クッキー&リグレット
「クッキーありがとう。気持ちだけもらっとくね」
ちとせの言葉で私は固まった。
「どうして?」と彼女に尋ねる。
「ホントにごめんね。わたし、ダイエット中だから……」
ちとせは眉尻を下げて、困ったように笑う。
「……そっかそっか! 大丈夫! 気にしないで!」
私は手に持っていたクッキーの袋を背中に隠した。そこへ、
「どしたん? ちとせー」という知らない声が廊下の向こうから近づいてきた。女子生徒だ。制服のリボンの色が私やちとせと同じであることから、同級生であることが分かる。
「おー」
ちとせが片手を挙げて、その女子生徒に挨拶をする。
ちとせのクラスメートかな? 今は昼休みだし、声をかけられても不自然ではない。ちとせは高校に上がってからすぐに他の友達ができたし。それに較べて私は……。
「ごめん、友達と話してたよね?」
ちとせに話しかけてきた女子生徒は、申し訳なさそうに軽く両手を合わせて、その場を去っていった。
「あー、そうだった。ごめんね巡ちゃん」
「んっ!? な、何が?」
私は不意に名前を呼ばれて変な声を出してしまった。
「話があるって言ってたよね? それなのに遮っちゃったから」
「あー、ううん! 平気だよ」
私はなるべく笑顔を作ってみせた。
「話っていうのは大したことじゃないの」と前置きし、
「ただ、久々に一緒にお昼食べられたらなーって……」
そう言うと、ちとせの表情が曇る。
「ごめん。今日はクラスの友達と一緒にお昼食べる約束してて……」
「あー、そかそか……」
少し気まずい時間が流れる。
「ごめん。もう行くね」
ちとせは早足で自分の教室の方へ行ってしまった。
私も自分の教室に帰った。
ちとせは変わってしまったのかな。
放課後、そんなことを考えながら帰り支度を進める。クラスを見渡すと、私から少し離れた場所で「部活だりー」とか「一緒に帰ろー!」とかいう話し声が飛び交っている。
……今日はバイトないし、さっさと帰ろ。
そう思って鞄を持ち上げた時、
「巡ちゃん!」
私の名前を呼ぶ声がした。
それは聞き間違えるはずのない、愛しい声。
久方ぶりでも名前を呼ばれるだけで心が弾む。
「ちとせ……」
「巡ちゃん、帰ろーっ」
振り向くと、ちとせが私の教室の出入り口からひょっこり顔を出して小さく手を振っていた。
ちとせは別のクラスなのにわざわざ迎えに来てくれたの?
その事実だけで私は……。
私は、急いでちとせの元へ向かった。
「ちとせ、どうして来てくれたの?」
彼女の隣に着いた私は、まず聞きたかったことを率直に質問した。
「どうして? うーん……一緒にクッキーもお昼も食べられなかったから、その埋め合わせ? かな」
ちとせはゆるい微笑みでそう言った。
埋め合わせ。本当にそれだけ? それだけじゃないんだとしたら……。
私はどんなに嬉しかっただろう。
「そういえば」とちとせは言った。
「何?」
「巡ちゃん、高校でなにか委員会には入った?」
「え、委員会……?」
突然なんだろう。
中学までは学級委員長をやっていたけど……あれは二度とやりたくないと思っているし。少なくとも私には向いてないと思ったから。
「特に入ってないよ」と私は答えた。
「ふーん、そっか」
ちとせは視線を正面に直して続けた。
「学級委員長をしてる巡ちゃんカッコよかったのになー」
「は?」
思わず声が漏れる。
カッコいい? 私が?
「冗談やめてよ」と私は言った。
「そんなつもりないよ」
「だいたい、ちとせは知ってるでしょ? 学級委員長をやっていた時の私がどれだけ苦しんでいたか」
クラスをまとめられなかったこと。
それで陰口を叩かれたこと。
担任教師にも手助けしてもらえなかったこと。
「あんな思い――」
いつの間にか、声が震えていた。
「――二度としたくない」
嫌な記憶を噛み殺すように言った。
「とにかくね、向いてなかったんだよ。学級委員長なんてさ」
そう締め括った。
「でも、立候補したのは巡ちゃんだよ。誰かに押し付けられたわけじゃない」
ちとせは言い、
「その責任を全うできたのも巡ちゃんだよ」と続けた。
それは――ちとせがいたから。
ちとせが私の相談や愚痴に付き合ってくれたから、あのクソみたいな中学時代を乗り越えられたんだよ。
「ちとせ――」
今なら、言えるんじゃないか。
今なら――。
「でも巡ちゃん、学級委員長をやったこと、後悔してるの?」
「え?」
私は言葉を遮られ、間の抜けた声を出す。
「そ、そりゃあ後悔してるよ。もう忘れたい」
私は思わず廊下の端で立ち止まる。ちとせも歩みを止める。
「でも仕方ないから……」
「わたしさ」とちとせは言った。
「そういう巡ちゃん、ちょっと嫌い」
その言葉だけ残して、ちとせは歩き始めた。私はその場に立ち尽くしていた。