Cell.14 とっておきの切り札(嫌いだけど)
チルアウトミュージック【固有名詞】
ダンスフロアで踊った後に聴く、クールダウンを目的として作られたスローテンポの楽曲のこと。最近では、就寝前に聴く音楽として動画サイトに数多くアップされている。
グッドモーニング、おはよう。
どんなに辛い一日でも夜が訪れ、月がばいばいしたあと太陽がまたその顔を覗かせる。
「逃げるな!」
「ヤだヤだ絶対ヤだ!!」
そして、また辛い一日の始まりである。
朝、グッドモーニングしてすぐビーが私の部屋に突撃してきた!
「ヨーコてめえ!ライブの開催日が今日じゃないか!さっきハコの店長から連絡が来たんだぞ!どうして黙ってたんだ!」
「だって!だって!」
「お前に話してから何の返事も無いからってあと少しで出演がキャンセルになるところだったんだぞ!」
「──え、出るの?」
頭から被っていたシーツをどかし、見たくなかったビーの顔を見やる。
全然他人行儀ではなかった。ビーは口をぽかんと開け、驚いた顔付きをして私のことを見下ろしていた。
「お前まさか…キャンセルするつもりでいたの?」
朝も早いというのにビーは既に身支度を整えていた。アカデミーのジャケットを羽織り、良く目にするデニム生地のパンツを履いていた。
「だ、だって…ビーがセトリで怒ってるしサっちゃんに無視られるし…もう駄目かなって…」
「お前はそんな事で諦めるの?」
「……」
あ、あれ、何か変な事言ったっぽい、ビーから怒りの熱が失せていくのが分かる。
──ああ、そうだったのか、この時ようやく分かった、どうして今まで皆んなが他人行儀の顔して去って行ったのか。
「──だったらいいよ。無理強いするつもりはないから」
自分のせいだ!私が皆んなにそんな顔をさせていたんだ!
自分から逃げていたから!
「待って!」
ビーは待たない、待ってくれない、未練を感じさせない足取りで部屋から出て行く。
「待ってよ…」
まだ起きたばっかりなのに、いきなりフル回転で動けないのに。
部屋にはビーの怒りの余韻と、私だけが残された。
*
ヨーコを呼びに向かったビーが一人で帰ってきた。その顔には怒りとも呆れともつかぬ表情が宿っている。雰囲気がますます悪くなるばかりだ。
「ヨーコは出るつもりがなかったんだってさ」
「そう。どうする?本当にキャンセルする?」
言いたい事はあるけれど、まずは急遽日程が前倒しになった今日のライブについて話し合わないといけない。
高価そうな調度品に囲まれた船内の食堂に私とビー、それからプリド、良く面倒を見てくれるナツメさんと、私はあまり話したことがないグガランナという人がいた。
ビーはキャンセルするつもりはないらしい、聞かなくても顔に書いてある。
「私は出る。──本音を言えば、皆んなで揃って出たかったけどな、ソロなんかかまさずに皆んなで揃って」
「……」
席に着いているプリドがビーから視線を逃した。
「ビー、止めて、今そんな事言っても仕方ないでしょ」
「そういうサっちゃんこそ、抜けるつもりでいたんだろ?」
「はあ?」
「昨日私にだけメッセージを送ってきたじゃないか」
言いたかった事だ、ビーの方からその件に触れてきた。
「それは、そういう話をするためじゃない、どうしてそんな勘違いをするの?」
「サっちゃんが言ったんだろ、私の為に怒ってくれても嬉しくないって」
「それは今関係なくて…私がしたかった話はそういう事ではないの。それでメッセージを無視したの?」
「サっちゃんこそヨーコからのメッセージ無視したんだろ?」
「ビーだって私のメッセージ無視したじゃない!悲しかったんだから!」
「私だって──「止めろ止めろ、これ以上まともな話し合いができないなら私の方から断りの連絡を入れるぞ」
ナツメさんが鋭い目を私たちに向けながら、間に割って入ってきた。お陰で幼稚な喧嘩をせずに済んだ、でも、胸に燻るこの怒りは収まっていない。
(そっちだって無視したくせに!こっちは頑張って話し合おうとしたのに!)
ビーも私を睨んでいる、その瞳には怒りとも悲しみともつかぬ色が宿っていた。
ナツメさんが静かな口調で「ビスヘム」と呼びかけ、ビーが私に注いでいた視線を剥がした。
「私から見るに、リ・ホープの空気を悪くしているのはお前だ」
「なっ…」
ビーの瞳から悲しみの色が取れた、ついで怒声、三人の中で最も声量が大きく、あっという間に食堂の空気を支配した。
「私が悪いって言うの?!」
そんな怒声を真正面から浴びているのにナツメさんは小揺るぎもしない、私やヨーコだったら絶対に逃げ出している。
ナツメさんがまた静かな口調で話した。
「プリドから色々と事情は聞いた、思う所はあれどサーフィヤは納得したと聞いている。それでもプリドの決定に反対したのはお前だけなんだろ?」
「だけって何だよ、二人が言えない事を代わりに私が言ってあげんだよ!」
「リ・ホープはお前が結成したのか?」
「ああ?!だったら何だよ!私が結成していたら好き勝手できるの?!」
ナツメさんの─それは恐ろしいほどに─静かな瞳が私に向けられた。
「サーフィヤ、どうなんだ、誰が結成したんだ?」
「み、皆んなです、誰がとか、そういうのはありません」
質問はそれだけだった、ナツメさんの瞳が再びビーに向けられたことに安堵する。
「お前が責任を持っているわけではない、それなのにリ・ホープの決定に口を出して、あまつさえここまで来てまだ自分の意見を取り下げようとしない。いいか?はっきりと言わせてもらうが、周りと調和が取れない奴は迷惑なだけだ」
「なんだよそれ…悪者は私一人だけってか?──二人だってメッセージを無視って今日まで逃げていたのにか?!」
「それが今日のライブに何か関係しているのか?三人の足並みが揃わない事とライブに出る出ないの問題を一緒にするな」
「ふざけっ──いいよ、だったらいいよ、私が一人で出てやる!二人は乗り気じゃないしな!」
ナツメさんがまた、静かな口調で問いかけた。
「お前は一体何の為にステージに立つんだ?」
「……………………」
怒気を思う存分、表情に出していたビーの顔に亀裂が入った。また言い返そうとした口は開いたまま言葉は出てこず、ナツメさんではないどこか遠くを見るような目になった。
長い沈黙が下りる、この場に集った人たちの衣擦れの音しか聞こえない。痺れを切らしたナツメさんが呼びかけるが、ビーはただ一言、「待ってくれ」と、だけ。
また、長い沈黙、その後、さっきまであれほど怒っていたビーが、ナツメさんと同じように静かな口調で答えた。
「正直に言うよ、もう独りぼっちにならないため、だから私は歌を歌う。私の取り柄なんてこの声ぐらいだから、昔っから空気読めないとか人の気持ちが分からないとか散々言われて仲間外れにされていたんだ。でも、歌を歌えば皆んな聴いてくれる、人が寄ってくれる、そうやってサっちゃんとヨーコにも出会えたんだ」
(ああ…だから学園の時は…)
昨日、先生から見せてもらった動画が脳裏に蘇る。
ナツメさんに注いでいた視線をもう一度私に向けてきた、その瞳に先程の色は無く、あったのは初めて見る感情だった。
「勝手に喧嘩して悪かった」
何だそれって、そんなすぐに謝るの?って思った。
けれど、その言葉を聞いた私はひどく安心してしまい、目が熱くなって喉の奥がひくついて、ビーには悪いと思ったけど何も言わずに首を振っただけ、気にしてないよって伝えたつもり。
ビーは熱いなって思った、だからそんなに声が大きいんだよ、とも思った。
黙って成り行きを見守っていたグガランナさんがにわかに動き出し、「売ったら高そう!」とヨーコが言った食器棚の奥からその本人を引っ張ってきた。
「ほら、あなたもちゃんと話し合いに参加しなさいな」
「だ、だって、だって…」
ヨーコは起き抜けの姿をしていた、きっと顔だって洗っていないはずだ。
ビーの熱さにあてられたのだろう、私も正直に言うべきだと思い、ヨーコのメッセージを無視した理由を伝えた。
「ヨーコ」
「…っ」
名前を呼んだだけでヨーコの肩が跳ね上がった、きっと私に怯えていたんだ。
「メッセージ、無視してごめん。だって、バイト帰りのヨーコって愚痴ばっかりだからさ、相手にするのが面倒臭くて」
うん、ちゃんと伝えた、素直に伝えたからといってヨーコが許してくれるか分からないけれど。
泣きそうになりながら聞いていたヨーコが、ぱっと表情を変えた、今にも怒りそう、なんかこれならいけそう。
「なっ…め、面倒臭いって…面倒臭いって何それ〜〜〜!私はただサっちゃんがビーのことどう思ってるのか聞きたくて!それなのに勝手に仲直りしてるし!」
「勝手にって何だよ、来なかったお前が悪いんだろ。──というか!ヨーコだって私のメッセージ無視しただろ!」
「だって怖かったんだもん!私にだけ話があるって!言っておくけど怒ってるビーってナツメさんより怖いんだからね?!」
「知らねえよこの人の方がよっぽど怖いよ」うんうんと小さく頷く。
「そんなことよりヨーコ、本当にお前ライブに出たくないの?」
へっぴり腰だったヨーコのお腹に力が入り、ビーに負けるとも劣らない声量で答える、けれどその声は尻すぼみになっていた。
「出たいに決まってるじゃん!!でも!でも…練習とか、全然できてないし…このままじゃステージに立っても恥かくだけかなって…」
ナツメさんが唐突に「ぶわあ〜〜〜」と大きく溜め息を吐いた(それは溜め息なの?)。
「これでようやく三人の足並みが揃ったわけだ。で、次の問題だな、ライブをどうするか」
(あ、そういう事だったのか…確かに、私たち問題をごちゃ混ぜにしてたかも…)
私たち三人の足並みが揃わないと今日のライブはどうする事もできない、それを分かっていたからナツメさんはさっきビーを指摘したのだ。
「プリド、お前はどう思う?今日のライブは出るべきか?」
静かな怒りを消し、いつも通りの口調でナツメさんがプリドに訊ねる。プリドはビーのことを気にかけているようでちらちらと意識しながら、「そ、それは…」と言葉を濁している。
「プリド、八つ当たりして悪かった。正直、今は冷静に考えられないからお前の意見が聞きたい」
ほんと素直。
ビーがそうプリドに謝罪すると、プリドの目にも薄らとした光が宿り、濁していた言葉を正直に話した。
「わ、私は、たとえ上手くいかなくても出演するべきだと思います。信用って、顔と顔を合わせたらより重要になってきますので。も、もし、ここで出演をキャンセルしたら、きっとビターから声をかけてもらうことは今後二度とないと、お、思います」
「だな」とナツメさんが後を継ぐ、「喧嘩したのはお前たちの勝手だし、ライブハウスに迷惑をかけるわけにもいかんだろ」
「まあ、どちらにせよ、先に食事を済ませてしまいましょう、皆んなまだでしょ?」と、グガランナさんがそう提案し、今さらのようにお腹の虫が騒ぎ出した。
ナツメさんがビーとヨーコにも配膳を手伝うよう指示を出す。
「何で私もなの!私別に誰にも怒ってないのに!」
「いいから行くぞ!」
ヨーコがビーに無理やり連れて行かれ、食堂には私とナツメさん、プリドだけが残った。
どうして私だけ残ったのか、何となくだけど予想が付いた。
「サーフィヤ、率直にどう思う?今回のライブ」
ヨーコが隠れていた棚の向こうから賑やかな声が微かに届いてくる。いつも通りだ、いつものリ・ホープがようやく戻って来てくれた。
その事に感謝しつつ、私は正直に答えた。
「厳しいかと…ヨーコが言ったように合わせの練習もできていませんし…」
きっと、こういう話をしたかったのだろう。朧げながら、きっと私がリ・ホープの『責任者』になりつつあるのだろうなと思った。
プリドも私と同じ意見だった。
「先ほどは出演すべきだと言いましたけれど、私も今日のライブは満足なパフォーマンスをすることは不可能かと思います…」
プリドに提案する、というか、これしかない。
「プリド、最後に歌う新曲を流れ星に変更しよう、これならまだいけると思う。ビーとヨーコにはそのままソロを歌ってもらおう」
「はい、私もそれが最適かと思います。ただ…」
三人とも、息をぴったりと合わせて棚の向こうへ視線を寄越す。
果たして、あの二人はソロ曲を練習しているのだろうか...
ナツメさんがぽつりと、私とプリドの気持ちを口に出してくれた。
「不安だな〜…」
私たちの心配を他所に、賑やかな声がより一層大きくなってこちらに届いてきた。
*
【公式】biTTer@bitter.house
⭐︎イベント情報⭐︎
本日◯◯:◯◯〜
☆出演アーティスト☆
★あばら骨
★◯◯◯
★◯◯◯
★◯◯◯
★リ・ホープ
↓ライブ視聴↓
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↓店長のちょっとしたコバナシ?!↓
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アレクサンドリア行きのバスが発車し、ヴァルヴエンド随一の湖をちらりと眺めた後、網膜に表示させているビターの情報に意識を持っていった。
ライブの詳細情報にアクセスし、その内容を確認する。
(リ・ホープの名前を一番下にする意味はあるのか…あと矢印多過ぎ)
外部ページには、出演するグループやアーティストたちのオフィシャルページが並び、勿論その中にリ・ホープのページは存在していなかった。
まだリ・ホープがオフィシャルページを作っていないのだ、それを把握しながらビターはリンクページを作成したことになる。
この発信する情報から既に、リ・ホープは印象操作を受けているようだ。しかも悪い方の。
アカデミーに勤務していた時は社用車で通勤をしていたが、今はこのバスが通勤手段になっている。乗車できるのはアレクサンドリアから通行パスを受け取った者だけ、一般用ではない。
私が住む家の最寄りの停留所から出発したバスが停車し、一人の乗客が乗ってきた。
その乗客はカズサだ。カズサとはご近所さんだった。
カズサがすぐ隣の席に座り、少し気怠い様子で「おはようございます」と挨拶をしてきた。カズサの瞳は薄っすらと明かりが点いている。
「おはよう。ながら操作は感心しないな」
「そんな先生みたいなことを…」
(この間まで先生だったわけだし)
まだ朝だからだろうか、カズサは生徒のように口を尖らせ、席に着いてからもネットに集中しているようだ。視線は少し斜め下、外でよく見かける他人の姿勢とも言う。
そのカズサが私に近距離通信で共有ページを送信してきた。それは今私が見ている物と同じページだった。
「私も調べていたよ、ビターの公式サイト」
「そうだったんですか?店長のコバナシはもう見ましたか?何と言うか、ライブハウスを預かる人がそんな事言っていいのみたいな事が書かれてまして」
「そうなの?」
カズサを乗せたバスが滑らかに発進し、フリーイングの湖を横手にアレクサンドリアへ向けて走って行く。この後、フリーイングのジャンクションに乗り上げ、循環高速道路を経由して勤務地であるアレクサンドリアに入る。
私とカズサしかいないバスの車内はとても静かだ。無人運転なのでドライバーも居ない。
店長のコバナシ?!のリンクページにアクセスする。そこには出演するアーティストやグループたちの評判が書かれており...
★リ・ホープ
ゲリラライブを敢行したあのグループ!ついにその神秘のヴェールをビターのステージで脱ぐ時が来た!その実力は如何に?!話題を呼んだだけの存在なのか?!
↓お客様からのコメント↓
The face@152.gjm_she
勝手にライブしたグループを呼んで大丈夫なの?
ARTISTS@169.ajt_☆
ライブ中に警察が突入してきたりして、そんでライブ客まで逮捕みたいな
◇◯#///@147.gim_碁囲
このグループ、あばら骨に喧嘩を売ったらしいよ、それで見せしめでライブに呼ばれたみたい
グレムリン@456.???__| ̄|○
男でも抱ける容姿
手山火山@123.ajt_♫
ほんと迷惑、ややこしいグループは呼ばないでほしい
店長はまあ、とても前向きに解釈するなら中立の立場を取っていると言えなくもない。批判をしているわけでもなければ、贔屓をしているわけでもない(他のアーティストたちは褒めまくってはいるが)。
カズサはこの店長のコメントが気に入らなかったのだ、無理もない、カズサもまだまだ若いから正義心が先行しているのだろう。
それよりも、一般ユーザーのコメントの方が気にかかる。一部変態(通報しておいた)を除いて、誰もがリ・ホープに対して批判的な立場を取っていた。
(ややこしいグループか…私たちがそうさせてしまっているのか…本当に悪巧みを画策しているのか…)
バスが湖岸沿いの道路を走り抜け、フリーイングのジャンクションに差しかかる。循環高速道路に進入する坂道を上がり、高速道路の本線に合流した。
バスは何の迷いも無いように高速道路を走る、車窓の景色は溶けるようにして流れ、進行方向の向こう側に卵型のドームを望むことができた。
あそここそ、全ての歌唱候補生が目指す聖地、ハディラ・カディラ。国民の支持を受け、多くの票を得られた者だけにしか立てないステージ。
また、ハディラ・カディラの防衛と運営は導歌曲芸飛行部隊が担当している。それも、部隊内でも優れた者にしかその職務が与えられない。
言うなれば、ハディラ・カディラはパイロットにとっても歌姫にとっても、憧れの聖地なのだ。
(イーオン、あなたの腕前ならきっと…)
ハディラ・カディラの上空では、選ばれしパイロットたちが操縦する機体がいた。数は三、おそらく編隊飛行訓練の最中、遠目から見てもその練度は高く、主翼の位置、角度、全てが完璧に揃っていた。
美しいと思った。イーオンの美しさが自由奔放なら、今空を飛ぶ飛行部隊はシステムとしての美しさがある。
どちらも私の手には無いものだ。
「──アルターさん?」
ハディラ・カディラを飛ぶパイロットに見惚れてしまい、カズサの話を聞きそびれてしまったようだ。カズサの手が遠慮がちに私の袖口を引っ張っている。
「──ああ、ごめん」
「今日、ライブに行かれるんですよね?私もご一緒してもいいですか?」
「ああいいよ、私の知り合いも一緒だが」
「どんな人なんですか?」
「リ・ホープの熱狂的なファンだよ。──何事も無ければいいんだが、グレオ星管士は人使いが荒いから…」
カズサが安心したように袖口から手を引っ込め、「それ、フラグって言うんですよ」と微笑んだ。
バスは滞りなく進み、アレクサンドリア方面のジャンクションで分岐路に入った。
もう一度ハディラ・カディラ方面の空を見る、ただ青空が広がっているだけだった。
*
下層の街を覆う上層天井の隙間から、青空が覗いている。青い空には一つの染みも無く、見ているだけで気持ちが晴れるようだ。
だが、その青空すら下層の街に住む私たちは満足に見上げることができない。青空を見られるのは一部の地域に限り、アレクサンドリアへ渡る連絡通路があるこの音楽街付近もその一部だった。
何故?と疑問に思う。空は万人に与えられた自然の景色であるはずなのに、下層、上層、生まれの違いだけでその景色を奪われてしまう。
だから私は上を目指した。あの通路の先にあるメッカへ、誰をも蹴落としディーヴァになるべく、手にする殆どのものを犠牲にして。
そしてまたこの地に戻って来てしまった。
ここにいること自体が不愉快である。
(今も昔も、畑と種の違いによる差別は一緒)
見上げていた視線を足元に戻し、目的地であるライブハウスへ向かう。今日はそこで最高に楽しいライブが行われる。
演者も客も全て私の味方だ、誰一人として私の敵はいない。そこへあの子たちを招く、たとえいっ時でも人々の関心を集めたリ・ホープを。
人々の関心を集めるのはとても難しい、とくにヴァルヴエンドのように歌に精通している人たちであればなおさらだ。
リ・ホープよりも優れた歌い手はごまんといる、けれど今やこの国にとって歌い手は当たり前の存在であり、多少の優劣の差だけで人々は見向きもしない、優れた歌い手たちはこの高い壁を前にしていつも四苦八苦する。
だが、リ・ホープは簡単にこの壁を乗り越えた、軍や連盟が目を付けていた集団の船でゲリラライブを敢行し、耳が肥え過ぎてしまった人たちの耳にもその歌声を届かせた。
いつものショッピングモールを通り過ぎて音楽街に入る、数え切れないほどの候補生たちとすれ違いながらビターを目指す。
私はいつも羨ましく思う、有名無名に関わらず、まだあの子たちにはチャンスが残されている事を。
人生で最も輝いていた時期だと思う、候補生として過ごしていたあの時期が。
私にはもう、二度と訪れない。
──ならばせめて、そのチャンスを私の手で。
(他の子たちからも、リ・ホープを潰してほしいって連絡が来てるし…言うなれば私は必要悪よ)
万が一、リ・ホープが素晴らしいパフォーマンスをしたとしても、観客席は私のファンで埋め尽くしてある。素敵な歌声も厚い壁に阻まれて、一般の客に届きやしないだろう。
緋色と紺色の群れを渡り、目的地であるビターに到着した。ビターの店舗入り口の前に紺色のブレザーを着た生徒が数名立っていた。どれも顔見知りだ。
その子たちは下サマルカンドアカデミーに所属している作曲候補生だ、未だにギーリとテクニカの幻影を追う哀れな生徒たち、と言うべきか。
グループの一人の子が私に気付き、屈託の無い笑顔を向けてきた。──私に潰してほしいと言っておきながら。
「エマさん!今日はよろしくお願いします!」
「ええ、よろしくね」
今日はこの子の楽曲を使用することになっている、私が歌ったとなればそれだけ箔が付くのだ、その挨拶に来たのだろう。
他人の不幸を望んでいるくせに、その屈託のない笑顔ができることに不愉快さを覚え、意地悪な質問をした。
「私なんかよりリ・ホープに歌ってもらった方が目立つかもよ?」
屈託のない笑顔に変化が怒った。そうそう、そういう不細工な顔が良く似合ってる。
「なんであんなグループに…たまたま運が良かっただけなのに、私が楽曲を提供しているグループの方がよっぽど上手いですよ。プリドって下リガメルの子も何故かあっちに行っちゃうし」
「リ・ホープは今仲違いしているのよね?大丈夫かしら、今日ライブがあるのに」
「さあ?もしかしたら来ないかもしれません、ステージで恥をかいたら終わりですから」
「それもいいかもね」
「──え?どっちがですか?」
私の合いの手が理解できなかったらしい。相手にするのも面倒だったので「何でもない」とだけ答え、その子からデータを受け取ってライブハウスへ入る。
(来ても恥をかくだけ、来なくても敵前逃亡で恥をかく。どっちにしても詰みね)
ライブハウスに入ってすぐ、店長が私の元に駆けて来た。
「あばら骨さん、今日はよろしくお願いします。それと…」
「なに?」
「リ・ホープから今日使う楽曲のデータを貰いました。どうやら出演するつもりのようです…」
「へえ〜そう」
根は優しい人物だ、まるで歓迎されていないリ・ホープを思ってか、眉を曇らせた。
公式アカウントのライブ情報についても私が口出しをして店長に作成させた、その時から眉が曇ってばかりのように思う。
(楽しみだわ)
店長と別れ、ライブハウス唯一のレコーディングスタジオへ向かった。
◇
声の大きさ、声の質、マイクに乗りやすい声、歌を歌う上で重要な要素は様々あるが、最も大切なものは"思い"だ。声は所詮、声帯が機能した結果に過ぎず、人によって声の質に優劣はあれどそれが全てではない。
過去において、歌唱力が劣っているにも関わらずディーヴァになった人もいる。その人は良く理解していたのだ、歌唱力が全てではないことを、"思いの丈"で人々の心を動かせることを熟知していた。
声と思い、それが歌姫の原動力。どちらが欠けても成り立たず、偏っても成り立たない。そして、思いは声と比べて上達し辛く、この事に気付けない者たちがディーヴァを諦める。
ギーリとテクニカもこれに含まれる、優れた歌唱力を持ちながらディーヴァを諦め、作曲の道に進んで運にも恵まれて大成することができた。
ディーヴァになって気付かされた事がある、それは、声はいくらでも変えられる、という事。
スタジオは静寂に包まれている、外音が入らず、また私も音を出さずにじっとしている。
この無音の空間が堪らなく好きだった、一度声を発せればそこに新しい世界が誕生する、この全てを掌握できたかのような全能感がここにはあった。
ゆっくりと息を吸い込む、慌てずにしっかりと、次に喉の奥を開き、お腹に声帯があることをイメージしながら吸い込んだ息を吐き出す。
「あ〜〜〜………」
テノールの声がスタジオ内に響く、私のファンたちはこの声をいたく気に入ってくれている。
この素体に辿り着くまでなかなか苦労をさせられた、中佐の言いなりになるのはストレスだったが、苦労した分だけの価値はある。
「あ〜、あ〜〜、あ〜〜〜あ〜……あ〜」
音域、低音と高音の調子、息の使い方、それらを確認し、今日もこの声に満足を覚える。
さて、ここから私はこの声でどんな歌でも歌うことができる。悲しみに溢れたバラード、その悲しみを吹き飛ばすロック、どんな歌でもだ。
ディーヴァ時代はこの自由が一切なかった、指示されるまま歌い、戦況に応じて楽曲を変化させ、時に敵側を撹乱するため声帯を潰すような歌を歌ったこともあった。
そう、この国にとって歌は兵器である。最近の軍の傾向では、味方を鼓舞するよりも敵の撹乱に用いられることが多い。
私はその運用方法における過渡期に立ち会い、生まれ持った声を潰された。その当時、ディヴァレッサーを指揮していたのが今の中佐だ。
きっとその時にこの"思い"が醸成されたのだろう、ディーヴァを退役しても歌に対する思いは強くなるばかり。
その思いを叶えるため、貰ったばかりの楽曲を再生し、音を確かめた。
(こんなものが売れるわけないでしょう)
それでもこの楽曲に命を吹き込んであげる、その力が私にはある。
その後、念入りに調整し、粗末な楽曲を私の声をもって完成させた。
そして、ライブの開演時間を迎えた。
◇
ステージから漏れ出る光がハケに並んでいるボトルを、色取り取りに照らしている。これは演者が飲むものではなく、裏方で従事しているスタッフたちの物だ。
そのスタッフたちは慌ただしくしながらライブの準備を進めている、この慌ただしさはいつの時代になっても変わらない光景だろう。
どうやら、リ・ホープだけまだ到着していないらしい。そのせいでスタッフたちは余計な忙しさに見舞われているようだ。
(逃亡したのかしら。まあいいわ、挨拶の時に──)
MCの原稿を確認しようとした時、懐かしい人物からメッセージが届いた。その相手はゲーリック中佐だ。
ゲーリック:連盟のチームが病院を嗅ぎ回っている。心当たりは?
面倒だ、今このタイミングで集中を切らしたくなかった。
世話になった相手ではあるが、仕事の邪魔はしないでほしい。
メッセージを無視し、原稿の内容を弄ろうとしたところで店長から開始の合図が出た。
ビター(店長):リ・ホープは後回しにします、始めてください
店長に返事は返さず、忙しく走り回るスタッフを尻目に舞台袖からステージへ上がった。
「今日は来てくれてありがとう!」
突然の私の登場に観客席が湧く。これはサプライズ、普段ならこんなMCはやらない、それにそもそもライブの頭からこんなに客はいない。全部私が集めたファンたちだ、それは盛り上がって当然のこと。
「ごめんね〜ちょっとトラブルがあって〜演者の順番が変わっちゃうけどいいかな〜?」
恍惚とさえ思えるライトが降り注ぎ、その光に負けるとも劣らない歓声が私を目掛けてぶつかってくる。
それをこの身一つで受け止める、全て私の物、無音の世界と同じように堪らなく好きな──「遅れてすいませ〜ん!」
──私だけの世界に割って入る者が現れた。
リ・ホープだ。
*
堂々とした歩みでビスヘムが観客の壁を割り、その後ろにヨーコとサーフィヤが続いた。見ているこっちははらはらだ。
「おい!普通ステージ裏から入るもんじゃないのか?」
隣にいるリ・ホープ専属の作曲家、プリドに訊ねる。
「あれ、絶対分かっててやってますよ。どうして悪目立ちする方を選ぶかな〜」
さらに勝手に付いて来たガングニールが「あっぱれ!」と、何故だかビスヘムを讃えた。
「敵地で一発かますんだもん!アレぐらいやんなきゃな!ビスヘムらしいゼ!」
「いやそりゃそうなんだが…見てみろ、一瞬でお通夜みたいになったぞ」
そう、何が楽しいかあのあばら骨とかふざけた奴がステージに立っただけで盛り上がっていた客たちが、まるで葬式に参加した参列者のように黙っている。
その中をリ・ホープが突っ切る、しかも普段と変わらない様子で、だ。
ステージの脇に設置された階段を上り、三人があばら骨の隣に並んで立った(大した度胸だ)、虚を突かれたように固まっていたあばら骨からビスヘムがマイクを奪い取り、同様に固まっていた観客たちに向かって一言。
「いや、どうせ嫌われてるんなら遅刻してやろうと思って。こっちの方が難癖付けやすいだろ?」
ガングニールは爆笑、プリドは「あた〜」と頭を抱えた。
(──ん?)
私たちはライブ会場(どうやらハコと言うらしい)の出入り口側におり、さらに出入り口側に近い所でプリドと同じ仕草をしている女がいた。
(あいつは確か…ホシを追いかけていた奴か?何でこんな所にいるんだ?)
見るからにかっちりとしたその女は場違いにもほどがあり、とてもではないがここに来るような人柄には見えなかった。
ステージ側から罵声が上がり始め、その女に向けていた視線を前に向ける。当たり前だが、ビスヘムに馬鹿にされた客たちが怒っていた。
けれどビスヘムは何のその、挙げ句の果てには「マイク温めてくれたの?生温くて持ち難いぜ!」とあばら骨に向かって文句まで言っていた。
そのあばら骨はフリーズしたままだ、リ・ホープがステージの上に立っていることがよほど信じられないらしい。
罵声が上がる中でもビスヘムは喋り続ける。
「まあ、とにかく私たちの歌を聴いていってよ。聴いてつまらなかったらそん時は文句でも物でも投げてくれたらいいからさ。だってそうじゃん?歌い手は歌ってなんぼでしょ、ステージの外で評判に小細工したってそいつの上手さとは関係ないんだから。──ねえ?」と、ビスヘムが人を食ったような笑顔をあばら骨へ向けた。
「歌わせてくれるんでしょ?いつまでそこに立ってんの?邪魔なんだけど」
ここからでは聞き取れないが、あばら骨がビスヘムに向かって何かを告げ、早々に舞台袖(どうやらハケと言うらしい)へ消えて行く。その跡にサーフィヤとヨーコも続き、一番始めにソロを披露するビスヘムだけがステージに残った。
罵声は止まない、早速物を投げ込んでいる輩もいる中、ライトアップされていたステージ上が一旦暗くなり、イントロが流れ始めた。
最悪のスタートだ、プリドも「断っておくべきだった」と既に後悔していた。
出入り口側にいる女にも視線を向ける、その隣には先程いなかった中年の男と若い女の姿もあった。リ・ホープの知り合いだろうか?
イントロが流れても俯けた視線を上げない客たちもいた、その集団は観客席の先頭と私たちの間に位置している人たちであり、きっと網膜に表示させたネットを閲覧しているのだろう。
ビスヘムが歌う曲はチルアウト(頑張って覚えた)に分類される楽曲であり、バスドラムの低い音に支えられたポップな曲調が印象的だった。
徐々に光量が増し、ステージ上で静かに立つビスヘムが照らされる。
イントロが終わり、ビスヘムが静かに歌い始める。罵声は今もなお、止まない。
「っ!」
耳を疑った、予想していた声ではなかったから、それはひどく甘くて低くて、とてもあのビスヘムのものとは思えなかった。
(こんな声が出せるのか…)
嘆いていたプリドも笑っていたガングニールも何も言わない、下を向いていた観客たちも視線を上げた。
Aメロ(これも頑張って覚えた)を歌い終えると同時に曲調に変化が起きる、スローテンポからアップテンポに変わり、ベースの音も追加された。
音の厚みが増す中でもビスヘムの声は良く通る、いや、伴奏がビスヘムの声を支えているのだ。
Bメロを終えてサビに入った、甘いアルトの声が罵声を抑え付けて会場の隅々にまで行き届く。
この時から周囲の景色がぼやき始める、私の視線はビスヘムに釘付けになっており、隣でまた踊り始めたガングニールの頭をしばいたものの、すぐにステージ上に吸い寄せられる。
サビを終え、次のAメロに入ると思いきや、曲調がより華やかになっていく、どうやらこのまま大サビに入るよ──
「──っ……」
──先程までの甘いアルトから一気にトーンダウンし、デスボイスのようなしゃがれた声になった。だというのに、この伸びる声は一体何なのだろう、声帯を酷使しているはずなのに先程の声より伸びが良くて、耳朶を心地良く震わせ、いつまでも聴いていたいと思わせる。
言葉を失った、視界にちらりと入る客たちもビスヘムを仰ぎ見るだけ、先頭から上がっていた罵声すら届きやしない、きっと口を大きく開けて声を上げることを忘れているんだ。
再びスローテンポに戻り、今度こそ次のAメロに入った。
ビスヘムの声が耳朶に残る中、隣にいるプリドが身を寄せて話しかけてきた。
「デスボイスは基本、安定しない音域なんです。それなのにあの人は…」
私も身を寄せてプリドの話に応える。──その時、出入り口に立っていた女が私に気付いたような気がした。
「お前も知らなかったのか?」
「はい、あんな声で歌ったことは一度も…あれこそ、生まれ持った才能、まさしくギフトですよ」
神から授かったようにしか思えないその人の才能を『ギフト』と呼ぶことがある。
まさしくそうだろう、誰もがあんな声で歌えるとは思えない。
「曲調を簡単にしたのは…客に覚えやすくするためか?」
「そうです。それから一つのメロディに大サビを組み込んだのも、グレンダさんの良さを凝縮させたかったからなんですが…ここまでとは…」
再びサビに入り、私もプリドも自然と体を離して歌に集中した。
この耳が既にビスヘムの歌声を求めているのだ、先程の声をもう一度聴きたい、それは他の客たちも同じようで曲が盛り上がる中、静かに前を見つめていた。
罵声を浴びせていた奴らも同じだった、皆んな静かにしている。
そして大サビに入り────ああ、良い歌だな...何も考えられない、思考がビスヘムの声に奪われる。
耳が喜んでいるのが自分でも良く分かる、聴きたかったものを聴けた時、耳が喜ぶことを今初めて知った。
大サビが終わるとピアノの伴奏が入った、今まで一番スローテンポであり、曲のアウトロかと思われたが...その静かに響くピアノの音に乗せてビスヘムがメロディを歌い始め、最後にもう一度サビに入った時は会場が爆発した。とくに、最初は視線を俯けていた客たちが見て取れるほど盛り上がっており、ビスヘムの歌に合わせて手を振っていた。
ここまで涼しい顔をして大サビを歌っていたビスヘムに変化が起こっていた、玉のような汗をかいており、ライトアップされた光も相まってまるで宝石のように輝いている。
最後にもう一度、大サビに入る。
ビスヘムは苦悶とも取れる顔で歌い、歌い上げ、体を曲げ、仰け反らせ、もうこの世界には彼女の歌声しか存在しないかのように、会場を支配した。
最後の大サビが終わり、次こそアウトロに入る。そしてプリドが作曲し、この場が初お披露目のビスヘムのソロ曲が終わった。
誰も何も言わない、文句もなければ物を投げ込む奴もいない。
彼女はただ一人、ステージに立って客たちの歓声を受け止めていた。
*
あり得ない、あり得ない、あり得ない!ああ、有り得ないあり得ないあり得ない。
あの声はなに?あれは本当に人間なの?どうして私より優れた声を持っているの?
何回体を替えたと思っているの!信じられない!
店長やスタッフたちが呼び止めるが知ったことではない、あんな声を披露された後に歌えだなんて恥晒しもいいところだわ!
(どうしてあの声をゲリラの時に披露しなかったのか、切り札だったってこと?こっちがまんまと乗せられたみたい!)
他人の熱気に包まれたライブ会場を出る、もうあそこは私の知る世界ではない、知らない世界に興味はない。
歌劇場を思わせるエントランスに差しかかると、そこにはアルターと名乗った軍の人間がいた。
先日とは違い、アルターは余裕ある笑みを浮かべていた。
「今からどちらへ?」
「急用でね、あなたたちが病院に行くものだから担当医に呼び出されたのよ」
「それは残念、あなたの歌もぜひ聴きたかったのですが…」
アルターは何もせず、ただ立ってそう皮肉を言うだけだ。
前を通り過ぎる、一刻も早くこの場から出たいのだがまたしても声をかけてきた。
「その担当医についてですが、今は勤め先の病院に居ないはずですよ」
「それが何かしら?」
「……」
追撃は無い、余計な事を勘繰らせてしまったが今はそれどころではなかった。
ライブハウスを出る、夜の涼やかな風が私に吹きつけ、苛立ちを洗い流してくれた。
夜風の気持ち良さに浸らず足を動かし続け音楽街からまろび出る。
そして、サマクアズームまでやって来た。そういう取り決めだ、換装体は捜査の手が届かない所で破棄しなければならない。
適当な腹骨滑走路に目を付けてその先を目指す、途切れた滑走路の向こう側は暗い空が広がっており、雲間から赤い三日月が顔を覗かせていた。
そうそう、この体に巡り合った時も三日月の夜だった。
滑走路の端に立った。涼しいを通り越して冷たい夜風がこの耳を斬りつける。束の間、その冷たさに身を委ねた後──数百メートル先の大地を目指して一歩足を踏み出した。
足の裏から重力を感じる、足を重たく、頭は軽い、慣れた感覚だった。
もうとうに過ぎてしまったがこの国の全ての子供たちが集う学園があり、さらにその下、きっと今頃背後で通過している階層に換装体を製造している区画がある。
一度だけ、中佐に連れられて見学をさせてもらったことがある。驚いたことに、この区画で体外受精が行われている施設があり、赤ん坊も換装体も同じ場所で誕生していることになる。
(次も男性型…いや、きっとあの子の声で市場は埋まってしまうから女性型でもいいかしら。そうね、その方がいいわ)
新しい換装体に替わった後の事について考えを巡らせる、その時間は決して長くはなく、すぐに大地が近付いてきた。
ヴァルヴエンドの根元、地球の大地の上、そこには無数の原始的な灯りが存在し、再生森もその版図を広げ──
*
「しばき確定だな!あいつ絶対練習してなかっただろ!」
「まあまあ」
「音を外すわ声が泳ぐわ歌詞を誤魔化すわ、素人の私でも分かったぐらいだぞ?しばき確定だな!」
無事にライブが終わり、私たちはさっさとハコから出ていた、だって他のグループなんて興味がないし。
ビターの入り口前で三人の帰りを待っているところだ、ガングニールがいないあたり、きっとステージ裏に侵入して三人の所へ行ったんだろう。
プリドも興味がなかったのか、さっさと出た私に付いて来て今は隣にいる、涼しい夜風を浴びて気持ち良さそうにしていた。ヨーコは散々だったが、ビスヘムの歌が成功に終わって夜風と同じように気持ちが良いのだ。
「無理もないですって、あんな歌の後に自分の番が回ってくるんですから」
「ヨーコの歌だって力は入れたんだろ?」
「そうですけど、一つだけでも成功して私は満足ですよ。アカデミーにいたら絶対経験できない事ですから」
「あそう、お前が良いんならそれでいいけど」
プリドと話をしていると、店長に挨拶をしてきた三人プラス一人が入り口に姿を見せた。──と思いきや、ヨーコが私の顔を見るなり明後日の方向目掛けて全力で駆けて行くではないか。
「あ!待て!」
追いかけるべく駆け出そうとするも、ビスヘムに「まあまあ!」と宥められ、腕を掴まれた。
「何で止める!あいつの下っ手くそな歌を聴かなかったのか?!」
「あいつ、私らの出番が終わってからずっと、ナツメさんに絶対怒られる!ってビビってたんだよ。大目に見てやって」
「余裕だな、ええ?」
「そりゃそうだよ!」とビスヘムの笑顔がさらに崩れる。
「私らを馬鹿にしてた奴らを見返したんだから!なーにがややこしいグループだよ、そのグループに心奪われたのはそっちだろ!」
ほんと楽しそう、私の腕を掴んだままビスヘムが無邪気に笑っている。
ガングニールと手を繋いでいた(姉妹かな?)サーフィヤも、ヨーコを大目に見てあげてほしいと言ってきた。
「どうして?あいつのせいでリ・ホープのクオリティが下がったようなものじゃないか」
陽気なビスヘムと打って変わって、サーフィヤはどこか意気消沈としている様子だ。
「ヨーコ、あれでも歌の練習はちゃんとしてきたらしいんです…」
「え、そうなの?あれで?」
「あれは…ビーのせいです、ビーが悪いんです、あんな声で歌えるって私たちにも黙っていましたから。もうほんと、私もヨーコも驚きで…ヨーコも散々でしたけど私も散々でした…私は二人が一緒だったので何とか誤魔化せたんですけど…あれはヨーコが可哀想ですよ。ソロ曲がなくて良かったって安心したぐらいなんですから」
「お前なあ…仲間にすら黙ってたどういう事なんだ?」
「切り札は隠すもんだろ。それにあの歌い方、私は嫌いなんだよ、喉が潰れるし、今は喋れるけど多分明日あたりから数日風邪ひいたみたいになる」
「お前なあ…」ビーはまだ私の腕を掴んでいる、呆れて何も言えなかった私はビーの腕を取ってとりあえず抓っておいた。
「何で抓る」
「まあ、今日のお前の働きは功罪相半ばす、ってところか」
「罪って言うの止めてくんない?それとプリド、私の声をあてにした作曲はしないでくれ、あんな歌い方をマストにされたら一瞬で喉が潰れちゃう」
「分かりました。あの、あんなに素晴らしい歌にしてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそありがとう、私専用の曲ってプリドが初めてだ」
私の腕から逃れたビスヘムがプリドの頭にそっと手を置いた。
ガングニールの「成功を祝して皆んなでパーティーしようゼ!」という提案が合図となり、ライブハウスの入り口前で屯していた私たちは歩き出した。
*
過去の戦役において、立派な戦績を残して上層に成り上がった兵士のその子供が席に着き、会議が始められた。
オフラインの会議はもっぱら重要案件が議題に上りやすい。
「夜遅くにすまない、君たちから預かったレポートで二、三、協議を行ないたい案件が出てきてね、その為に集まってもらった。早速議題に移ろう、コンキリオ少佐、まずは報告を」
支援総括AIのように聡明たれと、コンキリオと名付けられた成り上がりの子供がレポートを読み上げる。
「ファーストの調査を終え、オブリ・ガーデンを目指しているミトコンドリアがここ数日、アメリカ側のカリブ海にて停泊を続けています。オブリ・ガーデンから入国許可は下りているはずですが、現在も停泊中です」
「理由は?」
「隊員らに知らせていませんが、どうやらオブリ・ガーデンで内紛が勃発したようです。あちらの代表者は名言を避けておりますが、確定した事項かと。それから、ウルフラグ弁護団から情報提供があった特別個体機、シトリーについてですが、ここ数日頻繁にオブリ・ガーデンの外へ出ているようです。その理由、目的、どちらも不明です」
「行き先の変更は?」
「検討中です。ただ、備蓄燃料や食糧が懸念です、最も近い所でガイアの枝葉が挙げられますが、今のラグナカンの残り燃料では海を超えられないかと」
「ファーストに蜻蛉返り…は、最後の手段か、隊員らに恥をかかすわけにもいかないか」
「はい、盛大な見送りを受けていますから。現地の隊員らもファーストにはできれば戻りたくないと進言しています」
恥ずべき報告を上げているコンキリオの表情に変化は無い、よほど面の皮が厚いようだ。
「今のところ、マリーンで補給を受けられないか調整を進めているところです。あちらの代表者であるサーストンとは懇意にしていますから、無下に断られることはないかと」
「よろしい。ゲーリック中佐、君の意見を聞こう」
「迷わずファーストへ戻すべきです、現地調査を行なう際、最も優先すべきことは隊員の名誉ではなく生命です」
「ほう、君がそれを言うのかね、随分と面の皮が厚いようだ」
「と、言いますと?」
「君が指揮していた元ディーヴァ、エマ・カリネス・ベルテが先程、下層のサマクアズームの滑走路から投身自殺を図ったと報告を受けた。先にこの件を処理しようか」
「私と一体何の関係が?」
「ない、とでも?」
デキストリン大将の視線が頬に突き刺さった。出方を窺うべく、口を閉ざしていた私に大将が畳み掛ける。
「どうやら連盟主体のチームが君と、君が過去に指揮したディーヴァたちに目を付けているみたいでね、その嫌疑の内容がガーデン・セルの不正使用だ「言いがかりも甚だしい「──まあまあ、この件には続きがあってね、ノラリスの乗組員として目されているセバスチャン・ダットサンなる人物も、このガーデン・セルを利用していることが判明した」
その情報は寝耳に水だ。と、同時に私が疑われるのも無理はないと理解に至った。
「何故入国者が我々のシステムを?一体どうやって?」
これは純粋な疑問から来る質問だ。
「それを訊きたいのはこちらの方なのだが…それと、君が懇意にしている病院の医者からも証言があったよ、君からよく業務外の連絡が来る、とね」
「……」
旗色が悪い、これはどう発言しても疑いを晴らせそうにはない。
それに風向きも悪い、そのダットサンなる人物のせいで医者たちも及び腰になり、私を売り始めている。
テロ行為を目的とした異邦人の入国斡旋は何よりの重罪だ、それならガーデン・セルの不正使用による刑を受けた方がはるかに良い、医者たちもそう判断したのだ。
しかしだ、その人物については本当に預かり知らぬ事だ。
「コンキリオ少佐、君の意見を聞こう」
成り上がりの子供が大将の質問に答える。
「この場で預かる案件にしては些か荷が重過ぎるかと存じます。一度審問会を結成し、その結果を連盟に報告するのが最良かと」
「ではそうしよう。それで良いね?中佐」
「構いません」
「よろしい。では、話を戻すがミトコンドリアの件について、もう一度君に訊ねるが最良の選択は何かね」
大将が私の瞳を覗き込むようにして、同じ問いを繰り返した。
「……オブリ・ガーデンの入国が叶わず、かつマリーンからの救援も受けられないとなれば、こちらの方で派遣隊を結成してミトコンドリアへ向かわせます」
「よろしい。短時間で会議が終わって良かったよ、残念だが君たちの有給休暇は無しだ、深夜残業としてこの時間を処理しておこう。では解散」
大将が先に席を外し、会議室を後にする。その後ろ姿を見送ってなお、少佐は席を外そうとしなかった。
私に先を譲っているのだ、出来た人間である。
その見えない気遣いに甘え、先に席を立つ。立ったと同時に少佐が声をかけてきた。
「サラン・ユスカリア・ターニャ、この名前に聞き覚えはありますか?」
「──うん?誰の名前だって?」
予想外の内容に上手く言葉を拾うことができなかった。
少佐がもう一度名前を告げ、それから用件を話した。
「中佐はディヴァレッサー部隊を指揮していたとお聞きしています、私は今まで本部にいたものですから交友関係も広くはありません」
「──この場を助けてもらった礼だ、ついでにこちらでその名前を調べておこう」
「感謝致します」
その謝辞を背に受けながら、会議室を後にした。