第三十二話 皆んな仲良く
32.a
「な、何だ?停電か?」
「ちょっとマギール!何をやっているのよ!全然復旧出来ていないじゃない!」
「馬鹿を言え!きちんと復旧させてきたわ!」
「あれ、それならトイレはもう使えるんですか?」
「あぁそうだ!だからここに戻ってきたんだ!儂のせいではない!」
「えーじゃあこれは何?停電したってこと?」
皆んな口々に物を言っている。食堂はホテルの中にあるため外の様子が分からない、下層全体が停電もしくは故障してしまったのなら大問題だが...
隣に座っているプエラの姿が薄らと縁取るように見えてきた、暗闇に目が慣れてきたのだろう。
「外の様子を私が見てこよう、皆んなはここにひぃっ?!!」
この場にいる全員が私に向いた気配がした。
「な、何今の声?!どうしたの?!」
「あ、いや…何でもない…」
......胸が何かに当たった感触がしたので思わず短い悲鳴を上げてしまった、いや誰かに触られたのか?後ろから...こう、むにゅっと何かが触れてきたのだ。
隣に座るプエラを見やるがちゃんと席に座っている、一瞬こいつが悪戯をしてきたのかとも思ったが違うようだ。
(では誰なんだ?)
「それで…お前さんは今、何を言いかけたんだ?」
「あ、いや…停電しているのがこの建物だけなのか、外に出て調べてこようと…」
「ふむ…プエラよ、ここからでは何か分からんのか?お前さんは司令官だろうに」
話を振られたプエラが、両手を上げて降参のポーズを取っている。
「なーんにも、というかマキナの行動履歴は辿れるけどさすがに建物関係はタイタニスでしょう?」
その言葉を発した途端にグガランナとアマンナが急に立ち上がり慌て始めた、何だ?
「あーあープエラ?良かったら部屋まで案内してあげるよ、暗くて怖いでしょ?」
「は?何急に気持ち悪い」
「そんな、私達はあなたのことをこれでも心配しているのよ?そんなこと言わないでちょうだいな」
「はぁ?私をブリッジから追い出したくせに今さら何言ってんの?というか…何であんた達が慌てるのよ」
「そうだよ、様子が変だよ?もしかしてこの停電と何か関係あるの?」
テッドの声にさらに慌ててしまう二人、暗くて表情は見えないが様子がこれでもかとおかしい。
「な、な、な、何を言ってんのさお兄ちゃん!変なこと言わないでよ怒るよ?めっ!」
「いやいやいや…グガランナさんも様子がおかしいですよ?何か知っているんですか」
テッドと会話をする時はいつも挙動不審になってしまうグガランナがすらすらと答えている。
「何故私達が疑われるのか分かりません、私もアマンナも普段通りに過ごしていただけですよ」
「…」
「グガランナ、いつものどもりは何処へいったんだ?」
「はっ!」
「ちょっと!どうしてグガランナとアマンナが疑われなきゃいけないのさ!」
アヤメが割って入り二人を庇う。だが、当の二人は...
「…」
「…」
「あれ?!何で黙るの…え?嘘…」
暗い状態が続いているので全員の様子がおぼろげにしか分からない、早く何とかしなければいけない。さっきはいきなり胸を触られたので途中で辞めてしまったが外の様子を見に行きたいのだ。
その場で立ち上がり、夜目が効いた視線を全員に向ける。
「今から外の様子を見に行きたい、テッド、付いて来てくれ」
「はい、分かりました」
「駄目」
プエラが私の袖を引っ張り止めてきた。
「何故?外の様子を見に行くだけだ、何ならお前も来るか?」
「テッドが危ないことするかもしれないから駄目」
「はぁ?!何言ってんのさ!」
プエラの言葉に怒ったように言い返している。いくら暗いからといってあのテッドが...いやでも、そういえば街で助けた時は...
暗い状況がそう私に判断させたのかもしれない。
「…そうだな!テッドはやめておこう!」
「いやいやいや!おかしい!おかしいですって!」
「アヤメ、悪いけどナツメに付き合ってもらえる?あんたも特殊部隊にいたんだし、荒事には慣れているでしょ?」
プエラ...よりにもよって何故アヤメを...
「わ、分かった、私がナツメと一瞬に外の様子を見てくるよ」
「それなら必然的に私達もね、アマンナ準備しなさい」
「それはならん、お前さんらはさっきの慌てように何も答えておらんだろう、ここに残って事情聴取をせねばならん」
「はぁ?!このくそ…えろマギール……」
「何だどうしたいつもの威勢は何処へいったんだ?んんん?何もやましい事がないなら言い返してみせろアマンナ」
「ま、マギールさん、あまり言い過ぎるのは良くないですよ」
皆んなの会話は耳に入ってはくるのだが頭の中は、アヤメと二人っきりになった時に何を話せばいいのか、その事で一杯だった。
32.b
どこかギクシャクした様子でナツメとアヤメが食堂から出て行く、何と言えばいいのかまるで付き合いたての恋人同士のように互いの空気を読み合う感じ、そんな風に見えた。
プエラとグガランナの間の席がぽっかりと空いた状態でマギールが仕切り始めた。
「では、儂らは容疑者の事情聴取を始めようかの、アマンナにグガランナ、隠している事があるなら話せ」
「…」
「…」
二人は身動ぎをしただけでマギールの質問に答えようとしない。他の皆んなも二人を交互に見ているだけで何も言わない。沈黙を破ったのはプエラだった。
「ねぇあんた達、私が調べられると言った時から慌てだしたわよね?それって、私に調べられたくない事があるってことでしょ?この停電の原因があんた達の仕業ならかなり心証が悪くなるわよ?それでいいの?」
「違う、それは違うよ、この停電はわたし達じゃない!」
アマンナがキッパリと反論する、だがそれは同時にプエラの言い分を肯定したことにもなる。我が意を得たりとプエラが強気で詰め寄ってくる。
「やっぱり何かは隠しているんでしょう?それを言いなさい!私が調べて詳かにされるのと自分達で白状するのと、どっちがアヤメには心良く受け止めてもらえるかしら」
「…くっ!何て卑怯な!」
真っ暗なのでよくは見えないがグガランナがプエラを睨め付けている...のだろう。頭がプエラを向いている。
(まぁ…言える訳ないわよねぇ…あんな事がアヤメにバレたら…!)
...危ない、テッドがこちらを見たので慌ててテーブルの下に隠れた。何で分かったの?気配?
「アマンナ…そんなに言いたくないことなの?僕達に隠さないといけないことなのかな」
私がいる場所から視線を外し、隣に座るアマンナに語りかけるように話している。厳しく問い詰められるより心情的に訴えられる方が弱いのだろう、アマンナがたじろいでいるのがテーブルの下からでも分かる。
「う、うぅ…」
「アマンナ」
「分かった…」
と、言いながらもその場で話すのではなくテッドに内緒話のように耳打ちしているではないか。すかさずマギールが詰め寄る。
「アマンナ!皆に話さんか!何故テッドだけに言うのだ!!」
「え?!………うん、うん、えぇ…うん、うん……それってグガランナさんも?」
「うん、グガランナが一番多かったよ」
「こらぁ!!勝手に人のカミングアウトしないで!!」
「テッド!この場で話せ!」
「いや…これはアマンナ達の名誉に関わる話しなので…それに停電は一切関係ないですよ、内容はお話し出来ませんがそれだけは僕が保証しますので」
「お兄ちゃん!」
「ぐぇっ!」
アマンナ達の味方に加わり庇ってくれたテッドに抱きついている。
テッドの言葉に一応マギールも納得したのか、不承不承に引き下がった。
「まぁ…お前さんがそこまで言うなら…なら、この停電はやはりただの故障なのか?」
「アマンナ達が気になる…まぁいいわ、サーバーにログインした時に調べればいい話しだし、故障かどうかはナツメ達が帰ってくれば分かるでしょ」
「それはそうとプエラ、あなた随分と余裕なのね」
「は?何が?」
「アヤメとナツメさんを二人っきりにさせて大丈夫なの?」
「…は?どういう意味なの?」
あんな親密な二人を暗闇の中で一緒にさせたのだ、何も起きないとは考えにくいが...プエラは鈍感なのかまるで分かっていない。
「…あなた何も聞いていないの?アヤメがナツメさんにキスしたこと、あの二人って…そういう関係なのよね?」
「え、いや、ちょっと待って、その話しは知ってるけど、アヤメが分不相応にも振ったんでしょ?…もう何もないんじゃないの?」
プエラの発言に皆んなが被りを振っている。
「そんな訳あるかひねくれら、アヤメはまだナツメのこと意識してるよ」
「はぁ?振ったくせに?」
「それにナツメさんもアヤメと一緒にいる時はどこか様子がおかしいじゃない、二人共お互いを意識してるのよ、そんな事も分からなかったの?」
「いやいやいやいやいやいやいや…」
「お兄ちゃんもいいの?アヤメとナツメを二人っきりにさせて」
「いいよ別に、アヤメさんはノーカン扱いにしてるから、それとお兄ちゃんと言うのはやめて」
何だその理屈。
「え、じゃあ何、私好きな相手の恋のキューピット役をやっちゃったってこと?」
「そう」
「そう」
「そう」
「そうだな」
異口同音に肯定する。
「いやぁーー!ちょっと私様子を見てくるわ!こうしちゃいられない!」
「駄目よプエラ!ここで待っていなさい!あなたあの二人の間に割って入れるの?!その最中だったらどうするのよ?!私なら死ねるわ!」
「同じく、天に祈って帰りを待つしかないよ」
「臆病者ぉ!うぅーそんな事言われたら私も段々怖くなってきた…」
グガランナとアマンナに止められ、一度は立ちかけたものの再び席に座った。
そこでマギールがやおら何かを取り出した。
「マギールさん?それは何ですか?」
「うむ、こんな事もあろうかと電算室からライトを持ってきたのだ、こうも暗い状況が続くと、」
今頃?!皆んなも私と同じ事を思ったのか一切に文句を言い出した。
「今頃?!」
「あなた馬鹿じゃないの?!」
「そういうのは早く出しなさい!」
「この色ボケマギール!」
「どうしてナツメさん達に持たせてあげなかったんですか!」
「忘れておったんだ仕方がないだろう!!………ん?今誰か、別の声がしなかったか?」
しまった...つい声が出てしまった...
「はぁ?急に怖いこと言わないでよ」
「いやでも確かに聞いたことがない声が…いたっ?!痛いよアマンナ!どうしたのさ!」
テッドの声に見やるとアマンナがしがみついていた。
「やぁやぁやぁ…いやぁ…」
テッドの腕を掴みぷるぷると小刻みに震えている、もしかしたら怪談系が苦手なのかもしれない。
「あ、アマンナ?もしかして怖いの?」
「こ、怖くなんか…怖いです…」
「あら、アマンナ苦手だったのね、幽霊」
「いゃあああーーー!!!」
グガランナのトドメに悲鳴を上げる。
「だ、大丈夫だから、ね?マギールさん、早くライトを点けてください!」
「う、うむ」
テッドの言葉に言われるがままライトを点ける、この下層に取り付けられている有機型蛍光灯と同じ光が室内を局所的に照らした。暗さに慣れていた目に優しくもはっきりと照らしてくれる光が差し込んでくる、一瞬視界が真っ白になり回復した視界の中には皆んなの足が見えていた。そう、テーブルの下に隠れたままだったのだ。私の斜め向かいにテッド、その奥にグガランナが座っている。そしてナツメとアヤメが座っていた席の間に、見たことがない女の子がしゃがんでいて目が合ってしまった。
「ぎゃぁぁああ?!!!!」
「ふぇぇえ?!!!」
「いゃぁぁあ?!!」
「うわぁぁぁあ?!!」
「きゃあああ?!!」
「……………」
「ぬぅをっ?!!」
32.c
今、人の声が聞こえたような気がしたが...気のせいだな、うん。そんな事よりも今はこの窮地を脱しないといけない。
「ナツメ?」
すぐ隣からアヤメの声が聞こえてくる、肩と肩が当たり体温が伝わってくる程の距離だ。
「あぁいや…人の声が聞こえたような気がしてな、気のせいだろう」
「何それ、怖いこと言わないで」
少し体を寄せてくる。あれだな、お尻が痛くなってきたから位置を変えたんだろう、うん。とくに意味はないはずだ、うん。
どうしてこうなった...
「ねぇナツメ、後でティアマトさんを一緒に懲らしめてくれる?」
「いやだからだな、あまり追い討ちをかけるな、確かにさっきの行動は目に余ると思うが…」
私とアヤメは真っ先にティアマトさんが引きこもっているトイレへとやって来ていた。一階ロビーは外の明かりが入ってきていたのですぐにホテルだけの停電だと分かった。少し豪華な扉をノックして声をかけると勢いよく開き、そして中にいたティアマトさんに腕を掴まれてトイレの中に押し込まれてしまった。続いてアヤメも同じようにトイレに入ってきて扉を閉めて、おしあわせにぃ、とか言いながら外から扉をロックして何処かへ行ってしまったのだ。
少し広いトイレだが二人座ると窮屈だ、もちろん便座ではなく床なんだが...
「やっぱりお前が座って、私は立っていようか?」
するとアヤメは拗ねたように答えた。
「まぁ…別にいいけどさ…」
だから何なんだその態度は...私はゆっくりと立ち上がり、アヤメが便座に座った。これで少しは気を落ち着かせることが出来る。
「はぁ…もうほんと、あの人には振り回されっぱなしだよ…中層にいた時からさ」
「何をされたんだ?」
「私の親友に似せたデータを作ったり、エントランスホールでいきなり割って入ってきたりさ…それに仮想世界でもあんなもの見せつけられちゃったし、ほんと何がしたいんだろ」
さっぱり分からない。アヤメがどんな風に中層で過ごしていたのか一度も聞いた事がなかった。
それに...
「…今さらだがな、お前、救助活動を諦めた私達を怒っていないのか?」
「怒ると思う?それならナツメこそ…あ、いや、何でもない…ごめん」
謝ったアヤメの言葉を聞いたと同時に、私も中層で怒鳴りつけた事を思い出していた。
「あの時怒ったことに一つも後悔はないし言い訳もない、それだけお前の行動は自分を蔑ろにしたものだったからな」
「ナツメらしいね、そいういところは好きなんだけどさ」
じゃあ他は嫌いだって言いたいのかと言葉尻を捕らえそうになったが堪えた。
「まぁ…あの時の私も言葉がなっていなかったよ、それは謝る、他にいたあの二人、グガランナとアマンナに…」
「あの二人に…?何?」
「何でもない」
「あの二人に何?」
「何でもない」
「何?あの二人に何?」
「何でもない」
「…」
「…」
あ、危ない。失言するところだった...嫉妬していたと今さら言えるはずがない。あの時の怒鳴り声に拍車がかかったのも焼きもちを妬いた分も乗っていたからなんだよと、どの口が裂けても言えない。
「まぁ…いいけどさ、それよりさテッドさんに胸揉まれたのって本当なの?」
「ぶふっ、はぁ?何だそれ」
「いやいや、テッドさんに言ってたじゃん、私の胸を揉んでおきながらって」
「あれは冗談だよ真に受けるな」
「本当にぃ?ナツメって戦ってる時はやたらとテンション上がるから本当に揉ませてるのかと思ってたよ」
「どこの世界にビーストを前にして揉ませようとする奴が…はっ」
私だ。
「今のはっ、って何?ナツメは忘れてるかもしれないけどさ、私も昔は毎回言われてたんだよ?愛してるーとか好きだーとか、言われる身にもなりなよ」
「それは…悪かった…」
「悪かったの?え、言って悪かったってどういう意味なの?」
「人の尻を捕らえるな、話しがややこしくなるだろう!」
「ふん、さいですか」
ちなみに私はアヤメではなく扉に向かって喋っている、ちらりと後ろを見やると下を向いている。暗いのでよく分からないが拗ねているのかもしれない。
「お前に聞きたい事があるんだが」
すぐに返事が返ってきた。
「うん、何?」
一度聞いてみたいと思っていたことだ。
「お前はマキナについてどう思っているんだ?」
「どうって言われても…」
私もプエラやマギールさんと出会い、少なからずこのテンペスト・シリンダーについて深く知ることが出来た。セルゲイ総司令も昔からマキナの存在については何かしら把握していたようだが、おそらくプエラとの会話が初めてだったのだろう。
「うーん…普通?」
「いやいやそれはないだろう、普通って何だ」
「とくにマキナだからっていうのは…ないかなぁ、見た目も人と変わんないし」
「あの巨大な牛を見ても何とも思わないのか?さすがにあれは普通では片付けられないだろう」
「うーん…グガランナは優しいからね、初めて会った時も私のことを気づかってくれたからさ、アマンナもたまにお姉さんみたいになって私を励ましてくれるし…」
「なら、お前にとって人もマキナも変わらないってことか?」
私の質問に返したアヤメの言葉に、いかに私がこいつに甘えてぞんざいに扱っていたのか、改めて思い知ってしまった。
「私からしてみれば、言葉が分かるのに好き勝手している人達といるよりも、言葉が分からないのに優しくしてくれたグガランナ達の方が一緒にいて安心するかな」
「…………そうか」
内側も豪華な細工がされているんだなと、少し現実逃避をしてしまった。それだけショックを受けてしまった、私達といるよりもあの二人の方が安心すると、言い返す言葉もなかった。
「あ!違うから、ナツメがそうという意味じゃないからね!勘違いしないで!」
「いいさ、私はお前に甘えっぱなしだったからな、返す言葉もない」
「仲…悪かったんだよね、他の隊員の人達と…」
「あぁ、誰も私の言う事なんて聞いていなかったからな、お前を使う以外に任務を果たす術がなかったんだ」
「そっか…ならしょうがないよね…」
いい加減、扉を見ているのも飽きてきたのでアヤメに向き直った。いいや、ちゃんと頭を下げようと思ったのだ。
「アヤメ」
「…何?」
「悪かった、お前ばかりに嫌な仕事を押し付けて、礼も言わずにそれが当たり前だと雑に扱っていたことが」
私の言葉を聞いて上げていた頭を下げる。卑怯な謝り方だと自分でも自覚はしている。
「……ナツメ、何か変わったね」
「そうだといいんだがな…」
分かっていたことだが、アヤメは怒ることもせずただ聞いてくれた。きっとアヤメの態度が悪かったら私は謝ることはしなかっただろう、相手の機嫌を見て大丈夫だと思わない限り自分から動こうともしない。そんな卑怯な奴なんだ、私は。
だがアヤメも私のことを見抜いていたようでとんでもない要求を突きつけてきた。
「けど許さない、そんな一言で片付けられるほど私は大人じゃないし色んなことやらされて未だにお礼すら言ってもらってない」
「…ではどうすればいいんだ?」
「キス」
「は?」
「して」
「いやいや…」
「ほっぺたはダメ」
「まだするとは一言も…」
「ナツメからまだしてもらってない」
「いやだから…」
「ちゃんと唇にして、それで全部許してあげる」
「お前…あの二人はどうなるんだ?お前を想ってくれているのに私にキスを要求していいのか?」
これで逃げられると思ったんだが...
「それ、ナツメにだけは言われたくない、私にもテッドさんにも愛してるって何回も言っていたくせに、言っとくけど私が好きになった原因はナツメにあるんだからね?」
ぐうの音も出ない。だが負けていられない。
「それとこれとは話しは別…」
「別じゃない、私何回テッドさんに相談されたと思う?あの愛してるは本当なんでしょうかって何回聞かれたと思ってるのさ」
「…」
「責任取って、後でテッドさんにもしてあげて」
「いやいやいや!そうなるのか?!お前の中ではどうなっているんだ?!」
私の質問に答えず、アヤメにチェックメイトされてしまった。
「私が振ったこと気にしてないんでしょ?グガランナとアマンナ持ち出して逃げようとしてもダメだから、キスして」
最後の一振り。
「お前、性格悪くないか?」
「こうでもしないとナツメから何もしてくれないでしょ?だから言ってるの、キスして」
上目使いで唇を突き出している、いつもの顔だ。怒っているのに可愛く見えるのは反則だと心底思うが、物の見事に空振りをしてしまったので、
「分かった、これで許してくれ」
勢いに任せてアヤメの顔を両手で挟み、そのまま顔を近づけて唇を当てるようにキスをした...が、柔らかい感触はなく、あったのは前歯が当たった感触だけだった。
「?!…………いったぁ………もう下手くそ!バカぁ!せっかくのキスなのに血が出ちゃったじゃんか!」
「私もだ」
「知るかぁ!やり直し!やり直しだから!」
「キスは一度で十分」
「かっこつけるな!え?本当に?今ので私のキスは終わりなの?」
手を振りながら抗議をしてくるが聞く耳は持つつもりはない。こっちはやっとの思いをキスをしたんだ、そう何度もするつもりはない。
キスをしてまさか怪我をするとは思わなかったがいい勉強になったと勝手に締め括っていると、トイレの明かりが点いた。
「あ、電気」
「やっと点いたみたいだな」
一山乗り越えた後なので、もうアヤメにキョドることもなくなった。随分と晴れやかな気持ちで立っていると誰かが走ってくる音が、騒々しく聞こえてきた。
「待ちなさい!」
この声は...グガランナか?誰に向かって言っているんだ?
「何?何か騒がしいけど…」
そう言いながら私の背中に手を当てて、にょきっと顔を出してきた。そして扉に耳を当てている...あれ、一山乗り越えたと思ったのにまた新しい山が見えてきた。
「んんん?誰か追いかけてるの?」
何故?何故私の方に顔を向けるんだ?お前が喋る度に吐息が私に当たっているんだ、それだけで平常心でいられなくなってしまった。
(思ったよりヘタレだな…私…)
さっきはこの唇に重ねたんだと、キスをする前以上にアヤメのことを意識してしまっている。今度はちゃんとキスしてやらないと、などと考えていた自分に驚き慌てて目を逸らす。
「ナツメ?何で赤くなってるの?」
「あぁいや…今度はちゃんとキスをしようと思ってだな…」
「今言うの?!しかも本人に言ってどうするのさ!恥ずかしいでしょ!」
肩をバシバシと叩いてくる、その手を掴み上げて止めた時、外からかけられていたロックが外れて扉が勢いよく開いた、そして私のお腹あたりに何かが横切りトイレの中に入ってきた。驚いて見やるとそこには、黒い髪をした人形のように可愛らしい女の子が立っていた。
「誰?!」
「誰?!」
32.d
「スイです!」
「スイ?!どうしたんだその姿は…」
スイと名乗った女の子が胸の前で手を組みナツメに訴えかけるように名前を告げた。
「それは…もしかしてマテリアルなのか?」
「はい!グガランナお姉様に作ってもらいました!それで、皆さんを驚かせようと食堂に隠れていたのですが、急に暗くなってしまって…それで出るに出られなくなってしまって…それに変な人もいたので怖くて逃げてきたんです…」
お、お姉様...私の知らない間に何があったんだろう...
「変な人とは?そんな奴いたか?」
後半は私に向けての質問だった。もちろんそんな人はいなかったので首を振って返事した。
この子もしかして...
「変な人は机にの下に隠れていて…ネズミ色をしたのっぺらぼうの人でした…」
「恐っ!!誰なんだそいつは、もしかしてグガランナが追いかけていたのは…」
「はい、でも私も間違われてプエラさんにも追いかけられてしまって…あの!ナツメさんからも言ってもらえませんか?!お姉様は変な人を追いかけてしまったので、説明してくれる人が誰もいないんです!」
スイと名乗った女の子は黒い髪をしている、ナツメと色合いが似ているようだ。もみあげが長く胸あたりまで伸びていて、それ以外はショートなので少し変わった髪型をしている。服装はアマンナと似て肩が出ているワンピースを着ているのでまるでお揃いの服を着た姉妹のようにも見える、もちらん私は知らない女の子だが声をかけられずにいた。
「分かった、一緒に行こうか...ん?ところでスイ、お前は何処に隠れていたんだ?」
「ナツメさんの…すぐ近くに…机の下にいました…」
ギクリとする。
「なんでまた…スイ、停電した時、私のそばにいたか?というか後ろに立ったりしていなかったか?」
ギクリギクリとする。
「…いいえ、ずっと下にいましたけど、後ろに立った人なら分かりますよ」
そう言って徐に腕を上げて、ゆっくりと人差し指を向けてきたのだ。
「アヤメ?!!私の後ろに立っていたのはお前だったのか?!!」
その場から逃げ出した。
✳︎
「…………………」
「アマンナ、もう大丈夫だから」
「…………………」
「ね、明かりも点いたから怖いことは何もないよ」
テーブルの下から二人も知らない人が出てきて度肝を抜かれてしまった。アマンナは怖いものが苦手だったようで、それっきり何も言わずに僕に抱きついたままだった。これではどっちが年上なのか分からない。
「…」
少し身動ぎをしたのでアマンナを見やる、上目使いで僕を見上げ、目が合うとすぐに逸らしてしまった。
「アマンナ」
少し強めに言うと体を離した、その顔はどこか照れており、てへ、と聞こえてきそうな程に頭をぽりぽりとかいている。
「い、いやぁ…何だか、タイミングを逃してしまってこのままでいいかなぁ、とか思わなくもなかったり…」
「もう…心配かけさせないでよ…」
「ははは…でもまぁ、少しは元気出たんじゃない?ハプニングだらけだったけど」
そこでふと、テーブルの上に置かれていたライトからアマンナに視線を向ける。また、お姉さんのような顔をして僕を見てくれていた。
「もしかして…」
「さぁね」
そう言って椅子から立ち上がり食堂の入り口へと向かう。他の皆んなは突然現れたグレーの人や女の子を追いかけて食堂から出て行ってしまっていた、ここにいるのは僕とアマンナだけだ。僕も椅子から立ってアマンナを追いかける、別に逃げているわけではないが僕にその顔を見せようとはしなかった。
食堂を出ると、部屋がある廊下とは違い赤と金で刺繍された立派な絨毯と壁から直接顔を覗かせている植物がある。飾られた額縁には大きなお城の上に広がる雲の映像、別には夕焼けに彩られた草原が映し出された額縁があった。きっとマギールさんの言う通り電気の復旧が終わったのでこの額縁にも流れているのだろう。少し気を取られつつも前を行くアマンナに声をかけた。
「どうして僕にそこまでしてくれるの?」
こちらを見ずに答える。
「何だかほっとけないんだよ、テッドを見ているとさ」
食堂前の廊下を抜けると、今度は天井が高い廊下に出る。T字なった廊下を左に行くと一階ロビーに行けて、右に曲がった先はまだ行ったことがないので何があるのか分からない。
左へ曲がったアマンナのお下げ髪がなびくのが見える、僕もそのまま後を追いかける。
「もしかして、アマンナにも家族とかいるの?」
「どうして?」
「だって僕のことを放っておけないって、弟かお兄さんがいるのかと思ってさ」
「ううん、わたしに家族はいないよ、そばにいてくれていたのはグガランナだけ」
後ろに手を組みすたすたと前を行く。天井が高い廊下も抜けてロビーの入り口が見えてきた。アーチ状に作られたロビーの入り口もどこか古めかしく何だかさっき額縁の中に見たお城のような雰囲気があった。
「そっか、僕もね家族は両親だけだったよ、一人っ子でずっと寂しかったんだ」
ロビーに入る手前でやっとアマンナが僕に振り返った、その目はきょとんとしていてさっきまでのお姉さんはなりを潜めたようだ。
「ふーん、そっか、テッドも寂しかったんだね」
「うん、だからさ、僕のことはお兄さんでも弟でも、どっちでもいいからこの場だけでも家族になろうよ」
アマンナに追いつき立ち止まる、僕より少し下にあるアマンナの目を見つめた。
「…うん、いいよ」
「さっきはありがとう、僕に気を使ってくれて、皆んなのおかげで元気になれたよ」
「さぁね、何のことだか」
優しく微笑みながらまた前を向く、今度は振り返らないだろうなと思いながらその背中に声をかけた。
「何かあったら僕に言ってね、今日のお礼がしたいからさ」
「いいよそんなの、お礼とかお返しとか、家族なら当たり前でしょ」
やっぱり振り返らなかった。ロビーに入っていったアマンナは横から現れたアヤメさんに引っ張られてそのまま何処かへと消えてしまった。
✳︎
「観念なさい」
「何のことだか」
「ティアマト」
「…」
正座をさせている。ロビーのど真ん中で床の上に直接だ。ほんとこのマキナはよく逃げる。
「あなたの仕業ね?このホテルの停電は」
「おかけでいいものが見れたじゃない、あなたもそう思うでしょ?グガランナ」
「何を言って…それにあなたには聞きたいことが山のようにあるのよ、いい加減お縄につきなさいな」
「分かったわよ、それで何から聞きたいの?」
ちなみに、テッドさんの後ろから現れたオリジナル・マテリアルはティアマトの後ろに転がしてある。私と同じ型で出来の悪い球体関節人形のようだ。
「まずは、メインシャフトのエリアであなたのマテリアル・ポッドがあった理由、おかげでアマンナが助かったら良かったものの」
「ならいいじゃないそれで、駄目?」
言下に否定する。
「駄目」
「はぁ…あそこはピューマ達の修復所にしていたのよ、だから街も綺麗にしてもらっていたし、レプリカだけどポッドも置いていたの、もちろんタイタニスやテンペスト・ガイアには内緒でね」
「そう…なら、中層の廃墟で作ったデータは何かしら?」
後にスイと名乗り、私とアマンナをお姉様と慕ってくれたあの女の子だ。アヤメにとっては忘れたくても忘れられない大切な親友の姿をしている。
「中層でアヤメと会うために作ったのよ」
「…それだけ?」
「えぇ、自分から会いに行くのって何だか恥ずかしいじゃない、だからアヤメから来てもらうように差し向けたの」
指で額を押さえて暫く考え込む。
「言っておくけどあなたにとやかく言われたくないわ、私の仮想世界でアヤメと…」
「分かったわ!何も言わないからあなたも何も言わないでちょうだい」
「ほんとあなたもアマンナも…」
雲行きが怪しくなりそうだったので追加で聞きまくる。
「それと、いつの間にアヤメと仲良くなっていたの?上層の街で会うのが初めてのはずよね?」
「いいえ、ディアボロスが作ったくだらないゲーム世界で顔を合わせているわ」
...何のことだか一瞬分からなかったがすぐに合点がいった。あのエレベーターシャフトのエントランスホールに置かれたコウモリ型の銅像のことを言っているのだ。
「あの時に…どおりでアヤメの様子が少し変だったのね、何を聞いても答えてくれなかったし」
「…ええ、口止めしていたから、というかあなた、そんな前のことを未だに覚えているの?」
「当たり前でしょうに、何を言っているの?」
当たり前でしょ。
「重いわ…あなたとても重いわ、昔はそんな子じゃなかったのに…」
「うるさい、あとこの停電は何?どうして皆んなに迷惑をかけたのよ」
さすがに正座をして足が痛くなってきたのかもぞもぞとさせているが無視する。
「誰も私に構わなくなったから、アヤメにあんなに叩かれたのに…ひどいと思わない?」
「自業自得」
「そんな難しい言葉まで使えるようになっているなんて、嬉しいようで寂しいわ、グガランナ」
「知らないわよそんなこと」
さすがに我慢の限界か足を崩して座り始めた。
「ティアマト、ちゃんとアヤメにも説明しておきなさい、いいわね」
「分かっているわ、仮想世界ではテンペスト何某に邪魔をされてしまって中途半端に終わってしまったもの」
「…それは私達もよ、上層からこっちに来る時にサーバーから一方的に切られてしまったもの、意図が分からないわ」
「簡単よ、あなた達の邪魔をしたかったのよ、私と同じ」
足の痺れが取れたのか、近くにあった合成革で作られた黒いソファに向かい、昔に何度も見てきた上品な仕草で腰を下ろした。私も久しぶりに彼女の真似をして向かいのソファに腰を下ろす。
「少しは様になっているようね」
「それはどうも」
足を斜めに揃えて太ももの上に静かに手を添える。この仕草だけはむず痒くて何度も失敗して指摘を受けていた。私の足を見やると、ロングスカートに隠れているが少し開いてしまっている。太ももの間にスカートが沈んでしまっていた。
「…懐かしいわ、よく私のナビウス・ネットにあなたが遊びに来ていたことが」
「別に…他に行く当てもなかったし…」
「ふふ、そうやって拗ねるのも久しぶりに見たわ」
「うるさいな…」
「ふふふ、本当に懐かしい」
上品に微笑んで馬鹿にされるのも久しぶりだった。それにまだ話しは終わっていない。
「それよりも、どうしてか分かる?テンペスト・ガイアが私達の邪魔をする理由」
「さぁね興味がないわ、あの人は昔からだもの、上手くいかないことがあるとすぐ周りの邪魔をしてくるのは」
オリジナル・マテリアルを起動するにあたってサーバーへと接続を果たしていたのだ。接続権限はテンペスト・ガイアよりもオリジナル・マテリアルの方が上位なのだ、そのおかげであの窮地を脱することが出来た。
「そうかもね、私もアヤメに会わせてほしいと連絡が来たんだ、すぐに断ったけどさ」
「そう…」
「何がしたいのかさっぱり分からない、他のマキナ達もそうだけどさ、一番分かりやすいのはティアマトぐらいじゃない?」
「グガランナ、口調が戻っているわよ」
「…………だ、誰にも聞かれて…いないですわよね?」
「変」
「うぐぅ…駄目だ、ティアマトと二人っきりになると素が出てしまう…」
あんなに苦労したのに、アヤメの前では一度もボロが出たことがなかったのに。
ふと見上げるとティアマトが寂しそうに見つめていたのが、何だか胸に刺さってしまった。
「…あなたは本当に、勇敢な子なのね」
「…何?」
「中層へ行きたいと言い出したあなたを止めることが出来ずに、それだけでなく、私を頼ってくれるだろうとたかを括っていたこと、本当に後悔しているわ」
「…ごめん、なさい」
「謝る必要はないわ、好奇心は大事になさい」
あれだけ馬鹿にしていたくせに、本当はティアマトも行きたかったのか。
とにかく止められた、危ないからやめておけと、お前は私の母親かと何度も口論になった。挙げ句の果てにはやれマキナらしくないだの、粗暴なお前が人と仲良くなれないだの、ティアマトの言葉に頭にきたのでがむしゃらになってマテリアルを作ったのだ。そんな時に...
「グガランナ、きちんと面倒を見てあげてなさい、あなたが作った子機なんだから」
「?」
「アマンナよ、あなたの子機でしょ?あなたよりあの子の方が賢いじゃない、遅れを取ったら言う事を聞かなくなるわよ」
「あぁ、うん…そうね、気をつけるわ」
「…?まぁいいわ」
怪訝になりながらも、顔にかかっていた前髪を優しく払い居住まいを正した。そして、真っ直ぐに私を見つめてこう聞いてきた。
「これからあなたはどうするの?下層に残るのかしら、それとも人間達に付いて行くのかしら」
「………」
「私から一つだけ、流れに身を任せるのはお勧めしないわ、自分の意志を待ちなさい、必ず後悔するわ」
「………分かった、いつもありがとうティアマト、何も知らない私に色々と教えてくれて、この喋り方も仕草も全部あなたから学んだものだから」
「ふふ、全く及第点にも及ばないけどね」
「はいはい」
私が返答したのを受けてやおら立ち上がり、転がしてあるオリジナル・マテリアルの所まで歩いていく。私も後を追いかけ彼女が起動させている作業を心ここにあらずといった体でぼんやりと眺める。自律モードに切り替わったオリジナル・マテリアルが一人でに立ち上がり私とティアマトの間に屹立した。
そして、
「それじゃあとりあえずお暇するわ、アヤメにはまた私から…」
ティアマトが話しの途中で口を閉じてしまった、私の行動が信じられなかったからかもしれない。思わずティアマトの手を取っていたのだ。
「…あなたも私のマテリアルまで来なさいな、久しぶりに二人でお話しをしましょう」
「……うん」
テッドさんやナツメさんにしてもらったように、私もティアマトのオリジナル・マテリアルを支えてあげながらホテルの出入り口を目指した。
✳︎
「では、そのマテリアルはグガランナに作ってもらったのだな?」
マギールの問いかけに下を向きながら答えている。胸の辺りで髪の毛を触りながらあたかもいじらしく見えるように。
「はい…あの、黙っていてすみませんでした、皆さんを驚かせようと思って…」
「まぁよい、それなら儂らも悪かったさ」
逃げ出した正体不明の女の子はスイだった。マギールがライトを点けたと同時にテッドの後ろから悲鳴が聞こえさらに私の足元からも悲鳴が上がったので、あの場は阿鼻叫喚の坩堝と化した。慌てて下を覗き込むのとマテリアルが走り出したのと、女の子も逃げ出したのが全て同じタイミングだったのでさらに訳が分からなかった。
「スイ、どうして逃げたのよ?何もやましいことがなかったらその場にいても良かったじゃない」
私の顔をちらりと一瞥してナツメに向き直った。
「ぷ、プエラさんが…こ、怖かったので…」
「んだとぉ?!!何で私が悪いみたいな言い方になってるのよ!!」
「ひぃぃ!!」
そばに立っていたナツメの影に隠れた、こいつ!
「プエラ」
監視用モニターの明かりに照らされたナツメの顔が諫めるように私を見ている。ここはホテルの詰所、壁一面にモニターが設置されてホテル内の至る所が映し出されている。今もホテルの入り口からオリジナル・マテリアルを支えてグガランナとティアマトが出て行くところが映っていた。
「それとスイ、プエラをからかうな、いいな?」
私もスイも驚いた顔をする、ナツメには何でもお見通しようだ。
「はい…」
「ふむ、何故ティアマトはオリジナル・マテリアルを持ち出したのだ?食堂に潜めさせていた理由が分からん」
「簡単よ、どうせ誰にも構ってもらえなくなったから驚かせようと持ってきたんでしょう」
「そんな事が出来るのか?」
「自律型なんじゃない?よく知らないけど、それに私がここに来たのはアマンナとグガランナを暴くためよ」
詰所にはサーバーにログイン出来る専用の端末がある。前に一度病院でやったようにマテリアルを物置化しないと権能が使えないのでここまでやって来た。
「ナツメ、また私のマテリアルに泣きついてもいいからね」
「はいはい」
ぞんざいな返事を聞いて奥にある小部屋へと向かう、扉を開けて中に入ると診察台のようなベッドが置かれていた。周りには何もない...いや壁に一枚の絵画が飾られていた。環境映像ではなくきちんとキャンバスに描かれたものだ。蓮、の花だろうか抽象画で描かれたものは水面に浮かぶ蓮の花を描きどこか儚い印象を受けた。
絵画に目をやりながらベッドに横たわり、サーバーへとログインを果たす。
簡易ログインとは違い映像が網膜に映し出されるのではなく、意識そのものがサーバーへと接続されるので体の感覚が失くなる...というと分かりにくいが、まるで空を飛んでいるような感覚に変わりそのまま電子世界の海にダイブした。
緑色に煌く海の中は海面もなく海底もない、無限の広がりを見せている。最初はとんでもなく怖かったが慣れてしまうと泳ぐのが楽しくなってしまった。
海の管理人たるイルカさんが私のそばにやってきた、つぶらな瞳が警戒を示すオレンジからブルーに変わり、そのまま何処かへ行ってしまった。一度イルカさんと喧嘩した事があった、毎回警戒しながら私に近づいてくるなと怒ると、それこそ無限の果てまで追いかけ回されて泣きながら謝ったことがあった。
意識を周りに向けると次第に無数の泡が見え始め、そこには数え切れない程の景色が映し出される。一つ一つの泡は今、マキナ達が見ている光景であったり過去に見たものであったり、多種多様だ。その泡は虹色に輝いているものと、輝きを失い今にも消えそうな泡もあった。
(ほんと、気が滅入るわ…)
私は死に泡と呼んでいるが、リブートされる前の記憶が映し出されているのだ。虹色に輝くものが言うなれば今世の記憶、そして死に泡が過去世の記憶だ。一度も見たことがないが、そもそも見ようとも思わない。それぞれの泡はマキナ毎に分けられているので簡単に識別出来る。お目当ての泡をさっきから探しているのだが...
(無い?そんな馬鹿な…いくら子機だからといって何も無いはずは…)
その時緑色の海に異変が起こった。見渡す限り同じ色で統一された海に太陽の光が差し込んできたのだ。驚いて上を見上げると確かに太陽があって、菱型を伸ばしたような影がそこにはあった。
(もしかして…船?)
そう認識したと同時に私の意識に何かが引っかけられ、そしてそのまま上へと引っ張り上げられてしまう。
(?!!)
こんな事は初めてだ、どうしてイルカさんは助けに来てくれないのかと疑問に思うのと、こんな事が出来るのは一人しかいないと合点がいくのが同時だった。
初めて、海の外へ出た。水飛沫を盛大に上げながら私がまるで釣り上げられた魚になったよう、太陽の光を浴びて照らされた海はとても綺麗に見えた。遠くには海の中にそびえるように立っている大きな...視界が揺れてしまい確認する間もなく下を向かされてしまった。そこには船の上に立っている、おそらく初めて会う私の上官がそこにいた。
「初めまして、プエラ・コンキリオ、私が誰だか分かるかしら」
「…」
「あら、貴女もイルカのように口が聞けないのかしら」
「…」
「まぁいいわ、貴女と対話しても得られるものは何もないことは知っているから、それより近々貴女に指示を出すわ」
「キューキュー!!」
?!!え?私イルカさんになってるの?!
「黙って聞きなさい、それとティアマトに権能は預けておくと伝えなさい」
「キュー?」
「貴女は知らなくていいの、彼女に伝えるだけでいいわ」
「キューキュー!!」
意味が分からない。それに船の操舵席にはハデスも居るではないか。
「それじゃあね、最後の余暇を満喫しなさい、これが最後よ」
不吉な言葉と共にリリースされて、そのまま意識がサーバーの海から引き剥がされてしまった。
✳︎
ベッドに横たわったプエラの頭を撫でながら、アヤメと会話した内容を頭の中で整理していた。
(私達といるよりもか…)
あいつは言ったんだ、言葉が分かる私達よりも言葉が分からなかったマキナ達の方が安心すると。その言葉はひどくショックだった。今もなお、私の心をトゲのついた手で掴んでいるように、重く苦しかった。
何も、何もしてやれていない。それどころか見切りをつけられそうになっている。家族を失って失意の底に沈んでいた私を拾い上げたのは他の誰でもないアヤメだった。その彼女を思い銃を握ってきたというのにこの体たらくだ、情けないなんてものではなかった。
プエラの長い睫毛が微かに震えているのが分かった、もう起きてくるのかなと待っていると飛び起きてきたではないか。
「びっ…くりしたぁ、大丈夫か?」
私が声をかけると大粒の涙を流しながら顔を向けて、そして私の首に腕を回してしがみついてきた。その細い体が震えて何かに怯えているようだ。体を支え、背中を撫でてやっても何も言わない。
暫く無言で抱き合っていると、プエラから身を離し私と向き直る。
「ご、ごめん…急に…」
「何かあったのか?アマンナ達の事か?」
「違う…イルカさんになってたの…」
「…?それで?」
「テンペスト・ガイアと会って…最後の余暇を楽しみなさいって言われて…それが凄く怖くなって…」
「どうして?」
「だって!これが最後なんて言われたら、誰だって怖いよね?!嫌だよ私…最後だなんて…」
「何も怖くないさ」
「…どうしてなの?」
「私達はいつも最後だからな、今日という日も明日という日も、永遠に戻ってこない」
「………怖くないの?」
「怖くないさ」
「…」
「まぁ、怖くないと言うと嘘にはなるが…」
「どっちなの!」
「生きるというのはそういう事だ」
「意味分かんない」
「怯えて過ごすだけじゃないってことさ、最後があると知っているなら楽しもうと努力することだ」
「それで怖くなくなるの?」
「あぁ、もう十分だと言えるまで楽しんだらきっと何も怖くなくなるだろう」
「ただの希望的観測…」
「好きなように言え、今の私のそばにはアヤメもいるしテッドもいるし」
「…」
少しは元気が出てきたようだな、いつもみたいに拗ねた顔をしている。
「それに可愛い女の子もいるからな、私は満足だよ」
「どっち?!誰のこと言ってるの?!私?!私よね?!スイって言ったら怒るよ!」
「さあな、白い髪をした怒りん坊で甘えん坊の可愛い女の子しか知らないよ」
「!」
また拗ねたように、けど嬉しそうに口をもにょもにょとさせている。そして、私の顔を両手で挟み固定して...
「………ヘタれ」
「………うっさいな」
おでこにキスをされてしまった。
「元気が出たみたいで何よりだ」
「……また、ナツメからしてね」
「はいはい」
雑に返事をしたことに怒ったのか、ベッドがある小部屋を出て自室に戻るまで何度も叩かれた。