第三十六話 再び仮想世界へ
36.a
ふうむ...何とかここまで事を進めてきたが、この先どうなることやら...この二人の監督役は儂がせねばならんのか。
ポッドルームからグガランナ・マテリアルを移動させるためだけに設けられた真円に近いトンネル通路を、ゆっくりとした速度で飛んでいる。艦体と壁との距離は、ティアマト・マテリアルの大きさしかなく少しでも操縦を誤れば甚大な被害が出るだろう。
オレンジとブルーの誘導灯に導かれて下層出口へと慎重に向かっている。
ーマギール、いちいち溜息を吐くのはやめてちょうだいな、ここに入る時だって一度もぶつからなかったでしょうー
艦内スピーカーから、儂の心労を無下にするような言葉を投げかけてくる。
「違う、お前さんらの面倒を見ないといけないのかと、さっきから溜息が出ているのだ」
「……」
ー……ー
ティアマトの不躾な視線に晒されながらも前方を注意深く観察する。すると、連続して点灯していた誘導灯の一部が消えていた。さらにクモガエルと思しき白い糸が丸い形を形成して壁に張り付いていた。
「グガランナ、周囲を見てくれ、クモガエルの痕跡が見つかった」
ー言われなくてもー
「あれが…」
ティアマトは初めて見るのだろう、何かの卵を思わせる白い塊を注意深く見ている。
「……確かに蜘蛛のようね、あれは卵でしょう、まだ孵化はしていないようだけど…」
ー焼きましょうー
「待たんか」
ー何故かしら、あれに悩まされているからアヤメ達は仮想世界で訓練を受けているのよ?まさか、研究したいとでも言うのかしら?ー
その通りだ。虫、彼らは確かに忌み嫌われてきた生き物だが、その多様性は限りなく最後まで発見出来ずにマグマに飲まれてしまった虫達もいようというものだ。
だが、さすがに状況もあって我儘を通す訳にもいかずやむ無しとグガランナに命じた。
「……焼いてくれ」
ーあら、あなただけここで降ろしてもいいのよ?いつもの図鑑を片手に好きなだけ戯れてきなさいなー
「それも良い考えね、降りてきたらどうかしら?」
早速これだ。先が思いやられるにも程がある。
似たような口調で嫌味を言う姉妹に向かってくだらない質問をしてみた。
「ちなみにだが、お前さんらはどっちが姉になるんだ?」
ー私よー
「私よ」
「そんなわけないでしょう?あなたが妹よ」というところまで見事に発言が一致した、起きながらにして悪夢を見ているようだ。
そうこうして艦体を進ませていると、今まで導いてくれた誘導灯が切れ、目前に大型のハッチが見えてきた。グガランナ・マテリアルの認証を受けて、ポッドルーム前通路と同じ制御で次々とロックが解除されていく。密閉性を重視したロックが外れていく度に外界の汚染された空気がトンネル内に侵入してくる。グガランナ・マテリアルの後方数百メートルに渡り隔壁が降りて空間が隔離される。さらに後ろに視線を送るとさっき見た蜘蛛の卵が瓦解しているのが確認出来た、いくらか落ち込んだ気持ちでコンソールに表示された映像を見ていると、らしくもない発言が聞こえてきた。
「……汚染された空気に触れて、死んでしまったのね…」
「その慈しみを少しでもいいから儂に向けてくれんかの」
「あなたが空気に触れた時は祈りの言葉を捧げてあげるわ、好きなだけ触れてきなさいな」
「全く」
ーはぁ…ついにここから出るのね、早く終わらせて彼女に会いたいわー
「安心しなさいな、二日後には戻ってくる計算だから、あなたはただ言われた通りに飛ばせばいいのよ」
ーアヤメ達も二日後に間に合うのかしら、いくら仮想世界で専用の訓練を受けるといってもすぐに会得出来るものではないわよね?ー
「ええそうよ、だからあの子達には三ヶ月間、みっちりと訓練を受けてもらうわ」
何を言っとるんだこいつは。
「お前さんは馬鹿か?二日後に襲ってくると言っておるのだぞ?三ヶ月間も仮想世界に飛ばしてどうするのだ」
儂の発言にいくらか不機嫌になりながらも、とんでもない答えを返してきた。
「分かっているわよそれぐらい、あの子達のサーカディアンリズムを調整して一時間で約二日分の時間を過ごせるようにしてあるの」
「………………」
黙って聞いていたグガランナも言葉が出てこないようだ。
ー………………ー
「それは…大丈夫なのか?精神的なフィードバックで廃人になったりはせんか?」
「大丈夫よ、あの子達にはきちんと事前説明してあるから」
「そういう問題ではない!!!」
ーそういう問題ではないでしょう!!!ー
儂とグガランナの叱責に耳も貸さず、ついにグガランナ・マテリアルが再び地球の大空へと船出した。
36.とあるマンション
僕が目覚めた場所は真新しい寝室のようだった。ベッドに仰向けに眠っていたようで暫く、白くて一つもシミがない天井を見上げていた、手のひらを目の前まで持ってきて握ったり開いたりしてみる。何も変わったところがない。
(感覚は…こっちに来る前とは変わらないんだな…)
まぁ、手をぐーぱーしただけなので詳しく調べてみないと分からないけど。念のため、下半身に集中してみた。ある。
(良かった…)
何が?と聞かれたら困るけども、とにかく良かった。今度はゆっくりと起き上がりベッドに腰をかけてみる、室内を見渡すとある程度は家具が揃っているようで生活を送るのに不便は無さそうだった。全て木材の家具で揃えられた室内はどこか、お店のモデルルームのような印象を受けた。部屋の入り口と窓際には広い葉っぱが付いた観葉植物も置かれていて、いよいよお店の中に来てしまったような感覚になってしまった。
「よいしょっと…」
今度はゆっくりと立ち上がり少し歩いてみる。やっぱり向こうと何ら変わりがないように思う、本当にここが仮想世界なのかなと、疑問に思えるぐらいだ。
(てっきり体が霞んだり、軽かったりするのかと思ったけど…)
そんな事はなかった、いつも通りで何だか拍子抜けしてしまった。
「いや、もしかしたら…」
何でこんな馬鹿な事をしたんだろうと、後になっても後悔しかなかった。やおら履いていたズボンのファスナーを開けて中身を確認しようとした時に、
「やっほーテッド、体の調子は………………」
ノックもせずにアマンナが入ってきた。とっても間抜けな姿で彼女のぽかんと開けた口を見ながらも、高速回転させた頭の中で言い訳を弾き出す。
「いや…あのね、ティアマトさんが僕のことを女の子と間違えているんじゃないかって…気になったからだよ?」
「そんな訳ないでしょ」
初めて聞いた冷たい声と共に、アマンナに引っ張られながら部屋を出た。
◇
「変態お兄ちゃん」
「やめて」
「あ、これなんていいんじゃない?変態ちゃん」
「やめて、言うならお兄ちゃんってちゃんと言って」
「あーこれもいいなぁ、お兄ちゃんはどれにするの?」
「いや、あの、アマンナ?順応力高すぎじゃないかな」
軽蔑の眼差しを僕に向けている。短く溜息を吐いた後にいくらか真面目な調子で言ってきた。
「まったくけしからん…こっちに来て真っ先にズボンの中身を、」
「わぁーわぁー!!やめなよ!人前でっ!!」
店先の通りを歩いていた僕達の周りにはたくさんの通行人がいた。カーボン・リベラとは違って誰もマスクをしていない、きっとこの街は異臭なんてものがないからだろう。何人かが僕達を見ながらも、何事も無かったように通り過ぎて行く。
「大丈夫だよ、ここは仮想世界だから誰も聞いちゃいないよ」
そう言って繋いでいた手を引っ張りながら、家具量販店の店先から歩いて行く。
僕と同室になったのはどうやらアマンナのようだった。ティアマトさんから仮想世界ではみっちり訓練を受けてくるようにと言われて、ここでの生活は何と三ヶ月間もあるらしい。説明を受けたけどよく分からなかった、マギールさんと同じ体内時計の話しをしていたけど。
二人一組で互いに切磋琢磨するようにと、誰と同室になるかは着いてからのお楽しみと言われていたので心からナツメさんとなるようにと祈っていた...まぁ結果はアマンナになった訳なんだけど、まぁいいっか、彼女とは一日中過ごしてみたかったし。
(一日どころか九十日間も一緒になっちゃったけど)
頼り甲斐がある妹みたいなアマンナと手を繋ぎながら訪れた街を見てみる。印象的なのがとにかくこの街は電柱が多い、それに建物と道路の間がとても狭く通行人と当たってしまいそうだ、それに近くに山も見えているのでどこか懐かしい感じもする。一車線しかない道路もすれすれに車が行き違いどこか忙しい、錆びだらけのフェンス沿いの道を歩いているとアマンナが鼻歌を口ずさんでいた。
「どうしたのアマンナ、楽しそうだね」
僕の質問に目を輝かせながら、とても楽しそうに答えてくれた。
「だって!三ヶ月間も遊べるんだよ?楽しまないと損だよ、それに一人部屋なんて初めてだしさ、何を置こうか夢が膨らむってもんだよ!」
「ふふふっ何それ、遊びに来たんじゃないんだよ、ちゃんと訓練を受けないと駄目だよ」
「分かってるよ、それに学校は明日からなんでしょ?せっかくテッドを独り占め出来るんだから遊んどかないと」
「はいはい」
「なぁーにそれ、ナツメの真似?」
「違うよ、ほら買い物に行くんでしょ?僕も欲しい物があるから、あそこの大きい建物に行こうよ」
「いぇーいっ!行こう!テッド!」
繋いだ手を離さないまま小走りで駆けて行く。
遠くには大きく縦に伸びる雲があって、その下には緑色に沢山の木々を生やした山もあった。街の建物はどこも低く、なだらかな坂の上からこの景色が全部見えてしまうのだ。ミンミンと何かが鳴いているのか、聞こえてくる中にもアマンナの楽しそうな鼻歌と街の喧騒に包まれながら大きな建物を目指して歩いて行った。
36.とある一軒家
「あー…疲れた…」
「お疲れ様、プエラ」
こんな荷物を一度に持ったことがなかったので手が痛かった。ビニール製の袋の中身は食材がこんもりと入っている、赤いやつや葉っぱが固まったようなやつ、それに土がついたまるっこいやつ、とにかくたくさんだ。アヤメは前に行った仮想世界で食材の事を覚えたみたいなので、二人で行ったすーぱーとやらでアヤメの後ろをひょこひょこと付いて回りながら、「業務スーパー」と書かれたカゴに入れていくのを黙って見ていただけだった。
「これ何?」
「それは人参」
「へー、何か人の足っぽい」
「ちなみにこっちがレタス」
「葉っぱが固まったやつだよね」
「うんそうだよ、で、こっちがジャガイモ」
「何か強そうな名前だね」
「そうかもね」
..................ナツメが良かったぁ.....ナツメの方が良かったなぁ.......いやまぁ、確かにね?アマンナとか初めて聞いたマギリとかいう奴に比べたらマシなんだけどさ。何というか、こう...歯応えがない、会話に。気のせいかな?
「アヤメは何が作れるの?」
「うーんそれがねぇ…カレーとか煮物とか、簡単なやつしか作れないんだよねぇ、もっと勉強しておけば良かったんだけど」
何で聞いただけなのに申し訳なさそうにするの?
「ふーん、これからどうするの?」
「そうだね、とりあえずは休憩にしない?買い物でちょっと疲れたし、それにまだちゃんと見ていない部屋もあるしさ」
「まぁ…アヤメがいいならそれでいいけど」
アヤメが二つ分の袋を重そうに持って奥へと進んで行く。確かキッチンがあったはずだ、結構古そうなキッチンが。それにエントランスもやたらと狭い、いや狭いとかではない、二人揃って立つと少し窮屈になる。これエントランスなの?
それに何で靴脱がなくちゃいけないの?面倒臭いんですけど...
「よっこらせ」
アヤメにならって脱いだ靴を揃える。後で教えてもらったんだけど、ここはげんかんという場所で、さらにあがりかまちという高さがついた場所から靴を脱ぎはぎするらしい。
だから何で靴脱がなくちゃいけないの?
「アヤメー」
「ん?なーに?」
げんかんから通路を進んだ途中に、小さな棚の上に置かれた黒い小さな物体が鳴り始めた。止め方も使い方も全く知らないのでアヤメを呼んだのだ。
「何か鳴ってるよー」
「あーはいはい、多分ティアマトさんからだと思うよ」
いつの間に付けたのか、長い前掛けのような布で手を拭きながら少し慌てて小走りで駆け寄ってくる。
ちゃりんと鳴らしながら、とぐろを巻いたコードが付いた何か変なものを耳に当てて会話を始めた。
(あー、そうやって使うのか)
「はいもしもし、はい、私とプエラは無事に着きましたよ、はい、はい、え?、はい、えー…はぁ、はぁ、は?はぁ」
何か会話の雲行きが怪しいな。
「はぁ、はぁ、はぁー?!何でそんな事になってるんですか?!聞いてませんよそんな話し!何でいつもいつも説明してくれないんですか!」
放っておこう。
怒り始めたアヤメを他所にして家の中を探検してみる。
小さな棚が置かれたちょうど真ん前に引き戸がある、下は三分の一ぐらいが茶色で上が三分の二ぐらい白い紙が貼られた、何とも地味な風合いの引き戸だ。それを開けると薄い緑色の固い感触がする...何だこれ、草でも結ってあるのか縦と横に細かく編まれた、合計で八枚程の長方形の変わったラグが敷かれたリビングがある。真ん中には丸い茶色のテーブルと四角の紫色をしたクッション、それから...何あのモニター厚みが凄いんですけど、それに頭には二本の触覚みたいなのが付いている。近寄って見てみるとどうやら映像が流されているようで、舞台に上がった人達が何やら劇をしているようだ。
(何でこの人達笑われてるの?)
可哀想に...モニターを尻目に窓の外を見ると、所々塗料が剥げた家屋が並び、その向こうには立っている木々が見て取れる程に近い山があった。その麓には畑でもこしらえてあるのか手製の柵もあって何人かが腰を屈めながら何やら作業をしているようだった。初めて見る光景なのにどこか懐かしいと感じてしまうのは恐らく、ティアマトに何かしら弄られてしまったのだろう。
ダサいクッションをお尻に敷いて膝を抱えてぼんやりと眺めていると、リビングにアヤメが入ってきた。その顔は渋い。
「はぁー…全くティアマトさんは、私が言った事何にも分かってない」
「何かあったの?」
アヤメの向かいに座り話しの内容を聞いてみた。
「ここに三ヶ月もいないと駄目なんだって」
「………え、三ヶ月?」
「そう、何か体内時計を調整したから向こうに戻っても二日後になるようにしてくれてるっぽいけど」
アヤメの表情は暗い。え?三ヶ月?
「意味分かんないんだけど」
「私もそう」
「何でそれ今言ったのティアマトは」
「忘れてたって」
「いやいやいやいや!忘れる?!そんな大事な話し!」
「お詫びに何でも一つお願い事叶えてあげるって言われたよ、一人一回ずつ」
「それなら今すぐにでも訓練終えたことにして…」
「それは駄目だって、私も聞いた」
あれ、アヤメって意外とズルするのかな?真面目な人かと思ってたけど...
「えー…三ヶ月も…」
「それと、プエラの権能は使えないようにしてるからズルはしないようにって、ティアマトさんが言ってたよ」
「えー私が来た意味まるでないんですけど…」
「そう?私は誰かと一緒に居たかったからプエラでも嬉しいよ」
...でもって何?聞いていいのかな、誰でも良かったみたいな言い方されてもな。
「私以外でも良かったの?」
「あ、ごめん…そんなつもりで言ったんじゃ…」
まただ、聞いただけなのに。手を振りながら申し訳なさそうにしている。
「私、別に怒ってないよ?それなのに謝られると何も話しが出来なくなっちゃうよ」
「……そうだよね、ごめん」
アヤメに聞こえないよう、小さく溜息を吐いた。
こうして微妙な生活が、ミンミンと耳障りな音と共に始まった。変わらずモニターからは笑われている可哀想な人達の劇も流れ、アヤメと私も笑えない心境の中、どこからともなくリビングを後にした。
36.とある日本家屋
ねぇ、二度目に目覚めた朝の話しをしてもいい?いいよね?するよ?
何なのマジで意味分かんないだけど、何で起きたら畳の部屋にいんの?あのマンションは何処に行ったの?アヤメは?居ないんだけど。せっかく起きたっていうのに何で訳分かんない所にいんのさ、それに何回瞬きしてもティアマトは現れないし誰も説明してくれないし!
確かにね、あの時と違って寒くはないよ?むしろあったかいというか暑いんだよ!季節は夏ですかそうですか、さっきからひぐらしも鳴いてるし良い感じに夕日も部屋に差し込んで風情もあるよ?アヤメは?だからアヤメは何処にいるの?凄く会いたいんだけど。
朝じゃないんだよ!何で夕方に目が覚めるんだよ!これじゃまるで夜更かしして生活リズムが狂った駄目学生じゃん!
布団を吹き飛ばすように跳ね除けて起き上がり、全く知らない部屋の中に立ち上がる。目の前にあった襖を取り敢えず音を鳴らしながら開け放ち、綺麗に磨かれた廊下を踵で踏みつけながら歩く。
そうだまだアヤメがいないと決まった訳じゃないんだ探そう、もしかしたらこの古い日本家屋の何処かにいるかもしれない。
コの字型の縁側に差しかかり、可愛らしい灯籠が置かれた庭園にも夕日の光が照らしている。きちんと手入れされた芝生の中に庭石が敷かれ、その上には憎たらしい蛙が一匹私を見ていた。ムカついたので縁側から身を屈め白くて滑らかな石を摘み上げて蛙に向かって投げる、軽い音がした後に明後日の方向に石が飛んでいき、蛙も驚いたように何処かへと跳ねていった。
「誰かいるのか?」
「?!」
縁側の先、丸窓障子の方から低い女性の声がしたので私も蛙と同じように驚いてしまった。踏みつけていた踵もなりを潜めゆっくりと歩いて向かう。夕日の光と建物の影に隠れた曲がり角を恐る恐る歩き、中の様子を伺うように障子に手をかける。
(やっぱりアヤメはいないんだ…)
少し影を落とした心と一緒に障子を開くとそこには...
「君がマギリか?すまないな、一人で先に寛いでしまって」
臙脂色...と言えばいいのか、渋くて赤い作務衣を着た、黒い髪を肩の少し過ぎた辺りまで伸ばした女性が囲炉裏の前にあぐらをかいていた。
「そ、そ、そうです…あの、あなたは、」
「私はナツメだ、よろしく頼む」
ナツメと名乗った女性が囲炉裏に吊り下げていたやかんから茶飲みにお湯をくんで差し出してくれた。慌てて私は斜向かいに正座で座り、両手で花の模様が焼かれた茶飲みを受け取った。
「そんなに畏まらなくていいさ」
「は、はい…」
濃い茶色の瞳を向けられて萎縮してしまう。
淹れてくれたお茶を一口飲む。
「あ、あの、美味しいです、このお茶」
「それは良かった、初めて入れたんだがな」
切れ長の目を細めて私をゆっくりと見やり、熱いのが苦手なのか茶飲みの縁を持ってナツメさんも一口飲んだ。その仕草がとても様になっていたので思わず見惚れてしまった。
(何、この人…凄く…)
カッコいいんだけど?!!ヤバイんだけどさっきからドキが胸胸してる、いや胸がドキドキしてるんだけど!!
あがってしまった、こんなに人前で緊張したのは初めてだ。
「あの、一つ、いいですか…」
「何だ?」
一言!たった一言なのに!その、何だ?に込められた思いやりが滲み出るように伝わってくるのだ!私が話しをしやすいように微笑みかけ、飲んでいた茶飲みも置いて私に分からないように居住まいを正すその所作!
「ここは仮想世界、なんですよね…」
「あぁそうだ、ティアマトさんの言いつけでな、お邪魔させてもらっているよ」
あー、さん付けは聞きたくなかったな、あんまりカッコよくない。
「ということは、その、あー、な、なすめさんは現実の方なんですよね」
噛んだ!
「そうだ、私もここに来る前にまひりのこと、いやすまない…緊張してしまって嚙んでしまった」
...いる?こんな人いるの?わざと嚙んで私に気をつかってくれる人なんて、漫画やテレビだけの存在だと思ったいたよ。
少し赤らんだ...あれほんとに噛んだのかな。
「いえ、私も噛んでしまったので」
「…すまないな、あまり話すのは慣れていないんだ」
本当に噛んでたの?...可愛いなんだこの人反則だ。
その様子を見て少し勢いづいた私は思い切ってナツメさんに質問していた。
「どうして、ここに来られたんですか」
「人型機というのは聞いたことがあるか?その操縦ライセンスを取りに来たんだ」
「はぁ…聞いたことありますけど、向こうにもあるんですか?人型機が」
話し始めるといつもの調子が出てきたようだ。
「ある、そして二日後に迫った決戦の日に備えて私達は訓練を受けに来たのさ、そこで私と組むことになったのが君だよ、マギリ」
射止められたと思いましたマジで。
「………あ、いや、私で?いいんですか」
✳︎
「あぁ、私の相手が君で良かったよ、マギリ」
...本当に良かった...アヤメじゃなくて本当に良かった...
ティアマトさんからマテリアルで説明を受けていたのだ、仮想世界では二人一組で訓練に励むこと、さらに同じ屋根の下で共同生活をしてもらうと。
誰と組むかは着いてからのお楽しみだと言われた時から気が気じゃなかったんだ。アヤメと組むことになっていたらきっと私は、仮想世界から帰れなくなっていたことだろう、それか秒で現実世界に帰っていたかのどちらかだ。
何かあった時、というよりギブアップして戻りたい時はくろでんわの線を抜けと言われたが、まだ良く分かっていない。まぁいい。
マギリと呼んだ紫色の前髪を斜めに流し、少し大人びたこの子はアヤメと一緒に住んでいた女の子だ。一度も見たことがないのでおそらくそうだろうと、このおかしな部屋に入ってきた時に当たりをつけて呼んだが正解だった。
それにしても本当にアヤメではなくて良かった、来る前は子供のように縮こまっていた私の心が伸び伸びとした、余裕という翼を手に入れたおかげでさっきから調子に乗ってしまっている。マギリという少し頬を赤く化粧した女の子が私をナスメさんと呼んだので、私も無理して噛んでみたのだ。恥ずかしい。もうやめよう。
下を向いていたマギリが徐に顔を上げ、いつの間にけしょ...照れていたのか、さっきよりもさらに赤くなった頬を見せながら声をかけてきた。
「あの…訓練というのは…どれくらいですか?」
どれくらいとは…主語がないのでよく分からんが、期間のことを言っているのか。
「三か月だよ、その間君と私で共同生活をすることになっているんだ」
すると赤い頬が、建物の中だというのに目の前に焚かれた火のように真っ赤になり、かと思いきや今度は真っ白に、さらにさらにまた紅潮していく頬を見てこれはヤバいと声をかけようとした時に、小さな悲鳴を上げて最もなことを言った。
「あの!あの!ちゃんと説明してもらえませんか!私何も聞いていないんです!後でティアマト殴っておいてください!」
こうして二人の生活が、古めかしくも懐かしい感じのする変わった建物の中から始まった。
外からは涼やかで郷愁を誘う音色が聞こえ、夕日の光を浴びた廊下に一匹のカエルがいた。奴を見ても不思議と嫌な気持ちにならなかった。
余談ですが、今回の組み合わせは実際にくじを引いて決めました。