Cell.2 交わらない思い
電磁波【名詞】
電場と磁場の変化を伝播する波動。
電磁波は波と粒子の性質を持ち、x軸、y軸、z軸によってその性質を示すことが可能である。
静電気力(電場)と磁気力(磁場)が合わさった波のコラボレーション。電子機器には欠かせない。なお、横方向にしか進めない。
イシュウがずっと悲しそうな表情をしている理由が、何となく分かってきた。
ゲイクムヌと呼ばれたこの船には、至る所に"誰かがいた"痕跡みたいなものがある。
それは例えば通路の壁に描かれた落書きであったり、それは例えば何か大きな物で引っ掻いたような痕だったり。それは例えば大量に余っている食器類だったり、それは例えば二人には勿体ないぐらいの部屋の数だったり。
何とかしてあげたいと思う。けれど、私にはどうする事もできない。
イシュウが抱えた悲しみは、イシュウが受け取ったその誰かからの贈り物、それは思い出を共有していることを示し、他人の私には決して踏み入ることはできない。
正方形に配置された部屋はここ以外にもいくつも存在し、私とイシュウはシジンシゴウヘンというの中庭で掃除をしていた。
ここが終わったらまた別のシゴウヘンへ行くらしい。
枯れてしまった花の根っこを抜きながら、私は額に汗をかいているイシュウへ訊ねた。
「ねえ、でんぼうってなに?」
「デンボー、デン、ボー。ばーばがそう呼んでいるだけで私も名前の由来は知らない。ユリアも見たあの大きな雲のことだよ」
「その…デンボー、が発生した時はいつもどうしてるの?」
「どうもしないよ、消えるまで辺りを飛ぶだけ」
「消えるのってどれくらいかかる?」
「どれくらいって……」
イシュウが額に浮かんだ汗を腕だけで拭い、中庭の天窓を仰ぎ見た。ぴょこんと突き出た喉仏を震わせながらイシュウが答える。
「当分かかると思う、下手すりゃ一週間ぐらい」
私も天窓を見上げる。良く割れないものだと思う、透明の窓の向こうは曇天を通り越して夜空のように暗い。
上げていた頭を戻す、今し方見た空模様と同じくらい、暗い瞳と視線がぶつかった。
「仲間の所へ戻りたいんだね」
「……うん」
「…………」
「…………」
草の根が切れる音がはっきりと耳に届く、その音の大きさがイシュウの悲しさを表しているようで私も辛かった。
「ユリアが乗っていた機体はどうするの?置いていくの?」
「ううん、直す」
「直す〜?」
そんな馬鹿なと、イシュウが小馬鹿にしたような言い方をした。
「一人で?そんなのできっこないよ」
「直せるの、そういう風に訓練してきたから。イシュウも手伝ってほしい」
「私には直せない、きっとばーばにも直せない」
「手伝ってくれたらそれだけ一緒に過ごせる。イシュウはさ、ばーばって人の言いなりになってるよね」
「それが生きていくことだから、言いなりとは言わない」
「誰かの言いなりになることが生きていくことなの?」
「言葉遊びは止めて」
ぷちり、ぷちりとイシュウが枯れた花を引き抜く。
私はイシュウの手首をはしと掴み、草抜きの手を止めさせた。
「なに──「イーオン。私の名前はイーオン」
そう告げると、イシュウの瞳に濃い悲しみの色が生まれた。嘘を吐かれたと勘違いを起こしたのだ。すぐに訂正する。
「ユリアは私の母の名前、そして祖母の名前がメリア、全部繋げてイーオン・ユリア・メリア、それが私の本名だよ」
ここで一気に畳み掛ける、私を脅したばーばのように。
「私は自分の本名を教えた、イシュウは私に何を教えてくれるの?」
「…………」
「この船はそれがルールなんだよね?イシュウは生きていくためにばーばの指示に従ってるんだよね?なら、大事な名前を教えた私にイシュウも大事な何かを教えないと釣り合わないよ」
「〜〜〜!!」
わあ!怒ったあ!
「この!この!このこのこのこの!言葉遊びは止めろって!──嫌い!そんな言い方する奴は嫌いだあ!」
二人で抜いた枯草の山を私に向かって何度も投げつけてくる、顔にぺしぺしと当たり、危うく砂が口の中に入りかけた。
子供っぽい怒り方だ。初めて会話した時に見せていた大人っぽい余裕は見る影もない。
「でも!イシュウが!生きていくために必要だって!言ったんでしょ!」
私も枯草を掴んで応戦する。
「私はそんなやり方を好まない!一方的に与えて一方的に搾取するやり方は皆んなから嫌われる!だから皆んな出て行ったんだ!──必死に止めたのに!皆んな私を置いて出て行った!」
「じゃあ!どんなやり方だったら!いいの!」
投げる物が無くなった。私もイシュウも肩で息をしながら、枯草投げ合戦に終止符を打つ。
「対等に…一方的じゃない関係で…それで、それから…」
「私たちは?」
「…………」
「私たちは一方的なの?イシュウは私に命令した?してないよね、ずっと傍にいて片付けの仕方とか、掃除の仕方とか、私が困らないように色々と教えてくれたよね」
「…………」
「イシュウ、私は皆んなの所へ戻りたい。でも、助けてくれた恩返しもしたい、黙ってイシュウの元から離れるような真似はしたくない」
イシュウは私より大人びた顔付きをしている、顎も細い鼻も高いし目元もスッキリしている。
そのイシュウの瞳から涙がぽろり、それを手で乱暴に拭ってから、今度はイシュウが私の心を読んでくれた。
「……でも、このままじゃ、イーオンが自分で機体を直して、それでそのまま出て行くって言うんだね」
「うん」
何か、決心したようだ。イシュウの悲しみを帯びいていた瞳に光りが宿る。
「ばーばの故郷はチョモランマを超えた先にある、この船はもう駄目、ばーばがいくら汚いやり方で取り引きをしたところで長くは持たない。きっとイーオンで最後、誰もこの船にやって来なくなる。その前にばーばを故郷へ連れて行ってほしい──ううん、連行してほしい」
「分かった。私の機体に乗せて山を越えてみせるよ」
「できるの?失敗したくせに?」
「て、手伝って、ください…あの嵐怖い…」
そう素直に助けを求めると、イシュウが天窓を割らんばかりに大きな声で笑った。
その笑い声で悲しみも吹き飛ばしたのか、ひいひい言いながら笑い終えた時にはとてもスッキリとした顔付きになっていた。
悲しみもない、怒りもない、心を一つに決めた人の顔だ。
「いいよ、私が手伝ってあげる。まずはイーオンの機体を直そう」
「ありが──「そう問屋を卸すと思うのかい?このクソガキども」
私とイシュウは呼吸を合わせて、その場から即座に逃げ出した。ま、すぐに捕まったんだけど。
ばーばって本当にばーばなの?走るの早過ぎ。
*
上部甲板の扉を開けようとすると、「安全を十分に確保することができません」とパネルに表示され、ロックがかかった。
船内にいても息が詰まるので、外に出たかった私はそれでも開閉ボタンをタップする。すると、システムが折れてくれたのか、「安全に配慮してください」とパネルに表示され、ロックが解除された。
ギーリが今、サランとクルルに昼食を取るよう説得している。昼食と言ってももう夕方だけど。
ボタンをタップして扉を開ける、開いた瞬間から私の目に絶景が飛び込んでくる。
「草〜視覚情報混乱中〜」
世界最大のアルプス・ヒマラヤ山脈をこの目で見るのは初めて、動画なんかでは得られない興奮と感動が視覚を通して雪崩れてくる。
絶対人が住めそうにない山は雪に覆われ、切り立った崖が無限に存在し、そしてその上空はラスボスが住んでいそうな雲で覆われていた。
調節された風の流れが私を守ってくれる。その防護壁があってもこの暴風雨だ、ロングからアップツインに戻した髪が意志を持ったように暴れ、防護壁を貫通してきた雨も頬に当たる。
エアハーヴィットが無ければ今頃私は空の藻屑となっているはず、そもそもエアハーヴィットがなければ外に出ていないが。
(帰投かな、イーオンとも連絡が取れないままだし、あの二人もあんなだし)──痛っ?!」
頬、それから口元に鋭くて細かい痛みが走った。サマクアズームで突風に見舞われた時と似た感じ、あそこはいつも砂を含んだ風が吹くので...ん?砂?
(この痛さは風や雨じゃない、砂だ、あのラスボス雲は砂を含んでるの…?)
じっと見る、ラスボス雲をじっと観察する、あの雲の中のどこかにきっとセーブポイントがるはず、そんな妄想をしながら見る。
「──!」
運が良かった、雲だけに。
船内へ戻ってギーリの元へ向かう。ちょうど、死んだ顔をしているクルルを連れて螺旋階段を上っているところだった。
私は扉の前で二人に向かって叫んだ。
「──見つけた!アイスピック見つけたよ!ラスボス雲の手前!セーブポイントを探してるみたい!」
ギーリとクルルが弾かれたように顔を上向け私を見てきた。
クルルはブリッジへ走り、ギーリは「良くやったティーキィー!」とサムズアップ、それから「もうちょっと分かりやすく言って!」と文句も言ってきた。
「サランにも報告してあげて!あの人が一番死にそうだったでしょ!」
「もしかしたら部屋でもう死んでるかもしれない!善は急げだ!」
パブリックスペースの扉の前から「勝手に殺すなあ!」と文句が飛んできた。
サランだ。丁寧に束ねた髪の毛はぐしゃぐしゃになり、ラスボスに死の宣告を告げられたように顔色が悪い。きっとクルルからメッセージをもらったのだろう。
息が詰まっていた船内に新しい風が入り込む、ちょっと乱暴で砂も混じってたけど、私が扉を開けたお陰で空気の入れ替えができたようだ。
◇
「クルル、手動操作いける?」
「…………待って、今マニュアルを…もうちょっと…」
「サランはオートフライトを解除、やり方は少佐からデータもらってるからその通りに」
「ま、待って…これをこうして…」
「ティーキィーは医療ルームへ行って準備、それからイーオンの分の食べ物も」
「それも終わったから甲板に出てたんだよ。私もここにいる」
ギーリは返事もせず褒めもせず、代わりに私の顎下を撫でてきた。今は止めて、集中が切れちゃう。
ギーリの美味しいうなじを見やる。ギーリも私と似て、人に対して強い恐怖心を持っている、でも、いざとなったらさささ!と動く勇敢さもあった。
そのギーリが皆んなにテキパキと指示を出している、私にはできないことだ、だからギーリにはできない細かい気遣いを私がやる。
(なんか…っぽい!船長っぽい!)
初めて乗艦した時にはなかった、ブリッジルームの中央に今は大掛かりな操縦席があった。
後ろからそっと窺って見やれば、嫌気が差すぐらいにいくつもボタンがあり、下層のおばちゃんたちも良く使っていたチャリ用アームカバーみたいな物もあり、一本のコントロールレバーがシート下からにょきりと伸びていたり、もうとにかく沢山。
シートに座っているクルルが小さ過ぎるぐらい、まるで巨人が扱うような大きな操縦席だった。
それをクルルは今、シートサイズをアジャストしながら必死になって操作方法を覚えている。その顔に喜びも楽しみもない、あるのは必死さだけ。
皆んな、イーオンを助けたいのだ。
司厨士という役割を与えられた私は、こういった有事の際は何もできない、ただ見ているだけ、それがもどかしいような皆んなに悪いような、気遅れしてしまうが仕方がない。
あ!と思い出す。声に出ていたようだ。
「なに?」
「砂。あの雲、砂があるみたい、ほら、サマクで突風に吹かれた時みたいな」
「砂…?」
ギーリは良く分からなかったらしいが、私の報告を聞いた我らが天才船長が「そういう事か!」と何かを納得していた。
「何がそういうことなの?」
「あの雲があそこまで発達した原因だよ!テクニカの言う砂が擦れ合っているんだ!」
「あー静電気ね、空気中の水分だけじゃなくてより大きくて質量がある砂もあの雲の中に閉じ込められているから…なら、イーオンと連絡が取れないのは電波妨害というより…その砂のせい?」
ギーリのくせに。あとで私も教えてもらおう。
「そう!イルシードはあの雷にやられたんじゃなくて物理的なダメージを負ったんだ!──道理でおかしいと思ったんだよ、コンキリオおじさんとは連絡が取れるのにどうしてイーオンはって…」
私はクルルの乱暴な解説を聞き、携帯ゲーム機を砂場に落とすイメージをした。するとどうだろう、細かい所に砂が入り込んであっという間に壊れてしまう...うん、自信ないけどきっとそんな感じ。
運が良ければ砂が入り込んでも使える、もし落としてしまったら私ならどうするか。
「ふっ!ふっ!ってする、イルシードも強い風とか当てたら砂も飛んで故障も直りそう」
「いいねそれ!」
「それでいきましょう!」
「グッドアイディア!」
お?皆んなから褒められた、ただの独り言だったのにラッキー。
段々と息を吹き返してきたサランがギーリに指示を出す、本人はコンソールと睨めっこを続けている。
「ギーリ、少佐に連絡を、本部からイルシードに呼びかけてもらうように依頼して」
ギーリは返事をせず、本部へコールを入れた。
本部もイーオンの身を案じていたのか、はたまた別の理由か、ワンコールでコンキリオ少佐がモニターに現れた。案外暇なのかも。
「何かあったのかね?」
ギーリが現在の状況と、私が発見した砂の話をラスボスに例えて少佐に報告している。恥ずかしいから普通に報告して。
「ラスボスのくだりはよく分からんが、とにかく状況は理解した。こちらからもう一度ゲイクムヌとイルシードに呼びかけてみよう」
「お願いします」
そして、あれだけラグナカンの呼びかけを無視っていたゲイクムヌから応答があった。
本部の通信に応じたのは高齢を思わせる人の声、ラスボスを唆す真のラスボスみたいな、とにかく意地悪な声をしたばあさんだった。
「よほど大事な乗組員らしいね、こう何度も通信を入れてくるんなて」
少佐が毅然とした態度で話す。
「ヴァルヴエンド国防軍所属、コンキリオだ。貴船から発せられている救難信号は我々が所有する機体であり、そのパイロットも我々の所属である。貴船に対し、速やかな譲渡を依頼する」
「へえ〜新顔だと思っていたが、まさか、ねえ。それを本人が望んでいるとでも?」
「どういう意味かね?」
今の発言で確定した、イーオンはあの船の中で生きている。皆んなの顔に安堵の色が広がった。
ただ...
「こんな嵐の中で出動命令が出されたんだ、イーオンと名乗ったパイロットはぼろぼろになりながら私たちに助けを求めてきたのさ。それに、もう戻るつもりはないと言ってるよ」
「それを決めるのはパイロットではない、我々だ。本人が無事であるなら話をさせてくれ、パイロットには我々に報告をする義務がある」
安堵したばかりだというのに、皆んなの顔色がまた悪くなった。とくに、イーオンに要請を出したクルルとサランの顔色が酷い。見ていられない。
「その義務は私が預かっている、だからこうして報告している」
「とんちは結構。それと、我々の呼びかけを無視していた理由は?数時間前にも貴船に対して呼びかけを行なったはずだ」
「空を見てごらん、あんたらの空がどうかは知らんが、ここはどんな時でも変わる、同じ景色が二度として生まれることはない」
「とんちは結構だと言ったはずだ」
「事情が変わったんだよ。──イーオンの身柄にいくら出す?それ次第だね」
少佐が黙る、モニターを見ていたので誰がしたのか分からないけど、後ろから「ちっ」と舌打ちが聞こえた。
ゲイクムヌのばあさんは、イーオンを返してほしければ金を出せと言ったのだ。確かに、ギーリから教えてもらった通り空の海賊だ。
少佐が黙っていたのはその舌打ちが聞こえてきた間だけ。
「──求めに応じよう、受け渡しについてはそちらで決定してくれ、そのやり方に従う」
意地悪ばあさんが気色ばんだ声を上げる、ついカチンと来てしまった私は「ちっ!」と舌打ちをした。
「へえ〜?ああそうかい!そりゃあ良い!──小型船をそっちに出す、私の船が見えているんだろう?尻尾に噛みついている鼠みたいな船さ」
──その時だった。
「私はいくらですか?」
イルシードの反応だ!
「イーオン!!」
クルルもサランもギーリも、いや皆んな、私も名前を呼んだ。
どうしていきなり?いや、私の見立てが当たっていたのだ、通信障害の原因はあのラスボス雲ではなく砂だったのだ。
イーオンが私たちの呼びかけに応じてくれた。
「ごめん、皆んな!私…は…だい…」
「イーオン!イーオン!聞こえないよ!」
でも、それこそ砂が混じったみたいにすぐに通信状況が悪くなり、何も聞こえなくなってしまった。
意地悪ばあさんが私たちに告げた。
「ちっ、余計な真似を…どのみち小型船がなきゃそっちに行けやしないんだ。船を出して欲しかったら金を払いな、勿論前払いだ」
ギーリが「このクソばばあ!」と吠え、少佐が「止めんか!」と、初めて怒鳴り声を上げていた。
「金の用意ができたらまた連絡しな。なあに、あんたらの積荷は大事に扱うさ、それが私の流儀だからね」
そう言い残し、通信が切れた。
サランがコンソールを乱暴に叩いた。
*
「アマンナ、鼠鯨の旦那さんという船と連絡が取れた。あとはよろしく」
「な、な、はあ?急に何?というかちょっと待って」
「はいよ〜今日もありがとうね〜綺麗なお姉さ〜ん」
「あ、どうも〜!」
頭の中と口で返事をしないといけないので大変だ。
いつもお世話になっている串焼きのおっちゃんからお目当ての串を貰い、ひとまず一口齧る。
「うんっま、やっぱこれよこれ」
スパイシーなタレが絡みついた分厚いゲソの串焼き、噛めば噛むほど味が染み出てきて...堪能してる場合じゃなかった。
「ノラリス?急になに?」
「アヤメから提案があったんだ、昔馴染みの取り引き相手からアフラマズダに関する情報を仕入れられないかって。で、さっきその人と連絡が付いた、でもアヤメが忙しいみたいだからアマンナに丸投げ。おーけー?」
「ふざけんな」
下層中央部。ここは下層で最大の何でも市場である。屋台から綺麗なモールから小型飛行船のディーラーから何でもござれ。
ただ、ここは下層でありながら唯一空を見上げることができる場所でもある。ちょうど真上にアレクサンドリアがあり、その連絡橋が幾重にも伸びているのがここからでも見えた。
そして今は土砂降りの雨である、連絡橋の隙間から降ちてくる雨が下層の床を叩き、私の目の前に汚い水溜りをいくも作っていた。
丸投げしたノラリスが通信を切り、突然ネゴシエイトを任せられた私に懐かしい声が届いてくる。
「誰だい?取り引きする気がないんなら切るよ」
「──お〜!なっつ!やっほ〜、私だよ私、アマンナだよ〜」
「──アマンナかい?!いや〜久しいねえ〜!何年ぶりだい?全然顔見せないからてっきり死んだとばかり思ってたよ。アヤメは元気にしてるのかい?」
「そのアヤメから旦那に頼みたいことがあるってさ、私はただのパイプ役」
「いいねぇいいねぇ、一気に流れがこっちに来た!」
何の話?
「で、頼みってのは何だい?」
「アフラマズダに関する情報。旦那は何か持ってない?」
串焼きのおっちゃんが広げる屋台の屋根でも、この土砂降りの雨は防げないらしい。びしゃびしゃと私の肩と足を濡らしてくる。
こりゃ堪らんと傘を差して屋台から離れ、他の皆んなが雨宿りしているモールへ走って行く。結局濡れる。
「あ、あ、あ〜…ちょいと待ちな…あ〜、あった、インターシップのアフラマズダだね。紙媒体で一〇枚分ある、文字数で言えばざっと四〇〇〇文字だね」
「え、それって誰かの創作物とかではなく?」
「さあね、私は仕入れただけだから情報の真偽については分からんよ」
丸投げしてきたノラリスにメッセージを飛ばす。ちょうど『〇〇〇』の部分、視界に映る水溜まりと重なり、誤って踏んづけてしまった。
アマンナ:紙媒体で一〇枚、四〇〇〇文字あるって。どうする?
ノラリス:買って。こっちではその四〇〇〇文字すら手に入らない
アマンナ:支払いは?私串焼き買ったからもう無いよ
ノラリス:アヤメ
「おっけ〜、それちょうだい」と旦那さんに返事をする。
「支払いは?」
「アヤメ。値段の交渉はそっちでしてくれない?今連絡取れないらしいから、後になるけど」
「いいさいいさ、あんたらは私のお得意様だからね!──いや〜何て良い日なんだ、気分も浮かれるってもんさ!」
随分と機嫌が良いな。私はゲソ焼きが濡れてテンション下がっているというのに(ただの判断ミス)。
なんでそんなに機嫌が良いのか、雨に濡れてしんなり...としたゲソ焼きを頬張りながら旦那に訊ねた。
「テンションだだ上がりの旦那って珍しいじゃん、そんなに良い事があったの?」
「馬鹿言いな、こっちは議会のせいで商売上がったり──ちょいと急ぎの用事が入った、すまないね、切らせてもらうよ」
な、何なんだ?
(切れちゃった…まあいいや)
上層を支える、直径数百メートルはありそうなアホみたいに大きな柱の中にモールがある。いや、その柱を取り込んだみたいな形でモールが建てられている。どっちでもいい。
モールの入り口の側溝から雨水がごぼごぼと溢れている、利用客はそれを嫌そうにしながら避け、入り口を目指していた。
「いやもうほんとびちょびちょ」と言いながら私も入り口を潜る。デカい独り言に周囲の人間が何事かとこっちを見てきた。
「──アマンナ、こっちだこっち」
モールのエントランスに下層調査チームの面々がいた。
ヒューは、その体格の良さから子供用に見えるブロックソファに座り、そのヒューから少しだけ離れるようにして残りの三人が立っていた。
ナツメ、それからマリサとデュランダルだ。
皆んなの元に駆け寄る、ナツメが早速馬鹿にして来た。
「お前よくこんな大雨の中外に出たな。馬鹿なのか?」
「この近くにある屋台の串焼きが美味いの、こっちに来たら絶対一本は食べるようにしてるの」
スイちゃんを一〇割り増し真面目にしたようなデュランダルが「ええ〜」と言う。
「外に売られてる物って砂まみれですよ?よくそんな物食べられますね」
「いやほら、私って鳥みたいに砂を濾過できる肝があるからさ、砂まみれでも平気なんだよね」
「お前頭おかしいんじゃないのか」
ヒューが冷静な突っ込みを入れてくる。一番腹立つ。
「というかアマンナさん、服透けてますよ、下着見えてます」
ヒューが顎に手を当てながら、私の透けた胸をじろじろと見ている。
「綺麗なチョモランマが…いや、可愛いらしいピンクの小槍が二つだな!」
「あんた頭おかしいんじゃないの」
「皆んな頭がおかしいんだよ」
「姉御?!それ私も入ってます?!」
「そういう自分はおかしくないってか?俺たちの相手をしてる時点でお前も十分頭がおかしいんだよ!」
「ナツメさん、他の人はどうでもいいのでアマンナさんには謝ってください」
「──もううるさいうるさい!」
ちな、デュランダルはナツメのことを「姉御」と呼んでいる。
ナツメの「頭おかしい」発言に皆が抗議し、あと少しでチーム割れしかけたが、何とか落ち着いて進捗状況の確認に入った。
「──全くもう。ヒュー、お前の所はどうだった?」
「駄目だ」
「マリサ」
「同じくです」
「デュランダルは?」
「皆さんと同じです」
皆んな、下層のあちこちに出向いてインターシップに関する情報を探っていた。弁護士事務所から探偵事務所、果ては興信所まで、結果は白。
「私も同じだ。インターシップに関する情報は取り扱いが難しい上に、金にならんから誰も持ちたがらないらしい」
「そうでしょうとも。ええ、ここは何せヴァルヴエンドのお膝元なのですから」
私がそうもったいぶるような言い方をすると、皆んなが期待を込めた視線を向けてきた。
「何か言いたげだな。お前の所はどうだったんだ?」
「私んとこも駄目だったけど、昔の取り引き相手からアフラマズダの情報が買えることになった、今その段取り中」
おお、と響めきが起こる。
「食い意地しか張らないお前がついに金星を…」
「やればできますね、アマ姉」
「頭おかしいの代表格のお前がか…ああ、だから雨が降ってるのか」
「もう!皆さん怒りますよ!アマンナさんだって本当は賢いんですから!」
「いやマリサ、あんたも大概………ん?」
それは人混みの中でもよく目立った。
ロボコップみたいな、バカでっかいグラス型端末を装着した二人組の男が私たちをじっと見ていた。
私の視線に皆んなも気付いた。別にそうだと決めていたわけではないが、皆んながじりじりと距離を開け始め──。
「走れ!!」
ナツメの号令と共に皆んなが明後日の方向へ走り出す。二人組のロボコップがこっちに向かって走って来たのだ。
おそらく、訪問した先の弁護士事務所などから通報が上がったのだ。この街でインターシップに関する情報は御法度に近く、それを探っているというだけで目を付けられてしまう。
結成されて半日と経たず、結局下層調査チームが散り散りとなった。
*
「走って!!」
「イシュウ!!一度ならず二度もこの私を裏切ったね!!」
走る走る、とにかく走る。足が速いばーばから逃げるように走る。
ゲイクムヌのブリッジに保管されていたマスターキーをイシュウが盗み出し、二人で船内中を走り回っていた。
シジンシゴウヘン、ゲンブシゴウヘン、ソウリュウにビャッコ、スザクの五つのシゴウヘンを走り抜いてもまだばーばは追いかけてくる。普通に怖。
「イシュウ!あの人撒けないよ!いくらでも追いかけてくる!」
「こうなったら──」背骨通りの入り口でイシュウが立ち止まる。大きな傷や落書きがある円筒形の通路だ、その途中には置きっぱなしになっている積荷などがあり、それを手にしたイシュウがばーばへ投げつけた。
ばーばは避ける、すごい反射神経だ。
「──このクソガキ!!」
足止めできなかったイシュウがばーばに捕まり、足をかけられて床に叩きつけられてしまった。
「イシュウや、お前は一体何をしている?ツキが巡ってきたのが分からんのか?」
イシュウはばーばに押さえつけられながらも、バタバタともがいている。
「そんなのっ、昔の馴染みがただ気まぐれを起こしただけのこと!何の将来性もない!」
「なら、お前はあの積荷を逃すことが将来に繋がるというのか?どんな計算をすればそんなことになる?むざむざ手に入る金を逃すことのどこが将来性があると言うんだ言ってみろおお!!」
(積荷扱いの私。いや、そんなことよりも何とかしないと…)
ばーばの恫喝が通路に反響し、私たちが目指す尻尾倉庫まで響いていった。
「イシュウ、鍵を返しな、今なら許してやる」
「〜〜〜っ」
イシュウはマスターキーを渡そうとしない、何とか逃げようと必死に手足を動かしている。
さっき、ラグナカンとやり取りができた時、私たちは倉庫にいた。確かにハッチがひしゃげ、外の風がびゅんびゅんと入り込んでいたけど、そのお陰で機体を直す手間が省けた。
きらきらとした砂のような物が、イルシードの至る所にこびりついていた。それはシートの中に入り込み、じゃりじゃりとして嫌な感触だったけど、私とイシュウでひたすら水をかけて砂を落とし、落とし切った所でばーばのやり取りがスピーカーから聞こえ、「私はいくらなんですか?」とつい反論してしまい、ばーばに見つかってしまった。
そして今、二度目の反乱中ということである。
イルシードは壊れていない、機首に穴が空いてしまっているけどまだ飛べる。
「ばーば、ばーば!お願いですからこんな取り引きの仕方は止めてください!何故、あの時素直にイーオンを返すと言わなかったのですか!そうすればイーオンの仲間たちとも取り引きが出来たかもしれないのに!味方を増やせたかもしれないのに!」
「たらればじゃないんだよ、この世の中は。確実に利益を上げる奴が生き残るんだ。お前は今日まで一体何を見てきたんだ?」
「ばーばが人にも積荷にも嫌われるところです!」
「──言ったね!!容赦しないよ!!」
ばーばが手を上げる、振り下ろされる寸前、止めに入った。
「いくらですか!!」
「──ああ?!」
「ばーばはいくらイシュウに払うんですか!!」
私がそう大きな声を出す、イシュウを叩こうとしていたばーばの手が止まった。
「誰が誰に払うって?」
「私だったらあなたみたいな人、絶対相手にしたりしません。意地悪で、態度もデカくてこっちの言う事も聞いてくれない。でも、イシュウはそんなあなたを連れてチョモランマを越えてほしいと私に言いました」
「イシュウ?今の話は本当かい?」
「…………」
「お前…まだ私を故郷へ連れて行こうと…一度捨てた故郷に戻そうって、本気で言ってるのかい?!──この裏切り者!!」
「裏切り者じゃない!!イシュウはあなたのことを大事に思ってる!!このままじゃ駄目だからって!!」
「はっ!!クソガキが生意気な──「それで、あなたはイシュウのその思い遣りにいくら払うんですか?」
ずっとイシュウを見下ろし、睨んでいたばーばがゆっくりと私の方を向いた。
「いらないんですよね、イシュウのその大っっっっ切な思い遣りが、だったらお金を払って清算しないと、それがここのルールなんですよね」
破顔一笑。壊れたようにばーばが笑う。
「──はあ〜一本取られたねこりゃあ。おい、イシュウや、お前もあの子ぐらい物が言えるようになったらどうなんだい?ん?」
「い、いらない…ばーばからお金なんていらない…私はただ、ばーばを助けたいだけで…」
「そんなんだから私の言いなりになってるんだよ。──良い事を教えてやる、世の中対等な取り引きなんて存在しない、物の価値は取り引きをするそいつらの上下関係で決まる。例えばだ、金勘定しかできないろくでなしが産んだ孤児と、その面倒を見てやってる船長が対等だと思うか?例えばだ、命を助けられたどこぞのパイロットと助けてやった船長が対等だと思うか?──そんなのありゃしないんだよ!親子ですら上下に分けられる!」
「………」
「………」
「私がこいつの思い遣りに金を払えってか?馬鹿言っちゃいけねえ!そんなものお前が勝手にやったことじゃないか!一方的に思い遣って一方的に金を払えなんざ、イシュウ!お前が嫌っているそのものじゃないか!」
「ばーば、そうじゃない…そうじゃないんです…上下とか、価値とか、取り引きとか、世の中それだけじゃないんです。私みたいな子供でもそれが分かるのに、どうしてばーばはそれが分からないのですか」
駄目だ、この人には何を言っても理解してもらえない。それでもイシュウは諦めず、見捨てず、ばーばを説得しようとする。
凄いと思った、イシュウのことを。ここまで誰かを見捨てずに接するだなんて、私にはできない。
誰かを思い遣る。それは簡単な事で、けれど続けるのはとても難しい。
人はすぐに見返りを期待する、ここまでやったんだから、いつも気遣っているのだからと。その見返りがないと分かると人は思い遣りを捨ててしまう、だって自分が疲れるだけだもの。
それなのに、イシュウは捨てない。思い遣った相手にいくら罵倒されようが乱暴なことをされようが、イシュウは見捨てない。
何故、そこまでできるのか、今の私には理解することは難しい。
でも、そこまでする凄い人に手伝ってほしいと頼まれたら。
私はせめて、そんな凄い人の手伝いをしたいと思うのだ。
「もういいイシュウ、今のお前には理解できんだろうさ。──くだらないことに時間を使ったよ、大事な取り引きが待っているというのに」
ばーばが腰を上げた時だ、また船が大きく揺らいだ。ただ、今回は揺れただけではなく、通路を照らしていた電灯に異変が起こった。
切れてしまったのだ、途端に通路が暗くなり、すぐに予備電源に切り替わった。これにはさしもの二人も色めき立った。
「これは──ええい、くそ!イシュウ!倉庫へ走れ!」
「は、はい!」
「イーオン!喧嘩は後だ!お前にも付き合ってもらうよ!」
「え!あ、あの!すごく嫌な予感がするんですが…」
ばーばが叫んだ。
「デンボーに捕まっちまった!」
*
「え?──ええ?ちょ、クルル!クルル待って!戻って来て!」
「なに?マニュアルで頭がパンパンなんだけど…」
「モニター見て!あの鯨が雲の中に入ろうとしてない?あれ大丈夫なの?」
アカデミーの教材何十冊分はあろうかというマニュアルを頭に叩き込んだせいで、頭がいつもより重たい。
そんな思考が定まらない状態でも、モニターに映し出されている異変にすぐ気が付いた。
「入ろうとしてるんじゃない!もう入ってるの!」
「ええ〜〜〜?!あの船何考えてるの?!」
アイスピックホエール(僕たちが名前を付けた)は、テクニカが言っていたラスボス雲の入り口に差しかかっている。
どうして?今の今まで距離を空けて旋回飛行を続けていたのに、あの雲に突入することに何のメリットがあるの?
──違う。
「入ったんじゃない!ラスボスに捕まったんだ!」
「どういう意味なのそれ!」
「あのラスボス雲には磁場があるんだ!磁場が発生すると帯電可能な物体は磁力を持つ!磁石は離れていても引っ付くでしょ?!」
「それって、でもあの雲自体に磁力は無いはずよね?!磁場を形成する物体はその磁場から影響を受け──砂〜〜〜!!」
「そうだよ〜〜〜!!テクニカが言っていた砂だよ〜〜〜!!」
マズいマズい!これはマズい!
サランがコンキリオおじさんへ緊急の連絡を入れる、モニターではなくプライベート通信だ。
そのコンキリオおじさんが颯爽とモニターへ現れ、頭をこれでもかとガリガリとかいていた。
「せっかく頭を下げて話を通して来たところなのに!──現在の状況は?!」
「マズいです!「それは分かっとる!アイスピックホエールの状況は?!まだ空を飛んでいるか?!「飛んでるけどマズいです!「ああ、もう!」
「少佐!どうするのですか?!イーオンを攫った奴らはどうでもいいですが、イーオンが!イーオンが!」
「君たちの方から連絡を取れ!ここからでは連絡が取れない!電磁波の影響で混線してしまっている!」
サランがすぐにコンタクトを取り、テクニカが「意地悪ばばあ」と呼んだアイスピックホエールの船長がすぐに応答した。
「取り引きどころじゃない!見りゃ分かるだろう!」
「イーオンは?!」
「無事さ!助けたいって言うんなら私らも助けてくれ!このままじゃデンボーに入って二度と出られなくなってしまう!」
サランからマイクを奪って問いただす。
「何やってんの?!あの雲の性質を知っているなら対策ぐらいしているはずだよね?!磁場に捕まってしまうことぐらい想定できたでしょ?!」
「お前んとこのガキを助けた代償だよ!!」
サランが意地悪ばばあに言い返す。
「それを言うんだったらあなたたちがずっと後を付けていたからでしょ?!」
意地悪ばばあがさらに言い返した。
「それを言うんだったらデンボーも知らずに山越えしようとしたお前たちが悪いんじゃないか!お陰でハッチからシールドが捲れちまったんだよ!悪いと思うんなら私たちを助けろ!」
ついにサランが口汚く罵った。
「こんの…クソばばあめ!「──サラン!言い合っても仕方がないよ!──意地悪ばばあ!僕たちにできることはある?!」
「ある!あんたらの船をアンカー代わりにさせとくれ!近くまで来たらワイヤーを飛ばす!それで何とか凌げるはずだ!」
返す刀じゃないけど、サランがコンキリオおじさんに許可を求めた。
「いいですよね?!このままじゃイーオンが危ない!」
コンキリオおじさんが高速で頭を掻きむしり、折れた。
「私の首を落とすだけで済ませてくれ!──クルル操縦士!ラグナカンの扱い方は学んだな?!「ほどほどには!「よし!十分だな!「人の話聞いてないよこの人!「サラン隊長!クルル操縦士とタイミングを合わせてオートモードを切れ!」
ああ、ああ、嘘でしょぶっつけ本番?!
でもやらないと、イーオンにごめんって謝らないと!
僕にはデカ過ぎるほどの操縦席に腰を下ろす。アジャスト済みのシートの足元にはダイレクトレバーが一つ、コンソールからは二本のアシストレバーが伸びている。そのレバーに腕を通し、全ての指にレバーリングをはめた。
そう!この船まさかの指操作!一〇本の指で全ての操作を行なうとんでもないイロモノ仕様!
腕は震えてガッチガチに緊張している、僕が操作を誤ればラグナカンはヒマラヤ山脈へ真っ逆さまだ。
だと言うのに、サランが「切ったよ!」と言ってきた。
「タイミングタイミングちょっと待っ──?!」
アシストカバーがぐんと重みを増して僕の腕に乗しかかってくる、それだけで頭は真っ白、さらに右手人差し指と小指がぐいぐいと締め付けられた。
(確か確か確か!人差し指と小指は角度調整の──ああ!ああ〜!)
「クルル〜〜〜!傾いてる傾いてる〜〜〜!」
ラグナカンがどんどん右側へ傾いていく、転覆危険角度に達し、ブリッジにけたたましいアラート音が響き渡る。
それで踏ん切りがついたのかもしれない、マニュアル通りに操縦する努力は放棄し(初めから無理)、僕は思った通りに指を動かした。
「痛い痛い痛い痛い〜〜〜!千切れる千切れるぅ〜〜〜!」
「クルル〜〜〜!前!前〜〜〜!船首が落ちてる〜〜〜!」
「ふぬぬぬっぐぬぬぬっ」
アシストカバーを僕の細い腕だけ持ち上げる。ああそう言う事?!と理解した、カバーが重たくなっているのは船首角度が地面へ向いていたからだ。
ラグナカンが安定した、それと同時に指を締め付けていたリングが緩み、重たかったアシストカバーも軽くなる。
「──は、操縦席に殺されるかと思った…」
「クルル!まだ終わってない!イーオンを助けないと!」
「分かってるよ!──グラスオン!」と、ちょっと恥ずかしいけどそう叫ぶ。音声入力が反応し、シート背後に設置されていたアームが伸びて、ヘルメット型の投影モニターが僕の頭にすっぽりと被さった。
こんな時でなければモニターに投影されたこの眼前の景色を堪能したい。でもそんな暇はない!
ラスボス雲はもう目前だ。
*
「イシュウ!お前はワイヤーの準備!イーオン!お前はここで待機していな!」
「はい!」
「は、はい!」
さっきの喧嘩がまるで嘘のよう、意地悪な顔付きをしていたばーばにその面影はなく、今あるのは真剣さだけ。
ゲイクムヌのブリッジは鯨の頭部に位置し、二つの目玉の中間点にあるという(イシュウ談)。
その二つの目玉が外部カメラの役割をしており、その映像はブリッジ内のVUI (ヴァーチャル・ユーザー・インターフェース)に表示されている。
暗くて黒い塊がゲイクムヌの前に、無限に思えるような広さと圧倒さを持って広がっていた。私がイルシードで入ってしまったのは、ほんの入り口にしか過ぎない。
ばーばも必死だ、イシュウももう何度も駆け回っているのにまた走り出していった。どうやら私の船にワイヤーを打ち込み、それを錘として利用するらしい。
はて、と疑問に思う。あの船は自動航行のみでその管理をクルルが担っているだけだ、果たしてこんな危険なデンボーにやって来てくれるのだろうか?
その疑問はすぐに解消された。
「え、クルルが操縦してる…?本当なの?」
スフィア型VUIのスピーカーからクルルの平坦で、けれど少しだけ興奮した声が届く。
「そう、今僕が自分の指で操縦してる、だから…ちょっと今集中してて…」
「わ、分かった」
「イーオン!お前は自分の船の誘導!距離が一〇〇を割ったら細かく指示を出してやれ!」
「は、はい!」
「位置に付いたらイシュウにワイヤーを出させる!あの子の腕は私より上だ、だから安心しな!」
「はい!」
凄い、皆んな凄い、私はただ見ているだけだ。
スフィアに反映されたラグナカンの位置が一〇〇メートルを切った、ばーばに言われた通りクルルへ指示を出し、ゲイクムヌの尻尾の真後ろへ移動してもらう。
その時はすぐにやって来た。
「イシュウ!ワイヤーを打て!」
ゲイクムヌの真後ろにぴたりと付いたラグナカンへワイヤーが射出され、ちょうど船首のど真ん中に突き刺さった。ラグナカンのスピーカーから「ああ!」とか「アラート切って!」とか「飛行に問題は無いよ!」とか、騒々しいやり取りが届く。
「そのままゲイクムヌを引っ張れ!それで壊れちまったら私らが修理してやる!」
スピーカーからクルルの悲鳴が届く。
「バックって、バックて!操作が全部逆になるんだけど?!──ええいもう!」
今度はゲイクムヌのブリッジにアラートが響き渡る、外部からの引力が働き艦の航行センサーが異常と認識したのだ。
これにばーばは喜んだ、「よし!」と、ゲイクムヌがラグナカンに引っ張られて後退していることを示している。
けれど、そのアラートがすぐに鳴り止んだ、私は何もしていないしばーばも何もしていない。
「何故アラートが──おいおいおいおい…電母様の怒りでも買っちまったっていうのかい…」
ラグナカンに引っ張られているはずのゲイクムヌが再び前進。別にばーばが船を進めたわけではない。
デンボーが私たちを離してくれないのだ、まるで見えない何かの力に引っ張られるようにして、どんどんデンボーに近付いていく。
そして、ラグナカンの救助も虚しく、私たちはデンボーの中へ入り込んでしまった。