1・北の村(25 葛藤)
幾日かが過ぎた。風生とカイが出かけるのは、もういつであってもいいはずだった。
里砂と両親は、通り一遍の口はきいたが、間にわだかまるものが横たわったままだった。草矢は、気付かれていないと思ったらしい里砂が、何度か涙をぬぐうのを見た。
「里砂」
はじめ、草矢は何も言い出すつもりはなかった。水を飲もうと思ってやってきた台所に里砂ひとりしかいなかったから、思わず声をかけてしまったのだ。
「里砂、おまえがカイに何か伝えたいことがあれば、俺が行ってきてやれる」
里砂は、びっくりしたように黒い目を見開いて草矢を見た。
「もう出発の日も迫っているだろう。おまえだって、このままでいいとは思っていないんじゃないか」
里砂の目に涙がいっぱいになり、けれど、そのまま微笑んだ。
「ありがとう、兄さん。そうよ。このままじゃ嫌よ。わたしは、いつ出発するのか知りたい。ちゃんと見送って、気持に区切りをつけたいの。そうすれば、次に会うときまで、わたしはきっと大丈夫。大丈夫でいられる」
それで、草矢は、夜になってから月見ばあさんの納屋に出かけたのだ。
カイのためじゃない。里砂のためでもない。俺の気持のためだ。
「草矢か。こりゃ珍しい」
納屋には風生がいて、相変わらずの陽気なまなざしで草矢を見た。風生の本質は「陽」で、それはなにがあっても変わることはないのだ、と草矢は思った。
「カイはいるか?」
風生が答えるより早く、本人が出てきた。
「ソウヤ! よく来てくれたね!」
カイの唇のはしに、治りかけた傷跡がある。
カイは、ふっと真顔になった。
「リサ? リサがどうかしたの?」
草矢は首をふる。
「里砂は大丈夫だ。俺は、様子を見に来ただけなんだ。なにもわからないんじゃ、里砂も自分の気持のおさめどころが見つからない。父さんは、里砂を一歩も外に出さないんだ。だから、俺が……」
カイは草矢を見つめ、何度か瞬きして、そして微笑んだ。
「ありがとう。風生も、一度そっちへ出かけるつもりだと言ってくれてたんだ。明後日の朝、出発することになりそうだからって。僕はご覧の通り元気だよ。心も体も、あのときからひとつも変わってない。……それで、リサは元気……?」
明後日か。
「まあ、元気とは言えないかな。父さんも母さんも、狭い村で育ってきた昔気質の人間だ。それを変えようとしても、他人の力じゃ無理なんだ。自分が自分を変えようとしないかぎり」
それだから、里砂は辛いんだ。里砂は変わりたいと思っているから。
「里砂にとって、今は家のどこにいても居心地が悪い。それで俺はここへ来たんだ。里砂に言ってやれるなにかがほしくて」
カイは、あらためて草矢を見た。そして、申し訳ない思いにうつむいた。
風生が、どん、とその背中をたたいた。
「くよくよするな。おまえさんが悪いわけじゃない。里砂だって悪くない。そういうなら、仁矢が悪いわけでもないんだ。まあ、そこがやっかいなところなんだがな」
カイにまだら毛の世話を頼んでおいて、風生は草矢を納屋の外に送り出した。
「みんな、里砂のためを思っているつもりなんだ。やっかいだなあ、草矢」
草矢は、風生の顔を見た。
「なにかあったのか?」
「うわさを聞いたんだ。走り使いをやってる小僧がいるだろ」
草矢はうなずく。
「俺は縁結びをしてきたんだ、って吹聴してるから、なんの話か聞いてみた。そしたら、里砂と南の村の細工師の息子をめあわせる話があって、それを南の村まで持ってったって言うのさ」
風生は、草矢の表情を見た。
「その様子だと、おまえさんは知らないな。カイにもこのことは言ってない。なんといっても、うわさだからな」
草矢は黙ったままでいた。風生は、ふっとため息をついた。
「俺は、あの子をずっと知ってるよ。たそがれ浜で拾われてきたころからさ。珍しいものや美しいものを、どんなに嬉しそうに見ていたか。だけど、それらが自分の手に入るものじゃないってこともわかってた。見たい、知りたい思いといっしょに、ちゃんと分別もある子なんだ。あの子が親のいいなりになって嫁いで、幸せになるとは思えん。仁矢も、ことを急ぐつもりはないんだろうが……」
「その使いを頼んだのは、父さんだということなんだな?」
草矢は、静かな声で言った。
里砂と、南の村の細工師の息子? カイとどこか知らない遠くへ行かせるくらいなら、南の村に嫁がせるほうがいいと思った?
「そういう話だ」
風生が短く答えた。
「おまえさんに伝えたもんか、迷ったんだが……」
「知らせてくれてよかった」
草矢は答えた。どうすればいいか、なにができるのか、なにもわからなかったのだけれど。