1・北の村(24 潮美の気持)
次の日の朝食は気まずいものになった。
仁矢は、里砂が謝ってくるまで折れるつもりはなかった。内心、怒りにまかせて娘に手をあげたことには悔やむ部分もあったが、親が子どもに迎合してどうする?
「父さん、昨日のことだけど」
里砂が声をかけると、仁矢は、里砂を見ないままで言った。
「言うことがあるなら、聞こう」
「……わたしたちは、初めてああいう話をしたの。……ああいうことになったのは、初めてだったの。だから、わたしたちがこっそりなにかを決めて隠しておいたとか、そういうわけじゃない。父さんが隠し事を嫌って、それに怒ってるなら、ちゃんと知っておいてほしいと思って……」
仁矢は顔を上げ、不思議なものを見つけたというように里砂を見た。しばらくそうしていて、やっと口を開いた。
「おまえには何もわかっておらん。昨日のことはもういい。家の中でのことだし、外で吹聴したわけでもないから、ここで終わりにすればすむ。なかったことになる」
「終わりに? なかったこと? ……だって」
「あいつにはもう会わないんだからな。あいつが風生と出発するまで家から出るな。どうせ、この数日のうちには出かけるだろう」
「そんなこと、できない」
里砂は首をふった。仁矢は、相変わらず奇妙なまなざしで里砂を見つめた。
「できるさ。おまえが親の言うことをきけばいい。よそ者の青二才の言うことではなく、な」
仁矢は、食器を押しやって席を立った。
「父さんに謝ったほうがいいよ」
家の中で女ふたりだけになると、潮美が言った。
「おまえが謝れば、父さんは許すつもりでいるよ」
里砂は、ゆっくり母親のほうを向いた。
「許すって、カイとわたしのこと? いつか、ここを離れるってこと?」
潮美は、とんでもない、というように首をふった。
「昨日のことさ。軽はずみなふるまいをしたことや、身勝手にいろいろわがままを言って……」
里砂は目をそらした。
謝る気持になれたら、家の中の空気はどれほど楽になるだろう。けれど、昨日の自分たちは、軽はずみなふるまいをしたのではなかった。ましてや「ふしだら」などではなかった。身勝手にわがままを通そうとしたのではなかった。
里砂は、窓から外を見た。雲が低く垂れ込めている。風生の出発はいつになるだろう。
潮美が食器をしまいながら言う。
「わたしはカイが好きだし、おまえたちがいっしょになりたいなら、それもいいと思うよ。でもねえ、カイはどうしてここに留まる気にならないんだね? 父さんだって、長い間にはわかってもくれようじゃないか。どこかわからないところに、いつかわからないときに行くなんて……。それに、渡り人になるなんて、まして女の渡り人なんて聞いたこともないよ」
その口調の何かが気になって、里砂は潮美を振り向いた。
「女が渡り人になるのはいけないの? 男ならいいの? それとも、渡り人がいけないの? 母さんだって、風生は好きじゃないの」
潮美は、少し頬を紅潮させた。言いにくいことだが仕方ない、真実を知らせてやらなきゃならない、とでも言うように、ちょっと開き直ったように強い言い方をした。
「まともな人間の生き方は、やっぱり落ち着いて家庭を持つことなんだよ。渡り人は、たいてい、どこかはぐれた者たちだからね。風生は、おおかたの男よりは……この村の誰かれよりは……誰とは言わないけど、立派な人間かもしれないさ。それでも根無し草の渡り人じゃ、ひとに重んじてはもらえないんだよ。責任も覚悟もなく、その日暮しをしてるんだから」
里砂は、目をみひらいて母親を見つめた。
「でも……だって、そんなふうに思いながら、普通の顔してつきあうなんて、風生にどれだけ失礼な……」
「ああ、おまえには、世間ってどんなものかわかってないんだよ」
潮美は、いらだたしげに言った。
「だから、この先一生にかかわってくるかもしれない話を、世間知らずの若い者たちだけで決めちゃならないってことも、わかってないんだよ。親や年長者が役に立つ助言をしてやらなかったら、道をあやまってしまうかもしれないだろう」
里砂は、唇をきゅっと結んだ。
小さいころから大好きだった風生。なんでも知っている、頼もしい風生。
母親の言葉は、裏切りのように聞こえた。
「おまえだって、そろそろ家を守るつもりになっておかしい年じゃない。家の切り盛りはできるんだものねえ。まあ、まだちょっといきとどかないところはあるけれど。わたしゃ、おまえのことで急ぐつもりはなかったんだけど……。もしカイがその気なら、ここでだって、南の村でだって、働く方法はあるんだし……」
母さんは、私たちが世間をわかってないって言う。でも、母さんには、その世間で生きていくわたしのことも、全然違う世間からきたカイのことも、わかってない。カイが南の村で働き口を見つけるなんて、そんなことは絶対ない。
「祭りのとき天幕で、父さんは、南の村の細工師の息子が嫁を探してるって話を聞いてきたんだよ。その話をした人はね、一度会ってみて、なんなら里砂にどうかって言ったらしいよ。父さんは、そのときは身を入れて聞きやしなかったって言ってたし、私もあとから聞いて、笑い飛ばしてしまったんだよ。里砂はまだまだ嫁になどいきませんよって。でも……」
潮美は、片付けの手を止めて、深い息をついた。
「父さんは、ゆうべからその話を考え直しているよ。細工師の家のことなら、おまえはよくわかっているもの。結局、自分のなじみの場所が一番幸せなんだ、って」
里砂は、まっすぐ顔を上げていた。
わたしにとって何が一番幸せか、それを決めるのは、わたしなんだ。




