さあ、お菓子で完敗しましょう
◆登場人物◆
ミトコンドリア
◯イーオン・ユリア・メリア
ミトコンドリア飛行士を務める一八歳のパイロット。飛ぶことに強い執着を見せ、時に周囲とトラブルを起こす。あ、本作の主人公。
◯サラン・ユスカリア・ターニャ
ミトコンドリア隊長を務める二〇歳の歌姫。容姿端麗かつ美声の持ち主であり、ディーヴァを夢見ていたが、ミトコンドリアの配属となった。何で?
◯クルル・クルカン・クラカンタ
ミトコンドリア操縦士を務める一六歳の天才。ミトコンドリア配属のため、サマルカンドアカデミーを退学した異端児。ラグナカンの操縦席に殺されかけた経験を持つ。僕だけだよね?
◯ギーリ・刹那
ミトコンドリア副隊長を務める一八歳の作曲家。下サマルカンドアカデミーの卒業生であり、在学当時はテクニカと共に名を馳せた作曲候補生だった。くっそ稼いでやったわ。
◯テクニカ・キリオール
ミトコンドリア司厨士を務める一八歳の作曲家。ま、とりあえずギーリが行くんなら私も的な?別に就職先はどこでも良かったから、ギーリと一緒になれてとりま安心しましたよ。
ファースト
◯シリウス・ジョブス・ジュニア
第四二七回大統領選挙にフェデラリスト・アメリカ(新共和党)の候補指名を受けて出馬した、ネオ・ニューヨーク州、コモンズ出身の五〇代男性。
◯ベガ・アルタイル
第四二六代現大統領。リパブリカンズ・ローマ(新民主党)の強力な支持を携え、一二塔主議会の政治介入を断固として防ぎ、ファースト至上主義を掲げる六〇代男性。
ファミリアの種類
◯オーディン・ファミリア
◯ハデス・ファミリア
◯グガランナ・ファミリア
◯ティアマト・ファミリア
◯ゼウス・ファミリア
以上五つのファミリアがファースト内で勢力を有し、第四二七回大統領選挙において有権者票の取りまとめを行なう。現在、オーディンを除く四つのファミリアがベガ・アルタイルを支持し、シリウス・ジョブス・ジュニアは劣勢に立たされている。
彼は焦っていた、このまま現状に甘んじていれば落選は必須である。そこへ、一二塔主議会の紹介を受けたミトコンドリアが来国した。
彼はこの未知数の奇貨に己の命運を懸けることにした。
大波乱を引き起こす大統領選挙の幕開けである。
◆本文◆
建国の父、ジョージ・ワシントンよ、あなたのその崇高なる志は地球のマントルにも飲まれることなく、こうして私たちの世代にまで引き継がれている。
人類の浅はかな行為により地球が怒り、噴出したマグマによって住処を追われ、我々人類は自らの愚行を心から嘆いた。
西暦の時代、世界を牽引していたアメリカが世界各国から非難を浴び、マグマの対応に追われてしまい、結果として前国連、現在では星管連盟と呼ばれている組織に政治介入を許してしまった。
これは一重にマギール・カイニス・クラークと呼ばれるウルフラグ技術団に所属していた研究員の功績、あるいは祖国に対する裏切りが起因となっている。
スポニティアスAIを開発し、当時の日本、中部地方に竣工したばかりのテンペスト・シリンダーにグラナトゥム・マキナを配置、これに恐れをなした星管連盟がアメリカへ新開発されたAIとマキナの譲渡、及び管轄権の移行を申し入れた。
アメリカは既に北極圏で行なわれた掘削事故の責任を世界各国から追及されていた立場にあり、当時の大統領は星管連盟の申し入れを受託した。
この時から既にアメリカは内外共に崩壊が始まり、日々侵食してくるマグマのみならず、国内においても市民たちの統制を失い、やがては星管連盟の政治介入を許し、連邦議会、フェデラリスト、リパブリカンズの解体、大統領の解任という、リベラル・ブロークンが発生した。
事実上の国家解体である、我々は我々の手による為政の手段を失った。
『アメリカ』という、我々にとってはアイデンティティに等しい、永遠の共和制国家をも失ってしまった。
「………」
腕にはめた年代物の時計を確認した、まだ星統航空の管制官から連絡はなかった。
暇潰しのために持ってきた愛読書に再び視線を落とす、私が下院議員時代に購入してから片時も手放さなかった歴史書だ。ここに全てが記されている。
何故、当時の国民たちの統制に失敗したのか?それは何も侵食してくるマグマの恐怖だけではなかった。
当時の大統領がテンペスト・シリンダーの建設をアメリカにではなく、共にウルフラグ技術団を立ち上げた日本に決定したことが原因となっている。当時の大統領は、「未曾有の一大事業であり、それを発端とする事故、並びに自然に及ぼす影響が計り知れないため、友好国である日本で実験的に行ない、その結果をフィードバックさせながらアメリカでの建設を決定した」と、説明している。
これに納得した者は誰もいなかった。当時の大統領の独断による蛮行とされ、現在でも学者たち批判されている事だった。
当時の国民は大統領、連邦議会に対する不信を募らせ、大混乱の時代になった。そこへリパブリカンズが混乱を鎮めるべく、星管連盟に助けを求めてしまった。
政治介入を果たした連盟が既存の政治体系を全て解体、これを自由主義の崩壊、リベラル・ブロークンと呼ぶ。次に、連盟は誘致したリパブリカンズに権力を集中させ、一党独裁体制を築かせた。
それはかつてのローマのように、共和から帝へ変遷し、永遠の国が滅んでしまった歴史を準えたかのようだった。
それにちなみ(あるいは皮肉を込めて)、リパブリカンズ・ローマという新しい呼称を携え、解体されたアメリカの政治を再開した。
彼らの為政が上手くいくはずがなかった。
アメリカはさらなる大混乱期を迎えることとなる。
「ハロ〜シリウス大統領閣下、ミトコンドリアからライブチケットが届きましたよ〜しかも特等席!転売されたくなかったら二三番ドッグへ急いでください、現在接舷作業中で〜す。ハロ〜大統領閣下、ミトコンドリアから──」
能天気な管制官から音声メッセージが届いた、内容を確認したあと、時計の画面を叩いて音声を切る。
愛読書をジャケットの内ポケットにしまい、傷んで座り心地がろくでもないソファから立つ前に、ニュージャージーの夜景を見やった。
ペンタゴン・ジュピター・ハブの待合室から望む夜景は、太陽が沈むと同時に降り出した雨によって歪み、夜の街をいたく濡らしていた。
窓ガラスに付着した雨粒が重力にならって下へ落ちていく。その軌跡を目でなぞり、自身が置かれている境遇と重ねてしまい、嫌気が差す前にソファから立ち上がった。
田舎の街並みに背を向けて待合室を出る、人の通りは少なく、コンコースは閑散とした雰囲気だった。
通りの隅にはゴミが溜まり、浮浪者たちが作ったダンボールハウスが並ぶ。田舎らしい、無駄に広いハブの天井を支える柱には、客引きをしている女たちが立っており、一人の女が私に視線を送ってきた。
その女の前を通る時、紙の名刺を差し出した。
「何かあれば私に連絡を。君もコモンズの出身だろう?客引きする時ぐらい手の甲を隠しなさい」
「ちっ」
気遣いの返礼は舌打ちだった、いつもの事である。
弁護士時代からの癖だった、相手が同郷であれば見ず知らずの他人でも名刺を渡すようになっていた。
女が受け取った私の名刺をポケットにしまったのを見届け、ミトコンドリアのスカイシップが停泊しているドッグへ足を向ける。
ペンタゴン・ハブはファーストに五つ存在し、それぞれ惑星の名前が付けられている。ここ、ジュピター・ハブが大西洋に面していることから最も広く、コンコースは大きく湾曲していた。
気付かないうちにカーブしていた歩みの先に、彼がいた。
第四二五代大統領と一騎打ちをし、アメリカからの歴史から見ても史上初となる不戦勝を持って大統領に就任し、私が政治の分野に関心を持つきっかけを与えた男だ。
ベガ・アルタイル。リンカーンの名を冠する大統領。彼が二三番ドッグの手前に堂々とした佇まいで一人、側近も付けずに立っていた。
私に気付いた彼が、地球のコアまで響きそうな低い声で話しかけてきた。どうやら私に用事があるらしい。
「惨めだな、シリウス」
「何かご用ですかな、ベガ・アルタイル」
「友も失い票も失い、あまつさえ矜持も自ら捨て去るとは」
「捨てた覚えはありませんよ」
老齢には見えない体格を持つ彼が、私の正面に立った。
「あとは君だけなんだよ、シリウス、君さえ馬から降りてくれたら済む話だ」
彼が体の向きを変えた時、スーツに織り込まれているナノ繊維がきらりと反射し、それは短く刈られている頭髪も同じで、銀浪の如く輝いた。
不動だ、その絶対の自信、絶対の地位、彼の足元はスーミーのユーザーたちが支え、彼の頭上にはゼウス・ファミリアの後光が戴冠している。
相応しい男だ、間違いない、この国を牽引するに足る存在。
私はこの男と勝負し、勝つつもりでいた。
「生憎と、私の馬は貧相なものでね、手綱を離さない限り落馬することはありませんよ。ベガ・アルタイル、あなたこそ世界に目を向けるべきです、これからのファーストは議会無くしてあり得ない、それが分からないあなたではないでしょう?」
「お前はまた、過去の愚行を繰り返すつもりか?星管連盟に乗っ取られ、再建の父たちが取り戻したこの国をまた手放すつもりなのか?」
「手放すのではありません、彼らを対等に迎え入れるのです、再建の父たちがそうしたように、時代を先駆けて世界を再び牽引するのです、その役目は連盟でもなければ議会でもない、我々ファーストだ」
「その点には同意しよう。しかし、議会を迎え入れるのは今ではない」
「スーミーの幅を利かせ過ぎたあなたの落ち度でしょうに、そのせいで政党の力が弱まり、今となってはただの寄せ集めでしかない、このままではファーストの門を開いても世界に取り込まれてしまう」
「お前がしている事はあべこべだ「──だからこそ今なのです」
彼と私の言い分は平行線を辿る。だからこうして対立し、絶対的地位を持たない私が劣勢に立たされていた。
ベガ・アルタイルが歩き出した、用事を終えたのだろう、私ではなく前を見据えたまま、こう言葉を残して去って行った。
「君は君の道を歩きたまえ、シリウス。議会の犬にすら見限られないようにすることだ」
私は振り返らず、銀狼の残滓を払いながら二三番ドッグのハブへ足を踏み入れた。
◇
過去、大統領に就任した者の中にも恵まれた体格を持つ父たちが大勢いた。
その中でも第二二代大統領に就任したグロバー・クリーブランドは身長一八〇センチ、体重は一一〇キロ近くあったという。何でも大統領専用車のドアに挟まって動けなくなったとか、ホワイトハウスのユニットバスに体がすっぽりとはまって出られなくなってしまったとか、政治分野以外にも逸話が残されている大統領である。
何故、私がグロバー・クリーブランドのことを思い出したのかと言うと、今のこの状況と彼が置かれていた状況が似通っているからである。
クリーブランドが就任した当時、西部開拓におけるゴールドラッシュの恩恵を受け、政治がそのゴールドに腐り、私利私欲に塗れた政治家たちで溢れ返ってしまい、国民たちの求心力を失っていた時代だった。
政治は市民より金が先行し、議会の場はゴールドを手にした企業の長たちが支配していた。これに立ち向かったのがクリーブランドであり、国民たちの期待を背に受けて大統領選挙に勝利した。
ベガ・アルタイルはどうだろうか、スーミーの台頭によって全国民がそれに傾倒し、スーミーを通さないと商売すらままならない事態が起こってしまった。
スーミーはソーシャル・ネットワーク・サービスのアプリ名だ、ファースト国民の実に八割以上が利用し、我々政治家はそのアプリに遅れを取っている状況だった。
驚異的な数字だ、一〇人のうちに八人がスーミーを通した情報しか受け取らず、残りの二人しか我々の声が届かない。
クリーブランドもアルタイルも、政治への求心力を失っていた時代に生きる大統領だ。
ただ、相違する点がある。それはクリーブランドの時代はまだ政治に期待があった事だ。
だが、今は違う、誰もが政治に期待など寄せていない時代だ。
これではうねりのように迫ってくる革新的な時代を牽引するどころか、生き抜くことさえ困難になる。
国家の命運を自分たちが担っている、という気概はもはや今の連邦議会になく、為政者も市民らも皆が視線を揃えてベガ・アルタイルを仰ぎ見ている。
これでは駄目だ、政治はその国にとっての背骨であり頭脳である、それが上手く機能しなければ外交の場において戦うことができない。
クリーブランドはまだ恵まれていた方だと私は考える、何せその当時の国家群は、急速に力を付けていくアメリカに対して外交の場で及び腰の姿勢を取っていたからだ。だから彼は内政に集中することができた。
だが、今は違う、時代が似通った道を辿ることはあれど、完璧に再現することなど決してあり得ない。
コンコースから進入したハブの道のりは長く、何度か角を曲がり、エスカレーターを乗り継いでようやくミトコンドリアのスカイシップに到着した。道のりが長いお陰で思考に没してしまっていた。
意識を外へ切り替える、スカイシップへ続く接舷橋に一人の女性が立っていたからだ。
「シリウスだ。シリウス・ジョブス・ジュニア、急な来訪で申し訳ない」
彼女に向かって手を差し出す、先ほどの女とは違い、丁寧な握手を交わしてくれた。
「サラン・ユスカリア・ターニャと申します」
大西洋から流れてきた風が彼女の長い亜麻色の髪を攫う、質量を持たないかのようにふわりと持ち上がり、そのまま宙に浮いてしまうのではないかと疑ってしまうほど舞い、その後はゆっくりと落ちていった。
私は手を引き、彼女の手の温もりを感じながら、失礼にならない程度にじっと視線を注いだ。
(外交官が眉目秀麗なのは通例だが…まだまだ子供に見える。ヴァルヴエンドはこんな子供に外交を任せたというのか…)
大丈夫か?ネオ・ニューヨークのスラッジにあてられただけで病気に罹ってしまいそうだ。
背後に堂々と控えているのは彼女たちのスカイシップ、名前はラグナカンという。家の前で親の帰りを待つ子供のように見えてしまい、強い不安に駆られた。
その彼女が、私を中へ案内してくれた。
「船内へどうぞお入りください、他の者たちもあなたの到着を待っています」
「いいのかね?」
そのてらいのない提案に、私は緊張と不安から、二つの意味を込めてそう訊ねた。ファーストに代わって世界を管理していた国の新型艦をこの目で見てもよいのか、という意味と、自己紹介をしただけの男を家に招き入れてもよいのか、という意味だ。
彼女が答えた。
「ええ、何故あなたが私たちに接触してきたのか、その理由も含めて船内で語らいましょう。ここから見える夜の海も素晴らしいですが、立ち話をする場所としては不適切です」
「確かに。ありがとう、お邪魔させてもらうよ」
見た目以上に中身はしっかりとしているらしい、急な来訪に対する不信感を隠そうともせず、素直にそう口にしたのは持ち合わせた胆力がなせる技だ。
彼女が先に歩き出す、私は一度大きく息を吸い込み、自分の肺を洗浄する想像をしながら大きく吐き出した。それから彼女の跡に続いた。
スカイシップはとかく臭い、船体の総重量をカットするため、また故障や修理をした時の利便性を高めるといった理由から、ファーストでは材料にもっぱらプラスチックやカーボンが多用されている。──と、腹を括って深呼吸をしたのだが...
(これは驚いた…ミルキーウェイと遜色がない…)
何ここ?本当にスカイシップなのか?
ははあ、なるほど、これだけ壮麗で有機臭もしもなければ、病気や怪我とは無縁に過ごして地球を旅することができるだろう。
搭乗口からファーストのスカイシップとはもう違う、臭いが無い、いくら吸い込んでもほのかな甘い匂いしかしなかった。
ペンタゴン・ミルキーウェイのように豪華絢爛とまではいかなくとも、真っ白で汚れの無い壁はそれだけで清潔感を覚えるし、床もひび割れや破損もなく、足を下ろす位置に気を遣わなくても良いのが好印象だった。
真っ直ぐと伸びた通路の先には、左右へ別れた通路と二手に別れた階段があり、ここから見える限りではどうやらその階段から絨毯が敷かれているようだった。
彼女の案内で右手の階段を上り、上った先で今度こそ驚嘆の声を口から出してしまった。
「おお…これは凄いな、まるでホテルのロビーのようだ…」
「お気に召したようで安心しました、何せあなたがラグナカンで初めてのお客様ですから」
いやほんと、客になった気分だ、まあネオ・ニューヨークのホテルになんぞ一度も宿泊したことはないが、ニュージャージーの高級ホテルでもここまではないだろう。
バスケットコートが四つは入りそうなほど広いフロアには、階段から続く赤い絨毯が一面に敷かれており、螺旋階段──螺旋階段だと?ここはスカイシップの中だぞ?何でそんな物があるのだ。
とにかく、手すりから蹴り板にまで意匠が施された螺旋階段があり、その上にはセキュリティゲートが一つ、壁際に二つの扉があった。
彼女はこんな装いをしたフロアに目もくれず、一つの扉を目指して歩き出す。私は生まれて初めて故郷を出た時を思い出しながら、必死に足を動かして彼女の跡に続く。
彼女が目指していた扉の前に付いた時、私に前に立つよう指示があった。
「それは何故?」
「ゲスト登録を済ませるためです、あまり瞬きをせず、扉の前に立ってくれるだけで構いません」
言われた通りに立つ、とくにスキャンするようなレーザーも照射されず、また完了を知らせる電子音も無く、中央のスリットから左右に分かれて扉が開いた。
いいのか?ヴァルヴエンドのシステムなんだろ?いいのか...だから私を船内へ招待したのだろう。
無音で開いた扉の先に広がっていた光景は、どう見てもプライベート空間と思しき場所だった。
ルームシェア型のリビングのようであり、残りの隊員らがラウンドテーブルの手前に整列して立っていた。
皆、子供だった。
◇
過去の大統領においても、何ら政治基盤を持たずに大統領選挙に勝利した者たちがいた。
第四五、四七代大統領、ドナルド・ジョン・トランプ、彼もまたその一人であり、政界からではなくメディアから出馬し、当時の国民たちの政治に対する声を巧みに拾いまとめ上げ、異例とも言える勝利を飾った。
彼から見て二つ代を遡った辺りからアメリカとしての輝きが曇り、国民もまた大統領が発令した法律によって二分されてしまい、持たざる者が持てる者に強い憎悪を抱くようになった。
先代の大統領は何も二分化させるつもりはなかったはずだ、だが、結果として貧富の差によって恩恵を受けられない者たちが現れ、国民たちは政治に対する反感情を募らせていった。
そこへ彼の登場である。かねてから政界入りを目論んでいたトランプは、メディアの力を使って有権者たちに自分の声を届け、政治基盤を持たないダークホースが政治不信を抱く有権者らをまとめて上げて勝利したのである。
見事だと言える。政治家は己の信条だけでは戦えない、孤軍奮闘する政治家などこの世には存在しない。
だが、トランプは政治家を味方に引き入れたのではなく、たった一人で国民たちを直接味方にしたのだ。
彼は熟知していたはずだ、一〇〇人の議員より一〇〇万人の国民たちの声の方が勝る、と。
政治にとって、数は絶対不可侵の正義である。
私もまた、彼に習おうとしていた。彼が行なった悪政ではない、戦い方だ。
ミトコンドリアと面会を終えた翌る日、ネオ・ニューヨークで無理をして入居したマンションの寝室で目を覚ます。
夢を見ていた、トランプと共に肩を組み、雨のように降る票に打たれている夢だ。彼と共に立っていた演説台から降りた途端、カメラの激しいフラッシュと共に真っ暗闇の穴へ落ちていった。
正夢にならないことを祈るばかりだ。嫌な夢を見てしまった。
ベッドに体を預けたまま、昨夜顔を合わせたミトコンドリアの顔ぶれを思い出す。皆、隊長と同様に子供たちばかりであり、中には学生にしか見えない者もいた。
驚いた事に、サラン・ユスカリア・ターニャは成人しているという。彼女だけが唯一の大人だった。
彼女たちは現在船内にて待機中である、今日中に外務院から血液と健康診断の結果が出て、問題が無ければ入国許可が下りるはずだ。
外務院は元老院、外交委員会の下部組織として位置し、ミトコンドリアのように来国する人たちの受け入れ手続き、健康診断手続き、必要に応じて住居の斡旋手続きを行なう。
また、外交委員会を管轄する元老院の院内総務は、私を候補指名したマザー・ハデスである。
彼女は元老院で力を持ちながら、ファミリアに置いてもマザーの位置に君臨している。だから彼女を通じて外務院に働きかけられたのだし、まあ結果として管制官には金を取られる羽目になってしまったが、ファーストコンタクトは成功したと言える。
その金を工面するため、ベッドのサイドテーブルに置かれている時計を手放すことになってしまった。選挙に当選しない限り、私は二度と先祖の墓前に立てないことだろう。
サイドテーブルの時計をじっと見つめる。思い出されるのは、私をミズーリ・モンロー州の大学へ送り出してくれた父だ。
出来の良い父ではなかった事だけは確かだ、周囲とのトラブルも絶えず、金遣いがなっていなかったので生活はいつも困窮し、幼少の頃はそんな父に怒りを覚えていた。
そんな父と比べ、私は学業に恵まれ、コモンズのハイスクールで優秀な成績を収めた後、進学することになった大学から推薦状が届いた。
けれど金がなかった、奨学金制度はあれど、入学金がどうしても用意できないと諦めかけた時、父が何桁にも及ぶ数字の列が表示された画面を私に見せてきた。
父は私のために己の選挙投票権を売却してきたのだ。その売却金をもって私は大学へ進学し、その別れる時に時計を渡されたのである。
思い出の品だ、今は安らかに眠る偉大な父と私を、生死を超えて繋ぐ時計である。
その時計が消灯モードから点灯し、メッセージが受信したことを知らせていた。
「メッセージを読んでくれ」
こうして時計に語りかけるのも最後だ。その別れを惜しむように、私は再生された音声メッセージに耳を傾けた。
「あ〜…昨日は悪かった、悪かったです、まさかあんな冴えない親父が大統領候補…だっけ?そうとは思わずにさ、つい舌打ちしちゃったよ。相談したいことがあるの、力になってくれない?」
ジュピター・ハブのコンコースで客引きしていたあの女からだった。
◇
ネオ・ニューヨークのマンションを後にし、地下メトロに乗り込んだ時にミトコンドリアからメッセージが入った。血液採取と派遣された医師の診察が終わったと記されていた。
そのメッセージを読んだあと、暫く電車に揺られて何度か乗り継ぎ、ネオ・ニューヨーク州の外れまでやって来た。ここからさらに、装甲車のように頑丈なバスに乗り、ニュージャージー州を目指す。
ミトコンドリアの入国許可さえ下りたら、送迎用のスカイヴィークルを出してもらう予定だ。今住んでいるマンションの二ヶ月分の家賃に相当する利用料金である、ちなみに管制官に支払う金はスカイヴィークルのさらに倍だ。あいつ、ぼったくり過ぎではないか?
バスターミナルはレッドロードと呼ばれる、赤く着色された道路沿いに建てられており、私はニュージャージー州行きのバス乗り場で待っているところだ。
このレッドロードも再建の父たちが施工した道路であり、テンペスト・シリンダー内は土地が限られているため、州同士の土地に関する係争を軽減させる目的で作られたものだ。
ファースト内には一三州が存在し、このレッドロードを境にして厳正に土地が管理されている。そして、今日までこの境が破られたことは一度も無い。これも一重に、再建の父たちが未来の私たちへ残した思い遣りの結果だと言える。
ニュージャージー行きの乗り場には私しかいない、閑散としており、外敵を防ぐバリケードが設置されたバスターミナルにも人の姿は無く、誰にも相手にされない案内用アンドロイドが彷徨いているだけだった。
バスがレッドロードの向こうからやって来た、昔の名残りでタイヤの回りが長方形に型取りされた装甲車のようなバスだ。意外にも、運転手以外に人の姿があった。
見た目の割りには静かなバスだ、バッテリー駆動式のエンジンを搭載した装甲車が停留所に停まり、乗客と一緒に運転手も降りて喫煙所の方へ向かって行った。私とそう歳が変わらないように見える運転手の手の甲にも、己の身分を示す跡が残されていた。
こんな所に来るのは我々ぐらいなものだろう、他の人間たちがネオ・ニューヨークならハブへ移動する時は、スカイヴィークルを手配するはずだ。
休憩へ向かった運転手より先に乗り込み、席に座って息を落ち着ける。それからジャケットに忍ばせていた愛読書を取り出し、意識するでもなく過去のアメリカへ思考を巡らせた。
再建の父たちの一人である、第一八八代大統領ベンジャミン・リンカーン、現代にまで続くネーム・クラウン法を制定するきっかけとなった偉人だ。
先述した通り、アメリカは新生の星管連盟に政治を掌握され、誘致した当時のリパブリカンズに権力を集中させた。
さらに、リパブリカンズ・ローマは連盟から受理したスポニティアスAIを意のままに使役できる存在として、プログラム・ガイアとそれに連なるマキナを即座に現実の世界に召喚した。
アメリカ国内が混乱と憤りに荒れる中、リパブリカンズ・ローマはさらに自由財産に関する法令を強制発令し、本来であればテンペスト・シリンダーの運営に携わるべきマキナを自分たちの私的財産であると公表した。
この歴史を見るに、当時のリパブリカンズ・ローマには優れた指導者が存在しなかったのだろう、だからこのような蛮行が繰り返されたのだ。
蛮行に蛮行を重ね、過去の大統領たちが苦心しようやく解決を見た人種差別問題を再び復活させたリパブリカンズ・ローマに国民たちは激憤した。
この時、国民たちをまとめ上げ、力を失ってしまった連邦議会を再び組織し、リパブリカンズ・ローマに対して宣戦布告を行なったのがベンジャミン・リンカーンである。
西暦から翳り始めていたアメリカの輝きを取り戻すべく、ベンジャミンはフェデラリスト・アメリカと名を改め、侵攻作戦を開始、第二次南北戦争の勃発である。
彼の偉業はそれだけに留まらない。
第二次南北戦争に勝利したベンジャミンは、リパブリカンズ・ローマに財産としての扱いを受けていたマキナたちに公民権を与え、人類と対等の立場としてアメリカに迎え入れたのだ。
また、この時に彼は、電子的生命体に公民権を与えた唯一、そして世界で初めての国家として、アメリカから現在のファーストに名前を代える法案を議会にではなく、国民、それから敵対していたはずのリパブリカンズ・ローマ、最後にプログラム・ガイアに提案した。
アメリカは熱狂した、ベンジャミンの英雄的、指導者的、また人道的な国家救済案に、誰もが賛同し、極度の混乱期を抜けた先、敵も味方もマキナも関係なく手を取り合い、国名を改めることになった。
ファースト史の中で今なお燦然と輝く功績を作った彼に習うよう、また、二度と愚行を犯さないという大統領たちへの戒めとして、大統領に就任した者に『リンカーン』の名前を戴冠する『ネーム・クラウン法』が後に制定されることとなった。
ベンジャミン・リンカーンは悪を許さぬ強い心と勇気、差別をしない公明正大さ、さらには敵対した者たちにも配慮する気配り、全てを兼ね備えた人物と言っても過言ではない、だからこそ今なおその名前が受け継がれているのだ。
ふと、車窓の向こうが騒がしいように感じられたので、彼の出自と人柄に触れた項目から視線を上げ、外を見やった。
バスは既にネオ・ニューヨーク州を離れており、広い田園地帯の中を走っていた。そしてバスの隣には文字通り装甲車が二台走っており、並走していたその二台がロードアイランド州方面へ向かう分岐を曲がっていった。
バスは直進を続ける、この田園地帯を抜けた先に、連絡を寄越してきた女(名前はナンシーという)と待ち合わせをしている目的地がある。
装甲車のひどいロードノイズに中断させられた意識を、愛読書の続きへと向けた。
彼はバージニア・ワシントン州、一般企業に勤務する両親の元に産まれ、その当時はテンペスト・シリンダーに入居を終えたばかりの過渡期という事もあり、生活も安定していなかったが、彼はそれらの混乱に巻き込まれることなく幼少期を過ごした。
彼は地元の義務教育機関で学業に専念し、そこでドーム外縁問題について学んだ。
迫り来るマグマは設置したドーム壁をも侵食し、ドーム壁から近い市民たちが住処を追われ、時に命を落とした。彼はこの差別に等しい問題について衝撃を受け、後の政界入りを果たすに至る遠因だと自伝にて語られていた。
立場による生命の危機の差異は差別であるとし、彼はハイスクールを卒業後、推薦を受けていた名門を蹴り、何とも嬉しいことに私も通っていたミズーリ・モンロー州の大学の門を叩いた。
彼はそこで宗教、経済、法律、政治を専攻し、大学卒業後はバージニア・ワシントン州へ戻り、弁護士事務所に勤務した。
彼が弁護士として腕を振るい始めた時から、国内はリパブリカンズ・ローマの独裁政治が横行し、時には三権分立を犯し、裁判の判決にも介入してきたという。
それでも彼はリパブリカンズ・ローマに怒りを抱かず、心から憂いたという。
まず、ここに違いがある、凡人(私もそうだが)は独裁政治を行ない市民たちを苦しめる者に怒りを覚え、憎しみだって湧くことだろう。
だが、彼は心配したのだ、彼らの愚行に、もう既に潰えている彼らの未来に。
独裁政治のよる国内の混乱と、その中でも弁護士として仕事を続けていた彼に衝撃的なニュースが飛び込んできた。かねてから国民たちを困らせていたリパブリカンズ・ローマが、導入されたばかりのAIを私的財産と見做し、奴隷化させたことを発表したのである。
彼はこの時初めて、リパブリカンズ・ローマに怒りを抱く。だが、それは憎しみを根幹にしたものではなく、隣人を大切にするその精神を根幹にしたものだ。
誰もがリパブリカンズ・ローマに呆れ、諦め、自分たちの困苦を当然としていたその諦観が蔓延する中、彼だけは弁護士事務所を退所し、一人勇猛果敢と動き出した。
「…………」
ふと文面から視線を上げ、車窓を見やる。田園地帯を抜け、ニュージャージーの田舎都市にバスが進入していた。ネオ・ニューヨークの超高層ビルの森とは比べ物にもならない、もはや物置き小屋にしか見えないビルが並び、そのビルの前を市民たちがヘッドホンを装着したまま歩いている。
この幹線道路を進んだ先に昨日訪問したペンタゴン・ジュピター・ハブがあり、今日の訪問先はその途中にあるダイナー(簡易レストラン)だ、そこでナンシーと待ち合わせの約束をしている。
到着する前にもう一度、私がこの愛読書の中で最も感動する箇所を目で追う。
弁護士事務所を退所した彼は、先ず解体されたフェデラリスト側の元議員たちの元へ赴き、再結成を呼びかけた、一人一人にだ、膝詰めの対話で彼は一人ずつ信頼を得て、誰もが無謀だと批判していたフェデラリストの再結成を達成した。直後、彼が党の代表を務め、リパブリカンズ・ローマに対してマキナの解放を呼びかけた。これに対してリパブリカンズ・ローマは自由財産に関する法令を強制発令する形で返答し、両者の対立をより一層深刻化させた。
彼は再結成と同時に攻め込んだのではない、リパブリカンズ・ローマに対して融和的に歩み寄ったのだ。
私はこの歴史的事実に深く感動した、何度目で追いかけてもその感動が胸に押し寄せる。
諦観した人々に希望の火を灯し、あまつさえ愚行を重ねていたリパブリカンズ・ローマにもその火を放った。それがたとえ反発を買うやり方だったとしても、彼は敵にすら希望を送ろうとしたのだ。
そして最後に、彼は争いの渦中にあってもその希望の火を消すことなく、全くの未知であるマキナたちにさえ送ってみせた。
実に優れた指導者だと言える、だがそれは、時節に適っていたからこそ、彼は歴史に名を残せたとも言える。
先述した通り、同時のリパブリカンズ・ローマには彼のような優れた指導者が不在だった。なら、彼がリパブリカンズ・ローマに在籍していたら、愚行に走るような真似を犯さなかったのかと言えば、その限りではなかったはずだ。
ここに時に適う難しさがある、過去の大統領の中にもその優れた指導力を妬まれ、時にはやっかまれ凶弾に倒れた者たちが数多く存在する。
きっと、彼があともう少し早く産まれ、政界に在籍していたならば、邪険に思う輩たちから狙われて命を落としていたに違いない。
彼は言わば、時と機が見事に一致し、そして自身の役割を過たずに遂行した傑物だとも言える。
私もこう在りたいと思う。
愛読書に一区切りを付けて視線を上げる、車窓の外には見覚えのある看板が掲げられているダイナーがあった。
「──あっ」
愛読書に集中するあまり、どうやら乗り過ごしてしまったようだった。
◇
「すまない、遅れてしまった」
「別に良いって。というか、本当に来るんだ、私みたいな擦れっ枯らしの女の所にでも、言っておくけど払える金はまだ持ってないよ」
(まだ…?変な言い回しをする)
待ち合わせ場所のダイナーは最近建てられた物らしく、店内は清潔であり、どこにも傷んだ様子はなかった。
ナンシーは広い店内の中、一番奥まったテーブル席に座っており、彼女の正面に向かい合うようにして腰を下ろした。
「金を取るつもりなら先にそう話をするさ、つまり君から取るつもりはない」
「あ、そう?随分と気前が良いんだね。あ〜なに?もしかして私に期待してる?言っておくけど投票権ならとっくの昔に売却してるよ」
「それも来る前に確認する、確認しなかったということはそういう事だ、つまりこの相談は自分の票を稼ぐ為のものではない。──で?相談とは何かね、身内?金?それとも男?裁判を起こされた?それとも今から起こす?」
「ちょ、ちょっとちょっと、そんな尋問みたいにあれこれ訊かないでちょうだい」
「ああすまない、昔は弁護士として働いていたことがあってね、つい性急な聞き方をしてしまったよ」
「やり難いな〜」と、やたらと耳朶に残るような言い方をし、続けて、
「まあ…なら、正解だったわね、弁護士を辞めて」
「それはどういう意味だ?」
「まるで私が悪者みたいな訊き方だったもの、昔の相談者もきっと嫌な思いをしただろうなって」
「肝に銘じておこう…それはすまなかった。それでは改めて、君の話を聞かせてほしい」
ちょっとショック。
ただ、過去の相談者たちは皆職業奴隷という事もあり、何かと相手を気遣う傾向性にあった。被害を受けたはずなのに、害を加えた者を気遣い、話をはぐらかすのだ。そのせいで相談内容を十分に把握することができず...と言ったところで言い訳にしかならないな、今は止めておこう。
ナンシーが語った。
「今、私の家に客が押しかけて来ててさ、参ってんのよね、一晩共にしただけなのに向こうが勝手にお熱になっちゃって…しかも、破談にするなら裁判にかけるって言い出してきて」
「それは君の商売の客、という事かね?こういった事は昔からあった?」
「あった。でも、裁判にかけるって脅されたのは今回が初めて。というか、昨日あんたが振った後に引っ掛けた男なんだけどね」
「振った覚えはないんだが…何なら私は君に舌打ちをされたんだが…」
「とにかく、話をしてくれない?こっちは付き合うつもりも籍を入れるつもりも毛頭ないってこと」
「私が直接?」
「他に誰がいるの?私の家はここの近くだからさ、だからこのマズいお店にしたのよ」
いやそれは知らないが...
「その男をここへ呼ぶことは?」
「連絡先を知らない、家に押しかけて来て慌てて逃げて来たもの」
「……分かった、家まで案内してくれ」
数瞬の間考え、私はナンシーの家へ行くことにした。
──結果として話し合いはおろか、その男の影すらなかった。
玄関扉を潜り、すぐに誰も居ない事に気付く、背後を振り返った同時に扉を閉められた。
私はナンシーに騙されてしまった。
「間抜けにも程があるわ、シリウス。あなた、自分の立場は分かっていて?」
「申し訳ない…」
「同郷の者から相談を持ちかけられ、相手の身辺もよく調べもせずに家まで赴き、結果として閉じ込められたって…はあ、私は何て警察に説明すればいいのかしら?」
助けを求めてマザー・ハデスに連絡を入れ、予想していた通り呆れられ、溜め息まで吐かれてしまった。
ダイナーのすぐ傍にあった単身者向けのアパートメント、その最上階の角部屋へ案内された私は、ナンシーに先に入るよう促され...エントランスの扉をぱたりと閉じられてしまった。きっと、ナンシーから見て私の背中は哀れに映っていたに違いない、まんまと騙されてしまったのだから。
部屋は伽藍堂で家具の類いは一つもなく、カーテンを開けることなく寂しく晴れた空を見ることができた。
この部屋のスマートキーはナンシーが持っているため、扉を開けることができない、内鍵のような物は一切なく、扉はびくともしなかった。
「と、閉じ込められているからと…私が説明しても、その女に連絡して扉を開けてもらえ、としか言われず…内輪揉めだと勘違いされてしまっている…」
「馬鹿ばかしい…」と、遠慮なく罵倒され、「シリウス、あなたは良く戦った方だと思うわ、けれど、もう限界じゃないかしら?あなたに勝ち目は無いわ」
「それは駄目だ、奴に権力が集中したままだとファーストは必ず腐ってしまう、せめて私だけでも最後の最後まで食いつかなければ──「シリウス、ニュースを見なさい、ニュースを見てもまだ戦う気があるのならまた連絡しなさい」
それだけを言い、マザー・ハデスが乱暴そうに電話を切った、よほど私の事が面倒臭かったのだろう。
言われた通りに時計の盤面を叩き、待ち受けから画面ネットに繋ぐ。
そこには──。
「──ああ、ナンシー…君は既に買われていたのか…」
ネットニュースにこのような記事があった。
『電撃オフライン遊説!ベガ・アルタイルがファーストを中心に演説台に立つ!時代を牽引するリーダーをその肉眼に焼き付けろ!』
きっと、私に邪魔をされたくなかったのだろう、ミトコンドリアと接触し、未知数の奇貨がもたらす価値をも封殺するため、ベガ・アルタイルはナンシーと接触し取り引きを持ちかけ、私を遊説中に閉じ込めるよう指示を出していたのだ。
それに私はまんまと引っ掛かってしまったという事だ。
彼女の変な言い回しの意味をよく理解した、今頃ベガ・アルタイルから金が振り込まれていることだろう。
ジャケットに忍ばせた愛読書の重みすら虚しく感じながら、伽藍堂の部屋の中で膝を折った。
◇
手配していたネオ・ニューヨーク発のスカイヴィークルをキャンセルし(当日キャンセルなので料金はきっちりと取られた)、自分の足で直接ジュピター・ハブへ向かった。
ナンシーは戻って来た、遊説が終わったと同時に扉を開放し、たった一言だけ、「国の未来より自分の懐」と、そう言った。
怒りもあった、屈辱もあった、虚しさもあったが、ナンシーを非難せず、私は「そこまで君を追い込ませてしまったのは政治の責任だ」とだけ返し、彼女の肩を叩いてその場を去ってそのままミトコンドリアの元へ向かった。
ニュージャージーの街を行く足取りは重い、市街地の中心を抜け、昨日赴いたジュピター・ハブが見えても気が晴れなかった。
電撃的に敢行されたオフライン遊説は盛況だったようである、ネット遊説が基本の選挙演説を大統領候補自らが各地を回り、有権者たちと直に触れ合ってきたのだから。
バスターミナルと同様にバリケードが設置されたジュピター・ハブに到着した。夜空の下に佇むは要塞の様相を呈した建物群だ、屋上の発着場から数機のスカイヴィークルが離着陸を行ない、その足元のバスターミナルには複数のバス、タクシーや一般乗用車が駐列され、エントランス前には人の姿もあった。
誰も私に見向きなどしない、大統領選挙に出馬している身なのだが、ベガ・アルタイルの鮮烈な光に焼かれてしまい、誰も彼も私のことを覚えていなかった。
すっかり意気地を砕かれてしまった今の心境なら、寧ろ無視されている方が有り難かった。
正面入り口を潜る、洗練さなどまるで無い無骨なメインエントランスのその中央に、彼女たちがいた。
良く目立つ、私よりミトコンドリアの方が目立っている、行き交う人々は好奇な視線を遠慮なく、不躾に注いで彼女たちを見ていた。
隊長のサランが私に気付いた、とても丁寧なお辞儀をしてそのグループに迎え入れてくれた。
「無事に入国許可が下りました、今日よりは私たちのこと、よろしくお願い致します」
子供のように不貞腐れていた自分の胸に喝を入れる。私の選挙戦がどうなろうと、彼女たちには関係の無いことだ。
「せっかくエントランスまで下りてきてもらったのに恐縮だが、来た道を引き返してもらおう」
「それは何故ですか?」
「君たちにネオ・ニューヨークの夜景をプレゼントするためさ。空の便を手配している、付いて来てくれたまえ」
ミトコンドリアの中で最も子供に見えるクルルという隊員が、「粋な事する〜」と喜びの声を上げ、「待ちぼうけ食らってた甲斐があったね!」と、皆に話していた。
私が歩き始める間際、イーオンと名乗るミトコンドリア唯一のパイロットが話しかけてきた。
「あの、この国の基地を見学することは可能ですか?」
「──うん?基地を見学?それは構わないが…今かね?」
次に子供っぽく見えるイーオンが強い眼差し(というより…怒っているように見える)で、「はい」と答えた。どうやら夜景には興味が無いらしい。
「そ、そうか…少し手続きに時間がかかるが、それでもいいかね?」
「構いません。我が儘を言ってすみません」
「──いいのかね?彼女だけ一人にさせてしまっても」
ミトコンドリアの勝手が分からない、だから私は隊長であるサランにそう訊ねた。
すると、先程は柔和な笑みを浮かべていたサランも険しい顔付きになり、「本人がそう望むのであれば」と他人事のように突っぱねた。
ミトコンドリアも色々あるらしい。
他国の面倒事だけは抱え込みたくなかったので、「どのみち行き先は一緒だから君も来なさい」とだけ言った。
異質な美女集団を引き連れ、人で行き交うエントランスを突っ切る。先程までは、誰にも相手にされないアンドロイドのように無視されていたのに、今は歩いているだけで注目されていた。
エレベーターホールに到着し、屋上へ直行するエレベーターに乗る、幸いにも他の人は乗っておらず、私たちだけだった。
「……」
華やいだ人たちに囲まれて居心地が悪い、気の利いた話題の一つでもあれば良かったのだろうが、生憎と人の心を和ませる話術は持ち合わせていなかった。ナンシーの裏切りがまだ尾を引いているのかもしれない、相手の気配を探りつつ、表示パネルを見上げる。
程なくして屋上発着場に到着し、エントランスへ下りる乗客たちを入れ替わるようにしてエレベーターから出る。その際も、十分に視線を引きつけていた。
エレベーターの扉が閉まったあと、クルルが少し不愉快そうに言った。
「僕たちってそんなに目立つの?ジロジロ見過ぎじゃない?」
今度は重たい口に喝を入れ、クルルに答えてあげた。
「無理もない、異郷の者は目立つ。ましてや君たちのように見目麗しい女性たちともなればなおさらだ」
何かマズいことでも口にしたのか、クルルがさらに眉を顰み、「ああ」とすぐに顔色を戻した。
「何か気に障るようなことを言ったかね?」
「僕たちの国って見た目で性別を判断しないんだよね、それから初対面の人には性別の話は絶対しないんだよ」
「そ、そうなのか…それは失礼した」
これは普通に失言だ、その国のコミュニケーション文化はその国に依る、礼儀とは互いの意思疎通の上に成り立つ作法である。
サランが小さく微笑み、私へ悪戯っぽく問いかけてきた。
「シリウスさん、私たちが全員女性だと思っていたのですね?」
「そ、そうだが…」
「違います。この中の三人は男性ですよ」
「???」
「衣服を脱がないと分かりませんよね?私たちの国はそういう文化なのです。──ちなみに私は女性です」
「??????」
冗談だろ?どこからどう見ても女にしか...男の骨格をした者が一人もいない...え?この見た目で股間に自分のジュニアを引っさげているとでも言うのか?
恐ろしい国だなヴァルヴエンド...入国した瞬間に己の性癖が変わってしまいそうだ。
ちょっとした雑談を挟みつつ、予約をしていたスカイヴィークルの搭乗口ゲートに到着した、今日ばかりは他の乗客と乗り合わせる訳にはいかなかったので、プライベート利用のスカイヴィークルを手配した(高かった...)。
イーオンを残した四人は、残ったイーオンに見向きもせずゲートを潜って行く。彼女...という言い方は失礼なのだろう、イーオンだけ目的地が違うので、基地から迎えが来るまでここで待機だ。
「すまないね、君だけここで待機だ。すぐに迎えは来ないが…まあ、その間はここを見て回ると良い」
「はい、ありがとうございます」
「あ〜…ちなみにだが…何かあった?サランとは一切口を聞いていないようだったが…」
(おそらく女性だと思う)イーオンが無表情のまま、「この国の戦闘機に興味があるだけです」と答えた。言いたくないらしい、ただ、「お気遣いありがとうございます」と、丁寧に頭を下げた。
「喧嘩も度が過ぎると憎しみに変わってしまうから、そこだけは気を付けなさい、機を見て仲直りするといい」
「はい…頑張ります…」
あえて無視していた自覚はあったようだ。
イーオンに別れを告げ、私もゲートを潜った。
◇
私は生まれてこの方、宇宙空間に出たことがないので断言はできないが、もし天の川銀河団を見下ろすツアーに参加したものなら、きっとこういう光景を目の当たりにすることができるだろう。
「おお〜!機械の街〜!」
スカイヴィークルの窓に張り付き、クルルが歓声を上げる。他の者たちも同様に、声こそ上げていないが、ネオ・ニューヨークの街並みに心を奪われているようだった。
ニュージャージーを飛び越え、ひっそりとした闇を進んだのも束の間、すぐにネオ・ニューヨークの街を見つけることができる。
それは広大な宇宙から天の川銀河団を見つけるようなもので、多大な質量を伴って君臨していた。
高層ビルが幾重にも建ち並び、その間を縫うようにしてさらに建築物が並んでいる。そのビルの一つ一つに何百という明かりが灯り、一つ一つの惑星を表しているかのよう、だから天の川銀河団だと例えた。
私もミトコンドリアに習い、ネオ・ニューヨークの夜景を眺める。その夜景を眺めていると、サランに声をかけられた。
「シリウスさん、かなり劣勢のようですが…今日、相手方の候補が遊説に回られたようですね?」
痛い所を突いてくる。なるべく顔色が変わらないよう気をつけながら、彼女に答えた。
「ああ、彼は私が君たちと接触したことを把握している。おそらくは、君たちの働きによる票の流出を恐れてのものだろう」
「そうですか…」
顔色を見られたくなかったので、窓の外にばかり視線を向けていた。もう既にネオ・ニューヨークの上空に到着しており、私たちの前には競い合うようにして空へ伸びる超高層ビルの屋上があった。
──この時のサランの物言いは些か引っかかった。
「私たちはシリウスさんの選挙を応援する立場、という事でよろしいんですよね?」
「──うん?ああ、そうだが…」
「そのやり方は私共に一任させてくださるんですよね?」
「君たちの法律に触れないのであれば…」
「分かりました」
痛い所を突かれ、さらにサランの物言いに思考を巡らせていたので、彼女の真意を見抜こうとしなかった。いや、見抜けるはずがない、それでもそっちに思考を巡らせるべきだった。
選挙戦の応援活動を行なうと宣言したミトコンドリアは翌日から早速行動を開始した。
◇
『私があなたたちに歌を届けましょう、故郷の歌を、食べ応えがある歌を@ミトコンドリアwith第四二七代リンカーン、シリウス氏』
「…………」
偉大な父から譲り受けた時計が、早朝からけたたましく鳴り続けている。原因はミトコンドリアがスーミーに投稿したこのメッセージのせいだ、彼女はあろう事か、私の名前を、しかもまだ結果が出ていない大統領選挙を勝ったも同然であるかのように...
寝起き早々頭が痛い...今だけは父の顔を忘れてサイドテーブルに置かれた時計を窓の外へ投げられそうだ。
(食べ応えがある歌だなんて…というか彼女たちはこの国の端末を──ああ、そうか、昨日の時点で既に入手していたのか…いやいや)
中古で手に入れたシーツを跳ね除け、時計に手を伸ばす、壊れたように鳴り続ける着信を全て無視し、リサイクルショップへ電話をかけた。
繋がったと同時に、
「シリウスさん、そのスマートウォッチはまだお持ちください、売却日はこちらの方で延期させておきますから」
「いやいや、もう十分だよ、父の形見なんだがね、この時計もいい加減見聞を広めたいと言って聞かないんだ、だからさっきから着信が鳴り止まない」
「いやいや、あなたの手元に置いておいた方が見聞は広まりますよ。というか…これは見事なアッパーですね、シリウスさん?リンカーンのみならずスーミーのユーザーにまで喧嘩を売ったんですから──じゃ、そういう事なんで、ゴタゴタだらけのスマートウォッチなんか要りません」
「あ!──切られてしまった…」
手のひらに乗せた時計から何の声も聞こえてこない、代わりにメッセージの件数を知らせる数字が止まることなく増え続けている。
こうしちゃいられない、この五月蝿い時計を手離せないのなら、あんなメッセージを送ったミトコンドリアの元へ行かねばならない。
寝室を出てリビングへ向かう。このマンションはネオ・ニューヨークで低所得者向けに斡旋されているマンションであり、寝室とリビングを繋ぐ廊下の天井には排気ダクトがある。家に籠った空気を放出すると同時に、外の空気を取り込む全く意味を成していないバカダクトだ、昨日はどこかでパーティーでもしていたのか、油と酒が混じった酷い臭いが家に入り込んでいた。
その臭いを振り切るように、昨日帰ったまま状態にしてあるリビングへ入る、テーブルの上には間に合わせで勝ったディナーパックの空き容器が置かれ、変な滲みや汚れが付いているソファの背もたれにはジャケットがかけてあった。
低所得者向けのマンションにしては家具が整っている(前の住人が置いていったゴミも混じっているが)、それらに目もくれず今更のように昨日の片付けを行ない、冷蔵庫の中にあった賞味期限が切れている果物とヨーグルトを口の中へ突っ込み、ジャケットを掴んですぐにリビングを後にした。
(彼女は一体何を考えている?応援どころか敵に回してどうするというんだ!)
先ずは事実確認、何故あんなメッセージを、しかもよりにもよってスーミーなんかに、これでほぼ全ての国民があの決闘状を目の当たりにしたことだろう。
今は西部開拓時代ではないんだぞ!ゴールドラッシュのように取ったもん勝ち撃たれたもん負けの時代ではないというのに!
起き抜けで燻っていた意識が怒りによって覚醒し、今更になって腹が立ってきたダクトの臭いを突っ切り寝室へ入る。手早く身支度を整え、父には申し訳ないが今すぐにでも手離したい時計を腕にはめた時、着信があった。
相手はミトコンドリアからではない、昨日迷惑をかけてしまったマザー・ハデスからだった。とても出たくない、でもこれは流石に出ないとマズい。
「シリウス?このメッセージはあなたの差し金かしら?」
「違いますマザー・ハデス、私が意図した事ではありません、信じてください」
「なら、今すぐこのミトコンドリアとかいうグループの手綱を握りなさい、この者たちのせいで議会にまで飛び火が回ってきたわ、こんな得体の知れない奴らが選挙に絡んで良いのかとね」
「………」
「シリウス?あなたまさか…まだ勝つつもりでいるの?」
廊下で立ち止まり時計に視線を落としていた私は、時計の画面ではなく手の甲に残された人種差別の跡を見つめていた。
「勝たねばこの国に未来はない、あなたも賛同してくれたから私を指名してくれたのでしょう?」
「そうね、けれど国民たちの意向には逆らえない、誰も議会の介入を求めていないし、今この状況が自分たちにとってのユートピアだと捉えている。川のささやかな流れがやがては大海へと帰結するように、国民たちの意見はベガ・アルタイルに集結する、あなた一人で立ち向かったところでどうにもならないのよ」
違う、そうではない、その理屈は正しいが肝心な部分が抜けている。
リーダーだ、国民たちを幸福へ導く為政者たちが抜け落ちてしまっている。これでは連盟の介入を許してしまったあの当時と同じ事が起こってしまう。
私が目指している事は当時のリパブリカンズと同じに見えることだろう、しかしそうではない、そうじゃないんだ、私はこの国に変化をもたらし世界を牽引する国民性を獲得してほしいだけなのだ。
差別の跡が残る手を握り締める。
「マザー・ハデス、我々は国民の意のままに流される小舟ではない、その国民たちを乗せて幸福の島へ向かう船長だ」
「シリウス、潮の流れを見誤り座礁する船になってしまってはいけない、そうなったら二度とベガ・アルタイルに立ち向かえなくなってしまうわ」
「私に二度目は必要無い」
「──好きにしなさい、私はあなたと違って守らなければならない乗組員たちがいる。悪く思わないでちょうだい」
それを最後に通話が切られ、マザー・ハデスの別れの言葉の意味はすぐ知ることとなった。
家を出て地下メトロを目指し、ミトコンドリアが宿泊している駅へ向かう電車に乗った時だ。
スーミーでハデス・ファミリアがベガ・アルタイルを正式に支持すると発表した。
他に乗客がいるにも関わらず、私は天を仰いだ。その行動が目立ってしまったのか、他の乗客たちの視線を集め、その殆どが"不愉快"に彩られていることを知った。
ニュージャージーと違い、ここに住む者たちは私が誰だか知っているのだ、ベガ・アルタイルと敵対する者として、自分たちのユートピアを揺るがす外敵として。
私の近くにいた乗客たちが別の車両へ向かい、沢山の人がいるのにすっぽりと空いた空間ができてしまった。
居心地の悪さを感じながらミトコンドリアへメッセージを送る。
しかし、降車駅に着いても返事はなく、電話をかけても応答しなかった。何故?そうこうしているうちにホテルに到着し、ミトコンドリアの部屋へ案内するようホテルマンに言い付けるが、
「ただいま外出しております」
「外出ぅ〜?一体どこへ?」
「ご用件まで窺っておりませんので何とも…ただ、先程までお客様を部屋に招いていました」
「名簿を見せてくれ」
見せられた画面には企業名とその名前が記されている。その企業名というのが金融機関のものだった。
(金を借りたのか?どうやって?彼女たちは何の身分も立場もないはずだが…)
人を馬鹿にするような笑みを湛えているホテルマンへ訊ねた。
「彼女たちはいつ頃戻ってくる?」
「さあ…あなた様の方がお詳しいのではありませんか?ミスター・リンカーン」
「──結構だ」
お前もスーミー信者か...
ホテルマンのくせに皮肉を放ってきた馬鹿たれに背を向け、来たばかりのホテルを後にする。
しつこいと思われようが電話をかけ続ける、入り口前で宿泊客から舌打ちを貰った時、ようやく相手が出た。
「サラン?君は今何処にいる?」
「ミスター・リンカーン、お騒がせしてしまってすみません」
「その呼び名は止めてくれ、皮肉にしか聞こえんよ。それで?何の当てもつてもない君たちはどこへ出かけているんだ?」
「ライブハウスを探しているのですよ、私の歌を届けてくれる場所です」
「サラン…あのメッセージは本気だと言うのか?あの言葉の意味を分からず使ったわけではあるまい、スナックのようにミュージックを嗜む国民たちを馬鹿にしたのだぞ?」
「ええそうですよ、異国のシンガーソングライターが食べ応えのある歌を国民の皆様方に届けるのです。ミスター・シリウス、まずはあなたから、私のライブに──「もういい結構だよミトコンドリア、ファーストの滞在を楽しみたまえ」
大人気ないとはいえ、彼女の声を遮るようにして通話を切った。
まさか彼女は歌なんかで私を勝たせるつもりでいたのだろうか?だとしたら、それは無謀、夢を見過ぎていると言わざるを得ない。
勝てるはずがない、スーミーはこの世に存在する全ての音楽文化の先端を行く存在だ。
現に今も、ホテル内にいる宿泊客の殆どがヘッドホンないしイヤホンを装着し、自分が創作した世界にたった一つだけの曲を耳にしている。
さっきも彼女へ言ったように、スーミーとは"スナック・ミュージック"の略語であり、その言葉の軽さとは裏腹に奥深く、そして至高のミュージックアプリだ。
スーミーのAIに声を吹き込むだけで、その者の声から読み取った感情に合わせた曲を提供してくれる。さらに、その曲は自分好みにカスタマイズが可能であり、AIには無い人間味を加えることができる。
まさに完璧と言えるアプリだ、一つの曲を完成させるのにかかる膨大な時間をたった数秒まで短縮させ、プロの音楽家にもひけを取らない楽曲を指先一つで作り上げる。
もうこの国にミュージシャンなど存在せず、レコード会社、音楽業界なるものは過去のものとなった。
誰も人間の歌声など、そんな単調な音楽など求めていないのだ。
よしんば、彼女がコンサートに漕ぎ着けたところで誰も聞きやしない。彼女はただ、私の名前を借りてファーストへ喧嘩を売っただけに過ぎなかった。
ブロークン・ハート。頼みの奇貨が使えないと分かり、いよいよ心が折れてしまった。
(マザーの元へ…辞退させてもらおう…)
立ち止まっていたホテルのエントランスから歩み出し、地下メトロを目指す。その折、ビルの広告モニターにはベガ・アルタイルの悠然たる立ち姿が映し出されていた。
顔を上向け、天を真っ直ぐに見つめるその勇姿、私には無い全てを持ち合わせ、この国を牽引するリーダー。
ああ、彼はこうなる事を予見していたのだ。票を失い友も失い...彼の言う通りだ。
地下メトロへ到着し、マザー・ハデスがいるペンタゴン・ミルキーウェイを目指そうとするも、今更のように売却するのが惜しくなった時計にメッセージが二件届いた。
一件はサランから、どうやら近くのダイナーでコンサートの許可が下りたらしい、さっき啖呵を切ったばかりだというのに、律儀にもその案内だった(いくら支払ったんだ?)。
二件目は...私の生まれ故郷からだった。
◇
「この惨状はお前が引き起こした事だ…弁明があるならこの場で言ってみろ!!」
「ああ、そんな…」
「お前に泣く資格はない、泣いて良いのはお前のせいで被害を被った街の者たちだけだ!!」
"コモンズ"、それは"奴隷の街"としての意味があり、それは生まれながらにして差別を意味する名前だった。
ネオ・ニューヨーク、ミズーリ・モンロー州に跨ぐようにして位置する小さな街。ネオ・ニューヨークの摩天楼を見上げ、ミズーリ・モンローの気高き丘を見せつけられる所だ。
私にメッセージを送った青年は、烈火の如く怒りをぶつけてきた。その怒りは熱く慈悲など無い、それは無理からぬ事だった。
コモンズが燃えていたのだ、文字通り、家は燃え、木が燃え、子供たちが良く集まる公園が燃え、あちこちに破裂した瓶が転がっていた。
まるで青年の怒りを代弁しているかのようだった。
火が燃え盛っているからか、喉がひりつく。それは空気のひどい乾燥によるものなのか、緊張からくる精神的なものなのか、今の私には判別できない。それでも、声を捻り出して青年へ訊ねた。
「ま、街の者たちは…け、怪我をした者は…」
「お前が引き起こした惨状なのに怪我人の心配をするのか?!」
「違う!!私が意図した事ではない!!」
「ここに人間たちに会える勇気があるのなら自分の足で確かめに行け!」
「いるのかどうかと訊ねている!──頼むから、それだけでもいいから教えてくれないか…?」
青年が銃口のような視線を向けたまま、「いない」と一言だけ答えた。その答えを聞き心から安堵し、その場でいよいよ膝を折って地に伏した。
ここまでするのか...?この惨状を引き起こしたのは間違いなく、スーミーのユーザーたちだ。ユーザーたちはサランの投稿メッセージに怒りを覚え、報復とばかりに私の故郷を襲撃したのだ。
匿名による正義執行がこの結果だ。私はこんな事を平気でしでかす市民たちを思い、この国のトップに君臨するリンカーンに戦いを挑んだのだ。
なんと私は愚かだったのだろう。
膝を折って地に伏した私の前から青年が無言で去って行く、その足音を耳にしながら後悔の念に駆られた。
そこへ折も良く──。
「買おう、お前の故郷を。コモンズが我らのファミリアに入れば、震えて眠る夜が昔話になる」
ここまで...ここまでするのかベガ・アルタイル...ナンシーを買って私をはめ、さらにこんな事までして...
彼の音声メッセージが、打ちひしがれた胸に染み込んでくる。もう既に心も膝も折れているというのに、現リンカーンは容赦がなかった。
「正義は力なくして叶わず、力なき正義は弱き悪の前にも通じず、正義と力は必ず一体でなければならない」
その通りなのだろう。票も持たず友も失い、異郷の人間に頼った私に、果たして正義を叶えるだけの力があるのだろうか?
なかったからこそ、故郷をこんな目に遭わせてしまったのだ。
「連絡を待っているぞ、シリウス」
挫けてしまった願いはもはや、火に焼かれた灰と同義であり、その灰を掻き集めるようなこともせず、私は彼へメッセージを送ろうとした。
だが、できなかった、昨夜から充電せずに使い続けていたので時計の画面がブラックアウトしてしまった。
ゆっくりと立ち上がる、故郷が私の願いと同じように燃え、その焼けた臭いを胸いっぱいに吸い込みながら、背を向けて歩き出した。
もうここには二度と戻って来られないだろう。
この煤に塗れた臭いが故郷の最後の思い出になると自戒しながら、地下メトロを目指した。
◇
第四〇〇代大統領オリバー・ジョンソンは、感染性ウイルスの混乱から国を救った近代の英雄とされている。
当時、ファーストはウイルスの蔓延を防ぐべく国内中に外出禁止令を出し、一年の殆どを屋内で過ごすことを余儀なくされていた。第三次産業に分類されるネットサービス事業はこの影響を受けることはなかったが、全てではない、屋外で作業に従事しなければならない労働者たちは仕事を失い、生きる糧を失い、ウイルスと同様に貧困も即座に蔓延した。
その当時のファーストは悲惨だったという、「これほど人の命が灰のように軽いとは夢にも思わなかった」と、当時のリンカーンが言葉を残している。
彼はこれに憂慮し、ある大統領令を発令した。
それが『不自由撤廃法』、リベラル・オーバーである。
これにより、人は所有する全てを取り引き可能な商材とし、労働に従事せずとも糧を得られるようになった。
全て、である。文字通り、その人が持つ基本的人権から生存権、発言権、どんな物、でもだ。
リベラル・オーバーが起因となって発生した混乱はあったにせよ、当時の人々はパンデミックの混乱から立ち直り、国を存亡の危機から救ってみせた。
そして、私を含むコモンズの住人たちは、その当時人権を売却し、自ら奴隷になることを選択した人たちの子孫ということになる。
コモンズの住人に肌の色は関係ない、その昔は肌の色だけで差別を受けていたらしいが、何とも皮肉なことに、時代が進んだ先では黒人も白人も奴隷となり得る対象となった。
愛読書である歴史書が、ジャケットの内ポケットからすり抜けて床に落ちた。気の利いた店員がそれを拾い上げ、私がうつ伏せで頭を預けているカウンターに無言で置いてくれた。
手を取る気にもなれない、この本の内容なら全て頭に入っていた。今さら目を通したところで、もうどうにもならない。
私に対する報復行動は故郷のみならず、私の家にまで及んでいた。
自宅へ戻った私の前に待っていた光景は、マンションの管理会社が契約しているハウスキーパーたちが出入りを繰り返しているところだった。
慌てて止めに入るも、「契約は既に解除されています」と冷たく突き放され、居住者である私の何の許可も取らずに私物を外へ放り出していた。
たった一夜にしてこの様だ、自分が招いた事なのに、ここまできたらもうミトコンドリアの蛮行が憎くて憎くて仕方がなかった。
その後のことは良く覚えていない、どうやって地下メトロに戻ったのか、どうやってオーディン・ファミリアが支配する区画までやって来たのか、何故私の前に食べ終えた後のプレートがあるのか。
「そんな白けた面してないで、ニュースを見てみろよ」
「……」
このダイナーの支配人であるオーディンだ、筋骨隆々とした偉丈夫であり、短く刈り込まれた銀の頭が店内のライトに照らされ光っていた。
ファーザー・オーディンは今も昔も変わらずマキナが務めていると聞く、そのオーディンは充電を頼んでいた時計を私へ投げて寄越した後、天井から吊るされているモニターを見やった。
私も彼に習ってモニターを見た。
「──先程、フェデラリスト・アメリカの院内総務であるハーリー・マックイーン氏が、正式にシリウス・ジョブス・ジュニア氏の大統領選挙を支援すると発表致しました。現在、現リンカーンが多くの支持者を集めており当選確実と目されていますが、彼女の支援表明は内外に大きな影響を与えると予測され、注目を集めています」
は?
「──は?」
「院内総務と言えば当代のマザー・ハデスだろ?あんたんとこのボスじゃないか」
「は?──これは何かのジョークか?公共の電波を使ってまですることか?」
「んな訳あるか、事実だよ。お前さんが呼び込んだ異国のシンガーソングライターの歌がウケたんだろ、確か、ハデス・ファミリアが経営するダイナーでゲリラコンサートをやったんだろ?」
「そうなのか?」
「何で知らないんだよ…お前がミトコンドリアのボスじゃないのか?」
「スーミーのユーザーに喧嘩を売るようなメッセージを投稿しただろ?それでもう勝手にしろと啖呵を切ったんだ、それからやり取りはしていないんだ」
「馬鹿かお前は。──見てみろよ、スーミーでもミトコンドリアの歌を褒めている奴らがいる」
オーディンが昔ながらの携帯端末を私に見せてきた。画面は馴染み深いスーミーのメッセージ欄であり、その中に彼女の名前があった。
(ナンシー…)
ナンシーと名乗るユーザーがミトコンドリアの歌を褒め、それに賛同するような形で他のユーザーたちも口を揃えている。さらに、ミトコンドリアのキーワードがトレンド入りまで果たしていた。
このナンシーと名乗る人物が、私が知る彼女かどうかは分からない、でもナンシーの勇気あるコメントが他のユーザーたちにも伝播したのは間違いない。
スーミーで異国の歌を褒めるのは勇気が必要だったはずだ。現に、彼女のコメントに対して反論や暴言を返しているユーザーたちがいた。
暗く沈み込んでいた今の私にとって、ナンシーと名乗るユーザーのこの投稿メッセージが、まるで希望の光のように感じられた。たった一人で、周囲の反感に恐れず、「良い歌だった」と、敵陣の只中で賞賛したのだ。
いや、だが...疑惑は残る。ミトコンドリアがこのナンシーのアカウントを買っただけなのでは?
仮にそうだとしても、マザー・ハデスの心まで動かせるのだろうか?
その本人から電話がかかってきた、私は躊躇した、本当に出て良いのか、彼女と言葉を交わして良いのか、何か重大な事が起こりそうで不安になり、けれどオーディンが「さっさと出ろ!他の客に迷惑だろ!」と怒ってきたので出るしかなかった。
「ま、マザー…ニュースは見た、あれは本当の事なのか?」
昼に電話した時の声音とは打って変わって、彼女はまるで寝起きのような、あまり感情の起伏が感じられない声で答えた。
「本当よシリウス、私は院内総務として、ファミリアを預かるボスとして、あなたの事を支援するわ」
「いや…それは何故?君も私の勝利を疑っていたではないか、もう諦めろ、国民たちを乗せたまま座礁するつもりはないと、そう言ったではないか」
「もうどうでも良くなったのよ」
「はあ?」
「あなたが勝つとか負けるとか、自分の立場がどうとか、この国の未来とか。私たちはもっと自由であるべきなのよ、互いの立場に縛られず、ただ永遠の自由を求めて喧嘩をして、努力をして、そうやって励んでいくべきなのよ。その事を彼女たちの歌が思い出させてくれた」
「君は本当に…買われたわけではあるまい?」
「まさか。──先に弁明だけしておくけど、今でも私はあなたが当選するとは思っていないわ」
「なら何故、私を支援すると言ったのだ?」
「異国のシンガーソングライターが言ったのよ、コンサートのチケット料金は結構だから、その投票フォームにシリウス・ジョブス・ジュニアの名前を打ち込めってね」
「……」
「そんな事言われたら、もうこっちだって支援すると言うしかないでしょう?ハデスの街は彼女の歌で熱狂状態、それに私も彼女たちのファンになってしまったもの!」
「ああ、なんて事だ…本当に…」
先程まで淡々と話を進めていたのに、ミトコンドリアの話になると途端に喜びを見せ、子供のように興奮した声でそう言う。
どんな歌なんだ?たった一度のコンサートでここまで人の心を動かしたというのか?それはオーディンも同じなようで、忙しくあちこちへ連絡を取り、コンサートが可能な店のピックアップを始めていた。どうやらオーディンもこの街にミトコンドリアを招待するつもりらしい。
流れが変わりつつある。ベガ・アルタイル一色だったファーストが、ミトコンドリアの歌によってハデス・ファミリアが私を支援すると正式に声明を出した。
それでもまだたった一つのファミリアだけだ、まだまだ彼が優勢である。
だが、確実に流れが変わりつつあった。
「──いたっ!何をする!」
突然、おでこと頬の辺りに痛みが走った、ついでカウンターと床に硬い物が落ちる乾いた音が鳴った。それはオーディンが私に向かって投げ付けた、今どき珍しい硬貨と数枚の紙幣だった。
「そんな所でボサっとしてないで異国のシンガーソングライターの所へ行ってやんな。あんた、飯代とバッテリー代で財布が空だろ?」
「……」
そうだ、家を失い充電もできなかったのでオーディンに金を払い、時計を預けていた。
「ツケといてやるよ、未来のリンカーン殿。俺の店のこともよろしく伝えといてくれ」
「あ、ああ…すまない、恩に着る」
「礼はシンガーソングライターに言うんだな、お前と喧嘩しても務めを立派に果たしんだからな」
「そうだな…会ってこよう」
カウンター席から立ち上がり、床に散らばった硬貨を集める。人に同情された恵んでもらった金だというのに、少しも惨めな思いにならなかった。
金を集めて立ち上がった時、オーディンに力強く肩を叩かれた。
「さっさと行ってこい、うかうかしていたら他所のファミリアに取られるぞ」
──本当だ!こうしちゃいられない!
「ああ、行ってくるよ!」
故郷に火を付け私の家まで奪った彼がミトコンドリアに目を付けたら、どんな手を使ってでも取り込もうとするだろう!
人情に溢れたオーディンに背を向け、ここへ来た時とは一八〇度も違う気持ちで扉を開ける。
流れが変わった、その流れを変えてくれたのはミトコンドリアだ。
外へ出たと同時だった、後頭部に重くて鈍い衝撃が走り、視界が一瞬でブラックアウトしてしまった。
◇
「おはようございます、ミスター・シリウス、お目覚めかしら?モーニングコーヒーはいかが?それとも私の熱い抱擁でもしてあげましょうか?」
「……」
「ミスター・シリウス、手荒な真似をした事を謝罪させてください。しかし、このような事態を引き起こした張本人として、然るべき処置を受けていただくことにもご了承ください」
「こ、ここは…何処なんだ…?」
ひどい目覚めだ、睡眠後の覚醒ではない。
ああそうだ、私は誰かに後頭部を殴られ、気絶したのだ。視界が落ちる寸前に見えた光景は、鈍器を手にした二人組の男だ。
この二人はその男たちのボスか何かだろう、天井から吊るされた裸電球の目に刺さる光りのせいで顔が良く見えない。どうやら若い男女のようだが...
女が冷めた口調で答えた。
「場所なんてどうでも良いでしょう。ねえ?ミスター・シリウス、あなたのせいで私の可愛い子供たちが喧嘩を始めてしまったわ。どうしてくれるのかしら?」
「マザー・ティアマト、今はそのような話をする時ではありませんよ。ミスター・シリウス、彼女たちは一体何者なのですか?一体どんな魔法を使えば一夜にして心を奪えるというのでしょう?」
「わ、私を襲ったのは…君たちの子飼いか…」
「ええそうですよ、マザー・グガランナは大変ご立腹です、長年続いたファミリア間の抗争がスーミーを通じてようやく収まったというのに、あなたのせいでまた再燃するのではないかと心を曇らせています」
「私は襲ったところでどうにもならんと思うが──!」
ティアマト・ファミリアのマザーが、その手のひらを私の頬に這わせてきた。冷たい手のひらの感触に背筋が凍る。この女から遠ざかりたいが、椅子の上に座らされ、両手を背もたれの後ろで縛られているため身動きが取れなかった。
「ファーストへ招き入れたのはあなた、それからコンサート料金の代わりにあなたの名前で投票を呼びかけているのよ?選挙法に違反してるのは誰かしら?」
「そんな法律、まだ生きていたのかね…私の立場と同様とっくの昔に死んだだろうに…裁判所の判決すらオークションにかけられるぐらいなんだ、どうにでもなるだろう」
「ええそうね、だからこうしてあなたに直談判せざるを得ないと考えたのよ。──今すぐコンサートを中止しなさい、さもなくば、あなたの故郷だけでなくこの街そのものが火の海になるわよ」
気を失ってからどれくらい時間が経過したのだろうか、体のこの怠さから計算に数時間以上だ。
殴られた後頭部はいまだに鈍い痛みがある、頭の芯も重たく、思考も上手く定まらない。
だが、ネオ・ニューヨークが火の海に包まれる所だけは容易に想像できた。この時期はたださえややこしい連中で街が溢れるというのに、そこへファミリア間の抗争も加わるとなれば...
この二人は危惧は正鵠を得ている、だからこのような手荒な真似に踏み切ったのだ。
「本当に、君たちは異国の歌だけでファミリアが分裂すると…本当にそう思っているのか?」
私から手を離し、グガランナ・ファミリアの子飼いと一緒に並んで立っていたマザー・ティアマトが首を傾げた。
「どういう意味かしら?」
「ただのまぐれだろう、異国の歌が全てのファミリアに受け入れられるとは思えない」
「それをあなたが言いますか?あなたがミトコンドリアをファーストへ招き入れたのでしょう、あなたはこうなると予測してミトコンドリアへコンサートを依頼したのでは?」
子飼いの言い分は最もだ。
私はまだ彼女たちの歌を信じられずにいた、本当に?歌を聴いただけで本当に人は変わってしまうのか?確かにハーリー・マックイーンことマザー・ハデスも、彼女の歌を耳にしてあのような発言をした。だが、金に物を言わせてマザー・ハデスの発言権をミトコンドリアが買っただけかもしれない。
「コンサートの依頼まではしていない、寧ろ私はそのコンサートを止めた側だ、それでも歌を披露したのは彼女たちだ。それにだ、私とミトコンドリアは喧嘩をしていてね、生憎だが私では彼女たちの抑止力にはなれない」
「呆れた男だわ…」
「全くです…飼い犬の手綱すら握れないなんて…」
二人揃って溜め息を吐かれてしまった。
「どちらにせよ、このままではファミリア内でも意見が別れ、いずれ統率を失ってしまいます。我々はあなたが所属するファミリアと違ってスーミーに多大な援助を行なっている身ですから、ミトコンドリアの存在は無視できないのですよ」
「私にどうしろと言う」
「止めさせろ、と言っているのです」
「それなら先ずは自分たちの耳で確かめてきたらどうだ?確か今日もコンサートが行われるだろう?それを聴いてからでも遅くはないだろうさ」
今度は男の方が私に身を寄せてきた、その手に自動拳銃を握って。
「あなたが気を失っている間、スーミー上にミトコンドリアの歌がアップされ続けているのですよ。運営側がいくら削除しても次から次へと…歌を投稿したアカウントを停止してもまるで歯止めが効かない」
「それはまた…」
「我々ファミリアも運営会社からこれ以上パニックにならないよう、圧力をかけられているのです。そんな私たちがコンサートへ行けと?そんな間抜けな事をする意味がどこにあるのですか?」
とんとん、と銃口でこめかみを優しく叩かれた。
「聴いた上で判断し、駄目なら君たちが私の首と一緒にスーミーへ中止要請をかけなさい。シンガーソングライターは我が強い歌姫でね、聴いてもないのに判断するなと絶対に反論してくるはずだ、何せ私の言う事にすら耳を貸さなかったのだから。今ここで私や君たちがミトコンドリアへ圧力をかけても決して止めたりしないだろう」
「……」
「……」
二人が黙する、おそらく私の言い分を検討しているはずだ。
答えはすぐに出た。
「──いいでしょう、私たちが直々にコンサートへ赴き、異国の歌とやらを聴いて判断します」
「この国に相応しくないと判断した場合、あなたのその首と一緒にミトコンドリアへ、我々が直々に中止を求めます」
「求める?脅迫の間違いではなく?」
「どちらでもいいでしょう。──それではミスター・シリウス、このような結果になった事、残念に思います、我々が戻ってくるまでに辞世の歌でも考えていてください」
「ああ、そうさせてもらうさ」
二人が何の未練も残さず私の前から去った。
途端に広くなったように感じられる部屋は、ファミリアが独居房に使っている古い家屋の一室のようであり、ひしゃげた天井の向こうに青空を望むことができた。
あの二人が戻って来たら、私は殺される運命にある。ファミリアとはそういう組織だ。
頭を垂れる、無理に覚醒させられたせいか、不健康に思えてならない猛烈な睡魔が押し寄せ、それに意識を委ねることにした。
委ねたかと思えば、閉じ込められた部屋の壁の向こうから荒々しい足音が二人分。
ばん!と扉が勢いよく開かれ、喜色満面の二人がさっ!と私に寄ってきた。
「素晴らしい歌だったわミスター・シリウス!!──ああ、なんて…人の子はあんなにも素晴らしい歌が歌えたのね…」
「は?」
「ミスター・シリウス──いいえ、ミスター・リンカーン、ここまでの無礼を心からお許しください、マザー・グガランナが是非にとあなたに面会を申し込んでおります」
「は?そこで私は死ぬのか?」
「そんな事するわけないでしょ!というよりホシ・ヒイラギ!先ずは私の家でもてなすのが道理だわ!だってここは私のテリトリーなんですもの!」
「いいえマザー・ティアマト、ミスター・リンカーンを殴りつけたのはこの私なのですから、先ずはグガランナ・ファミリアがもてなすのが道理です」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てくれ」
意味が分からない、この二人に何があったんだ?本当に意味が分からない。この二人は本当に同一人物なのか?
「何があったんだ?コンサートへ行かなかったのか?」
「行ったわよ!そこで私の子供たちと一緒にミトコンドリアの歌を聴いたの!……感動したわ、本当に…エモート・コアを揺さぶられて、倫理モジュールがエラーを吐き出して…再構築するシークエンスをカットしたの…待っていたのは虚脱だった──いいえ、感動という名の衝撃に殴られてしまったのよ…」
「彼女は何を言っている?」
「心から感動した、と言っているのです。そして、それは私も同じです、隣に立っていたマザー・グガランナも大変喜んでおられました」
「……あ、その、ん?なら…君たちもマザー・ハデスと同様に…」
「ええ、ミスター・リンカーン、ティアマト・ファミリアはあなたの支援を約束するわ」
「同様に、グガランナ・ファミリアもあなたを支援致します」
いやいやいやいやいやいやいやいや...
「ゼウス・ファミリアに楯突くと言うのか?」
マザー・ティアマトがあっけからんと言い放つ。
「そうだけど?私が大事にしているのは子供たちであって、ゼウス・ファミリアとの繋がりではないわ。子供たちがスーミーを大切にしていたから援助していたのであって、それが本意ではないもの」
「マザーも同じ意見です。ゼウス・ファミリアの後光に縋る必要がなくなった、これからは人の手で音楽が作られる時代になると仰っています」
「見切り早ない?」
「え?」
「ん?」
「ああいやいや…ああ、そうだな、先ずはこのロープを解いてくれると助かるのだが…」
さっきまでの高圧的な態度と変わり、二人が「あ、すみません」とぺこぺこしながらロープを解いてくれた。
こんな事ってあるのか?あるのか...だから二人の態度が急転したのだろう。私も気が動転してしまい、日本の訛りがつい口から出てしまった。
二人が恭しい態度で私を椅子から立たせ、ホシ・ヒイラギと呼ばれた男が先導し、マザー・ティアマトが覚束ない足取りの私を支えてくれた。その豊満な胸が私に当たっているのにお構いなしだ。
囚われていた部屋から出る、廊下は思ったより清掃されており、けれど壁の一部は血痕で汚れ、床には穴が空いていた。荒事に使われる家屋なのは間違いないらしい。
私の体を支えている柔らかいマザー・ティアマトが、「ミトコンドリアを私たちにも紹介してほしい」と頼んできた。
「あんなに素晴らしい歌が歌えるんですもの、私だけでなく、きっと陰湿でしつこいグガランナも会いたがっているはずよ」
「そうですミスター・リンカーン、私一人でマザーの相手をするのは荷が重いので、是非紹介してください」
いや知らんがな、とは言わず、
「すまないが…さっきも言ったが彼女に啖呵を切ってしまっていてね、私からメッセージを送るのは気遅れするんだ…自分たちでコンタクトを取ってくれないか?」
私のすぐ傍にいるマザー・ティアマトが「情けない!」と容赦なく怒り、ホシ・ヒイラギに至っては「マザー・グガランナの方がややこしいので大丈夫なのでは?」と意味不明な事を言ってきた。
その後、グガランナ・ファミリアの使いの者が運転する車に乗せられ、本拠地へ連れて行かれた。私の意思は?行くと一言も言っていないんだが?
◇
「あら、あなたは古書好きだったのね、感心だわ」
「……」
良かった、本当に良かった、自暴自棄になって愛読書を捨てるようなことはせず、きちんとポケットにしまっていて本当に良かった。
だが!ページを捲れど捲れどどこにも書かれていない!内政干渉を果たした先にファーストが豊かになった歴史がこの愛読書には書かれていないのだ!
車の後部座席、私とマザー・ティアマトが座り、助手席にはホシ・ヒイラギ、それから寡黙で一言も発しないドライバーが乗車していた。
目的地まで時間があるので愛読書にしがみついている、ページの端は手垢で汚れ、紙は日焼けし、本の外装も傷んで捲れ上がっているような本だ。
隣からマザー・ティアマトがこちらを覗き込んでいる気配を感じつつ、必死になってページを捲っていく。
言うなれば、今の私はリパブリカンズと同じ事をしている。当時のリパブリカンズが星管連盟に助けを求めたように、ファーストを転換すべく私は一二塔主議会の誘致を目論んでいた。
それをベガ・アルタイルが阻止しようとしているのだ、歴史的観点から見てみれば、彼に正義がある。
ここに私自身の葛藤がある、ファースト史の中で汚点とされている国外組織の内政誘致は果たして功を奏すのか?それとも、ファーストを混乱に陥れるだけで私も歴史書の中に大罪人として名を残すことになるのか?
だが、このまま何もしなければファーストは世界に取り残されてしまうのも明白な事実である。
(ああ…リンカーンよ、私はどうすれば良い…?)
怒涛の快進撃と言えよう。
昨夜、初のコンサートを成功させたミトコンドリアは今日も成功に収め、スーミーのユーザーたちの関心を多いに集めている。
さらに、「料金は結構、投票はシリウスに!」という粋の良さに観客たちはさらに関心が湧いたそうで、スーミーのみならず一般のサイトでもミトコンドリアの名前がトレンド入りを果たしていた。
これで三つのファミリアがミトコンドリアの味方に付いたことになる。というより、味方につかざるを得ないと言った方が正しいだろう。
国家と言えど、組織と言えどファミリアと言えど、還元していけば最後は一人の人間になる。その一人一人が集まりファミリアを形成し組織を形成し、それが国家となる。
いつの時代になっても民衆の力は圧倒的である。悪の伝播が早ければ善の伝播も早い。スーミーのスナック菓子感覚の音楽に飽いていた人たちは、ミトコンドリアが届けた歌に胸を打たれ、たった一夜にして掌を返したのだ。
その伝播が今や津波となってファースト中を駆け巡っている、その速度と言ったら感染症よりも上だ。
もはや誰にも止められない。それはファミリアの意向など、何の防波堤にもならないほどに。
私は次のライブ開催地、という事でグガランナ・ファミリアの地に招待されていた。過去は宗教施設として利用されていた教会の一室で、首領であるグガランナとその子飼いであるホシ・ヒイラギ(名前が世襲制らしい。世襲制?)と対面していた。
もうまるで気分はシンデレラだ、毎日のように周囲を取り巻く環境が変化している。
果たして、私はこの流れに付いていけるのだろうか。
薄い金の髪を伸ばし、ホシ・ヒイラギの太腿に自分の手を乗せたマザー・グガランナが、ゆっくりとした所作で私に視線を合わしてきた(何故ホシ・ヒイラギに触れている?)。
「先ずは謝罪を。昨夜は無礼を働き、本当に申し訳ございませんでした」
「別にいいさ、彼女たちの歌に救われたに過ぎない。状況が違えば、今頃この席には私の首がすえられていたはずだからね」
「ふふふ」
いや笑うのかよ...私の冗談を微笑みで肯定したグガランナが続きを話す。
「今、ミトコンドリアの方々もこの屋敷に招待しているところです。そこで、今後のお話しをさせていただければと考えております」
「ミトコンドリアを…ここへ?」
「そうです。今や彼女たちの歌はセンセーショナルをもってこの国を席巻しています、誰もが彼女の歌を求め、彼女たちの事を知りたがっております」
啖呵を切ってからろくにやり取りもしていないので顔を合わせたくない、という個人的な意見があるにせよ...
「それは些か危険なのでは?ゼウス・ファミリアがミトコンドリアを放置するとは思えない」
「放置こそ危険かと。彼女たちの保護も含めて、ですよ。既に聞き及んでいるかもしれませんが、あの憎きティアマトと私は正式にあなたを支援することを決定致しました」
「う、うむ…」
ホシ・ヒイラギの内腿に手を這わせながら、マザー・グガランナが首を傾げた。ディープな触り方をされているホシ・ヒイラギは迷惑そうに眉を歪めている。
「お顔色が優れませんね?今、票の流れはあなたに傾いているのですよ?」
「恐ろしいのだよ、本当にこのままで良いのかと、迷う心が私を悩ませているんだ」
「ええそうですね、この国にとって、外界の使者は皆、混乱の火種となっていましたから」
驚いた、このマキナ、この国の歴史に明るいらしい、ただの色情魔かと思った。
ですが、とマザー・グガランナが否定し、続きを話した。
「火種が全て、不幸の原因となるのでしょうか?」
「どういう意味かね?」
「確かに火種は在るべきものを燃やし、黒煙を上げ、灰を残します。リパブリカンズ・ローマが行なった愚策は当時のアメリカを混乱に陥れ、多くの人々を死に追いやった第二次南北戦争へと発展しました」
「私はそうならないかと恐れているのだよ」
「では、私は?私はその愚策によって生まれた存在、その後、ベンジャミン・リンカーンの計らいによって市民権を得て、私たちマキナは今なお人類と対等の立場として生存しております」
「……」
「灰の中から生まれる希望だってあるのですよ、ミスター・シリウス」
「自らを希望と称する君の強かさには感服するよ、私には無い度胸だ」
「希望は自らが定め、持つものです、他者からの施しでは得られません」
「……」
マザー・グガランナとの語らいで、少しだけ気分が落ち着いた。具体的に言えば、今のこの状況に対する恐怖心が和らいだ。
彼女の言う通りかもしれない。
どうやら私は失敗を極度に恐れていたようだ、けれどそれは無理もない、何せその失敗の範囲がファースト中の国民に及んでしまうからだ。
ホシ・ヒイラギは口を挟むようなことはせず、私たちの語らいに耳を傾けているだけだった。その彼が携帯端末を取り出し、「直に到着するそうです」とマザー・グガランナに報告した。
「分かりました、歓待の準備を致しましょう──」と、マザーが立ち上がって私に簡単な礼をし、「ミスター・シリウス、少しの間、お暇させていただきますね、この部屋は少々広くて寛ぐのに不向きですが、自分の部屋だと思って疲れを癒してください」
「ああ、考えたい事もある、この部屋を使わせてもらうよ」
「それでは」
マザー・グガランナがホシ・ヒイラギを連れて部屋から出て行った。
◇
第四三代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、彼の父親であるジョージ・ハーバード・ウォーカー・ブッシュもまた第四一代大統領を務め、親子二代で当時のアメリカを牽引した者である。
しかし、彼は失政を重ね、建国の父たちが掲げた崇高な理念、『人類が専制や隷従の恐怖から解放される民主主義の社会を世界に築く』に泥を塗った大統領として知られている。
当時、アメリカは同時多発テロという世界を震撼させた事件に見舞われ、その時期に大統領の席に着いていたブッシュは独断でアフガニスタンへ派兵を決定した。
この同時多発テロが発生するより以前にも、地球温暖化対策に関する京都議定書からの離脱や、一五二名にも及ぶ死刑囚の刑の執行、他にも彼は単独で権力を行使し、父親の中道政治とは全く異なる道を歩んでいた。
「……」
彼のこのユニラテラリズム(単独行動主義)を支えていたのは一重に、アルコール依存症から立ち直れたその自信からくるものだと推察する。
彼は名門の家に生まれながら、学生時代は落ちこぼれとして過ごし、親の名誉と多大な寄付金によって大学へ入学を果たしている。そのような青年期を過ごし、果てはアルコールの沼にはまり、結婚相手に出会うまで空を見上げるより足元ばかり見ていたはずだ。
彼が何故、調和せず単独行動に走ったのか、この愛読書だけでは推察することしかできないが、結果として彼は失政を重ねてアメリカに濃い影を落としたことになる。
こうなってはならない、この状況に置かれた私は真っ先に彼のことを思い出し、自戒を込めてページを読み進めていた。
喉の渇きを覚え、ページから視線を上げる。窓の外は暗がりが落ち、夕方を超えて夜になろうとしていた。随分と時間が経っていたようだ、どうやら集中し過ぎたらしい。
ソファに張り付いていたお尻を持ち上げ、誰も居ない部屋を後にする。部屋を出た先は礼拝堂となっており、石造りの神を捧げる場がひっそりとした静寂に包まれていた。
「……」
ファミリアの者を捜そうと足を持ち上げた瞬間だった、今は亡き信仰を司る像の前、そこに彼女がいたのだ。跪き、手を合わせて首を垂れている。長い亜麻色の髪が床に垂れ、天井のステンドグラスから降り注ぐ月光に淡く照らされていた。
神秘的だった、かつ絶対の拒絶を感じ、物音を立てる前に気付けたことを感謝した。
礼拝堂の天井を支える石柱に隠れ、そっと彼女の様子を窺う。幸いこちらに気付いておらず、折った首が元に戻ることはなかった。
彼女の背後でひっそりと佇む二人に気付いた、一人は灰色の髪、もう一人は薄い金色の髪をした隊員らだ。名前は確か...ギーリとテクニカ、だったはず。二人もサランの黙祷を邪魔せず、背後でただひっそりと見守っているだけだった。
彼女たちはマザー・グガランナの歓待を受けていたはずだ、あるいは、私が気付かぬうちにその歓待が終わり、プライベートの時間を過ごしているのだろうか?
少しぐらい連絡してくれても...と思うが、私が大した賓客ではないことに気付く。ファミリアたちが求めているのはミトコンドリアの歌であって、仲介人である私ではない。一つの部屋に放って置かれても何ら不思議な事ではない。
じっと見過ぎていたせいか、彼女が跪いている床の一部が淡く点滅しているのを見つけた。最初、ステンドグラスの向こうから入ってくる外光のせいだと思っていたのだが...
(目が…点滅している…?あれは一体何だ…?)
首を垂れ、瞼を閉じていたと思っていた彼女の両目は開かれており、虹彩の部分が何度も点滅を繰り返していた、その光が床を反射させていたのだ。
彼女はマキナだったのか?いやしかし、外務院からそのような報告は...
見てはいけない物を見てしまったような畏怖の念に駆られ、そっと歩み出した時だ、礼拝堂の重い扉が開かれ、何の迷いも焦りもない足音を響かせながら誰かが入って来た。
その者は地球のコアにまで届きそうな、重くて深い声の持ち主だった。
ベガ・アルタイルだ。
「ミトコンドリア、君たちに話がある」
彼が言葉を発するだけで空気が重く震え、誰人も無視できない威圧感を放つ。それはミトコンドリアも例外ではなく、サランが厳かな所作で立ち上がり、背後に控えていたギーリとテクニカが素早く彼へ振り返った。
「私はベガ・アルタイル、大統領を務める者だ。──君たちの素晴らしい歌には感服したよ、今やファーストは君たちの歌の虜になっている」
「……」
「……」
ギーリとテクニカは何も答えず、サランは微笑みと首肯を返しただけだ。
ベガ・アルタイルが話しを続ける。
「そこで、君たちをゼウス・ファミリアへ招待したいと考えている、君たちに特別なステージを与え、そこで大体的に歌を披露してもらいたい」
強引とも言える誘致だ、彼もこのままでは分が悪いと判断し、ミトコンドリアの懐柔を図りに来たのだ。
「……」
「……」
「……」
現リンカーンから特別な招待を受けても三人は黙して返答せず、ベガ・アルタイルが一歩前へ進み出た。
「──君たちがスカイシップを担保にして、巨額の資金を借り受けているのも把握している。私の方でそれらを立て替え、君たちにスカイシップを渡そう、それでも不服かね?」
彼は彼女たちの無言を"不服"と捉えたようだ。
いや、それよりも...
(あの立派な船を質屋へ入れたのか?道理で…彼女は一体何を考えている?個人の所有物ではあるまい、それを質屋に入れるなどと…)
──それだけ、サランはこの国で自分の歌を披露することに懸けている、そういう事なのだろう。
「……」
「……」
「……」
それでもなお、彼女は返答しない、ただの無視である。
これには流石の大統領も不愉快に感じたのか、無言を貫くギーリとテクニカに足早く歩み寄り、私はいよいよ観念して隠れていた石柱から、両者の間に割って入るよう躍り出た。
「──待ちたまえ、彼女たちは私の客だ、君が相手にしていい義理は無い」
突然の登場にベガ・アルタイルが少しだけ目を見開き、背後に立っていた二人のどちらからか、「やっと出てきたよこのおじいちゃん」と聞こえたような気がしたが気がしただけだ。
ベガ・アルタイルの目線がミトコンドリアから私へすげ替えられる。
「シリウス、今や君に軍配が上がりつつあるというのに、随分と余裕が無いようだな?だからこそこそと隠れていたのだろう?哀れな男だ、勝利を目前にしてなお二の足を踏むなど」
「慎重を期しているだけだ、ベガ・アルタイル。君の方こそ、スーミーの意向を無視してミトコンドリアに接触しても良かったのか?彼女たちの歌は旋風を巻き起こしたが、まだまだ批判的なユーザーたちもいるだろうに」
「これは政治だよ。──ミトコンドリア、君たちはこの男が本当にこの国を変えられると思うか?」
「……」
「……」
「……」
三人は何も答えない、だが、今はその無言が少しだけ恐怖を与えた。
彼は彼女たちから言葉を聞けずとも、話を続ける。
私と違い絶大な自信を持ち、揺るがぬ真理を携え、億千万の星を動かすミルキーウェイの如く、彼は私が掲げる政策を正面から批判してみせた。
「シリウス、君が掲げる新しい政策はリパブリカンズ・ローマの再現となるだろう。国力が衰え、国民たちの批評する力も損なわれた今、議会の横行を止められる者がいない、にも関わらず、君は内政干渉を目論んでいる」
「違う、そうではない、干渉が目的ではない、議会と足並みを揃えて時代の変革に対応──「それを誰が批評する?君一人で行なうのか?言っただろう、今のファーストにその真偽を見抜く目は無いと」
(一体誰のせいでこんな事に…国民たちの力を奪ったのは君だろう)
ミトコンドリアの者たちは口を挟まず、私たちの口論にただ耳を傾けているだけ。
肝を据え、ファーストの中心にいる男を強く睨め付けた。睨んだところで星の運行に変わりはないだろうが、こうでもしないと反論する意気地が生まれそうになかった。
ベガ・アルタイルの固かった表情が少し和らいだような気がした。
「──それでもだ、我々は新しい時代を見据え、たとえ困難な道のりであったとしても進まねばならない。君や私が懸念するように、たとえリパブリカンズ・ローマと同じ轍を踏もうとも、ファーストは変わらなければならないんだ。この宇宙が一時も止まらぬように、我々も歩みを止めることはできない。ベガ・アルタイル、君の政策はその歩みを止めてしまうものなんだよ」
「時間です」と、沈黙を守り続けていたサランが突然口を開き、ギーリとテクニカを引き連れて歩き出した。
「今からマザー・グガランナにご招待していただいたお店でコンサートがあります。良ければお二人も是非、私の歌を聴いていただければと思います」
「……」
「……」
今度は私たちが口を閉ざす番になった。
サランはまるで私たちの話を聞いていなかったように、自信もたっぷりとそう言った。
ベガ・アルタイルがミルキーウェイなら、彼女はシューティングスターのようだ。涼やかな瞳は曇ることを知らない星の光のよう、迷いの無いその声は彗星の軌跡であり、我々の口論などぶち破っていくような力が溢れていた。
彼女を招いて正解だったと思う反面、果たしてファーストは彼女の衝撃に耐えられるのだろうかと不安になる。
いや、もう遅い、ファーストの国民たちは彼女の歌を求めている。
そのミトコンドリアが我々の元から離れ、迷うことを知らない足取りで礼拝堂から出て行った。
◇
結果として、私はその日の夜のコンサートに参加することができなかった。
いやちゃんと店までは行ったんだ、ネオ・ニューヨークの摩天楼を望めるダイナーまで、ただ、人の数が凄かった。
ミトコンドリアを一目見ようと大勢の人が押しかけ、大統領選挙に出馬している私ですら気に掛けず、我先にと店内へ入ろうとしていた。
私はその人の多さに絶望的なめんどくささを感じて入店を諦め、その場を後にした次第である。
家は無い、勝手に契約を解除されたので家路に着くこともできない。
ダイナーからの帰り道、マザー・グガランナに泣きついて一晩の宿を紹介してもらい、「なら、会談に使った部屋を使って下さいまし」と情け無いやら有り難いやら、とにかく寝床の確保に成功した。
ダイナーからとんぼ返りをし、再び教会に戻って体を休めている時、スーミーに確定的な情報が投稿された。
それはミトコンドリアのコンサートが大成功を収めた、という記事だった。
大盛況だったという、私が入店を諦めたあの店でミトコンドリアは歌を歌い上げ、やって来た人たちをその歌で魅了し、決まり文句となっている「投票はシリウスに!」という言葉でコンサートは締め括られたらしい。
一部の人間たちから、ミトコンドリアのコンサートは選挙法に規定されている買収罪に抵触する、として批判しているが、それを言うならゼウス・ファミリアはどうなんだとスーミーでユーザーたちが熱い論戦を交わしている。
その熱い論戦へ水を差すような形で、ゼウス・ファミリアのトップに君臨するベガ・アルタイルがコメントを投稿した。
以下の内容である。
『聞かせてもらおう、君たちの歌を。私が感動した暁にはリンカーンの座から退こう』
ベガ・アルタイルは買収罪の是非に関する議論を一蹴し、ミトコンドリアに対して宣戦布告を行なった。私を感動させてみろと、スーミーを運営しこの国を牽引する大統領の瞳から涙を奪ってみせろと、彼は言ったのだ。
これに対し、ミトコンドリアは以下のメッセージを投稿した。
『さあ、お菓子で完敗しましょう』
負けるはずがないと、お菓子のような食べ応えのない曲ばかりを聴いていたお前たちに負けるはずがないと、ミトコンドリアは断言してみせた。
それから、ミトコンドリアは私とベガ・アルタイルが対立していることも把握している。このままいけば私の当選は確実だ、そこにあえてベガ・アルタイルが勝負を仕掛けてきたことに対する皮肉も交えられている。
素晴らしい、本当に彼女は皮肉の天才だ、私が無事に就任した暁には、私の欠点をぜひとも彼女に書いてもらいたい。
たった一文のメッセージに、全てが込められている。
その込められたライブが明日、オーディン・ファミリアの飲食店で、私が情けをかけられたあの小さな店で行なわれる。
そのミトコンドリアからプライベートメッセージが私の元に届けられた。
『いつになったら聴いてくれるんですか?私言いましたよね?まずはあなたからって、店の人に言って席を空けさせるので必ず来てください』
そのメッセージを読んだ私は飛び出し、オーディン・ファミリアの街へ前日入りしたのは言うまでもない。
◇
「ついに始まるな、俺もネットで聴いていたばかりだったから楽しみだよ」
「そ、そうか…私は緊張しているよ」
「何故?──ああ、ゼウスの報復を恐れているのか?安心しろ、俺が付いている、この店にいるなら俺の子供も同然だ」
いやそういう事ではないんだが...
狭い店だ、ライブ用の機材を入れただけで圧迫され、ほとんど観客が中に入ることができなかった。
彼女たちはカウンターより少し奥の一番広いスペース、マイクスタンドの前に立っており、他の観客たちは詰め込むようにしてテーブルに座っていた。
私の横にオーディン、その隣のテーブルにベガ・アルタイルとゼウス・ファミリアの人間たちが陣取っている。
店の窓の外にはもう...今からライブをするというのに、ヘッドホンを装着した人の壁が作られていた。
とくに挨拶もなければ礼もない、静かにイントロダクションが流れ、あっさりとライブが始められた。
これでリンカーンの雌雄を決するというのに、随分と味気ない始まり方だった。
イントロダクションの音は二つだけ、ギターとピアノの音色が哀愁を漂いながら旋律を奏で、バックコーラスの二人が声を揃えた瞬間だった。
「………っ」
歌詞は無い、ただの母音による発音だ。それなのに、空間が震えたことが手に取るように分かった。
その震えを引き継ぐようにメインボーカルであるサランが歌い始める、ゆっくとり、声を置くように。
「sorry,because I'm not good at it,l can't say thank you〜」
その歌詞は誰かを想ってのものだろう、不器用で、そんな自分を恥じながら、お礼を言えないことに謝っている。
ありふれた歌詞だ、ただ、私が食いるように彼女を見つめているのはただ珍しいだけ、現実に歌う人などもう何十年と見ていない。
ただ珍しいだけだ。
ただ──。
「…っ!」
バックコーラスの二人とサランの声が重なった時、店内の空気が大きく震えた。
和声学とは禁則を破らず、音と音を重ねて美しいハーモニーを作る学問だ、それを頭で理解はしていたが目の当たりにするのは初めてだった。
三人のハーモニーが店内を駆け巡る、外で壁を作っていた人間たちも少しずつだが、ヘッドホンを外し始めた。
コーラスが終わり、プレコーラスに進んだ時にはもう目が離せなくなっていた。
彼女は何度も想い人に謝ってる、ごめんねと、でも、自分は我が儘だから怒った顔を見たいのだと。
なんと自分勝手な歌詞なのだろう、それを彼女は全力で──ああそうだ、ついぞ私は見ることがなかった、全力と呼ぶに相応しい顔付きで彼女は歌い上げる。
何故、彼女は全力で歌えるのか──。
「in to fear〜!」
──ああ、そうか、彼女も怖いのか。
「in to fear〜!」
──だから全力を出すのか。
「in to fear〜!」
ここでドラムの音が追加された、伴奏に厚みが増し、けれどもう彼女は歌詞を歌っていなかった。
ひたすら叫んでいた、叫ぶように声を出していた、バックコーラスの声に負けじと、まるで三人が競い合うようにして声だけで歌う。
恐怖の中を突っ切るように、恐怖に立ち向かうように、だからこそ全力を出すんだ!と声で表現していた。
なんとエネルギッシュなのだろう、あの細い体からどうやってあそこまでの声が出せるのだろう。
皆が釘付けになっていた、オーディンも店員も外にいる人間たちも、皆が息を飲んで恐怖を歌い上げる三人を見つめていた。
「っ!!」
あれだけ歌った後だというのに、サランがバックコーラスの声を圧倒させるような、店の天井を突き破ってファーストの空へ届かせんばかりに──シャウトした。
その叫びは最も美しかった、ソプラノでありながら声が伸び、潰れることなく、曲の最後に相応しい声を披露した。
アウトロに入り、そこでようやく涙していたことに気付いた。
熱い涙が頬を伝う。それでも拭うような真似はしなかった。
彼女たちの姿を最後の最後まで見ていたかったから。
伴奏が終わり、静寂だけが場に残った。
「……」
建国の父、ジョージ・ワシントンよ、マグマに飲み込まれなかったその崇高なる志は、この私だけが受け継いでいたと勘違いをしていた。
そうではなかった、この場にいる者たち、いいや、彼女たちの歌を耳にしたファースト中の国民たちが思い出したはずだ。
自由を希求する思いは万人の胸に宿る、そしてその希求する思いは常に恐怖と共にある。
ジョージ・ワシントンよ、きっとあなたも怖かったに違いない、建国したばかりの民たちが暴動を起こさないか、祖国のように王政を敷かなかったことに対する不安、それでもあなたは王になることを峻拒し、大統領という立場に就き、世界が求めて止まなかった民主主義による国を初めて興した。
マイクスタンドの前に立つ彼女は汗をかき、大きく喘ぐように呼吸をしていた。あんな小さな体から発せられたエネルギーの奔流がこの場にいる人間たちの胸を打ち、感動の大波を作ってみせた。
建国の父たち、それから再建の父たちよ、案ずることはない、ファーストは永遠不滅の自由なる国家だ。これから先、どんな困難が待っていたとしても、我々はその困難を乗り越え、自由と平和のために、恐怖と共に手を伸ばし続けることだろう。
*
ふふん、ざまあみろ。
(風穴空けてやったったわ)
見てみろ観客たちを、鳩が核弾頭を食らったようなボケた顔をしていやがる。
私たちに声をかけてきた、いいや、声をかけてくれたシリアス・ジョブス・ジュニアも涙を流してくれた。
大統領候補には悪いことをしたと思っている、立場を利用し、ただ私のライブの宣伝告知として使わせてもらった。
黒い肌に薄い白髪は角刈りの壮年だ、シリウス氏はじっと私に視線を注いでいる。その優しい目を持つ人に「もう結構!」と言われた時は肝を冷やしたが、何とか無事に終わって良かった良かった。
ギーリたちが「くそ悪趣味おじさん」と馬鹿にしていたベガ・アルタイルという、星の名前を独り占めしたくそ悪趣味おじさんは姿を消している、きっと完敗したと言いたくなかったのだろう。まあ、私にとってはどうでも良いことだ。
ここまでやったんだ、私たちの歌で大統領選挙戦の戦況をひっくり返してやったんだ。
ギーリとテクニカに片付けを命じ、私はあるところへ連絡を入れた。
数コールで繋がった、もしかしたらスーミーのライブ配信を見ていたのかもしれない。
「あ、あ〜…え〜…」
「私のこと覚えていますか?」
それは勿論!と、あのくそムカつく外務院外部受け付けが慌てたように言った。
「あ、ええと、な、何か…ご、ご用でしょうか…?」
「いいえ、あなたに御礼をと思いまして」
「お、御礼…?」
「ええ。私の歌はどうでしたか?あなたの元にも届きましたか?」
「は、はい!それは勿論…た、大変素晴らしい歌でした!」
そうだろうそうだろう、何せ有名になるどころか一人の人間を当選させてやったのだから。今の私の歌は大統領選挙のお墨付きだ、私が歌えば票が風に煽られたように靡く。
「そうですか、それは良かったです。これも一重にあなたの励ましがあったからこそです。だから、あなたの思い遣りを祝して──」
この一言を言うために頑張ったんだ。
「──お菓子で乾杯しましょう」
※次回 2025/4/5 20:00 更新予定
こんな感じで、オリジンとマリーンを除いたテンペスト・シリンダーを訪問していくお話です。一〇〇話以内には収まるかと思います...(多分)。
もう既に数百万文字と書いており、ここまでお付き合いしてくださっている読者の方がどれくらいいるのか不安ですが、筆を進めようと思います。
◆参考文献◆
第三文明『大統領から読むアメリカ史』蓑原俊洋著作