Cell.4 異国のシンガーソングライター
木星【固有名詞っぽい】
英語:jupiter
太陽系惑星、公転軌道の内側から五番目の惑星。ガスを主成分とした惑星であり、木星の内部構造について様々なモデルが構築されているが、その実態は未だ不明なままである。
地球が約一四〇〇個分入る大きさを持ち、木星の赤道上には地球の二、三個分に匹敵する超巨大台風、大赤斑がある。
ゲイクムヌの船長、ばーばこと、セッツ・トーマは指名手配されていた。
もう何十年と昔の話らしい。私の祖母がまだ私と同じ歳だった頃まで遡り、その時にばーばは漢帝の船を盗み出し、地球の空を逃げ回っていたようだ。
その話が近隣のテンペスト・シリンダー(近隣と言っても何千キロと離れているが)にも知れ渡り、他所から逃げ出した人たちもばーばの船に乗るようになり、人が集まり物も集まり、次第に商売ができるようになっていた。
それがゲイクムヌの始まりである。
一際縮んだように見えるばーばがそう教えてくれた、その手首に枷をはめたまま。
私に「聞いているのかあ!」と叫んだ時の片鱗はもうどこにもない、覇気もない、デンボーの中に置いてきてしまったようだ。
でもスッキリとした顔付きになっていた。柔和で、親しげで、誰にも分け隔てしない、私の母にもなかった"母"としての顔がある。
仕方がなかったそうだ。逃げて来た人たちを助けるため、明日に命を繋ぐ食べ物のため、ばーばの取り引きはどんどんその過激さを増していき、果ては一人になってしまった。
ばーばは隣にいるイシュウに感謝していた。
「ありがとう、お前のお陰だよ」
イシュウは泣いている、もう直に連れて行かれるから。今は連行される前の最後の会話である。
ばーばの私室、その外には漢帝のパイロットが待機している。私たちが話し終わるのを待っているのだ。
イシュウが涙ながらに話す。
「ばーば…私は、私も、ばーばのお陰で生きてこられました…不出来で、文句ばっかり言って、すみませんでした…」
ばーばが慈しむように微笑む。この笑顔をばーばに戻したのはイシュウだ。見捨てずに、今日まで思い遣ってきたお陰だ。
「泣くんじゃないよ、死に別れるわけじゃないんだ。私はお前に何もしてやれなかった」
「…………」
「すまなかった。──イーオン、お前もだ、お前が私の船にやって来てくれたのが最大のツキだと言えるね」
ばーばが「ありがとう」と言い、静かに立ち上がる。
その感謝の言葉は決して取り引きでは得られない、価値あるものだった。
ばーばが部屋から出る、イシュウも私も、下を向いていたので背中を見送ってあげることができなかった。
交わらない思いが一つになった。
◇
電灯みたいに輝く月の下、そこにはゲイクムヌと同じ船が二隻停泊していた。まさかの同型船。ただ、ばーばのゲイクムヌには無い、ジンベイザメのような物が二つ、背骨から斜め後方へかけてくっ付いており、イシュウに訊ねても「良く分かんない」と答えが返ってきた。そりゃそうだ、ばーばが盗んでからもう何十年と経っているのだから、故郷の鯨たちもそれだけ成長したという事だろう。
ばーばと話したあと、イシュウも漢帝の人に連れて行かれ、あの新型ゲイクムヌのどちらかに乗船している。イシュウの元に現れた漢帝の人は役人っぽかったので、きっとばーばについてあれやこれやと訊きに来たのだろう。
「…………」
ばーばの船から鼠に乗ってラグナカンに再び戻って来た。今はハンガールームで一人、イルシードを見上げている。
砂対策で張り巡らせたシーリングは剥がれ、ボディにも深い傷がいくつもある。機首にはパテを埋め込んでいたが、いつの間に取れていたのか、パテの代わりに変な残骸が入っていた。
ハンガールームの明かりに照らされたイルシードは今にも飛び出しそう、こんなに傷を負ったのに、まるで気にしていないようだ。
いや、違う。イルシードではない、私だ。
ここにこうして居ること自体が勿体無い、目の前には空が広がっているというのに、木星の大赤斑のような雲の群れがあるというのに。
ここは本当に地球なのだろうか、デンボーの中はまさしく異世界だった。
あのかなとこ雲、もっと近くを飛べば良かった。
あのヒマラヤ山脈を彷彿とさせるような雲の絨毯、もっと近くで見ておけば良かった。
あのぽっかりと空いた暗い穴に飛び込めば良かった、きっと想像もできないような雲の王国が待っていたに違いない。
今すぐにでも飛びたい、また飛びたい、今度はもっと上手に飛べる、風に乗ってエンジンを吹かさずに飛ぶことだってできるはず。
ああ、あの空へ、あのデンボーの中へ。
「…………っ!」
誰かがハンガールームに入って来た。
*
隠れてて草。
「何で隠れる?」
「さあ?」
「お尻隠して尻隠さず」
「無理して賢ぶるの止めな?」
「むう…知性が上がったと思ったのに」
「アタマヨクナールみたいな、一回っきりだったってことでしょ」
「それ言えてるかも〜」
「結局頭悪くてウケる〜わらわら」
お、やっとイーオンが出てきた。無理して声をかけるよりもこうして駄弁ってた方が出てくると思った。予想通り。
イルシードの下部支柱、機体の底を持ち上げているアームみたいな所から、イーオンが申し訳なさそうにしながらこっちに来る。
ギーリが遠慮なく言う。
「何で隠れるの、意味不明なんだけど」
「いやその…皆んな怒ってないかなって…」
「あんだけ飛びたがってたくせに今さら?変なとこで気を遣うんだねイーオンって」
「だって、無理やり連れてったようなものだし…」
今度は私が遠慮なく言う。
感謝の言葉だから遠慮なく。
「イーオンが案内してくれなかったら今ごろ死んでたから、気にし過ぎ」
「そうそう。どのみち私たち進むしか道がなかったんだから。──あ、ありがとう、言うの忘れてた」
「あ!ありがとう、助かったよ」やっべ私もだ。
イーオンもにっこり。
「うん、皆んな無事で良かった。あー…二人は?」
「あー…」
「あ〜…」
ギーリと声を揃える。
イーオンがまた困ったような顔付きになった。
「やっぱり怒ってる?」
「逆?みたいな。イーオンが戻って来るまで絶対説教してやる!って息巻いてたけど、戻って来た途端部屋にこもっちゃって」
「え?どうして?」
「イーオンが危険な目に遭ったのってクルルとサランが要請出したからでしょ?多分それ気にしてんじゃないの」
「え〜何それ、気にし過ぎだって」
「自分が言うな」
「ブーメラン過ぎる、風切り音聞こえたわ」
冗談?ガチ発言?とにかくイーオンの肩をぽかりと叩いてやる。
ほんと細い肩、私と変わらない、これでラスボスを倒したって言うんだから人間不思議なものだ。
イーオンの背中を押してやる。
「行ってあげて、きっとイーオンが来るの待ってるよ」
「分かった」
「どっちから行くの?」と、声をかけると持ち上がった足が止まった。
「え?それどういう意味?」
「クルルとサラン、どっちが好きかって話」
さもありなん。
「クルルかな〜クルルの方が好き」
「サランかわいそ〜ウケる」
「もうティーキィー、そうやって茶化すの止めな、見苦しいよ」
「なんでそんな事言うの?浮気するよ?いいの?」
ギーリが自分のうなじを触りながら、まじまじと私を見つめている。
「別にいいかな〜このメンバーなら誰と浮気されても気にならん。私より凄い人ばっかりだし」
「ええ〜そう言われるとやる気失せる。人間不思議」
「自分で言うな」
「あの〜…「あ!ごめんごめん、くだらない話に付き合わせて。行ってきていいよ」
ギーリがそう促すも、イーオンは行こうとしない。
どうかしたの?と私が訊ねると、アンデットを焼き殺すような光を放ってきた。
「私もそう思う、って言いたかったの。皆んな凄い、だから私も頑張ろうって思ったんだ。来てくれてありがとう、なんか、自分から行き辛かったから二人が来て助かったよ」
「…………」
「…………」
イーオンが歩き出す、跳ねた襟足がリズム良く動き、ハンガールームから出て行くまでたっぷりとその背中を見送った。
「私絶対イーオンに手出さない、というか手出しできない、あんなのに手を出したら人生終わっちゃう」
「良かったじゃん、私で。──いや〜ほんと、ここに来るまで嫌だったけど、あれだね、変わり者って上層にもいるんだね」
「イーオンの善性を変わり者で片付けるのはさすがに失礼過ぎない?」
「ただの照れ隠しじゃん。そこんとこ分かれ」
「私頭悪過ぎ〜」
「お互い様〜」
ギーリがぽんぽんと私の肩を叩く。その腕を取り自分の肩に回し、ギーリと体をくっつける。
安心する温もりだ、出会った頃から変わらない私の安全地帯。
でも、安全地帯って案外何処にでもあるんだなと思った。
*
「指ぱんぱん〜ウケる〜」
「それ誰の真似?」
「ごめん…」
テクニカが言ってくれた通り、クルルはすぐに私を招いてくれた。
ラグナカンは全て五つに統一されている、だからプライベートルームもそう、全く同じ造りで広さも変わらない。
それなのにこの部屋は確かに私のものではないと感じさせ、クルルの匂い、みたいなものがあった。
そのクルルはと言えば...私と目を合わせようとせず、ベッドの上で膝を抱えて小さくなっている。
それから、ずっと拗ねたような顔をしているのも気になった。泣きそうな、でも泣かない、そのアンバランスさが私を不安にさせ、いつもの調子が出せずにいた。
クルルの指は本当にぱんぱんだ、今にも弾けそう。
「ラグナカンの操縦って、大変だったんだね」と言うと、クルルは「僕から逃げようとしたくせに」と怒ってきた。
「いつ?」
「デンボーから抜け出す前だよ、僕に抜かされると思って速度上げてたでしょ、あの時残骸がイーオンに迫ってて危なかったんだからね」
あ〜あれか...残骸が迫っていたのは知ってたし、後ろでいきなりローリングしたからクルルもテンション上がってるんだろうと思ってた。
けど、今それを言うと絶対怒る。
「ご、ごめんね…?」
「ほんとに分かってる?というか、分かってたんじゃないの?」
「あ〜…うん、まあ…」
「…………」
会話が暗礁に乗り上げる、沈黙、クルルの顔付きは変わらない。
でも、ここから出て行けとは言わない。だから、顔を見たくないほど怒っているわけではない、と、思いたい。
「指、痛む?」
「ううん、ジェルで治療したから、今は平気、見た目はひどいけど」
言葉はすぐに返ってくる、けれど続かない、きっとクルルも別に何か言いたいことがあるのかもしれない。
そっとクルルの指に触れてみる、クルルは平気だと言ったけど見るからに痛そうだ。
私より小さな体でこの船を一から動かし、あのデンボーを抜け出す気流に乗ってみせたのだ、凄いと思う。
上目使いで私を見ていたことに気付き、視線が合った途端、すぐにクルルが逸らした。
──ああ、私と一緒だ。きっと言い出し辛いんだ。
「気にしてないよ、クルル」
「……………」
クルルの瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
私もベッドに上がり、クルルの横に座った。
「気にし過ぎ、私も人のこと言えないけど」
「…………」
「クルルのローリング、ちょっとブサイクだったけど迫力があって格好良かったよ」
「…………」
「後で私にもラグナカンの操縦席見せてほしい、いい?」
「もう…そればっかり…」
クルルが泣きそうな、いや実際泣いてるんだけど、涙を流しながらくしゃっと笑った。
クルルの小さな頭に手を乗せ、ゆっくりと撫でてあげる。
私もいつかラグナカンを操縦したいと言うと、クルルが操縦席に殺されちゃうよ、と変なことを言った。それに私もつい笑ってしまった。
*
「もう〜私ってばダサ過ぎ〜ワラワラ〜」
イーオンがクルルの部屋へ入って行くのを見てしまった。ああそっちからなんだと思い、自分の部屋へ戻る気になれず、一人でブリッジルームへ逃げてきた。
我らが天才船長クルルの特等席はもう無い、床下にすっぽりと収納されている。
(駄目、まだ変な気分…緊張しているのか気が抜けているのか、自分でも判断できない)
じゃあティアマトに診てもらえよと思うが、どうしてもその気になれなかった。
今のこの気持ちまで診断されてしまいそうで怖かった。ただの気のせいだと、そのうち忘れてしまうものだと、ティアマトにそう診断されてしまいそうで怖かった。
本国に残した婚約相手を想う。帰国すれば式を挙げ、私は新しい人生を歩むことになる。
そう、言うなればミトコンドリアの任務は最後の青春だ。いずれ終わる青い春を謳歌するため、初対面の私に激情を見せてくれたあの子に執着しているに過ぎない。
じゃあ気にしなければいいだろうと思うが、そうぱっぱぱっぱと気持ちを切り替えられるほど、経験を積んできたわけでもない。
結局のところ、今のこの気持ちを持て余しているのだ。
だってそうでしょう?死と隣り合わせのデッドフライトを終えたばかりなんだから。どこか一つでも歯車が狂っていたら、私はここには居ない。あの残骸のように死体となって、デンボーの中を舞っていたはずなのだから。
シーリングライトに照らされたブリッジは薄暗く、ひっそりとしている。そこで私は自分の席に座り、見るともなしにネットを漁り、ただ時間を潰していた。
だから、ブリッジルームの入り口に、人が立っていることに気付くのが遅れてしまった。
(──あ、びっくりした)
ちょっぴり期待してしまった自分が恥ずかしい。その人はイーオンではなく、初めて見る人だった。
「ええと…イシュウさん…でしょうか」
そうかなって、深い青色の髪をした人は私の部隊にいない、本国にいる婚約相手と同じだが、こんな所にいるはずがない。
「あ、すみません…その、どう声をかけたら良いのか分からなくて…ええと、目がチカチカと…」
「ああ、気にしないでください、インプラント通信──その、私たちは自分の網膜に画面を表示させることができますので、周囲に使用していることを知らせるために、虹彩が点滅する仕組みになっているんです」
「は、はあ…ええと、私は今日までずっと船の中で過ごしていましたので、そういったことは分からなくて…」
「イシュウさん、ですよね?私の隊員が本当にお世話になりました」
「あ、イシュウです!こ、こちらこそ、イーオンには、あとばーばもお世話になりました、本当に感謝しています」
「私はサラン・ユスカリア・ターニャといいます、この部隊の隊長を務めています」
「は、はい」
何その格好?肌が露出し過ぎている。
イシュウと名乗った人は礼儀正しく、また顔立ちも落ち着いた雰囲気がある。けれど、その衣服といい、用があるのに声をかけずにじっとしているその幼さは、未成熟のように思う。
アンバランスな人、それが私の第一印象。
きっと、というか絶対イーオンに用事があって来たのだ。私はイーオンにメッセージを飛ばす前に、教えてあげることにした。
「イシュウさん、その服は?」
え?とイシュウが自分の服を見下ろす。
「ええと、失礼にあたりますか…?けど、これしかなくて…」
「私たちにとって、肌を見せる、というのは肌に触れてもいい、という意思表示になるんです」
「え……….」
「初対面でいきなり触れるような失礼な事はしませんが、ある程度見知った相手ならそう受け止めてしまいます。イーオンに何かされませんでしたか?」
薄暗くてもイシュウの顔が良く見える、いや見えないけど、イシュウは自分の体を抱くようにして、とても恥ずかしがる素振りを見せた。
「さ、されましたあ〜…い、イーオンが服の隙間に…そ、そういう事だったんですね…」
へえ〜?ふ〜ん?運命の相手は時間を超越する、ねえ?
(ほ〜〜〜ん──駄目だめ)
かまをかけてものの見事に返り討ち、そして嫉妬、馬鹿じゃないんだろうか私は。
イーオンにメッセージを飛ばす。
サラン:イシュウって人が探してるよ、きっと挨拶に来たんだと思う、今ブリッジ、フロアに下りてもらう?
イーオン:すぐ行く
(すぐに行くんだあ〜)
イーオン:今どこ?部屋にいないよね?
自分でもどうかと思うけど、無視った。
「ブリッジ前の階段を下りてフロアへ行ってください、イーオンもすぐに来ると思います」
「え、ええ?わ、分かりました」
イシュウが私に背を向け出て行くかに思われたが、すぐに踵を返していた。
「──あ、本当にありがとうございました。皆さんのお陰で、私もばーばも新しい人生を始められます」
最後にもう一度丁寧な謝辞を述べ、イシュウがブリッジルームを後にした。
◇
ちょうど良かったのかもしれない。イシュウを見送った私の元に少佐から通信が入り、訪問先であるファーストへ到着が遅れる旨を連絡してほしいと指示があった。
連絡は塔主議会を経由し、然るべき人間の元に届くという。
ひっそりと沈むブリッジでコンソールを立ち上げ、通信アプリケーションを起動して言われた通りに連絡を取る。
お繋ぎしています、暫くお待ちくださいという音声案内を聞き流しながら待つ。暇。ワイドスクリーンも立ち上げ、ラグナカンの眼下に潜む大赤斑でも眺めていようか。
(ああまた、鼓動が早くなってきた…)
木星はガス惑星であり、木星のコアは地球と違ってどろどろに煮詰まった球体状のスープだとされている。
コアがスープ状であるが故に、地球と違って地殻が形成されず常に高温状態を維持し、木星に存在する物質は固体化できず、コアがその寿命を終えるまで気体として在り続ける。
大赤斑はその気体によって作られた台風だ。
そして、大赤斑は地球の二、三倍の大きさに匹敵する。
もし、地球がその大赤斑の中に放り込まれてしまったら、どうなってしまうのだろう?
案外平気かもしれない、地球だってそんなにやわじゃない、いや〜今日も大赤斑が猛り狂ってるね〜、なんて言いながら地球人類が逞しく生きているかもしれない。
もし、地球のコアが破壊されず、木星の大気圏内を行き交う風に乗ってくるくると回っていたら、そこには一体どんな風景が広がっているのだろう?
さっき見ただろ、あれだよあれ、ラグナカンのブリッジから見たあの風景がきっと木星なんだ。
積乱雲が乱立し、気流がカオス展開し、電磁波が入り乱れ、スペースデブリが殺戮マシーンとなって飛び交う。
イーオンだったらどうするのだろう?もし、地球がゲイクムヌのように木星の重力に捕まり取り込まれ、もう突っ切って脱出速度に達するしかない!となった時、イーオンは地球を案内するために飛ぶだろうか?
飛びそう、ちょー飛びそう、普通に飛んでそう、なんならずっと飛んでそう。あ!あの雲面白そう!とか言って、あ!あの穴に飛び込んだら面白そう!とか言って、本来の目的を忘れて木星の空を楽しむかもしれない。
私たちは言わば、初の帰還者である。この空を良く知る者たちが恐れ、それは人類が木星を恐れるのと同じように、私たちはデンボーの中を突っ切り脱出速度を得て、帰還した。
その事実がようやく頭から胸にすとんと落下し、指先が壊れたように震え出した。きっと、すぐにその事実に納得しなかったのは、理性が堰き止めていたからだ。
それは何故か、死と隣り合わせだったから。
堰き止めていた恐怖が今になって噴出し、壊れたように昂っていた感情が正常へ戻っていく。
ありがとう、イーオン。あなたのお陰。
指先の震えが止まり、呼吸も楽になった。
「──こちらファースト、外務院外部受け付け。ハロ〜?聞こえてる〜?」
いつの間にか繋がっていたようだ、妄想に全力投球していた脳みそを切り替える。
「──失礼しました、聞こえています。ミトコンドリア所属のサランと申します。予定していた訪問についてなのですが──「みとこん、なに?それよりも紹介者は誰?いきなり自己紹介してきたからびっくりしたわ。ホテルか何かと間違えてない?」
感じわっる。声はフレンドリーだが礼節がまるでない。
それに紹介者ってなに?
「あ〜…失礼、その紹介者というのは?」
「あなたがどこの企業なのか知りませんが、我々がいつどんな時でも万人を相手にしているとでも?こうしてサポートセンターみたいなやり取りをしている間にも、ファーストにはあなたと違って紹介された人間がごまんとやって来るの。それで?紹介者の名前は?」
これはあれだな...きっと私たちがやって来ることを知らない、つまり議会が話を通していないんだ。
(そこからか〜少佐はこれを知ってて私に投げたんじゃないだろうな〜)
「紹介者は一二塔主議会です、ミトコンドリアはヴァルヴエンド国防軍国外派遣部隊の部隊名、我々は任務を言い渡されてそちらへの訪問を予定しています。そちらこそ何も聞いていませんか?」
強気でいけ、こういう時は下手にかしこまっても話がし難い。
スピーカーから沈黙が流れる、その紹介者とやらのシステムに則って確認をしているのだろう。
ややあってから返事が返ってきた。
「あなた方を迎え入れるメリットは?」
「──はい?」
「ミトコンドリアという部隊は確認が取れました、私はそんな名前聞いたこともありませんが、まあ、議会が承認するぐらいだからあるのでしょう。それにね、私は入塔手続きがあと数百件は残ってるの、その手続きを差し置いてまであなた方を優先するメリットはあるのかと訊いているのです。オーケー?」
なんだそれ、知らんがな!あなたのタスク量を言われたところでこっちはどうしろというのか。
それに、ちょいちょいこっちを馬鹿にしてくるような言い方も気に食わない。
「その、入塔手続きというのは?どれくらいかかるのですか?そのシステムに則って処理していただけたら…」
「ん〜急ぎの用事なんでしょ?だからこんな失礼な連絡を取ってきたのですよね?まあ、順番通りにいけば、再来年の今頃にペンタゴンドッグのホテルでディナーを食べられると思いますよ」
「再来年?!──いえ、ええ?あなた一人で入塔手続きを行なっているのですか?」
「あのね、この電話は新規の手続きを受け付ける番号であって、子供のお悩み相談室ではないの、分かる?──まあいいわ、こっちも時間がないし、こういう言い方はしたくないけど、あなたたちにはファーストへ来るメリットがある、そうよね?なら、私たちにだってあなた方を迎え入れるメリットがないと対等とは言えないでしょ?オーケー?」
あ、そういうこと。
私たちミトコンドリアがどういったものなのかいまいち把握はしてないけど、自分たちにメリットがあるのなら融通を利かせてやる、と言いたいのだ。
何と言えばいいのか、駄目だ、今は語彙力が低下しているので適当な言葉が思い浮かばない。
それに再来年まで待っていられないし、多分この感じだと、再来年まで待っても入塔できるのはまた再来年とか言い出しそう。
メリット、メリット...急にそんな事言われても...
「──私たちの歌をそちらへ届けることができます」
気恥ずかしさと勇気を出してそう伝え、コンソールのスピーカーから返ってきた返事は、爆笑だった。
「あっははは!何それ!歌ですって?!あなたシンガーソングライターなの?!軍の人間なのに?!自分の故郷で夢が叶えられないからって私たちに夢を見ても仕方がないわよ!──はあ〜面白い、あなたのせいでプライベートを邪魔されて腹が立っていたけど、いいわ、そのジョークで許してあげる!」
「…………」
「こっちに着いたら星統航空に連絡してちょうだい、あなたたちの船の種類に合わせたドッグへ案内してくれるはずよ。入塔処理コードと星統航空の連絡先は後で送信するわ、そのコードもその時に伝えて、ちゃんと伝えないとチップをふんだくられるから注意してね。──それじゃあ異国のシンガーソングライターさん、あなたの活躍が誌面に載ることを期待しているわ!」
「…………」
騒々しい、品のない声がようやくスピーカーから途切れ、ブリッジが静かになった。
また視線を感じ、すっかり重たくなった頭を上げる。
ブリッジの入り口に立っていたのはイーオンだった。
私は何も喋らなかった、イーオンも声をかけてこなかった。
ちょうどいい、人と話す気分になれない。
コンソールの電源を落とし、席から立つ。ブリッジから出る間際、イーオンに「お疲れ様」とだけ声をかけ、後にした。
イーオンがせっかく私の所に来てくれたのに、歯車がかちりとはまらず、あの子の気遣いすら疎ましく思ってしまった。
*
下層でアフラマズダの調査をしていたチームにアクシデントが発生した。どうやら下層の警察機構に目を付けられ、現在逃走中らしい。
「クワバラクワバラ」
隣にいたフランが「それどういう意味なの?」と、僕の独り言に突っ込みを入れてくる。
「君が持って来た剣と同じ意味」
「そんな変な名前じゃないわよ。馬鹿にしてる?」
「斬られたら同じ意味ってことだよ」
「馬鹿にしてるわね、良い度胸だわ」
「フランがクワバラクワバラ「──あ!そういう意味なのね、斬るわ」
何でやねん、斬ることしか頭にないのかこの女。
今は深夜と呼べる時間帯だ、下層のウエスト(腰という意味、背骨に直結した駅だから)ターミナルの改札口前は閑散としており、けれどその近くにあるターミナル前のショップストリートは今日も今日とて賑わっている。
この街は眠らない。上層の街は深夜帯になると全ての店舗が閉まるため、人が途端に姿を消してしまうが、ここはインソムニアを患ったように眠ることを忘れていた。
この景色はどこか、遠い故郷の風景を連想させる。海に沈む前のあの街を、夜の帳が下りようとも経済活動を営む人の姿はそれだけで安心できた。
僕たちは今、上層へ出かけたアヤメさんのことを待っていた。彼女はまだ上層に目を付けられていないので自由に行動することができる、単身でアレクサンドリアについて調べているのだ。
もう間も無く終電が到着する、僕はノスタルジーに浸りながらアイスコーヒーをすすすと飲み、フランは電子チラシがべたべたと付いている柱に体を預けながら、アヤメさんの帰りを待っている。
「…………」
「ふあ〜…」
フランが柱に頭を預けながら、無防備に、大きく欠伸をした。歳の割には綺麗な喉が露わになり、僕はついと視線を下ろす。
パイロットスーツの上からジャケットを羽織っただけの姿をしているため、体のラインが如実に浮き出ている。本人が毎日欠かさずトレーニングをしているため、健康的で贅肉もなく、歳の割にはとても綺麗だ。
今にも眠ってしまいそうだったフランが突然動き出し、ショップストリート前へ歩いて行った。
何事かと見やれば、ストリート前で下を向いていた男性に声をかけている。
アイスコーヒーの氷を噛みながら見守る。
フランと男性は何度か言葉を交わしたのち、男性がフランに背を向けてストリートの方へ歩き出し、フランはその男性の背に向けて中指を突き立てていた。
(あれで本人はナンパしてるって言うんだから、ただのコントだろ)
フランが怒り肩でこっちに戻って来た。
「ほんと根性のない男!こっちから願い下げよ!」
「いい加減モンローさんに手解き受けたら?というか自分から声かけといて願い下げって意味が分からない」
「嫌よ、別に私は誰かれ構わずモテたいわけじゃないもの、パートナーが欲しいだけ」
「そういや、ファーストでは上手くいってたんだよね」
え?とフランが声を漏らし、ああ、とまた嫌そうな顔をした。
そう、この女、過去にファーストで滞在していた時、訪問当初から姿を消して次に僕たちの前に姿を見せたのが一年後という、その国に恥ない自由な過ごし方をしていた。
「あそこの連中はね〜、まあ…頼り甲斐のある人たちは多かったけど…」
「何で駄目だったの?一年も一緒に過ごしたんでしょ?僕たちの間で、もうあいつはここに置いていこうかって話になってたんだから」
「私もそのつもりだったわよ、あんたたちに礼を言ってノラリスから降りてパートナーと一緒に、って思ってたんだけどね〜」
「何があったの?」
腕を組んで首をかくんと曲げ、ファーストでの思い出を掘り返していたらしいフランがこう言った。
「俺の人生をいくらで買い取ってくれるんだ?って、プロポーズした時に言われた」
「それはまた…あの国は何でも売買するから…」
「馬鹿かコイツって思ったわ。なら私だってあなたに人生を捧げるんだからそれでおあいこよねって言ったら、それは裁判で決めることだからって返されて、気が付いたらぶん殴ってたわ」
「うん、それはフランが正しい」
「でしょ?!そう思うでしょ?!どこの世界に自分の婚約相手の人生に金を払う奴がいるのよ!」
「いやまあ…得てして結婚ってそういうものと言うか、確かにお金がかかるイベントだけど、プロポーズした相手にその場で金銭を要求するのはさすがに嫌気が差すね」
「一年の恋も秒で冷めた」
「一年で済んで良かったね」
「全くよ!」
話がひと段落し、そこへ折良くアヤメさんから連絡が入った。
「着いた〜疲れた〜もう無理〜」
「今フランと行きますから」
「迎えに来て〜」
フランを促しターミナルへ向かう。その途中でも、ファーストの話になった。
「そういうあんたも大変だったみたいじゃない、グガランナに囲われていたんでしょ?」
「囲われていたというよりかは…ストーカー?みたいな感じだったよ、この顔がウケてたんだろうね」
「私はオーディンの所ばっか顔を出してたけど、そこでもあんたがグガランナとティアマトの派閥争いに巻き込まれてるって話題で持ちきりだったわよ」
「いや知ってたんなら助けに来てよ」
「嫌よ、あのファミリアにいる連中ってオーディンの男連中より過激なんだもの、さすがの私も敬遠してたわ。──あ!クワバラクワバラ!」
「いや意味としては合ってるけど脈絡が変」
ファーストに滞在していたのは五年ぐらいだろうか、結構長い間お世話になっていた。
ウエストターミナルに入る、ここは上層のスパインターミナルと違って建物に年季が入っており、至る所が傷んでいた。
電子チラシがべたべたと張られた壁伝いにプラットホームへ向かう、コンコースですれ違うのは駅員ばかりだ、利用客はほとんどいない。
「ん?」
一度すれ違ったはずの駅員がこっちに向かって走って来た、形相は必死、何事かと僕は立ち止まるが、フランは立ち止まらずにそのまま走って行ってしまった。
「と、止まれ〜〜〜!」
(ああ、モンローさんを助けた時に顔が割れたのか。ガングもここには来ないように言っておかないと)
まるでスプリンター選手のような素晴らしいフォームだ、僕は二人の追いかけっこを歩きながらゆっくりと観戦する。
ノラリスの乗組員はこんな事ばっかりである。そこかしこでトラブルを起こすので次第に誰も介入しなくなり、ほとぼりが冷めたところで回収へ向かう。それが最もスマートなやり方であり、また無関係な乗組員を守る最も冴えたやり方でもあった。ま、あとで、どうして助けてくれなかったんだ!と怒られるけど。さっき僕がフランに言ったみたいに。
アヤメさんがいるプラットホームはここから階段を上がった所にあり、僕はその階段をゆっくりと上っていく。
細かく積まれた煉瓦の壁にもやっぱり電子チラシが貼られており、フランとは比べるべくもない女が上半身裸で手を振っていた。こんな女に手を出すぐらいなら、斬られる覚悟でフランに手を出した方がまだマシだろう。
階段を上り切る、ホーム前の休憩所でアヤメさんがぐた〜っとなっていた。休憩所の前の扉を潜れば、世にも奇妙な上下電車がある。
フランがここにいないあたり、きっと今も追いかけっこの最中だろう。
ぐた〜っとしていたアヤメさんが「あれ、フランちゃんは?」と訊いてきた。
「取り込み中です」
「ああ〜モンローさんを助けた時に…」
それだけで分かるこの人も大概である。
「上はどうでしたか?何か分かりましたか?」
アヤメさんが隣の席をばしばし叩きながら、「ノラリスが言っていた話は本当だった」と答えた。ここに座れ、ということらしい。
アヤメさんの隣に腰を下ろす。この人はいつも花の香りがするので、隣にいるだけで心が安らぐ。競争率が高いので絶対手を出したりしないが。
「多分あれだと思うんだけど、確かにアレクサンドリアの中にドームがあった、きっとあそこがライブ会場だと思う」
歳上には見えない、なんならフランより歳下に見えるアヤメさんが前方にある扉を見やりながら話した。
「この国は歌を軍の戦術に組み込んでいますから、きっとそういった理由で行政区に設置しているのでしょう」
「そのライブ会場に入れるのは、国内中で行なわれるオーディションの最終選考者だけ。次はいつだっけ?」
「まだ当分先かと、この間オーディションが終わったばかりですし」
「ヴァルヴエンドの歌ってどう思う?」
「どう思うとは?」あ〜安らぐこの平坦な会話が。
「私たちでもアイドルいけそうかって話」
「いや無理でしょどう考えても、この国のレベルって相当高いですよ、付け焼き刃でオーディションに残れるほど甘くないはずです」
「だよね〜」と、アヤメさんがずるずると椅子の上で寝そべるような姿勢になった。
「私はロック派だから、どのみちアイドルみたいな歌は歌えないんだけどね〜」
「そう言えばそうでしたね、ファーストでもよくライブハウスに行ってましたよね」
「ファースト?」ん?と僕を見上げてくる。この人ほんと癒しだわ〜。
さっきまでフランと昔話をしていたと伝える。アヤメさんが「あ〜」と納得し、手をぶんぶんと振り始めた。
「あそこは駄目、ロックの欠片もなかった、み〜んな音楽を忘れてたよ」
「え?でも行ってたんですよね」
「最初の頃はね。あそこの音楽って全部合成なの、誰も楽器を使わないし誰も歌わない、けどその分自由度がものすごく高くて、似たような曲を探すのも苦労するぐらい沢山あった」
「へえ〜」
「けどね、飽きちゃうんだよね、飽きるのが早い、だから楽曲も沢山あったんだろうけど、一回聴いただけで忘れるぐらいなら、ありきたりでも人が歌う曲を何回も聴いている方がいいって思って、ファーストを離れる前は近寄ることもなくなったなあ〜」
「何が違うんでしょうね、合成音楽と楽器音楽と、どっちも良し悪しのような気がしますが…」
アヤメさんが答えてくれた。きりっ!とした顔で。
「魂、だね…」
「…………」
「魂だねえ!!「いや見惚れてただけですから」
ええ〜?とか、そういうこと言う〜?とか、アヤメさんの顔が七変化する。
アヤメさんの魂がこもったボケを聞きつけたのか、駅員がこっちにやって来た。
「そろそろ、ここも締めますので…」
「あ、すみません」
「失礼しました」
去り際、駅員から、
「先ほどの女性とはお知り合いですか?ほら、パイロットスーツにジャケットを羽織った」
「いいえ、道を聞かれていただけですが、何かあったんですか?」
「あの女性が要注意リストに登録されていましたので、あなたにもお知らせをと思いましてお声をかけさせていただきました」
「物騒な世の中ですね」
「全くです。お気を付けて」
駅員が会釈し、僕たちも会釈する。あとは僕たちに興味を失ったように戸締りの作業に入っていた。
アヤメさんと一緒に階段を下りる。
今さっきまで貼られていた電子チラシが、跡形もなく消え失せていた。
「ナツメたちは大丈夫かな、何か聞いてる?」
「全員散り散りになって逃げたとしか、その後のことはまだ何も聞いていませんね」
「まあ、何かあっても自分たちで何とかするでしょ」
綺麗さっぱり居なくなったフラン以下の女を疑問に思いながら、階段を下り、コンコースに戻って来た。コンコースの明かりは落とされ、非常灯だけが灯っていた。
来た道を引き返そうとすると、アヤメさんが背後へ振り返り、「あれフランちゃんかな?」と言った。
僕も背後へ振り返る。
そこにはスプリンターの如く、コンコースをこっに向かって駆け抜けてくる人影があった。
「折り返し地点でも曲がって来たんじゃないですか?いやそれだとただのマラソンランナー──っ!!」
「止まれーーー!!!!」
フランじゃない!宇宙港で出会ったあの女だ!何でこんな所に?!何で電子チラシ握り締めてんの?!
走り出した瞬間に空砲のような声が僕を追い越していった。
アヤメさんは置いて逃げるしかない、というかやっぱり助けてくれないんですね!
僕もスプリンターの如くコンコースを駆け抜けた。