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姉さんと弟は水しぶきをつくりカノンを奏でた

 三分間、黙って聞いていてくださいますか。しずかに、少しずつ、肌に沁み込むようにお話ししていきますから。


 あれは2年前の夏、いや、夏を迎える前の、心地いい海風に誘われて「梅雨入り前の一番きれいな海を」と出かけた日曜の昼下がりでした。

 みんな、今年一番に高くなった雲に呼び寄せられてやってきたんでしょうね。待ちきれずに長いズボンの裾をまくりあげて波打ち際のジャブジャブを始めてる光景が並んでましたよ。特に小さなお子さんとその親御さんたちがね。キャッキャの声でその子の「生まれてはじめての海だ」って分かりましたよ。

 わたしもね、日曜の午後は気に入った場所まで車を出して、携帯のラジオでFMを聞きながら散歩するのが習慣になってまして、そのときは満島ひかるがDJを務める番組が流れていて、彼女の好きなエピソードと関係した曲を順々に掛けていましたよ。ちょうど蜷川幸雄が死んだばかりで、彼は気に入った曲があると一日でもずっと同じ曲をかけている人だった、そんな話をしていました。

 イヤホーンの透き間からは、波の音とキャッキャの悲鳴。男女の性別さえ踏み出していない無垢で心地いい響きが上手に波に乗ってきます。波の向こうには、メレンゲのような雲が神様のシャモジで「まだまだ」いわれながらてんこ盛りにされていましたっけ。

 そんな自分だけのメルヘンが入道雲の少し先までいったときです、波間からその女の子と分かる柔らかな声が刺さってきたのは。

 みると、小学校の5年あるいは6年生くらいの声変わりした女の子の、幼い男の子と水を掛け合いながらはしゃいでいる声が近づいてきました。男の子は半ズボンどころかTシャツまで水浸し、女の子も膝下まであるスカートの半分はすでに波に浸かっていて、弟がお姉ちゃんに小さな両手ですくった水を掛けていき、1回でも当たればお姉ちゃんはそれを合図に波の下で用意していた両手のスコップで大きな水滴を拵えて放水し、その度に男の子はずっと吐き出せずに我慢していた大きな笑い顔で駆け回る。何度も繰り返すたび、自然と波に足の取られた彼は海に全身を浴びせられ水浸しになっていきます。

 この男の子の笑い顔が向けているもう一つの先はデッキチェアに佇む(たたずむ)両親で、ふたりは子どもたちの好きなように為すように、いつまでも続く見あきない美しさを味わってるのだというように語らっていました。二人の大柄のハーフのような骨格は砂浜の何処からも目立っていて、父親は少し短めの針金のような髪の毛とメタル色のサングラスを掛け、母親は日射しを気にしないロングヘアーと小麦色の肌がつけてるコロンからパイナップルを連想させました。格闘家の蝶野と女優の土屋アンナ。その二人の名前がハマったら、もう他の有名人は出てきませんでした。

 通りすがりの他人の身であるのに、もうこの両親と同じ目線のまま二人から目を離すことはできません。ずぶ濡れの弟は水の掛け合いから海中を転げ回る怪獣までエスカレートしていき、姉は逃げる弟を追いかけるため、もう小6の女の子であるのをあきらめて全身で泳いでいました。スカートでいることも、海から上がれば弟のように全身を脱がされ母親が大きなタオルで拭いてはくれない年齢であることも十分承知しているはずなのに。

 (ともえ)を描くように二人は回り続け、水面から出てきたずぶ濡れの姉の顔は、濃い目元の母親にどんどん似ていき輝いていきます。あまりにも眩しい光景にようやく気恥ずかしさを感じ、わたしは意識をやっと自分の方に戻すことができました。

 ラジオは、どこから変わったのか、妹を亡くした戸川純の話に移っていて、彼女の歌う曲が流れ出していました。

 カノン。オルガンの伴奏に、一点だけを見つめている無垢な声が重なっていきます。

 そのときです、すべてが分かったのは。男の子の顔は、あの人達が共通に持っている表情が途切れることなく浮かんでいました。

 両親が見ていたのは、末の男の子よりも弟を見つめている姉の顔でした。そこに、この家族の無垢な愛情のすべてがありました。あんなにはしゃいで、ふたりとも大きな震えるような笑顔なのに、キャッキャの声は姉ひとりだけでした。しかし、カノジョは弟の声を聞き、応えるように笑っているのでした。蝶野も土屋アンナも他人には聞こえないその声をいつも聞いているこの家族は、その声が始まるたび、何の衒い(てらい)もなく寄り添い、幸福に浸るのです。


 振り返りと、わたしは自分がつけた足跡を反対に踏みしめ、来た(みち)辿(たど)り、この家族だけがもつ景色と別れるようにラジオを消しました。カノンは、いま聞いているそれぞれが思い浮かべる彼方にいるあの人に届けるため此方のギリギリに踏みとどまっている自分の声がしているようでした。


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