2・旅(5 白葉の郷・3)
「おまえさん、いくつだっけ、草矢? もう、一杯くらいは飲める年だろ」
風生は、草矢の前に、濃い金色の蜜酒が入った丈の高い杯を置いた。
祭りの夜とはいえ、風生たちが帰って来たときは、宿の食堂にいる人はずいぶんまばらになっていた。
「ここの蜜酒は、よその水っぽいやつとはひと味違う。心して飲めよ」
風生は楽しそうに言って、自分の杯を持ち上げて一口すすった。里砂とカイは、おとなしく並んですわっている。
「さてと」
もう一口飲んで、風生が言った。
「仁矢はどうしてる?」
「……そうだな。俺が出てくるときは、仕事をしてた」
風生は笑った。
「それで、どうする。里砂を連れて帰るのか」
はっと顔を上げて口を開きかけた里砂を手で制して、風生が草矢のほうを見る。
「父さんは、連れ戻して来いと言った」
草矢は、一旦言葉を切った。
「でも、里砂に戻る気がないとしたら、俺には無理に連れ戻すことはできない」
里砂は、黙って兄を見つめた。
「さっき聞いたら、里砂は、今は帰れないと言った」
草矢は里砂を見返した。里砂は小さく、しかしきっぱりとうなずいた。
「……今は、こうするほかに方法を思いつかない。わたしには……北の村は……今、牢獄みたい。こんなふうに思っちゃいけないのはわかってるけど」
風生は、「迎えが来たらそれと向き合うのはあんたの仕事だ」と言った。向き合うためには、正直でいなくてはならない。きれいな言葉ではなく、自分の言葉を話さなくてはならない。
「わたしがどこでどうして暮らすのか、なにをするのか、まだ何一つ決まっちゃいない……のよね? それを考えるのは、わたし……だと思った。父さんや母さんは、わたしを心配してるって言うけど……わたしのためだって言うけど……わたしを自分たちの思う通りにさせるために、心配とか……おまえのためとか……そういう言葉は……親に心配かけるのが悪いんだから言う通りにしろって……言ってるみたいに聞こえる。……うまく言えないけど……拾って育ててやったのに、恩知らずだって言われてるみたい……」
草矢が、はっと目の光を強くして里砂を見た。
「……父さんたちは、わたしが自分のこれからをあきらめて、言うことをきいたら嬉しいんだろうか。わたしが不幸だと感じていても……自分たちが思う幸福な暮らしをわたしがすれば……嬉しいんだろうか」
里砂はかぶりをふった。涙が浮かんでいたが、あふれはしなかった。
「……今、家にいたら、わたしはなんだか……すごくいやな娘になる……。父さんと母さんのことだって……嫌いになる」
里砂の思いが、草矢にはわかる気がして、胸を突かれるような痛みさえ感じた。
里砂は女だから、あの村でいろいろな制約を感じていただろう。けれど、草矢もまた男だということに縛られてきた。細工師の家のひとり息子だということに。
そして、里砂は拾い子だった。親が子を育てるのは恩を売るためではなく、ただ愛しいからだ。里砂だって、ずっとそう思っていたはずなのに。いや、そんなことを思うまでもなく、当たり前だったかもしれないのに。
今は、そうではなくなってしまった。
「俺は、少し考えなくちゃならない」
草矢は頬杖をついた。考えることが頭につまって、手で支えなくてはいられないような気がした。
「里砂を連れて行くのは、風生には迷惑だろう」
「まあ、どんなことにも慣れるさ」
風生の声には、おもしろがっているような響きがあった。
「『迷惑』ってのは、細工師の家で流行ってるのかい。仁矢もそんなことを言ってたし、里砂も言ったな。今度は草矢か」
草矢は考える。
このままひとりで北の村に帰ったっていいのだ。父さんは怒るだろうが、それはまあ仕方ない。俺だって大きくなった。親の怒りくらい受け止められる。
草矢は、酒を一口すすって吐息をついた。
里砂にはカイがいる。風生もいる。ふたりとも、里砂を支えてくれる。伸びてきた豆に添える支柱みたいに、茎も葉も損なわずにただ支えてくれる。俺は必要ないだろう。
草矢は、ちょっと首をふった。
里砂は戻らない。それは決まった。だから、俺がどうしたいか、ということだけなんだ。親のためでも里砂のためでもない。
草矢は、まっすぐに風生を見た。
「俺も行こうと思う」
「え?」
里砂が聞き返した。
風生は目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「行くって? 俺たちといっしょに東の都へか? おいおい、慎重居士の草矢まで家出かよ? この次北の村へ行ったら、俺は仁矢に生皮をはがされちまうぜ」
草矢はまじめに言った。
「風生が負担に思うなら、道連れにならなくたっていいんだ。俺は家に使いを出して、里砂も俺もすぐには帰らないことを伝えるし、ひとりで旅することだって、まあなんとかなる」
風生は手をふった。
「なにを言う。俺の皮くらいはがされたって、すぐに元通りになる。心配いらん。草矢が軽はずみな気持でものを決めるはずはないからな。もちろん、道連れになるさ」
風生は、乾杯するように杯を上げてみせた。
「ほんとに? 兄さん」
里砂が、びっくりした丸い目で草矢を見た。もう涙はなかった。
カイが、うなずいて草矢のほうを見た。
「本当に決ってる。……なんて言ったらいいかわからないけど……」
カイは、笑顔になった。
「いっしょに行けるなら、僕は嬉しいよ」
草矢は、急に酔いがまわるような気がした。
カイのやつ、本当に喜んでいるんだ。
そうだ。嘘のつけるようなやつじゃない。裏表がないんだ。カイがもっと嫌なやつだったら……。
「しっ」
風生が指を唇にあてた。草矢は、曲げた腕に頭をのせて眠っていた。




