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Cell.5 サポートマンの憂い




 宇宙に最も近いこの位置からでも、やはり太陽の方が回っているように感じられる。

 デンボーを抜け出した時に、私たちの帰還を祝福してくれた月が姿を消し、代わりに太陽が水平線の向こうから現れた。

 まるで喧嘩しているようだ、月の儚げで柔らかな光は、太陽の何をも照らす光に負けてしまう。

 その光が大気圏を照らし、空を薄い桃色に変え、雲は紫色に変わっている。

 アカデミーの寮から見上げた空よりも、ラグナカンの上部甲板から見上げるこの空の方がとても綺麗だ。

 だが、視線を下げた先はとても綺麗とは言えず、儚げな光によって隠されていた本性が剥き出しになっていた。

 昨日の私はどうやらフライハイになっていたようだ、一夜明け、平常に戻った今の心境でこの空を飛びたいとは思えなかった。まあ、飛べと言われたら飛ぶけども。


(こっわ…そりゃ漢帝の人も疑うわけだよ…)


 なにあれ〜雲?雲だよね、なんで色が付いているの?

 あれだ、とても有名な絵画に描かれていた空みたい、キャンパスの中心で叫びを上げている人の頭上、そこにある空が私の眼下に広がっている。

 そんな絵画に出てくるような悍ましいデンボーの上空には、ラグナカン以外に一隻の鯨がいた。昨日までは別の鯨がいたけど、ばーばを連れて先に漢帝へ戻っていた。

 その鯨の尾鰭から(アイスピックではない)燃料供給用ホースがうねうねと伸び、ラグナカンの後部船底に繋がっている。現在燃料補給中。その対応に我らが天才船長があたっており、私はその補佐というか立ち会いというか、まあ、バックアップ要員みたいな感じ。

 ラグナカンに引っ付いていたホースが外れ、ホース内の記憶形状カーボンが収縮を開始した。デンボーのすぐ上をホースがすすすと鯨へ戻って行き、無事に尾鰭の中に収まった。


「問題無さそう、漢帝の人に報告してあげて」


「おっけ〜」


 燃料を分けてくれた鯨が出発の準備に入った、ここからでは見えないが、エンジン吸気口から酸素を吸い込み、やはり鯨の胴体に隠されている排気ノズルから突風が吹き付けている。その突風がデンボーを荒らし、辺りへ雲を撒き散らしていた。

 あの鯨にはイシュウも乗船している、ばーばたちが乗っていたゲイクムヌも昨夜のうちに帰郷しており、今頃は漢帝の港で家族と再会の喜びを分かち合っていることだろう。

 イシュウはこれから漢帝で生活保護を受けて、ゆくゆくは職に就いて新しい人生を始める。昨日、最後に会った時、そのように教えてもらった。

 本人はとても不安がっていたけど、まあ、大丈夫だろう。私たちミトコンドリアもいずれ漢帝へ訪問することになっている、その時に再会する約束を交わし、悲しそうに、嬉しそうに、変な顔して涙するイシュウと別れていた。

 私たちはこれからファーストへ向かう、ここら約半日の距離だ。また月がその顔を覗かせる頃には、アメリカ大陸のテンペスト・シリンダーに到着しているはずだ。

 ──本当に半日の距離だろうか?

 私の脳裏には、ジェットエンジンを翼に付けた大鷲の姿がこびりついている。どこで見たものなのか、あのデンボーの中でその姿を見かけたのか、はたまた頭上にその大鷲がいたのか...記憶は曖昧だが確かにその記憶がある。

 デンボーから抜け出す直前、私は限界速度まで加速していた、攻撃能力を捨て、飛行する事に特化したあのイルシードで。

 勝敗は僅差でイルシードが勝った。

 本当にラグナカンはここからファーストまで半日もかかるのだろうか?


「イーオン、終わったよ。漢帝の人からも良い旅をって言われちゃった」


「──ああ、うん、お疲れ様」


 背後からクルルの肉声が届き、頭の中から大鷲の姿を払ってから、振り返った。甲板の出入り口からクルルが自分の肩を抱きながら、こっちに向かってゆっくりと歩いていた。

 クルルが私のすぐ隣に立つ、腕と腕が触れ合うとても近い距離だ。


「寒いの?ちゃんと暖房は効いてるよ」


 クルルがくりっと私に視線を合わせたあと、前方に広がる朝焼けと胸焼けするような空を見やった。その横顔は何をも照らす光に照らされ、頬の産毛とまつ毛がはっきりと浮かび上がっている。


「それは分かってるんだけどね、この景色を見ていると何だか寒気がしちゃって…イーオンは平気?」またくりっと私を見てくる。


「そう言われたら私も寒くなったきた。確かにこの景色は寒いね」


「ね、そう思うでしょ」


 朝焼けの空も胸焼けするようなデンボーの空も、全ては物理現象の集合体、そんな人を寄せ付けない景色は寒く、触れ合っている腕から伝わるクルルの体温が心地よく、安心できた。

 その温もりをまだまだ感じていたかったけど、私たちも出発の準備を始めなければならない。

 クルルに戻ろうと促し、肩と肩をこつこつと互いにぶつけながら船内へ戻る。


「サランは?まだ部屋?」


 私がクルルへそう訊ねた。


「っぽいね、朝食も手を付けてないみたい、ギーリたちも心配してた」


「そっか…」


「心配だね、大丈夫かな…」


「うん…」


 昨夜、サランとファーストとのやり取りを聞いてしまった。

 ブリッジへ行くまで、私はサランへ文句を言うつもりだった、無視するな!と。けど、サランのあのひどく傷ついた顔を見てしまい、文句も怒りも引っ込んでしまった。

 ひどい言われようだった、何もそこまで馬鹿にしなくてもと、理不尽にさえ思った。

 あれからサランの顔を見ていない。ミトコンドリアのグループメッセージで、朝早くから燃料の受け渡しがある、という一括送信でサランの名前を見ただけだ。

 そのサランは集合場所になっていた船内フロアに姿を見せなかった。他の皆んなが、「メッセージを送ったその本人が顔を見せないってどういう事?」と首を傾げ、サランには悪いと思ったけど昨夜の出来事を伝えた。

 サランにとって歌はとても大事なはずだ、私にとってイルシードがそうであるように。それをあんな風に傷つけられ、笑われてしまうだなんて。

 船内フロアへ入り、私もクルルもパブリックスペースへ足を向ける。とくにそうだと決めたわけではないのに、不思議と呼吸が合った。

 すぐ隣を歩くクルルの顔を見やる。その小さくて愛らしいつんと上がった鼻は前へ向けられ、視線に気付いたクルルが瞳だけ私に向けてきた。


「心配そうにしてたから、ラグナカンの操縦席はまた後でね」


「うん」


 ありがとう、気を遣ってくれて。いや顔に出てたんだな、ちょっと恥ずかしい。

 クルルと肩を引っ付けてレストルームに入ると、ラウンドテーブルに座っていたテクニカから、「お熱いようで」と謎の言葉をかけられた。

 どういう意味だろうと首を捻ると、クルルの頭にコツンと当たってしまった。どうやらクルルも頭を捻ったらしい。


「あ、ごめん」

「痛い」

「私のせいなの?」

「指も痛いのに」

「ごめん…」

「うそうそ、からかっただけ」


 なんじゃそりゃ。

 私たちに謎の言葉をかけたテクニカが自分の手で自分の顔を覆っていた。いやほんと謎なんだけど。


「何してるの?」とクルルが訊ねると、


「無垢かける無垢いこーる解に目が眩んだだけ…」


 無垢×無垢=解...?何語なんだろう。

 テクニカ語を理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 テクニカへサランはどうしているかと訊ねると、顔を隠したまま答えてくれた。


「ギーリと浮気中…さっきギーリだけ部屋に連れてったよ…ぐすん」


「元気そうだった?」


「傷心中…「いやそれテクニカがでしょ。サランはどうだったって訊いてるの」


「目が血走ってた…きっとスッポンドリンクをたらふく飲んだんだよ…」


 いやもうほんと、テクニカが何を喋ってるのか分からない。ずっと顔を隠したまんまだし。

 テクニカの隣へ移動し、クルルと一緒にアップツインにした毛先をちょんちょんと引っ張る。本人がそう言っていたように、傷心中であることを示すためか、髪に触れたところだけブルーに変化した。


「もう〜テクニカ語ってまだ翻訳進んでないから分からないよ〜ちゃんと喋って〜」

「顔隠してたら何してほしいかこっちは分からないよ〜」


 ああそれもそうかとテクニカがぱっ!と手を離し、ぱっ!と私たちを引き寄せた。テクニカの細い腕が私とクルルの腰に回されている。


「いやもうほんと謎「イーオン、声に出てるよ「あ、ごめん…それで?どうしてギーリだけなの?」


「分からん、なんか用事があるっぽかったけど、それならご飯食べろよ的な、こっちは心配してるのにドットコム」


「急な記号」


 そう突っ込むと、何が嬉しいのか私の胸に顔を埋めてきた。

 そのテクニカの頭を撫でていると、クルルからメッセージが飛んできた。


クルル:テクニカがいると空気が変わるよね


イーオン:ほんとだよ


クルル:僕たちだけだったらきっと底無しだった


 確かに。テクニカと話すまで私もクルルもサランを心配していて、少しだけ気分が落ち込んでいた。

 それを変えてくれたのはテクニカだ、未だに「お熱いようで」は謎だけど、その謎の言葉で私たちが抱えていた気持ちをふっと軽くしてくれた。

 クルルもテクニカの頭を撫でている、テクニカは私の胸から頭を離し、今度はクルルの胸に飛び込んでいた。

 ──と、そこで突然サランの部屋の扉が開き、本人が飛び出してきた。私もクルルも驚き、テクニカだけ気付いていない。


「さ、サラン、昨日は──「ごめん、ちょっと今取り込み中。この子借りるね「──ぐうえっ?!」


 私が声をかけてもサランは見向きもせず、テクニカの襟首を後ろから掴んで無理やり立たせていた。

 テクニカが言った通り、あまり健康的には見えない顔付きだ、目が赤く染まり、目の下にくまもできている。

 クルルがサランへ訊ねた。


「もしかして寝てないの?昨日からずっと?」

 

「そう」


「部屋で何してるの?」


 ──ああやっぱり昨日、怒っておけば良かったと思った。


「クルルには教えてもいいけど…イーオンにはぜっっっっっっったい!教えないから」


「…………」


 何それ。何それ〜〜〜!はあ〜〜〜?!

 サランが無理やりテクニカを連れて部屋へ戻る、扉が閉まる瞬間、ギーリがこっちに向かって小さく手を振っていた。





「したリガメル…したってどういう意味なんだ?」


「リガメルの下にあるアカデミーだから下リガメルアカデミー」


「へえ〜変な言い方するな〜。なら、上にアカデミーがあるなら上リガメルアカデミー?」


「リガメルの上にアカデミーはないよ何言ってるのお姉さん!おもしろ〜!」


 きゃっきゃと世話になっているアカデミーの生徒が笑う。

 この子の名前はビスヘム。言い辛。

 とにかく良く喋る子で良く笑う、私みたいなお尋ね者相手にでも怖気付くことなく、気さくに話をしてくれた。

 髪はさっぱりとしたショートヘア、この国で良く見かける...ファンデーションピクチャー?だったか?とにかく、粉状のインストール端末を前髪に付着させ、太陽のマークを表示させていた。ちなみに昨日出会った時は雨マークだった、多分今の天気に合わせているのだろう。

 ビスヘムは椅子の上であぐらをかき、コンビニで買ってきた朝食を食べている。あと私も。歳下に世話になるのは情けないことこの上ないが仕方がない。

 ビスヘムが平べったいパンを食べ終え、自分の服で汚れた手を拭いた。あまりお行儀は良くないかもしれない。


「何で追いかけられてんの?何か悪いことでもしたの?」


「まあそんな感じだ。これ食べたら出て行くよ」


「別にそんな慌てなくてもいいのに。あ、それね〜」と、私が手を伸ばしたパンの袋を指差しながら、「アカデミーの近くの有名店とコラボしたやつなの、結構美味いから期待して」と言った。

 もうずっとこんな感じ。


「ビスヘムはアカデミーで何を学んでいるんだ?」


「ううん、何も学んでないよ、在籍してるだけ。在籍してるだけでお金がかかるってほんと世知辛いよね〜お姉さんからの臨時収入がなかったらどうなってたか」


「在籍してるだけ?どういう意味なんだ?」


「卒業単位はもう持ってるけど、卒業後の進路がまだ確定してないから在籍してるの、っていう意味」


「仕事に就きたいのに就けないってことか?」


 ビスヘムが私をじっと見つめてきた、その真っ直ぐすぎる眼差しに思わずドキっとしてしまった。


「ディーヴァ。余所者のお姉さんでもその名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃない?ほんとに狭き門なの、下層の中でトップに輝いてもアレクサンドリアで皆んなに認めてもらえないといけない」


「ふ〜ん「全然興味なさそう!「すまん、そういうのとは縁がないんだ、知り合いにあれこれ勧められたことはあったけど耳に馴染まなくてな」


 そりゃ残念とビスヘムも興味をなくしたように、別の食べ物に手を伸ばした。



 すまんの〜と年寄り臭いことを言いながら、私からの臨時収入を受け取ったビスヘムと別れ、朝日が昇ったばかりの外へ出た。

 さすがに半日も逃げたからもう大丈夫だと思うが...油断はできない。

 油断はできないと言っておきながら秒で背後を取られてしまった。


「バーン!「──っ?!──おいふざけっ…はあ、アマンナ、驚かせるなよ」


 いつの間にそこにいたのか、手を拳銃に見立てて人差し指を突き付けているアマンナがいた。

 こちらを馬鹿にするようなニヤニヤとした笑みを浮かべている。


「ここ学生マンションなんですけど〜駄目でしょ〜五〇の女が子供に手を出したら〜アヤメに言い付けてやろ〜」


 上を見上げ、天井に隙間が空いていないことを確認する。下層の街はこの穴に天気が支配されるため、必ず見上げる癖がついていた。

 サマクアズームの方面へ向けて歩き出すと、背後から「ちょいちょいちょいちょい!」とアマンナが追いかけてきた。


「そういうお前も学生マンションから朝帰りじゃないか、人のこと言えないだろうが」


「いや〜昨日あの後さ、ご飯食べに行ったんだけどね、そこで知り合った子と意気投合してさ〜それでこっちの事情を喋ったら家に来ますかって誘ってくれて、しかもタダ」


「お前…」とつい足が止まり、体を後ろへ捻った。ビスヘムが住むマンション前はちょっとした坂になっており、薄暗い街灯に照らされた通りを見下ろせた。


「よくあの状況で呑気に外食なんかできるな、大したもんだよ。それにタダだって?こっちは金まで払ったっていうのに」


「人徳じゃね?「人を馬鹿にする時だけは言葉を間違えないんだな」


 アマンナに背を向けて再び歩き出す。

 この通りは年季の入ったマンションが立ち並んでいる。どのマンションも外壁にヒビが入っており、あちこちに電子チラシや電子掲示板が掲げられている。

 時間帯によって光量が変化する街灯のすぐ横、そのマンションの外壁にもチラシやらが貼られており、ピカピカとまるで虫のように光っている。そのどれもがビスヘムのような子供がこちらに向かって手を振っており、あまり見ていて気分の良い物ではなかった。

 坂を上り切るとそこは開けた場所になっており、周囲のマンション群からぽっかりと浮いていた。どうやら公園か何かのようであり、この時間帯でも結構な人たちが芝生の上でストレッチをしていた。

 てっきり爺さん婆さんかと思ったが、ここは学生マンション街、芝生の上でストレッチをしていたのは皆んな学生たちだった。


「お前もあの子たちに混じってストレッチしてきたらどうだ、ちょっとは歳が若返るんじゃないか?」


「あ〜あれ、あれ皆んな歌唱候補生だよ」こっちの皮肉は無視。


 公園の外周を沿うようにして歩く。突っ切った方が早いが、さすがにそれは気が引けた。


「何でそんな事が分かるんだ?」


「泊めてくれた子に教えてもらった。マンションの壁にペタペタ貼られてるのも皆んなここの学生たちがやったんだって」


「何でまた?」


「顔を覚えてもらうためでしょうが。ここの近くのショップストリートにも貼られてるよ」


「あ〜そういや、私もそう教えてもらったな、下層でトップになっても簡単にディーヴァにはなれないって」


「それなのにあの子たちはディーヴァを目指そうとしてるんだもん。こっちのアカデミーはディーヴァを目指す子と、それをサポートする子が沢山いるんだよね〜そんでもって自分たちで曲を作ってバンバン売りに出してる、で、そうやって学費を稼ぐ」


「は〜立派だな〜ほんと。おい、お前今すぐあそこにいって爪の垢を直飲みさせてもらってこい」


「ツメノアカってなに?それあの子たちが持ってるの?」


「………」


 また立ち止まる。けれどいちいち相手にしてられないのですぐに歩き出す。後ろから「この私が把握してない食べ物があるなんて…」とか、「いやでも昨日の子に教えてもらった名物料理にそんな名前は…」など、ガチっぽい独り言が聞こえてくる。こいつマキナのくせに検索エンジンも使えないのか。

 ぐるりと公園を回り、再び現れた坂を下っていく。過ぎた公園から学生たちの発声練習が私たちの後を追いかけてきた。

 坂を下り始めてもまだアマンナがうんうんと唸っていたので、「頭を使え、頭を」と言ってやった。それだけで意味が分かったようだ。


「──あ、なに?やっぱりツメノアカなんて食べ物はないんでしょ。馬鹿にして〜ナツメのくせに」いや全然分かってない。食べ物から離れようとしない。

 坂を下りまた別の通りに出た。左へ行けば、私とこいつが学生と出会ったショップストリートがあり、右へ行けばサマクアズームへ行くことができる。

 正面にはまたしても、マンションの壁に掲げられた電子掲示板がある。けれど他とは違い、二人組みの女性は微動だにせず、瞬きを繰り返しているだけだった。

 アマンナがその掲示板を見上げ、「あの二人この辺で結構有名」と、訊いてもないのに教えてくれた。


「サマルカンドの生徒らしいけど、能力値高くて引っこ抜かれたってさ」


「人を雑草みたいな言い方するな。サマルカンドの生徒でもこっちの掲示板に掲載されるんだな、そりゃ確かに有名なんだろうな」


「何でもできたらいしよ、元々歌唱候補生だったらしいし、音響機材の扱いから作詞作曲編曲まで。リガメルでもサマルでもあの二人に依頼する生徒が多かったって」


 電子掲示板に表示されている二人の名前を読み上げた。


「ふ〜ん…ぎ、ぎー…言い辛。ギーリとて、テクニカ、か…」


 ギーリという学生は灰色の髪をポニテにし、テクニカという学生は金の髪をアップツインにしていた。ただ、何がそんなに面白くないのか、二人とも真顔だ。


(いや大人っぽいっちゃ大人っぽいな、これはこれで格好良い部類に入るんだろうな)


 どこから出してきたのか、甘い香りがするパンを食べながらアマンナが、「あの二人が作った曲って今プレ値になってるらしい」とまた勝手に言ってきた。


「ぷれちってなに」


「プレミアムな値段、つまり価値の上昇により値段も上昇。もうあの二人に曲作ってもらえないからね〜」


「ふ〜ん………ん?」


 ショップストリートがある方向から誰かがこっちに向かって全速力で駆けて来るではないか、こんな時間にも関わらず。

 私とアマンナはちょっと後ろへずれ、その男がスプリンターの如く駆け抜ける様をまるで観客のように見守った。どうやらサマクの方へ向かっているらしい。

 続けて第二走者が現れ、私たちの前まで駆けて来ると足にブレーキをかけて止まった。


「──失礼!今不審な人を見ませんでしたか?!細身でスーツ姿!」


 私は何も訊かず言わず、背後の坂へ「ん」と顎で示しただけ、それだけで女が「感謝します!」と礼を述べ、坂を駆け上がって行った。

 観戦しながらパンを食べ終えていたアマンナに訊ねる。


「他の奴らは?」


「マリサはもうノラリスに帰還、初めからそっち方面に逃げてたってさ。デュランダルは潜伏なう」


「デュランダルを迎えに行くか、どうせ私らのこと待ってんだろ」


「ホシはどうすんの?あいつ上層担当なのにこっちで追いかけ回されてるじゃん」


「あいつはだいたいいつも女に追いかけ回されてるだろ」


「モテるね〜汗も滴る良い男ってか。ま、上層チームに任せておきましょうか」


「ああ、ほっとけほっとけ、また変なのに巻き込まれるぞ。女絡みのゴタゴタはほんとめんどくさい」


「ファーストでもナツメってホシのこと助けてたよね」


「あれが最後だな、そのせいで半年ぐらいファミリアに付け狙われたよ、いまだにスーミーの曲が頭から離れない」


「いや今も助けたうちに入ると…まあ何でもいいけどさ」


 ヒューはどうしたかって?知らん。


「………っ」


 歩き始めた途端、強い視線を感じて思わず止まってしまった。


「ん?ナツメ?」


「ああ、いや…何でもない」


 電子掲示板に表示されているあの二人が今こっちを見ていたような...まあ、きっと気のせいだろう。

 有名なサポートマンの二人は真顔で瞬きを繰り返しているだけだった。





 コンキリオ・新垣・レオンの訓示は正しかった、戦況だけでなく、人の心も少佐の手にかかればお手のものらしい。

 私は一体こんな所で何をしているのだろう、生徒たちに真摯に対応できなくなったからとは言え、何も下層まで下りる必要はなかったのではないだろうか。

 逃走犯が下層の網にかかったからと下層へ向かわされ、下品極まりないチラシを回収しながら犯人を追いかけ取り逃し、一夜明けた直後に即呼び出しはまだいい、また犯人を追いかけるのもまだいい。

 何故、生徒へ教育していた私が生徒を捕らえに行かなければならないのか。

 私は私のために空へ上がることを選んだはずなのに、今の私はまるで飼い犬のようになって陸を走り回っていた。

 犯人の追跡を命ぜられていた私にまたしても急な指示が下された、それは下層下リガメル学生街に住むある生徒の"保護"である。

 

「すみませんねアルターさん、こき使ってしまって。自由に動ける人があなたしかいないんですよ、本当に助かります」


 網膜に表示されたグレオ星管士が、その人柄にそぐわない笑顔を浮かべている。画面を見ながらの歩行は厳重注意ものだが、私はそれでも星管士とやり取りをしながら学生街の誰もいない公園を突っ切っていた。


「いえ、私が望んだことですから。それよりその生徒は何故逮捕されるのですか?」


「いいえ、まだ逮捕令状は出ていませんよ、出る前に我々で保護するんです」


「理由を訊いてもよろしいですか?もしその生徒が罪を犯したのならば、然るべき所で教育を受けて反省を促すべきです」


「ええ、教育を旨とするならば、それが正解でしょう」


 星管士は違うと言いたいようだ。

 公園を抜け、坂を下りる。街灯の光が徐々に強まり、学生街を明るく照らす。下層の行政から未だ修繕を受けられないマンションはどれも亀裂が入り、およそ入居可能な状態には見えない。

 その壁には売名目的の電子チラシが何重にも貼られ、子供たちが金銭を求めているように手を何度も振っている。はっきりと言って見ていて良い気分ではない、けれど下層のアカデミーはこれが一般的であり、ほとんど全ての生徒たちが自分の顔をチラシに印刷して張り出していた。

 

「では、特別捜査チームにとっての正解について教えてください、警察より先に生徒を保護する目的は何でしょうか?」


「情報漏洩を防ぐためです、アルターさん、あなたは知らないかもしれませんが、不法入国グループが追っているインターシップは、それを知ろうとするだけで重罪になるのですよ」


 星管士の話を聞きながらマンションエントランスへ入り、指定された部屋へ向かう。

 共用廊下は汚れ、隅にはゴミが溜まっている。マンション内の壁にもチラシが貼られ、子供たちの顔に混じって上半身裸の大人が印刷されたチラシがあった。

 そのチラシを乱暴に剥がしながら歩く。目的の部屋はもう目の前だ。


「インターシップとは…国防軍が預かる飛行艦のことでしょうか?」


 グレオ星管士はこちらの質問に答えなかった。


「──では、ビスヘム・グレンダの保護をお願い致します。その生徒は昨夜から今朝にかけて不法入国グループの一人と接触しています」


「…………」


「あなたが先程まで追跡していた犯人と同じグループに所属している人間をビスヘム・グレンダが匿ったのです、警察に知れたら厄介ですよ、更生の機会が随分と先になります」


 ビスヘム・グレンダ。ああ...こういう繋がり方をするのか...


(キャメルのお気に入りグループの一人…そんなまさか…)


 呼び鈴を鳴らす、こんな朝早くに他人の家へ訪問するなど、非常識だが今の私はもう教官ではない。

 ビスヘム・グレンダはすぐに対応してくれた。

 扉を開け、開けたかと思えばいきなり「こんな朝早くからなに?!」と怒りを露わにした。


「私は──その格好はなんだ!私も非常識だが君も十分非常識だろう!」


「はあ?!」


「っ?!」


 ただ怒声を発しただけだ、それなのに、スピーカーから発せられるような振動が全身を駆け巡る。

 い、いや、ディーヴァ候補生の声に気圧されている場合ではない!


「服を着なさい服を!胸が丸見えになっているぞ!」


「んだてめえ!どこぞの教官みたいな喋り方しやがって!そもそもあんたがこんなくそ迷惑な時間に来るのがいけないんだろ!」


「その口の聞き方もなっていない!君はディーヴァを目指す者なのだろう?!言葉にも注意を払え!言葉に気を遣わぬ者が良い歌を歌えるか!」


「あああ〜〜〜?!──いや待って、お姉さんって上の人だよね?私のこと知ってるの?」


 そのさっぱりとした顔立ちの割には凶悪とも言える豊満な胸を晒しながら、ビスヘム・グレンダが私にそう訊ねてくる。


「知っている!君はリ・ホープのメンバーだろう!私の知人からそう教えてもらって私も君たちのことを応援していたよ!」


「へえ〜そりゃどうも、ありがとね。出会いは最悪だけどさ、こうして応援してくれる人と直で会うのは初めて。あ、やっばちょっとテンション上がってきた!」


「あのね…君、さっきまで見知らぬ人をここに泊めていただろう?」


 直前までシャワーを浴びていたらしいビスヘム・グレンダは髪の毛をタオルで拭き取り、その仕草でぴたりと固まった。腕を持ち上げているせいで胸も引っ張られ、私でも敵わないその豊満な──いやもういい、早くこの子を連れて行くべきだ。


「え…マズった感じ…?そんなにヤバい人だった?」


「ああ、マズった感じだ。一緒に来てくれるね?」


「………はい」


 ビスヘム・グレンダは素直に従ってくれた。服着て服。





ビー:捕まったったわw


ビー:連行なう


ビー:すまん


ビー:なんか今からアカデミーに向かうらしい


 さらに、下手すりゃ退学かな、というメッセージにええ!と声を上げた。


「どうかしたの?」


「ビーが…逮捕されたって…」


 ヨーコもええ〜?!と大きい、ソプラノの声を上げた。何人かの生徒が私たちに視線を寄越し、そして憐憫の瞳に変えて去って行く。


「なんでなんでなんで?!なんでビーが逮捕されるの?!」


 私はヨーコへ返事をせず、ビーへメッセージを飛ばした。


サーフィヤ:何があったの?


ビー:訳アリ家に泊めた、そんでもって迷惑料だっつって金も渡してきた


ビー:そして私はそれを受け取った


ビー:だからターイホw


ビー:ほんと世の中くそ


ビー:なんで人助けしただけで逮捕されるんだよ!


ビー:善人を捕らえる世の中なんか終わっちまえ!


ビー:ごめん、私のせいで迷惑をかける、あれだったら別の奴に声をかけてくれ、今のリ・ホープならきっと誰か入ってくれるはずだ


(何をそんな…)


 ヨーコにもビーから貰ったメッセージを共有する。ヨーコの瞳がカチカチっと点滅し、点滅したかと思えばまた「なにそれ〜〜〜!」と人の注意を惹きつける声を上げた。


「先生の所へ行こうよ!確かにビーは何も悪くないもん!絶対変だって!」


「落ち着いてヨーコ、ここで騒ぎを起こしたってビーに迷惑がかかるだけだよ」


「どうして?!ビーは悪くない!人助けをしただけなのに退学だなんておかしいよ!」


「まだそうだと決まったわけじゃない、そうでしょ?もしかしたらその家に泊めた人が凶悪犯だったかもしれない、だからアカデミーに来てその説明をする──「もう待てない!私は教員室に行ってくるよ!「──ヨーコ!待って!」


 伝説の歌姫と同じ髪が宙を舞い、クラスルームから廊下へその軌跡を残していく。

 ヨーコのあの髪は生まれつきだ、何も赤ん坊の頃から伝説の歌姫を夢見ていたわけではない。きっと、ヨーコの両親がそうあれと願った自己満足の結果だ。

 私もヨーコの跡を追いかける。

 もう間も無くホームルームが始まる時間だ、廊下には沢山の生徒の姿があり、疾走するヨーコの姿を見て「まるで青い春だね」と馬鹿にし、私の姿を見た途端顔を俯けた。

 確かに世の中クソかもしれない、少しでも目立てばどんな友人でも敵に早変わり、かと思えば、こっちの失敗には敏感に反応してさも善人のように振る舞ってくる。

 あまり運動をしない私の足が性能以上の力を発揮してくれるのは、きっとそういった鬱憤が溜まっていたからかもしれない。あっという間に追いつき、ヨーコの長い襟足をむんずと掴んだ。


「──痛い!痛いよサっちゃん!」


「ま、待ってって、い、言ってる、でしょっ」


「だって!ビーが他の奴誘えって言ってるんだよ!私そんなのヤだもん!あんな陰気な人たちに誰が頼むか!」


「あ、そ、そっち…教員に文句を、言うんじゃなくて…」


 周囲から段々と生徒の姿がなくなり、聞いただけでいつどんな時でも慌ててしまう予鈴が鳴った。それでもヨーコは引き返す素振りを見せず、私も観念して教員室へ向かうことにした。

 教員室もちょっとした騒ぎになっており、本来であればクラスルームへ行っているはずの担任陣が、輪を作って何やら話し合っていた。

 ヨーコは一切気遅れを見せず教員室へ突入、慌てて入った私の目の前で「ビスヘム・グレンダの退学に反対します!」と高らかに歌った。

 ヨーコの声は人の耳を惹きつける、教員室にいた全員が私たちに視線を寄越してきた。


「アルナン!今はホームルーム中だ!クラスに戻っていなさい!」


「ヤです!あとそっちの名前は嫌いです!」


「知らん!自分の親に文句を言いなさい!」


 ヨーコのもう一つの名前だ、アルナン・ヨーコ。

 よほど切羽詰まった内容らしい、担任陣が私たちを放置してまた話し合いを再開してしまった。

 教員室の入り口で取り残される私たち、他の教員たちも私たちに注意せず、ただ憐憫の眼差しを向けてくるだけだ。


「ねえ、あれってビーの話だよね?」

「多分そうだと思うけど…」


 確かに様子がちょっとおかしい、輪を作っている人たちの眉間に深い縦じわが作られている。

 そこへ、渦中のビーが現れた。見知らぬ大人も一緒だった。それでビーのメッセージの内容が確定した。

 私は一縷の望みをかけて、遅刻の言い訳だと願っていた。ビーはお喋りだし、良くくだらない嘘も吐く。だから、自分が逮捕されるなどというくだらない嘘を...

 でも、そうではなかった、ビーの背後には、審査員のような厳しい顔つきをした人がいた。

 担任陣もビーとその人の登場に慌て、誰かが「本当だったのか!」と驚きの声上げた。そうか、担任もビーの話を疑っていたのか。

 ビーと共に入ってきた人が自分の身分を明かした。


「アルター・スメラギ・イオ、国防軍特別捜査班の捜査員です。こちらのビスヘム・グレンダを預かる教員はどちらですか?お話があります」


 ヨーコからメッセージが飛んでくる。


ヨーコ:国防軍ってどういうこと?!警察じゃないの?!


サーフィヤ:分からない!分からないよ!


 国防軍と言えば、ディヴァレッサーを指揮する組織だ。そんな所の人がビーを...

 終わったと思った。リ・ホープはこれで解散、こんな名前の覚えられ方をされたら、私たちは私たちでいる限りディーヴァになれない。 

 担任たちもアルターという人にたじたじになり、まるで家来のように言いなりになった。

 ビーは教員室の奥にある面談部屋へ通される、私たちとすれ違う間際に、「すまん、メッセージも禁止されてる」と言い、いつもは元気にピンと張っている眉も下がっていた。

 途方に暮れてしまった、文字通り、先日の不合格メッセージと同じくらい、いやそれ以上に。

 歌唱候補生は勿論のこと、私たちを預かるアカデミーも軍には頭が上がらない、何せ私たちはその軍を目指しているのだから。

 ビーと担任と、アルターと名乗った人が奥へ消えて行く。その背中を私とヨーコは眺め、教員室を出て行く他の担任たちは声をかけてこなかった。

 きっと、最後のお別れのつもりで誰も退出を促さなかったのだろう。

 ほんと、ビーの言葉を借りるなら、世の中くそである。



 クラス、と言ってもただの所属場所で、私たちの旧友はほとんどいない。卒業と同時にディーヴァを諦めた人は民間へ就職し、あるいは学生時代に有名になれた人はそのままプロとして活動し、あるいは私たちみたいに授業料を払って在籍し続けている人たちに分かれる。

 リ・ホープの皆んなはもう卒業単位を持っている、それでもアカデミーに在籍しているのはその豊富な施設とアカデミー生徒としての肩書きにある。

 高いのだ、どの施設も個人で利用するとなれば高い、とてもではないが毎回支払っていたらあっと言う間にお金が底を突いてしまう。

 それに、一般からディーヴァを目指そうものなら、あと三回ぐらい人生を歩まないといけない、とても長い、そしてその厳しい道のりはアカデミー歌唱候補生という肩書きだけで二回分ぐらい人生を短縮できる。

 オーディション枠に違いがあるのだ、アカデミー枠と一般枠、この一般枠を勝ち取るために一回分ぐらいの人生を消費する必要がある。

 アカデミー枠は決められた人数で選考を行なうのでまだ道は近い、近いと言っても私たちリ・ホープがその出場枠を勝ち取れたのは今回が初めて。数年の時を費やしたが、それでも一般枠と比べたらはるかに短い。

 そういった人たちが集まるクラスなので、実質私の居場所はリ・ホープしかない。それはビーもヨーコも一緒で、だからビーがリ・ホープから抜けてしまうかもしれない今の状況に、不合格以上のショックを受けていた。

 三人が一緒なら、リ・ホープとして活動を続けられるのならまだチャンスは作れる。でも、リ・ホープが解散してしまったら、私にチャンスは訪れない。

 ヨーコは良い、明るくて元気があって、でもちょっとした棘も持っていて、キャラクターとして完成している。それに声も良い、伸びるようなソプラノは遠く離れた人の耳も惹きつけるし、歌い手としての力が十分にある。

 ビーはおっさん臭いところがある。ムードメーカーではあるがお喋り過ぎてトラブルも起こすし、何より本人が喧嘩っ早いのでやっぱりトラブルを起こす。

 けれど声に迫力があるのだ、ビーのアルトの声は耳朶を震わせ鼓膜を鷲掴みにし、お腹の底まで届く。

 二人はディーヴァとして有望視されている。その声はきっと戦場をくまなく走り回り、兵士たちを鼓舞し、勝利へ導く。

 かたや私はと言えば...二人に比べると自信はない。

 バックで二人の声を支えているだけだ、確かに私も歌う力はある、けれど二人のようなキャラクター性があるかと言われたら、ないと言わざるを得ない。

 それが致命的だ、この下リガメルアカデミーには私のような歌い手が、もうそれこそ沢山いる。

 私のクラスで早速リ・ホープの切り崩しにかかっている。そりゃ、ライバルが一つ減るんだもの、私だってそうする。


「いや〜まだビーが抜けるって決まったわけじゃないし〜私は離れるつもりはないよ〜」


 ヨーコの周りに人垣ができている。ヨーコほどの歌い手を勧誘できれば、それだけで即戦力になるからだ。

 私の周りには誰もいない、憐憫の眼差しを向けられるだけ、その色の濃さが増したようではあるが。

 ビーから連絡はない、担任もまだ戻って来ていない。

 一体何があったのか、どうしてビーは見知らぬ人を泊めただけで目を付けられてしまったのか。

 私には分からない。



 日常というものはちょっとした(いやビーが結局クラスに帰って来なかったので全然ちょっとではないが)刺激では変わらないものらしく、私はいつものようにコンビニでバイトしていた。

 バイト先は住んでいるマンションとアカデミーの中間ぐらい、だからよく生徒たちが来るし、教員も利用している。

 何故こんな所をバイト先に選んだのか、それはここだけぽっかりと空いたように、太陽の光が落ちてくるからだ。

 天井に区切られたように落ちてくる光は、コンビニ前の通りに濃い陰影を作る。向かい側にあるレコードスタジオの汚れた壁がくっきりと光と影に別れ、それを見ているとまるで自分がスポットライトを浴びているのかのように錯覚させてくれる。

 商品棚に商品を補充し、バックヤードで掃除をして、店内の掃除も行なう。

 私はただのトラブル要員だ、決済は全てセルフなので私が対応することはほとんどない。

 あるとすれば、それは外からやって来た人の対応をするくらい。ちょうどそれらしい人が私に近付いてくる。


「すみません、私目玉で決済できなくて…」


「あ、はい、こちらにどうぞ」


 外の人はインプラントを持っていない、だから虹彩バーコードも持っていないのでセルフレジを利用できない。

 滅多に使わない有人レジを立ち上げ、その人から商品を受け取る。ちょっとまごついたけど、無事に決済してその人から代金を受け取る。


(久しぶりに見た)


 紙と丸い金属をレジの中へ放り込み、その人にぺこっと頭を下げた。頭を下げたのも久しぶりだ、上手くできただろうか。

 その人はとくに気にした様子を見せず、「ありがとう」と謎に礼を言ってから外へ出て行った。


(ありがとうって…こっちはただのバイトなのに)


 有人レジを立ち下げ、店内の掃除に戻るも、またしても声をかけられてしまった。


「ねえ、君ってリ・ホープの子だよね?こんな所で何してるの?」


(うわ〜迷惑な…ウザいけどバイト中だし…)


 角が立たないように適当に相手をする。それからその人が、


「それとさ、ここにツメノアカって置いてない?」


「はい?つめのあかって…いえ、そういう物は置いていないかと…」


「そうなの?でも有名なんだよね?」


 何が?諺としては有名だが、そんな商品がうちにあっただろうか?


「爪の垢を煎じて飲む…という諺は聞いたことありますけど…」


「え?なんだって…?諺…?」


「は、はい、その人が持つ爪の垢を煎じて飲めば、確か、少しぐらいはその人に近付けるだろうって、そういう意味だったはずですよ」


 私は一体こんな所で何の話しているのだろう、おかしくて笑ってしまいそうだ。

 その人もおかしかったのか、顔を真っ赤にして「そ、そうだよね〜!あははは!」と笑い始めた。いやあなたが訊いたんですよ?

 その人は結局何も買わずにコンビニを後にしていた。冷やかしかな?でもコンビニを冷やかして帰る?

 その変な人が帰ったあとはいつも通り作業をこなしてバイトを終え、バックヤードの更衣室で制服に袖を通した。その時にヨーコから変なメッセージが届いた。


ヨーコ:ロボット!ロボットが歩いてた!


ヨーコ:[画像を送信しました]


 ただのコスプレイヤーだろう、単眼のカメラに二本のアンテナが耳に見え、体は筋骨隆々といった具合の人だ。その人が誰かに声をかけている画像だった。

 続けてヨーコからメッセージが送られてくる、その内容を見て思わず足が止まった。


ヨーコ:それと、別のクラスでも捕まった人がいるみたい!


 ちょうど人がコンビニに入店したようだ。入店の音楽が鳴るが、耳に上手く入ってこなかった。

 バックヤードの入り口で固まったままメッセージを返す。


サーフィヤ:どのクラスか分かる?


ヨーコ:作曲科の在学生だよ!名前は分かんない


サーフィヤ:ありがとう、こっちで調べてみるよ、もしかしたらビーのこと何か知ってるかもしれない


ヨーコ:私も手伝う!


サーフィヤ:別にいい、ヨーコは練習してて、声が悪くなっちゃうから


 画面を閉じ、止めていた足を動かす。

 何かが起こっている、それは分かった。ビーのみならず、別のクラスでも、しかも在学生であるにも関わらず、その生徒の身にも何かが起こった。

 コンビニを出ると辺りは薄暗く、真上の空いた天井から日が沈んだ空を見ることができた。

 ビーにメッセージを送るも返事はなく、家に着いてからも既読すら付かなかった。

 既読が付かないなんて、ビーはあの後から今もずっと眠っているの?そんな事はあり得ない。

 調べよう、何が起こったのか。

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