2・旅(10 黒髪の力)
「俺は水尾村へ戻るが」
荷車の男が草矢に言った。
「あんたはここに残るだろう?」
「そのつもりだ。本当にありがとう」
「あっちで何かしておくことがあれば……」
男が言いかけたとき、カイと里砂が飛び込んできた。里砂は、まっすぐに草矢に向かった。
「風生は?」
言いながら、里砂は寝台の上の風生と、黒い目隠しをした菘をみとめて、はっとしたように言葉を切った。
「……ごめんなさい、いきなり……。でも……」
草矢は、体の中のなにかがほっと崩れるのを感じて、今まで自分がひとりで気をはりつめていたことに初めて気づいた。荷車の男の親切は言葉にできないほどありがたかったが、風生と長い旅の時間をともにしてきたわけではない。
けれど、口では別のことを言った。
「ふたりでここへ来てしまったら、箱車が不用心だろう」
「だって、風生が……風生は?」
里砂が咳き込むように言った。カイはひと呼吸おいて言った。
「様子を聞いたら、僕が戻って箱車を見てる。……それで……どうなんだ?」
草矢はうなずいた。
「今のところは」
カイは、黙ってうなずき返した。
よかった。
自分を役立たずのように感じていたが、せめて風生の生活が全てつまった箱車はちゃんと預かろうと思った。
やがて、カイは荷車の男と連れ立って水尾村に戻った。夜明けは近かったが、互いに道連れができるのはありがたいことだった。
菘は、風生のひじや額の小さな傷を洗った。白っぽい髪をたてがみのように乱して固く目を閉じている風生は、見知らぬ人のようだった。
菘が、草矢のほうを向いた。
「それでは、あなたの手を」
草矢は自分の手を見た。右の手のひらに斜めの傷が走っている。乾いた血がこびりついていた。
あの少年の小刀を取り上げたとき、こんなことになったのだろうか。
菘はその手を薬湯で洗った。草矢が身を固くしたのに気づいて、菘は疲れたように言った。
「痛みますか。今夜はあの人に力を使ったから、私は疲れすぎてしまって、あなたを楽にしてあげられません。すみませんね」
草矢はうなずいて、相手がまだ目隠しをしたままなのに気づいた。けれど、菘は草矢がうなずいたのを知っている、と思った。今は彼女の心の目を信じる気持になっていた。
「あの、楽にするって……」
里砂が、おずおずと言った。
「力を使ったって……。それは、風生の怪我がとてもひどいってことなんですか。今は生きてるけど、明日のことはわからない? よくなるんですか?」
言いながら、里砂の声は少しずつかすれ、黒い瞳に涙が盛り上がった。
風生がいなかったら、わたしはここまで来られなかった。
菘は丁寧に草矢の手の手当を終えると、かたわらの丸椅子に腰をおろし、里砂のほうを向いて目隠しをとった。
「私には未来は見えない。明日のことはわかりません。でも、たぶん、この人は大丈夫だと思います。強い、鍛えた体と魂を持っているから。生来、陽気な人なのではないですか? ……それに、あの傷からは憎しみが感じられませんでした。素直な傷というか」
菘は、ちょっと笑みのようなものを浮かべた。
「彼を傷つけた者は、ただ怖かった。おびえて爪をたてた小動物のように。臆病な者が小刀を持つと、こういうことが起きるときがあります。こういう傷は治りやすい」
菘は深い息をついた。
「刃物も細身だったようですね。もし広刃だったら……」
菘は、ゆっくり首をふった。
「とはいえ、浅からぬ傷です。何日も苦しい思いをしなければならないでしょう」
菘は大儀そうに立ち上がり、分厚い陶器の茶碗三つに薬草を漬け込んだ酒をついで、片すみの小卓に載せた。
「あの人は眠ります。あなたたちも、もちろんわたしも、眠るほうがいい。お飲みなさい。短い時間でもぐっすり眠れます」
口に含むと、酒は冷たく、すがすがしい香りがした。
菘は自分の茶碗を両手で囲うように持った。
「わたしはね、手で触れている人の心がわかるのです。目を閉じているほうが、その感覚は強くなる。その気になって探らなければならないんですけどね。これは、癒し手にとっては便利なんです。心の不安を取り除いただけで、あらかたよくなってしまう病人もいますから」
「……あなたは魂を呼び戻す、とここまで同行してくれた人が言っていました」
草矢が言った。菘は、困ったように微笑んだ。
「人の生き死には、わたしにはどうにもなりません。ただ……」
風生のほうに顔を向けた。
「心を見るだけでなく、逆も可能なんです。相手の心の中に、私の思いを届けることができる。苦痛と不安の中でひとりぼっちの魂を励ますことはできるのです」
菘は、茶碗を傾けてひと口飲んだ。
「どうしてそんなことができるんですか?」
里砂が聞いた。そんな力を持つ人物に出会ったのは初めてだった。
「わたしの力は生まれつきです。どうしてなのかはわかりません。わたしだけでなく、不思議な力を持つ人は時々います。ほとんど黒髪の人ですが」
「えっ」
里砂は、少し伸びかけた自分の髪に手を触れた。
北の村の則の司も……。
菘はうなずいた。
「黒髪の人がみな、力を持っているわけではないんです。むしろ、そんなことのない人の方が多い。けれど、黒髪であることと、なにかの力があることとの間には、関係があるのかもしれません」
わたしの夢見。
里砂は思った。
あれだけのことにすぎないけど、あれも「黒髪の力」なんだろうか。




