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1・北の村(23 草矢の思い)

 部屋に入って扉を閉めると、初めて里砂の目に涙があふれてきた。口の中に血の味がした。ぶたれたときに切れたのだろう。

 父親の気持はわかっているつもりだった。里砂は、自分が実の子の草矢以上にかわいがられたのを知っていた。幼いころの里砂は、父さん子だった。


 だけど、わたしはもう小さい子どもじゃない。父さんを喜ばせるために自分に嘘をつくことなんてできない。わたしは父さんを大事に思ってる。父さんもわたしを大事に思ってる。互いに互いを大事に思ってるのに、どうしてこんなにつらいことになるの?


 里砂は、両手に顔を埋めてすすり泣いた。


 わたしは父さんのために生きてるんじゃない。だけど、自分のためだけに生きるのって、わがままなことなんじゃないか。わたしが自分のことを考えるのは、父さんを傷つけるのか。ああ、わからない。


 扉が動いた。里砂は、涙をぬぐって身構えた。母親にだって、今は会いたくない。


「入るぞ」

 草矢だった。盆を持っていた。夕食なのだろう。

「食べたくない」

「ずっと食べないというわけにもいかないさ」

 草矢は、盆を里砂のかたわらに置いて、自分は敷物に腰をおろした。


「父さんから聞いたんでしょう」

 里砂が言った。出ていけと言われなくてよかった、と草矢は思った。

「聞くには聞いたが、よくわからない。渡り人になるとか、それが父さんにぶたれても仕方がないほどのひどいことなのか、俺にはわからない」


 里砂は、しばらく黙っていた。

「わたしにもわからない。何がいけないのか、わからない」


 涙のあとの残る顔をあげて、里砂が言った。

「わたしがなにをしたいか、自分で決めてはいけなかったの? 父さんが決めて、わたしがそのとおりにするのが当たり前のことなら、わたしの頭はどうしていろんなことを知りたいと思うの? わたしの心にはどうして『好き』や『憧れ』があるの? 自分で自分のことを考えちゃいけないのなら」


 自分で自分のことを考える。

 それは、草矢も同じだった。祭りの晩のあとから、特にそうだ。自分のこと。もしかしたらあるかもしれない、自分の可能性のこと。


「父さんには、おまえが自分とは全然違う……」

 他人、と言いそうになって、草矢は間をおいた。「自分とは違うひとりの人間」という意味で言いたくても、里砂にはこの言葉は使えない。

「……自分とは違う考えを持っているっていうことが、なかなかわからないんだろう。そんなふうに思いたくないのかもしれない。父さんは、家族はみな同じ思いで生きていくものだ、と考えているからな。姿かたちが違うように、人の考えがひとりひとり違うなんて、当たり前のことなんだが」


 なぜ俺は、分別くさくこんなことを話しているんだろう。


 父親を弁護したいわけではなかった。なにも娘をぶつことはなかっただろう。カイの血を流すこともなかっただろう。


「おまえをぶったことは、俺は父さんが悪いと思う。父さんは口下手だけど、それでもまず自分がなにをいけないことだと考えているかを言わなくちゃいけないと思う」


 里砂は草矢の目を見た。

 少しばかり意地っ張りな線が唇のはしに浮かび、それはすぐ頼りなげに消えた。


「父さんは、わたしを『ふしだらな娘』だと言ったわ」

 草矢は、はっとして里砂を見た。

「わたしがカイと接吻したから」


 接吻?

 里砂はまたうつむいてしまい、草矢に見えるのはつややかな黒い髪だけだ。

 けれど、これで両親のぎこちない態度が腑に落ちた。父親が接吻しているふたりを見たのなら、そのとき父親が感じた痛みの一部は俺にもわかる、と思った。


 それでも。


 里砂とカイが惹かれあっていることはわかっていた。そして、俺は何もしなかった。

 いや、何ができただろう。「好き」も「憧れ」も里砂のものなのに。

 

 里砂は、今、自分よりずっと力の強い男とふたりきりでいることに気づいているのだろうか。俺が里砂の自由を奪い、その唇をふさぐことも可能だということに、気づいているのだろうか。

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