第八十六話 二人だけの世界
86.a
「悪いわね、タイタニスに付き合わされたみたいで」
「いや、どうということはない。それに長居をするつもりもないさ」
「そう?そんなにテッドと一緒にいるのが恥ずかしいのかしら」
「………」
「………」
「この機会にしっかりと話し合ってきなさい、二人ともお互いに避けているわよね」
やめてくれないか...その話しはもう終わっているんだよ...
ここはグガランナ・マテリアルのコアルーム、さらにやけくそドラゴンの中にあるポッドに私とテッドが寝かされていた。タイタニスに依頼されたあるマキナのナビウス・ネットにアクセスするためだ。仰向けに寝転がり天板越しにティアマトが眉尻を下げて私を見下ろしている。
「今回は私のナビウス・ネットではないわ、実際にアクセスしてみなれけば中がどうなっているのかまるで分からない。あなた達の拠点となる場所だけは作っておいたから」
「後はどうすればいい」
「タイタニスと連携を取って掌握を進めてちょうだい。今回はのんびりとしている暇はないから不測の事態が発生したらすぐにログアウトさせるつもりでいるわ」
「分かった」
あの時とは違って相手がランダムにならない分、いくらか気はマシだが今回はテッドだ。どう接すればいいのかと悩みながらも、仮想世界へのアクセスが着々と進んでいく。ポッドの天板が白く濁り始め、中に液体が充満され始めた。今でも口に入れるのは抵抗があるが、含んでしまえば眠りに落ちてしまうのはあっという間だった。
✳︎
仮想世界で目を覚ました、けれど起き上がる勇気がまるで持てない。このまま寝入ってしまいたいがそうもいかなかった。
「テッド、体の具合はどうだ」
「…も、問題ありません…」
目を閉じながら答える、まだナツメさんを見ることが出来ない。それに何だか声が近いような気がする、起き上がろうとすると左手が何かに当たって驚き目蓋を開けるとすぐ隣にナツメさんがいた。
「………」
「………」
前髪が目にかかり、いつもと違って何だか大人びたように見えるナツメさんにどきりと心臓が跳ねた。いや近いではなくすぐ隣じゃんか!どうして同じベッドに寝ているの?!
「……す、すぐに起きます」
「いや、ゆっくりでいいさ」
ドキドキしっぱなしだ、同じベッドに肩を並べて眠っていたんだ。どうしたって緊張してしまう、それに爽やかで甘い匂いもするしいつもの軍服ではなく白いブラウスにスキニーパンツという、あまり見慣れていない普段着だったので緊張に拍車をかけていた。
起き上がって見回した室内はこれと言った特徴はなく、前にお邪魔したあのマンションに似ているようだった。部屋の隅に置かれた観葉植物も、フローリングの上に置かれたラグもどこかの量販店から持ってきたような真新しい物だった。
ナツメさんが僕の横をすり抜け(甘い香りも!)ベッドから立ち上がり、窓にかけてあったカーテンを開け放った。カーテンを掴んだまま固まってしまったナツメさんに声をかけても返事が返ってこなかった。
「な、ナツメさん?どうかしたんですか?」
「いや…これを見てくれないか…」
視線は窓の外に向けたまま、まだドキドキする胸を無視してナツメさんに近付き肩越しに見やった窓の景色に僕も口を閉じてしまった。
「………」
「ここは……何処なんだ?」
窓向こうには何の変哲もない雑踏が広がっていた。目的を持った人が道を行き交い、何台もの車が信号待ちをしており、その向こうには円形の高いビルがそびえ立っていた。そのビルの足元には緑も広がり遠くに見た限りでは散歩している人達もいる。「どんな風になっているのか分からない」と脅されていた僕にとっては、逆の意味で驚きのある光景だった。
◇
[普通の街がある?]
「あぁ、見た限りではだが、ティアマトの仮想世界と少し似ているようだ」
[……外に出られそうか?]
「テッド、扉を開けてくれ」
「あ、はい」
タイタニスさんとナツメさんの通信をスピーカー越しに聞いていた僕は、椅子から立ち上がり部屋の扉の前に立った。扉の向こうから早速騒がしい音と気配が伝わってくる、えいやと扉を開けた先は簡単な雨除けと二段程の石階段、そしてそのまま街の通りへと続いていた。その通りは緩やかな坂道になっており、小さな山の斜面にはいくつもの家が建ち並んでいた。のどかな風景とは言えず、かと言って賑やかさのある街並みでもない、静けさと雑多な雰囲気が入り混じった何とも不思議な所だった。恐る恐る一歩踏み出してみる、部屋?家?僕とナツメさんが起きた場所から出た途端に湿気と暑さが同時に襲ってきた。少し歩いただけで汗が玉のように吹き出し、ぐるりと回ってから最初に見た雑踏へと出てきた。
「うわぁ…あれ、もしかして湖?」
ビルの足元にあった緑の向こうにきらきらと輝く水面を見つけ感嘆の声を上げた。綺麗な景色なのに道を行く人達はまるで目もくれない、勿体ないと思いながら開け放ったままの窓までやって来て室内にいるナツメさんに手を振った。僕を見たナツメさんが驚いて間髪入れずに怒ってきた。
「馬鹿!誰がそこまでやれって言ってんだ!すぐに戻ってこい!」
「え?!あ、は、はいっ!」
慌てて室内に戻って勢いよく扉を閉めた、閉めてみて分かったがこの部屋の中は適温に保たれているようだ。
「な、何でそんなに怒っているんですか…」
「どんな危険があるのかも分からないのに勝手に出歩くな!汗でびしょびしょじゃないか!」
「こ、これは外が暑すぎて汗をかいたんです!まるでサウナのような、不快な暑さでしたが……」
「何?サウナ?」
案外ナツメさんは余裕があるのかもしれない、サウナと聞いて反応している。
「出てみればすぐに分かりますよ」
室内に置かれた通信機器からタイタニスさんが呼び止めているがまるで聞いていない、扉を開いてあっさりと出ていってしまった。
[全く…少しは警戒ぐらいしたらどうなんだ]
「す、すみません…」
[湖があると言ったな、向こう岸は見えたか?]
「あ、いえ、そこまでは…後はティアマトさんの世界にもあった、でんしんばしら?みたいな物はありましたよ」
コンクリート性の柱を街の至る所に立てて、その上に黒い線を走らせているものだ。これのおかげで昔の人達は電話が出来たようだ。他にもでんちゅうと呼ばれる物もあるらしいが、見分けがまるでつかないので頭の中から追いやっている。
[となると…そこは過去の地球時代の街を再現しているのか…良く分からない奴だな]
「はぁ…誰のことを言っているんですか?」
[今はいい、ナツメが戻ったら作戦会議だ。そのナビウス・ネットの中からセキリュティにアクセスする場所を特定しなければならない]
通信機器の前から飛び退きもう一度窓の外を見やった。この雑踏の中から探せと?見えている範囲でも広い、さらにその向こうにも街並みは広がっているんだ、あまり現実的には思えない。
「あー…何か心当たりはありますか?」
[ない]
そこで扉が開いて、僕と同じように汗をかいたナツメさんが意気揚々と戻ってきた。びっしょりとかいたせいで衣服は体に張り付き下着も薄らと...
「テッド!この街はいいな!出歩くだけでここまで汗をかけるなんて!シャワーを浴びるのが楽しみ……テッド?」
「……したぎ、みえてます…ふくが、すけて……」
「?!」
「………」
「………」
[ナツメ?戻ってきたなら作戦会議だ、ぐずぐずしている暇はないぞ]
「ナツメ?」空気を読まないタイタニスさんの声が室内にこだました。僕はと言えば、これからナツメさんと同じ屋根の下で過ごさなければならないことに対する感謝と後悔の思いで潰されそうになっていた。
86.b
リニアの街はどうやら三階に分かれているらしく、私達が降り立った場所が一階として残りの二階が下へと続いている。二階目にあたる場所から、一階に作られた建物の地下にあたる部分が見えていた。初めて訪れたアマンナも感嘆の声を上げており、二言目には「良く落ちないね」とやっぱり現実的なことを口にしていた。
二階目にあたる場所は一階を支えている基板もあり全体的に薄暗い、二階目の基板を支えている馬鹿みたいに大きい支柱に反射した太陽光しか入ってこないためだ。
プロペラが壊れて飛べなくなったアマンナが私の胸の中で寛いでいる、見た目はただのドローンなので表情なんてものはないが、随分とゆったりした声音でガニメデさんに行き先を聞いていた。
[ここでの目星はついてるの?]
「とりあえずはもう一つの階層まで行ってみようかと思います、この街については殆ど調べきれなかったのですよ」
[ふ〜ん、秘密の街なのかな]
「そうなりますね、エディスン、サントーニ、ベラクル、モンスーンは支配していたマキナの名前から街の特徴まである程度は調べがついたのですが、この街だけは不思議と何も残っていなかったのです」
「ふ〜ん……」
「聞いていますかアヤメ、上ばかり見ていたら危ないですよ」
「いや…あの地下室に行ってみたかったなと思ってさ」
天井から地下室が突き出ているなんて今まで見たことも聞いたこともない、あの地下室から見たこの階層は一体どんな景色なのか、考えただけでわくわくしてしまう。冷たい目をしたガニメデさんの一言にそのわくわくは氷点下まで下がってしまったけれど。
「アヤメはあの配管を潜り抜けてまで見たいのですか?帰る頃にはきっと一生落ちない臭いが付いていることでしょうね」
胸の中に収まっているアマンナが「くひゃ〜い」と囃し立てたので軽くゲンコツをくれてやった。
「それよりも!さっきもらったしーでぃーはどうにかならないの?音楽が聴けるなら聴きたいんだけど!」
二階目の街並みはどこか第十九区を思わせる、凝った造りをしている家が沢山並んでいた。家の門、扉、窓の全ては曲線が描かれており、どこかメルヘンチックな印象を受けた。石畳の道も所々に花や動物の形に組まれており、惜しむらくは天井さえなければさんさんと降り注ぐ太陽の光で良く映えて見えたことだろう。
ガニメデさんも同じ感想を持っていたのか、残念そうな表情をして天井を見上げていた。
「……きっと、ここが本来の街並みなのでしょうね、上の階は後付けで作られたのでしょう」
[下の階もつぎはぎ?]
「どうだろうね」
他愛のない会話を続けながら、曲がりくねった道を歩いていく。
◇
建物の屋根から何度かピューマが顔を出し、警戒している風だったので鳥さんから貰ったしーでぃーを見せてあげると、何事もなかったように頭を引っ込めていった。
屋根が三つ並び、軍事基地の兵舎並みの長さを持った大きな家を通り過ぎたあたりで、リズムに乗った音楽が耳に入ってきた。その音はとても小さく微かなメロディだ、辺りを見回してもどこで演奏しているのか分からない。
「ん?何か聞こえませんか?」
「誰かが演奏してるのかな」
[そう?これってCDの音楽を誰かがかけているんじゃない?]
「アマンナ!辺りを調べてって、飛べないんだっけ」
「全く…」
[何でため息吐かれてんのわたし]
大きな家の周りには、変わらずメルヘンな家々が並び庭を区切っている白い柵がどこまでも続いている通りだった。ここは支柱に近いおかげか明るく、家の入り口にかけられた表札まで見ることが出来た。表札にはしーでぃーの曲名と同じ英語で書かれていた。
音の方角を確かめるため目を閉じて耳を澄ましてみる、天井から吹き抜けてくる風の音、それからガニメデさんの息遣い、ドローンのカメラが細かく動く駆動音、そして後ろからぱきりと何かを踏み付ける音が聞こえた。
「?!」
「アヤメ!」
ガニメデさんは見ていたようだ、私を庇うようにして渡していた拳銃を素早く構えた。
「どぅどぅ、そう、怖がりなさんな、ここに人食いはいやせんさ」
「………?」
「え………」
「わてはここの番人さ、人紛いから頼み事をされただけ、付いて来なさい」
ある家の庭から顔を覗かせていたのは初めて見るピューマだった、それと人の言葉も話して私達を招いている。呆然としていた私達にもう一度振り返り、その重たそうな眉毛がふわりと宙に浮いた。
「何をしている、付いて来ないなら、置いていくぞ、わての気は短い」
「あ、はい…」
ガニメデさんが小声で猛抗議してきた。
「…付いて行っていいのですかっ、あんな得体の知れないピューマにっ、角は生えてるわ翼はあるわ尻尾が三つあるわっ、あれは絶対キメラと呼ばれるものですよっ」
聞き慣れない単語が出てきたので聞き返そうかと思ったが、
「はよせんか!さっさと付いて来い!」
本当に気が短いらしい、ガニメデさんがきめらと呼んだピューマが早速怒ってきた。
✳︎
今のわたしは全てを超越せし者。アヤメの胸、言わんやこの世のシャングリラと呼ぶべき胸の中で何をも見通し、何をも達観した気持ちであのへんてこりんなピューマを眺めていた。これが平時ならわたしも取り乱していたであろうが全く気にならない、それ程までにシャングリラが放つ抱擁感は偉大であった。
へんてこりんが庭を突っ切り開け放った扉を潜っていた。しかし一体どうやって扉を開けたのか、そもそもいつの間に現れたのか、わたしもくまなく辺りを見ていたのにまるで気が付かなかった。ガニメデがひどく警戒するのも分かるというものだ。
(いや!分からない!何せ今のわたしは超越せし者だから!)
「アマンナ?大丈夫?」
[え?!な、何が?!]
「いやさっきからカメラが動きっぱなしだからさ」
[な、何のことかな!ここはシャングリラ!]
「?」
「何を、している、はよう入らんか!」
[ひっ!]
「めちゃくちゃ怯えているではありませんか…」
何なんだあいつはぁ!何でそんな変なところで言葉を区切るんだ!いちいち怖いから普通に喋って!
「アマンナは怖いの?」
[こ、怖くない!あんな奴これっぽっちも怖くない!あんな幽霊みたいな登場の仕方をしたところでシャングリラは揺るがない!]
「はっはぁ〜…そうですかそうですか…アマンナは幽霊が怖いのですね」
[ガニメデだってさっきまでびびってたでしょ!]
「私は警戒すべきだと言っただけで怖くはありません。あんなのと比べたらあなたの人型機の方がよっぽど怖いですよ」
言い返したいけどそれどころではない、着々とアヤメの足が進んで今にも家の中に入ろうとしていた。アヤメも扉を潜ろうかという時に、ついにわたしの恐怖心が決壊しみっともなく声を張り上げてしまった。
[いやだぁ!おろしてぇ!]
「はいはい、ここもしゃぐりら」
「シャングリラです」
[やーだぁー!!]
◇
そんなに怖くなかった。へんてこりんの家の中は見た目とは裏腹にとてもナウい感じだった。壁の至る所にはポスターが貼られ、棚にはびっしりと本が置かれ、床には大量のアクセサリーが並べられていた。まるでフリーマーケットのような賑やかさでつい目が泳いでしまった。
「何ですかここは……」
「モールみたい」
「わての、コレクションだ、触るでない」
ドローンで良かった、間違いなく秒で触っていた。
へんてこりんはエントランスを抜けてさらに扉の奥へと入って行く、すると通りにいた時に聞こえていた音楽がはっきりと耳に届くようになった。どうやら発生源はこの家からだったらしい、アヤメも気付いてすぐに声をかけていた。
「この音楽はあなたがかけていたんですか?」
「………」
「あれ、あの…もしもーし」
「………」
ガン無視かよ、ドローンであることに後悔した。人型のマテリアルだったらコンマ一秒で成敗してくれてやったのに。アヤメも不思議そうにしてガニメデさんと目配せをしている。仕方がないとわたしがシャッターを連続で切った後、ようやくこちらを振り向いた。
「何だ、今のは」
「いや、アマンナのカメラなんですが、それよりこの音楽はあなたがかけているんですか?」
「そうさね、人間の置き土産、わてがここにいる理由」
「あなたは耳が遠いのですか?さっきも同じことを聞いたのですよ?」
「おぉおぉ、それはすまん、耳が言うことを利かなくてな、今は大丈夫」
何だそれ。言いながら垂れた耳をパタパタさせているのがまた可愛く見えて腹が立った。
エントランスと同じくらい物がたくさん置かれた廊下を抜けて、ようやくへんてこりんの本拠地にやって来た。円形の部屋の中央には寝床なのか、クッションやシーツが大量に敷かれてその周りには人形がずらりと並べられていた。壇状になった壁には一段ずつCDケース、それからDVDケースも並べられている。植木鉢を本立ての代わりにしているのでシャレオツな感じがして、壇の中央あたりに丸っこいCDプレイヤーが置かれていた。
「わぁ…凄い部屋ですね…」
(引きこもりにはぴったりの部屋だな)
「………」
アヤメは驚き目を丸くして、ガニメデは目を細めて物色していた。こいつは引きこもりのはずだから自分に合いそうな物を探しているのだろう。
へんてこりんが四本の足を畳んで寝床に収まった。そう、へんてこりんは馬なのだ、馬の胴体に翼が生えて額から一本の角を生やし、お尻から三本の尻尾を垂らしている。どうやって扉を開けたのか...
「あなたのお名前をお聞きしても?私はガニメデと申します、こちらがアヤメ、このドローンはアマンナと言います」
「ご丁寧に、わてに名前はない」
「名前がない?」
「そんなものいらんさ、名前に縛られてしまう」
「………どうして私達にコンタクトを取ったのですか?」
「これを、見せるためさ、人間に渡す役目を持っていた」
「うわぁ?!」
[ぎゃああっ?!]
「騒ぐでない!!」
いやだって!翼の下からにゅるにゅると腕が出てきたんだぞ?!驚くだろ!光沢のある腕が伸びて一枚のケースを取り出した。三本の指で器用に掴み、わたしのすぐ目の前に差し出した。その中にはCDではなく一枚の紙が入っていた。
「こ、これは…」
「はよう、せい」
見たところ何かが書かれたメモのようだ、胸に抱かれたわたしを超えてアヤメが矯めつ眇めつしているのが何となく分かる。
「……これは、えいごですよね…」
「見れば、分かるだろう、それが封じられた原因さ、これを伝えるよう、仰せつかっていた」
「何て…今の何て言ったのですか?」
驚いたガニメデがへんてこりんに聞き返したが、予想外の反応が返ってきた。
「だからぁ!そいつのせいで英語が失われてしまったって言ってんだよ!Did you understand?!」
「?!」
「?!」
[?!]
しわがれた声から一気に若返ったような声で、しかも煽られるような言葉が返ってきてまたしてもびっくりしてしまった。それに何気に英語まで使っている。
「……もしかしてあなたは、マテリアルだけではなくエモートまで合成されているのですか?」
「Close!合成ではなく同居だな!慣れちまえば案外快適だぜ、それよりその紙切れを読んでみろよ、どうして×××が英語を禁じたのか分かるはずだぜ!」
誰が、の部分が聞き取れなかった。
わたしの頭上でケースが開く音、それから紙切れの乾いた音が聞こえ、ガニメデが息を飲んでいるのが分かった。アヤメが訳してほしいと言っているがそれに答えず、わたしにその紙切れを見せてきた。
「……読んでみなさい」
そこには、こう書かれていた。
"There are no contraindications and pleasures like killing a family"
[…………]
「この言葉を残したのは…一体誰何ですか?」
「さぁねぇ、ただ重要なのはグラナトゥム・マキナが残したということだろ。この言葉は当時の人間達にかなりの影響を与えてしまって、快楽殺人なんてものが美徳とされかけた時代だぜ?crazy!」
「かいらく、殺人?何の話しをしているんですか」
英語が分からないアヤメは会話についていけないようだが、確かに、知らない方がいいと思った。
「この言葉を消し去るために……長い年月をかけて英語を削いでいったと……」
重々しく呟いたガニメデに応えたのは若い男の声ではなく、再び変わって悲嘆に明け暮れたかのような女の声だった。
「仰る通りです、プログラム・ガイアから依頼を受けた×××が英語の禁止を決定したのです…」
「……忌み語として、それを扱えば不幸になると謂れのない伝聞を流して」
「はい…長い年月を要しますが、最も確実性のあるやり方だと。しかし、いくつかの街はこれに従わず後世に様々な形として残していきました」
[それがここに集められた物なんだ]
「はい、音楽、映画、絵画、芸術的な物に英語を残していったのです」
「当時の人は、それ程までにマキナの支配を強く受けていたのですか?禁止にしたからと言って、何の根拠もない噂を信じるとは考え難いのですが」
「プログラム・ガイア管理の元、初めは恙無く統治が進んでおりました。しかしご覧の通り住処が無くなり始め、各街の間で人の移住が検討されましたが全ての街で拒否されてしまったのです、これを端に発して人同士が憎み合い果ては戦争にまで発展しました、人に代わってマキナがこれらを収め次第に神格化されていったようです」
「………」
「その折に、マキナが残した言葉が人の精神に深く食い込み善悪の垣根を泥へと変えてしまったのです」
身も蓋もない話しだった。しかしだ、まだ疑念は残る。何故、人の移住が拒否されてしまったのか、互いに同じ境遇であれば歩み寄りも可能だったのではと考えたが、次の話しで解消された。
「これらを領土問題と呼び、移住してきた人と元より住んでいた人とに住み分かれていたのも原因の一つとして挙げられます」
「それは何故ですか?」
「不明です、何故住み分けたのか、一切の記録が残されておりません。×××ですら知り得ない事なのです」
[元から喧嘩してたってことなんじゃない?]
「恐らくは」
[喧嘩した原因が分からないってことだよね?]
「はい、×××からもし人が訪れるようなことがあれば一切を話すようにと言われておりました。最後までご清聴ありがとうございました」
ん?ん?何だその最後の挨拶は、わたしもガニメデも黙っていなかったし質問したじゃないか。
さっきまでの重々しい空気も柔らぎ、最初に話しかけたへんてこりんがまた戻ってきた。
「むつかしい話しは、若いのに任せた方が良いと思うてな、いやいや、すまん」
頭上から「後でちゃんと説明してね!」とアヤメに釘を刺された。
(説明した方がいいのかな…この話し…)
大変癪だが、後でガニメデに相談しよう。
✳︎
この生き物はリニアが放棄されてもなお残り続け、その後に起こったピューマへの虐殺行為からも逃れていたらしい。ここに集まったピューマ達は人に怯え、そして隠れ住んでいた者達だった。
(一括統制期時代に起こった領土問題、それからあるマキナが残してしまった言葉を忘却させるために英語を禁止し、分割統制期へと突入した。そこでは五つの都市に分かれてマキナが支配し、領土問題の禍根が元となって起こる戦争を宥めていた。挙句にマキナが代理で戦うようになり、住処を無くした、あるいは捨て去った人々がメインシャフトに移住を始めた、緩やかに終焉を迎えた分割統制期の後、私とグガランナ様が同時期に生まれ今に至る…)
先程聞いた話しと、今まで調べあげた事を頭の中でまとめているととても陽気な音楽が聞こえてきた。キメラ(呼び名がないから仕方ない)に渡されたクッションをお尻に敷いてうんうんと唸っていた私はくるりと後ろを振り向くと、壇に置かれた時代遅れも甚だしいCDプレイヤーの前にアヤメが立っていた。
「便利ぃ…」
「いやいや、お前の街にもあるはずだぞ?お前はどこから来たんだ、石器時代?」
「街にいた時はあんまり興味がなかったから、いつもはネットから直接聞いてたし」
「そっちの方が便利だと思うけどな、老いぼれがこれを手放そうとしないんだよ!」
またキメラの中身が入れ替わっているのか馴れ馴れしい男の声がアヤメに使い方をレクチャーしていた。使い方を教わったアヤメが早速渡されたCDをかけたようだ。
「…………」
アップテンポのメロディで、ハスキーな女性が力強く歌っている曲だった。歌詞の内容としては、こんな町からさっさと出て行こう!みたいな、悪口と希望が混ざり合った何とも人間臭いものだった。綺麗事よりもガソリンを、他人への批判よりも路銀を稼げと逞しく歌っていた。
使われているのは勿論英語だ、アヤメには何を言っているのかまるで分からないだろうが言語は関係がなかったらしい、放心したように聴き入っているアヤメの頬は薄らと上気して感動しているのが見て取れた。曲のメインとなる歌詞を何度も歌いながらフェードアウトして終わった後、
「何これっ、すっごくいいっ!」
「そうでしょうか…私はR&Bよりもこちらの方が…」
いつの間に、いや外見は何も変わらないのでころころとエモートを変えられてもまるで見分けがつかない。
「そんなのいいからっ!他にもないですか?というかこの人の曲は他にもありますか?!」
「少々お待ちを…確かこのあたりにオムニバスが……」
クラシック・ジャズのCDを勧めたがすげなく断られ、それでも気にした様子もなくいそいそと頼まれた物を探している。足元に置かれた(というより放置されている)ドローンが何度もシャッターを切っていたので二人の邪魔をしないようにそっと抱え上げた。
「可哀想に……」
[何でやねん、わたしはガニメデに用事があったの、ちょうどいいから部屋から連れて行ってくれる?]
私に用事とは...珍しいこともあるものだ。
アヤメは新しい曲をかけてもらい、唸りながら聴き入っている、余程気に入ったらしいその姿を横目に入れながら部屋から出て行く。廊下を渡り、玄関先に戻ってきた時に棚に自分を置けとアマンナが言ってきた。
「このまま忘れてしまいそうですね、とても馴染んでいますよ」
[本当に忘れて置いていったら地獄の果てまで追いかけてやる]
「人型機に戻ればいいでしょう……」
[それもそうだ]
おほんと一つ、偉そうに咳払いをしてから話しを切り出した。
[さっきの言葉についてだけど、アヤメにも伝えた方がいいと思う?]
「何故躊躇うのですか?」
言葉の内容は、同族を手にかける程の禁忌と楽しさはない、といった内容だった。誰が言ったのか残したのかまるで分からないが、道徳心はなく己の欲求と善悪の板挟みにあっていたに違いないことは伺いしれた。禁忌と知りながらもやめられない、それ程までに惹きつける何かを臭わせる言葉は確かに残すべきものではなかった。
しかし、私の言い分は別だ。
[これを伝えるのは寝た子を起こすようなものでしょ?知らなくてもいいことをわざわざ知るメリットがない]
「真実を知らずに生かされること程辛いものはありません。真実というものはその良し悪しではなく、これからの道を決める判断材料に他なりません」
[………]
ドローンだというのに、真剣に耳を傾けている気配というものは伝わるのだなと頭の片隅で感心してしまった。けれどまだまだ言い足りない。
「「その」事実を知っているかいないかで大きく変わってきます。アヤメが「その」事実を知った上で何を成すのかは彼女が決めることであって、私達がふるいにかけていいものではありません」
[………]
「相手を想うがあまりに悩む機会を取り上げてしまうのは優しさではありません、それは傲慢というものですよ、アマンナ」
[分かった、アヤメにも伝えよう]
すんなりと引き下がったことに少し驚いた、てっきり口答えするかと思っていたからだ。
「…よろしいのですか?あなたの言い分にだって理はありますよ」
アマンナの返事を聞いてドキリとした。
[わたしが躊躇したのはアヤメに嫌な思いをさせたくなかったから、ただそれだけ。ガニメデの言い分は厳しいけどこれからアヤメのためになる理屈だと思った、だから伝えようと思ったんだよ]
「………」
[聞いてんの?]
「あ、はい…聞いています」
不覚だった、あんなに腹を立てていた相手が私の反論を認めてくれるだなんて夢にも思わなかった。それにアマンナは自分の思いがどこからきているのかきちんと理解し、そしてどちらがアヤメの為になるのかと判断した。アマンナの判断基準は己が全てであるように見えて、その全ては他者に向けられていたのだ。何という精神性であることか、まるで聖職者のような潔さだった。
最後の抵抗だと思い、なけなしの自尊心で文句を言ってやった。きっとこれが最後だ。
「…あなたのその姿があまりにもこの場に相応しいので置いていこうかと悩んでいました」
[何だそれ、人が真面目な話しをしてるのに…あ、今のわたしはドローンだった]
あはははっ!そう笑うアマンナの自虐ネタはちっとも面白くなかったが、屈託なく笑うその声にようやく救われた思いになった。
私が今まで悩み苦しみ積み重ねてきた価値観を、アマンナがいとも簡単に認めてくれたのだ。ただそれだけのこと、そう言われたらお終いだが、ただそれだけのことで人は救われるのだと心から思い知ったのであった。
86.c
じめじめ、じめじめ、じめじめ...湖岸沿いに植えられた木の下で休憩を取っていた。日陰に入っているのにまるで体感温度が変わらない、こんな事は初めての経験だった。目を覚ました時と比べて日差しは弱くなったが、肌にまとわりつくような暑さはその不快さを増したようで、着替えたランニングシャツが体にへばり付いていた。
(暑い…)
あの仮想世界でも景色に彩りを与えてくれたセミの鳴き声は今となってはただ鬱陶しい、あの涼しい部屋に早く帰りたかった。
(ナツメさんは…まだ帰ってこないのかな…)
並木通りとちょっとした植え込みを挟んだ向こう側は、思いやりを忘れてしまったドライバーが運転する車が行き交い騒々しい。通りを歩く人混みの中にキャップを被って颯爽と歩くナツメさんを見つけた。これでようやく帰れると思った矢先、僕が座っていたベンチをそのまま通り過ぎて行った。
「ナツメさぁ〜ん…まだジョギングするんですか…」
僕の独り言は誰に聞かれるでもなく宙を漂い、曇り空へと昇っていった。
◇
「いやぁー!さいっこうだなぁ!ここへ来る時はどんなもんかと思ったけどこんなにシャワーを浴びるのが楽しみになるなんて!」
ぷはぁっとグラスに入った水を飲み干して満足そうにしている。濡れたままの髪も乾かさず、肌着一枚短パン一枚の姿で仁王立ちになっているナツメさん、僕の視線は自然と露わになっている素肌に吸い寄せられてしまう。
一回目の探索はナツメさんが気持ちよくジョギングしただけで終わってしまった。この仮想世界がどこまで広がっているのかあたりも付けられない、少し歩いた先には路面電車なるものが車と並走しているのを見つけ、いよいよ分からなくなってしまった。
[満喫しているのは良いことだが、目的を忘れた訳ではあるまいな?]
通信機器からタイタニスさんが釘を刺してきたけど、ナツメさんはまるで気にしていなかった。
「なぁに、サーカディアンリズムを弄られているんだ、一日二日と遊んだところでそう変わるまい」
[あまりに羽目を外すようであればナツメ、お前だけ帰還させる他にないぞ]
「ところでお前の方は何か分かったのか?」
「ぶふっ」
まるでアマンナのような変わり身の早さ、その可笑しさに思わず笑ってしまった。僕の小さな笑い声を聞き逃さなかったナツメさんがヘッドロックを決めにきた!
[発見はなかったが…近くに塔のようなものはあるか?]
「塔?それは建物の事だよな?」
(あー!あー!な、ナツメさんのっ!)
細い腕が僕の首を捉えて離れない、石鹸の爽やかな匂いと後頭部が柔らかさに包まれてパニック寸前だった。
[そうだ、奴に関連したものなんだが…そこに行けば何か分かるかもしれん]
「塔、ではないが円筒形のグランドホテルならすぐ近くにあるぞ」
[休憩が終わり次第向かってくれ、しっかりと用心しておけよ]
「あぁ、帰ってきたらすぐに連絡を入れよう」
通信を終えた後ようやく解放してくれた。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
「お前も浴びてこい、少しはその失礼な頭も冷えるだろう」
「は、はい…」
ナツメさんの言い回しにもいちいちドキドキしてしまい、出入り口とは反対にある扉へと向かった。右手と左手に一つずつ扉がありそれぞれキッチンとトイレになっている、そして廊下の突き当たりにシャワールームがあり所々濡れていた、ろくに体も拭かずにナツメさんが歩いたせいだ。ナツメさんが浴びたばかりのシャワールームで今度は僕が浴びる、たったそれだけの事で気が動転してしまい扉を開けて入ってすぐに置かれたカゴの中身が一瞬何なのか分からなかった。
「?!」
え...これ...嘘でしょ、ここまで再現する必要あるの?ここに僕が脱いだ服を入れないと駄目なの?それはただの冒涜なのでは?
「あー!!」
とにかく叫びながらカゴを蹴飛ばし視界に入らないようにしたが、壁に当たってカゴがひっくり返り中に入っていた女性物の下着が散乱してしまったあたりでシャワールームを飛び出した。
◇
(同棲って大変なんだな…)
調査どころではない、同じ屋根の下で過ごしてまだ半日も経っていないのにこの体たらく。セキュリティへのアクセス方法を探すことよりもどうやって夜を迎えるべきなのか、そっちの方が切実だった。
シャワーは一日の終わりでいいと無理やり言い切ってから再び外へ出かけた。今度の目的は湖岸沿いにある大きなホテルだ、並木を楽しむように作られた遊歩道の先にホテルの入り口があり、何台かの車が僕達を追い越し通り過ぎていった。
「大丈夫か、お前」
唐突に声をかけられてドキリとしてしまった。今のナツメさんは動きやすさ重視の服装で、半袖のプルトップパーカーにスキニーパンツを履いていた、おそろしく様になっている。
「な、何がですか?」
「こっちに来てから様子が変だ、いつもの調子ではないだろ」
「あ、当たり前じゃないですか、ナツメさんとずっと一緒なんですよ?」
「え?」
ナツメさんが歩みをぴたりと止めた、僕達の後ろを歩いていた夫婦らしき二人組が何でもないように避けて先を行く。
「え?ずっと一緒?」
「違うんですか?」
「お前まさか、本気で寝泊りするつもりだったのか?」
「…………え?」
「頃合いを見て向こうに帰ればいいだろう、何も本当にこっちで生活しなくてもいいんじゃないのか?」
「……………」
✳︎
さっきまであんなに可愛い反応をしていたのに...やってしまった。あいつがあんなにおどおどしていたのは私と寝食を共にするつもりだったんだな。顔を見なくてもその背中で不機嫌になっているのが良く分かった。
「おいテッド、何処へ向かうつもりなんだ、闇雲に探しても見つからないだろ」
「この世界のマキナは塔と関係があるのですよね、最上階に行けば何か分かるかもしれませんよ」
「そんな安易な考えで…」
「そうですね、まるでさっきの僕のようです」
「………」
私より少し低い位置にあるテッドの後頭部を見ながら後を追いかける。ホテルのエントランスは高い吹き抜けとなっており途中四階程まで見えていた、床は全面えんじ色のカーペットが敷かれて機嫌の悪い足音をいくらか消してくれていた。
このホテルのエレベーターのフロアに到着した、全部で六基、ちょうど正面にあるエレベーターの扉が閉まろうとしていた。
「テッド?!まさかお前っ!」
気付いた私を置いていくように走り出し閉まり切る直前にエレベーターの中へと駆け込んだ。私が走り出した時にもう遅く、エレベーターはテッドだけを乗せて上がっていった。
「あいつ…これじゃどこで降りたかまるで分からないじゃないか…」
葉の細い観葉植物の少し前で立ち止まり、テッドを乗せたエレベーターの表示盤を見上げながら独りごちた。最上階に行くとは言っていたが、この手の建物はエレベーターが分かれているはずだった。すぐ隣にあるエレベーターがこのフロアに到着し乗っていた人が出て行った後に乗り込んだ。とりあえず三十五階行きのボタンを押して壁に背中を預けて一息吐いた。
(私なんかに…あそこまで緊張する必要があるのか?)
他部隊にいたあいつを助けたあの日から私を慕い、挙句に転属までして下に付いてくれた。願ってもない人材だと当時は感謝したことを覚えている、そして女として私を見ているあいつの視線に困惑したこともだ。正直に言えばあまり実感がない、尊敬と好意が入り混じっているだけだろうと高を括っていたのも事実だ。だが、あいつは私から決して離れようとしないし他の仲間を見捨ててまで助けてくれた。その思いに応えるのは恋愛関係でいう好意なのかと首を傾げ、今まで通りに「隊長」として接してきたのはただの逃げだろうか。
「はぁ…分からんなぁ…分からんが…」
私の態度が不味かったのだけは分かった。あいつは私と寝泊りすることに悩んで緊張までしていたのだ。それに対して私はと言えば...
エレベーターが到着し扉が音もなく開いた、その先に見た光景にテッドを怒らせてしまったことも忘れてただ見入ってしまった。
86.d
私の目の前に高い、高い、塔が描かれた絵画があった。その大きさを表すために手前にはまるで玩具のような建物も描かれ、これで三十八階建て、地上百三十三メートルもあるんだそうだ。
昔の曲を堪能した私は他にも色々見てみたいとお願いして家の中を案内してもらっていた。使われている言葉は古代語で良く分からないものが多いが、それでも直情的と言えばいいのか何もてらわず良いも悪いもありのままに表現する昔の美術品には惹かれるものがあった。
「…この絵は風景画で、実際の景色を描いたものなんです」
「ふ〜ん…」
「興味はありませんか?やはり分かりやすい曲の方が好みのようですね…」
「え?!いやいや、そんな事ないですよ…」
あはははと愛想笑いをして逃げを打った。
子供部屋ぐらいの少し小さい室内に置かれた絵画を見やっていると、開けたままにしてあった扉の向こうからガニメデさんが私を呼んできた。どうやらさらに下へ向かう階段を見つけたらしい。
「この下はどうなっているんですか?」
「その目で確かめてみてください、きっと気にいる…………」
重そうな眉毛に隠れた瞳が激しく揺れ開きかけていた口を閉じてしまった。
「……?どうかしました?」
「ちと、疲れたようだの、喋り過ぎたのかもしらん」
またエモートが変わったようだ、私もあれやこれやとアマンナのように質問責めにしていたので少し気になる。
「大丈夫なんですか?」
「あぁあぁ、気にせんでええ、ほれ、はよう行きなさい、もうここにおらんでええ」
「アヤメ?何をしているのですか、早く行きましょう」
ガニメデさんが顔だけ覗かせてきた。
「あぁうん、色々とありがとうございました」
「あぁあぁ、わてらも楽しかったぞ」
また翼の下から腕を出してにゅるにゅると振ってくれている、私もそれに返してから部屋を出て行こうとすると勢いよく倒れる音が聞こえてびっくりしてしまった。後ろを振り向けば、さっきまで手を振ってくれていたきめらさんが床に蹲っていた。
「え?!だ、大丈夫ですか?!」
「もう何なのかしらこの生き物は…」
[大丈夫じゃない?マテリアルを止めただけっぽいけど…]
ガニメデさんの胸に収まったアマンナの言葉を聞いて、一応は落ち着いたけど...
[もしかしたら、私達のためにわざわざマテリアルを起動させたのかもしれないね]
✳︎
「何かご用でしょうか…」
「………」
目の前には真っ黒の髪を長く伸ばし、前髪に瞳を隠した女性が立っている、それも突然のことだったので返事も出来ずにただ突っ立っていた。あの仮想世界でお祭りの時に皆んなが着ていた、浴衣に似た服の裾を引きずりながら一歩前に踏み出している。
「…聞こえていますか?それとも私の声は聞き取りにくいですか?」
「あ、い、いえ…あの、あなたは?」
「ここを任されている者です…」
「えーと…急にお邪魔をしてすみません、実は用事があって…」
ここは結婚式場のような広い場所だった。豪華なクロスが敷かれたテーブルがいくつも並び、天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされていた。ガラス張りの向こうには広大な湖が広がり、さらにその奥にある遠近法が狂ってしまったような塔を見つめていた時だった。ここは仮想世界で基本的に話しかけてくる人はいないという話しだ、声をかけられた時は悪いことしてしまっているような、咎められたような気分になってしまっていた。
「用事とは…一体何ですか?」
「その…ゲートのセキュリティプログラムにアクセスをして閉じたいのですが、どこにあるのか分からなくて、ですね…お邪魔させてもらっていたんですが」
「…何故、そのような事をされるのですか?開く扉をわざわざ閉めるのは良くない事だと思います」
う、確かに...きちんと説明すべきなんだろうけど、どこまで話すべきなのか判断が出来ない。けれど、この女性は今の話しだけで通じたのだ、関係者として見ていいのかもしれない。どう答えようかと頭を捻らせている間にも女性はすり足で近寄ってくる、その行動が何故だかとても不気味に見えて僕もそれに合わせて後退していく。
「何故、逃げるのですか?……何かやましいことでもあるのですか?」
「い、いえ!そうではなくてですね、あなたの方こそどうして…その、寄ってくるのですか…」
思わず手も上げてしまった、だって向こうが手を上げて構えてきたからだ。静かな人だと思っていたのに今や口を小さく開けて荒く呼吸までしている。普通ではない。
「はぁ…はぁ…それはですね…あなたが夢にまで見た可愛い男の子だからぁ!!」
「ぎゃあああっ!!!」
鼻息混じりの話し声から叫び声に変わり、間髪入れずに掴みかかってきた。咄嗟の出来事に叫び声しか上げられず簡単に捕まってしまいぐいぐいと胸に押し付けられてしまった。
「あぁー!生きてて良かったぁー!」
「離して!離してください!誰かぁ!!」
腕の力が半端なく強い、僕より一個分高い頭からはぁはぁと聞こえてくる。身の毛のよだつ恐怖が襲い金縛りにあったように体が動かなくなってしまった。
「大丈夫…大丈夫!すぐに終わるからね!少し待っててね!」
「嫌、嫌だ!何をする気だ!いいから離せっ!」
背中を撫で回され、僕のおでこに鼻を押し付けて深呼吸まで始めてしまった。
(何なんだこの人はぁ!)
恐怖が怒りに変わってきた時に式場の入り口に呆然と立っている二人組を見つけた、一人は見たことがない男の人と、もう一人はナツメさんだった。
「テッド……」
「?!!」
「誰?!私とこの子の邪魔だけは許さないわ!!」
「はいはいいいから、さっさとそいつから離れろ」
本当に離さまいとぐいぐい押し付けてくる、男の人が僕の首を決めている腕に触れた途端、簡単に外れてしまった。
「Keep it in moderation」
「ネットからそのまま翻訳したような英語なんかよりこの子の悲鳴が聞きたいのっ!」
「ひぃっ!!」
「お前もいちいち怯えるな、こいつの思う壺だぞ」
「あぁ…可愛い…さっきの子も良かったけど…あなたの方が何倍も可愛いわ……」
「さ、さっきの子…?」
もう既に犠牲者が?男の人が被りを振りながら女の人の首根っこを捕まえた時に入り口に立っていたナツメさんが凄みを利かせて歩いて来た。
「そろそろいいか、本題に入りたい」
「場所を変えよう、ここより上の方がよく見えるだろ、The tmpest cylinder!」
今何て言ったの?テンペスト・シリンダーって言ったの?何が何やら、けれどナツメさんはどこも乱暴された様子がなかったので安心し、背中に隠れるよう逃げ出した。後ろからまだ女の人が何事か叫んでいるがあまり耳に入れないようにしてナツメさんに隠れた。
「………」
ナツメさんに声をかけようかと思ったが結局何も言えずに黙ってしまった。だって、さっきはあんなことをしてしまったんだ、どの口でお礼を言えばいいのかと考えあぐねていると男の人が先導して式場から出ていった。そのあとをナツメさんが追い、僕もその背中を追いかけた。
◇
「事情はよく分かりました…中層では問題が起こっていたのですね…」
嘘臭い...今さらそんな喋り方をしなくても...
「ゲートを閉じるだけなのか?」
「タイタニスからはそう聞いている」
「出来ないことはないが…俺達だけでは何ともだな。話しは出来るが判断は出来ない」
虎視眈眈と狙っているのがよく分かる、会話よりも相手の気配の方が気になって仕方ない。
「なら、そのマキナに頼めるか?無理を言っているのは良く分かっているつもりだが、下層を壊される訳にはいかないんだ」
男の人と女の人が目配せをしてから、
「Yes!いいぜ、少しここで待ってろ、今こっちに向かってるってさ」
「助かるよ」
声音は普通だ、見ないようにしていたナツメさんの顔に視線を向けると震え上がってしまった。
「…何でしょうか、もうおいたはしないと約束したはずですよ」
女の人を見る目がまさしく絶対零度、横から見ている僕ですら凍えてしまう程、冷たい目をしていた。それを受けてあの笑顔が出来る女の人もどうかと思うがここまで怒っているナツメさんは初めてだった。
ふっと視線を逸らして窓向こうにやった、それに僕も続いて見やるとやはりスケールがおかしい塔があった。
「あれは何と言った?テンペスト・シリンダーと言ったのか?」
「それ以外何に見える、あれこそが今俺達がいる大地だろう」
そう...なのか?僕がアヤメさんから聞いた話しでは、昔の地球でいうところの都市一つ分の大きさはあったと聞いたことがある。けれどあの大きさは都市一つどころではない、ホテルの足元から広がる湖は地平線の彼方に消えて見えなくなる程大きいというのに、見えている塔の両端が視界に収まらないのだ。小さな雲の群れが通り過ぎているその背景は青空ではなく鋼鉄の壁、何かの間違いだろうとしか思えなかった。
「もうそろそろ………お前が先に行け、俺は後から追いかける」
「…分かりました」
「?」
「?」
「いや何、気にするな、ちょいと様子を見てこいと言われたんだよ」
「どこの?」
「向こうだよ」
※次回 2021/7/2 20:00更新予定 もう少しお時間頂きます、これ以上は延ばしません。