BONUS TRACK 4
生徒指導ゞ以降のお話、時系列としては一番最新の物です。
レイア・サーストンについて
学校という所は子供に対して何かと課題を課すところがある。
例えば宿題。期日を決め、その期日内に終わらせるようにと毎日のように課す。
例えば人間関係。友達は大切にとか、先生の言う事はきちんと聞くようにとか、こっちの事情に構うことなく、円満な関係を構築するように課題を課してくる。
それに何の意味がある?期日内に課題を終わらせることのどこが学力向上に繋がるのか。
それに何の意味がある?嫌いな相手に愛想笑いを浮かべて築いた関係は、果たして自分にとって良いものなのか。
私はこう考える。
子供に対して"課す"というのは、煎ずるところ大人たちの都合でしかないという事だ。
課題を違う日にそれぞれ提出されたら先生だって管理が大変だ、だから期日内に出せと言う。
生徒たちがあっちこっちで喧嘩していたら大変だ、だから仲良くしなさいと言う。
そして、それらの指示を円満に行き渡らせるために先生は「大人の言う事を聞きなさい」と言う。
実にあっぱれ、この世は大人たちの都合で見事に作りあげられ、子供たちの自主性は檻の中に閉じ込められている。
──という話を、今から出かけようとしていた母に言った。
「それ今言う?」
「うん」
「今から出かけるところなんだけど」
「見れば分かる」
母は面倒臭そうに眉を寄せている。
「いやあんたが学校の課題をやりたくないって気持ちは十分に伝わったけど、それ今言うの?」
別にこの話をしたくて玄関先にいる母を呼び止めたわけではない。
「どこに行くの?」
母はこの暑い時期になると、一人でふらっと姿を消すことがある。ふらっと消えてすぐに帰ってくることもあれば、数日家を空けることもある。
気になっていた私はどうでも良い(学校の課題なのでどうでも良くはないが)話を持ち出して、母の足を止めたのである。
母が答えた。
「あんたも来る?」
その返事は意外だった。そして、出かける内容をここでは言わない事に対して強い興味が湧いた。
「行く」
「なら準備してきて、ここで待ってるから」
私は階段を駆け上がって自室へ急ぎ、適当なアウターを羽織ってすぐに踵を返す。
夕方になると真っ暗になる廊下を急いで渡り、踏み外さないよう注意しながら階段を下りる。家が建っている位置の問題なのか、この時間帯は廊下が真っ暗になり階段は逆に真っ赤になる。目がチカチカする。
急いで支度を済ませて玄関先に戻ると、母は携帯を触りながら待ってくれていた。
「じゅ、準備できた、よ」
「なんでそんなに急ぐのよ」
「いや、置いてけぼりにされないかと心配で」
「そんな事しない。──着いたら分かるわ、私が一人で出かけていた理由がね」
その理由は決して明るいものではなかった。
亡くなった親友を偲ぶためだった。
その場所は自宅から少し離れているひっそりとした砂浜だった。釣りに適しているわけでもなければ、遊びに適しているわけでもない、誰もが知っている場所だが誰も相手にしない、そんな場所だ。
母と並んで砂浜に腰を下ろして、何を喋るでもなく二人で赤い海を見つめる。
潮騒が耳に馴染んできたころ、ここに来るまで終始無言だった母が口を開いた。
「アネラと言ってね、ここで小さな頃から一緒に過ごしていた友達なの。マカナって分かるわよね?」
「あの面倒臭いおばさんでしょ」
面倒臭いって言うなと母が小言を言いつつ、
「私とマカナ、そしてアネラの三人、ずっと一緒だったのよ。けれど、私の不注意で彼女を死なせてしまってね、心の整理をするためにも毎年この時期になったら一人で海へ行くようにしているの」
「不注意で死なせたって…」
──ああ、"スカイダンサー"と呼ばれていた時代の話だろうか。その手の話題は学校で毎日のように聞かされるので、こっちとしてはうんざりしているのだが...
ずっと無言で少しだけ怖かった母は海を見つめており、私のことを見ようとしない。その横顔は確かに母のものだが、知らない人のようにも見えた。
母が私と違う所にいる、その距離は決して縮められるものではなく、その事に気付いた私はひどく寂しい思いに駆られた。
「あんたには分からないし、分からせるつもりもない」
「…………」
「そのために今日まであれこれやってきたんだしね。──いやあ〜二足の草鞋ってほんと疲れるわ、会議に参加して法案をまとめて、船をいじって修理して、どうしてこうなった私の毎日」
母がわざとらしくそう言った、きっと私を気遣ってくれたのだろう。
けれどその気遣いは無用だ、今は少しでもいいからこの見えない距離を縮めたかった。
「大切な人だったんだね」
今はこれだけを言うのが精一杯だ、私も歳と経験を重ねればもっと色んな事が言えるようになるだろう。
母が答えた。
「そうね、大切な人だったよ」
「どうしてママを誘わないの?ママも毎年この時期になったらお母さんが浮気するようになるって、家でいつも愚痴こぼしてるよ」
母が立ち上がり、お尻に付いた砂をぱんぱんと払った。
そしてこう言った。
「あんたもこの歳になれば分かるわよ、誰だって一人になりたい時があるの」
「ふ〜ん…」
立ち上がった母は真っ赤な太陽を全身に浴びており、そのせいで座っているこの位置からでは顔が良く見えない。
今、母がどんな顔をしているのか、今の私には分からない事だった。
◇
私が通っている学校はセレン島の最北端に位置し、私が住んでいる家はセレン島の最南端に位置している。ちょうど真逆。
登校時間は水上バイクで半時間ほど、まあまあな距離であり、私は毎日母かママの運転で学校へ通っている。
高校生になったら一人で運転できるようになる、というかセレン島に高等学校がないので必然的に取る必要があり、ハワイかホノルルで一人暮らしをしなければならない。
(早く一人暮らししたい)
母とお出かけした翌る日の朝、リビングではいつもの喧嘩─という名のいちゃつき─が起こっており、私は下りるに下りられなかった。
喧嘩の原因は昨日のお出かけだ、私がママに口添えしてしまったのがいけなかったらしい。「どうして私だけ!」とプリプリし始め、その喧嘩が日を跨いで今日まで続いている。
この喧嘩から離れられるのは正直言って嬉しい、年甲斐もなく子供の前でいちゃいちゃするのはほんと止めてほしい。
まあ、喧嘩の火種は私のせいでもあるわけだから、止めに行く責任がある。わざとらしくふうと大きく息を吐き、ささっと身支度を整えてから一階へ下りた。
廊下からリビングを覗き込むと...
「準備できたよー!!」
「っ!」
「っ」
キッチンの向こう側、廊下から見えにくい位置で二人向かい合って顔を近付けている。何をしているのか明白だ。
私が声をかけると二人とも肩をぴくりと震わせ、慌てて体を離している。そして、それから何事もなかったように「おはよう」と言い、二人とも身支度を始めた。
ほぼ毎日これだ、二人のいちゃいちゃを見ない一週間は無いと断言していい。
私もママと同じようにプリプリしながら玄関で待っていると、お母さんが先に現れた。そしてこう言った。
「悪いけど今日はママに送ってもらって」
「え〜どうして〜?」
「今日はハワイへ行かなきゃいけないの、あっちの仕事も大詰めでね。帰りは私が迎えに行くから」
「え〜〜〜」
さっきはキスなんかしていたくせに、ぱぱっと身支度を済ませたかと思えばさっさと家から出て行ってしまった。
それから少し遅れてママがやってきた。
「レイア〜?そんなにママの運転が嫌なの?」
私の不満の「え〜〜〜」が耳に入ったのだろう、お母さんもちょっとプリプリしていた。
「別にそういうわけじゃ…」
うん嫌、すごく嫌、ママの運転はド下手だ。
それになんだその格好は、フルフェイスのヘルメットにガッチガチのライダースーツ...
「ママ、そんな格好で運転するの?」
「そりゃそうでしょ、事故に遭ったらどうするのよ」
「ママが事故る前に私が事故になっちゃう」
「それどういう意味?!」
「それ絶対運転し辛いって、運転したことない私でも分かるよ」
「いいから早く乗る!学校へ行く!」
「はいはい」
乗るか、仕方がない。
ママと一緒に家を後にする、暑い日差しがびゅやっ!と押し寄せ、私の眼へ直撃した。
玄関扉を開けた先は全面に海が広がっており、真夏の太陽の日差しをキラキラと反射させている。
家のちょっとした庭を抜けた先には階段があり、その下に私たちだけのプライベートビーチがある、そこには桟橋が設えてあり一台の水上バイクが停められていた。
本当は二台停められているのだが、先に出勤した母が乗っていったのだ。
今日も今日とて日差しが暑い、もう既に汗が出始めシャツがぺったりと肌に張り付いてきた。
階段を下りて水上バイクへ、私はこの時ホワイトウォールを眺める癖があった。
「…………」
きらきらと輝く海の向こう側に空の半分ほどを占めている白い山の群れがある、いつ見ても不思議な光景だ、あの山にも人が住む街が存在しており一つの名所となっている。
見ていて飽きない、けれどサーストン家では『ホワイトウォール』という単語は禁句だ、その言葉を聞くとママが勝手に母との馴れ初めを話し始めるからだ。
一人で景色を堪能した後、覚束ない手で水上バイクの準備を整えたママの後ろ側に腰を下ろした。
「安全運転でね」
「ママがいつ危険な運転をしたの?ちゃんと掴まって」
「いや無理だよ、太陽でもう熱々だもん」
「ああそういう事か。──それじゃあ行くわよ」
「え?何がそういう事なの?全然分かって──」
危うくシートから転げ落ちそうになってしまうほど、ママが急加速を行なった。もうこれは熱いと言っていられないと肚を括り、太陽光で熱々になったママの体にしがみついた。
(熱い!)
ママは一旦ぐるりと旋回し、ホワイトウォールを右手に眺めながら家を通り過ぎ、学校へ向かういつものコースに入った。
"コース"と言っても道があるわけではなく、何も無い海の上をただ行くだけである。左手には水没したりしていなかったりの島があり、右手にはハワイへ続く大海原が広がっている。
もう少し先に行けばブイが浮かんでいる。道を指し示したり、あるいは所有地を示すものであったり、あるいははた迷惑な広告だったりする。
それから等間隔に信号ドローンの詰め木が設置されており、大型の船が真近を通る際は自動でスパッ!と飛んできて交通整理を行なう。
安定しない速度で危なかっしい運転を続けるママに訊いてみた。
「ねえ、どうしてつめぎって言うの?」
「ちょっと今運転に集中してるから後にして!」
「集中しててこれなの?」
「…………」
本当に集中しているらしい、無言が返ってきた。
ちょうど信号ドローンの詰め木が左手に見えてきた、高さは海面から露出している部分だけで五メートルぐらいの高さがあり、確かに木の枝に見える箇所に複数の信号ドローンが止まっていた。
ママはその隣を猛スピードで駆け抜ける、あの信号ドローンは取り締まりの役目も兼ねているから...
「ママ、スピード出し過ぎ、ドローンが出てきたよ」
「──え?ああ、本当だ、ちょっと出てるわね」
てんとう虫のような形をしているドローンがスパッ!と出てきたが、ママが速度を落とした途端詰め木へ戻っていた。
(お母さんは一度もこういう事がなかったのに…)
信号ドローンの詰め木を通り過ぎると、次第にブイがその姿を見せ始める。ブイが姿を見せるという事は、海の上を行く人が増えるという事であり、徐々に他の水上バイクも視界に入るようになってきた。
私と同じように登校する人や、会社へ向かう人、中には小型の船もあり、段々と海が騒がしくなってくる。
大昔は"道路"があったらしい、きちんと整理された道を利用する人がルールを守って事故を防ぐ、けれどセレン島に道路は無い、皆んな思うがままに水上バイクを操縦して行きたい所へ向かう。
だから"ブイ"が設置され、時に応じて信号ドローンが交通整理を行なう。
それは言わば、事故に遭うリスクが高いということであり──
「ママ」
「…………」
「え?ママ?あの水上バイクが見えないの?」
「──え?なに?」
「危ない!!」
声をかけたのがいけなかったのか、右手から直進してくる水上バイクがいるにも関わらず、ママがこちらをくるりと振り返った。
私は咄嗟に腕を伸ばしてハンドルを無理やり捻った、その反動で体が左側へ大きくぶれて危うく落ちかけた。
向こうも向こうで慌ててハンドルを捻ったのだろう、恐れていた衝突は起こらず、水上バイクが蛇行したまま大海原へ向かって進んでいく。
間一髪だった。
◇
「もう!もうったらもう!本当に危なかったんだから!」
「ごめんごめん、ハンドルに集中しててちゃんと見えていなかったわ」
「だからそのヘルメットは危ないって言ったでしょ!前から他のバイクが来ることって滅多にないんだから!」
「分かった分かった、早く教室へ行きなさい」
「本当に分かってる?!」
「帰りはお母さんが迎えに来るから安心しなさい」
「もう!全然話聞いてないじゃん!」
本当に分かっているのか〜?これだけ怒っているのに当の本人はずっとニヤニヤ、こっちの話を聞かずにさっさとバイザーを下ろして桟橋から去って行った。もう!
校海前の桟橋から昇降口を目指す、時間帯もあって他の生徒の姿も沢山だ。
信号ドローンの詰め木と同じように、枝葉のように延びる桟橋を半分くらい渡った時、後ろから声をかけられた。
「おはよう」
クラスメイトのエイミーだ、ショートの赤い髪が日光で輝いている。
「おはよ…」
「何かあったの?朝から不機嫌そうだけど」
「いやそれがさ〜」と、先ほどあった事をエイミーに話す。彼女はくすくすと笑いながら聞いてくれた。
「そんなに下手なんだね」
「もうすんごい下手、絶対私の方が上手だよ、まだ免許持ってないけど」
「持ってないのになんでそんな事が言えるの?」と、エイミーが微笑む。
彼女はきっと上品なお家に育ったのだろう、私んとこみたいにしょっちゅうキスするような両親ではなく、きちんと教育し、きちんとした態度を取る大人の元で、でなければこんな微笑みはできない。
それに彼女は──「ねえねえ!さっきのレイアさんのお母さんだよね?!」
私とエイミーの間に一人の生徒が割って入ってきた、この子もクラスメイトだ。
まだまだ話したいことがあったのに邪魔された私はつっけんどんに返事を返した。
「そうだけど?」
「すごく綺麗だった〜!いいな〜、私もああいうお母さんがいい!」
「そう?別に普通だけど」
「そんなことないよ〜!」と、何がそんなに嬉しいのかハイテンションで喋り続ける。
「綺麗で真っ白い髪に綺麗な瞳!それに身長だって高いし、手足も細くて長いし!ほら、私なんてこんなんだよ」
「普通なんじゃない?」
「その普通が嫌なの!」
「普通が一番だよ、普通が」
「そんな事ないって〜!」とさらに喋り続ける。ウザ。
三人横並びで昇降口に入る。建てられたばかりの学校のくせに、何かと年季が入っている下駄箱の蓋を開けて自分の上履きを取り出す、その時、別の生徒に声をかけられた。
「レイア!今日はスカイダンサーじゃないのか?!」
「だったら何なの?」
「いつもはスカイダンサーが来るじゃん!今日はどうして違うんだよ!」
「知らないよ、ハワイへ行く用事があるって言ってたよ」
「え?それってついに軍隊が復活するって事か?!」
「は〜?何その話」
この子もクラスメイト、私の母、というより伝説のスカイダンサーに首ったけの男の子である。
生意気そうなその男の子が、やっぱり生意気そうに「そんな事も知らないのか〜?」と言ってきた。ウザ。
「スカイダンサーが空を飛ぶために軍隊を復活させるって話だよ!昔は自由に自分たちの空を飛び回ってたんだろ?それが今じゃオリジンの奴らに取られて、それを取り返そうって話らしいじゃんか!」
「そんな訳ないでしょ、そもそもお母さんが軍隊を解体したのに、なんでその本人が復活させるの」
「だったら何の為にハワイへ行くんだよ、今は俺の両親と同じ所で働いてるんだろ?」
母はもう行政の仕事に携わっていない、それなのに何故ハワイへ行くのか、その理由を知らなかった私は黙らざるを得なかった。
「…………」
「それみろ!自分の子供にも言えないふか〜い事情があるって事なんだろ?!絶対軍隊を復活させるんだって!」
「──それ以上勝手な事を言うんならまた携帯投げるよ?」
「…………」
「こら、レイア、脅したら駄目だよ」
「なんでさあ!私が悪いの?でたらめ言うこいつが悪いんじゃん!」
「お前本当にスカイダンサーの子供かよ、海の中から勝手に拾われたんじゃねえ?」
ま、その後のことはよく覚えてないよね、気が付いた時にはそいつの髪の毛を鷲掴みにしており、私もそいつに髪の毛を鷲掴みにされていた。
◇
ウザい、ウザい、ウザい、私の周りはエイミーを除いてあんな奴ばかりだ。
口を開けばママがどうだのスカイダンサーだのと、そんな事ばかりだ。
誰も私に関心を寄せない、私に近寄ってくる子は皆んな両親の話をする。
そんな中でもエイミーだけは特別だ、両親の話をすることもあるけど、きちんと私の話を聞いてくれるし、一人の友人として扱ってくれる。
今日は朝から嫌な事ばかりだ。
「来週から皆んなにはハワイへ行ってお仕事を経験してもらうことになるけど、その課題はちゃんとできたかな?」
(しまったーーー!!!!)
あ〜ヤバい忘れてた...
男の子と喧嘩を繰り広げ、たまたま通りかかった先生に「めっ!」された後のホームルームで私は頭を抱えていた。
課題、忘れていたよ君の事...昨日はお母さんと秘密のお出かけをしたし...帰ってからするのも面倒だったのでエイミーに見せてもらおうと思っていたけど...
少し離れているエイミーに視線を送る、彼女は私の視線に気付いてくれた、必死になって拝む(すごい今更だが)、彼女は無慈悲にも首を横に振った。
(え〜そんな〜!)
彼女は私を一人の友人として扱ってくれるが、決して甘やかしてはくれない。無情。
「ホームルームが終わったら提出するように。課題を忘れた人はいるかな?」
おそるおそる手を挙げる。仕方がない。
「課題はやった?」
「やりました、けれど家に忘れてきました」嘘だけど。
「なら、覚えている範囲で構わないから今日中に書いてもらえる?」
「今日中に書かないといけない理由は?」
「期日だからね。それに課題は一週間も前から君たちに渡しているよ、できないはずがない、そんな難しいものでもないからね」
ほらきた、期日だよ、このご都合主義め。
「まさか、本当はやってないとか?」
「いえ、やりました」
「なら書けるよね?」
「はい…」
私たちのクラスを担当する先生は柔和な笑みを絶やさない優しい人だ、だが、口が滅法強くどんな反論でも必ず言い返す人でもある。結果的に優しくない。
先生が課題の提出を命じ、私以外の生徒たちが課題データを送信した。
ホームルームが終わり先生がクラスを出て行った後、私は速攻でエイミーの元へ駆け寄った。
席に着くなり彼女から一言。
「駄目」
「まだ何も言ってないじゃん!」
「課題を見せてほしいって言うつもりなんでしょ?ズルは駄目だよ」
「助けてよ〜ほんと昨日はやろうと思ったんだけど色々あって…」
呆れた顔のままエイミーが言った。
「先生が言った通り難しい物じゃないよ」
そこへあの男の子もやってきた。
「そうだよ、携帯で調べればすぐだぞ?」
「私持ってないもん携帯。──その携帯を貸せ!」
「どうせ動画ばっかり見てるから持たせてもらえないんだろ!──やだよ!また校海に投げられたらたまったもんじゃねえ!」
男の子が携帯を大事そうに胸に抱え、私から距離を空けようとしている。
エイミーが「こら!」と怒りつつ、
「本当に簡単だから、アロンダイトの中でやってる仕事を調べるだけ、それも自分が興味を持てそうな物だけでいいんだよ」
「え?そうなの?」
「お前…目すら通していなかったのか…項目が五つぐらいあってその中から一つ選べばいいんだよ」
「そんなに簡単だったのか。あんたは何を調べたの?」
私が男の子にそう訊ねると、何を勘違いしたのか顔をぱっと赤らめ、「え、なんでそんな事訊くんだよ…」ときょどり始める。
「え、どうせ選んだ所に見学へ行かされるんでしょ?あんたと同じ所なんて死んでも嫌だもん「──なんだとっ?!「もう、レイア」
「エイミーはどこにしたの?」
「自分で調べなさい、そういうのもよくない」
「え〜今日のエイミー冷た〜い」
「今日のレイアがお子様なだけだよ」
そうこうしている内に次の授業の予鈴が鳴り、自分の席に戻らざるを得なかった。
(もう…ぱぱっと済ませちゃおう)
先生が来るまでまだ時間はある、タブレットに電源を入れて課題用フォルダの『事前アンケート』の項目をタップした。
二人が言った通り、次の四つの項目から興味を持てそうな省庁を選んで調べてこい、と書かれていた。
(五つじゃなくて四つじゃん…)
省庁は次の四つだ。
国内省、国外省、それから国内安全庁、最後に外交安全理事会、以上の四つ。
(最後だけ会じゃん…省庁じゃないじゃん…)
この中から興味を持てそうなものと言われても、さっぱりだ。
タブレットと睨めっこしながらうんうんうなっていると、頭上から先生の声が降り注いできたのでびっくりした。
「レイアさん?先生の話を聞いていましたか?」
「あ…その…」
私たちの担任と違ってキツい感じのする人だ、口調は優しげだが目元が怒ってる。
これは言い訳できないなと思い、素直に白状した。
「課題やってました…」
──本日二度目の叱責である、少し離れた位置であいつがくすくす笑ってるのがとにかくムカついた。
◇
「そりゃ災難だったわね」
「もうほんとだよ、今日はなーんにも良いことなかった…」
「で?結局課題はできたの?」
「ううんまだ、お母さんに色々訊こうと思って。昔はどこで働いてたの?」
「昔の職場の話はしたくないの…思い出しただけで胃が痛む…」
「なんじゃそりゃ」
お母さんの安全かつ軽やかな運転で自宅に帰ってきた、時間はもう夕暮れ、昨日と違って薄い紫色の空が広がっている。
我が家の桟橋に二台の水上バイクが停められていた、一つはママの物、もう一つはお客さんの物だ。
桟橋に到着し、水上バイクから下りてそのお客さん用のバイクをまじまじと眺める。あまり見覚えがない物だ。
「誰か来てるの?」
「ああ、ちょうど良い、その持ち主にアロンダイトについて教えてもらいなさい」
「だから誰なの?」
「面倒臭いおばさん、よ」
え〜〜〜。
本当だった。リビングに入ると、その人がいた。
「レイア〜あんたまた大きくなったんじゃない?前はこ〜んなに小さかったのに〜」
マカナさん、現国王その人。会うたんびに「身長伸びた?」と訊いてくる迷惑な人だ。いい加減にしろ、そんなすぐ伸びるわけないだろ!
「いや、どうかな…あははは…」
愛想笑いが関の山だ。
マカナさんはあんまり国王をやってる感じのしない人だ(お母さんもそうだったけど)、ロングヘアの髪はきちんと手入れされているようだが、着ている服がもうただのシャツとハーフパンツという、買い物がてらにただ寄ってきただけのご近所さんのような格好だった。
そのマカナさんはママと何やらお話をしていたようだ、リビングのテーブルの上にはコーヒーカップと、空になったお菓子用のお皿が乗せられている。
「…………」
「…………」
いつも通り(しつこいとも言う)の挨拶を交わした後、マカナさんは何も言わず、私の両親も何も言わなかった。さっきはこの人にあれこれ聞けと言ったお母さんも、だ。
ああ、これは席を外せという事だな、と空気が読めたので私はリビングから退散し、自室へ引き上げた。
朝、出かける時カーテンを閉め忘れたのだろう、開きっぱなしの窓から夕暮れの光が入り込み、部屋を紫色に染め上げていた。
鞄をベッドの近くへ放り投げ、着ている制服をそのままに私もベッドへダイブする。
(あ、課題やんなきゃ…)
と、思いつつもベッドの上に投げ出したこの体が言う事を聞かない。薄い闇に覆われつつある天井を眺めながら、ベッドに沈んでいこうとする感覚に身を委ねた。
◇
おかしな夢を見た、今まで一度も見たことがない夢。それは小さな虫の大軍である。
蟻かな?黒っぽいし、多分蟻。私はその蟻の行列を上から眺めたり、時には自分自身が蟻のように小さくなってその列に加わったりしていた。
蟻の後ろ姿ってこんな感じか〜、と蟻たちと一緒に無心で歩き続ける、時折りお喋りをしている蟻たちやふざけ合っている蟻たちを横目に見たりしながら、それでも私だけは無心で足を動かし続ける。
そして最後は大きな蟻の死骸を目の当たりにし、あらら、女王様死んじゃったのか、と残念な気持ちになった。
そんな夢だ。そんな夢から覚ましてくれたのがママだった。
「晩御飯できてるわよ。もしかして寝てたの?」
「ああ…うん、ちょっとだけ…」
「今日はマカナも一緒だけど別にいいわよね?」
「うん…別にいい…」
ママはそれだけを言い、部屋の電気を付けたあと一階へ下りていった。
外は薄い紫色から濃い群青色へ変わりつつある、眠っていたのはごく僅か、その僅かな時間で...あれ、何の夢だっけか。
(なんか虫が出てきたような…まあ、なんでもいいか、お腹空いた…)
夢に出てきた虫を思い出すより早く、お腹の虫が鳴ってしまった。その虫をなだめるべく、私は一階へ下りてリビングに入った。
ママが言った通り、ダイニングのテーブルにはマカナさんが座っていた。
リビングはスパイシーな香りで満たされており、お腹の虫が「早く食わせろ!」と途端に騒ぎ始める。三人はどうやら私のことを待ってくれていたようで、手付かずのプレートがテーブルの中央にどどんと乗せられていた。
「今日は私もご馳走になるからね、よろしく〜」
「あ、はい…」
マカナさんがそう気遣い私に声をかけてくれるが、私の目はプレートに吸い寄せられている。
「最近流行っているみたいだから作ってみたわ。さあ、食べましょうか」
ママの合図で私は遠慮なくプレートへ手を伸ばす。こんがりと焼けた鶏肉に、スパイスが十分に効いているだろうお米の山、見ているだけでよだれが出てきそうだ。
お皿に盛り付けて早速一口。
「〜〜〜♪」
美味い...鶏肉とお米、それからちょっとした野菜も入っていて口の中で全てが噛み合う。お腹の虫も満足したようで、私は咀嚼に専念する。
「気に入ったみたいで良かったわ」
とくに美味しいと言ったわけではないが、きっと表情に出ていたのだろう、ママもご満悦そうだ。
大人三人は適度に食事とお喋りを進めている、私が盛り付けた一皿目を食べ終えたところで、「アロンダイトへ行くんだって?」とマカナさんが訊ねてきた。
「あ、そうそう。どんな所なの?」
誰も鶏肉を取ろうとしない(こんなに美味しいのに...)ので遠慮なく二切れ目を取り、お皿にお米と野菜も盛り付けながら返事を返す。
「今すぐ辞めたくなる所かな「分かるわ〜「子供の前でそんな事言ったら駄目でしょ」
「そういう愚痴系じゃなくて、特色を訊いてるんだけど」
「特色ね〜…関わってる所なら分かるんだけど…関わらない所はガチで何をやってるのか分からん」
「え?王様なのに?」
「…………」
マカナさんが咥えスプーンのまま固まり、またしても変な空気が流れる。それは一瞬の事で、マカナさんは何事も無かったように「王様だからと言って、全てが分かるわけじゃないんだよ」と答えた。
「ふ〜ん…」
さっきの間は何だろう?なにか変な事言ったかな。
「むしろあんたが見学したい所ってないの?」
「それを決めるために色々と調べさせられてるの。どっこだけかな…確か、国内省、国外省と、あとは…忘れた」
「国内省なら私が所属している所だよ」
「ふ〜ん」
「ふ〜んって、それだけかい!」と、マカナさんが謎テンションで突っ込んでくる。相手にしないとダメですか?
無視しても気にした様子を見せず、お米と野菜が少しだけ乗ったスプーンを口に運んでから、続きを話した。
「今は昔と違って色んな省庁が出来上がってるからね、一から説明するとなると大変」
「そもそも省庁の違いって何?」
「省はルールを決める所、庁はそのルールに従う所、かな、簡単に言うとね」
「ふ〜ん…」
駄目だ、そんな話より料理に気を取られてしまう。三切れ目の鶏肉へ手を出そうとするも、母から「さすがに欲張り過ぎ」と注意を受けてしまった。
「国内省は主に国民に対する法案を作る所かな、そして国外は国内に住んでいるオリジンの人たちに対して法案を作る所。ナディも毎日私の所に来て──「その話は止めて」
母にしては珍しく険のある言い方だった、お皿に吸い寄せられていた視線も思わず上がってしまうほどに。
母は私を見るでもなく、自分のお皿に視線を落としている。
聞かれたくない話だったんだろうが、その言い方がとても気に食わなかった。
「なに?さっきから変だよ」
さっきからとは、マカナさんが家に来てからの話だ、無言で私にリビングから出て行けと圧力をかけたり変に間を開けたり。
母は何でもないように「そう?普通だよ」と、こちらを見ずにそう返してくる。
「聞かれたくない話があるんならどうしてこの家でするの?外ですればいいじゃん」
「ここが私の家だもの」
「私の家でもあるんだけど、無言で出て行けって言われる身にもなってよ」
「…………」
母は何も答えないしママも仲裁に入ってくれない。
日頃の両親に対する鬱憤だろうか、口から出てくる文句を止められない。
「そもそもお母さんたちって未だにキスするよね?それってどうなの?」
「あんたにとやかく言われる筋合いはないよ、黙って無視しなさい」
「だからそれが──「レイア、その辺でもう「──なに?!私が悪いの?!ずっと我慢してるのに文句も言っちゃいけないの?!──もういい!こんな家出てってやる!」
自分でも不思議に思う、どうしてこんなに怒るのか、まるで自分が自分ではないような感じ。
気が付いた時には席を立っており、背後から私を呼ぶママの声がする。ママだけだ、母は何も言ってくれない、止めることすらしない。
廊下に出て階段に差しかかる、ママは私の名前を呼んだだけでこっちに来てくれない、腹いせに階段をドカドカと踏み付け二階へ上がる。
廊下の窓から真っ暗な海が見え、まるでこちらを嘲るように晴天の空が広がっていた。まん丸のお月さんが無慈悲に上り、ムカつく両親も口が悪い私も分け隔てなく照らしている。
自室に入って扉を閉める時も、これでもか!と音を立て、あとは無気力に苛まれてベッドへ再びダイブした。
(私が悪いの?変なお母さんが悪いんじゃん!ママも味方してくれないし絶対何かある!もうこんな家知らない!)
その日、私はそのまま自室から出ることなく夜を明かし、次の日を迎えた。
◇
何が嫌かって、どんなに喧嘩しても親にバイクを出してもらわないといけない事だ。
とても苦痛だった、学校の昇降口に到着した時にはもう精神的にヘロヘロだった。
(ばーかばーか!知るか!私は悪くないもん!)
互いに無言。無言の数十分はさすがに堪える。が、絶対に謝りたくなかったのでその無言を堪えてみせた。もう来週まで学校に泊まろうかな。
下駄箱でエイミーと会い、とても疲れた「おはよう…」を言った。
「何かあったの?すごい顔してるよ、まるで私のお父さんみたい」
「いや実はね…」と、エイミーに昨夜あった出来事を話す。
話を聞き終えたエイミーが、「そんなに怒ることなの?」と言った。
「え?」
「私はどっちかと言うと…レイアが怒り過ぎているように感じる…かな。私のお父さんもお母さんも家では仕事の話はしないよ?」
「いやいやでもさ、無言で出て行けってさすがに変じゃない?」
「レイアって他の子より大人っぽいし聡いから、それでじゃない?」
「ええ〜〜〜私の味方してよ〜〜〜」
先を行くエイミーの背中に覆い被さる、「してるよ〜〜〜」と彼女が抵抗する。
そんなこんなで教室に到着し、あっという間にホームルームが始まった。
教壇に立った先生が、来週からのインターシップについて説明する。
「来週の五日間、君たちはご両親の元を離れて集団生活を行ないます。来年にはここを離れて、それぞれの所で一人暮らしをしながら勉学に励むのですから、その予行演習だと思って私生活に乱れがないように頑張ってください」
そう!そうなのだ!来週から五日間、私たち生徒はハワイに宿泊するのだ!
(く〜!楽しみ過ぎる…)
なんて浮かれているところへ、頭上から再び先生の声が降り注いできた。
「それとサーストンさん、ホームルームが終わったあと職員室までついて来てください」
「ええ?」
突然の呼び出しだったので間の抜けた声が出てしまう、ムカつく男の子が「お前また何かやったのかよ」と茶化してきた。
「何もしてないもん!」
「何もしてなかったら呼び出されたりしないだろ!」
そしてホームルームが終わり、のこのこと付いて行った職員室で先生から一言。
「約束を守れる大人になってください」
「は?」と、遠慮なく声が出てしまう、いきなりそんな事言われても分かんない。
「課題、まだ出せてないよね?」
「あー…」
「君だけなんだよ、課題を出していないのは、他の生徒たちは皆んな出しているよ」
「それがなんですか?皆んなが出してたら私も出さないといけないんですか?」
職員室は授業前もあってか、他の先生たちがぱたぱたと走り回っているので騒がしい。私の文句もその喧騒に掻き消え、担任にしか届いていない。
その担任はとくに困ったわけでもなく、「では、こういう話はどうだろう」と言ってきた。
「君のご両親は普段とても忙しく、家を空けることが多い」
「それで?」
「それで、君のご両親は君の誕生日だけは早く帰ってくるよと約束をする。けれど当日、ご両親は早く家に帰らず君は結局一人で誕生日パーティーをすることになった。どう思う?」
「そりゃキレますよ」
なにか変な事でも言ったのか、担任が「う〜ん…僕もキレた方が良かったのかな…」と頭を抱えた。
「君も先生との約束を破ったんだ、その自覚はある?」
「約束じゃなくて期日でしょ、先生と約束した覚えはありません」
「期日も約束なんだよ、この日までに出すようにと先生は君たちに課題を渡した、そして君はそれを受け取った、社会ではそれを約束を交わしたと見なされるんだ」
そんなもの知るか!そっちが勝手に押し付けてきたんだろ!と、言いたかったのだが担任が畳みかけてきた。
「そんなもの──「そして君だけが約束を破った。約束を破る人は信用されない、そんな大人になっちゃいけないよ、今は反発もあるだろうけど先生のこの言葉を覚えておいてください」
時間切れだ、次の授業の予鈴がその合図だ。
全く納得していなかったが、これ以上反発しても止むなしと判断し、「分かりました…」と喉の奥から言葉を捻り出した。
職員室から出て自分の教室へ向かう、その足取りは自然と重たくなる。
(なんで私ばっかり…)
昨日から嫌な事ばかりが続いている、視線はぐんと下がって自分の上履きに落ちていた。
(早く来週にならないかな…ハワイに行ったら少しは…)
何か変われるだろうか?この嫌な気持ちも少しは和らぐだろうか?
授業の本鈴が鳴り、私は慌てて教室へ駆け出した。
*
──ライアネット・コミュニケーションログ、一部盗聴
「テステス、テステス」
「なんそれ、何かのおまじない?」
「昔の人はこうやって音声出力テストをしていたらしい──まあ、それは置いといて…こうして皆んなでチャットをするのも久しぶりだ、状況報告をし合おうじゃないか」
「とくに無し」
「フェノスカンディアウザ過ぎ問題」
「ノラリス帰っちゃやだよ〜!せっかく遊びに来てくれたのに〜!」
「うるさい!開始早々喚くな!」
「黙れ老害!「いやお前が招待したんだろ「華夏を虐めるのは止めろ!」
「ノラリス、こちらもビスマルク同様問題を抱えている、テンペスト・シリンダー同士で領海を巡って争いが発生しかけている」
「ムーの言う通りだ、あの投手だが酒盗だかのせいでたださえ仲が悪いのに一層溝が深まったわ」
「酒盗って、食べたことないだろ!──一二塔主議会って言いたいのか?「そうそれ」
「ノラリス、私も同感だ、彼らは一体何をやっている?テンペスト・シリンダー同士の交流が盛んになることは結構だが、紛争の種を育ててやいやしないか?」
「う〜ん…実はそこら辺の聞き込みをと思ってチャットを開いたんだ。ファーストでもやはり問題が?」
「主に為替についてだ、うちんとこのプログラム・ガイアが制定された為替レートに不満があるみたいでな、他所との売買を勝手に禁止し始めた。そのせいで各企業の取り引きに多大な影響が出てしまって大混乱だよ」
「ふむ…華夏の所は?」
「私の所は何にも問題は起こってないよ〜でも、逆に何も無さすぎて皆んな困惑してるかな〜、どうしてうちの所は誰も来てくれないの?って」
「それってあの偉そうなガイアが交流を絶ってるってこと?」
「ううん、交流する人を限定してる感じっぽい、その事に不満を覚え始めてる人が沢山いる。それが問題だと言えば問題かな〜?」
「ふむふむ…ビスマルクはもういいとして…「いや訊いてくれる?──おほん、さっきも言ったが、北欧では経済水域の線引きで紛争が起こっている、何とか私が宥めているところだがいつ火蓋が切られるか分からない状況だ」
「そこなんだよね…ムーは何か分かる?」
「不明だ。自然としての再生は見せたが、人間が経済を営むにはまだその途中だ「珍しくレスポンスが良い「その海について人間たちが争う理由が分からない」
「自国水域の線引きについて、という事か?」
「そうだ「本当だ、返事早「海を大切にしているのかと思えば、その海で争いを始めるために準備をしている。ノラリス、君の方こそ何か掴んでいないのか?」
「分からないんだよね〜それが、私たちの認知度も上がって歓待を受けるようにはなったけど…何かを隠しているみたいだね」
「何かとは?」
「分からない。ただ、地球規模で同様の事が起こっているのは理解できた。それと、ヴァルヴエンドだけ動きがないのも掴めている」
「ヴァルヴエンドだけ閉じこもっていると?」
「ここ最近はマリーンと交流を持っているみたいだね、ごく僅かだけど。──そこら辺もアフラマズダに訊きたいんだけど…おい!いい加減起きろ!」
「起っきろ〜!」
「Wake up!」
「──返事は無いようだ…前回のチャットもあいつだけ不参加だったな」
「何かあったのかな〜?」
「まあいいさ、あんな根っからイケメン、海の底に沈んでいればいい「自分の出番がなくなっちゃう?「そうそう──ってなんでやねん!」
「お前も随分と変わったな、前まで私は世捨て人だかなんだか、小説の影響を受けて堅っ苦しい喋り方をしていたと記憶しているが」
「チャットは以上、今回もこのログは消去する「全無視フルバースト!」
──盗聴終了。
*
頭が痛い...頭痛が痛い...みたいな。
「エイミー、頭痛薬持ってない…?」
「も〜だからあれほど早く寝た方がいいって言ったのに〜」
「そうは言ってもお泊まりって初めてだったし…」
「まったく…」
逃げたったわ週末、五日間の予行演習とかなんとか上手いこと言ってエイミーの家に逃げた。
あんな空気で週末を堪えられる気がしなかった、私の両親もそう感じていたのか、最初は断っていたが最後の方は不承不承といった体で了承し、なんとかエイミーの家へ逃げ込むことができた。
初めて友達の家に泊まり、週末は思いっきり楽しむことができた。
テンションアゲアゲし過ぎたのか、今頃になってその反動が頭に現れ痛んでいる次第である。お泊まりサイコー。
セレン島を出発した船がハワイへ向けてずんずん進む、私の両親を置いて、あの日喧嘩した蟠りも置いて、目的地へ近付くにつれて気持ちが楽になる...ように感じた。
私とエイミーは甲板に出て潮風に当たっていた。風はドライヤーみたいに熱いが、船が進んでいるお陰で強く吹き付け、痛みに悩まされている頭を少しは和らげてくれた。少しだけだけど。痛い。
手すりにもたれかかって左から右へと流れて行く波飛沫を見やる。白い泡がぼこぼこと生まれては弾け、あっという間に消えていく。
その景色を見るともなしにぼんやりと眺めていると、背中に柔らかい何かが当たった。
エイミーだ、彼女が優しく私の背中を摩ってくれている。
「痛み止めはないけどこれぐらいならできるから」
彼女の気遣いに十分感謝しつつも、私はこう言わざるを得なかった。
「それ…吐き気を止めるやつだから…」
「──ええ?そうだった?」
大丈夫だったのに背中摩られた途端、気持ち悪くなってくるやつ...
その後、ハワイの港に到着するまでダウンしてしまった。
◇
「船の移動ご苦労様でした、皆んな疲れているだろうけど今日から早速アロンダイトで見学がありますから、ホテルに荷物を置いたあとすぐに移動します」
え〜、と不満の声がちらほら上がる、けれど大都会に来られたお陰か、皆んなテンションは高そうだ。
(頭痛い…気持ち悪い…最悪…うぷっ)
ハワイの港は円卓街より少し外れた位置にあり、バカでっかい円盤状の街を見上げることができた。
太陽が円卓街に隠れているお陰で港は日陰に入っており、涼しくて過ごしやすい。もっと休憩していたかったが、他の子たちがぞろぞろと動き始めたので重たい足を動かすしかなかった。
ハワイ港はハワイに寄港する全ての船を預かるためとても広く、桟橋からの移動はバスが出ている。ここに来てバス、ヤバい。吐き気を催したまま私はバスに乗り込み、鳩尾にむわっと来るような臭いに顔をしかめた。
「なんで公衆バスってこんなに臭いの…」
「しょうがないよ。あとちょっとでホテルに着くからね、それまでの辛抱だよ」
なんかもう...これまで乗ってきたであろう乗客たちの匂いが充満しているというか...プラスチックの濃い匂いというか...とかく臭い。
まるで重症者のような扱いを受けながらエイミーに座らせてもらい、窓にべたっと頭を預けた。
隣の公衆バスにも他クラスの子たちが乗り込んでいく、皆んな明るくお喋りをしながら、きっとここにいるだけで楽しいのだろう。
普段は滅多に訊かないエイミーが、「本当にハワイのこと覚えてないの?」と訊ねてきた。
「うん…なんで…?」
「もし覚えてるんなら自由時間に案内してほしいな〜って思って」
「ああ、うん…ごめんね、ほんと何にも覚えてないの…お母さんが言うにはハワイも昔と比べてだいぶ変わったらしいけど」
「そうなんだ?」
「うん、この港もなかったらしいし、ブルードーム周りのお店もなかったらしいよ」
「へえ〜〜〜」
さすがのエイミーもハワイを前にしてテンションが上がっているらしい。動き始めた窓向こうの景色を、目を輝かせながら見ていた。
円卓街の真下に位置するブルードーム、海の青い光を円盤の底が反射し、辺り一体を幻想的な世界に仕上げる。とても人気がある所だ、その周りには観光客からお金を巻き上げるためのお店が居並び、ターミナルへ向かう道すがらから哀れなカモネギたちの行列を見ることができた。通販でよくね?並ぶ必要ある?
◇
まさかの歩きで草。
「道路があるのは港だけってどうなの?」
「え?そんなに不満?私はゆっくり見られて良かったけど」
桟橋からターミナルまでバスで移動し、その後はまさかの徒歩でホテルへ向かった。ハワイは昔から道路がなく、人の移動はもっぱら原始的な徒歩のみだったらしい。
「いや〜いくら筏の上に作られた街だからって、さすがに不便過ぎない?」
「ホノルルでは道路が作られているんだよね?お父さんたちが言ってた、バスで移動できたら楽だろうけど、私はこっちの方が良いな〜」
「え〜」
私たちが滞在するホテルは円卓街の外周沿い、海を一望をできる所にある。緩やかなカーブを描いたホテルに、私たち生徒が今日から五日間泊まるのだ。
昔はこの外周沿いはただのお散歩コースだったらしいが、集客目的のためそのコースが潰され、カモネギたちの宿泊場になったらしい。母が言うには、私もこのお散歩コースでルカと遊んだことがあるらしい。全く覚えていない。
(ルカのやつ、元気にしてるかな〜)
ホテルに到着し、一時間のお昼休みが終わった後、速攻で私たちはアロンダイトを目指していた。
ハワイの中でも中心都市に位置するここ円卓街、高い建物が乱立し、その間を配達ドローンが交通ルールを守って飛び回り、その下を数え切れない人たちが無造作に、けれど秩序を乱さず歩き回る。
一つの体内組織だと思った、秩序の上に成り立つランダムな動きは人の細胞のそれと変わらない。この生きている街に昔は私も住んでいたようだ。全く覚えていない。
人が行く道には二階建ての建物が並らんでいる、お花屋さんだったりレストランだったり、中にはただの民家もあったり。エイミーの言う通り、この景色は歩きながらじゃないとゆっくり見ることはできないだろう。
ホテルを出て円卓街の中心へ向かい、そこからさらに北上して行政区として機能しているランスロット地区へ向かう。
そしてやって来た私たちのインターンシップ先、アロンダイト、そこは四角い形のただの箱だった。
「ええ?これがそうなの?」
「なんか…そういう風に見えないね」
他の子たちも「なんじゃこりゃ」みたいな感じで目を剥いている、それぐらいおかしな建物だった。
(こんな所で働いていたのか…)
引率の先生に案内されるがままぞろぞろと中へ入る。
「中ってこんな風になってるんだ〜」
「どうなってんのこれ」
外はあんなに四角い形をしていたのに、エントランスを抜けた先のフロアは解放的な空間になっていた。
先生たちはこの異様な空間を知っていたのか、上ばかり見上げている私たちに向かって「足元に注意してね〜」なんて余裕な態度を取っている。いや、見るなというのが無理な話だ。
「雨が降ったらどうするんだろう?」
「さあ…あれ吹き抜けになってるの?」
大きくカーブを描いた天井の先はぽっかりと穴が空いており、雲一つない真っ青な空が垣間見えていた。また、私たちが立っているフロアと天井の間には中間フロア?みたいな二階構造になっており、私を含めた全生徒がしきりに観察していた。
はっきりと言ってお洒落、まるで観光地みたい、こんな所で職業体験できるのかと思うとなんだかワクワクする。
フロアのど真ん中までやって来た、生徒全員が一度真上を向いて空を見たあと、視線を戻して前を向く。そこには引率の先生たち、それから長身の女性と私たちと背丈が変わらない女性が二人立っていた。
長身の女性が挨拶をした、名前をオハナと言うらしい。
(──ん?どこかで聞いたことがある名前…)
「──以後お見知り置きを。そしてこちらが副担当のカゲリと申します、これより五日間、主に私たちが皆様のサポートを行ないますのでよろしくお願い致します」
続いて、カゲリと呼ばれた女性も挨拶をした。職員、というよりスポーツマンのような張りのある声と爽やかさが印象的だった。
「カゲリと言います。私から注意することは一つだけ、インターンシップと言えども皆んなには仕事をしてもらいます、分からなくて当たり前、勝手な事をせず一つずつきちんと質問をしながら業務にあたってください。意地悪な人はこの人だけなので「──カゲリ」──意地悪な人は一人もいませんので、必ず質問に答えてくれます。よろしいですか?」
皆んなが元気よく「はい!」と答える、私も慌てて「はい」と答えた。いやなんかあの人さっき怒られてなかった?面白そうな人だ。
「じゃあ、早速皆んなにはそれぞれの部署で業務の説明を受けてもらいます。先生や私たちの指示に従って速やかに別れてください」と言うと、ばばば!っと生徒たちが移動を始め、私もその波に乗るように足を動かした。
そして、私たちの前には先程と変わらず、オハナさんとカゲリさんが立っていた。どうやら私たちの担当らしい。
私が選んだのは『国内省』だ。それから私の隣には奴も立っている。
「げっ…」
「げっ、てなんだよ、俺だって嫌だわ」
スカイダンサーに首ったけのあの男の子だ。
「そんな事言うんだったらお母さんに言いつけてやる」
「なっ、卑怯だぞ、お前っ」
こそこそと話をする私たちに穏やかで、けれど鋭い注意が飛んでくる。
「静かにしてください」
「…………」
「…………」
オハナさんだ、声もそうだがあの鋭い目が怖いのなんの。即座に黙る私と男の子。
「──まず皆様方には私たちの職場を案内します」
(こんわ〜、けどあっさり)
注意したのは一言だけ、学校の先生のようにネチネチと小言は言わず、あとは何事もなかったように職場案内が始まった。
なんか、いかにもって感じがする。教育者としての大人ではなく、ただ淡々と的確に仕事をこなす大人、そんな感じ。
良くも悪くも子供を優先しない社会人の後に続き、その日はアロンダイトの中を見学して回った。
*
──ライアネット・コミュニケーションログ、盗聴の盗聴
「は〜…」
「どうかされたんですか?大きなため息なんか吐いて」
「──ああ、いや…うちの娘がちょっと反抗期でして…」
「ああ、今年受験でしたっけ。その年頃の子供はそんなものですよ」
「え、そうなんですか?」
「うちの子供も受験する年はそれはもう反抗してましたよ、ちょっと前まであんなに仲良かったのに、それも私だけ」
「ガチ?」
「ガチガチ。かみさんとは普段通りなのに何故か私だけ、一緒にご飯を食べるのも嫌だとか言って自分だけ除け者にされてましたからね」
「うわ〜それはキツいですね」
「あの時は私もキツかったな〜」(※遠い目をしている)
「今その子は?」
「ホノルルで一人暮らししてますよ。受験後も結局私とは口を聞かずに家を出て行きました」
「え〜…」
「ま、男親なんてこんなものですよ」
「それ男とか女とか関係あるんですか?片方だけ仲良くして片方だけ剣呑になるのはキツいでしょ」
「いや、どこも似たり寄ったりらしいですよ」
「は〜…レイアもいつかそんな感じになるのかな〜嫌だな〜」(※頭を抱える)
「どんな子供にも反抗する時期ってものがありますから、私たち親はどんな時でも大らかに構えている必要があるんです──って私も教わりました」
「いや〜無理〜大らかにとか言われても…」
「だから私たち親も子供のために成長する必要があるんです」
「は〜なるほど…」
「それが良き親ってものです」
「──と、教わった?「そうそう。ま、私もまだまだなんですけどね〜」
「どう接すればいいんでしょう…不満はあるだろうなとは思っていましたけど…」
「誠実に接するしかないんじゃないですか?かみさんに教えてもらった事なんですけど、なんか…私の馴れ馴れしい態度が気に食わなかったって言ってたらしいんですよ」
「馴れ馴れしい?」
「自分の子供なんだから馴れ馴れしいのは当たり前だろ!って思ったんですけどね、その子供扱いが嫌だったらしいです」
「子供扱い…か」
「言われてみれば確かに、って腑に落ちる事もあります。ま、私の経験談ですが、相手が自分の子供だからと言って不誠実に接するのは良くないってことです」
「子供扱いをしてたつもりはないんだけどな〜…」
「つもり、でしょ?」
「──ああ、本人はそうじゃなかったって事か」
「そうそう。今はこっちに泊まってるんですよね?」
「帰って来るのは週末ですね」
「なら、帰って来た時は今まで以上に大人として接してあげてください。それが良いか悪いか分かりませんが、サーストンさんが変わろうとしている姿勢はお子さんにも伝わりますよ、きっとね」
「そうですね、はい。──決議前にすみません、相談に乗ってもらって」
「いえいえ。市民たちもあなたみたいに素直だったら良いんですけどね〜」
──盗聴終了。
「おいノラリス、このログはなんだ?」
「ねえ、どうして男の人は遠い目をしていたの?」
「これがお前さんの主人か?とんでもない美人だな、今度紹介しろ!この私が北欧の大地でもてなしてやる!」
「このエロじじい!」
「私には文句ばっかり言うくせに〜!」
「美しい、可愛いは正義だ、もうこればっかりは仕方がない」
「屑だな。華夏、もう相手にするな」
「そんなのビスマルクおじいちゃんが可哀想だよ!誰にも相手にしてもらえないって凄く悲しいことなんだよ!」
「おい屑、華夏に何か言うことはないのか?」
「そんな事より、おいノラリス!このログは何だと聞いている!──お前まさか、こうやって度々盗聴していたのか?自分の主人を?」
「──え?!ガチかノラリス!」
「それはさすがに駄目だよ!おじいちゃんより気持ち悪いよ!」
「おい華夏、貴様!」
「私だってたまには仕返しするも〜ん!べ〜!」
「良く言ったぞ華夏!それでこそ私の妹だ!北欧なんざマントルに沈めてしまえ!」
「いやそれ駄目だよ」
「それはやり過ぎ」
「消す!以上!」
「おいノラリス!」
「ストーカーは駄目!」
「本人にいつかチクってやるからな!」
──ムー、東経五七度一七分、南緯一九度五八分、インド洋、元マスカレン諸島にて現在位置を確認、チャットには参加せず。
──アフラマズダ、シグナルロスト継続中、現在位置はなおも不明。
*
見学が終わり、生徒たちがグループに別れてエレベーターに乗り込む間際のことだった。
「──痛っ…」
頭痛だ、治ったと思っていた痛みが矢を射られたように鋭く走り、それからすぐにまた治った。
「大丈夫?」
エイミーが心配そうにこちらを覗き込んでくる、外から差し込む夕日の光りが彼女の赤い髪をより赤く照らしていた。
「うん大丈夫、ちょっと痛んだだけだから」
私たちのグループの順番になり、案内ドローンの指示に従ってエレベーターへ乗り込む。エレベーターの中は数メートル四方の小型のタイプで、皆んなガラス張りになっている所に集まっていた。
微かな振動が足の裏に伝わってきたあとエレベーターがゆっくりと動き始め、隣に居たエイミーも外の景色が見られる壁の方へ寄っていった。
(そんなに見たいかな〜)
親友の背中越しに私も外を見る、昼間降りた時は一面ブルーの世界だったが、今は青色と赤色が混在し、それはそれは独特的な世界を作っていた。
エイミーは私よりあれらしい。
ちょっとムカついた、それにちょっとだけ悲しい。その意趣返しだろうか、私は決して近寄ろうとはせず、遠くから紫色に変わった観光名所を眺めているだけだった。
◇
なんかモヤモヤとした初日を終え、二日目がやって来た。今日から私たち生徒はそれぞれの職場に配属され、インターンシップという名のお手伝いが開始される。
国内省を希望した生徒たちがアロンダイトの中間フロアに集まり、昨日と同様にオハナさんとカゲリさんから説明を受けていた。
どうやら私は『市民厚生課』という所に配属されるらしい。
配属される生徒は私と他数名の子たち(他所のクラスの子なので知らない)、スカイダンサー首ったけのあの男の子はオハナさんの側にいた。ラッキー。
私たちを担当してくれるのはあの面白そうなカゲリさんだ。これまたラッキー。
知らない子が「ねえ、私たちもアレ、貰えるのかな?」と小声で言い、釣られて私も隣のグループを見やった。
オハナさんのグループにいる子たちは首からネームプレートを掛けていた。何あれ、いかにもっぽい。
(なんか仕事してるっぽい!)
私たち全員が期待を込めた目でカゲリさんを見やる、その本人は「あっ!」と鋭く声を上げた。
「ごめん、皆んなの分のネームプレート忘れた〜!」
(え〜、だらしない人だな〜)
そこでふと、担任に言われた言葉を思い出した。
──約束を破る人は信用されない、そんな大人になっちゃいけないよ。
ははあ、なるほどと、人の振り見て我が振り直せとはこの事だなと理解した。
「え〜!私たちもアレ欲しいです!」
「分かった分かった、お昼まで我慢してくれる?今持ってないからさ」
「う〜ん…分かりました…」
「代わりにこのお菓子をあげよう!」と、カゲリさんがジャケットの内ポケットからお菓子の包みを取り出し、私たちにほいほいと渡してきた。いやそれ用意する暇があるならネームプレートを用意してよ!
面白い人であることにかわりはない、けれど、頼りになりそうな人を選べと言われたら、私はオハナさんを選ぶ。
信用って、きっとそういう事なんだと思う。
「じゃ、早速行こっか、皆んなには今日も一日見学してもらいます」
え〜と、またぞろ不満の声が上がる。昨日もそうだったから飽きているのだ。
「今日は市民たちの所へ家庭訪問致します、円卓街の中をぐるぐる回ることになるけど…それでも不満かな?」
え〜が、やった〜!に変わった。え?何が嬉しいの?街を見て回るだけだよ?
それが他の子たち的には嬉しいらしい。
ネームプレートの代わりにお菓子を貰い、カゲリさんに続いてアロンダイトの外へ出た時、他の子に訊いてみた、「何がそんなに嬉しいの?」と。
「え、だってこの街って凄く有名だし…サーストンさんは昔住んでたからじゃない?」だから嬉しいと思わないのだろう、と。
「…………」
だから覚えてないっての!!
◇
一軒目、そこはガウェイン地区、エレベーター駅から程近い場所にあるマンションだ。
(ん?なんか見覚えあるな、ここ…初めて見た気がしない…)
あれ?ここって…いや駄目だ、昔住んでいたらしいマンションっぽいけど、よく思い出せない。
私たちの先頭を歩いていたカゲリさんが、マンションエントランスの自動扉にぴっ!と何かをかざし、まるで魔法のように開けてみせた。
それだけで他の子たちは大はしゃぎである、「さすが都会〜!」みたいな、お上りさんみたいで見ているこっちが恥ずかしい。
カゲリさんが自動扉を潜り、他の子たちも我先にとその後に続く。私は少しだけ遅れて、「あれ、エントランスって細長かったよね?」と思い出しながら自動扉を潜るとその通りだった。
日の当たらない、一日中薄暗くて細長いエントランス、子供が転んでもいいようにと床全面にカーペットが敷かれ、抱えている部屋数の割には一機しかないエレベーター。
ぶわわと、懐かしさが込み上げてきた。
(あ、ここだ、多分ここに住んでた…)
勝手知ったると言わんばかりにカゲリさんはずんずんと進み、エレベーターの呼び出しボタンをタップした。
エレベーターが到着するまでの間、カゲリさんが私たちに訪問する理由を教えてくれた。
「ここの市民がガチ目のヤバ目だから直接訪問して相談的な」
「…………」
「…………」
(この人本当に駄目かもしれない)
「以上!──じゃ、ちょっち行きましょうか〜」
え?もう説明終わり?この人がガチ目のヤバ目なんですが、他の子もガチヤバぶりにフリーズしてるんですが。
懐かしい(と、思う)電子音と共にエレベーターが到着し、全員が乗り込む。カゲリさんがお目当ての階のボタンをタップし、その後はポケットから携帯を出して触り始めた。この人ガチ?
(う〜ん…面白いんじゃなくて、ただだらしないだけか…)
カゲリさんの後ろ姿をちらりと見やる。ポニテした黒い髪は枝毛が目立ち、茶色のサマーカーディガンは毛羽立ちが目立っていた。
そりゃそうだろうと思う、ネームプレートを忘れてくるような人がそんな細かい身だしなみに気を遣えるとは思えない。
私も他の子も口には出さず、「こりゃ変な人に付いたもんだな」と思いながら、無心で表示パネルを見上げていた。
◇
「ガチで勘弁してもらえません?何回言ったら分かるんですか?隣のおっさんがガチヤバ系で毎日うるさいって言ってるじゃないですか、ほんといい加減にしてくださいよ」
ああ、そういうやつ?ガチ目のヤバ目ってこういう意味?
(私はてっきり重い病気に罹ってる人とか…そういう感じかと思ってたんだけど…)
これはあれだ、所謂"カスハラ"みたいなガチヤバ市民だ。
(なんか見覚えのある)扉の向こうには若い男の人が、眉間に縦じわを作って立っていた。とても不愉快そう、その不愉快な気持ちをカゲリさんに遠慮なく─あるいは無神経に─ぶつけている。
カゲリさんは「はあ」とか、「善処します」とか、ひたすら頭を下げ続けているだけ。さっきのだらしない場面を見てもなお、この人が可哀想に思えてくる。
男の人がひたすら文句を言い、あらかた言い終えたのか、「こんな所に引っ越しして来るんじゃなかった」と締め括って扉を閉めた。
(え″…これが仕事なの…?)
私の後ろに隠れていた(何故隠れる?)他の子たちを見やる、二人とも悲しそうな、辛そうな表情をしていた。
「──じゃ、次行ってみよ〜」
「…………」
「…………」
(あれ、何だろう…心が痛む…)
あれだけ理不尽な文句を頭ごなしに言われたカゲリさんが何でもないように歩き出す、その後ろ姿は確かに大人のそれだが、私は心から同情してしまった。
一応、私の方から確認した。
「あの…今のって、所謂ご近所トラブル的な…」
「ん?そうそう、隣に住んでいるおじさんの生活音に悩まされているみたいでね〜、こっちとしてはその人に注意を促すぐらいしかできることがなくて…まあ正直こっちも困ってるんだよね〜」
「はあ…」
「あ、もしかしていきなりヘヴィーだった?」
「今頃?」
「(こくこく)」
「(こくこく)」
あんな背中を見てしまったら...訊かざるを得なかった。
「カゲリさんは、その…大丈夫なんですか?あんな事ばっかり言われてるんですか?」
エレベーターの前で立ち止まったカゲリさんが徐に内ポケットへ手を伸ばし...封が開けられていないお菓子を取り出した。
「私にはこれがあるからね!糖分摂ってればどうにかなるなる!」
「………」
「………」
「………」
いやそのためのお菓子かよ!!
◇
二軒目(ちなみに今日はあともう一軒回るらしい)、お次はトリスタン地区の繁華街に住まう女性宅の家庭訪問だった。
山吹色の屋根が並ぶトリスタン地区は私たち学校の生徒にも大変人気の所であり、皆んな喜んでいた(私も)。
白塗りの壁に山吹色の屋根はそれだけで可愛いし、その可愛い家が整然と並ぶ景観は見応えが十分ある。
その可愛いらしい通りを抜け、人が沢山集まっている区画に到着した。
ここがトリスタン地区の繁華街らしい。
「わ〜絵本の世界みたい…」
「私ここに住みたい〜!」
「あの煙突の家が良い〜!」
"繁華街"と聞くと、私は煌びやかだけど汚れているイメージがあった。ネオンでギラギラ、歩く人はお酒を飲んでフラフラ、道の端はゴミでゴミゴミ。
けど、トリスタン地区の繁華街は絵本の世界がそのまま飛び出してきたような所だった。
円形広場のど真ん中に立つ私たちを避けるようにして沢山の人が行き交う、不揃いの石で作られたお店に入る人や、赤い煙突がにょっきりと生えた家に入る人、どの家、どのお店にも入り口に三角形の青い旗がかけられており、柔らかい風に優しく靡いていた。
「はーい、観光に来たんじゃないですからね〜今から仕事しますよ〜」
カゲリさんが私たち三人を後ろからゆっくりと押し、先へ進むよう促した。それでも私たちは繁華街の景色から目を逸らさず、足元を疎かにしながら歩みを進めた。
そして、カゲリさんの案内でやって来たのは一階が店舗になっている集合住宅だった。店舗の入り口には入らず建物の脇へ、裏道を通って集合住宅のエントランスを目指す。この裏道もまた...まるで秘密基地のよう!薄暗い道の途中では猫が丸まって休んでおり、誰がやったのか外壁に板が取り付けられ、その上には所狭しと花瓶が並べられていた。
もう三人のテンションは天元突破、口に出さずとも皆んな「ヤバいヤバいヤバい!」と興奮している。
外階段を上がってエントランスに入り、薄らとした所を抜けてお目当ての女性宅へ。ここまでこだわる必要があるのかと疑いたくなるほど凝った彫り細工がされている扉の前で立ち止まり、カゲリさんがベルの紐を引っ張ってちりん、ちりん、と鳴らした。
何そのインターホンめっちゃオシャレー!と天元突破したテンションが行方不明になったところで扉が開き、中からこの絵本の世界にそぐわない疲れた顔をした女性が出てきた。
「いつもすみません…仕事が忙しくて…」
「いえいえ〜。あ、今日はインターンの子も一緒ですので〜」
(え、やだ、なんかやだ!凄く入りたくない!)
「あ、ああ…今日からでしたっけ…どうぞ…」
(やだ〜!)
「…………」
「…………」
私もそうだし他の子もそう、さっきまでのテンションとは打って変わって沈んだ顔をしていた。
◇
「…………」
「…………」
「…………」
トリスタン地区の家庭訪問を終えてアロンダイトに戻って来た。今はお昼休みの時間、アロンダイト内の食堂で私たち三人、出されたお弁当に手も付けず項垂れていた。疲れていたから。
一人の子が口を開く。
「なんか…大人って大変なんだね…」
「(こくこく)」
「(こくこく)」
話す元気もなかったので首肯で返す。
「あんなに可愛い街に住んでいるのに…なんか、すごい残念というか…私のパパより酷かった…」
「(こくこく)」
「(こくこく)」
女性が抱えていた悩みをざっくばらんに言うと、「心機一転したのに失敗した」みたいな感じ。
あの女性は母親と一緒に暮らしており、現在住んでいる集合住宅地に引っ越しした当初は軌道に乗っていたそうだ(あの女性もトリスタン地区に憧れていたらしい)。
けれど、途中から母親が体調を崩して入退院を繰り返すようになり、今では付きっきりの介護を余儀なくされていた。
また、トリスタン地区は人気が高いらしく、入居希望者が高い地区はその分家賃などが高騰する傾向にあるらしい(この辺りの話は大変生々しかったのであんまり聞いていなかった)。
とにかく、今の生活を続けるためにはお金が必要であり仕事を辞めるわけにはいかない、けれど母親の介護も必要なので無視もできない。
結果としてあの女性に全ての比重がかかり、心身共に疲弊し切っていた...
(ほんと…大人って大変なんだな〜)
いい加減食べようとお弁当に手を伸ばす、そのタイミングで別のグループから二人の子にお呼びの声がかかり、申し訳なさそうにしながら席を外した。
一人でパクモグと箸を進める、他の席では生まれて初めて経験した仕事の話で盛り上がっている生徒たちばかりだ。
この食堂はアロンダイトの中間フロアにあり、私の背後には一階で仕事をしている人たちを見下ろすことができる。後ろを向いてとくに見るともなしに眺めていると、がしゃん!と誰かがトレーを乱暴に置く音がした。
「一人ぼっち〜」
「うっさい」
あの男の子だ。許可した覚えはないのに勝手に椅子に座った。
「何の用?」
そうつっけんどんに言葉をかける、すると思いがけない言葉が返ってきた。
「いやそれがさ…なんかスカイダンサーのこと馬鹿にしてる人がいるんだよ」
「はあ?馬鹿にしてるって…」
「お前、俺の話を覚えてるか?「ごめん全然覚えてない「まだ何も言ってないだろ!軍隊を復活させるって話!なんか、その話が今なんこつしてるらしくて「なんこつ?難航じゃなくて?「ど、どっちでもいいだろ!とにかくそのなんこうしてるせいで仕事が上手くいかないみたいで、それも全部スカイダンサーが悪いって馬鹿にしてる人がいんの!」
「そんな事言われても…というか何であんたがそんなに怒ってんの?関係ないじゃん」
「はあ?お前自分の母親が馬鹿にされてるのに何とも思わないの?」
「実際私が聞いたわけじゃないし」
「なんだそれ…つまんねえの」
男の子はそれだけを言い、あとは興味を失くしたようにさっさとテーブルから離れていった。
◇
男の子の話は本当だった。
お弁当を食べ終わり、あとちょっとでお昼休憩が終わろうとしている時にその話を耳にしてしまった。
「…もう辞任したくせに…」
「…ほんとひっかき回すの止めてほしいよね…」
「…全権市政って要は採決を国民に任せるんでしょ?そんなやり方で…」
(ん?ぜんけん、しせい…って何?)
集合場所であるメインエントランスの入り口に立っていた、その二人は待ち合いロビーのソファに、こちらに背を向けて座っている。二人の話し声が細やかではあるが、きちんとこちらにまで届いていた。
「…スカイダンサーって、あれだけ飛び回っていたのに軍が嫌いなんでしょ?矛盾してるよね…」
「…自分の功績を抜かれたくないだけじゃない?」
「…ああ、それはあるかも」
ねえわ!
あの日、夕焼けに焼かれる砂浜で交わした言葉を思い出す。
母は決してそんな人ではない、軍を解体したのもこれ以上悲しむ人を作らないためだ。
何も知らないくせに好き勝手に文句を言う。一言言ってやろうか──そう思うが足が動いてくれない。
「…………」
そんな、見ず知らずの人にまで配慮をするそんな母と喧嘩したのは誰?自分じゃないのか?
「……──わっ」
突然、背後から何かを掛けられた。それは私の写真と名前が印刷されたネームプレートだった。
後ろへ振り返る、まだあどけなさが残る笑顔でカゲリさんが立っていた。
「忘れてごめんね〜それ君の分だから」
「あ、ど、どうも…」
「じゃ、最後の一軒に行きましょうか〜」
気が付けば残りの二人も合流しており、二人も首からネームプレートを掛けていた。
出て行く間際にソファの二人を見やる、もうそこに姿はなかった。
*
──ライアネット・コミュニケーションログ、盗聴の盗聴。
(お、帰ってきた…)
「ぶは〜〜〜………んん〜!誰もいない!フリー!何をやっても怒られない!戻って来た私の一人暮らし!」
(※インターホンが鳴る)
「ん?誰だろう……」
(※来客の対応)
「あ〜あ〜やっぱり散らかって、ほんと怠け者なんだねナディって」
「え〜もう何しに来たの?小言ならライラで間に合ってるんだけど」
「国王が直々に面倒見にやって来てあげたのよ?他に言うべきことがあるんじゃないの?」
「税金もっと下げろ!取りすぎなんだよ!「あ〜はいはい聞こえない聞こえな〜い、国民様の税金のおかげでこの国は潤ってま〜す」
(※再びインターホン)
「ん?また?」
「キッチン借りるね〜対応よろ〜」
(※来客対応なう)
「うわあお姉ちゃん…たった一日でこれ?」
「お、フレアじゃん、あんたも晩御飯食べてく?」
「お姉ちゃん…「いやいや、マカナが勝手にやってるんだよ「国王に晩御飯作らせたら駄目だって」
「そういうあんただって塔主やってんのにナディの面倒を見に来たんでしょ?」
「うんまあ、お願いされたし、息抜きにはちょうど良いかなって「じゃ、あとはよろしくね〜「──待て待て!」×2
「もうなに〜こっちは疲れてるの!」
「客人にご飯を作らせて掃除までさせるつもりか!」
「そうだよ!お姉ちゃんの家なんだから掃除ぐらい自分でやって!」
「もうほんと…ライラが二人になった感じ…」
(※ナディがリビングの片付けに入る。そしてまたインターホン)
「おん?今日はほんとに良く来るな…」
(※対応なう)
「これ絶対…」
「しっ、分かっててもナディに言ったら駄目だよ」
(※ナディがマルレーン夫妻を連れてリビングに戻って来た)
「うんわなんかすごいのが来た」
「なんかとはなんだ、失礼な」
「お邪魔します。君たちも呼ばれていたんだな」
「呼んだ覚えはありませんけど」
「そう釣れない事を言うもんじゃない!全く…どれ、私も料理を手伝おう」
「そんなに太ってるのに無理して大丈夫なんですか?」
「子供だよ!太ってるんじゃない来月出産予定!女の子!」
「冗談冗談、臨月の時ってあまり無理をしたら駄目なんですよね?」
「つわりもおさまって今は楽なんだよ、次いつ引きこもることになるか分からないから、今日はこうして旦那とお邪魔させてもらったんだ」
「あ、そういう…じゃ、ヴィスタさんは私と片付けで「何故そうなる?まあいいか、どうせ暇だし…」
「いや〜アリーシュさんもついに母親か〜そしてあのヴィスタが父親…」
「おめでとうございます、少し早いですけど」
「ありがとう。君たちも良ければ私の子を見に来てくれ」
「色んな人に訊かれたと思いますけど、あんな奴のどこが良かったんですか?「マカナちゃん…「言っちゃ悪いですけどあいつ、度し難い変態ですよ?」
「別に誰でも良かった」
「うわあ…」
「え…」
「ちょ、ヴィスタさん、手を止めないでちゃっちゃっと片付ける!」
「………」
「というのはまあ半分本音で「──おおい!「もうヴィスタさん!「あれはあれで誠実な男なんだよ。度し難い変態であることは認めるが、信頼はできる」
「ふ〜ん…そういうもんなんすね〜」
「そういうマカナは?相手はいるのか?」
「いや〜私も三〇の大台に乗りましたけど、まだ結婚は先ですね……誰かさんのせいで!!」
「……………「おいナディ、手を動かせ」
「初恋の相手に告白されてそのまま五年も放置、挙句には女を作ってとんずらされた私の気持ち、君たちに分かるか?こんな私でもあの男は誠実に接してくれたんだよ」
「ふ〜ん…確かにめんどくさそう「マカナちゃん!「いやいや、私でも自分のことが面倒臭かったよ。──面倒臭いと言えば…君もそうなんだがな」
「──っ!「ヴィスタさん?「この男ときたら…私に変装させ(※インターホン再び)
「俺が出てこよう!!」
「逃げ足早。こりゃ今晩の酒の肴かな」
「変装ってなんの話ですか?」
「酒の席で聞かせてあげるよ」
「…………」(※ナディはもくもくと片付けをしている)
(※ヴィスタがヴィシャス夫妻を連れてリビングに戻って来た)
「なっ!ナディが片付けしてる!」
「いや失礼!すんごい失礼!」
「こんばんは〜」
「こ、こんばんは…」
「ルカ!あんたまた身長伸びたんじゃない?ほら!お姉さんに良く見せてごらん!」
「え、いや、その…こ、こんばんは…」(※ナディの後ろに隠れる)
「うっは〜!かっわいい…」(※包丁を持った手で自分の口元を押さえる)
「ほら!あんたもしゃきっとしなさい!」
「で、でも〜、れ、レイアお姉ちゃんは…?」
「あの子なら今ハワイにいるわ、今週末までずっと泊まりでね」
「え〜!それなら僕おうちに帰る!お姉ちゃんと会いたい!」
「はいはい、今日はこの家に泊まって帰るんだから、また明日ね」
「え!聞いてませんけど!」
「たまにはいいじゃない。それともなに?晩御飯食ったらさっさと帰れって?それはあんまりじゃない?」
「い、いや〜それはそうなんすけど…まあいいか、どうせすっぽんぽんで酒呑むだけだし」
「っ!」
「っ!」
「嘘でしょお姉ちゃん?!まだそんな事やってんの?!」
「男共が反応した件について」
「は?ウィゴー?」
「ヴィスタ?」
「い、いや、違う!子供の前でそれを言うのはどうかと」
「そ、そうだよ!決してナディちゃんの裸を想像したわけではなく…」
「まあ冗談なんだけど…ルカ君、おばさんと一緒にお風呂入る?」
「入る〜!」
「なにあれクッソかわいい…いや良いな〜私も子供欲しくなってきた…どこぞのぐうたら王様のせいでそんな暇もないしさ〜」
「じゃ、そういう事だからルカ君お風呂に入れてくるね「──あ!そういう算段「駄目だよお姉ちゃんまだ片付け終わってないよ!「お前家主としてそれはどうなんだ!「ルカ!今からゲームで遊ぼう!「嫌だ!おばさんと一緒にお風呂入る!」
「本当に行きやがった…」
「まあまあ、彼女も彼女で多忙な日々を送っているんだ、君もライラに頼まれて来たんだろう?」
「え?マカナちゃんもそうなの?」
「そりゃそうよ」
「俺の所にも連絡来たぞ」
「私もそうよ、あいつが今日一人になるから様子を見てやってくれって」
「信頼されていないのか過保護なのか…」
「どっちもじゃね?アーチー姉妹にも声かけたんだけど今日は無理だってさ、明日はあの二人が来ると思うよ」
「ウィゴー、そっちのゴミ袋持ってくれ」
「何で僕が…まあいいよ」
「──実際どうなの?ヴィスタと上手くやれてんの?あいつ根っからの男の子好きよね?」
「私が矯正した。いやもうさっきの話なんだけど、わざわざ変装してまでやったんだぞ、あの日の夜は一生忘れない」
「よくやるよあんな男のために…」
「まあ…あいつは妹を亡くしているからな、なんか放っておけないんだよ」
「そういうあんたこそ親友の事はふんぎりついたの?ナディのやつ、この時期になったら一人で海へ行ってるそうじゃない、ライラから教えてもらったわ」
「ふんぎりがつくとでも?今でもあの子について考えることはある、それはこれから先も変わらない、一生もんよ」
「マカナちゃん…」(※と、しんみりした声を出しつつも華麗なフライパンさばきを見せる)
「だから私もナディも躍起になってんのよ、悲しませる人をこれ以上作らないで済むように、その最後の大仕事をナディはやってんの」
「全権市政よね?法案はもう通ってるんでしょ?どうして可決されないの?」
「さあ?そこら辺はナディが仕切ってるから私は何にも…現場の人間から煙たがられてるのは知ってるけど」
「ええ?どうしてナディが煙たがられるんだ?」
「邪魔なんだってさ、日々のタスク消化でも忙しいのに余計な仕事を増やすから。トップが現場から嫌われるのはどこの世も一緒でしょ」
「──あ〜〜〜!「急にフレアが吠えた!「嫌な事思い出した〜!私もそうなんだよ塔主なんて大それた立場は合ってないのにもうほんと…」
「あんたも大変そうね」
「そうですよ、それを忘れるためにお姉ちゃんの家に来たのに…マカナちゃんが悪い」
「知らんがな。なんなら国王の位を譲っ「結構です!」
「それにしたってルカ君、見違えるようだね〜昔の聞かん坊が嘘のようだ、あんなに人見知りが激しくなるだなんて…」
(──あっ、アラートが…ヤバいな、そろそろ切らないとアドレスが特定されてしまう…)
「いやほんとよ、フランに連れられて空に上がったあの頃が嘘みたい」
「本人は何て?」
「まるで覚えてないってさ、その話を聞かせてやっただけでビビって逃げ出すんだもん」
「ウィゴーさんに似たんでしょうかね〜」
「そうなのよ〜あいつも気が小さいくせに絶対泣いたりしないのよね〜」
「ジュディスさんが惚気るだなんて珍しいですね」
「まあ、本人もいないしね」
(※たたたとリビングへ駆けてくる足音)
「せっけん!せっけんどこですか!」
「──こら!あんた服着なさい!」
「え〜すぐ入るのに〜」
(※ヴィスタとウィゴーがリビングに戻って来た)
「──なっ!!──うぬぬぬっ静まれ我が暗黒の性癖よ!アリーシュの努力を無駄にするつもりかっ!ぐががが「余計な事を言ってないで早くその目蓋を閉じろ!」
「ルカ!早くこのおじさんから逃げるんだ!捕まったら晩御飯抜きだぞ〜!」
「やだ〜!やだ〜!」(※たたたと駆けて行く)
「あ、危ない…あと少しで深淵に飲み込まれるところだった…ヴィシャス!きちんと教育しろ!」
「わ、悪かったわよ…」
「…え、ていうかルカの裸で…?」ヒソヒソ
「…え、本当に大丈夫なんですか…?」ヒソヒソ
「…い、家に帰ったら尋問するから…」ヒソヒソ
(※だだだとリビングに駆けて来る足音)
「も〜石鹸取って来てって言ったのに……──あ」
「ぎゃーーー!!」
「なっ!」
「ば!馬鹿ナディ!何て格好でっ…」
「ああ、あれには勝てん、私では無理だ」
「いやアリーシュそういう問題じゃないでしょ!」
「いやもう良くない?ルカ君の裸も見たんでしょ?」(※すっぽんぽんのままリビングをうろつき回る)
「止めろ!止めてくれ!それ以上見せないでくれ!自分の奥さんですら芋に見えてしまう!」
「は〜人間ってあそこまで美しくなるもんなんだね…」
「あ、フレア、その調味料取って」
「おっけー」
「おおおい!料理している場合か!」
「ナディ!子供の教育に悪いから──(※たたたと再び、ルカがリビングに入って来た)
「おばさ〜ん、シャンプーもないよ〜!」
「──あ、もう無理、深淵に飛び込んだ方が楽だわ。すまないアリーシュ、その子が最後だ、二度と勃つ気がしない」
「ヴィスタ!お前という奴はっ、お前という奴は!少しは抵抗しろ!」
「お、あったあった。なに?シャンプーもないって?どこにあったかな〜「だから服着ろって!」
──IPアドレス無効、ネットワーク非接続。
(────あ!しまった!良い所だったのにっ)
──盗聴の盗聴終了。
──今回のログは永久保存。
*
三軒目の家庭訪問は一軒目と同じマンションであり、というかそのお隣に住む壮年の男性宅だった。
職を失い、貯金を切り崩す毎日、日に日に焦りが募り...そこまでは覚えているが、途中からまたしても頭痛に見舞われてしまい、ろくすっぽ話を聞くことができなかった。
その頭痛は二日目のインターンが終わるまで続き、私はずっと気分が優れなかった。
──だからだろう、こんな事になってしまったのは。
「ごめん、今のレイアは感じが悪いよ、話してられない」
「…………」
「自分の親を悪く言うことになんの意味があるの?」
「そ、そういうつもりじゃ…ご、ごめん」
ホテルへ帰り、エントランスでばったりと出会したレイアを捕まえて話をしたのだ、母が馬鹿にされていることについて。
そういうつもりはなかった、ただこんな事を言われていたよと、エイミーに教えたつもりだった。
そして、彼女が怒ったのだ。
「私のね、両親はすごい感謝してるの」
「だ、誰に…?」
「レイアのお母さんに。こっちに来るまで、私たちずっと家を転々としてたんだ、たまに知らない家族と一緒になることもあって、ついに住める家がなくなって、そんな時にこっちの引っ越しが決まったんだよ」
「……………」
「パパとママ、すごく喜んでた、ようやく自分たちだけの家が持てるって、私も友達と離れるのは悲しかったけど、こっちに来ることを選んだ」
ホテルのエントランスには沢山の人がいる、私たち同様生徒であったり、一般の宿泊客だったり、騒がしいけれど、賑やかな喧騒に私とエイミーは包まれていた。
「だから…私に優しくしてくれるの…?」
ナディ・サーストンに恩があるから、だからその娘である私に優しくしてくれるのか、そう訊いてしまった。
エイミーの表情がみるみる曇り、ひどく傷付いた顔をした。
やってしまった言ってしまったと思った。最悪だ。
悲しむ彼女から目を逸らし、ピカピカに輝くエントランスの床に視線を落とす。「違うよ」という声が頭上から降り注ぎ、それでも私は視線を上げる勇気が持てなかった。
賑やかな喧騒が私だけを包み込む、彼女はもう居なくなっていた。
◇
「三日目ご苦労様!今日は僕に付いてお手伝いしてくれるかな?「…………はい「あ、え、ええと…た、体調が悪いのかな…?「…………いいえ、仕事ください「あ、ああ、うん!じゃ、じゃあこれをお、お願いしようかな、簡単な打ち込み作業だからすぐに慣れるよ!」
授業はもっぱらタブレットだけど、仕事ではキーボードが主流らしい。物理接触のUIは学校の授業でも一通り習ったのですんなりと使えた。
カタカタ、指先に軽い刺激が走る、カタカタ、まるで自分がロボットになったかのよう、カタカタ。
無心、無心、無心、ひたすらキーボードを叩いて打ち込む。
エイミーと別れてからの事は断片的にしか覚えていない、やたらと味が濃いフィッシュフライの味、それから冷たいシャワー、最後は同室の子たちの細やかな話し声、そして今に至る。
カタカタ、無心無心、今の私にはこれが心地良い、何も考えずに済む──。
「──え?もう終わった?「………はい、他にありますか?「え、ちょっと待ってね……あ、じゃあこれもお願いしていい?「………はい」
カタカタカタカタ、無心無心。
「ええ?もう終わった嘘でしょ──本当だ…君仕事が早いね。あ!じゃあこれも!「………はい」
プリントアウトされた数字の羅列をキーボードでインプットしていく、この一連の動作に果たして何の意味があるのか知る由もない。
アロンダイトの一階、市民の人たちも良く尋ねてくるフロアのその奥でお手伝いをしている。同じフロアにいる他の生徒たちはお喋りをしながらお手伝いをしており、時にはふざけ合い遊んでいる生徒たちもいた。
そんな生徒たちを誰も注意しない、そりゃそうだ、ただのインターンだもの。
それでも私は無心でお手伝いをしていた。
──あれ、どこかで見たことがある風景だ、私だけ歩き続け、他の子たちは遊んでいる。
(デジャヴ…なんかそんな夢を見たような…)
最後の一行も入力し終え、先程の男性社員の元へ行く。
てくてくてくてく、仕事のためだけに動くこの足、てくてくてくてく。
(──ああそうだ、最後に女王蟻の死体を見たんだった)
唐突に見た夢の記憶が戻って来た。
嫌な終わり方だ。
私に仕事を教えてくれた男性社員が、二日目を担当したカゲリさんと何やら話をしていた。
「…あの子だけはちょっと、子供の面倒を見るのは嫌でしたけど仕事が早くて…」
「…簡単過ぎたってことでしょ?こっちで預かった方があの子の為にもなるから…」
まあ知ったこっちゃねえわ、と遠慮なく報告した。
「………終わりました」
ばば!と男性が振り向く。
「ありがとう!むっちゃ助かる!」
(むっちゃ…?)
「ねえ、悪いけど今から私の下に入ってくれない?「ちょっと!「別にいいでしょ、お菓子上げるから「いらんわ!「じゃあこうしよう、打ち合わせに参加させるだけ、そのあとはこっちに戻す、それでどう?「ま、まあ…それなら」
「じゃ、そういう事だから」とカゲリさんが私の手を掴み、ずんずんと引っ張っていく。
何が何やら、私の手を引っ張るカゲリさんに訊ねる。
「あの…打ち合わせって?」
「昨日一緒に訪問したでしょ?その人たちの対策会議を今からするの、そこに君も参加してほしい」
「え…ええ…?それ、私なんかが参加してもいいんですか?」
フロアを突っ切りエントランスに出る、今日も今日とて一般の人や社員たちでごった返している。
「…………?」
その人垣の中からこっちをじっと見ている視線があった…ような気がした。良く確認しようにも、カゲリさんがさらにぐいっと引っ張ったので視線を変えざるを得なかった。
立ち止まり、カゲリさんが私の両肩に手をぽんと置く。つい先程までお菓子でも食べていたのか、チョコレートの匂いがふわりと届いた。
「社員顔負けで業務をこなす生徒がいるって聞いてみれば、君のことじゃない、あんな簡単な仕事じゃ味気ないでしょ?」
「いやだからと言っていきなり会議はどうなんですか?せめてその会議の内容だけでも先に教えてもらえないですか?」
「そりゃ確かに。こっちに来て」
私はただのカタカタロボット無心号、言われるがままカゲリさんに連れられ、昨日母の悪口を言っていた人たちが座っていたソファスペースにやって来た。
そこでカゲリさんと向かい合うようにして腰を下ろす。
「昨日、私のお手伝いで家庭訪問に行ったよね?覚えてる?」
「は、はい、三軒目の方はあまり覚えていませんが…」
「その人たちについて今から会議をするの、どうやったら解決できるか」
私はそこに疑問を抱いた。
「どうしてカゲリさんたちが?本人の問題ですよね」
「そこまでサポートするのが私たちの仕事なの、だから本人たちに変わって私たちが会議で解決へ向けて協議をする」
「はあ…」
「あまり納得してなさそうね」
「そりゃあだって…自分の悩み事を他人に解決してもらうのって…なんか…変?みたいな」
昨日の事がまざまざと蘇る。エイミーにあんな顔をさせてしまったのは紛れもなく私自身だ、それを他の人に何とかしてもらうのってちょっと変だ、それでエイミーが笑顔になっても私は喜べる自信がない。
「ふ〜ん…なら君はどう考えてるの?例えば騒音に悩んでいる一人目は?」
そこでずいっとカゲリさんが顔を近付けてきた。やっぱりだ、何の化粧っ気もない口元にチョコが付いていた。
「え、ええと…そうですね、音がする時だけ外出する、とか、幸いにもカゲリさんたちはお隣さんの事も知っているわけですから」
「その二人に協議させるってこと?」
「ああ、それが良いかもしれません、直接話し合ってもらった方が確実だと思います」
「………………おっけ」ちょっと間があった、提案した内容を吟味したのだろう。
「じゃあ二人目は?」
「その隣人さんをホームヘルパーとして雇うのはどうですか?」
「はあ?」
今度は眉を顰められた、そんなに変な提案だっただろうか。
「え、そ、その隣人さんは仕事がなくて困っているんですよね、それなら女性のお母さんを介護してもらったら…と思ったのですが…」
「ウィンウィンって事?」
「あ、ありていに言えば、そうですね」
「……………………………」
長い沈黙の後、カゲリさんがばば!と立ち上がり、ずずい!と私も立たせた。
「やっぱり会議に参加してくれる?それからその話を皆んなにもしてあげて、そういう観点はなかったわ」
「え、え、ええ〜?」
カタカタロボット無心号、会議に出動要請!直ちにスクランブル発進せよ!
突然の事に頭は大混乱である。
◇
ま、そう簡単に採択されるはずもなく、私が提案した内容は様々な検証がなされ、「いやちょっとそれは…」みたいな感じで見送られることになった。
けれど、方向性としては悪くないみたいで、私はカゲリさんと共に再び家庭訪問する事になった。
ガチ?しかも半日で三件全部、ガチ?
「ごめん今日残業になると思う」
「は、はあ…」
こちとらインターンだよ分かってんの?とは言わず、むしろ渡りに船だと思い残業になることを了承した。
だってホテルに帰りたくない、話す相手もいないし、唯一の親友であるエイミーにもそっぽを向かれている状態だ。
やって来た一軒目のお宅は騒音に悩まされている男性だ、事前に約束が取れていたのか、その人がすんなりと対応してくれた。
そして昨日と同様、玄関先でその人と会う。家に上げたくないのかな?
「その人と協議、ですか?」
「はい、騒音に悩まされるその時間帯だけ外出するとか、その時間の調整を隣人の方と直接あなたご自身がするのです」
「いやいやちょっと待ってください、僕そういうお願いしてましたっけ?どうして僕が隣に合わせて家を出ないといけないんですか?」
「いけないというか、その、隣にもそういった事情があるわけでして…」
「周りに迷惑をかけているのに事情?なら事情があれば他人に迷惑をかけていいんですか?」
のっけから丁々発止、男性はカゲリさんの話に耳を傾けることなく文句ばっかりである。
カタカタロボット、近接防御火器起動!言葉の装填よし!口を開けよ!──発射!
「そういうあなたは誰にも迷惑をかけていないんですか?」
「はあ?」
「ちょ、ちょっと…」
「落ち着いて良く考えてみてください、事情があるのはお互い様です」──次弾装填よーし!「ここはあなただけの家ではありません、様々な事情を抱えた人が集う集合住宅です、その事情を考慮できないのであればお引っ越しするべきだと思います」──オーバーキル!オーバーキル!言い過ぎた!
「何なんですかこの子供は!こんな失礼な事を──「すみませんすみません!インターンの子でして、今日のところはこれで!」
ぺこぺことカゲリさんに謝らせてしまった、けど私は謝らない、間違ったことは言っていない。
ぷんぷんと怒った男性に背を向けてエレベーターへ逃げ込む、てっきり怒られるかと思ったけどカゲリさんがb!とグッジョブしてくれた。
「良く言ってくれた!さすがナディさんの子供!──ああ、今のはなしで、結局のところそれなんだよね」
「は、はあ…」
「君が言っていた事は正しいし結局本人がどうすべきか判断しないといけないの、引っ越しするべきか隣人の事情を考慮するか、それでもあの人は私たちに追い出せとしか言わないから」
「追い出せって、それだけの理由で追い出せるものなんですか?」
カゲリさんが子供みたいに笑って「無理無理」と手を振った。
「だから私たち、新しい家の斡旋をしていただけなの、隣人さんにもね、それが限界だった、そこに君がああやってダブルパンチを放ってくれたからちょっとスッキリした」
「オーバーキルだったかもしれません、そこはすみません」
「オーバーキルって」とカゲリさんがまた笑う。
ろくすっぽ話し合いにならなかった一軒目の男性宅を後にし、私たちはそのまま二軒目の女性宅へ向かった。
出勤間際だった女性は、少しバタバタしていたけど私たちを家に上げてくれた。
「すみません、急な訪問で」
「いえ、私もすぐに出ないといけないのであまり時間はないのですが…いらっしゃい」
「あ、お、お邪魔します」
今日は顔色が良い、昨日はあんなに沈んだ顔をしていたのに、仕事前だからだろうか?
上げてもらったと言っても玄関先だ、女性はお出かけ用のサマーコートを羽織ったままだ。
カゲリさんが世間話も挟まず直球を投げた。
「ホームヘルパーを雇うのはどうでしょうか?」
それだけで伝わったらしい、女性はすぐに解答した。
「考えなかったわけではありません、けれど利用料金が高過ぎて断念したんです」
「それはこっちで?」
「と、言いますと?」
「この地区は何かと値段が上がりますが、別の地区であればいくらか料金を抑えられるかもしれません」
「それは…確かにそうかもしれませんが、わざわざ別の地区まで来てくれる人がいるのですか?それに出張料金だって発生しますよね?」
「う、う〜ん…それもそうですね…」
さっきはオーバーキルしてしまった、今度はそうならないよう慎重に言葉を選ぶ。
「えと、その、お引っ越しは…?もっと安い所に住む…とか」
「………………」
ええ〜どうして〜?私がそう訊ねただけで、女性の顔がみるみる曇っていった。
オーバーキルにはならなかったが、どうやら私はたった一言で急所を突いてしまったらしい。
「父親と、離婚した父親と別れてまでこっちに引っ越ししてきたの…もう何があっても戻れない…それだけはできないのよ」
「そうだったんですね…」
カゲリさんも初めて聞いたようだ、普段のおちゃらけた(ふざけたとか、そういう意味)雰囲気はなく、女性と同様にしんみりと眉が下がっている。
「引っ越しのことで、その、喧嘩、されたとか、ですか?」あれ?私の口が止まらないぞ、どうなってんの?──修理班!修理班!
「そう、本当の事を言えば、引っ越しする前から母の容態が悪かったんです、それでも私はどうしても引っ越ししたいと言って、両親を喧嘩させてしまって、母は私に付いて来ると言ってくれたんです。だから、何があっても母を見捨てることはできません、私が頑張るしかないんです」
「それは…でも、だからと言ってあなたの体が…」
自業自得です、と、女性が言い、そして二軒目の話し合いが終わった。
◇
女性宅を後にし、トリスタン地区を離れた所で私はカゲリさんに訊ねた。
「どうして一軒目が終わったあとにそのまま三軒目に行かないんですか?というかすぐ隣ですよね?」
「そりゃ嫌でしょ、文句を言った相手のところにそのまま行かれたら。これでも気を遣ってるんだよ」
「ああ、そういう理由で…」
トリスタン地区を離れるとすぐにガウェイン地区が見えてくる、山吹色の可愛いらしい家のすぐ横に鋼鉄製のマンションが聳える。これはこれで面白い景色だ。
「ねえ、君はどう思う?さっきの人」
地区の境界線を跨ぎ、日陰に佇むマンション前を横切る。
「もどかしい、っていうのが正直な感想です」
君本当に中学生?とカゲリさんがニヒルに笑う。
「私もそう思う、何とかできそうなんだけどどうにもしてあげられない、誰も悪くないのに誰もが苦しんでいる、戦場みたいに銃を向け合っている方がまだ気楽なもんだよ」
「カゲリさんも…軍人だったんですか?」
「そうだよ、君のお母さんの下に付いていた、うんと昔の話だけどね」
「そ、そうだったんですか」
この人は私がそうだと知っていて、ずっとおちゃらけた接し方をしていた。他の子たちと同様に、私だけ特別に良くすることもなければ、他の子を特別に悪くすることもなく。
エイミーと同じだと思った。だからだろう、カタカタロボット無心号の燃料になっているこの胸の苦しさをカゲリさんに伝えようと思った。
「友達と喧嘩した?君が?」
「そ、そうですけど…」
「ふ〜ん、君は随分と賢いからそんな事しないと思ってたけど…ほんと、人は見かけによらないね。で、まだ仲直りしてないんだ?だからその話を私にしたんでしょ」
「はい…エイミーも私を特別扱いせず接してくれていました、他の子は私のお母さんとママの話ばっかりするのに、それなのに私がお母さんの悪口を言ってしまって、それで怒られて…」
「へ〜凄く良い子じゃない、自分の悪い所を注意してくれるなんて」
マンション前を通り過ぎ、トリスタン地区とは打って変わって近代的な通りに出た。
「どうすれば仲直りできますか?」
またカゲリさんがニヒルに笑う、その笑顔がマンションの日陰によって隠され、より一層意地悪に見えてしまった。
「それ、私に訊く?君はさっきまで何を訊いていたの?」
「え、え?」
「良く考えてごらん、私は君の友達ほど優しくないよ。習うより慣れろ」
「は、はあ…」
「煎ずるところ、周りはサポートするのが関の山、最後の峰を登り切るのは本人じゃないとできない」
「な、なんの話を…」
「アドバイス」と言い、カゲリさんがポケットに仕舞っていた携帯を取り出した、着信があったのだろう、それと一緒にポケットに入っていたお菓子の包みがぽろりと出て来た。この人ほんと。
私はそれを拾い、携帯で話し始めたカゲリさんに見せたあと、遠慮なく包みを破ってチョコレートを取り出した。
「〜〜〜!〜〜〜!」
「これが残業代です〜」と、カゲリさんの手を躱し、ぽいと口の中へ放り込んだ。昨日は遠慮なくくれたくせに、そんな必死にならなくても。
電話を終えたカゲリさんが一言。
「君も会議に出席するように、緊急で入った」
「え〜?まだあと一軒残ってるんですよ?」
日はまだ沈んでいない、これなら残業にならなくて済むと思っていたのに、「残業代ならさっき貰ったでしょ」と言ってきた。
「──今すぐ吐き出します。ぺ!ぺ!ぺ「止めなさい!」
*
「もうほんといい加減にしなよノラリス!昨日だって裸を見たばっかりじゃん!」
「見損なったよノラリス、君がそこまでふしだらと思わなかった」
「死ね」
「ビスマルク!言葉を選んで!それはさすがに直球過ぎる!──これだけ!これだけだから!黙って見てて!」
──ライアネット・コミュニケーションログ、盗聴の盗聴。
「…ほんとお願いします、娘の相手をお願いします」
「…分かってます、分かってますから」
「…まさか自分の娘と同じ会議に出席する日が来るだなんて、娘が発言したら平常心で対応できる自信がない!」
「…皆んなそうですから、私も自信なんてありませんとも。──あ!カゲリが戻ってきましたよ!」
「遅くなりました、本日はインターンの生徒も出席させていただきますのでよろしくお願い致します」
「…………………………」
(ん?この子すごく固まってるよ?さすがに緊張してるのかな〜)
(その子主人の娘)
(なんと!自分の母親と同じ会議に出席しているのか?!こりゃ見応えありそうだわい)
「あ、どうぞ、おかけになってください。突然の事ですみません、けれどカゲリさんがどうしても君をと推薦されたので、出席してもらう事になりました。緊張せずリラックスして、会議ってこういうものかと、見学しててください」
「は、はい…よ、よろしく、あ、い、いつも母が…あ、ありがとうご、ござい、ます…」
(めっちゃガチガチやんけ!)
(いやそりゃ無理だろ、リラックスしろとか言われても無理無理)
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます、私の子供にも見習わせたいほど立派でしたよ。──今日緊急で集まっていただいたのは全権市政のテストについて、その進捗確認と変更せざるを得ない事がありましたので、皆さん方に集まっていただきました」
「変更点とは?」
「大した事ではありません、ですがお伝えしなければならない事です。…どうします?先に伝えますか?」
「…では私の方から。──皆様方に協力していただいている法案可決における市民参加の提案書並びに法改正草案書、所謂全権市政について、国内省から修正指示が下りてきました。内容は市民参加における条件の引き上げ、並びに参加数の一部緩和です」
「条件の引き上げ?厳しくなるという事ですか?」
「そうなります、現状のテスト状況を鑑みて国内省から草案書通りに可決するのは難しいと判断されました。また、全ての市民が可決投票権を有するのではなく、一部に限定すべきだと意見が出されています」
「まあ、確かに…それどころではないと拒否されていますし…その引き上げの具体的な内容は?」
「期限が設けられる事です。現在は無期限による可決投票がなされていますが、一定の期間を過ぎると権利が失効され、失効された票を加味した上で否決が決定されます」
「それって…下手をすれば法案そのものが通らないって事ですよね?」
「そうなります。ただ、提案書を提出するにあたって期限の有無について議論を終えています。どっちもどっち、みたいな?結局良し悪しの問題ですので、無効目的で投票不参加であろうが、反対票だろうが、可決されない法案は出てきます」
「それはそうなんでしょうけど…」
「よろしいですかサーストンさん、やはり全権市政は難しいのではありませんか?その時その時の市民感情によってどんなに優れた法案でも否決されかねない事態が起こり得るのですよ?それが果たしてこの国の為になるのでしょうか?私はそうは思えません」
「それも市民たちが決めること、私たちはそのサポートをするだけです」
「いやそれはあまりに無責任と言いますか…元国王陛下がして良い発言ではないかと…」
「では──「ちょっとよろしいですか?提案書そのものについての議論は終えているはずです、今は国内省から下りてきた指示と意見について議論する時間です。よろしいですか?」
「……ええ、はい、失礼致しました」
「こちらこそ失礼致しました──ん?何でしょうか?まだ何か意見がありますか?」
「──あ!その、すみません、生徒がですね、その、法案可決の責任を市民に委ねることに何の意味があるのかと、その質問を受けていまして」
(確かに、そんな事してるのってこのマリーンだけだよね?)
(私の所はその責任すら自由売買されているからな、そんなもんだろとしか思わないが)
(変な所だな、ファーストは(そういうお前が一番変だがな(やかましいわ!)
(静かにして!)
「分かりました「…えっ、サーストンさん?私が答え「…自分が始めた事ですので。──幸せになること、自分が望んだ物を手に入れること、またはその環境を手に入れること、簡単だと思いますか?」
「…………え、い、いえ…か、簡単では、ない、です」
「では、その人たちが多く集まるグループないし国家が幸せになることは簡単だと思いますか?」
「…………い、いえ…」
「だから、国家にはルールというものがあります、できるだけ多くの人たちが幸せになれるように、あるいは不幸な目に遭わないように、今まではそういったルールは一部の人間が考え、そして一部の人間だけが決めてきました。このプロセスが健全だと思いますか?私はそうは思わない、だから市民の人たちにも為政に参加してもらう場を作ったんです」
「さ、最後の責任を…み、皆んなに、と、いうことですか…?」
「そうです、私たちが考えたルールをハワイに住む人たちにも考えてもらい、そして最後に決めてもらう。決めてもらうと言っても票可決による分担責任なので、もし失敗したからといって誰か一人のせいになるわけでもない。これが私の考える全権市政です」
(え、この人本当にリビングを裸でうろついてた人?全くの別人じゃん)
(ね〜凄く格好良いね〜昨日はあんなに怒られてたのに)
(素晴らしい裸体だった。こんな人が北欧にもいたらいいのに…)
「…………し、質問、いいですか?」
「何でしょう?」
「そ、その人の幸せは、その人のし、幸せです、そんな所にまでく、口出しするんですか?」
(なんと!)
(噛み付いた!)
「口出しって…ええと、詳しく訊いても?」
「え、だ、だって、一人の幸せですら難しいのに、沢山の人が集まるとより難しいって言いましたよね…?それなのに国がルールを定めて、それに従わせるんですか?その人が幸せになる努力をすれば済む話ですよね」
「ですから、それを押し付けではなく投票という形で市民にも理解してもらうよう「誰かからそうしてくれって言われたんですか?それも勝手に決めたことですよね?」
(お!娘もボルテージが上がってきたな、すらすら文句言ってる!)
(ノラリス!どっちの味方?!どっちの味方をするの?!)
(可愛いと美しいは正義だ…その二人が全面対決ってそれすなわちただのラグナロク)
「勝手にってあのね──「…サーストンさん!…怒ったら駄目ですよ!「…分かってますよ!」
「カゲリさんのお手伝いで、どうしようもない、どうすることもできない人たちと会ってきました。誰も悪くないのに誰もが苦しんでいる、その人たちのサポートはできても最後に乗り越えるのはその本人にしかできない、そう教わりました「いやあのねそういう意味じゃなくてね!「私だってそうです、大事な親友と喧嘩しました、その親友と仲直りできるのはカゲリさんではありません、私です。──ここに、国としてのルールを当てはめたところで、一体誰が幸せになれるっていうんですか?」
「………………」
(いやそういう事ではないんだけどこの子の言っている事も正しい!)
(正論と正論の殴り合いだ、一番泥臭い)
(人ってこうやって争っていくんだね〜)
(ああ確かに、戦争はこの延長線上にあるんだろう、親子ですらこれなんだ、国と国ならなおさらだ)
「あ、あなたのお話しは良く分かりました…「本当に分かってるんですか?いつもキスばっかりしてくるくせに「それ今関係ないだろ!──ああもうっ「キスばっかりしてるくせに〜!私の言う事なんて全然聞きやしないくせに他人の言う事は聞くの?!だったら私の言う事も聞いてよ!「──はいはい!は〜いはい!会議は一旦締め!休憩休憩〜!「そんな人が偉そうに幸せ語ったって誰も聞きやしないよ!「カゲリ!その子を連れて休憩室へ!「ほい来た!「ば〜か!ば〜か!お母さんのせいでエイミーと喧嘩したんだからね?!国より私を幸せにしてよ!「今あんたが自分で本人が努力するしかないって言ったんでしょうが!「サーストンさんも!ほら!早く休憩室に行きますよ!「ママに振られちまえ!「海に放り投げるぞこの馬鹿娘!「やれるもんならやってみろ!」
(──はぁ〜おっかしいの〜こんな賑やかな喧嘩初めて見た〜ふふふっ)
(人類もこうやって喧嘩できればな〜ここまで後腐れすることなかったろうに〜ぷぷっ)
(いやいいもん見せてもろたわ、ノラリス!感謝するぞ!)
(あ〜もう気が気じゃない…訪問を切り上げて早くマリーンに帰ろうかな…)
(いやいや、お前さん、こいつらの話を聞いてたか?結局本人が何とかするしかないんだ、お前さんが介入したところでどうにもならん)
(それもそうだ。リンカーンの話も断っておこう、良い勉強になった、本人が立ち上がる以外に最良の解決策はないんだから)
──ライアネット・コミュニケーションログ、盗聴の盗聴の終了。
──本ログは道徳的教材として保存を決定。
*
噂というものは制限速度がないようで、会議室で母と喧嘩した話はあっという間に広がった。修理班?修理班!
不思議と後悔はない、どうしてだろう?とてもスッキリとしていた。
その事を休憩室まで私を担ぎ込んだカゲリさんに言うと、「全然反省してないね」と笑ってくれた。
その休憩室は入り口が二つもある変わった所だった、扉を抜けてまた扉、みたいな。休憩室は私の部屋の半分くらいだろうか、トリスタン地区に売られてそうな木製の椅子が壁際に並べられ、中央には脚が高いラウンドテーブルが一つ置かれている。
この入り口は何なんだとカゲリさんに訊ねると、その昔はここが喫煙室だったそうだ。
「ああ…煙が外に出ないために…」
「そ。そんな事より、さっきのあれはなに?堪えるの必死だったんだから。ああ〜面白かった」
「別に…私も喧嘩したかったわけじゃ…始めの方はガチで緊張してましたし…」
「それであんな喧嘩繰り広げるの?君絶対将来は大物になれるよ」
「それ褒めてます?」
「多分?」
なんじゃそりゃ。
「落ち着いた所で三軒目行きましょうか〜「ええ?私も行くんですか?「そりゃそうでしょ、あんな啖呵切ったんだから示しはつけないとね「いや私まだ子供なんですけど「だったら大人しくしておくべきだったんじゃない?」
ええ、ガチ?
カゲリさんがまた手を引っ張り座っていた椅子から立たせた、その弾みで椅子がきいと小さく鳴いた。
休憩室を出る、ここは奥まった所にあるのであまり人通りはない。それなのに私は誰かの強い視線を感じた。
「………?」
「どうかしたの?」
右を向けば行き止まりになっており自販機コーナーが並んでいる、左を向けばエントランスがある。
不審な人はいない...と思う。私のことをじっと見ながら二人組みの社員さんが、自販機コーナーへ向かって行った。
「いやその…」二日連続だ、昨日も誰かの視線を感じた、思い過ごしだと思うが念のため伝えることにした。
「昨日から誰かに見られているような…そんな感じがします」
カゲリさんは馬鹿にすることなく「それガチ?」と言ってくれた。
「気のせいだと思うんですけど…」
「いやいや気のせいじゃないと思うよ、君有名だし、サーストン家のご令嬢なんだもの。私の方からもオハナさんに一報入れておくよ」
「す、すみません…」
「まあ、今君が見られているのは元国王陛下とドンぱちしたからだと思う──痛い痛い、冗談だから。他に気付いた事があったら遠慮なく教えて、いい?」
「はい、分かりました」
途中ふざけはしたが、真摯に対応してくれた。
母もこうあればと思う。
そして母も、私にこうあれと思うことがあるのだろう。
その後、私たちは三軒目の壮年宅への元へ足を運んだ。
夕日が綺麗だった、あの日見たとものと同じ、距離を縮めようと思ったあの太陽と同じだ。
◇
「こんにちは、急な訪問失礼致します」
「いえ、構いません、どうぞ上がってください」
中へ案内されたので私も玄関の敷居を跨いだ。シューズボックスの上には沢山の求人情報誌が乗せられている。
廊下を渡ってリビングへ、そこでまた強い既視感にとらわれた。
(あ──私ここ知ってる…やっぱりこのマンションだ…)
男性が茶を出すと言ったが、カゲリさんは謹んで辞退していた。
リビングのソファに腰を下ろすなり早速本題に入る。
「ホームヘルパーはどうでしょうか?」
「ホームヘルパー…ですか?それは所謂介護といったような…」
「そうです」
男性は予想外の事だったのか、少しだけ口が開いたままだ。
「いえ、ですが…確か、資格が必要でしたよね?誰にでもできる仕事ではなかったと思うのですが…」
必要最低限の物しか置かれていないリビングはどこか寂しげで、不思議とこの人だけ置いていかれているような感じがした。
一人暮らしなら絶対必要ないはずなのにリビングには背の高い食器棚が置かれ、ダイニングには家族向けの大きなテーブルも置かれている。
この人は元々誰かと一緒に住んでいたのかもしれない。
その答えはすぐに分かった。
「いいえ、介護施設を経由せずに個人間で契約を行なうのです、ホームヘルパー、というよりお手伝いという形で」
「それはまた…私のような年齢でも?そのお相手は?」
「トリスタン地区に住む壮年の女性です、今はその娘さんが面倒を見られているのですが、仕事が多忙で手が回らないみたいで」
「──リズ、ですか?」
「え?そ、そうですが…」
「………」
そう、トリスタン地区に住む女性の名前は壮年の方が言うように『リズ』だ、その名前が出てきたことに驚き、すぐに合点がいった。
この人だ、リズさんの母親と離婚した父親というのは。
「まさか…ああ、そうだったんですね、そうとは知らずに」
「いえ…そうですか…リズが…いえ、ですが、あの子はどうしても引っ越ししたいと言って、それで家を出て行ったのですよ?私の妻も引き連れて、それで今更になって…」
リニアカタパルトセット!電圧上げよ!──臨界点到達!いつでもどうぞ!──発進せよ!
「アイアイサー!」
「ちょっ」
「………?」
「あ、すみません。──あの、仲直りはできないんですか?」
疲れた顔をし、口元すら綻ばなかった壮年の表情に亀裂が入った。
「何を馬鹿な…向こうが出て行くと言ったんだ、それを止めたのは私なんだ、それがどうして私から頭を下げなければいけないんだ!あべこべではないか!」
私の提案に激昂した、みるみる顔を赤らめ唾を飛ばし、自分は間違っていないと言い切った。
「リズさん、何があっても戻れないと言っていました、苦しそうな顔をして、今のあなたのように疲れ切った顔をして」
「…………っ」
「私も友達と喧嘩をしました、すごく辛かったです、カタカタロボット無心号が発進「ちょっとふざけたら駄目「ふざけてません!──インターンなのにカタカタとキーボードを無心で叩いて、お手伝いをするぐらい辛くて…」
壮年の方はじっと私のことを見ている、食いるように見ている。
「だから、一緒に仲直りしましょう、私も仲直りします、本当は誰かにやってほしいけど、怖いけど、友達にごめんねって言います、私は悪くないのに、お母さんのせいなのに、それでも私はやっぱりその友達のことが大切だから、ごめんねって言います」
「…………一緒にしないでもらいたい、私たちはただの喧嘩ではないんだ」
「喧嘩に浅い深いがあるんですか?あなたがリズさんの所へ行って、自分が手伝うと言ったら絶対に喜びます、だって、リズさんはあなたの文句を一言も言っていませんでしたから」
「………………………」
長い長い沈黙の後、「考えさせてくれ」と、低く小さな声でそう言った。
私は壮年の方に自信を持って言った。
「私は仲直りしてきます、あなたがどうとか関係なく、こんな苦しい気持ちは一日で十分です」
「……………」
「失礼な事を言ってすみませんでした、でも、率直な思いです」
ありがとう、と、何故だかお礼を言われてしまった。
◇
「ごめん、今日は私の家ね」
「え!何でですか!」
マンションを後にし、深い群青色の空の下、ホテルへ向かっている時にカゲリさんからそう言われてしまった。
「君の勘が当たってたの」
「んん?」
「不審人物、どうやら昨日ぐらいからアロンダイトに入り浸っている人がいるみたいでね、他の職員からも報告が上がってたのよ」
「それでどうして私だけ?」
「君さ、いい加減自分の立場に自覚を持ちなよ。サーストンって名前は誰も無視できないの」
「そんなのただの親の後光じゃないですか!「後光って「私は知りません!関係ありませんから!」
エイミーと仲直りするって言ったんだ!だから絶対ホテルに帰る!そうでなければあのおじさんに嘘を吐いたことになる!
カゲリさんから逃げるように歩き出すが、ぱし!っと腕を掴まれてしまった。
「駄目駄目、君に力は無くても名前に力があるの。君を人質にして身代金を要求するような輩だったらどうするの?」
「どうって──え、その不審な人が誘拐を企ててるっことですか?」
「そう、だからオハナさんも今日一日はそっちで預かれって言ってるの、学校の先生方もそれで了承してくれてる」
「え〜〜〜!だから私はエイミーと仲直りを「誘拐されたらどうすんの?仲直りどころじゃなくなるんだよ?「え〜〜〜!!!」
いくら駄々をこねようが、逃げ出そうともがこうが、カゲリさんにずんずんと引っ張られていった。
そしてやって来たカゲリさんのお家はクーラント地区にある、小ぢんまりとしたマンションだった。
一階にはお菓子屋さんの店舗が入っており (いかにもっぽい)、部屋はたったの三室のみ、その最上階がカゲリさんのお家だった。
到着したのはもうすっかり日が暮れた後だ、高い塔の回りには星が散りばめられており、半分のお月さんがこんにちはとしていた。
「さ、ここが私の家だから」
「…………」
「さ、ここが私の「聞こえてますから。お、お邪魔、しま〜す…「何をそんなに怯える必要があるのか」
玄関扉を開けると、ものすごく意外な事にフルーツの香りが漂ってきた。
「あれ、異臭がしない……「んんん?!君私の家何だと思ってたの?!」
ゴミ袋もない、料理が残った容器もない、飲みかけのペットボトルもない、普通に片付いて普通に綺麗な自宅だった。
とても普通、ちょー普通、何かのカタログに載っていそうな単身者向けのマンションだ。内装も質素でどこか物足りない感じがする(とくにトリスタン地区と比べると)。
何でもここは一番早くに建てられた建物らしく、当時は"質"より"量"にこだわっていたのでこういう質素なマンションが多いんだとか。
「あ、それで…」
「え、ていうかなに?私の家ゴミ屋敷か何かだと思ってたの?」
「だっていつも身嗜みが整っていないですしお菓子好きですし。身嗜みって一番人目につくところですよね?そこに気を遣わない人が自宅の清掃なんかするはずがないじゃないですか」
そう指摘すると、「いやこれは」とか「服装に興味がないだけで」とか、頬を赤く染めながら言い訳を始めた。
いやね?リビングにも瓶詰めされたクッキーだったり、お菓子受けにこんもりと入った飴があるにはある、けれど掃除もきちんとされていてどこも汚れていないのだ。
カゲリさんが「は〜恥ずかしい」と言いながらも、私のためにマットレスを用意してくれた。一応念のため鼻を近付けてすんすんする、「いやほんと失礼だね君!」やっぱりフルーツの匂いがした。
「いや、念のために」
「分かった分かった!全くもう…私ちょっと仕事の電話をするから君もそうしなよ」
「え?」
「友達、仲直りするんでしょ?電話でもできるよ」
「……………」
「はいはいビビってないでさっさとする、大人にあれだけ文句言えるんだから仲直りなんて余裕でしょ──あ、もしもし…」と、カゲリさんが引き戸を開けて自室へ入って行った。
ふん!とお腹の底に力を入れ、戸棚に置かれていた瓶を一つ持ってベランダに出る。
ベランダからでも高い塔を見ることができた、星空を突き抜けるように聳え、その先端が何度も赤く点滅している。
瓶の蓋を開けてクッキーを口へかっこむ、もぐもぐごっくん、程よい甘味が舌を刺激して胃袋へ落ちていった。
エイミーの通話ボタンをタップするまで時間がかかったが、まあ、何とかタップできた。
「…………」
耳に当てた通話口からコール音が鳴る、近くの港から船が出港でもしたのか、ぽっぽ〜と汽笛が耳に届いてきた。
そして出た、エイミーが。
「……………」
「……………」
無言、互いに無言だ。
けれど、何だろう、その無言が何故だか気にならない、それは向こうも同じなのかこちらに要件を催促するでもなく、電話を切ることもなかった。
そして、もう一度汽笛が鳴ったあと、通話口から湿っぽい鼻をすするような音が聞こえてきた。
「ご、ごめん、ごめん、ね」あれ、思っていたより私も湿っぽい、修理班が適当な応急処置をしたせいだろう。
「ううん」とエイミーが言ってくれた。
「ごめん、しょ、正直に言うと…私は悪いって思ってない…でも、エイミーと喧嘩したままって凄く嫌だから…」
「何それ…でも、私もいいよ、どうでもいい、レイアがもう話してくれないって思うと、そっちの方が寂しい」
どうでもいいと言ってくれた、私の母より、自分の両親のことよりも、私を優先してくれた。
最後にもう一度、「あんなひどいこと言ってごめんね」と言い、「もう二度と言わないでね」と許してくれた。
ぐんぐん心が上向く、まるでスクランブル発進した飛行機のように、心の曇天を突き抜けてうんと高く、気持ちが上向いてきた。
さようならカタカタロボット無心号、お陰で友達と仲直りすることができたよ。
そうとなればあとはもうただのお喋りだ、私はカゲリさんのクッキーをぽりぽり食べながらエイミーとお喋りに興じた。
「──あ、そうそう聞いたよ、お母さんと喧嘩したって本当なの?」
「うん、会議室でしてやった」
「してやったじゃないよ〜何やってるのほんと、色んな子から聞かれたんだからね?元国王陛下とうちの生徒が喧嘩したのは本当かって」
「あ〜そっか…皆んな私と仲良いって知ってるから」
「そうだよ、もうめんどうくさいよ〜み〜んな私の所に来るだもん。あ、あと、エネル君にお礼言っておきなよ」
「誰それ」
「レイアが携帯投げた男の子!スカイダンサーのファン!嘘でしょ同じクラスなのに?」
「あ〜うそうそ、からかっただけ」いやほんとは知らんかった。そういう名前だったのか...
「で?なんでそいつにお礼言わないといけないの?」
「エネル君がレイアはそんな奴じゃないって、他の子と喧嘩してくれてるからだよ、私見たもん」
「ほんとに〜?あいつが〜?」
「レイアは周りを邪険にしてるけど、気にかけてる子って意外と多いんだからね?」
「嘘ばっかり、み〜んなお母さんかママの話しかしないじゃん」
「そりゃレイアが自分のこと何も言わないからでしょ?だからその話しかできないんだよ」
──あ、そうか、そうだったのか...
後ろからどんどんと叩く音が聞こえる、背後を振り返るとカゲリさんが鬼の形相で瓶を指差しながらまたどんどんと扉を叩いていた。
私はこれ見よがしにもう一枚のクッキーを食べ、またエイミーとお喋りをした。
「今どこにいるの?」
「うん?カゲリさんっていう人の家。あ、不審人物って聞いてる?」
「うん聞いてるよ、レイアがその人に狙われてるかもしれないから今日はホテルには泊まらないって。大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない?私が目当てなんじゃなくてサーストンが目当てなんでしょ」
いやそれ大丈夫って言わないからとエイミーが遠慮なく突っ込みを入れ、
「今日だけ?明日もその人の家なの?」
「う〜ん分かんない、でもカゲリさんのお家ってお菓子が沢山あるからこっちの方が良いかも」
「え!何それお菓子の家みたい!私も行きたいな〜」
「何なら何か持って行ってあげよう──「は〜い没収しま〜す「ああ!」
いつの間にかベランダに出ていたカゲリさんに瓶を没収されてしまった(半分ぐらい食ってやった)。
昨日とは全然違う、眠る場所もそうだが胸が安心感でいっぱいだった。
エイミーと仲直りできたからだ、そして私が勇気を出せたからだ。
その日の夜、ロボットが寂しそうにめそめそと泣く夢を見た。私はそのロボットを慰めるでもなく、「友達を見つけないからそうやって泣くんだよ」と文句を言って喧嘩をした。私は夢の中ですら喧嘩をするらしい。
怒ったロボットが分厚くて臭い煙を吐き出しながら発進し、私は「友達見つける前に家の掃除をしろ〜!」と訳分からんことを叫んでいた。
◇
四日目。カゲリさんのお家からアロンダイトへ向かっている最中、誰かと電話をしていたカゲリさんが通話を切るなりこう言った。
「不審人物が捕まったって、今日からホテルに戻れるよ」
「え?もう?」
「あれ、嬉しくないの?」
「……………」
「おい、何故黙る。──さては貴様、私のお菓子をくすねたな?!」
「あ!あ!あともう少しだったのに!」
カゲリさんにポケットというポケットに手を突っ込まれ、家の中で一番美味しそうなお菓子を取り返されてしまった。
「バターサンドクッキー!私が一番大事にしてるやつ!」
「それやっぱり美味しいんですか?」
「このコソ泥め〜…まあ私も小さい時に似たようなことやったんだけど」
「沢山あったんで一つぐらい良いだろうって」
何故だかそこでカゲリさんが大笑い、ランスロット地区に差しかかっていたので通りには沢山の人がいる。皆んなから奇異な視線を向けられてもカゲリさんは笑い続けている。
「──は〜…因果応報ってこういう事を言うんだろうね、私も全く同じ理由で人から盗んだことあったもん」
「私が言うのも何ですが、その人に早く謝った方がいいんじゃないですか?」
カゲリさんがふるふると首を振った、今日は枝毛もなく、つるんと光っている前髪がさらさらと流れた。
どこか子供っぽくて、けれどやっぱり大人で、それでも子供っぽくて寂しそうな笑顔をしながらこう言った。
「今はこっちにいないんだよ。今頃二本の剣を携えて地球を旅してるよ」
大丈夫なのかその人、剣より大事な物があるだろうに。
カゲリさんと連れ立ってアロンダイトに到着し、エントランスに入るなり誰かがこっちに駆けて来た。
その人は初日に職場を案内してくれたオハナさんという人だった。
私たちの前で立ち止まり、荒い息を簡単に整えてから無言で腕を掴んできた。私も。
「どうかされたんですか?」
「緊急会議よ、すぐに始まるわ」
「え?え?え?え?」
「この子も出席するんですか?」
「悪いけどサーストンさんの今日の予定は全部キャンセル、こっちに付いてもらうことになりました、マカナ様──いえ、上から了承ももらっています。それでよろしいですね?」
ちょっと待ってちょっと待って。
「え、も、もしかして昨日の会議のことで?」
「いいえ違います、詳しい内容については会議室で」
ちょっと待ってちょっと待って!ごめんやっぱり戻って来てカタカタロボット無心号!私はただの生徒なのにどうして連日会議に出席しないといけないの!私の持ち場はパソコンの前なのに!
もうそれはずんずんと、オハナさんに引っ張られてしまった。
◇
「え…私の案が採用…された?」
「はい、あなたからご提案していただいた市民同士の個別契約について、省庁から許可が下りました。つきましてはカゲリと共にセルザールさんの所へ訪問して、その旨を伝えていただきたいのです」
大丈夫かこの国...子供の案を採用するって...
あ、セルザールは三軒目の壮年の方だ、リズさんの母親と離婚した元父親である。
会議室には私とカゲリさん、それからキリッと怖い目をしているオハナさんに他数名の職員の人たちがいる。皆、私の顔をじっと見ているだけだ。
「え、その、介護って資格が必要、なんですよね?自分で提案しておいてなんですけど、無資格者が介護をしても大丈夫なんですか?」
「本来であればできません、けれどこちらも喫緊の事情を抱えておりまして、今回だけ特例の措置を取ることになりました。セルザールさんには介護をしてもらいながら、資格取得のための勉強と講義に参加してもらう予定です」
「あ、そういうやつ…でも、特例って、他の人から苦情が来たりは…要は特別扱いって事ですよね?」
段々と職員さんたちの目が険しくなる。いやそりゃそうだろ!子供の案が採用されてるんだもん!絶対この人たちだって反対したはずだ!
オハナさんが手元にある資料を見ながら答えた。
「試験的な措置、という事にしてあります。今回の件で大きな問題、ここで言えば介護をする上で介護者に大きな怪我や病気など、無資格による不都合が発生しなかった場合、今後は法案に組み込むつもりでいます」
「…………?あ、その、セルザールさんが上手くいけば、今後は無資格者でもホームヘルパーとして採用して、仕事をしながら資格取得の勉強もしてもらうと、そういう事ですか?」
答えは一言だけ、「そうです」
「え、はあ…そ、それなら…い、いいのかな…」
「他に疑問点は?」
資料に落とした顔はそのまま、目線だけ私に向けてきた。普通にこわ。
「あの…私が、サーストン、だからですか?だから、私が提案した案を採用した…とかですか?」
オハナさんがすっと姿勢を正し、優しくて、けれど威厳のある声音で否定した。
「いいえ違います。──正直に申し上げるなら、あなたの案は一度議論されましたが否決されました、それはさすがに突拍子に過ぎると。けれど、そのご本人から昨日お電話があったのです」
「え、セルザールさんから…?」
「はい」自分の耳を疑った、「訪問してくれた職員のお陰で家族と仲直りすることができた、と。それから、勇気ある生徒に感謝している、と」
ぶわわと目頭が熱くなり、カゲリさんにぽんと背中を叩かれた、その弾みで涙が溢れそうになった。
「これは一重にあなたのお陰です、レイア・サーストンさん、我々で協議した結果、本件は最後まであなたに託すべきだと結論付けられました、だからあなたをここに呼んだのです」
「……………」
「長い間、この二件の相談について我々は苦慮してきました、それをあなたはたった二日で解決してみせたのです。それはスカイダンサーではなく、七色の奇跡でもなく、あなた自身のお力です」
「は、そ、それは…あ、ありがとう、ございます…でも、私はそんなつもりはなくて…」
オハナさんが「駄目です」と言った、何が駄目なの?
「セルザールさんも是非あなたにもう一度会いたいと申されています、ここで逃げることは許されません、責任を持ち、誠実に対応してあげてください。よろしいですね?」
「わ、私なんかに…私なんかが、行っても…?」
「皆、その不安と恐怖を胸に抱きながら、責任という宝剣を携えて戦っているのですよ。私も、私なんかが、という卑屈さを持っています、それでもこうして責任者として皆を引っ張っているのです」
え、それ私みたいな子供に言ってもいいの?
いいのだろう、だからオハナさんはその話を私にしたんだ。
「分かりました、行ってきます」
「はい、よろしくお願い致します。──カゲリ、早速セルザールさんの所へ、必要な手続きはこちらで進めておきます」
「分かりました」
険しい顔付きをしていた職場さんも、まるで我が子を見守るような優しい目つきになっていた。
そんな人たちの無言の応援を背に受けて、私はカゲリさんと共にガウェイン地区を目指した。
◇
ありがとう、と、私よりうんと年齢が高い人に頭を下げられてしまった。
昨日見た面影はどこにもない、心から嬉しそうにセルザールさんは微笑んでいた。
「君のお陰だよ、妻と娘と仲直りすることができたんだ」
「わ、私も、私も友達と仲直りすることができました、昨日の夜はぐっすりと眠れました」
セルザールさんが快活な笑い声を上げた、こういう風に笑う人だったんだ。
「私もそうだよ。本当に、何を意固地になっていたのか…そういう事ではなかったんだ、どっちが悪いとか、自分が正しいとか、そういう事ではなかったんだ。娘からね、本当にありがとうと感謝されたんだ、あんなに酷い事を言ってしまったのに、その瞬間、胸の苦しみがいっぺんに取れてしまったよ」
「私も、そうです、友達の声を聞いたら苦しみがすぐに取れました」
セルザールさんは嬉しそうに私の話を聞いてくれている。
カゲリさんがこれこれこのようにと用件を伝え、セルザールさんはそれを快諾した。
「分かりました、妻の面倒を見ながら勉強させてもらいます」
「これからどうされるのですか?」
「娘の仕事が落ち着くまでは私がトリスタンへ行きます。娘も娘で他に悩み事を抱えているみたいでして、ゆくゆくは仕事も変えるそうです。ですがまあ、どうにかなるでしょう、ご心配には及びません」
「分かりました。良かったですね、本当に、初めて訪問した時とは別人のようですよ」
またセルザールさんが笑い声を上げた。
もう気を遣わなくていいだろうという事で、私たちはセルザールさんと別れてすぐ、お隣さんの男性の所へ向かった。
とくに約束を取ったわけでもないのに男性は対応してくれた。
(この人ずっと家にいるのかな…)
その答えはすぐに分かった。
「え…ここから出て行く…?」
「はい、引っ越しはまだ当分先ですが、トリスタン地区のご家庭へホームヘルパーとして働くことが決まったんです。ですから、騒音についても解消されたかと思います」
男性はカゲリさんの話を訝しんだ。
「介護資格があるのに働いていなかったんですか?」
「ええとですね…できればご内密にしていただきたいのですが──」カゲリさんは今回ばかりの特例措置について説明した。
私が疑問に思ったように、てっきり「特別扱いするな!」と反対するかと思った。けれど、
「それ、こちらでピーアールさせてもらってもいいですか?」
「え?ピーアール?」
「いえその、そういった特別措置って、知らない人たちからすれば批判の的になりますよね──あ、いいえ、そういう事ではなくて、その、何かお手伝いできることがあればと、思いまして…僕はエンジニアなので、簡単にサイトを立ち上げることができます」
「あ、それでずっと家に…」
私がそう言うと、男性は恥ずかしそうに、どこか悲しそうにしながら答えてくれた。
「君に言われた事がずっと頭に引っかかってね、僕は職業柄ずっと家にいるから、確かにそれはこっちの事情だよなって気付いて、それで気付いた矢先にお隣の方が出て行くと教えてもらったから…なんか、今まで怒っていたのが申し訳ないと思ってしまって…」
「なら、一緒にお隣へ行って了承を得ましょう。カイさんの言う通り、特別措置に対する批判は私たちも危惧している事ですから、問題は無いと発信してくれるサイトを立ち上げていただいたらとても助かります」
カイさんはこの男性の名前である。
カイさんが「僕が行っても…」とここに来て尻込みをした。
私はロボットの力を借りず、自分の意思で言った。
「勇気って、出すまで怖いけど、出したらあとは何とかなるもんですよ」
カイさんがくしゃっとした笑顔を溢した。
「何それ。──分かりました、行きましょう」
◇
「……………」
昨日連れて来られた小さな休憩室、私はそこでぽけ〜っと放心していた。
ラウンドテーブルにはカゲリさんに買ってもらったお昼ご飯兼晩御飯が乗せられている、私はそれに手を付けず、椅子の背もたれに体を預けて天井ばかり見上げていた。
(何とかなるもんなんだな〜)
怒涛の展開、と言えよう。
託された用事を無事に終え、あとついでにカイさんのピーアールサイト立ち上げの件も伝えると、あのオハナさんが「たまげた!」と言ったのだ。何だそれ。
と言うのも、オハナさんたちはオハナさんたちで今回の特例措置に関する情報発信サイトを立ち上げる予定だったらしく、今日以降にセルザールさんに紹介の了承を取る予定だったらしい。それを私たちがあっさりと取り、しかも一般のエンジニアの協力も取り付けてきたのでそれはそれは驚いたらしい、だから「たまげた!」
帰ってきたのはお昼前だったというのに今はもう定時前、つまり夕方、私はお昼ご飯を取る暇も与えられずにオハナさんとカゲリさんの下っ端としてこき使われていた。何でやねん。
だから放心、ぽけ〜っである。ようやく解放された。
(これが仕事か〜これを毎日やるのか〜無理〜)
んんんと、体を起こしラウンドテーブルへ手を伸ばす。袋の中に入っていたしなしなのホットドッグを取り出し、無心でもぐもぐする。一緒に買ってもらったいちごミルクをごっきゅごっきゅと飲み、胃袋へ流し込んだ。
「ホットドッグといちごミルク合わね〜」
けれど無心で食べる、いやほんと疲れた。
そんなこんなで四日目を終え、迎えた最終日。
私はそこで仰天するような出来事に遭遇した。
「本当にありがとうございました。私がかねてから進めていた全権市政が無事に可決されたのも、全てあなたの働きによるものです」
「…………………………」
最終日はセレンへ移動しないといけないのでお手伝いもなく、全生徒がアロンダイトの大会議室に集合して総括会をしていた。
そこへ、私の母が職員を引き連れてやって来たのだ。
そして、私を壇上へ呼んだのだ。
私はてっきり、公開処刑ですかここから海へ投げ入れるんですか!と戦々恐々としてしまったが、母が、あの母が深々と頭を下げたのだ、私に向かって、真正面から母のつむじを見せつけられるとは夢にも思わなかった。
何も言えなかった、絶句である。
ゆっくりと姿勢を正した母の顔は母のものではなかった。ナディ・サーストン、この国を今日まで引っ張り、引退してもなお引っ張り続けてきた一人の人間として、スカイダンサーとして敵と戦った伝説のパイロットとして、威厳のある顔で私の前に立っていた。
ナディ・サーストン、私の母、その人である。
「あなたが訪問した市民は、全権市政の投票権を持っていた最後の市民だったのです。ですが、それぞれが抱えた諸事情により投票がされず、可決がここ数ヶ月の間ずっと延期になっていました。ですが、その市民たちが先程、アロンダイトへ足を運んで投票してくださいました」
「……………………」
「だから、あなたのお陰なんです、レイア・サーストンさん、国内省を代表して御礼申し上げます。本当にありがとうございました」と、また母が頭を下げ、それに合わせて職員も、私をこき使っていたオハナさんもカゲリさんも深々と頭を下げた。
もう大会議室はどよめきである、私も信じられないというか頭を早く上げて!自分の母親のつむじなんて見たくもない!
もう何を言えばいいのか全く分からない、背後から降り注ぐ拍手の音と、威厳というか圧迫感すら感じる母たちのお辞儀を前にして、私はこう言うしかなかった。
卑怯とは言うまい、これが私の本心なんだ。
「ごめんなさい、あの時怒ってしまって…すごく寂しかったから…」
母がまた姿勢を正す、今度の顔は母のものだった。
「あんた、今それを言うの?ほんと卑怯…いいわよ、私も悪かった、寂しい思いをさせてごめんね」
薄らと、母の目に涙があった。
◇
学校という所は何かと子供に対して課題を課すところがある。
それは私たち子供を立派な大人にするためのものであり、そしてそれらの課題はちょっとした努力で変えていけることができる、その事を私は今回のインターンシップで学ぶことができた。いや全部が全部納得したわけじゃないけどね?けれど、きちんとした理由があることだけは理解した。
一週間ぶりに我が家に帰ってきた、母も一緒である。
てっきりママが出迎えてくれると思ったんだけど...家には誰もいなかった。
「あれ?ママは?まだ仕事なの?」
水上バイクのエンジンを止め、桟橋に上がった母は「う〜ん」と困り顔だ。
「え、なに?どうかしたの?」
「うう〜ん…まあ、今はおばあちゃん家かな、それだけは言っておくよ」
「どうして?もしかしてまだ怒ってる…とか?無理やりエイミーの家に行ったし…」
「うう〜ん、そういう事ではないというか、身元引き受け人というか反省というか「はあ?「まあ、とにかくライラは大丈夫だから気にしなくていいよ」
何なんだ?
あの日見た夕焼け、どんな顔をしているか分からなかったあの日、まだまだ私には分かりそうにもない。けれど、その母がこれでもかと意地悪な笑みを作り、私の頬に顔を近付けてきた。
ほっぺたにキスをされてしまった。
「〜〜〜〜!」
「いやあんたが寂しいって言ったんでしょうが、ライラが帰って来るまでた〜んとキスしてあげる」
「いらんわ!──止め!ちょ、恥ずかしいって!」
「いいからいいから」
止めろって言ってんのにまるで聞きやしない、やっぱり母は母だ、私の事なんてお構いなし。
突然キス魔になった母から逃げるべく、夕焼けで真っ赤に染まったホワイトウォールに背を向けて階段を駆け上がった。
おまけ
「サーストンさん、いい加減調書に了承してください、このままではご自宅に帰れませんよ?」
「……………」
「あのレイヴンの元総団長もあろうお方が…一体何をやっているんですか…言っておきますけどこれでもかなり気を遣っているのですよ?」
「私は悪くありません」
「あのね…」
「自分の娘を遠くから見守ることのどこが一体いけないというのですか」
「顔を隠して、ええ?サングラスもかけて、毎日服を入れ替えて、ねえ?」
「………………」
「あなたは良くても周りは心良く思わない事ってあるんですよ?アロンダイトにはあなたの娘さん以外にも沢山の子供たちがいるわけです、その子たちの安全を守らなければならない職員たちからしてみれば、あなたは立派な不審人物なんです」
「私は悪くありません、ただ自分の可愛い可愛い、世界でたった一人の可愛い娘を遠くから見守っていただけです、それを不審などと言われるのは心外です」
「あのね〜」
「仕方がないじゃないですか!娘が、あの娘が私たちに向かって暴言を吐いたんですよ!今でも信じられないああ夢に出てきそう…あなたにこの気持ちが分かりますか?!心配で心配で、でも近付けないこのもどかしさ、あなたに分かりますか?!」
「だからと言ってストーカーの真似事はいかんでしょう、あなたが心配するように他の親たちも不審人物の連絡を受けて心配していたんですよ?」
「だから私は不審人物などではありません」
「あのねもうほんといい加減に──ああもう結構です、調書はもう結構です、こっちで適当に書いておきます」
「ふん!」
「ご家族に連絡を「え?「だから、ご家族に連絡を、あなたの身元引き受け人ですよ、意味は分かりますよね?」
「どうしてわざわざそんな事をするんですか?私の恥を身内に喧伝するのがあなたたちの仕事だっていうんですか?」
「恥って自覚があるんなら調書に──ああもういい!──あなたの配偶者はナディ・サーストンさんで間違いはありませんね?」
「……………」
「国内省並びにセレンシップパートナーズ(※ナディとライラが働く造船所のこと)に勤務されていますよね?」
「……──まさかっ」
「あなたがお電話しないのであれば、こちらからお電話差し上げます」
「待って待って待って待ってそれはおかしい絶対おかしいおかしいって!」
「だったらご自身でお電話してください!!」
「……………」
「電話持ってこ〜い!もういい、かける!「待って待って待って!」
「──突然のお電話失礼致します、私はランスロット地区派出所の者です…ええ、申し訳ありませんが、ナディ・サーストンさんにお繋ぎしていただけませんか?ご家族の事でお話しがあります」
「〜〜〜〜〜っ」(※顔を両手で隠して何度もかぶりを振っている)
「ナディ・サーストンさんですね?…ええ、あなたの配偶者であるライラ・サーストンさんについてですが…はい?…そうですか、部下から既にお話しを…(※ライラが音を立てながら机に突っ伏す)そうでしたか…いえ、調書は取らずに厳重注意となりました、そこであなたにお引き取りを……はい?いやいや、ここはそういう施設では……いやいや!いやいや、そういう事はご自身の口から、私どもはそういった事まで──あ、ちょっと!」
「…………………」
「はあ〜…もうほんと…」(※片手で顔を覆ってかぶりを振っている)
「…………………」
「今仕事で忙しいからここまで来れないと、そこで週末まで反省しろと仰っていましたよ」
「…………………」
「他にあなたを迎えに来てくれそうな方はいますか?」
「……………」(※突っ伏したまま携帯を操作し、机の上に置いた)
「…………カイル・コールダーさん、ですか…あなたの父親?」
「(こくこく)」
「かけますよ、いいですね?」
「(こくこく)」
〜それから暫くして〜
「もうほんと〜っにうちの娘がご迷惑をおかけしました!何とお詫びをすれば…この度は本当に失礼致しました!」
「ご本人さんも反省しておられるようですので調書は取っておりません、ご安心ください」
「──ほら!あなたも謝りなさい!一体いくつだと思ってるの!そんな歳にもなってもう〜!」
「さーせん…」
「ライラ!!!!」
「というかなんでママが来るのさ!私はパパに連絡したのに!」
「この馬鹿娘が…カイルももう歳なの!足を痛めてるから自由に出歩けないって言ったでしょうが!「あの〜「全くもうあんたって子は…レイアちゃんの方がよっぽどしっかりしてるじゃない!「誰の教育のお陰だと思ってんの!「そこ威張るとこじゃないわよ!反省しなさい反省!「あの〜申し訳ありませんがここを出てから喧嘩してください、ここは裁判場じゃありませんから」
「ママのせいで私まで怒られちゃったじゃない!たださえ怒られたのに!」
「自覚があるなら反省しなさい!ナディちゃんにすらそっぽ向かれるってそれよっぽどよ!あなた自分がしたこと分かってるの?!」
「だ・か・ら!私はただレイアを遠くから見守っていただけでやましいことなんて一つもしてないの!それを周りが勝手に勘違いして騒ぎにしただけよ!こっちこそ良い迷惑だわ!」
「もうほんとあなたって…子供のことになったら途端に馬鹿になるんだから…もういいわ、うちに来なさい」
「は?嫌なんだけど」
「うちに来なさい、いいわね」
「無理無理、明後日ようやく帰ってくるのになんでママの所に行かなきゃいけないの?」
「ん」(※携帯を取り出し、画面をライラに見せる)
「は?…………嘘でしょ」
「ナディちゃんからあんたをうちで預かってほしいって…そんな歳にもなった大の大人の面倒を見てほしいって言われる身にもなりなさい!」
「〜〜〜〜〜っ」(※その場にしゃがみ込み、顔を隠して何度もかぶりを振っている)
「今マカナちゃんもうちに来てるから「──無理無理無理!それほんと無理!お願いだから追い出して!「カイルの面倒を見てもらってるわ国王陛下なのに!どこぞの馬鹿娘に代わって国王陛下がパパの面倒を見てくれてるの!──恥をかきながら反省しなさい!!!!」
「無理〜〜〜!!!!」