4.隠されていた真実
失恋した翌朝、泣き腫らした顔で部屋を出ると、執事や侍女たちが心配そうに私を見た。
そうだ。昨日出かける前には、お祝いのご馳走を用意していますと笑顔で送り出してくれたのに、説明もせずに寝てしまった。料理長は腕まくりをして腕によりをかけますと張り切っていた。たぶん結果は察しているだろうけど、無駄にしてしまったことが申し訳ない。泣きながらでも食べればよかった。
「みんな……ごめんなさい。せっかく……」
「お嬢様」
執事が前に出て緩く首を横に振る。そして安心させるような優しい笑みを浮かべると小さく頷いた。後ろにいる使用人たちもただ微笑んでくれた。
私の周りは優しさで溢れている。だからきっと大丈夫。すぐに復活して元気を取り戻してみせる。だから少しだけ落ち込ませて。
有能な執事は領地にいる両親に手紙を送り私が王都で二週間ほど過ごしてから領地に戻ることを希望していると伝えてくれた。
私はロジェと過ごした図書館に一人で向かう。窓際の席でいつも隣に並んで座った。その席に座るとあの時読んだ本を広げる。
テストの結果が悪くて落ち込んだ時はここで勉強を見てもらった。成績が上がれば一緒に喜んでくれて、ご褒美にトマトをもらった。
なぜトマトって聞いたら、僕の大好きなものだからって言っていた。大切な思い出があるって愛おしそうな表情を浮かべるから、心の中でその思い出に嫉妬してしまったのを覚えている。
別の日にはロジェと一緒に散歩をした公園を一人でゆっくりと歩く。ロジェは私の歩幅に合わせてゆっくり進んでくれた。彼には秘密だけど早く帰りたくなくてわざとゆっくり歩いていた。季節ごとに咲く花を眺めて言葉もなく過ごす日もあった。
思い出を振り返ってもう一度たっぷりと泣いたせいか不思議と涙は出てこない。ロジェとの思い出を辿るうちに彼への怒りは薄くなっていった。もちろん消えたわけじゃない。ロジェには期待させておいて酷い、エリーネには奪って酷いと思っている。でもその考えは自分自身を惨めにする。
私はロジェを失ったけど彼からもらった幸せがたくさんある。その幸せを思い出すことは、悲しみを大きくすると同時に諦めを連れてくる。それを受け入れ始めると心にあった嵐を穏やかな細波に変化させてくれた。
本音を言えばそんなに簡単に失恋の傷が癒えるわけない。でも私は立ち直る。そうしないと彼が幸せになれない。それ以上に私が幸せになれないから。
しばらくは思い出して泣くかもしれない。でも時間が傷を癒してくれるだろう。そして心は強くなれる。
これは彼が選んだ幸せへの道。ただその道に私が合流できなかっただけ。私はまだロジェが好きだ。ずっと好きでいるかもしれない。だからこそ彼には幸せになって欲しい。いっぱい苦労していっぱい努力してきたのだから、幸せにならなくてはいけない。
正面から別れを告げてくれなかったことだけは許せないけど。でも、もういい。未練はたっぷりあるけど、恨んでロジェとの思い出を汚したくない。我ながら感傷的でちょっと笑える。
公園に来て白木蓮を見上げる。白い花はまだ咲き香っている。
「綺麗ね。一緒に見たかったな」
この場所でプロポーズを受けるはずだった。私は頬を染めて頷いて、彼はホッとしたように微笑んで……。
鮮やかに咲く花を目に焼き付けて、私はようやく心に整理をつけ王都を出発した。
領地に戻ると両親が黙って私をぎゅっと抱きしめてくれた。胸が締め付けられるような苦しさが一瞬だけ蘇ったけど、包み込む温もりがそれを消してくれた。
久しぶりに三人で囲む食事は美味しく、びっくりするほど食欲が復活した。想像するよりも早く立ち直れそうで、自分の図太さに驚いてしまう。
翌日、両親に話があると居間に呼ばれた。
「実はジゼルが王都にいる間にクラース伯爵様の遣いの人が来て、ロジェの研究で得られた報酬を渡したいと言ってきたが、どうする?」
その話に私は思いきり動揺した。
「どうって言われても……。その報酬はロジェのもので私のものではないわ。受け取れないに決まっているじゃない」
「慰謝料でしょう? それならもらっちゃえば?」
母は強し。貰えるものは貰ってしまえとの考えだ。でもそうしたくない。その報酬はロジェの努力の賜物で、私が受け取る理由はない。もし正式に婚約をした後なら、堂々と慰謝料をふんだくるけど、婚約を申し込む約束をしていただけだ。私なりの意地もあるので断ることにした。
「それなら船の切符と護衛を用意するからロジェに会いに行ってきなさい。そして報酬を叩き返してくればいい。その方が気持ちに決着がつけられるだろう?」
「ロジェと……会う?」
「そうだ」
考えてもみなかった。隣国までは船旅になるので気軽に行けるわけじゃない。
でも……そうか。彼が会いに来ないなら私から会いに行けばいい。どうしても一言言わないと気が済みそうにない。ロジェが会いたくなくても私には文句を言う権利がある。
「行くわ!」
父はすぐに船の切符を手配してくれた。私は侍女と護衛と一緒に隣国に渡った。
ロジェに逃げられると困るので不躾を承知でクラース伯爵家には連絡をしていない。門前払いをされる可能性もあるけど、押しかけてやる。それで頬に一発お見舞いして笑顔で「おめでとう」って言ってあげる。
隣国に着いて宿で一泊しクラース伯爵領へ向かう。領地でさらに一泊してから伯爵邸を訪ねることにした。途中で花屋に寄りお祝いの花束を購入した。これが私の決別の儀式になる。
その日、私はレモンイエローのワンピースを着て完璧にお化粧を施した。姿見で全身を隈なく確認する。
「ほら! 着飾れば私だって結構可愛いのよ。きっとロジェは私を振ったことを後悔するわ」
後悔させてみせると意気込む。きっと二人は苦々しい顔を浮かべるだろう。不快感を露わにするかもしれない。でも怯まない。心に目一杯の勇気を満たして、いざクラース伯爵邸に乗り込んだ。
「ジゼル……さん、なぜ来たのです? あなたはここに……来てはいけなかったのに」
明らかに狼狽するエリーネに私はにっこりと笑みを浮かべる。そして用意していたお祝いの花束を差し出した。
「二人にお祝いを言いたくて。だから最後にロジェに会わせてください。あと私は彼からのお金を受け取るつもりはありません。それを伝えたくて来ました」
エリーネは花束を受け取ると顔をくしゃりと歪ませ唇を震わせた。一度俯くと、顔を上げた。その表情は何かを決心したかのように見えた。
「分かりました。案内します。一緒に来てください」
「はい」
馬車に乗るように言われ二人で移動する。お互いの立場を考えれば談笑できるはずもなく気詰まりな時間が過ぎていく。
「ロジェはお屋敷にいないのですか?」
「……研究所へご案内します」
なるほど。博士号をとった後も研究に夢中なのだろう。新婚の時間を楽しむよりも研究を優先するなんてロジェらしい。思わず口元が綻んだ。大丈夫。心は落ち着いている。ロジェに会っても泣いたり癇癪を起こしたりせずに済みそうだ。
馬車は程なく到着した。研究所は後援をしているクラース伯爵邸から近い場所にあった。大きな建物は立派で温室もあるようだった。区画ごとに植物が植えられている。ロジェはサツマイモの交配実験をしていたけど、ここではそれ以外の作物の実験もしているらしい。
「先にこちらに」
エリーネのあとを着いて建物の裏に行く。そこには黄色い小さな花がたくさん咲いている。
「トマトの花ですか?」
「そうです。ここにはトマトを植えています。このトマトはロジェが交配させて成功させたものです。実は通常のトマトよりも小ぶりで完熟すると鮮やかな橙色になります。試作品を食べましたけど、すごく甘くて美味しいです。特許の手続きが済み次第あなたに伝えてお渡しする予定でした」
「私に?」
エリーネは表情を消したまま淡々と話す。夫が元恋人に研究の成果の特許を与えるなんて嫌じゃないのだろうか。私は混乱した。何かが……何かがおかしい。エリーネは立ち止まると、振り返って私を見たあとそっと目を伏せた。
「ここです」
掠れた声が震えていた。エリーネの視線の先には墓石がある。そこには『ロジェ 功績を称える』と彫られていた。あまりにもたちの悪い冗談だ。私にロジェを諦めさせるためにこんなことまでするなんて。
「エリーネ様。私を揶揄っているのですか? いくらなんでも酷いです」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ロジェをあなたのもとに帰すことができなくて……っ……」
エリーネは体を震わせながら涙をぽろぽろと溢した。両手で顔を覆いしゃくりあげる。その姿はどう考えても嫌がらせや演技には見えない。それなら、これは……。いっきに体が冷えていく。恐ろしい予感に心が凍りそうになる。
「……どういうことですか?」
「ロジェは、帰国するために、船に乗りました。その船が……嵐に遭い難破したのです。すぐに救助の手配がされましたが、ほとんどの乗客は流され見つかりませんでした。ロジェも……」
「う、嘘よ。そんなの嘘……」
やめて。聞きたくない。私はロジェに腹を立てていた。でもこんなこと望んでいない。生きて幸せになってくれないと文句が言えないじゃない。今なら……特別に許してあげるから、全部許してあげるから、だから出てきて元気な顔を見せてよ。じゃないと許さない!
私はふらふらと覚束ない足取りで墓石の前に立つ。一度空を見上げて再び墓石を見下ろす。幻であればいいという願いは虚しく、墓石はそこにある。足の力が抜け崩れるように跪いた。手を伸ばし彼の名前の彫られた場所を指でなぞる。何度見てもロジェの名前が記されている。喉が張りついて息苦しい。
「ロジェ……」
失恋した日は涙が止まらなかったのに、今は涙は出ない。だって信じられない。ロジェがいないなんて信じない……。