2・旅(1 再会)
月は、顔を出したばかりの茸のように白く光っている。道は明るかった。
風生がカイに声をかける。
「里砂が南の村に行ったとしても、また今度のようなことになったら、と思えば、誰も縁談の無理強いなんぞできんだろうよ」
カイは微笑んだ。
「うん」
それでも、リサに会えたらよかった。リサを元気づけてやれたらよかった。
風生が、まだら毛の足並みをゆるめた。カイは顔を上げる。
「カザオ?」
風生は、カイの耳もとに口を寄せた。
「右手の木陰だ。誰かいる」
「誰かいる?」
カイは、右の前方に目をこらした。前につるした角灯の明るさが邪魔になって、暗いところがよく見分けられない。
「こんなところで、こんな時期のこんな時刻に人に行きあうってことはめったにない。用心しろよ」
用心。
カイは、口を開きかけてまた閉じた。人の姿をみとめたのだ。
小柄な人物だ。頭巾にかくれて顔の様子は見えない。
その人影が動いて、二、三歩道の方へ出た。
「よう、そこの人」
風生が大きな声で呼びかけた。
「こんなところでどうした。なにか、まずいことでもあったのかね」
角灯の光を受けて、頭巾の中でその人物の目が輝いた。
「風生?」
風生は目を丸くして、ひどく乱暴にまだら毛の手綱を引きしぼった。
「里砂か?」
「リサ!」
カイと風生は同時に叫んだ。カイは座席から飛び降り、その人物の両肩をつかんだ。
「リサ! なぜこんなところにいるんだ! ひとりなの? 南の村へ行ったんじゃ……」
「ひとりよ。南の村へは行かない。……カイ、よかった、会えて」
カイは、急に言葉が出なくなった。黙ってリサを抱きしめると、うしろから風生の声が、ゆるぎない現実の響きを伴って聞こえてきた。
「すると、おまえさん、二度目の家出をしてきたってわけか、里砂」
「二度目?」
里砂が、風生を見た。風生は、考え込むように唇をへの字に曲げた。
「待てよ、そんなわけないな。一層気をつけているに違いない仁矢の目をかいくぐることができたとしても、こんなところまで歩いて来るだけの時間があったはずはない……」
カイも風生を振り返った。
「それじゃ……」
「仁矢のやつ、俺たちを厄介払いしたかったんだな」
里砂は、ふたりの顔を見比べた。
「どういうこと?」
風生は首をふった。
「どういうこと、はこっちの台詞だ。里砂、あんた、みんなにどれほど心配かけたかわかってるのか」
里砂は目を伏せた。
「仁矢のやり方には、そりゃ俺だって賛成はしない。でも、里砂は相当無茶だぜ。何も言わずに消え失せただけでもとんでもないが、若い娘ひとりでこんなところまで……」
風生は、ふと里砂を見た。そして、ゆっくりと里砂の頭巾に手を伸ばして、それをうしろにおろした。
「里砂、その髪……」
「リサ……」
ふたりとも、そのあとを続けられなかった。長く編まれていた里砂の髪は、首筋でぷっつり切られていた。真ん中から分けて編み込まれていた前髪は、切られて不揃いに額に下がり、その下に、黒い眉と瞳がある。里砂の眉はまっすぐで、そのせいでいつも生真面目な顔に見えた。
「……まあ、ちょっと見、使い走りの小僧に見えなくもないが……」
風生は、心ならずも少しばかり感心したように言った。
「でも、リサ、どうするつもりなんだ」
カイは里砂の顔を見た。フラムでは短い髪の少女たちは大勢いたから、風生ほど驚きはしなかった。
里砂はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように言った。
「いっしょに行きたいの。風生の迷惑にはならないようにする。箱車のうしろをついて歩く行くだけでいいの。わたしは……」
里砂は、言葉を探して口をつぐんだ。
家を出て来たのが最善の方法だったのかどうか、里砂にも確信はなかった。
でも、どう言ったらいいのだろう。自分にとって大切ななにかを「親のため」にあきらめたら、いつかそれを「親のせい」にしてしまうと思うこと。両親を恨む思いが生まれてしまうだろうということ。
「おまえのため」と言われるのが、辛くてたまらないこと。
そして、やっぱり自分のことは、自分が決めたいと思うこと。
そういうことを風生に言おうと思っても、口から出たとたん、勝手な言い訳に聞こえそうで恐かった。
「荷物は?」
風生がぶっきらぼうに尋ねた。里砂は、かたわらの布の袋を見下ろした。
「これだけ」
風生は袋を取り上げ、箱車の方に腕をふった。
「ふたりとも乗れ」
「連れ戻すの?」
里砂は、少し身を固くした。風生は袋を台に放り上げた。
「そんなゆとりがあるか。あんたのせいで、月の出まで出発が遅れたんだ。とりあえず、先に進むさ」
「それじゃ、いっしょにいてもいいの?」
風生は、片方の眉を上げた。
「明日行きあう最初の集落で、仁矢に使いを出す。使い走りをしてくれる者くらい、どこにでもいるんだ。おまえさんも、それを知ってのそのかっこうなんだろ」
里砂とカイは、ちょっと顔を見合わせ、それから風生の次の言葉を待った。
「そこに里砂を預けておいて、迎えが来るまで待たせるって手もある。でもなあ」
風生は、道端の人物を見つけて以来、はじめて笑顔になった。
「男装までして家出しようって娘だ。おとなしく預けられてるって保証はないからなあ。結局のとこ、今はいっしょに連れていくのが一番安全だろう」
「風生……」
里砂が言いかけるのを、カイがさえぎった。
「僕が村まで送って行くことはできるよ。それから風生を追いかけて……」
「おまえさんが!」
風生は目をむいてみせた。
「カイと里砂がふたりきり、連れだって帰って来た日にゃ、仁矢は火を噴いて怒るぜ。取り返しのつくものもつかなくなる。まあ、やめとくことだ」
「つまり、いっしょに行ってもいいのね?」
里砂が、おずおずと言った。
「とりあえずは、ってことだ。使いが北の村についたら、それから迎えが来るだろう。俺が商売しながらゆっくり旅するってことは仁矢だって知ってる。急ぎのひとり旅なら、おっつけ追いつくさ。来るまで待っててやるつもりはないが、迎えがきたら、それと向き合うのはあんたの仕事だ」
風生は、やさしいといってもいいような仕草で、里砂の肩をたたいた。
「両親と……あえて両親、と言うが、これっきり縁を切っちまいたいわけじゃないんだろ?」
里砂は、しばらくなにも言わなかった。
「……これっきりにはしたくない」
風生はうなずいた。
「それならいい。もうひとつ」
指を一本立てる。
「カイとあんたは……なんというか、好き合ってるわけだな」
里砂はカイのほうを見た。カイは微笑んだ。
「そこでだ」
風生は腕組みしてふたりをながめた。
「ふたりとも、こうなったからにはこっちのもんだっていうふうには思わんでほしい。表現がまずいことはわかってるが、勘弁してくれよ」
里砂とカイを、順番に見た。
「俺は、仁矢に対しても公平でいたいんだ。ふたりがただの軽はずみな若い者と違うってことは、誰にだって俺が保証してやる。明日使いに持たせてやる手紙に、おまえさんたちを信用していい、そのことは、俺、風生が責任を持つ、って書いていいな?」
カイが、少し頬を紅潮させて言った。
「つまり、僕たちがこれを駆け落ちみたいに……ええと、そういうことだよね、そんなふうに思ったら間違いだってこと? そりゃ、言われるまでもないよ。僕には目的がある。逃げてきたわけじゃないんだ」
「わかってる」
風生が微笑んだ。
里砂は、黙って風生の声を聞いていた。
やっぱり風生は大人なんだなあ。わたし、自分のことでいっぱいだった。風生があてにできなかったら、今ここにこうしてさえいられなかった。風生に迷惑かけないようにする、自分のことは自分で決める、なんて偉そうに考えていたけど……。
くびきを断ち切るような気持で髪を切った。頭巾で短くなった黒髪をかくし、少年の姿で家を出れば、風生の言ったとおり、誰かに見られても使い走りの子どもだと思われるはずだった。母さんがぼろ織に使うか、何かにつくり直すつもりでとってあった古着から、草矢には小さくなった少年の服を探して着た。夕方までをなんとかやり過ごし、暗くなってからは、館の書庫にかくれていた。入り口からは見えない、奥まった場所にもぐりこんで、全くそのつもりはなかったのに、少し眠りさえしたのだ。
ひとりで街道を歩いていたときほど心細い思いをしたことはなかった。誰もいないと思うと恐かったし、人の姿を見かけると、それはそれで恐かった。
先に分かれ道があって、どっちへ進めばいいかわからずに、あの木陰で風生の箱車が来るのを待っていた。日が落ちて、月が出て、もう風生は来ない、自分はひとりぼっちだと思ったとき、箱車が見えた。
それは、冬ごもりの祭りの晩に見た、あの夢の箱車だった。
「どうした、家出娘?」
風生が声をかける。里砂は顔を上げた。
「ごめんなさい、風生」
「なんだ、今さら」
「風生にいらない責任までしょわせてごめんなさい。わたし、自分のことしか考えなくて、本当にごめんなさい」
「ふつう、そういうのは、ことを起こす前に考えるもんだ」
口調とは裏腹に、風生の目は笑っている。
「風生……」
「心配するな、里砂。自分のことだけ考えていいんだ。ここ一番ってときに、他人のことまで気をまわすゆとりがあったら、それはまだ本番じゃないってことかもしれん」
風生は、安心させるようにうなずいた。
「さあ、行こう」