1・北の村(21 くちづけ)
カイが来たとき、里砂は台所で青菜の泥を落としていた。ようやく顔を出したばかりの地面から、今朝潮美と摘んできたのだ。冬の間待ち焦がれていた新鮮な緑だった。
カイは、数日前から月見婆さんの納屋に寝泊まりしている。風生の出発の日が迫っていたのだ。いつもは嬉しくてたまらない春のきざしが、今の里砂にはつらかった。
「手伝おうか」
カイは、台所をのぞきこんだ。いつもと変わらない笑顔。
カイは、出発するのが楽しみなんだ。
里砂は、腹立たしいような悲しいような気持になり、そんな自分をいさめる。
「出発の準備はだいたい一段落したんで、僕はちょっと時間ができたんだ。ここへ来る途中『母さん』に会ったよ。魚を買いに行くっていってた」
「そうよ。漁がまたはじまったから」
会話はぽつん、と途切れてしまう。カイはちょっと微笑んで、里砂の隣に並んでかごの中の青菜に手を伸ばした。里砂をまねて、小さな葉の間の泥を落とす。水桶の中で手が触れ合ったが、カイは気にもしていないようだった。
「出かける日は決まった?」
里砂は、青菜だけを見つめながら言う。
「雲が北のほうにあるから、様子を見るってカザオは言ってる。でも、この次の新月までに行く約束をしてるところがあって……えーと、なんていうところだったかな……」
カイはまじめに答え、里砂は、そんなカイにいらだった。
地名や日付なんてどうでもいい。どこにせよ、いつにせよ、風生は必ず出かけるんだ。それが仕事なんだもの。そして、風生が出かけるときには、カイも行ってしまう。
里砂の知っている人たちは、たいていこの近くにいた。誰もどこかへ出かけて行かなかった。風生にしても、行って、また戻ってくる。いてほしい誰かが自分のそばからいなくなり、もう会えないかもしれないなんてことは、里砂の人生で初めてだった。
「リサ」
カイの声が、里砂の暗い思いに光のように射し込んだ。
「前に言ってたよね。リサは拾われた子だって。どこから来たのかわからないって」
里砂は、手を止めてカイを見つめた。
「もし僕がフラムへ帰る方法を見つけたら、リサもいつか行ってみないか? フラムを君の故郷にできるかもしれないよ。フラムはそんなに悪いところじゃないよ。雪は降らないけど……」
黙ったままの里砂に、カイはあわてたように言葉を続けた。
「僕が無事帰れたら、ここの座標もわかるから、安全に行き来ができるようになるよ。きっとなる。行ったきりじゃなくて、いつでも帰って来られるんだ。僕のいた星に行ってみたくない?」
里砂は身動きできなかった。
カイの世界に? 星の世界に? そこがわたしの故郷になる?
憧れていた「どこか遠く」に、手が届く?
そして、カイはわたしをその世界にいざなっている?
カイは、手に持った青菜からしずくをぽとぽと落としたまま、微笑んだ。
「リサに見てほしいんだ、僕の世界を」
「行きたい。行きたいわ。わたし……」
不意に声が詰まった。里砂は、そういう自分が腹立たしくて、激しく瞬きした。
「わたし、寂しかった。もうカイに会えなくなると思ってた。それでもあなたは平気だろうと思ったから、よけい辛かった。もとのところへ帰る道を見つけられるかもしれないっていうのは、嬉しいことのはずなのに」
「平気じゃないよ」
カイが言った。
「何があっても、もう一度ここに来るつもりでいるよ。そして、見つけたことを話すよ。見つけられなかったら、そのことも。帰り道を探し続けることはあきらめないけど、でも次の冬にはここに来るよ」
次の冬。
永遠に失うことにくらべたら、次の冬など取るに足りないことに思えた。
「次の冬、ね」
「次の冬だ」
カイの黒い瞳の中に、里砂が映っていた。ふと睫が揺れて瞳の像が隠れ、次の瞬間唇が重なっていた。
唇とは、こんなに柔らかく、こんなにやさしいものなのだ。唇で語る言葉などいらない今、こんなにも心が震える。触れ合っている唇がすべての中心となって、そこからめまいのようにやさしい渦がめぐる。
名残惜しそうなためらいを残して、カイが顔を上げた。里砂は、微笑むことができた。
「わたし、カイの夢を見たの」
「夢?」
カイは、やさしく里砂に聞き返した。
「夏の終わり頃だったと思う。あなたを浜で見つけるよりずっと前よ。わたし、時々そんなことがあるの。この先のいつか出会うものを、夢の中で見るの。則の司様みたいな、ちゃんとした力じゃないけど」
カイは目をみはった。この世界では、超能力はかなりありふれたものなのだろうか。
「あとであなたに会ったとき、拾い子だったわたしと、この人は何かつながりがあったのかもしれない、と思った。でも、そうじゃなかった。これからはじまることだった」
ふたりは、しばらく見つめ合った。
「でも、フラムへ帰る方法が見つかるとは限らない。君は、いくつもいくつもの冬を、ここで待つわけにはいかないよ。僕は渡り人にでもなって、この世界中を旅してまわって手がかりを探すことになるかもしれない」
カイが言うと、里砂は微笑んだ。
「わたしも、渡り人になれるわ」
瞳を合わせてしまうと、もうだめだった。ふたりはぬれた青菜を持ったまま、もう一度唇を重ねた。