第2章
翌朝、美咲は取材を始めるため、湖畔を歩いた。
霧が立ち込め、湖は白いベールに包まれている。空気はひんやりと湿り、靴底が土に沈む感触が不快だった。湖畔には古い木製の桟橋が伸び、朽ちかけた手すりが風に揺れる。美咲は桟橋の先端まで歩き、湖を眺めた。
水は驚くほど透明で、湖底の岩や藻がはっきりと見える、だが、深さは測れない。
まるで底がないかのように、光が吸い込まれていく。美咲は水面に近づき、しゃがんで手を伸ばした。
指先が水に触れる瞬間、彼女はハッと手を引いた。水が冷たすぎる。
まるで氷のように。
その時、桟橋の脇に何か光るものがあるのに気づいた。
草むらに埋もれた小さな金属の留め金。美咲はそれを拾い上げ、土を払った。それは古い革製の日記の表紙だった。
ページは湿気でよれよれになり、インクが滲んでいる。表紙には「1973年、霧ヶ湖村、藤田遥」と書かれていた。
美咲は日記を持ち帰り、家のダイニングテーブルでページをめくった。
日記は、遥という女性が村に来たばかりの頃の記録だった。
彼女は美咲と同じく外部から移り住んだ若者で、村の雰囲気に戸惑いながらも湖の美しさに魅了されていた。
だが、ページが進むにつれ、文章は不穏なものに変わっていく。
8月15日。湖が私を呼んでいる気がする。夜、窓の外で水の音がする。チャプチャプと、誰かが歩くような音。でも、湖は遠いのに。怖いけど、なぜか行きたいと思う。
8月20日。湖の水面に、女の影を見た。私の顔じゃない。誰? 村の人に聞いたけど、誰も答えてくれない。みんな、湖のことを話したがらない。
8月25日。湖底に何かいる。目に見えないけど、感じる。私の名前を呼ぶ声がする。助けて。誰か、助けて。
日記はそこで途切れていた。美咲は背筋に冷たいものが走るのを感じた。藤田遥。彼女は誰なのか。
なぜこの日記が湖畔に? 美咲はノートに「藤田遥、失踪?」と書き込み、ネットで検索を試みたが、村の回線は不安定で繋がらない。
彼女はため息をつき、日記を閉じた。
その夜、美咲は悪夢を見た。彼女は湖の底にいた。周囲は暗く、冷たい水が身体を締め付ける。無数の手が彼女の足首を掴み、湖底へと引きずり込む。
彼女は叫ぼうとしたが、口から水が溢れ、声にならない。
遠くで、女の声が囁く。
「一緒に…一緒に…」
ハッと目を開けると、部屋は暗い。時計は午前2時を指している。
美咲はベッドで息を切らし、額の汗を拭った。夢だ。なのに、部屋の空気が重く、湿っている。
彼女は喉の渇きに耐えきれず、キッチンへ向かった。
シンクで水を飲もうと蛇口を捻る。
だが、出てきたのは水ではなく、黒っぽい液体。ドロドクと粘り、異臭を放つ。
美咲は叫び、蛇口を閉めた。心臓がバクバクと鳴る。
恐る恐る蛇口を再び開けると、今度は普通の水が流れた。彼女は手を伸ばし、水をすくって顔を洗った。冷たい。普通の水だ。
だが、ふと鏡を見た瞬間、彼女は凍りついた。
鏡に映る彼女の背後、長い黒髪の女が立っている。顔は青白く、目は黒い空洞のようだ。
美咲が振り返ると、誰もいない。鏡を見ると、女の姿も消えている。
彼女は部屋に戻り、電気をつけたままベッドに倒れ込んだ。
心臓が落ち着くまで、彼女は天井をじっと見つめた。
翌朝、美咲は日記を手に湖畔に戻った。
藤田遥の言葉が頭から離れない。
「湖底に何かいる」
彼女は桟橋に立ち、湖を睨みつけた。水面は静かだ。だが、遠くで波紋が広がる。風もないのに。
その夜、湖畔で女の影が揺れる。
美咲は息をのんだ。それは、鏡に映った女と同じ姿だった。