村の沈黙
佐藤美咲は、霧ヶ湖の桟橋で見た女の影が頭から離れなかった。
あの青白い顔、黒い空洞のような目。鏡に映った姿と同じだった。
夢か幻覚か、それとも本当に何かいるのか。
彼女はノートに「湖の女」と書き込み、線を引いた。藤田遥の日記に書かれた「湖底に何かいる」という言葉が、まるで彼女自身の恐怖を映し出すように響いた。
朝の霧がまだ村を覆う中、美咲は村の図書館へ向かった。図書館と呼ぶにはあまりにも小さく、古い公民館の一角に本棚が並ぶだけの場所だった。
埃っぽい空気と、湿った紙の匂いが鼻をつく。
司書の老女、田中ハナは、眼鏡の奥から美咲をじろりと見た。
「湖のことを調べたいんだね。珍しい子だ」
ハナの声は低く、どこか警戒するような響きがあった。
「でも、よそ者に教えるような話はそうないよ。湖は湖だ。それ以上でも以下でもない」
美咲はハナの言葉に苛立ちを覚えつつ、穏やかに微笑んだ。
「失踪事件について知りたいんです。1973年の藤田遥さんとか、最近の事件とか。何か記録は残ってませんか?」
ハナの表情が一瞬固まった。彼女はゆっくりと眼鏡を外し、布で拭きながら言った。
「遥ちゃんのことは…気の毒だった。あの子も湖に魅せられた一人だよ。湖はね、時々人を呼ぶんだ。呼ばれた者は帰ってこない」
「呼ばれるって、どういう意味ですか?」
美咲は身を乗り出した。
ハナは答えず、奥の棚から古いファイルを引っ張り出した。
黄ばんだ紙の束には、村の歴史や行事の記録が綴じられていた。
「これで調べな。だけど、深入りしすぎると、湖があんたを覚えるよ」
美咲はファイルを手に家に戻り、ダイニングテーブルでページをめくった。ファイルには、霧ヶ湖村の歴史が断片的に記されていた。
村は数百年前、湖の恵みに依存して栄えた。
漁業や農業を支える水源として、湖は「水神の住まう聖地」とされていた。だが、豊作や安全を祈るため、村は定期的に「生贄」を湖に捧げていたという記述があった。
(享保年間、飢饉を鎮めるため、村の娘一人を湖に沈めた。以後、湖は静かに眠り、村は豊穣を取り戻した。以来、災いが起きるたび、水神は生贄を求める。)
美咲は背筋が冷たくなるのを感じた。生贄。現代では考えられない話だ。
だが、ファイルには近年までその風習が続いていた痕跡があった。
1970年代の記録には、藤田遥の失踪が「湖の意志」と結びつけられ、村の古老たちが「儀式の再現が必要」と議論していた記述があった。
美咲はノートに「生贄の儀式」「水神」と書き込み、眉を寄せた。
藤田遥の失踪は、単なる事故や行方不明ではなく、村の暗い歴史と繋がっているのではないか。
そして、最近の失踪事件――過去5年間で3人の若い女性が湖畔で消えている――も、同じ理由によるものなのではないか。
美咲は情報を集めるため、村の若い世代に話を聞くことにした。
商店で出会った老婆の忠告や、図書館のハナの曖昧な態度は、村全体が湖の秘密を隠しているように思えた。
彼女は村の漁師、悠斗に接触することを決めた。
悠斗は20代後半、湖で小さな漁船を操る村唯一の若者だった。商店での噂では、彼は湖に詳しいが、どこか孤独な存在らしい。
美咲は湖畔の小さな船着き場で悠斗を見つけた。彼は網を直しながら、黙々と作業していた。陽に焼けた肌と、鋭い目つきが印象的だった。美咲が自己紹介すると、悠斗は一瞬手を止めたが、すぐに作業に戻った。
「湖のことで何か知りたいんだろ? よそ者はみんなそうやって来る」
彼の声は低く、どこか疲れているようだった。
「けど、湖は話すもんじゃない。見るもんじゃない。触るもんじゃない」
「でも、あなたは湖で働いてるじゃないですか」美咲は食い下がった。
「失踪事件のこと、知ってるでしょ? 藤田遥さんとか、最近の女性たちとか」
悠斗の目が一瞬鋭くなった。
「遥さんのことは…知ってる。でも、話すと面倒になる。村の連中は、湖のことを口にするのを嫌うんだ」
美咲はリュックから藤田遥の日記を取り出し、悠斗に見せた。
「これ、湖畔で拾ったんです。遥さんが書いたもの。『湖底に何かいる』って。あなた、何か知ってるよね?」
悠斗は日記を手に取り、ページをめくった。彼の指が震えているのに、美咲は気づいた。
「遥さんは…俺の叔母貴だ。母さんの姉貴。俺が子供の頃、よく話してくれた。湖の魚の名前とか、星の見方とか。でも、ある日突然いなくなった。警察は事故って言ったけど、母さんは『湖に呼ばれた』って泣いてた」
美咲の心臓がドキリと跳ねた。
「じゃあ、最近の失踪も…湖と関係がある?」
悠斗は目を逸らし、湖の水面を見つめた。
「この村は、湖に縛られてる。昔からそうだった。爺さんから聞いた話だけど、湖には水神がいるって。怒らせると、村に災いが降る。だから、昔は…若い女を湖に捧げてた」
美咲は息をのんだ。図書館のファイルと同じ話だ。だが、悠斗の口から聞くと、まるで現実味を帯びてくる。
「それって、ただの迷信じゃないの? 現代でそんなこと…」
「迷信かどうか、湖を見てみろよ」
悠斗は立ち上がり、桟橋の先を指した。
「あの水、普通じゃない。深すぎるし、澄みすぎてる。魚だって、最近は獲れなくなってる。なのに、湖はいつも静かだ。まるで…待ってるみたいに」
美咲は湖を見た。
水面は鏡のように滑らかで、雲を映している。
だが、彼女の視線が水面に落ちた瞬間、かすかな波紋が広がった。
風はない。彼女は身震いし、悠斗に視線を戻した。
「あなたも、湖の声を聞いたことある?」
悠斗は答えず、網を手に作業に戻った。「深入りするなよ。湖は、知りすぎた奴を嫌う」
その夜、美咲は再び悪夢を見た。
湖底に沈む彼女の身体。無数の手が彼女を絡めとり、冷たい水が肺に流れ込む。遠くで、女の声が囁く。
「来て…来て…一緒に…」
声は藤田遥のものではない。もっと古く、もっと深いものだった。
目覚めた時、彼女の枕は濡れていた。汗ではない。水の匂いがした。
美咲は飛び起き、部屋を見回した、窓は閉まっている。
床に水滴はなく、ただ枕だけが湿っている。
彼女は震える手で枕を触り、冷たさに身を縮めた。
翌日、美咲は悠斗に再び会いに行った。
彼は船着き場で、ボートに燃料を補給していた。美咲は単刀直入に切り出した。
「昨夜、枕が濡れてた。夢で湖底に引きずり込まれた。悠斗さん、あなたも何か見たことあるでしょ?」
悠斗は一瞬動きを止め、ため息をついた。
「…お前も、呼ばれてるんだな」
「呼ばれるって何!?」
美咲の声が尖った。
「湖が人を呼ぶって、みんなそう言うけど、具体的には何なの? 水神って何? 失踪した人たちはどこに行ったの?」
悠斗はボートに乗り、湖の中央を指した。
「答えはあそこにある。湖底だ。でも、行ったら戻れない。俺の爺さんが言ってた。湖底には古い神殿があるって。昔、村の連中が水神を祀るために建てた。生贄はそこに沈められた」
美咲は目を細めた。
「神殿? 本当にそんなものがあるの?」
「見たことはない。でも、爺さんの話じゃ、湖の真ん中、深さ200メートル以上のとこに沈んでるって。潜った奴は誰も戻ってこなかった。遥さんも…多分、そこに」
美咲はノートに「湖底の神殿」と書き込み、心臓の鼓動が速まるのを感じた。藤田遥の日記、村の歴史、悠斗の話。
すべてが湖底へと繋がっている。
だが、なぜ若い女性ばかりが消えるのか。なぜ自分が見た女の影が現れるのか。答えは湖の中にある。
美咲は村の古老、悠斗の祖父・清次に話を聞くことにした。
清次は80歳を過ぎ、村の外れの古い家に住んでいる。
家はまるで時間が止まったように静かで、壁には古い漁具や湖の写真が飾られていた。
清次は痩せこけた身体を揺らし、縁側で煙草を吸っていた。
「湖のことを知りたいだと?」
清次の声はかすれ、目は遠くを見ていた。
「お前さんも、湖に呼ばれた口だな。遥の時と同じだ」
美咲は身を乗り出した。
「遥さんが失踪した時、村で何が起きたんですか? 生贄の話、本当ですか?」
清次は煙を吐き、ゆっくり頷いた。
「本当だ。湖は生きてる。水神が棲んでる。昔、村が飢饉や洪水に見舞われた時、水神を鎮めるために娘を捧げた。遥の時も…村の連中がそう決めた」
美咲は息をのんだ。
「村が? 誰がそんなことを?」
「古老会の連中だ。俺もその一人だった」
清次の目は涙で濡れていた。
「遥はよそ者だった。村の娘を捧げるわけにはいかんと、誰かが言った。遥が湖に近づきすぎたのが運の尽きだった。あの子は湖の声を聞いた。呼ばれたんだ」
美咲は拳を握りしめた。
「じゃあ、最近の失踪も…村の仕業?」
清次は首を振った。
「いや、儀式は遥で終わったはずだ。もう誰も捧げてない。だが、湖は…まだ飢えてる。自分で獲物を選んでるんだ」
美咲は清次の言葉をノートに書き留め、頭を整理した。
村の長老たちが過去に生贄の儀式を行い、藤田遥はその犠牲になった。
だが、儀式が終わった今も、湖が自ら人を「呼んでいる」。失踪した女性たちは、湖の意志によって消えたのだ。
美咲は湖畔に戻り、湖を観察した。昼間の湖は静かで、まるで何事もなかったかのように輝いている。だが、彼女が水面に近づくと、かすかな音が聞こえた。
チャプチャプ
まるで誰かが水をかき分けるような音。彼女は周囲を見回したが、誰もいない。
その夜、彼女は再び湖の夢を見た。今度は湖底に沈む神殿が見えた。
石造りの柱が苔に覆われ、暗い水の中で揺れている。
神殿の中心には、青白い女たちが鎖で繋がれている。
彼女たちの目は空洞で、口から水が溢れていた。その中に、姉・彩花の顔があった。
美咲は叫びながら目覚めた。部屋は暗く、時計は午前3時を指している。
彼女はベッドから飛び起き、窓に駆け寄った。
外は霧に覆われ、湖の方向からかすかな光が漏れている。
彼女はコートを羽織り、懐中電灯を手に湖畔へ向かった。
湖畔に着くと、水面が不自然に揺れていた。
波紋が広がり、まるで何か巨大なものが水中で動いているかのようだった。
美咲は懐中電灯を水面に当てた。
光が水を貫き、湖底に何かが見えた。石の構造物。神殿の輪郭だ。
その瞬間、水面が盛り上がり、女の影が浮かんだ。「来て…」声が美咲の耳に響く。
彼女は後ずさり、足が桟橋の端に引っかかった。落ちそうになった瞬間、誰かに腕を掴まれた。
「危ねえ!」悠斗の声だった。彼は美咲を引き上げ、息を切らした。
「こんな時間に何やってんだ! 湖が呼んでるぞ!」
美咲は震えながら言った。
「神殿…見た。湖底に何かある。遥さんや、他の人たちが…」
悠斗の顔が青ざめた。
「お前も見ちまったのか。なら、もう後戻りはできねえ」