隊長サラン・ユスカリア・ターニャ
体にへばりつく医療用ジェルを剥がす、ぺりぺりと、たまにべちゃっとした音を立てながら落ちていく。
あらかた取れたので体を起こす、医療ルームには誰もいない、私だけだ。光量を落としていた天井のシーリングライトが順次灯っていく、広さはアカデミーの教室と同じ、乗艦する人数分のベッドが置かれていた。
ベッド脇に設置されていたコンソールから声がした、医療分野を担当するティアマトのものだ。
「健康診断お疲れ様でした、医師の診察を必要とする身体的な不調はどこにも見受けられません、ご安心ください」
「ありがとう」
「それから、診断に使用した接触式高機能医療ジェルは時間経過と共に乾きます、皮膚になんら影響はありません、シャワーなど浴びれば簡単に落とすことが可能です」
その内容にとくに返事はせず、私は黙ったままベッドから立ち上がった。言うべき事を言ったティアマトは沈黙し、コンソールの電源も落ちた。
ティアマトの言う通りなのだろう、下半身に残っていたジェルがもう既に乾き始めており、爬虫類の脱皮のように簡単にぺりぺりとめくることができた。ここで剥がすのはよそう、床が汚れてしまう。
ベッドルームから更衣室へ向かい、五つあるロッカーのうち一番端の扉を開ける。検診前まで着ていた衣服を取り出し、ジェルが体に付いているのも構わずシャツから着込んでいく。
服を着る時、どうしたって自分の体が見えてしまう。パイロットになるために訓練を重ねてきた私の体は、凡そ女性らしからぬ体付きをしていた。
胸はそこそこ、足も決して細いわけではない、パイロットに適正化された筋肉量を付けてしまったせいだが、後悔はない。
後悔はない、そう、ここでもパイロットとして働くことができるのだ。
後悔は、ない。
(は〜どうして私がこんな所に…)
ごめん嘘、すごく不服。後悔はないけどすごく不服。
更衣室には五つのロッカーが並んでおり、医療ルームにも五つのベッドが置かれている。この船には五つの私室があり、ブリッジには五つの管制席がある。
全部五つだ、この船に用意された人が使用する物は全て五つに統一されている。
今日は私が乗艦日、明日以降に残りの四人が乗艦することになっていた。
乗艦している船の名前は『ラグナカン』、太陽系に所属するこの地球の大気圏内を飛行移動するために開発された船であり、ミトコンドリア(私が配属された部隊の名前)の任務を支える船でもある。
乗艦後の簡単な手続きを済ませた私は船を後にし、寄港している宇宙港のセントラルドックへ出てきた。
足元を見やれば、接舷橋の隙間からうんと小さくなった宇宙港のターミナルが見える。乗客が利用するシャトルバスもまるで玩具のようだ。
接舷橋を渡り切り、背後を振り返る。そこにはドックに囲われたラグナカンが停泊していた。
ドック壁の向こうには上部甲板が露出しており、その後ろにはブリッジルームがある。それから広大な地球の空で迷子にならないよう、超範囲周波取得アンテナがブリッジルームから後方へ一本にょきりと伸びていた。
私は明日からあの船で、各地のテンペスト・シリンダーを訪問する旅に出る、それが派遣調査隊の任務である。
(どれくらいかかるんだろう…地球ってどれくらい広いんだろう…)
漠然とした不安、何がどうとは言えないが、ラグナカンを見つめていると不安感が強くなってくる。
その不安を払うように背後から誰かに名前を呼ばれた、「イーオン」と。
ドック直通エレベーター前に、何度もお世話になった教官が立っていた。アカデミーでは滅多にお目にかかれなかった優しげな微笑みを湛えている。
つい少し前までアカデミーに在籍していたんだ、習慣というものはそう簡単に抜けるものではなく、条件反射のように敬礼してしまった。
「私はもうあなたの教官ではありませんよ」
そう言われるだろうなとは思っていた、やっぱり言われた。
「申し訳ありません」
「謝ることではありません。──気分はどうですか?」
教官がゆっくりとこちらに歩いて来る。教官の黒い艶やかな髪はぴっちりと撫で付けられ、余った襟足は帽子の中に収まっている。
いつ見ても同じ姿、身嗜み、アカデミーに入学してから卒業するまで、まるで鉄のように崩れなかった。
その教官が私の前に立った。否が応でも緊張してしまう。
「不安です、明日からの任務を思えば」
「他には?」
他には?
「え、ええと…」
全てを見抜くような細い目が柔和に細められ、私はいよいよを持って訳が分からなくなってしまった。
普段はこのようにプライベートの話をするような方ではない、常に正しくあれと、常に己を律せよと、厳しい指導ばかりしていた方だ。
困惑する私に教官が助け舟を出してくれた。
「あなただけなんです、希望が通らなかった生徒は、だからこうして様子を見に来たのです。──いささか困惑させてしまったようですが」
「あ、いえ、そんな事は…」
斜め後ろからタービン音が届いてきた、音からしてきっとシャトルシップだろう、そのシャトルシップが私たちの頭上を飛び越え、直通エレベーターよりさらに奥にある空きドックに停泊した。
シャトルシップのエンジン音が鳴り止んだところで、その間にまとめていた頭の中身を口から出した。
「ミトコンドリアの配属を言い渡された時は不服に思いましたが、今は与えられた任務を遂行するため気持ちを切り替えているところです」
「そうですか…その思いを聞いて少し安心しました。あなたは本当に良く出来た生徒でした、アカデミーで培ったその力は明日からの任務を大いに支えてくれることでしょう」
「はい」
あの教官に、優しさの欠片もなかったあの教官にそう真っ直ぐ見つめられてしまい、居た堪れなくなってついと視線を下げてしまった。
知らず知らずのうちに自分の腕を擦っていたらしい、残っていた医療用ジェルがぺりりとめくれ、床に落ちていた。
ついと視線を上げた時だ、直通エレベーターの奥に停泊していたシャトルシップから、緊急事態を知らせるビープ音が響き渡った。
「な、なんでしょうか…」
「あなたは船へ、私が対処します」
「いえですが…「いいから、卒業したとはいえ、あなたは私にとって大事な生徒です。──行きなさい」
ビープ音は船内で異常が起こった際に発せられる救難信号である、つまり船内で人的なトラブルがあったという事だ。
やっぱり教官は教官だった、私が常々見てきたあの厳しい顔つきに変わり、シャトルシップへ向かって行った。
そして、私は言われた通りにラグナカンの搭乗口へ走って行った。
*
まるで歌姫のような女性が僕を見て驚いている、あんぐりと口を大きく開け、強めに見える瞳も大きく開けている。
「このあんぽんたん!あれほど気を付けろって言ったでしょ!」
脳内のインプラント越しにマリサの怒鳴り声が届いて来る、特別個体機とパイロット間のみのインプラント通信なので周囲の人間には聞こえない。
僕は口をへの字にしたまま、マリサへ言い返した。
「なんで船から降りる直前にパスポートの確認をするのさ!こういうのって普通ターミナルに着いてからじゃないの?!」
「あ、そういう事?じゃあしょうがない、走って」
「どこに?!」
「エレベーター!──おっけ、ちょうど一基止まってる!それに乗って地上へ下りて!」
まさか僕みたいな輩がいると思わなかったのか、客室乗務員の人間が怯えた様子で後退りしている。その隙を突いて船内から外へ、そこで、
「止まりなさい!!」
「っ?!」
隙間だらけの危なっかしい橋の中腹辺りで、パンツスーツ姿の女性が待ち構えていた。その手には不審者撃退用のロッドが握られ、僕のことを通せんぼしていた。
僕は走る勢いを緩めず、彼女に向かってこう叫んだ。
「中で変な奴が暴れているんだ!早く助けに行ってくれ!」
上手い具合に勘違いしてくれた。
「──分かった!あなたは早くエレベーターへ!地上に降りたら応援を手配して!」
道を開けてくれた、すれ違いざまに「気を付けて!」と言い、あとは一目散にエレベーターへ向かった。
マリサの言う通り、一基だけ止まっていたのでボタンをタップして中へ乗り込む、ちらりと外の様子を窺うと...
(げっ!さっきの女性!)
あの歌姫のような女性が、僕に向かって指を差している。乗客だと勘違いしてくれた女性は眉を吊り上げ、こちらに向かって駆け出していた。
タップ!タップ!タップ!タップ!早く早く早く!
間一髪、鬼の形相に変わっていた女性の手がこちらに届く寸前、扉が閉まってくれた。
「は〜…危なかった…」
インプラント通信が入る。相手はマリサではなくアマンナからだ。
「さーせん」
「もういいよ、何とかなったから、いや何ともなってないけど。きっと地上に下りたら警備兵に囲われるよ、どうする?」
「う〜ん…女装しよっか」
「いや無理じゃない?この服でもきっと無理だよ」
「う〜ん…一旦捕まろっか」
「あ、やっぱりさーせんからやり直していい?──なんでちゃんと調べてなかったの!!アマンナが大丈夫だって言うからパスポートをナツメさんに預けたまんまにしたんだよ?!」
「さっさーせん「ふざけてる?!「とりあえずナツメはターミナルから退去させたから安心して「こっちは何も安心できないんですけど?!」
高さ一〇〇〇メートルにも及ぶ宇宙港のセントラルドック、そこを行き来するエレベーターも速度が随分と早い、アマンナと無駄なやり取りをしている間にもう半分も過ぎてしまった。
約五〇〇メートル地点からでも、宇宙港を有するリガメルという街を一望することができた。こんな時でなければゆっくりと眺めていたいが、生憎とゆっくりしている暇がない。
宇宙港のターミナル周辺は自然公園に囲われ、そのすぐ向こうからリガメルに拠点を構える生産工場がその軒を連ねている。そしてそのさらに向こう側には、リガメルアカデミーという化け物みたいに広い学校の敷地があり、今し方その敷地内にある滑走路から三つの機体が離陸したところだった。
もう間も無く地上だ、打つ手なし。
「下手に逃げるより一旦捕まって、最寄りの留置所か何かでホシを拾った方が確実、ここで騒ぎを起こしても無駄」
「分かった分かった、分かったよ」
「いや言っておくけどね?サマルカンドで自分の出生を調べたいって単独行動したホシも悪いんだからね?せっかくパスポートまで作ってやったのに」
「さーせん」
「分かれば良い「いやいいのかよ」
恙無くエレベーターが地上一階に到着し、無音で扉がゆっくりと開いた。
やっぱりだった、装備に身を固めた警備兵が待機していた。
「動くな!」
「……………」
両手を万歳して降伏の態度を取る。このジェスチャーは案外どのテンペスト・シリンダーでも共通のようで、とくに乱暴されることなく僕はすんなりと捕まった。
「……………」
エレベーター前から連れ去られて行く時、僕のことをあんぐりと口を開けて見ている少女...男の子?どっちだ?とにかく、子供がいた。その子の手には使い古されたタブレットが握られ、ぱんぱんに膨らんだバックパックを背中に背負っていた。
なんか良く分かんなかったけど、僕はその子に声をかけた。
「良い旅を──「誰が喋って良いと言った!」
「……………」
揉み上げを耳にかけた、少女のようで男の子っぽい子供が、口を開けたまま僕に向かって小さく手を振ってくれた。
*
「いや〜さっき変な人に、良い旅を、って言われちゃった。あ、僕はクルル・クルカン・クラカンタ、この部隊で一番の最年少じゃないかな?とりあえずよろしくね」
「よ、よろしく…え?明日からって聞いてたんだけど…」
「ああ、向こうに居ても暇だったから今日来ちゃった、別に問題ないでしょ?」
「た、たぶん…?あ、私は「イーオン・ユリア・メリアでしょ?僕たちの部隊のエースパイロットって聞いてるよ。よろしくね〜」
「よ、よろしく…」
な、何なんだ、急に。
どうやらシャトルシップの騒ぎは収まったらしい、ブリッジルームで船内ステータスを確認している時にこの子が突然入って来たのだ。
髪はセミロングの黒色、左側の揉み上げを耳にかけ、その逆の揉み上げはメタリックなテクスチャを添付している。
身長は私より少しだけ低く、赤のキャミソールに紺のオーバーオールを着用している。足の裾を膝上まで捲り、灰のレギンスを履いていた。
名前をクルル・クルカン・クラカンタという、私たちの部隊で船の修理、操縦を担当する秀才、と聞いている。
クルルがタブレットとバックパックを手近の椅子に置き、私が見ていたコンソールを隣から覗き込んできた。
「何かあった?」
「ううん、とくにすることもなかったから確認してただけだよ」
ふ〜んと言いつつ、クルルはコンソールをじっと見ている。その横顔はまだあどけなさが残っており、かと言って子供のそれではない。滑らかな肌は未だ汚れを知らず、けれどその瞳は大人の事情をわきまえているものだった。
クルルがくりっとこちらを見る、視線と視線がぶつかった。
「なに?」
「あ、ううん、なんでも…」
また、ふ〜んと言いながら屈めていた体を起こし、左側の揉み上げを耳にかけた。
「君ってさ、今期の主席だったんでしょ?」
「……………」
クルルの瞳に宿っているのは純粋な好奇心、そんな人がこんな所にいるのが不思議で仕方がない、と目が物語っていた。
「どうして新設の部隊にやって来たの?僕たちが初の派遣調査隊なのは知ってるよね?」
「そ、それは…」
ぐいぐいと来る、はっきりと言って苦手な部類だ。
本人もその自覚はあったのか、瞳に宿らせていた好奇心を消し、「ごめん」と謝ってきた。
「言いたくない事だったよね」
「いや…どうして?」
どうして分かったのか、と訊ねると、「顔に書いてあったよ」と言ってくれた。
「えっ…」
「自覚なかった?まあいいけど。ごめんね、もう無理やり聞き出したりしないから」
──ちょっとムカついた、その余裕ある態度に。
「ううん。──私はね、本当は「──うん?」
せっかく言おうと思ったのに、また新しい人がやって来た。ブリッジルームの扉が音もなく開く、入って来たのは長い長い髪を一本に束ねている人だった。
「初めまして──話の途中でしたか?」
亜麻色の髪はティアマトのよう、細長い目つきは大人のそれを思わせ、胸の膨らみが露出した白いワンピースを着用し、赤色のジップパーカーを肩からかけていた。
きっと女性だ、そして私より歳上だろう。
名前をサラン・ユスカリア・ターニャという。
「僕はクルル・クルカン・クラカンタ、この船の設備兼操縦士担当だよ、よろしくね」
私も椅子から立ち上がり、サランの前に立った。
*
「イーオン・ユリア・メリアです、本部隊のパイロットを務めます、よろしくお願い致します」
そう言って、私の前で胸に手を当てて敬礼をしてみせたのは、イーオンと名乗るパイロットだった。
中途半端、それがこの子の第一印象。
「初めまして」
髪はクルルと名乗った子供と同じ黒色、揉み上げを丁寧に伸ばし、襟足はぴょんぴょんと跳ねさせている。
服装は薄手の白いシャツに航空パイロットが良く身に付けるオリーブ色のブルゾン、下は何とも味気ないジーパンだ。
胸の膨らみは子供のそれを思わせる、きっと私より歳下だろう。
この二人は何やら話をしていた様子だ、どうやら私が邪魔をしてしまったらしい。
イーオンが私に訊ねた。
「ええと…乗艦は明日からだと聞いていたのですが…」
「予定がね、早まったのよ。今から乗艦手続きを済ませて私の方から指揮官には連絡を入れるわ、だから安心して」
そう言うと、クルルが「あ、忘れてた」と口にした。
「話はもういいの?私が邪魔してしまったみたいだけど」
何がそんなに辛いのか、眉を曇らせたままのイーオンが「大したことではありません」と言い、私たちの乗艦手続きを手伝うと言った。
「ありがとう」
「ありがとう〜健康診断だっけ?」
「うん、メディカルチェックと船内システムの生体認識登録を済ませるの、あとは報告するだけ」
別に歳上が苦手というわけではないらしい、クルルと話をしていてもこの子の眉は一向に戻らない。
私が先にブリッジルームを後にし、二人がその後に続いた。
心の中で大きく溜め息を吐く。
(は〜〜〜どうして私がこんな所に…別にここじゃなくても──いや、任務のためだもの、仕方がない…)
ブリッジルームを出てすぐ、この船一番のフロアに下りられる螺旋階段がある。階段を下りた先にあるフロアからそれぞれ居住スペース、レストスペース、パブリックスペース、ハンガースペースへ行くことができる。健康診断を受ける医療ルームはパブリックにあった。
螺旋階段を下り、フロアに到着した。およそ軍の船とは思えない、柔らかな絨毯が床一面に敷き詰められていた。
パブリックスペースへ向かう途中、イーオンも私と同じ事を考えていたのか、「この船って軍籍っぽくないよね」とクルルに話を振っていた。
クルルはどこか自慢げに答えていた。
「そりゃあね、ミトコンドリア専用に開発された船だもの、他の飛行艦とは訳が違うのだよ」
「何それ」と、どこか偉そうに話すクルルをイーオンがくすりと笑った。でも...
(その辛そうな顔はなに?)
パブリックスペースへ続く扉の横には、この船に唯一配備されている機体のハンガーへ行くことができる扉がある。
私はこの船に一人だけ配属されたパイロットを見やった。
「……………」
誰と話をしていても辛そうに眉を曇らせていたのに、ハンガースペースの扉を見やるイーオンの顔は──。
「私たちのことはいいから、機体のステータスチェックをしてきたら?」
「──あ、はい!」
──とても嬉しそうに綻んでいた。
*
不正乗船をしていた客にまんまと出し抜かれ、恥ずかしい思いをしてしまった。
(あれが…)
その客は線が細く、けれど体格が引き締まった人間だった。私から遁走していた時も無駄な力が入っていない、様になっているフォームをしており、おやと訝しんだ時には、あの子と同じ部隊であるサランという人に「あの人だよ!」と指摘されてしまった。
警備兵に連行されて行く客の見た目は男性だ、私から逃げる時はあんなに必死だったのに、今は借りてきた猫のように大人しい。
エレベーターホールの端で連行されていく様を眺めていると、このホールの警備を預かる班長が私の元へやって来た。
「ご協力感謝致します」
「私は何もしていませんよ、出し抜かれて恥をかいただけです」
警備班長がふふっと微笑む。
「アルターさんも失敗する時があるのですね、在学中に知っていたらきっと大笑いしていましたよ」
警備班長もアカデミー卒の生徒だ、私が講義を預かることはなかったが、どうやら私はアカデミー内でも有名らしい。
「今笑ったでしょうに。──失礼ですが、今の客は…」
バイザーに隠れた警備班長の顔が曇った。
「ええ、どうやら不法入国した輩の一味だそうです、軍からも注意喚起と発見次第即座に捕縛せよとお達しがこっちにまで来ています」
「そうですか…彼らの狙いは?何故不法入国を?」
「そこまでは知らされておりません」
「この大事な時にリガメルに現れたのは…」
「それも分かっておりません、ただの偶然か、それとも新設の部隊を狙っていたのか…」
「全く…嘆かわしい、大事な生徒が明日出立するというのに…」
どこからか連絡が入った警備班長が「失礼します」と詫びを入れ、あとは私の元から素早く離れて行った。
不正乗船の騒ぎにエレベーターホールもちょっとした騒ぎになっている、その喧騒を疎ましく思いながら出入り口を目指した。
早速騒ぎを聞きつけたメディア関係者の無遠慮なインタビューを断りつつ、私もエレベーターホールを出る。自動扉が閉めると同時に喧騒もシャットアウトし、変わりに上空を走るエンジン音が届いてきた。
「…………」
空を見上げて確認する、練習機が三機、先頭が教官機、後ろ二機は候補生が搭乗している物だ。
先程別れたばかりの卒業生を思う。
(イーオン、あなたは不服に思っていることでしょう…それほどまでに優秀で立派なパイロットでした)
こんな事は初めてである。
あの子のパイロットとしての腕は突出していた、あの子の前を飛んでいた時、この私ですら肝を冷やす場面があった。
導歌曲芸飛行部隊への配属は確定していた、しかし、卒業式の前日になって突如バベルが判定を覆したのだ。
あの子のみならず、私たちアカデミー側も大いに慌てた。何かの間違いに思われ、再三に渡って判定の再審を打診するも、バベルは三度に渡ってあの子の配属を新設部隊であるミトコンドリアだと断定した。
配属先の変更を伝えた時のあの子の顔、今でもこの目に焼き付いている。
だからどうしたって、無視することができなかった。
エレベーターホール前の階段を下りてターミナルへ向かう、初春らしい暖かで爽やかな風が舞い、街路樹の葉と私の顔を撫でていった。
連絡が入った、網膜モニターにパイロット科の学長を務めるキャメルの顔が映し出される。
「アルター、機体トラブルだ、五分後に戻って来る、すまないが対応に当たってくれ」
「分かりました」
「あー…あの子の様子は?」
学長も私の行き先を知っている、この人もイーオンの心配をしているのだ。
「変わりません、あの子の飛行機雲のように真っ直ぐだった眉は今でも曇ったままです」
「そうか…」
「すぐに向かいます」
「頼む。今、軍の関係者がうちに来ていてね、その対応をしなければならないんだ。詳しい内容はこっちに戻って来た時にまた話す」
「分かりました」
通信を切ったと同時にターミナルも抜ける、宇宙港の駐車場を目指している時、ちょうど真上を先程の三機編成が通り過ぎたところだった。
(全く…あれほどチェックを怠るなと注意したのに…)
候補生が乗る機体の一つから黒煙が上っている、エンジントラブルだ。
学校所有の車に乗り込み、整備カリキュラムを頭の中で検分しながら、エンジンをかけた。
*
「あ、ねえねえ、さっき言ってた変な人、捕まったって」
診断を終えたと同時にクルルにそう話しかけられ、答えに窮してしまった。
「え、なに?変な人?何の話?」
「ああごめんごめん、僕さっきね、エレベーター前で警備の人に連行されていく変な人に、良い旅をって声をかけられちゃったんだ」
「そ、そうなの──それってもしかして…」
私がベッドから体を起こすと、クルルは医療ジェルで汚れるのも厭わず、もう既にキャミソールを着ていた。
体にまとわりついたジェルを落としながら、「それってベリーショートの細い人だった?」と訊ねた、クルルが顔だけこっちに向けてきた。
「そう!何で知ってるの?」
「私もその人と同じ船に乗ってたの、パスポートを持ってなかったみたいでね、どうやって乗船したんだって乗務員に訊かれた時に急に立ち上がって」
「へ〜すごい偶然」
「何事もなくて良かったわ、ほんと、その人駆けつけたアカデミーの教官に嘘を吐いて逃げ出して、私があの人ですって教えてあげたのよ」
「そうなの?僕が見た時はすごく大人しかったけど…」
「まあ、なんでもいいじゃない?皆んな無事だったんだから」
「それもそうだね」
オーバーオールを着込み、胸元を隠してからようやくクルルが体ごとこっちに向けてきた。
私は服を汚したくなかったのでベッドで丁寧にジェルを落としている。鎖骨の隙間や脇、胸の下辺りに付いていたジェルはまだ乾いていなかったようで、べっとりとした感触があった。
クルルも手伝ってくれた。この子の小さな手が私の下半身をくまなく行き来し、生乾きのジェルをすくってくれた。
「ねえ、イーオンって人なんだけど…」
内腿に付いていたジェルをすくった時だ、クルルがそう話しかけてきた。
「ここの配属が嫌なのかな?」
「どうしてそう思うの?」ううん、私もそう思う、この子の手の感触が心地よかったので会話を引き延ばしただけだ。
「だってずっと嫌そうな顔してるじゃん、僕と話してる時も、サランと話してる時も。けど、「けど、ハンガーへ行く時はとても嬉しそうにしていた。でしょ?」
ああやっぱり気付いてたんだとクルルが言い、私の足から手を離した。手伝ってくれてありがとう。
「そうそう。それでさ、僕のアカデミーでもイーオンって有名だったんだよ。合同のアカデミー祭の時もイーオンが曲芸飛行テストで満点を叩き出してさ」
「そうなの?」
「何かあったのかな?そんなすごい卒業生がディヴァレッサーじゃなくてこんな所に来るんだもん」
クルルがベッドに腰を下ろし、私も下着姿のままその隣に座った。できれば服を着る前にシャワーでジェルを落とし切りたい、なんかお尻の辺りがまだべちょついている。
「そういう君だって、サマルカンドアカデミーで随一の頭脳を持つんでしょ?残ってるカリキュラムを無視して、卒業資格も取り消しにしてミトコンドリアへやって来た」
「まあね〜」
足をぶらぶらさせている、いかにも子供っぽい、けれどその瞳は「これ以上踏み込むな」と雄弁に物語っていた。
変な子、それが第一印象。
「皆んな訳ありって事で、それは一重に優秀な人材がここに集まったって事でもある」
「ま、年長者のサランがそう言うんなら下手に踏み込んだりしませんよ」
「そうね」
それだけを言い、自分の服を手にしてシャワールームへ向かった。
◇
シャワーを浴びてすっきりした後、船内の認証登録を済ませ、ミトコンドリアの指揮を務める少佐に一日早い乗艦手続きの一報を入れた。とくに何かを言われたわけではなかった、ただ「ご苦労」とだけ。
時刻は薄暮、ここはうんと高い、まだまだ青い空の端っこから、赤く染まりつつある空模様を眺めることができた。
明日のブリーフィングまでまだまだ時間はあり、とくにお腹を空かせているわけでもなかったので、私はハンガールームへ足を運ぶことにした。
とくに理由があったわけではない、終始曇り空の陰気なパイロットの様子を確認したいわけではなかった。
とくに理由があったわけではない。
ただ、こういった行動が自分の人生に大きな影響を与えることもある。
イーオンはハンガーに収まっている機体を見上げていた。自分だけの機体、あの機体に搭乗できるのはイーオンだけだ。
とくに理由があったわけではない、真剣に機体を見上げるイーオンに声をかけようと思った。別に、そのまま引き返してもよかったのだけれど。
とくに、理由があったわけではない。
「イーオン、私たちも手続きを─「なに?」
別人かと思った。曇り空だった顔は今や嵐のよう、とても険しく、こちらに敵意を剥き出しにしていた。
──この時私がどんな顔をしていたのか、知る由もないが、きっと微笑んでいたに違いない。
「──邪魔した?」
「だからなに?何か用事があって来たんでしょ?」
イーオンの顔つきがみるみる険しくなる、声音もまるで機関銃のようにこちらを囃し立てるものだ。
それがとても──私にとって、とても面白かった。この子は一人の時間を邪魔されたことに強い怒りを覚えているのだ。
「ただ声をかけに来ただけ。──良かったね、自分だけの機体が持てて」
「はあ?」
「だってそうでしょう?ランデブーの役割はイーオンにしかできないし、その役割はこの機体にしかできない。任務中、あなた以外がこの機体に乗ることはない、だから、言わばこれはイーオン専用機。嬉しくないはずがないでしょ?」
かんかんとブーツが床を叩く音がする、リズム良く、澱みなく、真っ直ぐに。
私の傍に一目散でやって来たイーオンが胸ぐらを掴んできた。下着にもジェルが付いていたので今は洗濯中だ、何の支えもない胸がイーオンによって持ち上げられ、痛んだ。
イーオンが叫んだ。
「嬉しいわけないでしょ!!私はディヴァレッサーになりたかったのに!!」
ああ、何だろうこの気持ち、とても楽しい。
「だからあんな辛気臭い顔をしていたの?」
「だったら──「私だってディーヴァを目指していた、教育機関の入学だって決まっていたのに直前になってここへ来るよう言われた。あなたと一緒、でも私はあなたみたいに不貞腐れていないよ?」
子供っぽい、返す言葉を失い掴んだ胸ぐらをぐわんぐわんと振り回すだけだ。無防備になっている胸に服が擦れ、さらに痛んだ。
でも、その痛さも気にならなかった。
今のイーオンを支配しているのは激情、激しい感情、理性で抑えつけられない生き物としての性。怒り、悲しみ、妬み、そういった感情は普段胸の奥底で静かに息づいているだけだ。
その感情を引っ張り出すのがディーヴァの務め、これは容易なことではない、誰しもができるものではない。
けれど、イーオンが簡単に見せてくれた。
心踊る。踊ってこそディーヴァ。
「何がそんなにおかしいの…?」
イーオンに指摘されて、ようやく自分の顔が微笑みから笑顔へ変わっていることに気付いた。
「あんた、すごく変だよ…」
「そう?そういうあなたも十分変だと思うよ」
「このドSがっ」
「ふふっ、何それ、言うに事欠いてそんな下品なことしか言えないの?」
イーオンが手を離し、その場で地団駄を踏みながら「もう何なんだよ!!」と叫んだ。
面白い面白い面白い、なにこの子。
感情の箍が外れ、激情を消費したのだろう、イーオンが徐々に大人しくなり、冷たい鋼鉄製の床にも関わらずその場にしゃがみ込んだ。
私も少し距離を空けて隣に座った。下着とワンピースだけだ、お尻がとても冷たかった。
「出て行けって言わないのね、私だったら遠慮なく言うけど」
「言っても出て行かないでしょ、何言ってんの」
「私ね、さっきあなたが見せたように色んな人の色んな顔を引き出したいの、だからディーヴァを目指していた。イーオンは?どうしてディヴァレッサーになりたかったの?」
イーオンが疲れた顔を上向け、機体を見上げた。その横顔は曇り空でも嵐でもなく、そう、今まさに沈んでいこうとする太陽のように静かだった。
「小さな頃にね、街の上を駆け抜ける流れ星を見たことがあったんだ。とても綺麗だった、その時は綺麗な物を見れたと喜んだだけだったんだけど、あとからあの星が実は機体だったってことが分かって、私もあんな風に空を飛べたらって考えるようになって…いつしか人生になってた」
「セブンス・マザー、よね。私も見てたよ、小さな頃、ずっと見てた、とても綺麗だった…」
「うん、すごく綺麗だった…」
イーオンはもう機体を見上げていない、抱えた膝頭に顎を乗せ、冷たい床に視線を落としている。
きっと、あの七色の極星を思い出しているのだろう。
とくに謝る理由もなかったので、私はそんなイーオンに声をかけることなくその場を後にした。
◇
翌日。
「あ、サランさん、今からブリーフィングが始まるそうです。あとの二人はその時に合流するみたいですよ」
(────は?)
え、なにその他人行儀...昨日はあんな事があったのに...?嘘でしょ、信じられない...
イーオンだ、昨日見せた顔模様はまるでない、初めて見せた時と同じ曇り空に戻っていた。
馬鹿にされているのかと思った、感情を引き出す私たちディーヴァを根底から否定し揶揄っているかのよう。
何も変わっていないイーオンが、ブリーフィングルームがあるパブリックスペースへ入っていった。
──きっと、この時から私はイーオンに強い興味を持ったのだろう。