。巨大な石柱が円形に並び、中心に祭壇がそびえる。

柱の間を、青白い女たちの影が漂う。

彼女たちの目は空洞で、口から黒い水が溢れていた。美咲は恐怖に震えながら、懐中電灯を祭壇に向けた。


そこに、彩花の姿があった。


「姉さん…」


美咲の声は水中で泡となり、消えた。彩花は鎖で祭壇に繋がれ、長い髪が水に揺れている。

彼女の目は美咲を見つめ、かすかに微笑んだ。

だが、その微笑みはすぐに消え、彩花の口から黒い水が溢れ出した。

悠斗が美咲の肩を掴み、祭壇を指した。

中央に、黒い水晶のような核が浮かんでいる。

脈打つように光り、まるで生きているかのようだった。


「あれが水神の核だ。壊せば、呪いは終わる」


美咲は頷き、ナイフを握りしめた。

だが、近づくにつれ、亡魂たちが動き出した。

藤田遥、他の失踪者たち、そして無数の名もなき女たち。

彼女たちは美咲と悠斗を囲み、囁き始めた。


「来て…一緒に…永遠に…」


美咲の頭に、鋭い痛みが走った。

囁き声は彼女の心を侵食し、身体を動けなくする。痣が熱くなり、まるで湖が彼女を内側から引き裂こうとしているかのようだった。

悠斗がナイフで亡魂を切り裂き、美咲を祭壇へと押しやった。


「行け! 俺が食い止める!」


美咲は涙を流しながら祭壇へ泳いだ。亡魂の手が彼女の足首を掴むが、彼女はナイフで切り払った。

祭壇にたどり着き、黒い水晶を握る。

冷たい。まるで氷のような感触。

だが、触れた瞬間、彼女の頭にビジョンが流れ込んだ。


村の過去。


飢饉、洪水、疫病。湖に娘を捧げる村人たち。

血と涙が水に溶け、湖が意志を持つ瞬間。

水神の誕生。呪いは村の罪そのものだった。

美咲は叫び、水晶をナイフで突き刺した。水晶がひび割れ、黒い水が噴き出した。


水晶の破壊と同時に、神殿が揺れた。

石柱が崩れ、湖底が裂けるように鳴った。亡魂たちが悲鳴を上げ、彩花の鎖が解けた。

彼女は美咲に近づき、かすかに微笑んだ。


「美咲…ありがとう…」


「姉さん! 行かないで!」


美咲は彩花の手を掴もうとしたが、彼女の身体は水に溶けるように消えた。

亡魂たちも次々と光に変わり、湖底から浮かび上がった。

だが、水神の核はまだ脈打っていた。完全に壊すには、さらなる代償が必要だった。

悠斗が美咲の背後から現れ、彼女を突き飛ばした。


「逃げろ! ボートに戻れ!」


「何!? 悠斗、待って!」

美咲は叫んだが、悠斗は水晶にナイフを突き立てた。

核が爆発するように光り、黒い水が彼を包み込んだ。


「お前は生きろ! 湖に…負けるな!」


「悠斗!」


美咲は叫びながら引きずられるように浮上した。湖の水が彼女を拒絶するように、ボートへと押し上げた。

ボートにたどり着いた時、湖面は静かだった。

まるで何事もなかったかのように。

美咲はボートの縁にしがみつき、泣き崩れた。

痣は消えていた。

だが、悠斗は戻らなかった。湖は彼を呑み込み、代償として受け取ったのだ。


翌朝、霧ヶ湖村は静寂に包まれていた。美咲は清次の家を訪れ、すべてを話した。清次は縁側で煙草を吸い、湖を見ながら呟いた。


「湖は静まった。だが、罪は消えん。村の罪だ」


美咲は拳を握りしめた。


「悠斗が死んだのに、村はまだ湖を崇めるの? もう終わりでいいじゃない!」


清次は目を閉じ、首を振った。


「お前さんの言う通りだ。もう、終わりだ」


その日、村の古老会は解散を決めた。湖への供物は二度と捧げないと誓った。だが、村人たちの目はどこか空虚だった。

湖に縛られた人生を、簡単に捨てられないのだ。


美咲は村を去る準備を始めた。


彼女は湖の物語を記事にまとめ、ノートに綴った。だが、公開する気にはなれなかった。湖の呪いは終わったが、その記憶は彼女の心に重く残った。

彩花の微笑み、悠斗の最後の言葉。

すべてが湖底に沈んだ。


美咲は東京に戻り、フリーライターとしての生活を再開した。だが、夜になると湖の夢を見る。静かな水面、遠くで揺れる女の影。

夢の中で、悠斗の声が聞こえる。


「生きろ」と。


ある日、彼女はデスクの引き出しから藤田遥の日記を取り出した。

黄ばんだページには、遥の恐怖と希望が綴られている。

美咲は日記を閉じ、封筒に封をした。

公開する日が来るかもしれない。

だが、今はまだその時ではない。

霧ヶ湖村は、徐々に人が減り、半ば廃村となった。

湖は観光地として整備される計画が持ち上がったが、すぐに頓挫した。湖畔を訪れる者は少なく、村人たちは湖に近づかなくなった。


霧ヶ湖の水面。誰もいない湖畔で、かすかな波紋が広がる。チャプチャプと、水音が響く。

湖は静かに眠っている。だが、その底で、何かがまだ息づいている。

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― 新着の感想 ―
人が作った因習がいつの間にか生き物のようになったのですね。 信心がそれを形にしてしまった感じに思えました。 最後の悠人の行動が村の罪に繋がっているようで。だけど、彼は他の生贄たちのようにはならないよう…
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