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水の疵

佐藤美咲は湖畔で見た神殿の輪郭が頭から離れなかった。


懐中電灯の光が水を貫き、石造りの構造物を浮かび上がらせた瞬間、彼女の心臓は凍りついた。あれは夢ではなかった。

湖底に何かがある。藤田遥や他の失踪者たち、そして姉・彩花の魂が、そこに縛られているのかもしれない。

家に戻った美咲は、震える手でノートを開いた。「湖底の神殿」「水神」「生贄」と書かれたメモが、まるで彼女を嘲笑うように並んでいる。

悠斗の言葉が耳に響く。


「湖は知りすぎた奴を嫌う」


彼女は知りすぎてしまったのだろうか。湖が彼女を「呼んでいる」のは、ただの錯覚ではないのか。

その夜、風呂に入るのをためらった。

湯船に水を張る音さえ、彼女を不安にさせた。

だが、湖畔で冷えた身体を温めるため、意を決してシャワーを浴びた。

温かい水が肌を滑る瞬間、彼女は安堵のため息をついた。


だが、シャワーヘッドから落ちる水滴が、突然黒く変色した。

ドロドロとした粘液のような液体が、彼女の肩を伝う。異臭が鼻をつき、腐った魚のような匂いが広がった。

美咲は叫び、シャワーを止めた。

だが、鏡に映る自分の姿を見て、彼女は息をのんだ。左腕に、水滴のような痣が浮かんでいた。

青黒い模様は、まるで水面の波紋のように広がり、脈打つように動いている。

彼女は慌ててタオルで腕を擦ったが、痣は消えない。それどころか、触れるたびに冷たい痛みが走った。


「何…これ…」


美咲は震えながら鏡を見つめた。鏡の中の彼女の背後、長い黒髪の女が立っている。青白い顔、空洞のような目。

湖畔で見た影と同じだ。

女の口がゆっくり開き、黒い水が溢れ出した。


「来て…」声は低く、水底から響くようだった。


美咲は振り返ったが、誰もいない。

鏡を見ると、女の姿も消えている。


彼女はバスルームから飛び出し、電気をつけたままリビングに倒れ込んだ。

心臓がバクバクと鳴り、呼吸が浅くなる。

痣を隠すように腕を押さえ、彼女は自分に言い聞かせた。


「幻覚だ。疲れてるだけ。湖のせいじゃない」


だが、腕の痣は消えなかった。それどころか、翌朝には右腕にも同じ模様が現れた。

痣は少しずつ広がり、まるで水が皮膚を侵食するように見えた。

美咲は恐怖に駆られ、悠斗に助けを求めることにした。


船着き場で悠斗を見つけた時、彼はボートのエンジンを点検していた。美咲はコートの袖をまくり、痣を見せた。


「これ…昨日から。湖のせいだよね? どうすればいいの?」


悠斗の顔が青ざめた。彼は美咲の腕を掴み、痣をじっと見た。


「…やっぱり呼ばれてる。お前、湖に近づきすぎたんだ」


「呼ばれるって何!? この痣、消えないの? 私、どうなるの?」


美咲の声は震えていた。

悠斗は目を逸らし、湖の水面を見つめた。


「爺さんが言ってた。湖に選ばれた奴は、こうなる。痣ができて、夢を見る。最後には…湖に引きずり込まれる」


美咲は一歩後ずさった。


「引きずり込まれるって…死ぬってこと? そんなの、冗談でしょ?」


「冗談じゃねえ」


悠斗の声は低く、怒りを帯びていた。


「遥さんもそうだった。痣ができて、夜な夜な湖の声を聞いてた。最後は…自分で湖に入った。止められなかった」


美咲は膝から力が抜け、桟橋に座り込んだ。


「私、湖になんか入らない。絶対に」


悠斗はため息をつき、彼女の隣に座った。


「そう簡単じゃねえ。湖は待ってる。お前の意志なんか関係なく、引き寄せるんだ。爺さんが言ってた。水神は生贄を欲しがる。昔は村が選んで捧げたけど、今は湖が自分で選ぶ」


美咲は拳を握りしめた。


「じゃあ、どうすればいいの? 逃げればいい? 村を出れば…」


「逃げても無駄だ」悠斗は首を振った。


「遥さんも、村を出ようとした。でも、湖の声はどこまでも追いかけてくる。痣が消えるまで、湖は諦めねえ」


美咲は腕の痣を見つめ、恐怖と怒りが混じった感情が胸に渦巻いた。


「じゃあ、闘うしかないじゃない。湖底の神殿、あそこに何かあるんでしょ? 水神を止められる方法があるかもしれない」


悠斗は目を細めた。


「神殿に行くのは自殺行為だ。誰も戻ってこなかった」


「でも、このままじゃ私も消えるんでしょ?」


美咲は立ち上がり、湖を睨んだ。


「悠斗さん、ボート貸して。私、湖の真ん中に行く」


悠斗はしばらく黙っていたが、ゆっくり頷いた。


「…分かった。けど、俺も一緒に行く。一人じゃ危ねえ」


その夜、美咲は再び悪夢を見た。今度は湖底の神殿がはっきりと見えた。

苔に覆われた石柱の間を、青白い女たちが漂っている。

彼女たちの目は空洞で、口から黒い水が溢れる。

中央の祭壇には、巨大な影が揺らめいていた。

水神だ、影は形を持たず、まるで水そのものが意志を持ったように蠢く。

その影が美咲を見つめ、囁いた。


「お前も…我がもの…」


美咲は叫びながら目覚めた。部屋は暗く、時計は午前2時を指している。

彼女はベッドから飛び起き、腕を見た。

痣が胸元まで広がっていた。


波紋のような模様は、まるで彼女の身体を湖に変えようとしているかのようだった。 

彼女は震えながら服を着替え、キッチンで水を飲もうとした。

だが、蛇口から出てきたのはまた黒い液体。

ドロドロと流れ、シンクを汚す。


「やめて…やめてよ…」


美咲は蛇口を閉め、壁に背をつけた。部屋の隅から、チャプチャプという水音が聞こえる。


彼女は懐中電灯を手に、音の方向へ近づいた。

床に水たまりができている。だが、窓もドアも閉まっている。


どこから水が?

水たまりに近づくと、表面に女の顔が映った。長い黒髪、空洞の目。


美咲が叫ぶと、水たまりが膨れ上がり、女の姿が立体的に浮かび上がった。

女は手を伸ばし、美咲の足首を掴んだ。冷たい。

まるで氷のような感触。美咲は転び、床を這って逃げようとした。

だが、女の手は離れない。


「来て…湖へ…」


その瞬間、玄関のドアが叩かれた。


「美咲! 開けろ!」


悠斗の声だ。美咲は這うようにドアへ向かい、鍵を開けた。悠斗が飛び込み、彼女を引き起こした。


「何だ、これ!?」


部屋を見ると、水たまりは消え、女の姿もない。だが、美咲の足首には青い手形が残っていた。彼女は震えながら言った。


「女が…私の足を…湖に連れてくって…」


悠斗は彼女の足首を見て、顔を強張らせた。


「もう時間がない。湖が本気で動き出した。お前、明日までに準備しろ。俺たち、湖の真ん中に行く」


翌朝、美咲と悠斗は村の古老たちに話を聞くため、清次の家を訪れた。

清次は縁側で煙草を吸い、湖の方向をじっと見ていた。美咲は単刀直入に切り出した。


「水神の呪いを止める方法、知ってるでしょ? 私の痣、どんどん広がってる。湖に引きずり込まれる前に、教えて」


清次は煙を吐き、目を細めた。


「お前さん、遥の時と同じだ。湖に選ばれた者は、逃げられん。だが、呪いを止める方法はある。神殿の祭壇に、別の生贄を捧げるんだ」


美咲は息をのんだ。


「別の生贄? そんなこと…」


「昔はそうやって村を守ってきた」


清次の声は冷たかった。


「水神は血を欲しがる。よそ者の血なら、村の娘を犠牲にせんで済む」


美咲は拳を握りしめた。


「じゃあ、私が次の生贄ってこと? 村のために死ねって?」


清次は答えず、煙草を地面に押しつけた。


「湖は待ってる。お前さんが行かなくとも、湖は別の者を呼ぶ」


家を出た後、悠斗は美咲の手を握った。


「爺さんの言うこと、全部信じるな。村の連中は、自分たちの罪を水神のせいにしてるだけだ。俺はお前を湖にやる気はねえ」


美咲は涙をこらえ、頷いた。


「ありがとう。でも、私…姉のこともある。彩花が湖にいるかもしれない。行かなきゃ、答えが見つからない」


悠斗は唇を噛み、湖を見た。


「なら、俺も行く。神殿で何が起きてるか、確かめる」


その日、村全体が不気味な静けさに包まれた。霧が濃く、湖は白いベールに覆われている。美咲は家で準備をしながら、鏡を見た。


痣は首まで達し、彼女の顔を侵食し始めていた。

鏡に映る自分の目が、一瞬だけ空洞に見えた。

彼女は叫び、鏡をタオルで覆った。

夕方、悠斗がボートを準備し、美咲を迎えに来た。

ボートには懐中電灯、ロープ、潜水装備が積まれている。美咲は震える手でライフジャケットを着け、湖を見た。


水面は静かだが、まるで彼女を待っているかのようだった。


ボートが湖の中央へ進むと、霧が一層濃くなった。

エンジンの音が水面に響き、波紋が広がる。

美咲は水面を見つめ、囁き声が聞こえた。


「来て…来て…」


声は複数重なり、まるで合唱のようだ。 


彼女は耳を押さえ、うずくまった。


「おい、大丈夫か!?」


悠斗が肩を掴んだ。

美咲は震えながら言った。


「声が…止まらない。湖が…私を呼んでる」


その瞬間、水面が盛り上がり、巨大な波がボートを揺らした。

懐中電灯の光が水を貫き、湖底に神殿の輪郭が浮かんだ。

石柱の間を、青白い影が漂っている、美咲は叫んだ。


「あれ…彩花!」


波が収まり、水面が再び静かになった。

だが、美咲の腕の痣が焼けるように痛み、彼女はうめいた。

悠斗はボートを止め、彼女を抱き寄せた。


「まだだ。まだお前はここにいる。湖なんかにやるもんか」


美咲は涙を流し、湖を睨んだ。


「水神…何をしたいの? 私を連れてくなら、はっきりしろ!」


水面が揺れ、女の影が浮かんだ。無数の女たちが水面に現れ、口を揃えて囁く。


「お前も…我がもの…」


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