1・北の村(26 仁矢の思惑)
家に帰ると、思いがけないことに南の村の叔父が来ていた。潮美の末の弟だ。
叔父の樹と仁矢は、卓について、来客のときしか出てこない蜜酒を飲んでいた。炉のへりにすわっていた里砂が、顔を上げて草矢を見た。
「草矢か。どこへ行ってた」
仁矢は、樹の前でことさら父親風を吹かせるような言い方をした。
「草矢の年頃じゃ、どこへだって行くところはあるさ」
樹が、とりなすように言った。
「いらっしゃい、叔父さん。でも、この時期に来るとは思ってなかった。何か変わったことでも?」
叔父は、仁矢と視線を交わした。
「そうだな、変わったことというか、うちのに二人目ができたんだ」
草矢は微笑んだ。
「ああ、そういうことならよかった」
「つわりがひどくてね。まあ、一人目のときもけっこう辛がって、家の中のことも何もできなかったから俺も大変だったんだが、そういうこともしばらくたてば忘れちまうものなんだなあ。二人目は嬉しいけど、またあのときみたいに苦労するのかって今さら思い出して」
「せっかくの授かりものに、そういうことを言っちゃいけない」
叔父の言葉に、仁矢が軽くたしなめるような言い方をした。
叔父が、ちょっと肩をすくめて苦笑した。
「そりゃそうだ。でも、今度は上の子がいるだろう。むつきもとれたばかりで、まだときどき失敗だってする。青い顔してふらふらしてる女房に、子どもの世話と家のことをやらせるなんて無理なんだ。それでな」
ちょっと言葉を切る。
「里砂に手伝いに来てもらえないかと思ってなあ」
里砂に?
草矢の頭の中で、さっき風生から聞いた「うわさ」と、叔父の言葉が、かちりとはまりあった。
「里砂を南の村へ連れて行くってことか?」
「そうさ。しばらく家の切り盛りをしてもらえたら助かる」
台所から、潮美がつまみ物をのせた皿を持って入ってきた。
「里砂で役に立つなら、こっちもうれしいよ」
草矢は里砂を見た。里砂は、黙って針を運んでいる。
「細工師の息子のことは?」
草矢は、里砂を見つめたまま言った。里砂の針が止まった。
その場に一瞬沈黙が落ちた。
「なんのことだ」
ようやく仁矢が言った。
なんの準備も考えもないまま、こんなふうに言葉を放り出すことになってしまって、草矢はあとへは引けない気持で仁矢に向き直った。
「今夜、うわさを聞いたんだ。父さんが、南の村の細工師の息子と里砂の縁組のことで使いを出したって」
里砂が息をのむ気配がした。
「父さん、里砂を南の村へやるのはそのためか」
潮美は目を伏せた。仁矢は草矢をにらみつけたが、それしかできなかった。こんな不意の問いかけに嘘がつけるほど器用ではなかった。
叔父は、ちょっとあわてたように言った。
「でも、うちのやつのことは本当なんだ。里砂に手伝いを頼みたいってことも。……それで、しばらくうちにいる間に、あっちの細工師の息子と出会うこともあるさ。俺たちとは親しくしてるんだから」
誰も何も言わなかった。叔父も、気まずそうに口をつぐんだ。
「わしらは、里砂のためを思っているんだ」
しばらくして、仁矢が低い声で言った。
草矢は、里砂のほうを見た。里砂は、つややかな黒髪をふって、きっぱりと言った。
「なにがわたしのためになるか、わたしは自分で考える……」
「生意気を言うな!」
仁矢がどなった。
「年長の者の言葉を敬うことも知らんで、おまえは『自分』ばかり言いおる! ひとりで大きくなったつもりでいるのか! おまえのことを一番心配しているのはわしらだということが、なぜわからん!」
里砂は、今度はゆっくりと首をふった。潮美がそっと里砂に近づいたが、里砂は立ち上がると、身をひるがえして部屋に駆け込んでしまった。
仁矢は、今度は草矢に向かった。
「おまえもおまえだ! なぜ黙っていられなかった! あとで、わしらだけになったときに言うこともできただろうに」
言うしかなかったんだ、と草矢は思った。
里砂のことを、里砂を抜きにして話すことなど……。
そう思ってから、これは冬のはじめにカイがしたことに似ている、と思った。カイがこの村に留まることを、まるでカイ自身はそこにいないかのように、司の弟子と仁矢が話していたとき。
「ソウヤに聞かなきゃだめなんです」とカイは言った。
カイの存在によって、里砂だけでなく自分の中にも目覚めたものがある、と草矢は思った。
「里砂は、父さんたちがどうお膳立てしたって、心を変えやしないだろう。父さんにはどうしてわからない……」
「そういうおまえになにがわかる!」
仁矢は乱暴にさえぎった。草矢はしばらく言葉を探す。
「里砂を不幸にしたくない」
「好き勝手をさせたって幸福にはならん。わしだって、里砂を不幸にしたくないから考えたんだ!」
それは、父親なりの真実だったろう。
それでも、なにかが間違っていると思う。誰もが幸福を願っているのに、今はみんな不幸な思いを抱えている。




