2・旅(13 心のざわめき)
「やれやれ、夏至の祭りで儲けそこなっちまった」
風生が言うと、カイがあきれたように声をあげた。
「命があっただけもうけものじゃないか。何を欲張ってるの」
風生は笑った。
「まったくだ」
夏至の祭りは昨日から始まっていた。菘の家は、街道から少し入ったところにあったが、それでも祭りのために街道を行く人たちのざわめきが聞こえた。夜になると、東の空には花火が上がった。
「おまえさんたち、祭りに行ってきたらいいんじゃないか」
風生が三人に言った。
「俺は当分まともには動けん。俺に付き合ってたら、祭りを見逃すぞ。今まで見てきたものとは桁が違う。せっかくここまで来たんだから、のぞいてみないって法はない」
風生はカイのほうを向いた。
「カイなんか、早く都に行きたくてたまらなかったんじゃないのか」
カイは、首をふった。
「祭りが見たかったわけじゃないんだ」
「そりゃそうだろう。用向きを果たすためなら、このあといくらでも時間はある。都がどんなとこかってだけでも、見に行ってみたらどうだ」
風生は、楽なかっこうで寝椅子に座っている自分に目を落とした。
「俺は、いやでもゆっくりしなきゃならんからな」
「そうだね……」
カイは、里砂と草矢の顔を見た。草矢が言う。
「俺は、あんまり祭りに興味はない」
里砂は微笑んだ。
そうよね。冬ごもりの祭りでも、踊りの輪からいなくなって、館の書庫なんかに行く人だもの。
すると、去年の祭りのこと、紅色の布のこと、館の裏の林のこと……。
いろいろな記憶が胸にあふれて、里砂は思わず胸の前で固く手を組んだ。
「里砂とカイと、ふたりで行ってくるといい」
草矢の言葉が耳に入って、里砂は顔を上げた。
「おいおい草矢、せっかく家出もどきまでしてここまで来たのに、それじゃもったいないぜ」
風生が言った。
「見られる限りのものを見ろよ。北の村じゃ絶対に見られっこないものを見てこいよ。おまえさんがいい細工師になるために、きっと役に立つぜ」
風生は、里砂のほうを見た。
「おい、あんたもなにか言ってやれよ」
里砂は、草矢の顔を見上げた。
「兄さんが行かないなら、わたしも行かない」
里砂が、だだをこねる前の子どものようにきっぱり言うと、風生は声を上げて笑い、傷を押さえて顔をしかめ、そしてまた笑った。
「里砂のその言い方、何年ぶりだ? なにかするときだって『兄さんがやらないならわたしもやらない』、菓子をもらったときだって『兄さんが食べないならわたしも食べない』って……。なんだ、大人になったとおもってたのに、まだまだこんな里砂がいたのか」
里砂は眠れなかった。
明日は祭りの七日目。最終日で、夏至の夜を通じて踊り明かす一番の山場の日だ。里砂たち三人はそこに加わるために都へ出かけるのだから、眠っておかなくてはならない。
里砂は何度目かの寝返りをうち、枕代わりの丸めた上衣に顔を埋めた。
「眠れませんか」
静かな声で言われて、里砂はびくっとして顔を上げた。菘が自分の寝台に体を起こしていた。
「眠らないと明日にさしつかえますよ。薬草のお酒をあげましょうね」
菘は音もたてずに床におりた。
ひとの心を読み、自分の思いを伝えるためには手を触れていなければならないが、心の気配なら、菘はいつでも感じ取ることができた。それは空中にただよう匂いのように防ぎようがなく、ときには騒音のようで、彼女が集落を離れてひとりで暮らしているのも、ひとつにはそれを避けるためもあった。今も、里砂の心のざわめきが気になっていたのだった。
里砂は、わたされた茶碗を両手で握りしめた。
「なにか困っていることがありますか? もし、あなたが明日出かけたくないのなら、ただそう言えばいいと思いますよ。それで気を悪くするようなお仲間だとは思えません」
「……ええ、わかってるんです。そういうことじゃなくて……」
里砂は顔を上げて、菘を見た。
「わたし、聞いてみたいと思ってたんです。最初の晩、あなたは兄さんとわたしのこと、夫婦かって訊ねた。……それは、どうしてなんですか」
「私は、雰囲気がよくわかるんです。あなたたちは、お互いをよく知っていて、相手を思いやる気持が両方から伝わってきた。だから、夫婦と言ってみたんです」
菘は低い声で笑った。
「もっとも、夫婦の皆がみな、思いやって暮らしているわけではないようですけどね」
「わたしたち、兄妹だけど、本当の兄妹じゃないんです。わたしは北の村の浜辺に……捨てられていた? 迷子になっていた……わからないけど、そこで見つかった拾い子で、北の村の兄さんの両親に育てられたんです。あのとき兄妹だと言いましたけど。でも」
里砂は、菘にどう言ったらいいかわからずに、言葉を切った。
菘には、里砂の困惑がありありとわかって、手でさわれるような気さえした。
「わたしの……想い人は……カイなんです」
里砂は、苦労して「想い人」という言葉を口にした。
菘はカイのことを考えた。
カイからは、彼自身の前向きな生き方や多くの知識とともに、異なる価値観が伝わってくる。けれど、そのほかに、説明しがたいなにか、時間や空間を超えたなにかの存在を感じることがあった。
彼の中には「なにか」がいる。それは、半覚醒の状態で……菘にはどう表現したらいいかわからなかったが、なんらかの時期を待っているように思えた。けれど、少しも邪悪なものは感じ取れず、むしろカイと同種の気配さえあると思った。だから、菘はあえて何も言わなかった。機が熟すまでどうしようもないこともあるのだ。
「わたし、自分がわからない」
しばらく間をおいて、里砂がぽつりと言った。
いいえ、あなたにはわかっている。やがて、はっきりわかる。
菘はそう思ったが、やはり何も言わなかった。気が熟すのを待たなくてはならない。
「あの晩、兄さんは外で眠りました。わたしは兄さんにそばにいてほしかった。でも、兄さんが出て行ってほっとしたんです。わたしはどうして……いいえ、兄さんはどうして……」
菘が静かに言った。
「彼がそうしたのは、おそらく自分のためでしょう」
「自分のため?」
里砂は聞き返した。それは、あまり草矢らしい考え方には思えなかった。
「自分のためというのはね、勝手をするということとは違いますよ。自分をごまかしたくないということ。草矢はきっと、言い訳するのが嫌いな人なんでしょうね」
菘の声は笑いを含んでいた。草矢を肯定するような響きだ、と里砂は思った。
「さあ、それ、飲んでおしまいなさい。そしてね、眠って、あまり難しく考えないことですよ。もしなにかを間違えたって、やりなおせばいい。取り返しがつかないようなことは、めったにあるものではないから」
里砂は、素直に酒を飲み干した。頭の中は整理されないままだったが、それでも眠れそうな気がした。