1・北の村(30 旅立ち)
「あの子は、きっとふたりを見送りたいだけなんだよ」
潮美が言った。朝早く、仁矢が月見ばあさんの家から戻ったときのことだ。
「風生は出発を延ばしたから、かわいそうにどこかで待ちくたびれているに違いないよ」
「今日中には出発するに決まってる」
仁矢が、怒ったように言った。潮美はその口調に臆することなく、きっぱりと言った。
「でも、カイはきっと残りますよ。里砂がいなくなって、それが自分のせいかもしれないと思ったら、カイがほうって出かけるもんですか。そして、もし里砂が、ひとりで残ったカイと出会ったとしたら……今度は本当に、ふたりでどこかわからないところへ行ってしまうかもしれない」
潮美は両手で顔をおおった。
「あのう、いいかな」
やりとりを聞いていた樹が、そっと口をはさんだ。本来なら昨日のうちに南の村に帰るはずだったのだが、里砂がいなくなってはそうもいかず、好奇心も手伝って帰りを延ばしているのだった。正直なところ、家事も育児も看病も苦手な樹は、留守を長引かせる大義名分ができてホッとしてもいたのだ。
「ああ、あんたにはすまなかった。こんなことになるとは……」
仁矢が申し訳なさそうに頭を下げる。
「だいたい、あんたも勇み足だったんだよ……」
潮美が、弟に対する遠慮のなさから樹に八つ当たりのように言うのを、仁矢が制した。
「なにか、いい考えがあるのか」
樹は、ためらいがちな笑顔を浮かべた。
「その……要するに、里砂を見つけたいわけだ」
仁矢は、なにを今さら、というように樹を見つめた。
「風生と例の若いのを見送りたいってのが、とりあえず里砂の望みなら、連中を出発させちまえばいい。里砂が会いに出てきたところで見つかるだろう。そうでなくても、気がすめば自分から帰って来るかもしれん」
「出発させられるもんなら、もちろんそうしたいとも」
仁矢はいらいらと言った。樹は、ちょっと身を乗り出した。
「里砂が見つかったことにするんだ」
潮美が顔を上げた。
「里砂が見つかった、と風生に言うんだ。見つかったが、会わせるわけにはいかん、と。とにかく、里砂が無事だとわかれば、あの若いのも風生といっしょに行こうって気になるだろうよ」
仁矢は眉間にしわを寄せてしばらく考え込み、やがてゆっくりうなずいたのだ。
草矢は仕事場にいた。両親と叔父の仲間には加わっていたくなかった。
叔父のたくらみは、うまくいくかもしれない。父親は、草矢に、決して風生に本当のことを言うな、ときつく言った。草矢は父親に言い聞かされて従うほど、もう子どもではなかったが、自分で考えて風生のところへは行かなかった。
里砂が見つかるなら、それがまず一番大事だ。
ひとりでいたかったのは、わけがわからないまま自分に腹が立っていたからだ。
仁矢が月見ばあさんの家に入ってから、草矢は防風林へ行ってみた。里砂にとって、防風林とそれに続く浜は庭のようなものだった。南の岩場の方には、波がうがった洞窟もいくつかある。里砂が身をひそめるならここかもしれない、と思ったのに、角灯の頼りない光に照らされるのは、ざらざらした木の幹と砂ばかりだった。
里砂は、俺からも隠れていたかったのだろうか。
草矢は、里砂のためにつくった星の首飾りをそっと磨いた。
仕事場の扉がゆっくり開いて、潮美が入ってきた。
「火がほとんど消えてるじゃないか」
炉のほうにあごをしゃくって、疲れた様子で腰をおろす。草矢は首飾りを手の中に握りしめて、炉の火をかきたて、薪を足した。
「風生の予定を聞いてきたよ」
潮美は自分の手を見つめながら言った。
「月の出には出発すると言っていた。カイもいっしょに行く、と」
それでは、叔父の案は、ここまではうまくいったのだ。
「カイを連れて行くから、少しでも里砂に会わせてやってくれ、と言われたよ」
草矢は、母親を見た。
「絶対にだめだ、と言ってきたよ」
彼女は深いため息をついた。
「こんなつらいこと、なかったねえ」
カイは、車の前に取り付けた座板に腰掛けて、背筋を伸ばしていた。
里砂はどこかにいるだろうか。絶対に行かせない、と言われたけれど。
自分に里砂が見えなくても、どこかから里砂の方が今の自分を見ているかもしれない、と思った。そうだとしたら、自分が元気で、望んでいたとおり出発するのだ、と知ってほしかった。
何人かの村人が見送りに来ていた。風生は人気者なのだ。その人たちから少し離れた木の陰にいるひとりに、カイは目をとめた。
あれは、確か……。
南の村の、里砂の叔父だ。祭りのときに会った。里砂を連れに来ているのだ。それにしても、こんなところで何をしているのだろう。
「さあ、行くか」
村人と旅立ちの挨拶をしていた風生が、横に乗り込んできた。前につながれた二頭のまだら毛が、ゆっくりと足踏みした。
ここで第一部「北の村」は終わり、次のエピソードから第二部「旅」がはじまる。