東京マラソン
悪天候による中止や流行り風邪の影響で見送られてきた都内いや、日本最大のマラソン大会が久々に開催されることになった。
なので、マラソン好きの俺は意気揚々とネットで参加申し込みをし、現場に来たのだが……凄まじい熱気だ。いや、本当に。心待ちにしていた有志がこれほどいたのかと少々胸が熱くなるが、いや、熱い。暑いし熱い。参加者同士、剥き出しの肩と太ももが擦れ合い、摩擦熱を起こしているのだ。
首に、顔に、耳にかかる息が熱い。ここはどこだ? 砂漠か? いや東京だ。俺は何をしている? おしくらまんじゅうか? いやマラソンに来たんだ。時折、このように確認しないと忘れそうになる。暑さにより頭がボッーとしているのだ。
それもこれも多い、多すぎるのだ。マラソンランナーたちが。抽選にはずれ、参加権を持たない野良ランナーが押し寄せたと噂の今回の東京マラソン。その参加人数は数十万、いや百万にも届くと言われるが、さすがにそれは盛り過ぎだろう。
しかし、俺が今いるこのエリアだけでもその数は膨大で、前も後ろもその果ては見えない。
尤も、首を動かすことも困難なこの現状。できることは嘆きと怒りを吐き出すことくらいなもの。
――おい、まだかよ!
――スタートはまだぁ!?
――さっきそろそろですって言っただろ!
――いつまで待たせんだよ!
ランナーたちから飛んだ怒号は誰に向けてのものか。大会組織委員の姿はまったく見えない。
そしてその下。足元では脱ぎ捨てた簡易ポンチョやウェアが溜まり、柔らかな感触が一瞬、まるでここを巨人の胃の中と錯覚させる。出口のないトンネル。我々は皆、飲み込まれてしまったのではないか。
見上げた青空と太陽が、その愚かな妄想を散らしてくれる。
そこに都知事の姿を神のように映し、救いを求めるが未だ組織側からのアナウンスはなし。最後に聞いたのは『少々お待ちください』トラブルか何かだろうか。満員電車での人身事故を連想し、そういった日頃のストレスから解放されたくて走りに来たのにと思うと涙が出そうになり、また上を向く。
――都知事が遅れているからスタートしないらしいぞ
――なんでだよ!? 何で待たなきゃいけないんだよ!
――アスリートファーストだろ!?
――もうサスティナブルできねえよ!
密です。密です。密です。都知事閣下様。暑さで頭がおかしくなりそうです。
都庁のてっぺんで切腹をし、都庁全体を赤く染め上げそれを抗議としましょうか。
都民の声をお聞きください。
まあ、俺は都民じゃないが。
――おいどけよ!
――押すなよ馬鹿!
――植え込みに行かせろ! ああもうクソッ!
――はははっ、あきらめろよぉ! はははははは!
スタート地点横の植え込みはランナー定番のトイレスポット。しかし、その秩序はとうに崩れた。
押し寄せる濁流に堤防は決壊。土砂は悪臭を放ちつつ道路へと流れ込んだ。
顔を背け上を向き、熱さと臭気で呼吸を荒くする我々はまるで犬。そう、犬だ。犬はトイレの場所を匂いで覚える。アンモニア臭漂う今この場全体がトイレだとこの鼻が言っている。
だからこの人肉畑に咲くヒマワリが続々と恍惚な表情で太陽を見上げるその意味が分かる。
俺も、もう漏らした。下半身は萎れたアサガオだ。
終わりだ終わり。尊厳を失い、いっそ殺してくれとそう思――
『皆さん、おはようございます。都知事です』
……ただ、それだけの言葉。都知事のアナウンスで我々は一瞬の静止のあと、歓喜の雄叫びを上げ、そして人間性を取り戻した。
隣と顔を見合い、笑い、涙を流し、いよいよの時を待ち構えた。そうだ、我々は犬ではない。誇り高きマラソンランナーなのだ。たとえ、この胸にゼッケンがなくとも。
『ただいま、会場が大変混雑していることは私も承知でございます。
その理由は参加権、つまりゼッケンを持たない者が大量に流入していることにあります。
私がスタートの合図を出すことは簡単です。
ですが、このままでは皆さんの身に危険が及ぶことはファクトでしょう。
よって皆さんにお願いです。ゼッケンを持たない不届き者を皆さんで協力して大会から排除してください。
アウフヘーベン! ……混雑が緩和され次第、東京マラソン開始の宣言をさせていただきます。以上、都知事からでした』
静まり返ったのはほんの一瞬。血で血を洗う闘争劇の幕が上がった。
頭突き、殴り、噛みつき、蹴り踏まれ、ランナーが次々道路へと沈む。
持つ者持たざる者。その差はあってないようなもの。ゼッケンを持つランナーは狩られ、それを手にしたランナーもまた狩られ、騒乱は沿道の観戦者、ボランティア、マスコミ陣をも巻き込み、都内は巨大な蟲毒と化し、ロックダウン。その後、都知事は東京都の人口、約一千万からゼロを七つ減らし、都民のほぼ全てを亡き者にしたとして責任を取り、辞任した。