5 偏屈婚約者はクビったけ
翌日。
アンマリンはアネージアンらが帰国する様子を階上からそっと見ていた。どんよりとした空気が漂い、あれだけ我が物顔でうるさかった令嬢たちは口を噤んでいる。その近くでは荷物の確認をしている侍女と荷馬車へと運んでいる従僕が忙しなく動いており、それを見守るように両国の関係者が数人並んでいた。
アンマリンは外務省の事務補佐として働いているため、体裁上お見送りも彼女の仕事の一つであったが、これまでの経緯を考えると余計な波風を立てぬよう人目のつかない場所から確認することにしたのだ。
その中心ともいえるアネージアンの姿はまだない。不思議に思っていると後ろの廊下側から何やら声が聞こえてきて、アンマリンは思わず身を隠した。
「お従兄様っ!」
アネージアンの腕を握って早足で歩くヴェッセルがいた。近くにはローレンスもいる。
「お離しくださいっ。どうか私の話を聞いてくださいっ!」
「もうその段階ではないと言っている」
駄々をこねているアネージアンに第二王子自ら見送ることになったようだ。身分でいえばアネージアンより上は彼しかいない。納得していない彼女を強引にできるのも彼だけだ。
まだやってるのかとアンマリンはやれやれと首を振った。貴族であればいろいろ思うことはあっても内に隠し、表面上は何事もない顔をするものだ。今まで多くを当たり前のように許されてきたからなのかもしれないが、今のアネージアンにはその欠片もない。必死なんだろうが、これは再教育レベルなのではないのか。自国で傅かれ、もてはやされ気高き令嬢らしい姿を見せてきたのかもしれないが、思い通りにいかないことが一つでもあれば躓いてしまう弱さが露見したという気付きができたことはいい収穫だったのではないか。皮肉だが。
「私はただローレンスを────」
「そのローレンスはお前など関心ない。わかるだろっ! 諦めろと言っているんだっ」
「──ローレンス! ねえ、もう一度……」
「アネージアンっ!!」
ヴェッセルが大声を出した。普段の穏やかな彼からは考えられないものだ。
「……お前がここまで恥知らずとは思わなかった。すべてはお前の我儘を許した私──、いや、今までお前を取り囲んでいたすべてに問題があった。それを思い知った」
苦渋の顔には後悔が滲んでいる。
「そんな……、ひどいわ。ローレンス、なんとか言って……」
「どうして何度言っても聞きわけられない? ローレンスがお前に気がないのも、お前の行動が国の恥になってることも、なぜわからないんだっ!」
「────っ」
「お前がいくら望んでもローレンスの──人の心はどうにもできやしない」
「でも好きなのよ! 私に遠慮なく何でも言ってくれるのは彼だけ。他の人は上辺だけしか見てくれないわ! ローレンスは本当の私を見てくれるの!」
アンマリンは思わず遠くを見つめる。確かに遠慮ない性格だ。誰に対しても。
皮肉にもそこがアネージアンの心を掴んだのだろう。生まれて初めてそんな態度を見せてくれた彼が唯一自分をわかってくれる人だと思っている。
だがしかし、ローレンスのそれはやはり誰に対しても、なのだ。本当にどうしてそれがわからないのか。
「それにあんな人が婚約者なんて納得できないわ! 実家だってなんの力もない子爵じゃない! ローレンスの妻になるならそれ相応の人がふさわしいわっ」
「──それが自分とでも?」
低い声が漏れた。
「つまりは私の婚約者が貴女より劣っているからだと?」
「……少なくとも私は公爵家です。それに王家の身内でもあります。それだけでも貴方の後ろ盾となりますわ」
ローレンスは「ふむ」と腕を組む。
「では貴女から『公爵家』や『王家』を取ったら何が残るのですか?」
「え?」
「血統も何もない貴女自身の価値は何ですか?」
「そ、そんなこと」
「考えたこともないですか? でしょうね」
確かに家柄は大事だろう。それが大貴族ともなれば誇示することも挨拶がわりだ。だが、それゆえに課せられる責任も伴う。
今のアネージアンがやってることはその一切を放棄し我を通しているだけだ。本人からすれば自分の願いは叶えられて当たり前で、公爵家という家格は誰しも頭を下げるものであり欲するものだと思っている。
自分の存在価値にまず家格を出してくることは貴族らしいが、ローレンスが求めるものはそういうことではない。なぜ気付かないのか。
「私の婚約者は一人放り出されても自分の足で立てる人です。残念なことに私の手も必要としないほどにね。そして私が誰よりも尊敬している人でもあります。その点でも貴女は到底彼女に敵うことはないでしょう」
「なっ──」
ローレンスが言ってることはアネージアンの世界にはない考えだ。自分と公爵家は同一視も同然であり、家格のない自分ということさえ思いつきもしないことであり存在しないものなのだ。
「貴女が自身の価値をそれ以外で見出だすことができていれば、まあ、聞く耳くらいはやぶさかでもないですが、それでも答えは決まっています」
侮辱にも近い眼差しでアネージアンを見据える。
「彼女でなければ意味がないし、彼女以外を押し付けるのであれば一生独り身でいい。アンの美しさ、そこに知性が加わり、気遣い上手でありながらもしっかりと己の言葉で意見も言う。時に生意気なところもありますが、そこがまた憎らしくも愛らしく、私としてはあまり異性の目を惹きつけないでほしいと常に苦々しく思っているところです。早いところ正式に婚姻を済ませて自他とも認める妻にしたいのですが、タイミング悪くどこかの使節団が来るものですから────、ああ、失礼。私としたことがつい本音を……。コホン、そう一言で言うならアンは私の唯一なので誰であろうと私の心に入る隙など来世を含めてないということをお伝えいたします」
アンマリンは絶句したまま固まっていた。ゴン、と音がしたのは柱に頭をぶつけたからだろう。あんぐりとした口から魂が出そうで思わず口元を押さえた。
盛大な愛の告白とも取れるが、この複雑な気持ちはなんだろうか。喜ぶべきか? いや怒るべきか?
しばらくすると少しずつ羞恥が襲ってきてドクンドクンと鼓動がうるさくなった。誰もそばに居ないのについ辺りを見回し、そのままずるずると柱に背をつけて座り込みアンマリンは頭を抱えた。
別にローレンスの気持ちを疑っているわけではない。お互い衝突はするがアンマリンを婚約者として受け入れていることやあのような性格だから分かりにくいが、なんだかんだいっても大切にされている自覚もある。結婚に向けて動きたいのに多忙でなかなか進まないことを愚痴ったりと意外に結婚願望が強かったりもする。それはひとえにアンマリンとの時間を持ちたいからだ。
しかしこうハッキリと言葉にされるのも初めてだ。だが、なぜそれを本人ではなく他人に言うのか。複雑ではあるが嬉しいことには変わりない。しかしさらりと言うあたりがムカつく。
「上辺しか見ないと仰いましたが、貴女自身がそうなのですから、相応な似た者同士を早く見つけられることを願っています。さあ、お帰りください」
そう言ってヴェッセルを見る。相変わらずの辛辣な言い回しに微妙な顔をしているが、小さく頷くとアネージアンの腕を引っ張って歩き出した。彼女は半ば放心状態で足だけを動かして連れて行かれた。
「──さて、……もう出てきてもいいですよ」
ローレンスが振り向いた。柱からひょっこりとアンマリンが顔だけ出す。
「なんですか、その顔は」
「……別に」
恨めしげにローレンスを見つつもアンマリンはその場から動かずただ皺を寄せて彼を見ている。
そんな姿に苦笑しながらローレンスは彼女のいる柱の陰までゆっくりと近づくとそっと顔を覗き込んだ。
「そんなに照れることを言いましたか?」
「……言ったと思うわ」
「心外ですね。私の想いは伝わってなかったということですか」
「……よく言うわ。今までそんなこと言ったことあったかしら?」
「言ってませんが、この私がそばに置くということはそういう意味だとわかってるかと思ったのですが」
わざとらしく首を傾げるローレンスの腹をつねりながらアンマリンは軽く睨みつけた。
「本当に素直じゃないのね」
「それはお互い様です」
「私、結構愛されてたみたいで」
「結構? まさか」
「かなり?」
「それはもうたっぷりと」
ローレンスの手がアンマリンの腰を引き寄せた。隙間のなくなった距離から二人の顔が近づく。
「俗な言葉で言うと──《クビったけ》ですね」
「──ぷっ」
堪らず笑ったアンマリンの唇にローレンスの唇が降って軽く深くと繰り返していく。
「ダメよ。ここは王宮よ」
「そうですね。ですが止め方がわかりません」
そう言ってローレンスは一向にやめる気がない。死角にいることをいいことに熱い吐息がしばらく続いた。
「ロ、ローレンス……」
「今夜、時間をくれるなら」
「……今はお互い無理でしょ」
「ではここで」
「なっ──、もうっ!」
「アレが片付いたんですから」
「アレって、あなたねぇ」
「今夜いつものところで。二十一時までには行きます」
そう言うと一段深いキスをしてアンマリンの答えを塞ぐように言葉を呑み込ませた。
「では最後の最後になるようアレが消えるのを確かめに行ってきます」
にこやかに足取りも軽く、その場にアンマリンを残して行ってしまった。
静寂が漂う中、彼女は柱にもたれて高い天井を見上げた。相変わらずのローレンスに呆れるが、あの熱い口付けで彼がどれほど自分を欲しているかがわかってしまった。そんなことを知ってしまえば断るなんてできない。
「私より忙しいくせに」
最近の馬車馬のような日々に加えて、かの令嬢相手でお互い思っていた以上に心がすり減っていたようだ。それでもひとまずは一段落ついた。きっと彼は今日は必ず時間をもぎ取ってくるはずだ。
「いつもの場所」と意味ありげなことを言っていたが、単にローレンスの実家であるテルガ侯爵家が所有するタウンハウスの一つだ。結婚するにあたって二人で住む屋敷を王宮近くに前もって構えていたのだ。ただ庶民の家よりも遥かに大きいが貴族の屋敷として小ぢんまりとしたものだ。そのため現在管理する人材もかなり少なく静かに佇んでいる。
二人とも王都の実家のタウンハウスではなく、いつもそちらを使用しており実質一緒に住んでいるのだ。忙しい二人が時間を共有するためにはそれが一番手っ取り早かった。だが最近は使節団関連でローレンスに至ってはほぼ帰れていなかった。
アンマリンは小さく頬を叩いて気を引き締めた。まだ先ほどの余韻で鼓動は速いが、いつまでもここで時間をもて余すわけにはいかない。なんせ今日は久方ぶりの二人の時間が待っている。
「でも、……なんかムカつく」
なんだかローレンスに踊らされていることに若干の抵抗はあるが、あの令嬢をスッパリと切り捨て追い払ってくれたことに対するお礼だと言い聞かせてアンマリンは仕事を終わらせるべく足を動かした。
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