1・北の村(22 仁矢)
「何をしている!」
柔らかな空気を引き裂いて、声が響いた。
台所の戸口に、仁矢が立っていた。
「何をしていたんだ、里砂!」
仁矢は、カイなどいないかのように、まっすぐに里砂に向かった。里砂の頬に血が昇った。
父さんに見られた。
「わたし……」
口を開きかけたとき、父親の手がとんできた。痛みというより熱さが頬にぶつかって、里砂はよろめいた。
「リサ!」
カイが叫んで、里砂と仁矢の間に立ちはだかった。
カイったら、まだ菜っ葉を手に持ったままだ。
しびれるような頭で、里砂はそんなことを思った。
「出て行け!」
仁矢が、体を震わせてカイにどなった。
「こんなふしだらを娘に許すわけにはいかん! これは親のつとめだ! おまえさえいなけりゃ……」
ふしだら?
里砂は、父親の言葉を他人事のように聞きながら、手のひらをそっと頬に当てた。
「ぶつなんて……! そんなことは絶対しちゃいけない。僕たちは……」
カイが言う。仁矢は、怒りとも憎しみともつかない感情に顔をゆがめ、そのこぶしは今度はカイに向けられた。
「やめて! 父さん、やめて!」
里砂は、父親とカイにしがみつく。三人はひとかたまりになって、台所の床に転がった。
「どうしたんです?」
潮美の声がした。
「父さん、どうしたんです? カイ、あんた血が出てるじゃないか……」
三人は三ヶ所に分かれて立ち、息を荒くしていた。潮美は魚の入ったかごを床に置いて、無理に明るくした声で言った。
「父さん、あんた、若い者みたいに……。菜っ葉がめちゃめちゃだね……」
カイは、唇の横から流れた血を手の甲でぬぐった。
「こいつらが……」
仁矢は、言葉が気持に追いつくのを待っているかのように、それだけ言った。
「こいつらが、こっそり……」
この村に住む仁矢の年代の者は、人前で「接吻」などと声に出して言ったことはなかった。
「ふしだらな娘だ! 安っぽいふるまいをしおって……」
潮美が、眉をひそめて里砂を見た。
「どういうことだい、里砂」
「母さんの前で堂々と言えるものか! 村を捨て、俺たちを捨てて、渡り人になってふたりで出て行くなんてことが!」
仁矢は吐き出すように言った。
「かげでこっそり……。恩知らずだ、ふたりとも」
仁矢は、不意に言葉を切った。里砂が父親としての自分を裏切ったという思いと、拾って育ててやった恩を踏みにじられたという思いは、両方とも真実であり、なのに相容れないものだったからだ。
「おまえたちは、なにも言うことはないのかい」
潮美が声を固くして言った。
カイは顔を上げ、もう一度唇の血をぬぐった。
「確かに、渡り人になるかも、という話はしました。そして、僕のいたところへ戻る方法が見つかったら、里砂もフラムへ行こうって。でも、黙って、こっそりなんて、そんなことはしないし、するつもりもありません」
潮美の視線が里砂を向いた。質問のまなざしだった。
里砂は背筋を伸ばした。
「わたしは、フラムに行きたいと言ったわ。でも、そのときがくれば、父さんや母さんにちゃんと説明するつもりだった」
仁矢は顔を上げた。
「説明! 説明だと! そういう話は、親に願い出るもんだ! それを許すか許さんか、決めるのは親だ! おまえたちのように勝手にあれこれ決めて、それを偉そうに説明するなんぞ、聞いたこともない!」
「父さん……」
里砂が言いかけると、仁矢はそれをさえぎった。
「部屋へ行け! この始末はわしがつける。部屋に行って、出てくるんじゃない!」
「父さん、ひどいわ!」
里砂は、たまらなくなって叫んだ。
「だって、わたしのことなのよ。わたし自身のことなのよ! カイとわたしのことなのよ! わたしたちが決めるしか……」
頬に、また熱い痛みが走り、里砂の言葉は断ち切られた。
「リサ!」
「父さん!」
カイと潮美が同時に声をあげた。
里砂は、なんとかカイに微笑みかけた。
「大丈夫よ」
かばい合うふたりを見たとき、潮美は不意に仁矢のいいようのない怒りを理解した。それは、理不尽な怒りだった。子どもたちが、勝手に大人になっていく。
潮美は、きびしい声で言った。
「里砂、言われたとおり部屋に行きなさい。カイ、あんたも風生のところにお帰り。こんな有様で、説明もなにもあったもんじゃないよ」
「でも……」
カイは首をふった。潮美はカイを気に入っていたから、きっぱり言うのはつらかった。
「今は帰ってほしいんだよ、カイ」
「今だけじゃない。二度と来るな。二度と里砂に会うことはならん!」
仁矢がどなった。