閃光・上
とある孤児院で過ごす、五人の子供達が遭遇した一幕。
1.第二区(Awakening)
カーテンの隙間から差し込んでくる光で目が覚めてしまった。体はとても重たく眠る前の疲労が取れたようには思えない。いつ交換してもらったのか、忘れたほど長く使い続けている固い枕がしっとりと濡れていた。寝ぼけた頭で鼻を近づけて嗅いでみても、臭くはなかったので涎ではなくおれの涙だろう。
そのままごろんと、固い枕に頭を預けて薄暗い天井をぼうっと眺めた。いつもの癖で、今日はどんな夢を見たのか思い出そうと記憶の中に残った残滓をたぐり寄せていると小さな女の子が二人、何の前触れもなく浮かんできた。とても懐かしいような、切ないような、記憶と経験が一致しない夢特有の感情が、まだ覚醒し切っていない胸の内に湧き上がってきた。
(大丈夫、だったのかな……)
自分でもよく分からないが何か心配させるような事でも夢の中で起こっていたのだろう。そこでまた、一度も行ったことがない古い家が頭の中に浮かんできたところで、遠くから扉が勢いよく閉まる音が微かに聞こえてきた。固い枕から頭を上げて少し明るくなった自分の部屋を見回した。この街では珍しい本棚には所狭しと紙製の本が背表紙の高さに合わせて並べられ、机の上には「不採用通知」と頭にくる文字が書かれたペーパーブックが何枚もあり、床には昨日帰ってきて放り投げたバッグが無造作に置かれていた。
この孤児院は比較的綺麗だと、まだ夢現とした頭で思った。前に住んでいた孤児院は木造で今みたいに誰かが走って来るとよく音が伝わったものだ。
おれの部屋を無遠慮に開け放ち朝から喧しい声で挨拶をしてきた。
「起きろぉー!!」
「起きてるよ……うるさいな……」
わざわざ走って起こしにきたのは、おれより五つ年下のアカネだった。長い茶色の髪と勝気な眼差しはおれとは全く違う、目元にあるほくろを弄るとすぐに怒ってくる。
「というか、勝手に入ってくるなっていつも言ってるだろ」
「何それ、わざわざ起こしに来てあげてるのに、いいから起きて!朝ごはんが食べられないでしょ!」
「こんな早くに誰が食うんだよ…ちょっと!こら!」
アカネが問答無用と言わんばかりに、バレないように隠しているのにシーツを剥がしにかかってきたので慌ててしまった。部屋の入り口には止めようか入ろうか、二の足を踏んでいるルリカが立っていた。真っ黒のツインテールは起きたばかりとは思えない程綺麗に整えられていた。
藁にもすがる思いで年下のルリカに助けを求めた。
「ルリカ!止めて!」
「あぁ、うん!アカネだめ!」
「違う!言葉じゃなくて物理で止めて!」
すがった藁があまりにも恥ずかしがり屋のためにアカネに侵入を許してしまった、ベッドに上がり込み体を起こしただけのおれの膝上に跨ってみせた。アカネの膝丈のスカートがめくれて、細く柔らかそうな太ももが大胆に露出している、それにちらちらと...
「アカネ!頼むからやめてくれって!起きるから!」
「そーらそーら!早く起きないエフォルが悪いんだよー!」
アカネの温かい体温がおれの足に伝わり、意識がそちらに集中しかけた時に剥がされまいと掴んでいた力が緩んでしまった。後はいとも簡単にシーツをアカネに奪われてしまい、隠していたモノが露わになってしまった。今頃...今頃!部屋に入ってきたルリカ同様、あんなにおれの足の上で、はだけだ衣服に気も払わずに騒いでいたアカネもある一点を凝視したまま固まってしまった。そして二人ともみるみる紅潮していく。
「なっ、なっ、なっ、なっ」
「………………………」
「おれは悪くないからな、生理現象に文句を言ってくれ」
もう見られたからにはどうしようもないと、開き直ってみせたが二人にはおれの言葉が届かなかったようだ。ルリカは手で顔を覆ってはいるが指の隙間からしっかりと見て、アカネは正気に戻っておれの太ももあたりを殴りながら文句を言ってきた。
「へ、へへ、変態!何てもの見せるの!」
「いいからどけって、パンツ丸見えだぞ」
「きゃああっ!!」
ようやく自分の姿に気付いたアカネが悲鳴を上げながらベッドから飛び降り、まだ見ているルリカの手を取って部屋の出口へと走っていく。
「い、い、言いつけるから!へ、変態エフォル!」
「……………」
まだ見てるぞルリカの奴、実は知っててタイミング見計らってたんじゃないのかと邪推してしまう程の凝視っぷりだ。
入ってきた時と同じぐらいの勢いで扉が閉められ「ファラぁ!ファラぁ!」と叫びながらアカネが走って去っていく音が部屋にも届いてくる。しんと静まり返った部屋には奪われて床に投げ捨てられた、おれのために体を張って隠してくれたシーツと、その下には色鮮やかな文字が書かれたペーパーブックが落ちていた。どうせまた何か落書きでもしたのだろうと、とくに拾おうともせず再び固い枕に頭を預けて二度寝を始めた。
...昨日は、というか今日の深夜まで働いていたんだ...これぐらいの我儘は別にいいだろうと、誰に詫びるでもなく言い訳をしながら、安らぎとともに薄れつつある意識をもう一度夢の世界に旅立たせた。
◇
幸か不幸か、おれが両親を亡くしたのはうんと小さな頃にビーストに襲われてしまったからだ。そのせいもあって家族と過ごした記憶がなく、その分悲しみを感じたことが一度もなかった。ファラ院長に自分の出生を教えられるまで顔も違う、性格も似ていない兄と姉、情けないおれなんかに慕ってくれる妹二人に囲まれた生活が当たり前なんだと思っていた。通っていた学校も孤児院から集められた子供達が中心だったこともあり世間との違いに自分から気付くこともなかったのだ。
別にこれでファラ院長を恨んだりはしていない。どうして今まで黙っていたんだという怒りもなかった、むしろ何故教えてくれたのかと、今より小さい時分に疑問にさえ思ったぐらいだった。ただ、教えられてからはよく悩むようになった。亡くなった家族に対して悲しみを抱かない自分は薄情な奴なんじゃないかと、アイエンにルメラ、それからアカネにルリカ、この四人がビーストに襲われたらと考えただけで足が竦んで胃がひっくり返りそうになってしまう恐怖を感じるというのに、おれを生んでくれた家族に対して何も感じないのだ。この事をある日、アイエンに打ち明けたら、「何だ、お前もか」とあっさり返されたことがあった。抱えていたわだかまりのような黒いもやは薄れてしまい、悩むことは少なくなったが今でも考えるのだ。
「おはよう、アカネ達に何かしたのか?」
「おはよう、何もしてないよ、生理現象を見られただけ」
「よっぽど大きなテントを張っていたんだろうな、顔に似合わず良いもの持ってる」
「………」
「おいおい、無視するなよ」
本当におれと同じように悩んでいたのか、と。
二度寝をしても疲れが取れない体を無理やり起こし、家、というよりどこか公共施設さえ思わせる無機質な廊下をよたよたと歩きダイニングへやって来ていた。大きなテーブルの上には一食分だけ残されて他の皿は全部片付けられていた。先に食事を済ませていたアイエンが、いつもの角席におれが腰を下ろした時に挨拶と、いつものように応答するのが面倒くさい冗談をかましてきた。
日に日に少なくなっていく朝食をフォークで突き、疲労と空腹で空っぽになっていたエネルギーを頭に回した後ようやく答えた。
「見たことないだろ」
「ん?何の話しだ?」
ぶっ飛ばしてやろうか。
アイエンは垂れ目にツンツンヘアー、わざわざ朝早くに起きて垂れ目と同じように垂れ下がった髪を丁寧にセットしている。同じ年のルメラに毎朝のように馬鹿にされているのに止めようとしない、一度理由を尋ねた時「髪型ぐらい男らしくないと馬鹿にされるだろ?お前と違って俺はカッコよくないからな」と愛想笑いが関の山の返事が返ってきたことがあった。黙っていれば良い奴なのに、とにかく何かしら冗談を言わないと気が済まない性格らしい、本当に損をしているなと何度思ったことか、口に出したことはないが。
少し物足りなさを感じつつも食事を終え、アイエンが入れてくれた水で乾いた喉を潤していると、やれやれといった体でおれに視線を寄越してきた。
「仕事に精を出すのは良いことだが、寝坊は良くないぞ、後でアカネとルリカの所に行ってこい」
「何で、今日何かあった?」
「何かって……ファラの誕生日だろう、忘れていたのか?」
「え」
「忘れていたんだな、今日は皆んなで街へ買い出しに行こうって話しをしていたんだよ」
「それであんな早起き……その話しいつ決まったんだ?」
「昨日の夜だ」
「仕事でいないし」
「扉に貼ってあっただろう?見てないのか」
あれ...あのカラフルなペーパーブックはアカネ達が持ち込んだものではなかったのか...
「見た……ような気がする、でもない」
「はぁ…後でファラにもお前に端末を持たせるように話しをしておくよ」
「いいよ金かかるし」
「駄目だ、今の状態を見ていると信用出来ない、俺もルメラも持っているんだ、お前も持て」
「アイエンが出してくれるなら……」
「お前は一体何のために働いているんだ?自分に使わなければならないお金は遠慮なく使え、ケチるのは良い事だが周りに迷惑を掛けてまですることじゃないだろ」
正論。
おれが入ってきた扉とは違うところから、ばっちりおめかししたルメラがするすると入ってきていた。まるでアイエンに気付かれないよう、忍び足でテーブルに近付いてきて説教していたアイエンの後ろを通りかかった時、丁寧にセットしたアイエンの髪の毛を無造作に掴んでぐちゃぐちゃにしていた。慌てたアイエンが振り払ったが時既に遅し、見るも無残な髪型に変わってしまっていた。
そのまま何事もなかったようにアイエンの隣に座ったルメラが挨拶をしてくれた。
「おはようエフォル」
「おはようルメラ、少しスッキリできたよ」
「だと思った」
肩まで伸ばした髪をおでこできっちりと分けたルメラは一番大人びている、服装も相まって社会人にしか見えない。あまりころころと表情を変えることはないけど、薄らと目を細めてゆっくりと笑う仕草は昔から好きだった。れ、
「あの子達を恋愛対象として見るにはまだ早いんじゃないかな?」
...んあい対象としてではなく。とんでもないことを口にしたルメラのせいで思考が停止してしまった。何も言わなくても、身の回りのことをやってくれるアイエンが入れてくれた水を一口飲んでから、凸凹にデザインされ持ち易いのか持ち難いのか微妙なコップをテーブルに置いて、ゆっくりと言い訳を始めた。
「だから、あれは事故のようなもので」
「事故?何の話しをしているの?」
「お前の立派なものを見せた話しだろ?」
横から要らぬ口を挟んだアイエンの言葉に、ルメラが想像でもしたのか瞬時に顔を赤く染めている、声も裏返りながら反論している。
「な、何てこと言うの!」
「見たことないのか?」
「あ、あ、ある訳ないでしょ!そん、そんな、い、いちもつだなんて!」
「誰がいちもつって言ったんだよ」
「あ、アイエン!余計なものはその髪型だけで十分よ!私はあの二人が「エフォルにまとめて女にされた」って言っていたからその事実究明に来ただけなのに!」
「エフォル、お前……正気か?見せるだけでは満足出来なかったのか?悪いこと言わないからルメラで我慢しておけ、まだ法的に大丈夫なはずだから」
「はずって何よ!もう私は立派な大人よ!」
「いちもつじゃなくて?」
「もう!」
アイエンの二の腕あたりを遠慮なく叩いているルメラ、この二人は本当に仲が良い。いや、しんみりとしている場合じゃない何だまとめて女にされたってたまたま見ただけだろ!
また髪型の話しになって下らない口論を始めた二人をよそにして座っていた椅子から腰を上げ、ルメラが入ってきた扉からダイニングを後にした。
◇
カーボン・リベラ第二区は「地方区」と呼ばれており、主要都市、第一区とは比べものにならない程小ぢんまりとした場所だった。一区から二十二区をなるべく繋げるようにして作られたはずの高速道路は通っておらず、ダイニングを出た廊下から望む朝の景色の中にもその姿を捉えることが出来ない。窓の向こうには、ファラ院長が気に入っている小さな庭と誰も見向きもしなくなったのに「勿体ない!」と前の孤児院から運んできた遊具がきっちりと並べられ、孤児院の門より向こうにはぽつぽつと民家が建ち並んでいる以外に何もなかった。カラカラと鳴る窓を開けて朝の空気を胸一杯に吸い込んでみた、冷えた空気がつんと鼻を通って肺に入り込んでくるだけですえた臭いが一つもしなかった。
「変なの、あれだけ臭かったのに………ん?」
窓を閉める直前に、門の陰に隠れた場所に一台の車を見つけた。お洒落やオリジナリティを追求して曲線を多用する乗用車とは違い、今目の前にある車は直線的というか、板金板をそのまま使っているような車だった。
(また……)
たったそれだけ、車を見かけただけで騒ついてしまう自分の胸もどうなんだと辟易してしまうが仕方ない、嫌いなものは嫌いなんだ。この孤児院に引っ越ししてからよく来るようになったあの人のことを頭から追い出し、アカネとルリカがいるであろう一階のリビングへと足を向けた。
この孤児院は三階建ての構造をしており、一階にはリビングとアカネ達年少組が使っている部屋があり、二階はおれとアイエン達年長組が使っている部屋とダイニングがある。コの字型の間取りで廊下が二画、ダイニングが一画、と表現すれば良いのか、細長く作られたダイニングから二本の廊下が伸びているのだ。おれの部屋がある廊下からは三階に上がれてそこにはファラ院長の自室とちょっとした屋上もあった。ここに来たばかりの時はよく屋上で食事を取ったり星見をしたり、今となっては誰も上がらなくなってしまい寂しい場所となっていた、この孤児院には飽き性が多いな。
一階へ降りる階段の手前にはルメラが取り付けた(無許可)姿見があり、どうしても自分の姿が映ってしまう、当たり前なんだけど。そこに映っているのは、未だ寝癖がついたままになっているボサボサ頭に一重まぶたの目ん玉、だらっと着崩した服から見える首回りはとても筋肉がついているようには見えない、というかない。太れないのだ、いくら食べても食べても脂肪が付かないから筋肉だって付きはしない。何度も胃下垂を疑われたので病院で診てもらったら「正常ですね」と高いお金を払ってたった一言だけもらって帰ってきたことがあった。あれはやぶじゃないのか、給料半月分も飛んだんだぞ。孤児院の外で見かけた車と自分の見たくもなかった体が頭の中で凝縮し、嫌な成分だけを抽出されて胃に落とされたようにムカムカとしてしまった。
蹴込み板がない階段をゆっくりと降りてリビングへと向かっている最中に後ろから誰かが入ってくる音がした。孤児院の中に入ってきたのは二人、何やら親しそうに会話をしながらおれと同じようにリビングへと向かっているようだ。コの字を反対にして各階それぞれ重ねて合わせたような構造になっているので、二階から一階に降りて進む先にリビング、後ろが玄関口となっている。その玄関からファラ院長と軍服に身を包んだ若い男の人が並んで歩いてきていた、ちょうどスリット階段を降りた先で鉢合わせしたような形でご対面することになってしまって逃げ出したくなってしまった。
軍服姿の若い男の人がおれを見かけて軍帽を脱ぎ、とても礼儀正しく朝の挨拶をしてきた。
「おはようエフォル君、今日は昼頃から雨が降るみたいだから気をつけてね」
「何の用ですか」
「ファラ院長に話しがあって朝早くからお邪魔して悪いね、すぐに、」
おれの冷ややかな声にも動じない男の人に腹を立てて、相手が言い終わる前から言葉を重ね遮るように突っぱねた。
「帰ってください、血の臭いが付いたらどうするんですか」
「エフォルっ!!」
おれとの会話を、少し下がった所から見守っていたファラ院長が眉を上げて一喝してきた。昔から何度も食らった怒り方だった。悪いのはおれ、そう言わんばかりの張り上げた声にもムカついてしまい、ファラ院長に睨みで返した。
「言って良い言葉と悪い言葉の区別もつかないの?!誰のおかげでこの街が守られていると思っているのっ!謝りなさいっ!!」
...ほんと何と言うか、何もかもがボリューミーな人だ。髪の毛の量もふわっとずっしりとウェーブして腰まで伸ばし、体格も大きい。太っている訳じゃない、身長も胸もお尻も大きく、さらにキリッとした太い眉にさらにキリリッとした瞳は力強さを感じさせるものがあった。この人が怒れば皆んなピリピリして、悲しむと皆んなも涙もろくなって、太陽なんか目じゃない温かい笑顔と笑い声を上げるとそれだけで、小さな事が気にならなくなるぐらいに皆んなを幸せにしてくれる。支配力が強いと言えば言い方が悪くなるが、とにかく場の空気を変える力を持っている人なのだ。
本当は皮肉を言ったそばから後悔していた、けれど今さら下げる頭もない。それにこの男の人に限らず軍人を見ると無性に腹が立ってしまうのだ。ファラ院長にも睨まれて誰も何も言わない、進退窮まり謝ることも逃げ出すことも出来ずにいると男の人が...いや、この孤児院のために色々と手を尽くしてくれたミハエルさんがおずおずと言葉を口に出してこの苦境を脱しようとした。
「……いえ、気にしていませんので大丈夫ですよ、我々も孤児院から軍人を輩出していくことには長年苦慮していますのでエフォル君の気持ちも分かります」
「おれが軍学校に落選したのは知っていますよね?だからこうして夜遅くまで働いているのもファラから聞いているんですよね?知っててそれが言えるなんて当て付け」
最後まで言えなかった、おれのことを知った風に口を利くのが許せなくて言い返しただけなのに、目にも止まらぬ速さでファラに平手打ちを食らってしまったのだ。頬の痛みより、あのファラに手を上げられたのが何よりショックだった。
「いい加減にしなさいっ!失礼にも程があるでしょうっ!」
おれの言い分も聞かず頭ごなしに、体格差という意味も含めて再度怒鳴られてしまい、軍学校に合格出来なかったひ弱な体がファラの声量と威圧感と、目には見えないながらも感じとれる拒絶に震え上がってしまった。不思議と涙は出てこない、初めての恐怖と悲しみに心も体も苛まれているのにそれだけが救いだった。おれの頭の上にあるだろうファラの顔を見ることが出来ない、ベージュ色のニットワンピースに隠れた胸あたりに視線を向けて、鼻で荒く息を吐いてる様子にいよいよ本気で怒らせてしまったんだと打ちひしがれていた。
2.第二区〜価橋〜第一区(connect)
「ほら、エフォルの分だよ、ちゃんと持って」
「あ、あぁうん……」
第二区のバスターミナルは建物が密集している場所にあり、一つしかないバスの搭乗口回りには商業施設のビルやオフィスビルが、井の中の蛙のように大海も知らずに背伸びをし合っていた。空間投影されたお店の名前の向こうには、ミハエルさんが言っていた通り臭い雨を降らせてくるはた迷惑な雨雲が、忍び足でこちら側に歩み寄ってきているところだった。
ファラに怒鳴られ、もう呼吸する以外に何も出来なくなってしまった、永遠にも思える時間を壊してくれたのは騒ぎを聞きつけて様子を見に来てくれたルメラのおかげだった。何も言わずにおれの手を取り二階へと上がり、呼吸していたつもりが肺に溜まっていた息を吐き出した時に「お出掛けするから着替えてきて」と言われて、どうやって戻ったのか覚えていない程の足取りで歩き、自室に入った途端に涙が溢れ出してきた。泣いても泣いても涙が次から次へと床に落ちて、ひとしきり泣いた後ようやく落ち着いた。けれど、ミハエルさんにぶつけた酷い言葉に対する後悔と申し訳なさと、ファラに手を上げられたショックだけは流れ出てくれなかったみたいだ。皆んなから気遣わしげな視線を受けながらバスターミナルに歩いて向かっている最中も、酷い言葉をぶつけた時に歪めたミハエルさんの顔とファラの荒い息づかいが頭の中で、何度も何度も繰り返されていた。
ルメラに渡されたバスチケットに視線を落として、束の間でも頭から追い出そうとした。それすらも何だか悪いことをしているような罪悪感に囚われてしまい、心も頭もにっちもさっちも行かなくなった時にルリカがぎゅっ、と服の裾を掴んできた。
「バス、来たよ」
たったそれだけ。たったそれだけの言葉でようやく暗い気持ちから解放されたような気分になった。
「……ありがとう」
「ううん……あ」
ルリカの手を取って、第一区に向かう他の乗客らと一緒にバスへと乗り込んだ。車体の幅が孤児院のダイニングスペースと同じぐらいあり、長さも廊下ぐらいあるのでプライベートブースが五つぐらいはあるのかな、バスチケットで指定されたおれ達のプライベートブースに入り込んで半円形状に置かれた角の席に、その隣にルリカがおれの顔をじっと見ながら腰かけた。まだ繋いだままにしていた手を離して、少し寂しそうにしたルリカの頭を撫でてあげた。
「ごめんね、朝から嫌な思いさせて」
「ううん、わたしは平気、エフォルは?」
しっかりとした茶色の瞳を真っ直ぐにおれに向けてくる、歳の割には聡いルリカ。誤魔化しや嘘なんてすぐに見抜いてくるのでいつもなるべくは本音で話すようにしていた。
「……どう、かな、平気、だと思うよ、よく分かんない」
「何だそれ」
バスの中に置かれたドリンクバーから色々トレイに乗せてきたアカネが、スペースの入り口から無遠慮に言葉をかけてきた。別に悪いことなんかしていないはずのアカネまでもが、泣きそうに目を細めて眉を吊り上げていた。
「何だその顔」
仕返しに、いや、おれなんかを気遣ってくれる二人への照れ隠しを込めてアカネの口調を真似て言い返した。けれどアカネはそれに付き合わず、真面目に言葉を返してきた。
「エフォルが怒られてたから、何も悪いことなんかしていないのに」
「それは…」
「エフォルが泣きそうになっているとこっちまで悲しくなるから早く何とかして」
意味が分からない。
「何とかならないから落ち込んでいたんだろ、無茶なこと言うな」
「朝はあんなことしたくせに」
「だからお前達が勝手に入ってきたんだろ」
「朝から一緒に支度して街にお出かけしたかったから……ごめん」
「うそうそ、そんな顔するな、な?お前の泣き顔が一番堪えるんだよ」
普段は勝気で生意気なことばかり言うアカネは、滅多なことでは泣かない強い子なのだ。そんな相手に目の前で大粒の涙を落とされては、悪くもないことまで謝ってしまいそうになる。慌てたおれはルリカから離れてアカネに近寄り頬っぺたを両手で挟み込んだ。突然のことに驚いたアカネが、泣き顔を引っ込めて大きな目と小さなほくろが付いた可愛らしい顔を真正面からおれに向けてきた。
「な、きゅ、な、何するの」
「泣く前にきちんと聞かないといけないことがあるしな、女にされた発言」
「な、泣いてなんかないし!それにそれは事実だから記憶にございません!」
支離滅裂な文句を言って、トレイに乗せた飲み物も溢さずに器用におれの拘束から逃れてみせた。そう、広くもないプライベートブースの端に備え付けられた小さなテーブルにとすんとトレイを置いて、いつの間にか不機嫌な顔になっていたルリカの隣に座り込んだ。そして他の乗客と話していたのか、この場にいなかった二人が手に何やら持ってプライベートブースに現れた。
「ほら、お前の大好きな「宇宙船」の広告持ってきてやったぞ」
「好きになった覚えはありません」
「そう?男の子はこういうの好きだと思って譲ってもらったんだけど」
「まぁ、両手に花を持っているお前には少し刺激が足りないだろうけどな」
「そんなことないよ、ありがとうルメラ」
「?」何故私にお礼を言うの?と顔にありありと書かれていたけど気にしない、アイエンの冗談には付き合っていられない。
二人が譲ってもらったという広告には、最近噂になっている変わった形をした船が描かれていた。頭に見えるところには輪っか?がかかっており、長い船体には二枚の大きな板が付けられていた。お世辞にもかっこいいとは言えない姿をしている、これのどこがかっこいいのか。
「こんなのより二人の方がよっぽどかっこいいよ、しれっとおれのために色々と気をつかってくれるからさ」
「そういう心の声はファラに届けるんだな」
「そうよ、帰ったらきちんと仲直りしてね」
「……うん、まぁ」
頼もしい兄と姉に諭されてしまい面映いことこの上ない。何か言わないといけないのかと視線を上げた時にバスのエンジンがかかったのでこれ幸いと、空いている椅子に逃げ出した。
◇
価橋から既に見え始めていた第一区のビル群は、第二区の蛙どもを見下すように大海の中にそびえ立っていた。すっかり侵入を許してしまった雨雲にビルの屋上は煙ったように薄く見え、これから降りしきる臭い雨を予感させた。
地方区、それも高速道路が通っていないような区から他所の区へ行くには価橋を渡らないといけない。高速道路を間違えて「価橋」なんて言う人もいるがそんなことはない、間違えるのは決まって都市区に住んでいる連中なのでいつも腹を立てていた。バスが渡っている価橋は片側一車線、上部構造と下部構造は鉄や炭素が使われているらしいが、床版と呼ばれる場所は木材が使われている。そこを通る車や人の重さを支承という部品を通じて橋脚に伝える役割を持っているらしいが、今と違って昔は頻繁にこの価橋が使われていたみたいで、その分メンテナンスも大変だったらしい、らしいらしいばかりだけど。とくに床版は通る車のタイヤなどで摩耗も激しく、それならいっそ取り替え易い木材に変えてしまえと、今の価橋となったらしい。
橋の長さはバスで一時間程(速度制限のせい)、ゆったりとした速度で木の板の上を走るので間抜けで乾いた音が断続的に鳴り、車体も揺りかごのように一定の間隔で揺れてしまうので、疲れた体にとても相性が良く眠くて眠くて仕方ない。だというのに...
「ここからでも見えるかな、あー見えたね、あれが何か分かるかい?」
「えーと……分からないですね」
「いけないよー若者なんだから、この間も教えてあげたでしょうに、ちゃんと覚えておかないと」
「あの区長さん、それで、あれは何ですか?」
「あれはね、誰が作ったかも分からない不思議な橋脚さ、橋は三十キロメートルととても長いのに崩れたことなんて一度もないんだよ」
おれ達のプライベートブースにしん...入は失礼かな、お邪魔してきたのは第二区の区長さんだった。ぽてっと太ったお腹に同じくぽてっとまん丸い頬、見るからに気の良さそうなおじさんだ、よく孤児院にも遊びに来てくれて色んな話しを聞かせてくれる。区長としての立場であちこちの区に赴いているので、おれ達が一度も行ったことがない場所について、お酒を飲みながらよく事細かく教えてくれるのだ、たまに迷惑な時もあるけど。
この価橋についても詳しくて、過去に建設現場で働いていた時はよくメンテナンスで訪れていたそうだ。そのせいもあってか若かりし頃の体験談を優しい声音で語られると授業のようにしか聞こえず、さらに眠気が増していくのであった。
区長のお願いしてもいない授業はさらに続く。
「橋にはね、何種類か存在してその内の一つにアーチ橋と呼ばれるものがあるんだ、さらにアーチ橋にも種類があって、おそらく価橋は逆ランガー橋ではないかと言われていてね」
「はぁ…」
「…ルメラ、程々でいいよ」
「…アイエンも相槌に参加してよ」
「…疲れたら交代するから」
「…もう疲れているわよっ」
アイエンとルメラが、区長にバレないよう体を寄せ合ってひそひそと話しをしている。それに全く関心を示さない区長は調子付いてきたのか、さらに熱を入れて解説していた。
「第一区と二区の間は距離として三十キロメートル、さっきも言ったね、この間に橋を架けるだなんて並大抵のことではない、本来橋は橋台と呼ばれる基礎にしっかりとした土台を築き、その橋自体の重さに耐えうるよう十分な強度を持たせてあげるんだ、アーチ橋は弓なりに反った形で作られているから他の橋とは違い荷重、その橋に加わる力だと思ってくれたらいい、その荷重を弓なりにしたことにより発生する元々の力だけで支えるんだよ」
「元々の力って何ですか?」
余計な...
そらみろあのアイエンが白い目でルメラのことを見ているぞ。
「良い質問だね、元々とは橋を架けたことにより発生する反力と固い物体を押し縮めた時に発生する圧縮力のことさ、無理やり棒を曲げた時は元に戻ろうとするだろう?」
「曲げたことがないので…」
アイエンが視線を逸らして小刻みに体を震わせている、その様子を見てしまったおれも眠気が飛んでしまって笑いを堪えるのに大変だった。変なところだけ馬鹿正直に答えるルメラが何だか面白かった。
「この二つの力で橋を渡るぼく達を支えてくれているのさ、過去にメインシャフトからこの街に移住してきた人達は余程高い建設能力を持っていたんだろうね、残念ながら建設に関わるデータが残っていないんだけどね」
そこでようやく一区切りをつけて、満足そうにお腹を撫でながら窓の外に視線を移した区長、その隙にもう余計なことを聞かないようにアイエンがルメラの二の腕あたりを抓っている。抓られたルメラは頬を染めて何事か小さく言い返していた。おれも区長に倣って窓の外に視線を向けるとちょうど中間地点までやって来ていたようだ、確かに区長の言う通り弓なりに上っていた道が今度は緩やかに下り坂へと変わり、たわんでいるらしい価橋の天辺から第一区が一望出来た。
忍び寄ってきた雨雲のせい、かは分からないけど薄く煙って見える第一区は視界に収まりきらない程大きく横に伸びており、ちょうど外壁沿いにモノレールが走っているところだった。小さな灯りがバスにも負けないぐらいにゆっくり、ゆっくりと外壁を這うように進み、価橋ゲートの斜め横下あたりにピタッと静止した。区長の話しは全て聞き流していたアカネとルリカがおれと同じように一度も乗ったことがないモノレールに興味を示して、前面の窓ガラスへ移動した。
「あまりはしゃがないようにね、下にいる運転手さんに迷惑しちゃうから」
走り出したアカネとルリカに注意した区長、しかし二人はまるで聞いていない。窓際に駆け寄り頬をくっ付け合って何やら楽しく話し込んでいた。
「で、お前はどっちなんだ?」
アイエンが明らかに挑発している目線をおれに向けてきた。
「何の話し?」
「惚けるなよ、アカネとルリカ、どっちと一緒になるんだ?」
「ばか…じゃないのかアイエン、下らない冗談はその髪型だけで間に合ってるよ」
呆れてしまい言葉がすんなりと出てこなかった、隣に座っているルメラもしきりに頷いている。
「そうか?そういう割にお前、たまにねちっこい目で二人のこと見てるだろ」
キリっとルメラがおれに険しい目を向けてきた。いやいや、
「いやいや、何言ってんの?あの二人はまぁ……ほら、あれだよ妹みたいな感じだからそんな目で見たりしないし」
「ルメラは?」
「私?」
「ルメラはアイエンに首ったけじゃないか、お前の方こそ何言ってんだ」
「「いやいや」」
同じ言葉を同じタイミングで口にした二人は互いに目を合わせ、繋ぎ目か何かに乗り上げてかたんっと一回揺れた後、ルメラが矢継ぎ早に文句を言い始めた。
「こんな男に夢中になるはずがないでしょうエフォル私ならもっとまともな冗談が言える人にするわユーモアは大切だものアイエンみたいな薄ら寒くて笑えもしない人なんてごめんよ」
「分かる」
「分かるなよ!そこは反論してくれ」
「でもそれならまともな冗談が言えたら良いってこと?そんなふうに聞こえたけど」
おれの質問に目を丸くして押し黙ってしまった。そこにアイエンが口を挟んでくる。
「ちょっと待ってくれないか、俺の基準はそこなのか?冗談だけで人としての優劣が決められてしまうのか?」
「「そう」」
「ほら、お前達の方こそお似合いじゃないか、よっ!お熱いねぇ、羨ましすぎて見てらんないよ!」
おれとルメラもハモった途端に手を叩いたり手を振ったりして囃し立て、下らないと言われたそばから下らない冗談を懲りずにかましてきたアイエン、しかしよく見てみれば薄らと涙目になっていた。
「アイエン泣いているじゃないか!自分に嘘を吐いてまでそんな事するなよ!」
「違うなこれは嬉し涙だ、気にするな」
窓向こうに広がる景色に目もくれずおれ達三人は、第一区に到着するまで下らないお喋りをして楽しんでいた。
3.第一区(encounter)
木の床版ともお別れして、ようやくバスが本来出せる速度まで上がった。価橋を渡り切る頃には遠目に見えていた第一区は堅固な城壁もかくやと言わんばかりに堂々とそびえ立ち、まるで自分達が小人になってお城に侵入しているような気分だった。木板からアスファルトに乗り上げ心地よくバスが進み、石垣ならぬ鉄垣、灰色一色で何の変哲もない街を支えている土台にぽっかりと空いたトンネルを潜った。トンネルからは一車線から二車線に増えて、バスが走行車線を走りモノレールの駅方面へハンドルを切った。ちょうどバスの大きさぐらいしかない小さなトンネルを潜り、価橋から小さく見えていた駅へ立ち寄っているのだ。そこでさらに小人を乗せて城へと攻め込む算段だ(駅で乗客を拾ってから街へ向かう)。「ここは宝物庫だな」と一人で妄想をしている間にも駅に到着し、休憩がてらにブースにいた皆んなが外へと出て行く。
「ん?」
ブースでのんびりと支度をしていたおれは、窓の向こうに視線を向けてしまった。モノレールの駅には、第一区へ来る度に必ず立ち寄っているので建物やどこに何があるのか、といった情報は頭の中に入っていた、それと一致しない、違和感というものを感じたので窓向こうに視線をやったのだ。
駅はトンネルの中に作られて天井も低く、そこに取り付けられた白く淡い光に照らされて前まではお土産屋として開いていたお店には、物々しい雰囲気を醸し出しているスーツ姿の人が屯していたのだ、他の店舗はフードコートだったりコンビニエンスストアだったり旅行客で賑わう駅前では、はっきりと言ってかなり浮いていた。
(何やってんだろうあの人達、あのお店で何か問題があったのかな)
警官隊の人かな、と最初は思って眺めていたけどお店の中から三つ揃いの黒いスーツと髪の毛の色と同じコートに身を包んだ、灰色の頭髪をオールバックにした男性と小さな...え?見間違いじゃないよね、小さな、アカネと同い年に見える黒髪の女の子が出てきたのだ。それに何やら、明らかに不釣り合いな二人が話し込んでいるのも見間違いかと思った。
「えぇ?!区長何やってんの?!」
誰もいないプライベートブースで一人、あの異様な雰囲気を周囲に放っている一団へ、さっきまで橋について語っていた区長が小走りで駆け寄っているのを見かけてしまった、声に出すのも致し方なしというものだ。
あまりの光景を目の当たりにして、支度も程々にして皆んな所へ駆け出していた。
◇
「夢?」
「違うよ本当なんだって!」
「そんなマフィアみたいな出立してる奴が今日びこんな街にいるとは思えないけどな」
「本当だってあの区長がぺこぺこしてたもん!それにほらアカネ!前にスーパーで会ったって言ってた女の子もっ」
以前、第一区で侵入騒ぎがあった時、おれの企業面接試験に付いてきていたアカネが立ち寄ったスーパーで変な女の子と出会ったという話しを聞き(勿論、他人のカゴを奪ったことは怒ったが)、その容姿に似ていると言おうとしたのに何故か慌てたアカネがおれの袖を引っ張って顔を近づけてきた。
「その話しはっ、二人だけの秘密だってっ、言ったよねっ?!」
「何?!二人だけの何?!教えて!わたしにも教えて!」
「だ、ダメ!ルリカにも言えないことってあるの!」
アカネの服を掴んで揺さぶり始めたルリカ、そんな二人を肩を竦めて見守っている年長者達。
「いいからさっさとお前も休憩してこいよ、おれ達はバスに戻っているから」
「いやいや見に行かないの?!」
「野次馬」
「ルメラもさ、気にならない?」
「私はいい、それよりファラにプレゼントする物を決めたいから先に戻ってるね、エフォルもはしゃいでいないでちゃんと決めるように、家を出る前にファラのところに寄ったけど凄く悲しんでいたんだよ?」
う、忘れていた朝の一幕が脳裏に蘇ってきた。それを振り払うように言い訳をしてしまった。
「それは、ミハエルさんのことを思ってなんだろ、おれは関係ないよ」
アイエンがあからさまに溜息を吐いてから、少し渋い顔をして口を開いた。
「お前、軍学校に落選したこといつまで根に持っているんだ、あの孤児院を斡旋してくれたミハエルさんに当たるのはお門違いにも程があるだろう」
「腹が立つんだよ、見ているだけで、キラキラしてるし……その、何というか……」
「エフォルはかっこ悪くない」
さっきまで掴み合っていたルリカが、またいつものように服の裾を掴んでおれを見上げるようにしていた、唐突に慰めてくれたけど少しだけ意味が分からなかった。
「………」
「かっこ悪くないから気にしないで」
「悪いけどルリカ、こいつに付いてやってくれないか?お前がいると不思議と大人しくなるからさ」
「おれのことを何だと思って……」
「うん、わかった」
ルメラが暴れるアカネの手を引いてバスへと引き上げていく、だたっ広い駐車場にはおれとルリカだけ。少し満足そうにしている幼いルリカのしたり顔を見て何だか肩の力が抜けたというか、むしゃくしゃしそうになった胸の内から何かを追い出すことが出来た。
「悪いけど休憩に付き合ってくれる?」
「うん!」
ルリカとしっかり手を握り、おれの胸あたりにある黒髪を見ながら駅へと歩みを進めた。
◇
とは言ってもだ、気になるものは気になる。
駅の中にはモノレールで第一区までやって来た人で賑わい、バックパックを背負い端末を見ながらふらふらしている男の人や、スーツケースを引っ張り駅中にあるお店やフードコートに目もくれず足早に過ぎていくスーツ姿の人もいた。皆んな何かしらの目的を持って訪れているのが一目瞭然で、雑多な賑やかさに包まれていた。
軽く食事だけ済ませようと、食べ歩きが出来る軽食店へ進もうとするとぐい、とルリカに手を引っ張られた。見やると手を引っ張った訳ではなく、おれ達が入ってきた入り口から見て右側、あの一団がいる場所へ行ける別の出入り口に視線を向けて立ったままになっていた。
「どうかしたの?」
「何かいた」
「何かって何?お化け?」
「銀色だった、何かな?」
そこでおれの顔を見上げて茶色の瞳を向けてきた、好奇心旺盛なアカネとは違いルリカはあまりはしゃいだりはしない子だ、そんなルリカすら興味を惹かれるものがあるなんて...空腹を差し置いて興味がむくむくと湧いてしまい、軽食店に向いていた足をルリカが見ていた出入り口へと変えて歩みを進めた。
「ご飯はいいの?」
「それよりルリカが見た何かを確かめたい、いい?」
こくりと頷いてルリカもおれに付いてきた、しっかりと手を握り離されまいとしているようだ。
「離したりしないよ」
「う、うん……」
ぽっと頬を染めたルリカと伴って出入り口へと歩いて行く。
付いた出入り口の向こうは外に設けられたトイレと、地下にあるモノレールのホームへ行けるエスカレーターがある。ちょうどその間ぐらいには路地裏のような隙間があって、どうやらそこに銀色の何かが歩いて行ったようだ。モノレールのダイヤの関係か、乗客もいない疎らになった出入り口を抜けて少しわくわくしながら隙間へと入っていく。左にトイレ、右にはエスカレーターと受け付けがある壁に挟まれながら進んで行くと...いた。
「え」
「あれ、何かな」
「え?」
驚いていない?案外肝っ玉が大きいのかなルリカは...挟まれた壁の行き止まりには、確かに銀色をした何かがいた。楕円形の胴体から伸びた四本の足を折り畳んで縮こまり、頭につぶらな緑色の瞳を湛え、ちょんちょんと付いた二つの耳も垂れ下がっている。博物館のホームページで見た動物の形をしていた。けれどこんな銀色一色は見たことがなかった。
慌てず動じないルリカはじっくりと見ている、おそるおそる声をかけてみた。
「その、ルリカは何か分かる?」
「うん、しかっぽい、けどあんな銀色は見たことがないよ、ホームページにも載ってなかったと思う」
しかに似た銀色の何かが、おれ達の話し声に反応したのかゆっくりと立ち上がりよたよたとこちらに向かってきた。何度も頭を上げようとして、首を持ち上げる力が無いほど弱っているのか、何度もかくんと落としている。覚束ない足取りを見ていると、ファラに怒られ自分の部屋に向かっていたおれ自身を見ているようだった。気が付いた時には自分からしかに歩み寄り、しゃがんで目線の高さを合わせていた。隣にはルリカも同じように屈んで小さなその手をしかに伸ばしていた。
「あったかい」
「うそ」
ルリカはしかの背中あたりに手を置き、ゆっくりと摩っている。それに倣っておれも触ってみると確かに、見た目とは違ってほんのりと温かった。
また、細い足を畳んで蹲ってしまったしかを撫でるのに集中していたせいで、隙間の入り口に立っていた人に気付くのが遅れてしまった。
「見つけたぞ」
「?!」
「?!」
低くよく通るその声は、隠れるようにしかを撫でているおれとルリカをまるで暴いているように聞こえ、思わず悲鳴を上げてしまいそうになる程驚いてしまった。「何も悪いことはしてません!」と頭の中で考えていた言い訳も、振り返って仰ぎ見たマフィア然とした人に吹き飛ばされてしまった。三つ揃いのスーツにコートを羽織り、オールバックにした髪と鋭い目付き。バスの中から見たあの人だった。
「何をしている」
「く、区長とは知り合いで!その、たまたま見かけたのでっ」
とにかく怪しい者ではないと伝えたかったので、さっきまで一緒だった区長の知り合いアピールをしてしまった。意味が伝わらなかったのか鋭い目をさらに細めて問い返してきた。
「区長?名前は?」
「お、おれはエフォルと、言います!」
「お前ではない、区長の名前だ」
はーっ!知らない、そういえば知らない!ファラも皆んなも区長としか呼んでいなかったので名前は聞いたことがなかった。答えなければ疑われてしまう質問に答えられず、あわあわしているとマフィアの後ろからひょこっと女の子が顔を出してきた。
「いた!そんな所に……」
「え、さっきの……」
マフィアの後ろから顔を覗かせた女の子はルリカと同じ黒い髪、もみ上げだけ長くお洒落な髪型をしていた。ジャケットにフレアスカートとお嬢様のような、大人びた格好をした女の子だった。
大きな目でまじまじとおれ達を見て何も言わない、助け舟かと思ったけど、マフィアと連れ立った女の子が果たして助けになるのかと思った矢先、にっこりと微笑んで笑いかけてきた。
「ありがとうございます!その子がお世話になったみたいで、優しい人達だから心配ないと教えてくれました!」
「え……優しい……え?」
「はい、背中を撫でてくれたと、その子もとっても喜んでいます!」
元気いっぱいにそう、教えてくれたけど...すると女の子がマフィアの横をすり抜けておれ達の前まで歩いてきた。女の子もしかの頭を撫でると、また折り畳んでいた足を伸ばして起き上がった。
「こいつ……大丈夫なのか?何だか弱っているみたいだけど……」
どこかへ連れていくつもりなのか、女の子が覚束ない足取りのしかを支えるように横に付いている。
おれから質問されると思っていなかったのか、女の子が何度かぱちぱちと瞬きをした後、
「えと、はい……調査中、と言いますか、大丈夫だと、思います」
しかの頭とおれの顔を行ったり来たり、さっき見せた笑顔も潜んでしまい、どこか言葉を選んでいるようにも感じる。
最後にもう一度だけおれの顔を見た後、しかに寄り添うように隙間の入り口へと向かっていく。そして、そこに立っていたマフィアに声をかけられた。
「少年」
「は?!はい!」
「この事は他言無用だ、良いな?余計な揉め事は起こしたくない」
「はい!」
「直にお前達の元にも送られる、その時までしばし待て」
「嫌だぁ!」と言いたかったけど代わりに「責任者がいますので!」と答えた。冗談じゃない、好奇心を満たしただけなのに何故マフィアの手先を送られなければいけないのか、それに「責任者がいる」と答える自分もどうなんだと言い訳をしている間に、マフィアと女の子としかというアンバランスな組み合わせをした三人組?が去っていった。
◇
「ルリカ、何か良い事でもあったのか?何だか嬉しそうにしているじゃないか」
「秘密」
「エフォル、手を出すのはまだ早いんじゃないか?」
「………え?あぁ、うん、まぁ……え?!違うから!そんな事ないから!」
「………」
マフィアから逃げるようにバスへ乗り込み、再び街を目指して走り出していた。宝物庫への抜け道をとんぼ帰りして二車線の道路に合流し、価橋から続いていた大きなトンネルを抜けた先は、大海を余すことなく知り尽くしたであろうビル群の根本だった。忍び寄るように侵入していた雨雲は撃退されたのか、はたまたどこか人目がつかないところで休憩でもしているのか、空には大きな白い雲と澄んだように綺麗な青色がビルの合間からその姿を見せていた。
モノレールの駅で起こった出来事に頭を取られていたのでつい、アイエンの冗談に生返事をしてしまいルリカ以外の全員から白い目で見られてしまった。それにアカネは何だか拗ねているような、そんな顔でおれを睨みつけている。「何でもないよ」と手を振ってみせるが一向に顔色が変わらない、アカネの泣き顔は見ていられないので近寄ろうとすると何故だか逃げられてしまった。ルメラの後ろに隠れて身を屈め、またおれを睨み始めた。
馬鹿みたいな冗談のせいでこんな事になったのに、言った馬鹿みたいな奴が何でもないように話題を変えてみせた。
「最初はどこから回るんだ、中央のショッピングモールか?」
「そうね、あそこが一番品揃えが多いし、それに第一区に詳しい訳でもないから」
後ろに隠れていたアカネを前に引き寄せて、背中から抱きつくようにして慰めていたルメラが答えた。
「アカネは?もうプレゼントは決まった?」
「まぁ、決まった」
「ショッピングモールでいいわよね?他に行きたい所ある?」
「ある」
あるの?
「あるのか?場所は分かるのか?」
まさかあるとは思っていなかった。アイエンも同じように少し驚きアカネに行き先を尋ねている。
「分かる、というか端末ショップ、エフォルが新しく持つんだよね?どうせめんどくさがって自分からは行かないだろうから……」
「出来た妹だなほんとにお前は、あんなたらしは放っておいていいんだぞ?」
「アイエンが言えた口じゃない」
拗ねて少し元気がなくなったアカネは、普段と違ってクールにはきはきと物を言うようになる。そして嘘や冗談も言わなくなる。
「おい」
「アイエン?」
「あ、もう到着するらしいぞ、下道に下りるから椅子に座らないと」
「おい、それで誤魔化せると思うなよ」
「そうよ、今のは何?アイエンも言えた口じゃないってどういう意味なの?」
「ほらアカネ、たまには俺と仲良くするか?その方がいい、こっちにこい」
「行くなよアカネ、あいつ絶対買収するつもりだから」
「秘密」
「え?何?」
「秘密教えてくれたら行かない、教えてくれなかったらアイエンの一味に加わるから」
「一味って何だよ!おいアイエン!いい加減に白状にしろ!」
「アイエン!あなたは私達の知らないところでそんなに女性に手を出しているの?!」
「手は出してない、出されてるの」
「おいアカネ!頼むから俺に八つ当たりするのはやめてくれないか!」
拗ねたアカネが爆弾発言を連続投下したことにより、プライベートブースは一時騒然とあいなった。
◇
到着した第一区のターミナルでバスと別れを告げて地下鉄へと乗り込み、中央にあるショッピングモールへとやって来ていた。第一区へ来た時は大体立ち寄る場所なので、どこに何があるのかは分かっている。「毎回ここにしか来ないなんて田舎者特有だな!」と、元からなかった冗談の切れ味をさらに落として皆んなの空気を悪くさせたお上りさんは無視して、アイエン組みとルメラ組み、言わば端末を持っている二人をリーダーにしてそれぞれ行きたいお店へと別れた。
(プレゼント、そういえば決めてなかったな…)
ショッピングモールの正面入り口で別れたおれとルメラは吹き抜けエリアに行ったアイエン達とは逆の方向にある、雑然としているエリアに足を向けていた。お店のスペースもまちまちでホールのように大きいお店もあれば、通路に商品を並べただけの露店もあり値段は店主任せなのでモールの保証は受けられないが、ネットでもお目にかかれない商品がそれこそ来客している人の数以上に並べられているのだ。どこを見てもわくわくするし、おれとルメラは好みが似ているのか、よくこのエリアに顔を出していた。
おれの頭の中でも読んだのか、悩んでいることをそのまま口に出されてしまった。
「エフォルはもう決まったの?」
「まだ……」
「そう…私はてっきりファラの誕生日のために夜遅くまで働いているんだと思ってたけど、違うの?」
いつかは聞かれるかと思っていたけど...
「うんまぁ、そうかな、ルメラはどうするの?」
言葉を濁して返事をした。
「そうって、誕生日を忘れていたのに?何か隠しているでしょ」
全然濁せていなかった。
「あー…まぁ、次の機会にでも話すよ」
「……本当に?隠し事はなしだよ?」
「そんなにアイエンがショックだったの?そんな事しないよ」
「な!何でそうなるの!私は隠し事されるのが嫌いなだけで!アイエンは関係ない!好き勝手やって痛い目を見ればいいのよ!」
めちゃめちゃ気にしてんじゃん。
少し機嫌が悪くなったルメラと一緒に、とりあえず冷やかして回ることになった。もうとにかく歩き難いんだこの通りは。空間投影されたお店のロゴは決まりを守らないから通りにはみ出しているし、アニメのホログラムキャラクターもパーソナルスペースに余裕で踏み込んでくるし。けれど、見たことがない商品ばかりなのでやっぱり来てしまう。それに街中やネットでもあまり売られていない紙製の本もここでしか手に入らない、おれの棚に置かれた本は全てここから仕入れたものだった。
陳列されている商品を人目に触れさせようと、はた迷惑にも通りに投影された画像を払いのけたあたりで、ルメラがモニターばかり並んだお店の前で立ち止まった。ん?と見やれば様々な映像が流されており、ルメラが一つの画面をじっと観ている。
「それ好きなの?」
機嫌が悪いことも忘れ、好奇心をくすぐられてしまったので声をかけていた。
「ううん、確かファラが前にこんなのを観ていたような…」
そうでもなかった。
「それアニメだよね」
ルメラが観ているモニターに映っていたのは、アニメ調に描かれた女の子達が楽器で演奏しているシーンだった。皆んな同じ制服を着て、楽しそうに演奏している。
「これに…しようかな、前に頭を空っぽにして観たいってファラが言ってたし……」
そう、独り言を呟いた後にお店の中に入り、手に買い物袋を下げてすぐに戻ってきた。ルメラはこういった類いには興味がないらしい。袋の中身を見せてもらうと「BD」のロゴが書かれたパッケージが入っていた。
「これ何て読むの?」
「さぁ…」
「わざわざディスクを買うなんて、ファラ院長も変な趣味してるね」
「ねぇエフォル、その「院長」って他人事のように呼ぶのはやめて」
ふと、ルメラの強い口調に視線を上げると真っ直ぐに見つめられていたので思わずたじろいでしまった。
「昔はあんなにファラのことが好きだったじゃない、それがどうしてそんな風になってしまったの?見ていられないわ」
「……ごめん、気を付ける」
「駄目、ちゃんと理由を言って……もう、何も分り合うことなく離れ離れになりたくないの」
周りの喧騒に掻き消えてしまいそうになりながらも「あなたは私の大事な家族なんだから」と言われて、誰にも言わず黙っていたことを伝えようと、ルメラの泣き顔を見て観念した。
◇
「何と言えばいいのか……はぁ、エフォル、土俵が違う相手にどうしてそんなに意地を張るのよ……」
「男、という意味では同じ土俵だよ、違くない」
「それこそ違うわ、あなたはあたなよエフォル」
「その言葉に甘んじていても、おれは何も変わらないんだよ」
「そのやる気を自分自身に向けて、誰かと張り合って得られるものではないでしょ?」
「そうかもしれないけど、少なくとも自信は得られるよ」
「その理屈が分からない」
「さっきは分り合いたいって言ったくせに」
「あなたがとても意地っ張りということは分かった」
ルメラがもう一度溜息を吐いたところで、テーブルの上に乗せていた端末が小刻みに震え出した。
「ほら、意地っぱりなもう一人の男から電話が掛かってきてるよ」
「もう!」
電話を取って小さくやり取りをしている、どうやら向こうは買い物を済ませて集合場所に指定していた端末ショップに着いているらしい。ルメラが耳から端末を離して、
「プレゼントは?」
短く聞いてきたのでおれは迷わず首を振って答えた、まだ決まっていないし、無理に決めたくなかった。再び電話でやり取りをした後おれ達も端末ショップに向かうことになった。
並んで歩き始め、すぐにルメラが珍しく冗談を言ってきた。
「向こうはとても素直だったわ、エフォルと違って」
「電話する相手間違えたんじゃない?」
減らず口で返したおれの肩あたりを叩いてきた。
カフェテリアを抜けてすぐのところにお目当ての端末ショップが、お上品に空間ポップを掲げていたので簡単に見つけることが出来た。お店の前でアイエン達が待ってくれていた。先にアカネがおれ達を見つけ一人でとてとてと走ってくる、それを見つけたルリカも走り出そうとしていたけどアイエンが引き止めていた。
こっちに駆けてくるなり一言。
「変なことしてないよね?!」
「うるっさい!ばか、声が大きい!」
人通りが多いのに、ルメラと並んで歩いていたおれに何てことを聞くんだ!変な目で見られたらどうするんだ!
「ほらアカネ、エフォルの端末選びに付き合ってあげて」
「まっかせて!あ!…………色々知ってるから!」
何だ、あ!って。それにいつの間にか普段通りに戻っており、勝気な顔を元気いっぱいに見せくれていた。
お店の前でルメラと別れ、今度はアカネと一緒になって入っていく。ちらりとアイエンを見やれば口の横あたりに手を添えて「ひゅーひゅー」とやっていた、何か仕返しをしたかったがアカネに手を引っ張られていたこともあり止む無く断念して、帰ってから覚えていろと心の中で言い返してやった。
入った端末ショップは広い...のか?初めて入る手合い基準がよく分からない、目の前にあった陳列棚をアカネが通り過ぎていくので不思議に思って声をかける。
「あれは見なくていいのか?」
「いいの!あれは高いだけでむのうらしいから!」
「こら!」
よくもまぁショップ店員の前で無能だなんて言えたな。長く伸ばした髪を右に左に跳ねさせて奥へと向かうアカネの後ろ姿を眺めながら、
「アカネは元気が一番よく似合うよ」
「ルリカには何て言ったの?」
「………秘密」
「ふん!そんな言葉でほだされると思うな!」
「どこで覚えたんだその言葉」
まだルリカとの秘密を気にしているようだが、口が裂けても言えない。アカネにマフィアの手先が送られると思うとゾッとしてしまう。
到着した陳列棚には細長い物から丸い形をしたもの、それから半透明になった物まで色々な形として端末が並べられていた。「あれ、アイエンに教えてもらった……」と小声で棚を漁り始めたので、あ!の正体が分かった。
そして一つの端末を手に取っておれに差し出そうと、小さな手をこちらに向けた時に明らかな異変が目の前で起こり始めた、端末がみるみる膨らんでいるのだ。
「ん?何これ……」
「アカネ!今すぐに離せ!」
言うが早いかアカネの手から端末を奪うように取り上げ、投げるよりも先に端末が爆発してしまった。
「きゃあっ?!」
右手で構えた瞬間だった、熱い空気に細かい何かが右耳と頬、それからこめかみにも当たった感触があった、ついで激痛。ジンジンと痛む右頬や壊れたみたいに流れてくる涙で目にも異物が入ったのかと思った。おれを見かねたアカネが叫びながら体を寄せてきた。
「エフォル!エフォル!!」
そして、
「お客様っ?!大丈夫です「Wxooooouwgwgp!!!」いやぁあっ?!!ビーストっ?!」「何だ?停電か?急にくらっ「Mwpjpwpmッ!!!」「何でここにっ、逃げ、逃げてぇ!!みん「早く逃げろぉ!ビーストだぁ!」「いた!」「Mooopwpm!!Mwpw」て!いいから早く立ってくれ!!」wtwgw!!」「エフォルが!エフォルの耳「嫌だ!嫌だいやだしに「Mwpjg!!Mwpj!「早く警官隊に!「退避シェルターはどっちだ?!」「こちらに!はや「Wpwgmp!!」「きゃああっ!!誰か!誰かっ!!」フォル!しっかりして!」して暗くなるんだよ!これじゃあ「Wooooooooompwgwd!!」ったれぇ!くそったれぇ!何でこんな目に「いゃあっ!!」んな無事かっ?!いるな?!」
世界が崩壊した音は不思議と遠くに聞こえまるで現実感がない、あれだけ恐れていた敵、ビースト、駅で見かけたあのしかのように銀の色をしたそれを間近で見ても想像していた恐怖はやって来なかった。アカネが手にした端末以外も同じ運命を辿ったのか、内側から膨張したように壊れ、ガラスの破片や誰かの血で汚れた床にいくつも落ちていた。強く、痛くなる程握られた誰かの手だけが唯一の現実でそれ以外は夢幻のように感じられた。
いつの間にお店の外に出ていたのか、ルメラと秘密の打ち明け話しをしていたカフェテリアがそこにあった、おれ達が座っていたテーブルに店員がもたれかかっておりその下には黒い水溜りが出来ていた。おれの周りには逃げ惑う人達で溢れ、誰も店員のそばへ駆け寄ろうとしなかった。そこで初めて異常さに気付き、ようやく視界と脳みそがリンクしてくれた。
「アカネっ?!アカネはっ?!」
手を引っ張っていたのはアイエンだった、何人もの人にぶつかりながらも走っているアイエンが振り向くことなく叫ぶように教えてくれる。
「いる!全員無事!このままシェルターに向かう!」
「ルリカっ!ルメラっ!」
「いるっ!いるから!」
「大丈夫!」
「アカネ!アカネ!返事してくれっ!」
「いる!大丈夫!」
叫び声に、誰かを呼ぶ声、それに歪に雄叫びを上げている敵、知らない誰かはただの醜い壁でしかない。苛立ちながら皆んなを守るようにして、とにかく人の濁流に流されないよう必死になってアイエンに付いて行く。カフェテリアを抜けた先は吹き抜けに、最悪だ、屋上からさらにビーストが侵入していた。上のエリアで何人かを無造作に掴み、それだけで大量の血の雨を降らして絶命し、その誰かの体をまとめておれ達がいる階下に向けて投げてみせた。
「アイエン!気を付けろ!」
「あぁ分かってるよ!」
苛立ちが募ったアイエンの声は聞きたくなかった、ただそれだけ異常事態なんだと再認識させられた。上から投げられた死体に気付かずぶつかってしまった集団に、昏倒した隙を見計らって他のビースト達が襲いかかっていた。あと少し早く前を走っていたら、いや周りを見るんだ!運ではない!そんなものに頼るな!せいにするな!
「まっ?!」
「アカネっ?!アカネ!!」
ふいに、おれの服を引っ張っていた力がなくなり息苦しさが消えてしまった。立ち止まって何人もの人間にぶつかりながら見やれば、無神経で他人を顧みない人間達に揉みくちゃにされ踏まれていたアカネが地面に転がっていた。
「どけぇ!邪魔なんだよ!」
濁流に飲まれてしまい、地面に頭を抱えているアカネを見るのがとても辛かった、あんな所であんなことをする奴じゃない、それなのに!殴りつけるようにして濁流を掻き分けアカネの元に辿り着いた、身を屈めた時に誰かに蹴られてしまいおれも態勢を崩して瞬間的に頭に血が上ってしまった。けれどそれどころじゃないと、敵の手ではなく人の足によって血だらけになってしまったアカネを抱え起こし、そんな姿に胸が締め付けられ涙を堪えるのに必死だった。けれど、アカネは「平気!」と素早く答えておれにしがみついてきた。頭からも血を流し、綺麗な髪も人に踏まれて汚れてしまっていた。
「エフォル!無事か?!どけって言ってんだよ!」
あのアイエンも周りの濁流に暴言を吐いているのを聞いて何だか胸の内がすかっとしてしまった。
「アイエン!何をやっているの早くして!」
「ふざけるな!エフォルとアカネが取り残されているんだぞっ!!」
その時だった。おれ達がさっきまで走っていた場所に、どこから身を投げたのか、その場にいた大勢の人間達を踏み潰すようにビーストが降り立ったのだ、手や足がバッグや端末と一緒に周囲に飛び散り、周囲にいた濁流の流れを大きく変えてしまった。退避シェルターがある方面へ流れていた濁流は、ビーストを起点にして決壊したように、縦横無尽に向きを変えさらに場を混沌とさせてしまった。ルリカの手を引き、険しい顔をしたルメラが現れ、心配のしの字もない視線をおれ達に向けている。そんなルメラに手が一閃、アイエンが平手打ちを放っていた。
「また家族を見捨てるつもりか!あの時見せた涙は偽物だったのか?!見損なったぞルメラ!!」
「!!」
「いいから!早くおれ達も逃げるぞ!」
場違いにも茫然自失としてしまったルメラの手をおれが引いて、人間を踏み殺したビーストを尻目に流れが変わったおかげで進みやすくなった通路を走っていく。
吹き抜けエリアを何とか通り過ぎ、正面入り口とは違う出入り口が見えてきた。確かあそこに大きめの退避シェルターがあったはすだ。女性物の服を取り扱う店の横、普段は景観を損ねないよう鮮やかに彩られた防護壁が開いており、何人もの人達がその中に流れ込んでいた。再びおれの服を掴んでいるアカネを確認し、横をルリカの手を引いて走っているアイエン、それから力なくされるがままになっているルメラの細くて震えている腕をしっかりと握って退避シェルターへさらに走る。
しかし、おれ達が到着する前に無情にも防護壁が閉められていく。
「待ってくれ!待ってくれぇ!」
おれとアイエンが叫ぶが閉まりゆく壁を止めることが出来ない、あと少しというところでぴったりと、堅牢な、今となっては何より安全に見える防護壁が閉じられてしまった。
「そんなっ!何で!」
「あぁもうクソが!何でこんな目にっ!他に退避シェルターはあったか?!」
「こんな所を探し回るぐらいなら外に出た方が安全じゃないのか?!」
「馬鹿言え!軍事基地が突破されたからここまでビーストが来ているんだろうっ!外に出る方が危険だっ!」
「じゃあどうすればいいんだよ!他に退避シェルターの場所なんて覚えていないぞ!」
「だったら考えろ!お前の頭は飾りなのか?!なんならここで商売でも始めてみたらどうだ?!ビーストが沢山買ってくれるだろうよ!」
「そのビーストから逃げているんだろうが!下らない冗談を言う暇があったらお前こそ考えろ!」
勢いに任せて身内に八つ当たりをし、そこでアカネにぐいっと服を引っ張られて口を閉じた。あれだけの喧騒があったのにも関わらずこの場だけは静かで、お互いの荒い息遣いがはっきりと聞こえた。
「……やめよう、ここから離れよう、案内板を探して別の退避シェルターに向かった方がましだ」
「あぁ、案内板は?」
「こ、こ、こっちに!」
茫然自失としていたルメラが指さした方へ、誰も何も言わず走り出した。仕方ない、仕方ない、仕方ない!と言い聞かせていると後ろから何かが盛大に割れる音が響き、また体を恐怖に支配されてしまった。洋服店を通り過ぎたあたりで後ろを見やれば、ギザギザに足が折れ曲がり、背中から二本の鉤爪のような、先端も鋭利になった何かを背負ったビーストがガラス片を踏み締めてそこに立っていた。近くにいるおれ達に注意も払わず、背中の鉤爪を起こして防護壁へと近付いていく、そして鉤爪を力一杯にしならせてから堅牢な防護壁にその爪を突き立てた。
「何を…」
漏れ出たおれの言葉は、爪を突き立てたビーストによってかき消されてしまった。青白く、直視も出来ない程に眩しい光と、冷温室に電源を入れた時に似た、それよりもさらに大きな音が発生したからだった。敵が目の前にいることも忘れ腕で顔を覆うように、光を目に入れないよう隠している間に光と音が消えて、後は黒く焼け爛れた防護壁がそこにあった。
「まさかあいつ、防護壁にいる人達まで……」
殺したというのか?あの防護壁に守られた人達すら、あのビーストは殺せるというのか?信じられない、どこに逃げても同じ、いや逃げられないと悟ってしまい、足から力が抜けていくのが如実に分かってしまった。今度はおれが茫然自失としてしまい、力なく立っているとビーストがやおらこちらに向き直り、おれ達の命を容易く刈り取るであろう鉤爪を構えた。
「ってぇー!!!!!」
よく通る、女性の声が響いた。ついで、空気が抜けるような音が二回、ぼん、ぼん!と聞こえ鉤爪を構えていたビーストに巨大なピンが二本突き刺さった。
「流せぇー!!!!!」
また女性の号令、そして巨大なピンが低く振動するように震えて鉤爪のビーストが激しく脈打つように小刻みに暴れ出した、見る間に煙を上げてその場で崩れ落ちていく。
ようやく女性の姿を捉えることが出来た、出入り口はいつの間にか破壊されその間取りを大きく広げられて一台の大型車がモール内に乗り上げていた。その前に、警官隊の出で立ちでガッチガチの防護服に身を固めた女性が立っていたのだ。
おれ達を見るなり叫ぶように声をかけてきた。
「大丈夫ですか?!」
「は、はい!それより防護壁の中にいる人達が!」
「………そんなまさか……いい!早くこちらに!怪我をしている人がいたら遠慮なく言ってください!」
警官隊の人も愕然としているが、すぐに気を取り直して手を差し伸べてくれた。騒然としたモールにようやく、束の間でも、荒い息を整える時間が訪れた。
4.第一区〜高速道路〜(escape)
「君は強いねぇ!こんなに怪我をしているのに一つも泣かないなんて、お姉さんと一緒に警官隊やってみない?」
「……いい」
「だよねぇ!ごめんねぇ!はい、これで大丈夫!応急手当てだから無理はしないでね!」
「ありがとう、中の人達は……」
「今応援を呼んでいるところだから、もう少ししたら救助隊が来てくれるよ!もしかして家族とか友達かいたの?」
「ううん、いないけど……」
「そっかぁ、優しい君は警官隊よりナースさんかな?お目目もぱっちりしてるからきっと人気者になれるよ!」
「いい」
「だよねぇごめんねぇ!」
主要都市の警官隊がショッピングモールに駆け付けてくれたおかげで、目の前にいた鉤爪のビーストを何とか無力化することが出来た。黒く爛れて酷い臭いがする防護壁のすぐそばで、同じように高電流に焼かれて今も変わらず蹲っていた。ビーストの回りに腕や足、関節などを守るようにボディアーマーを着込んだ警官隊の人達が緊張した面持ちで見張りをしている。
ビーストに撃ち込まれたのは軍が使用している「スタンピン」という、可愛らしい名前とは裏腹にビーストを一撃で仕留める特殊兵装の一つだった。射出された二本のピン、電極から最大で十万アンペアの電気が流れる仕組みになっている(ちなみに人は百アンペア以上で死に至る危険がある)。連続して使用出来ないが、街中で扱える最大攻撃力を持った兵装だった。
アカネの手当てをしてくれていた、やたらと元気で冗談ばかり言う警官隊の女性にアイエンが近づいていた。頭や腕を包帯で巻かれたアカネを労るように一瞥した後に状況を聞き出している。
「どうやら大規模停電が発生したみたい」
「停電?このショッピングモールが、ですか?」
「ううん、第一区全体で、どこもかしこも真っ暗よ、それに電化製品も軒並みやられてしまったみたいで使い物にならないの、だから軍の払い下げで引き取ったこの兵装車両で遅れて来たってわけ、車も全部そうだよ」
「そんな……それなら、バスやモノレールも……」
「そうなるね、それに通信機器も使えなくなってしまったからどことも連絡が取れないし、軍も政府もそう、孤立しているわこの街は」
その言葉を聞いてアイエンが慌てて端末を取り出した、何やら操作して耳に当てたり離したり、本当に使えないらしい。
「あぁ…どうして、一体何が……」
「分からない、解散した特殊部隊へ人を送っているけど、いつ到着するか……」
元々この警官隊の女性は、アカネと同じようにはつらつと元気がある人なのだろう。利発そうな眉も下げ、真っ直ぐに向ける瞳も不安で翳っているように見えた。
「でもまぁ、不幸中の幸いね、軍事基地が破棄されたおかげであちこちに軍用の車両や兵装が出回っているはずだから、銃器に関しては払い下げの手続きが終わっていなかったから手元にはないけど…」
特殊部隊、そう呼ばれている人達が手にする銃はビーストをも穿つ殺傷力を唯一持ち合わせているのだ。それ以外の警官隊、また警官隊でも対処し切れない犯罪事件が発生した場合に出動する「区部隊」、略して区隊と呼ばれている人達は非殺傷性個人武器しか携行出来ない。
まさかこんなところで、軍学校のために勉強して蓄えて、頭の奥底で腐って朽ちたと思っていた知識が出てくるなんて思わなかった。
「こんな時に中層にいる人達は……ゴミなんじゃないのか、何のために……」
醜く顔を歪め、周りにいる警官隊やアカネも忘れてアイエンが口汚く、ここにいない人達を罵っている。その様子を少し悲しそうに見つめているだけで女性は何も言わず口を閉じていた。
ちらりと、おれに視線を向けた女性が目を剥いてこちらに歩み寄ってきた。自分のこめかみあたりを指でさしながら、
「君!その怪我大丈夫なの?!そんなはずないよね?!何で黙っていたの!!」
「痛みが引いたのでもういいかなって……」
「それが一番不味いの!変なところで意地張ってないで手当てを受けなさい!」
警官隊の人にも意地を張るなと怒られてしまい、ふとルメラのことが気になったので周囲を探してみると破壊された入り口に乗り上げていた兵装車両の近くにぽつんと、一人で立っているではないか。どうしてあんな所に...すかさずアイエンに目配せしてあごでしゃくってやると、何故だかかぶりを振られてしまった。意味が分からない。
「ほら!捕まえた!治療を受けないなら牢屋にぶち込むよ!」
「その、その前にあそこにいるおれの家族も!診てやってください!」
おれの怒鳴り声に気付いたのか、言葉が届いてくれたのか、はっとした表示でルメラがこちらを向いてくれた。
「あの子は大丈夫!君が一番ヤバいの!ほら!」
「わか、分かりましたから!」
警官隊の人に左腕を掴まれてずるずると引きずられていく、ルメラのことが気になって仕方がないおれは何度も視線を送ったけど無視されてしまった。
その態度にムカついた。
「あそこにいる!おれの!大事な家族も!一緒に!診て!」
もう、皆んなに聞こえるぐらいの声量で喚き散らしてやった。不機嫌になっていたアイエンも、アカネ、それからその隣に身を寄せるように座っていたルリカも、見張りに立っていた他の警官隊もおれのことを見て、それから無視しやがったルメラにも視線を寄越していた。
「普段はお澄まし顔のくせして!少しでも失敗すると一人で勝手に引きずる!メンタルがったがたのルメラも!一緒にっ」
「分かったから騒がないで!傷に障るでしょう!ほらそこのあなた!あなたもこっちに来なさい!」
ようやく思い通りに動いてくれた警官隊の言葉に、ルメラもゆっくりとこっちに近づいてきた。無視するからだぞ!
けれど奴らには、おれ達家族の間に生まれつつあったわだかまりは関係なかったみたいだ。見張りに立っていた警官隊の張り上げる声に場が再び緊張と不安に支配されてしまった。
「ビースト!ビースト!」
「どこだ!」
「天井!数は一!」
「スタンピンは?!」
「まだです!使えません!」
「早くしろ!」
蹲ったビーストも無視しておれ達を守るように展開し立ち位置を変えていく、おれを治療するために医療キットを手にしていた女性も慌てて兵装車両の方へ走っていく。
「ルメラ!早くこっちに!根性なしのアイエンなんか気にするな!」
おれの言葉を聞いて走り出したルメラの姿が、飛び降りてきたビーストのせいで見えなくなってしまった。一瞬、踏み潰されたんじゃないかと血の気が引き、代わりに頭から足の爪先まで真っ白く得体の知れない感情が満たされていった。
「ルメラ!ルメラぁ!」
「大丈夫!こっちは大丈夫だから!」
ルメラの声に力が抜けてしまいそうになる程安堵したのも束の間、一度空けられた天井から降りてきたビーストがゆっくりと、のっぺりとした頭を周囲にぐるりと向けた。他のビーストとは全く違う、どこか獣を思わせる姿ではなくどちらかというと人間に近いそれだった。頭には尖った耳も鋭く尖った牙もない、けれど手や足は明らかに人間のものではなかった。地面に垂れるほど長い腕を引きずるように歩き、崩れ落ちて動かないもう一体のビーストへと歩みを進めていた。
「早く早く早く早く!バッテリー残量なんか気にするな!ここで仕留めないとどのみち後はないの!」
女性は緊急射出に切り替えるつもりだろう、バッテリーは著しく減ってしまって三度目は撃てなくなってしまうが言う通り、ここで倒さないとどのみち三度目はない。おれ達は歯牙にも掛けない様子で倒れたビーストの前で立ち止まり、そしてのっぺりとした頭に大きく裂けた口元が現れそのまま大きく、その口に頭が飲まれるんじゃないかと思える程開けた後かぶりついてみせた。
「?!」
「あいつ何やってんだ…」
おれのそばにやって来ていたアイエンも、奇怪な行動をしているビーストを不気味そうに見ていた。倒れたビーストの腹あたりを、金属を擦り付けるような不安にさせる咀嚼音を鳴らしながら食べているのだ。
「今!今!ここで逃したら次はない!」
車両に収納されていたピンが持ち上がり、低く微かに振動するような音が聞こえ始めた、そして間髪入れずに警官隊の号令。
「ってぇー!!!」
空気の抜ける音ともにピンが射出され、過たず共食いをしているビーストに二本突き刺さった、その反動でビーストがよろめき、ついで高らかに死刑宣告がなされた。
「殺せぇっー!!!!」
最大出力十万アンペアが、地で発生した雷の如くビーストに落ちた。致死の力を持った雷をその身に直撃させられたというのにビーストが立ち上がってみせた。
「そんな!」
「流せ流せぇ!出し惜しみはあの世でやりなさいっ!!」
警官隊の号令を受けて再度雷が落とされるが、ビーストはその動きに変化がない。ピンが刺さった胴体は確かに小刻みに震えてはいるが体全体に伝わっていないのか、長い腕を食べていたビーストに巻き付けて...
「逃げて!逃げてください!!」
持ち上げ構え、兵装車両に投げつけた。おれの叫びも虚しく、今まで聞いたこともない風切り音と見たこともない大質量の物体が宙を飛び車両へと叩きつけられた。車両はぶつけられたビーストによって装甲板がめくれ、射出台も破壊され、中に乗っていた警官隊も外へと投げ出されていた。飛び跳ねるように跳躍してきたビーストがひっくり返ってしまった車両に上から着地して、未だ地面に倒れていた警官隊の人達を次から次へ、その首を捻じ切っていく。あまりの惨状に言葉を失い、捻じ切られた首がおれ達のところへ飛んできた、生温かい血と何かが顔と服にかかってしまい、正気を狂気に代えられそうになった時手を強く引っ張られた。「早く!」おい!警官隊の人は「そんなのはいい!私達だけでも逃げるの!」ざけるな!お前はまたそうやって!」
ルメラの力強い言葉に正気が戻ってきてくれた。
「いくらでも罵って嫌いになればいい!私は私の身の周りのことしか考えられない!今度こそ自分から絶対に手は離さないって決めたの!お願いだから付いて来て!」
生温かい何かが触れた顔に、今度は熱くて頼もしい何かが当たった。それはルメラの決意に満ちた瞳から溢れて出た涙だった。
◇
ショッピングモールを後にして飛び出した外は、警官隊の人達が壊した建物の瓦礫と酷く擦られた跡がある一般車両、他のビルの壁に挟まれた細い通りになっていた。モールに入る前は澄んだ青空を見せていたのに今は曇天に様変わりしている、第一区も忍び寄っていた敵に襲われてしまったようだ。
細い通りに路上駐車された車も酷い有りさまだった、ボンネットが焼け爛れたように溶かされたものや、さらに内側から爆発したように原型を留めていない車もあった。兵装車両に擦られただけの車もちらほらとあるにはあるが...ちらりとルメラがおれを一瞥して、何も言わずに再び前を向いた。
(こんな時ですら…)
細い通りを抜けて幹線道路に出て、その上を走る高速道路の高架下で誰からともなく立ち止まり、荒い息を整え始めた。ルメラにアイエン、それから疲れ切った顔をしたアカネにルリカ、ちゃんと皆んないる。モール方面から軍事基地の方面へと伸びる高速道路を支える壁にアカネとルリカがふらふらと歩いて、壁に背を預けるように座り込んだ。それに倣ってアイエンも並んで座り、おれとルメラだけが周囲を警戒していた。
「変じゃない?気のせい?」
「変、気のせいじゃない、おかしいよ」
これだけ広い通りに人っ子一人いない、ビーストが襲撃しているはずなのに逃げ惑う人が誰もいないのだ。モール内の阿鼻叫喚と化した騒がしさとは無縁な静けさに満ちていた。
まだ、整っていない息を吐き続けているルメラの顔を真っ直ぐに見た。それしか出来ない自分が何だか歯痒いが、いい。
「ありがとうルメラ、おかげで皆んな助かったよ」
「私は、」
「これのどこがっ?!助けてくれた警官隊の人達を見殺しにしてまで言うことかっ?!この人殺しがっ!俺まで犯罪者にしやがって!」
「アイエン!!」
「お前もだよエフォル!何を呑気に手を引っ張られているんだ!止めろよ!大事な家族なんだろ?!人殺しになったあいつを見てまだそんな事が言えるのかっ!」
「いい加減にしろよっ!ルメラが逃げ出す判断をしてくれたからおれ達はこうしてここでお互いに罵り合っているんだろっ!あの世で綺麗事を言ってる方がマシだって言いたいのかっ!」
「くそっ、くそっ!………はぁ、何でこんな事に、ただプレゼントを買いに来ただけなのに………」
「…………」
地面を何度も拳で叩き、丁寧にセットしてある髪も引っ掴み取り乱している。そんなアイエンを見ているのは辛かった、けれどどうすることも出来ず、労りの視線を向ける以外になにもなかった。
隣に座っているアカネとルリカはそんなアイエンから距離を置くように体を離して、誰の顔も見ようとはせず視線を落としていた。人としての本質が表に出ているだけだと、自分に言い聞かせて、また皆んなに聞こえるように少し大きめの声でルメラに話しかけた。
「ルメラ、もしかしたらおれもアイエンみたいに取り乱すかもしれないからさ、先にお願いしておきたいことがあるんだ」
自分の名前を呼ばれたアイエンが虚ろに光を失くした瞳を向けて、身を寄せ合うことも止めてしまったアカネとルリカも顔を上げてくれた。
「……何?」
「見捨てないでくれないか、どれだけダサいこと言ってもさ、どんだけ泣いてもさ、「皆んなが信じられない!」とか「もう駄目だ!」とか「死んだ方が楽だ!」とか喚いても、その場限りの言葉だから絶対に、誰から話しかけられなくなってもやっぱりおれはあの孤児院に戻りたい、ファラに会いたいんだよ」
おれの言葉を黙って聞いてくれたルメラが、少し視線をずらした後再びおれを見つめてしっかりと言ってくれた。
「当たり前だよ、こんな所で何を叫ぼうが気にならない、言ったでしょ?私は自分と身の周りのことしか頭にないって、いちいち何を言われたかなんて覚えるつもりはないよ」
やっぱりルメラは頭が良いな、おれの言い回しの真意も汲んでくれて励ましてほしい相手にも言葉を届けてくれた。
「この音……何?」
ルメラの訝しむ声に周囲を探った、微かに何かが擦れる音が聞こえる、それも複数。
「う、後ろから、後ろから聞こえる」
「上じゃない?上だよ」
疲労から回復したアカネとルリカが口々に言うが、擦れる音は小さく感覚も短い。ルリカの言う通りおれ達が走ってきた、モールがある方向からだった。
「来る!こっちに来る!」
「皆んな集まって!」
「集まってもいいの?!逃げないの?!」
「静かに!」
「ほらアイエンも!いいからこっちに!」
「早くアイエン!」
「来た!やっぱり後ろから!」
「しっ!」
「あっち行けぇっあっち行けぇ!」
「声に出さないっ」
「……」
「……」
「……」
「見つけたぁ!!」
「いゃあっ!」ぎゃあっ!!「やだぁ!!」うわぁっ?!!」
ん?あれ?
「警官隊の人!」
「何その呼び方!私にはマヤサって名前があるのよ!」
体を寄せ合って縮こまるように隠れていたおれ達を見つけたのは警官隊の女性だった。それに他にも何人か、怪我をしているようだけどしっかりと立っていた。見捨てて逃げ出したおれ達を制裁するために追いかけてきたのだろうか...生きていたという安堵と安心から一転、罪悪感に苛まれてビーストじゃないのに逃げ出したくなった時、女性...マヤサさんがにかっ!と笑った。
「良いねぇ君達!その思いっきりの良い判断!助けに来た私達をあっさり見捨てるなんてなかなか出来るものじゃないよっ!誰?誰から逃げ出したの?」
ルメラがすっと立ち上がった。
「私です、私が皆んなに逃げようと言ったんです、だから、」
「君かぁ!顔に似合わず非情な判断が出来るなんて!私の代わりに隊長やってくれない?」
「マヤサ隊長!子供達に言うことでは……」
「あの……怒っていないんですか?私は皆さんのことを……」
「あの場に残って何か出来ることでもあった?」
その言葉にぽかんとルメラが口を開けている、そしておれもだった。
「ないよね?なら、君の判断が正しいの、倒す手段も助ける方法もないなら逃げる、助けに入った私達に同情して二の足踏まれてしまったらそれこそ助けた意味がないもの、君の背中は格好良かったよ!ベテランでもなかなか出来ない判断をやったんだから!ね?だから代わりに隊長やってくれない?」
何なんだこの人。
「勇気を振り絞るのと非情に徹することは殆ど同じ意味だから!気にしないっ!そんなくよくよしない!ま、ここがあの世なら違うこと言ってかもしんないけどね!」
「だから隊長!」
「隊長って止めてくれないかなっ?!少ししか関わっていないのにいきなり隊長だなんて無理なんですけど!あの二人を呼んで解雇通知出させてもらってよ!」
何なんだこの人、二回目だけど。
◇
おれ達五人とマヤサさん率いる警官隊は四人、計九人が乗れそうな車を探すことになった。ビーストを投げつけられたマヤサさんは間一髪のところで車から飛び降り助かったんだそうだ、「私も大して変わらないよ、ね?だから…」三度目に渡る隊長勧誘もルメラは愛想笑いで迎え撃ち、あえなく撃沈したマヤサさんが気を取り直して、政府のプライベートタウンがある第十二区へ避難しようと提案した。そして、先程から生き残っていそうな車両を探しているのだが...車よりも、幹線道路に広がっている光景を目に入れないようにする方が大変だった。そのせいもあってアカネとルリカは他の警官隊の人に護衛をお願いして高架下に待ってもらっていた。
「車といっても……一台ですか?」
「うーん…できればそっちの方がいいけどねぇ、あんまり分散させたくないし、いざっていう時の対応が複雑になって面倒だからさ」
防護服に身を固めたままのマヤサさんと一緒に、幹線道路沿いの通りを乗り捨てられた車を物色しながら歩いていた。
「それなら最初っから分散させていた方が……」
「そう?固まって移動している方が楽でしょ、分散させる時なんて逃げる時以外にないんだしさ」
「そう……ですね」
「いいよ、君も向こうに戻ってなよ、ここは私が見ておくからさ」
「…平気なんですか?」
「ううん、今にも頭がバグりそう、君達を第十二区に届けた後は壊れるかもしれないね」
自分から壊れてしまうと、まるで日常会話のように言ってのけたことが異常だった。
ヘルメットを取ったマヤサさんは、最初に感じた印象通りの人だった。短い髪を少しだけ茶色に染めて、くりっとした瞳は何だか子供っぽい。まるで大人になったアカネを見ているような気分だった。なるべく右側を見ないように視線を少し下げて歩いていたのに、通り沿いのパーキングエリアに停められた一台の大型車に視線が移った際に見てしまった。
「………」
「見るだけ無駄、止めときなって」
何車線も通っている幹線道路の交差点には、数え切れない程の人達が山のように積み上げられ、その回りには助けに入ろうとした警官隊や区隊の人達が頭や胴を噛まれ、切られて、見るに耐えない姿となって晒されていた。そしてまた、微かに呻き声が風に乗ってこちらまで流れてきた。胸が締め付けられて立っていられなくなってしまう、マヤサさんと会話をしていた時も聞こえていたので無視することに耐えかねていた。
「あれは……」
「君は私を壊したいの?」
「………」
「まさかさっき言ったことを自分が実践する羽目になるなんてやってらんないよ、死んだ方がマシだったなんて思ったのは初めて」
ひたすら前を向いて大型車へと歩みを進めた。大型、と言ってもそれは乗用車の範疇で決して軍用という意味ではない、それならあの車ももしかしたら壊れて使えないかもしれないと、徒労に終わってしまいそうになったけどマヤサさんがわざとらしく明るい声を上げた、おれと同じように大型車を見つけたらしい。
「お!ラッキーじゃん!オフロ専用のモデルだし、これなら……」
壊れないようにと、有り得ないことを想いながらマヤサさんの言葉に乗っかった。
「お風呂?」
「オフロードっていう意味ね、わざと悪路にしたコースを走って楽しむ人達がこの世にはいるんだよ、私は一度もやったことがないけど」
「あぁ…それなら街中は何て言うんですか?オンロ?」
溝が深く他のと比べても一回り大きいタイヤを履いた、どこか軍用車を思わせるデザインをした車だった。しげしげと眺めていたマヤサさんがささっとこちらを向いてまた、にかっ!と笑ってくれた。
「君、面白いこと聞くね、ちなみにオフロなんて呼び方してるの私だけだから、他の人に言うと恥かくよ」
「はぁ、聞いといて良かったです…」
「言わない方が面白かったかもしれない」
マヤサさんが矯めつ眇めつした後、ポケットから小さなカードキーを取り出しおれに、人差し指を口元に当てながらドアノブに近付けていく。すると簡単にロックが解除されてドアが開いた。
「え?マヤサさんの車だったんですか?」
「良いねぇその反応、けど違うんだなぁ、これは警官隊しか持っていない全車両対応型のマスターキーなのさ、どんな悪質な路駐も一発御用!ってね」
マヤサさんが大きく、肩で溜息を吐いてから運転席側に回り込んで車の中に入り、そしておれに手招きをして助手席に座るよう促してきた。既にマヤサさんが開けてくれていたドアから助手席に座り、キャラクターのキーホルダーと家族写真がナビのデスクトップに設定されているのを見てしまい、何だか申し訳なくなってしまった。マヤサさんは何も言わずエンジンをかけて、そのままするすると車を来た道へと引き返していく。
「はぁ…悪いね、付き合わせちゃって」
「あの……大丈夫ですか?おれ、もしかして気をつかわせてますかね」
そこでぎゅっと目蓋を閉じて深く深く呼吸をしている。おれと話しをしているとたまに溜息を吐いていたので、疲れさせてしまったのかと思っていたけど...また、溜息を吐いてから目蓋を開けてこちらを見ずに真っ直ぐ向きながら、とても嫌そうに答えてくれた。
「君は優しいけど疲れるね、あんまりそう、ほいほい人の胸の内は聞くもんじゃないよ、勝手気ままに振る舞ってくれた方がいい時もあるんだよ」
「それなら無理ですね」
「お、以外な反応」
「だって自分より気になって仕方がないので」
「それは棚上げに通ずる話しじゃない?」
「そうかもですけど、一緒にいる人には楽にしていてほしいので、嫌なことがあったらすぐに聞いてしまうんです」
「ならもういいよね?私が立場的に君達の面倒を見ているだけであって、私情で動いていないことぐらい分かるでしょ?」
「だから届けた後は壊れるかもしれないと言ったんですね」
「そう!君は頭が良いね、ますますやり難いよ」
「そうですか?おれは話し易いと思っていますよ、嫌なことでも隠さず言ってくれるので」
「いやぁ、もう少し年がいってたら惚れてたなぁその言葉」と、マヤサさんの独り言に混じって窓の向こうからおれ達に助けを求める声が聞こえ、人の山の中から細い腕が伸ばされているこの光景は悪夢以外の何物でもなかった。知らない年上の人と気兼ねなく話す楽しさと、助けられない、人としての道徳心を自分から踏みにじるような罪悪感が、混ざり合っているようで分離して、それなのに一つの空間に完成した形となってまざまざと見せつけられていた。
...助けに行けるはずがなかった、山の近くにはまた、見たこともないビーストが牙を剥いて待ち構えていたから。そのビーストにひたすら見つめられて車を探索していたさっきの時間は生きた心地もしなかったし、助けを求める人の声を無視する非情さと相なっておれも壊れてしまいそうになっていた。