霧の湖へ
佐藤美咲はバスの窓に額を押し付け、揺れる山道を眺めていた。窓ガラスはひんやりと冷たく、彼女の吐息で曇る。
外は薄暗く、濃い緑の木々が車窓を流れていく。
時折、木々の隙間から灰色の空が覗き、まるで世界が色を失ったように見えた。
バスのエンジン音が低く唸り、車内の空気は湿気と古いビニールシートの匂いで重い。
「次、霧ヶ湖村。終点です」運転手の声がスピーカーから流れ、ぶっきらぼうだった。
美咲はハッとして顔を上げ、リュックを膝に抱え直した。運転手はミラー越しに彼女を一瞥したが、すぐに視線を道に戻した。
バスには美咲以外、乗客はいなかった。
霧ヶ湖村。
名前だけ聞けば、風光明媚な観光地を思わせる。
だが、美咲がこの村に来たのは、旅行や癒しを求めてではない。
彼女はフリーライターとして、都市の喧騒から離れ、静かな環境で原稿を仕上げるつもりだった。
少なくとも、それは表向きの理由だ。心の奥底では、別の目的が彼女をこの山奥へと引き寄せていた。
バスがカーブを曲がると、突然視界が開けた。
木々の間から、広大な水面が現れる。
霧ヶ湖だった。湖はまるで巨大な鏡のように、灰色の空を映し込んでいた。
水は異様に澄んでおり、遠くの湖底まで見えるようだった。
だが、その透明さはどこか不自然で、まるで湖が何かを隠しているかのように感じられた。
美咲の胸に、理由のないざわめきが広がる。
「きれい…」と呟きながら、彼女は無意識に手を窓ガラスに伸ばした。
だが、指先がガラスに触れた瞬間、湖の水面が揺れた気がした。
風もないのに、細かな波紋が広がる。
美咲は目を凝らしたが、波紋はすぐに消え、湖は再び静寂を取り戻した。
錯覚だろうか。彼女は首を振ってリュックに手を伸ばし、中からノートを取り出した。
ノートには、霧ヶ湖村についての簡単なメモが書かれていた。人口約500人、主要産業は林業とわずかな漁業。観光資源は霧ヶ湖だが、訪れる者はほとんどいない。近年、若い女性の失踪事件が数件発生しているが、警察の捜査は進展していない。
美咲がこの村に興味を持ったのは、ネットの掲示板で見た一つの投稿がきっかけだった。
「霧ヶ湖には近づくな。あそこは生きている」
匿名ユーザーの書き込みだったが、その言葉は美咲の心に引っかかった。
そして、彼女の過去の傷を抉るように、湖の伝説が頭に浮かんだ。
姉、彩花の失踪。
あれから10年。彩花は美咲が高校生の頃、突然姿を消した。
家族旅行で訪れた海辺の町で、姉は「ちょっと散歩してくる」と言い残し、二度と戻らなかった。
警察は事故と断定したが、遺体は見つからず、美咲の心には水への恐怖が刻まれた。
プールも、川も、風呂の水さえ、彼女を不安にさせる。
なのに、なぜか霧ヶ湖の話に引き寄せられたのだ。まるで、湖が彼女を呼んでいるかのように。
バスが停車場に着き、ドアがシュッと開いた。冷たい空気が流れ込み、美咲は身震いした。運転手が「荷物、忘れんなよ」とぶっきらぼうに言う。
美咲は礼を言ってバスを降り、コンクリートの停車場に立った。
周囲は静かで、鳥のさえずりさえ聞こえない。遠くで、湖の水が小さくチャプチャプと音を立てているだけだ。
停車場の脇に、古びた看板が立っていた。
「霧ヶ湖村へようこそ」
文字は剥げかけ、錆びた鉄枠が風に揺れる。美咲はリュックを背負い、村の中心へと続く細い道を歩き始めた。
道の両側には、苔むした石垣と古い木造家屋が並ぶ。どの家もカーテンが引かれ、人の気配がない。まるで時間が止まったような村だった。
美咲が借りた家は、村の外れにある一軒家だった。不動産屋の話では、元は村の教師が住んでいた家で、長年空き家だったという。
家は木造二階建てで、外壁は風雨に晒されて灰色に変色している。
鍵を受け取った時、不動産屋の男が「湖には近づかない方がいい」と意味深に言ったことを、美咲は思い出した。
家に着くと、彼女は荷物を解き、簡単な掃除を始めた。
部屋は埃っぽく、湿った空気が漂う。窓を開けると、遠くに霧ヶ湖が見えた。
湖は夕暮れの光を浴び、まるでガラス細工のように輝いている。美咲はしばらく湖を眺めていたが、ふと胸のざわめきを感じ、慌ててカーテンを引いた。
その夜、美咲は村唯一の商店へ買い出しに出かけた。商店は小さく、棚には最低限の食料品と日用品が並んでいる。店番の老婆は、皺だらけの顔で美咲をじろりと見た。
「新顔だね。あんた、湖の近くの家に住むんだって?」
美咲は微笑んで頷いた。
「はい、佐藤美咲です。しばらく村に滞在する予定で」
老婆は鼻を鳴らし、レジを打ちながら言った。
「若い女がこんなとこに来るなんて、物好きだね。湖には気をつけな。あそこは…生きてるよ」
美咲の心臓がドキリと跳ねた。ネットの掲示板と同じ言葉。彼女は平静を装い
「生きてるって、どういう意味ですか?」と尋ねた。
老婆は手を止め、目を細めた。
「昔から、霧ヶ湖は人を呑むって言われてる。入った者は帰ってこない。夜は特に危ないよ。あんた、湖の近くで変な音や影を見ても、絶対に近づいちゃダメだ」
美咲は言葉を失い、ただ頷くしかなかった。老婆は商品を袋に詰め、「まあ、気をつけな」とだけ言って背を向けた。
家に戻る途中、美咲は湖の方向を何度も振り返った。
暗闇に沈む湖は、まるで巨大な黒い瞳のようだった。彼女は急に冷たくなった手を擦り、足早に家へ向かった。