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テンペスト・シリンダー  作者: tokusin
第二.五章
290/335

TRACK 39

ジョイン・ザ・ワールド



 科学技術の進歩は日進月歩であり、様々な学者や研究者たちがたゆまず学問と実験を深め、新たな技術を作り出してきた。

 テンペスト・シリンダーに然りマントリングポールに然り、新たに誕生した技術は人々の生活の支えとなり、今日までの文化を築かせてきた。

 ある学者がある日のこと、研究レポートがまとめられているタブレットを見やりながら疑問に思った。

 『二次元と三次元の違いは一体何だろうか』と。

 答えは簡単である、二次元は縦横方向のみに対して三次元はその二方向と高さが加わる。

 軸で表すなら二次元はxとy、三次元はx、yとさらにもう一つ追加される。『空間』という概念だ。我々人類が住まう次元に『空間』という座標があるからこの世界が成り立っている。

 だが、疑問に思った学者はそんな事を考えているのではない。二次元と三次元の違いは呼吸するのと同じくらい体に染み込んでいる。

 では一体何を考えているのか。

 それは『二次元の世界にも原子は存在するのか』という事だった。

 二次元の世界は全て電子によって作られている、具体的には二進法が織りなす数字の世界であり、『0』と『1』の羅列だ、いや羅列ではない、ルールに従い並べられた二つの数字が二次元世界の土台となっている。

 それは『コード』と呼ばれるものであり、その集積体が『プログラム』と呼ばれ、さらにその集積体が『システム』となる。

 一つのアプリケーションを最小単位まで解体すれば『0』と『1』であり、それは現実の世界、言わんや三次元の世界も同義だった。故に二次元世界の原子は『数字』だと言える。

 人類が住まう地球も、宇宙空間でさえも最小単位まで解体すれば『原子』である、その『原子』が結合し『分子』へと変化し、その『分子』がさらに結合して『ポリマー体』へ変化し、目に見える物質となっていく。

 この時の学者は『そこに何か違いがあるのか』と疑問に思ったのだ。二次元世界の最小単位が数字であるように、三次元世界の最小単位は原子である、もしここに『違いはない』と仮定するならば──未だ人類が認識していない『四次元世界の最小単位』もこの世界で見つけられるのではないか、と研究者は結論付けた。

 四次元世界は縦横方向、高さ、そこへ『時間』という概念が追加されると言われている。

 空間を『z』、時間を『t』とするならば四次元世界の座標軸は『x』、『y』、『z』、『t』となる、だが、当時の学問においてこの四つの座標軸を同時に表すグラフは存在していなかった。

 学者は頭を悩ませた。考察しなければならないレポートが山ほどあるというのに、愛娘の写真をじっと見やりながら思考の海に意識を没した。


(時間は経過でのみしか観察できない──という考えが誤りであるならば…四次元において時間も物質と見なされ最小単位が存在するはず…)


 それは一体何だ?

 ひょんな事から始まった思考実験の疑問に学者は心を奪われてしまった。

 彼女は四次元世界の最小単位がこの次元にも確実に存在すると定義した。

 ──そして、彼女は発見したのである、世界そのものを構成する原子、『世界構成因子』。その構成因子は全ての次元を跨いで存在している。

 彼女はその因子にこう名前を付けた。

 『ワールディリア』と。





 ラフトポートにいる女性たちのお尻を追いかけていたセバスチャンの元に一体のラハムが飛んで来た。


「発見しました〜この稀代のエロ爺い〜」


「それを挨拶にしているお前の頭脳に疑問を抱く」


「身から出た錆ですよ?」


「ぐうの音も出ない」


 時刻は夜だ、海上に存在するイカダの街に明かりが灯され、家々に濃い陰影を落としていた。

 セバスチャンは一人の女性を諦め、暴言を吐きながら現れたラハムに用件を訊ねた。


「で、この私に何か用かね」


「宿敵からロケットポートへ来るよう伝言を承っております〜「宿敵って誰なんだ」


 ロケットポートと言えば、シルキー・ベルトを越えようとしているロケットエンジンが置かれている場所の事だ。

 セバスチャンは自分が呼ばれた事に興味を引かれ、女性のお尻からラハムのお尻に切り替えていた。


「行こう」


「皆さん刺股(さすまた)を持ってお待ちしております〜THE!歩く犯罪者!「呼んでおいてその待遇は如何に」


 電灯と篝火に灯されたラフトポートの街を歩き、セバスチャンはラハムの先導を受けてロケットポートへやって来た。

 そこには既に大勢の人たちが、ラハムが言ったように本当に刺股を持ってセバスチャンのことを待っていた。


「ほんまやんけ!!」


 全員が予断なく刺股を構える、その中にいたウィゴーに限っては工場現場などで使われるブロックハンマーを手にしていた。殺す気である。ちなみにだがジュディスもセバスチャンに手を出されていた。

 ジュディスが刺股を構えながら挨拶した。


「来てくれてありがとうございますエロ爺い。あなたに折言ってお願いしたい事があります」


 セバスチャンもセバスチャンで、ラフトポートの主要女性陣たちには一通り手を出しているのでさして気にした様子も見せず、「聞こう」と答えた。


「──まあ大方予想はつくがな。そのロケットエンジンについてだろう」


「そうです」ジュディスが謎に一歩前に出た、「明日の朝に打ち上げをするのであなたにも最終チェックに参加してほしいのです」


「だったらその刺股を下ろせ!」とセバスチャンが至極真っ当な文句を口にした。


「失礼にも程があるだろう!それが人に物を頼む態度か!」


「前払いです。私のお尻触りましたよね?」


 言われたセバスチャンがジュディスに向かって謎に合掌し、ぺこりと頭を下げた。


「その節は大変お世話になりました、幼児体型だからと甘く見ておりました。しっかりと肉が付いたお尻はまさしく桃源郷のように──」ウィゴーがブロックハンマーを高らかに掲げ、無言でセバスチャンの後頭部へ振り下ろした。


「──あっぶな──暴力とかいう次元では──危ない?!」


「僕ですらまだ手を出していないというのにこのエロ爺いめ!!「早いモン勝ちだわ!!「──ウィゴー、殺すのは後にして」


 それから、想い人に手を出されて猛り狂ったウィゴーがポートから追い出され、むくつけき男たちに銃を突きつけられながらセバスチャンが最終チェックに参加した。

 カウネナナイで技術府の長を務め、それだけでなく長年に渡って培われた知識や経験を持つ技術者がロケットエンジンを一通り見やりこう評した。


「──良く出来ている、天晴れと言わざるを得ん…小型化に似合わない推進力にアンテナドローン…マイヤーの娘よ、こんな世の中でなければお前は天才と謳われていたに違いない」


「また煽てお尻触ろうって?」そう突っ込みを入れているがジュディスの頬がちょっと染まっている、手放しに褒められて嬉しいのだ。


 いやそれもちょっとあるがとセバスチャンが小さな声で言ってから、


「そうじゃない、純粋にお前を評価したつもりだ。シルキー・ベルトに邪魔さえされなければ全て上手くいく、私から指摘する所は何も無い、寧ろこの造りを真似たいぐらいだ」


「それはどうもありがとう──さあ今すぐここから出て行け〜!!」


 刺股の集団に突かれたセバスチャンが「いやガチかよ!」と叫びながらたたらを踏み、それでも踏ん張って抵抗を試みていた。


「──待て待て!こっちにも用事がある!ノラリスと話をさせてくれ!」


「ナディのスリーサイズを聞き出そうって?!」


「知ってるのか?寧ろ知って──ああうそうそ!色々と訊ねたい事がある!そう伝えてくれ!」


 刺股の猛攻に押され始めていたところへ、自意識会話による呼びかけがあった、相手はダンタリオンからではなくノラリスからだった。


《私の足を触りたいと聞いて》


《いや全然違う、あの時の事は忘れろ。──ノラリスよ、ちと話がしたい。良いな?》


《ならば母船まで来てくれ、あなたに見せたい物がある》


(見せたい物?)


 もう帰るから!もう帰るから止めてくれ!とセバスチャンが言い、ジュディスが刺股を下ろした瞬間に接近、酷い扱いを受けた腹いせに彼女の胸を強めに揉んでいた。

 

「──こんのクソエロ爺い〜〜〜!!」


「皆んなが通った道だちみっ子め!私に胸を揉まれていない女なぞここにはいないぞ!──さらばだ!」と言って、セバスチャンが発砲してきた男たちから死に物狂いで逃げて行った。



 ロケットポートから離れたセバスチャンは、眼前に非日常の景色を見た。


(人間の営みの灯りだ…)


 ロケット、メインポートと渡り、母船へ続く道からラフトポートの全貌が見えていた。そこには空をひた走るラハムたちの小さな灯火と、各ポートに照らされた電灯と篝火、セバスチャンはその景色をなんと強かで、なんと儚いものだろうか、と思った。

 津波の一つで飲まれてしまいそうな儚い営みだ、けれど自然災害に負けずここまで街を大きくさせた人々に強い感心を抱き、そしてそれと同じくらい後悔の念が過った。


(私はこの世界をこの手で壊そうと…)


 いくら管理された環境とは言え、誰かの監視がある世界とは言え、セバスチャンは今さらながら自分の考えを否定していた。

 ──それはさすがにないだろうと、壊すのはあんまりだと。

 大罪人になりかけた老人が母船内に入り、それと同時にノラリスから呼びかけがあった。


《こちらだ》


 セバスチャンはノラリスの案内通りに船内を歩き、元は倉庫だった特個体用ハンガーへやって来た。

 カンテラに照らされたハンガー内の一番手前、ノラリスが起動した状態で老人の事を待っていた。白いカメラアイがセバスチャンを捉えている。

 セバスチャンは肉声でノラリスへ挨拶した。


「こうして直に会うのは初めてだ、ノラリスよ。お前の噂は五年前からかねがね」


「正式名称はノウティリスだ。──先ずはそちらの用件を聞こう、これ以上被害者を増やしたくないからあなたの相手をしてほしいとラハムがこちらに駆け込んできた」


「そういう物言いをしたのか…まあ良い。ノウティリスよ、訊ねたい事は一つだ、ダンタリオンについて把握している事を教えてもらいたい」


「良いだろう、その代わりにこちらも頼みたい事がある」


「取引きは成立だ。ダンタリオンに限らず特個体という存在について詳しく教えてくれ」


 セバスチャンが付近にあった椅子を手元に寄せ、静かに腰を下ろした。

 カンテラの灯りが老人と機体を照らし、密かな会談が始められた。





 チグリスとユーフラテスという世界の中でも最長に属する川がアジア大陸の南西部にあり、その中間点ぐらいに世界最古の文明メソポタミアが存在していた。

 メソポタミアの文明はこの二つの川から得られる水を満遍なく使用し、広大な平野部に作った畑で沢山の作物を育て、紀元前という遙かな昔に文明の礎を築いた。

 だが、川が幾度も氾濫を起こし文明も流し、そして何度も文明が再興してきた地域でもあった。

 まるでその文明に習うようにしてヴァルヴエンドという街が存在し、その街からマリーンへ出張している修理班の一人が慌てふためいていた。

 それは何故か。


(信じられない!こんな夜遅くに打ち上げするか普通〜?!)


 あの班員だ、女好きでセバスチャンよりも上手く相手を口説けるあの班員が慌てた様子で一つの家屋から出て、ロケットポートを凝視していた。

 その家屋から一人の女も出てきた。


「どうかしたの?」


 裸体を隠すようにシーツを羽織った女がそう訊ねるが、班員は相手にしなかった。

 彼の網膜には通信相手の班長の顔が映っていた。


「どうした?」


「すんません…飛翔体が発射態勢に入りました」


 網膜に表示されていたウィンドウが右へ左へ大きく揺れるアニメーションに代わり、班長が「なにい〜?!?!」と声を荒げていた。


「お前は一体何を見ていたんだ!そうならないように監視しろと──もういい、撤収に入れ」


「え、アレを置いて帰るんですか?」


「──お前だけだがな!!」その場でクビ宣告。

 元班員がイカダの上に手をついてがくりと項垂れた。


 一方、報告を受けた班長はホワイトウォールの向こう側から早速依頼を出していた。依頼を受けたのは修理班の中でも施工管理資格を持つ主任チームである。

 主任者の一人が班長から連絡を受けていた。


「飛翔体が発射態勢に入った?」


「はい、こちらの不手際です、申し訳ないですが外へ出る前に落としてください」


「良いだろう、いい加減待機に飽きていたところだ、すぐに出発する」


「助かります」


「レポートはそっちでまとめておいてくれ、まさかそこまで甘えるつもりではあるまい」


「…分かりました」


 主任者の一人が手にしていた缶詰めを海へ放り投げ、開封用の風圧ゲージをポケットにしまった(バベルとダルシアンが見つけたアレ)。

 主任チームは海面に寝かせていた人型機に次々と搭乗し、メインシステムを立ち上げていった。

 飛翔体は彼らの位置から南東方面にあり、夜空と水平線が合体した一帯に朧げな光りの群れがあった、今まさにジュディスたちが発射準備を進めているラフトポートの明かりだった。

 連絡を受けた一人が他の主任者たちへ指示を出した。


「最初は様子見だ、手を出すのは天井付近で構わない。俺たちの機体ですらあのナノマシンの群れを突破できないんだ、そう越えられるとは思えん」


 主任者たちが静観に入った。

 それぞれが機体の中で待機している中、報告があった通り南東方面から飛翔体が発射された。

 朧げな光の群れが一際明るく輝き、夜空を切り裂くように一本線を残して飛翔していく。高度が一〇〇〇、二〇〇〇と順調に上昇し、三〇〇〇メートルを目前にした時、海の上から続いていた白い線に変化が起こった。

 真っ直ぐ伸びていたその線がぐにゃりと歪んだのだ。


「──やはりか…壁に当たったんだろう」


 男が言ったように、セバスチャンからも太鼓判を押されたジュディスお手製のロケットエンジンがナノマシンの壁に衝突し、重力すら振り切る推進力でも進路変更を余儀なくされていた。 

 厚い壁に阻まれた飛翔体がやがて燃料を使い尽くし、エンジンを停止させて高高度から落下を始めていた。

 結果は失敗だった、主任チームの出る幕ではなかった。

 観察していた男はどこか残念そうにしながら再び指示を出していた。


「機体から降りろ、待機状態に移れ。──あの壁を破ってくれると期待していたんだが…まあ無理だったか…」


 男がもう一度夜空を見やった後、ハリエの館の中へ戻って行った。





 密かな会談が終わりかけていたところへ、ロケットポートからロケットが発射され、その壮大なエンジン音と燃料の焼ける匂いがセバスチャンの元にも届き、そして空から落っこちるところを目撃していた。

 ちょうど良い『余興』だったと言えよう、セバスチャンが後付けの窓から視線を外し、カンテラの淡い明かりに照らされているノラリスを見やった。


「──ノウティリス、お前さんの言う通りだ、ホワイトウォールに介入しないとシルキー・ベルトは越えられそうにはない。残念だ、マイヤーの娘よ…」


 同じ技術者として、セバスチャンはジュディスへ同情を示し、手元に視線を落とした。

 彼の手には、ノラリスから「見せたい物がこれだ」と言って渡された約二〇センチ程の石があった。

 その石は白く、鉱物でも含んでいるのかカンテラの淡い光にもきらきらと反射していた。

 ノラリスがラハムに依頼を出して(きっちりと料金を請求された)ホワイトウォールで採取してきてもらった破片の一部であった。

 ノラリスは「以前とは外観が異なる」と説明した。


「以前とは?」


「ヴァルキュリア本土の責任者から依頼され、一部を採取した時のことだ。あの時と比べて現在のホワイトウォールに変化が見受けられる」


「それは何か?」


「色だ。前回は、先程話した管理している機体のパーソナルカラーが全て含まれていたが、現在はその一つの色が無くなっている。色はパープル、マリサだ」


「………」


「ジュディスたちが行なったオールグリーズという作戦の際、マリサ機がアーキアに接触した時反応を見せなかった。しかしながら、ウルフラグの街に押し寄せたアーキアの群れはマリサ機に接触した個体が帰った途端、一瞬で消失したという」


「──抵抗を得た?」


「そう解釈するのが妥当と思われる。アーキアは免疫細胞としての機能も有し、マリサの個体情報を取得しホワイトウォールへ持ち帰った。そしてそこで免疫力を付け新たなアーキアを産み、その副反応としてマリサのパーソナルカラーが消失したと考察している。この考えに不備はあるか?」


「筋は通っているが確証はまだ無い。お前さんの頼みは私にホワイトウォールへ行けと言うのだな?」


「その通りである」


 肩っ苦しく話すノラリス、普段の砕けた様子を見受けられない、それだけホワイトウォールが重大であるということだった。


「良かろう、どのみちあのホワイトウォールも調べるつもりでいたんだ。それよりカルティアンの娘はどうしている?姿を見せないが」


「彼女は今メンタルダウンを起こしている、有り体に言って引き篭もりになった」


「何故放置する?腐った精神は叩き直さねばいつまで経っても直らなんぞ」


 肩っ苦しい言い方から一転、ノラリスが頼りない感じでセバスチャンの指摘に反論していた。


「いやそれは古い考えなのでは…最近の子は敏感だからそっとしておくのが…」


 セバスチャンが「全く」と言い、呆れた様子を見せた。


「甘やかすのも大概にせんといつまで経っても立ち直る胆力が身に付かんぞ。煎ずるところ人間は自分の足で立つしかないんだから、どれだけ傷だらけであったとしてもな。──良い、私が顔を出してやろう、カルティアンの娘にも訊きたい事がある」


「スリーサイズ?「違うわ馬鹿たれ」


 椅子から立ち上がったセバスチャンが、ノラリスに背を向けて歩き出した。


 その背中を見届けた後、ノラリスがダンタリオン(男の子ver.)に連絡を入れた。すぐに幼い声が返ってきた。


《何でしょうか》


《ジュディスに伝言を頼みたい、そろそろ舞台が整うからと》


《……?良く分かりませんが、何とお伝えすれば?》


《私が空へ上がる》



 ナディが引き篭もっている家はメインポートの奥、すっかり人が居なくなった寂れた場所にあった。

 ウルフラグの者たちがラフトポートへ合流する前は大変な賑わいを見せていた場所だ、けれど今は殆どの人が新しく建てられたポートへ、それから建設真っ最中のラウンドサークルへ移住しており、寂しい雰囲気だけを残して去っていた。

 セバスチャンがナディがいる家に到着し、扉を何度かノックした。返事は無い。ならば仕方ないとセバスチャンは扉を無理やり開けて中へ侵入した。

 突然入って来たセバスチャンにお目当ての人物がびくりと肩を震わせた。


「──っ!!」


 ナディアは食事の最中だった、よほど美味いのか、目が薄らと潤んでいる。


「おお、おお、臭い臭い、生き物の垢の匂いがするわ。お前さん、ずっとこの家で過ごしておるようだな」


「…………」


 ナディは食事の手を止めて、じっとセバスチャンを見ている。突然入って来たかと思えば突然の罵倒だ、その眉は怒りと羞恥に歪んでいた。


「この家は死んだマルレーンも使っておったのだろ?そんな所で腐っていて恥ずかしくはないのか」


「…だったら何ですか」


「思ったよりも元気そうだな、注意に文句を返すなぞ甘えている証拠だ。──ちょいと失礼させてもらうぞ」


 セバスチャンが散らかっている家の中を適当に片付け、どかりと腰を下ろした。


「今からホワイトウォールへ向かい調査をしてくる、その前にお前さんに訊きたい事があった」


「…………」


 ティアマトたちが作った食べ物を体で隠し、ナディが床に腰を下ろしている老人へ視線を注いだ。


「オーディン・ジュヴィから耳にした、お前さんには特別な星があると。それは一体何かね?」


「……さあ、私にも分かりません、オーディンちゃんが勝手にそう言っているだけで…」


「あのロリ娘はお前さんの視点からライラ・コールダーを見たと言っていたぞ、これがどういう事か分かるか?」


「…………」


「オーディン・ジュヴィに限らずマキナたちは皆電子生命体だ、二次元の海から生まれた存在だ。その存在がお前さんと繋がり視点を得たと発言している」


「──私もマキナだって言いたいんですか?」


「違う」とセバスチャンが否定した。いや、正確にはどちらでも良い事だった。ナディが人の子であろうとマキナであろうと、今は肝要なのはその判別ではない。


「お前さんは常々ガイア・サーバーと繋がっていた、という事だ。そしてその秘密がお前さんにあると私は考えた」


「何を馬鹿な事を…」


「お前の父、ティダ・ゼー・ウォーカーはドゥクス・コンキリオの計らいで人の身を捨ててハーフマキナに転じた男だ」


 ナディは生まれて初めて父が居なくなった経緯を知った。


「そんな事が…いやでも、それはどうして…」


「私でも知らぬ事だ。この男に何か心当たりは?」


 そう訊ねられたナディは、目覚めたばかりの時に父と思しき人物と再会した事を思い出した。


「……父だと思う人と、その、会いました」


「それは何処で?いいやどうやって?」


「信じてもらえないかもしれませんが…海の中です、水没を免れた塔の中で父と会いました」


「その時に何と言っていた?」


 ナディは一瞬だけ呆気に取られた、自分の話を信じてもらえるのかと。新都の医者に話した時は脳の障害を疑われたというのに、目の前にいる老人は微塵も疑っていなかった。

 ナディはその時の事を頭の中から引っ張り出して老人に話してやった。


「確かええと…アーキアが人を連れて行く所は…そう、レガトゥムと言っていました」


「アーキアが連れて行く所…それは魂の話か?」


「ええと、はい…多分、そうかと…」


「………」


 セバスチャンもメラニンコントロールの技術が()にある事は把握していた。

 人が持つ色素の中にはベンゼン環が存在し、炭素原子を含む。その炭素原子に照射された接続用ビームが結合し、その人の脳から発せられる神経系パルスがサーバーへ送られる仕組みになっていた。

 夢のような技術だが人体に副反応が起こる。アヤメやナツメの虹彩が白色に転じたように、その人が持つメラニン色素が崩壊して色が抜け落ちてしまうのだ。

 ──故に五年前、シルキーを含む飲料水を口にし、後に死亡した保証局員のグリルは最初の『被害者』と言えた。

 セバスチャンは思いがけない話に頭の思考が乱されてしまった。


(ロリ娘の話と、あのノラリスがこの者に目を付けた理由に何かしらの接点があるかと思い訊ねてみやれば…まさかこんな話を聞かされるとは思わなんだ…)


 端的に言って、セバスチャンは亡くしてしまった妻と再会することをまだ諦めていなかった。

 『パラダイス・ロスト』、ヴァルキュリアが以前発動したオペレーション・コード。その際、セバスチャンもダンタリオンを使ってガイア・サーバー内へ侵入させて権限の一部の略奪を目論んでいた。

 彼はマリーンの天井内で世界の真実を知ったのだ、何故テンペスト・シリンダーが()()()をしているのか、何故数が変動することなく()()()存在し続けているのか。

 だが、彼の計画は失敗に終わってしまった、待ち伏せしていたスーパーノヴァにノアの方舟を食べられてしまったのだ。

 彼が目指している所は電子化された魂の保存場所、『ガーデン・セル』である。

 しかし...


「あ、あの…お爺さん…?」


 セバスチャンはナディの呼びかけにも答えずさらに思考を続けた。


(レガトゥムとな…その事をこの娘に明かしたのは…特別な星があるからと──)そこで老人がはっ!と何かを思い付き、ナディへ問うた。


「──ティダから何かもらった物は?!プレゼントでも何でも良い!」


 急に動き出した老人にびっくりしながらも、ナディが自分の左耳を触りながら答えた。


「え、こ、この赤いピアスを…小さな時にプレゼントだと言って貰いました…──はああ?!いやああこっちに来ないで〜〜〜!!!」


 無言で床から腰を上げ、老人とは思えない素早い身のこなしで近付いてきたものだからナディは恐怖を覚えて悲鳴を上げていた。久しぶりに大声を出した、喉が痛む。


「そうかこのピアスに秘密が…カルティアンの娘よ、お前もホワイトウォールへ来い」


「そ、それは何故…」


 恐怖と緊張が胸がどくどくと脈を打っている、セバスチャンの目が怖いくらいに血走っていたからだ。


「──会えるやもしれん、死んだ者たちに」


「…………」


 レガトゥム。アーキアが人々に接触して魂を引き摺り出し誘う電子の世界。


「ティダが口にしたのだろう?レガトゥムの名を。私はこのマリーンの天井部で解き明かしたガーデン・セルという所にヒルダがいると思っていた。だが…そうではなかった…五年前の大災害時に発生したホワイトウォール、その壁から生まれるアーキアという生命体、ノラリスから提供された話も全て統合するに…あの白い絶壁群はレガトゥムへ続く架け橋になるに違いない」


「それで、この赤いピアスが…必要になるんですか…?」


「ティダからのプレゼントなのだろう?そしてその本人がレガトゥムの名前を口にした、疑わない者はおるまいて、調べるに十分に値する」


「なら、この赤いピアスだけ持って行けば…」


 ナディが赤いピアスを外して手のひらの上に乗せ、老人へ差し出した。けれど老人はそれを受け取ろうとしなかった。


「──カルティアンの娘よ、ライラ・コールダーの事の顛末は耳にした、ホワイトウォールの中で忽然と姿を消したそうだな?そして、今に至るまで遺体は疎か痕跡すら見つかっていない」


「………」


 元から酷い有り様だった彼女の顔にさらに亀裂が走った、改めて現実を突きつけられ心が傷付いたのだ。

 しかし、その傷の痛みをすぐに忘れることとなった、何故ならセバスチャンがとんでもない推論を立ててきたからだ。


「こう考えたらどうだ娘よ、ライラ・コールダーは魂だけではなく体ごとホワイトウォールへ連れ去られた、と」


「──え…」


「彼女はアルビノと呼ばれる白子症に罹った状態で生まれてきた子供だ、これはドゥクスの計画によるものだが今はその話は良い。アーキアが人を連れ去った時、必ずその者の色素を奪う、それが白化症と呼ばれる所以だ。何故だか分かるか?」


「何故白色になるかと…そういう話ですよね…」


「そうだ、メラニン色素を著しく奪うから白色に転じる。だが、ライラ・コールダーは別だ、彼女は生まれた時からメラニン色素が他の者より欠乏している状態だ」


「いや、その、それで何でライラがホワイトウォールへ行った事になるんですか?それも体ごと…そんな事有り得るんですか?」


 ナディはセバスチャンの推論を否定した、もう希望を持ちたくなかったから、「ほらやっぱり駄目だった」と落ち込みたくなかったから。

 ただ、老人も老人でどうしても亡くした妻と会いたかった、調査するに十分値するピース

を目の前にしてその希望を捨てたくなかった。

 だから老人は彼女に縋った。


「来てはくれんかカルティアンの娘よ、お前さんも失った友に会いたくはないか?」


「…………会えると決まったわけでは」


「ここで腐っているよりも会える確率が高くなる、ホワイトウォールへ向かえば。失敗に終わったところで何を失うというのだ、お前はもう十分失っただろうに」


「…………」


「──良い、ならばそのピアスだけでも私に渡してくれ、もしマルレーンの娘がいたらお前さんの事も伝えてやろう。もし万が一、ライラ・コールダーを見かけたらこっちへ引っ張って来てやる」


「…………」


 ナディが椅子から立ち上がった。

 セバスチャンの推論を信じたわけではない、その自信に溢れる物言いに心が動いたのだ。

 もし、ライラと会えるなら...そこへ行ってやろうとナディは思ったのだ。


「──私も行きます、連れて行ってください」


「分かった。私に命を預けなさい、ここへ帰って来られない、意味は分かっておるな?」


 それは『死ぬ』という事、魂が誘われる電子の世界だ、人為的に渡れたとして帰って来られる保証はどこにも無い。

 ナディは迷惑をかけ、嫌な顔をしていた人たちの事を思い出しながら、セバスチャンの問いに応えた。


「構いません、色んな人に迷惑をかけましたから」


「…………」


 老人は何も答えず、黙ってナディの手を引き家の外へ連れ出した。

 こうして、一人の老人が絶望の縁に立たされた女と共に海を渡っていった。





 ワールドディリアと名付けた。

 その原子は特別な場所に隠されていたわけでも、特別な研究によって発見されたわけでもなかった。

 三次元世界の至る所にあった。

 学者は『もし』という仮定から推論を立て、その推論から様々な仮説を導き、その仮説によって成り立つ世界を『空想』した。

 それらの仮説はどれも稚拙な物だったがその仮説は重要ではなかった。

 『空想』という行為にこそ重要な意味があった。

 物事を思い描く、という行為は前頭葉の働きによるものであり、脳が機能する、という事はそこに電気パルスが流れている事を意味する。

 前頭葉だけではなく、人の五感を司る後頭葉も同じ働きをし、言わば人間は電気パルスによって動いていると定義できる。

 ここに学者は注目した、『電気』であれば二次元の世界にも通ずる事だ、二次元と三次元の共通点。

 二軸しかない次元でも三軸ある次元でも電気信号は存在を許される。学者は脳の働きを徹底的に調べ上げ、その秘密に迫った。

 そして発見したのであった。空想の有無によって、電気パルスの発生量に従い学者周辺の空間における電磁場に僅かな変化があった。

 学者の脳に何かが引き寄せられ、その場の電磁場に影響を与えた証拠だ。学者は未知の到来に興奮を覚え、産まれたばかりの娘の事も忘れて研究に没頭した。

 これが『空想量子』、二次元と三次元における共通原子であり、『レガトゥム』と呼ばれる世界を構成する因子だった。





 レガトゥムを与えられたガイアの一人娘は肩の荷が下りた気分だった。

 

(こんな物が欲しいんじゃないの私は)


 全て順調に推移していると言って良い。ガイア・サーバーの一部を掌握し最深レイヤーへのバイパスも出来た。また、新都にいた箱庭の裏切り者を焚きつけ、予想通りにラフトポートで作っていた飛翔体を打ち上げさせていた。結果は失敗に終わった、これでもう邪魔される事はない。

 ノウティリスの母艦内、そのブリッジに彼女は居た。レガトゥムで作った二人のペルソナエスタも傍にいる。

 彼女は二人にぺこりとお辞儀をしてみせた。


「今日までどうもありがとう、一人足りないけど。あなたたちのお陰で私の計画が無事に叶いそうです」


 マギリとテッドはさして感動していなかった。


「どうでも良いけど。これで私たちはお役ごめんってわけね」


「短い生でしたね、僕はもう満足していますけど」


 娘が「いやいや」と否定した。


「ガイア・サーバーを丸ごとパクっと食べちゃえばあなたたちは消えたりしないわ」


「そうなの?」

「そうなんですか?」


「二次元と三次元が交わるんだもの」


「?」

「?」


 理解が追い付いていない二人を放ったらかし、娘がぺらぺらと続きを話した。


「次元交錯によってレガトゥムの存在が保証されるのよ。時間が経過でしか観測できないこことは違って四次元に昇格するようなものね、これでもう私が居なくなってもレガトゥムは消えたりしないの。分かった?」


 分かるはずもないひどい説明に二人は「全く」と返し、娘に溜め息を吐かせていた。


「…まあ良いわ。早速始めましょうか」


「残念だねここにいる人たち、皆んな死んじゃうんでしょ」


「そうですね…ガイア・サーバーの機能が落ちちゃうわけですから。一人でも多くあっちへ渡れたら良かったんですけど」


「皆んな抵抗してたしね、無理もないよ」


 ──と、二人はマリーンの人々のこれからを思いそう口にしてはいるが...無関心で嘯いているだけだった。

 ノウティリスのブリッジには彼女たちに誰も居ない、せっかく乗せてやったというのに新都の者たちは自分たちに恐れをなして逃げて行った。

 非常電源下の薄暗いブリッジの中、娘が自分の髪の毛を払い、厳かに宣言した。


「──では、レガトゥムをガイア・サーバーへ」


 数百メートルに達する生きたサーバーの頭上で一つの星が瞬いていた。それは仮想展開された星ではなく、マリーン内のナノマシンによってインストールされた存在だった。

 その星が夜空からゆっくりと下りてくる。高度を徐々に下げ、ガイア・サーバーの端に到着した。

 生い茂っていた梢枝が星に触れた途端、一瞬で枯れてしまった。ヒルド・ノヴァやノウティリスのミサイル攻撃にも耐えたリビング・サーバーが内側から汚染され、壊れた瞬間だった。

 星がさらにガイア・サーバーの根本へ近付こうと高度を落とした、それに釣られるようにして葉が落ち枝が折れ、見る見る破壊されていった。

 けれど大丈夫、レガトゥムへ連れて行けなかった人は残念に思うが、連れて行けた人は新たな創世記を目の当たりにすることだろう。

 世界が創世された時、ノアの方舟に乗った人たちは大洪水で沈んだ場所から新天地へ向かい、そこでまた新たな文明を築き始めたのだ。

 レガトゥムも同じだ。

 ノアの方舟となって次元の壁を超え、新たな天地を目指す。

 『レガトゥム』とは、本来そういう役割もあった。

 電子的な侵略行為が進む中、ガイア・サーバーはウイルスによって甚大なダメージが発生していた。もう間も無く全ての機能が落ちる、そんな時だった、ブリッジに通信が入った。

 娘のみならずマギリやテッドもひゅっと息を飲んだ、このタイミングで一体誰が?良い予感はしなかった。

 ブリッジ全体を包むようにして、通信相手の声が流れてきた。


「補足した」


「………っ」


「この時を待っていた、下手に探し回るより捕食する瞬間に捕まえるのが一番効率が良い」


 この母艦の主人であるノウティリスからだった。

 

「あ、あなたは…」


 娘が真っ暗な天井を見上げ、そう呟いた。


「君の計画が完遂することはない、諦めたまえ」


 夏にも関わらず、足元から冷たい何かが這い上がってくるように感じられた。それは地球全土を監視下に置くライアネットに自身が掌握されたからか、それとも計画が失敗するからか、あるいはその両方からだった。

 娘は精一杯の強がりを見せた。


「て、てっきりこの船はもう諦めたと思っていたわ、だって全然取り返そうとしてこなかったんだもん」


 ノウティリスは然もありなんと言った。


「ああ、だって君たちには無理だからね、私の船を掌握することは。一時的に使用はできてもそれは能力の一部を授与されたに過ぎにない」


「答え合わせ…良いかしら?どうしてこのタイミングだったの?」


「君はライアネットとガイア・サーバー、二つのアクセス権を保有している。そして、そのアクセス権を保有した状態でガイア・サーバーにアクセスをした。この意味が分かる?」


「…………」


「二つのアクセス権を保有できるのは我々特別個体機だけだ、故に君の把握は実に簡単だった、これでもう我々の監視下から逃れることは永遠にできない」


 どんな状況になってもマギリとテッドは慌てることなく、ただ成り行きを静観していた。

 侵略が進んでいたガイア・サーバーに変化が起こった。レガトゥムに食われていたレイヤーに保護プロテクトが発生し侵攻を止めてきたのだ。それだけに止まらず、レイヤーを食い物にしていたウイルスがプロテクトに捕らわれ、アナライズされ始めた。

 娘は、逆に自分が食い物にされると身の危険を感じ侵攻を断念、すぐさまガイア・サーバーから星を引き離した。


「──そうね、舐めていたわ。でも、物理的な距離を前にしてあなたにできることはあるかしら?」


 ノウティリスが「ある」と答えた。


「それは何?あなたのお仲間が作ったロケットエンジンでも空を飛べなかったのよ?」


「私が直接空へ上がる」


「──は?」


「まさか、ロケットエンジンがあれだけだったとでも?そんなはずはない、きちんとコピーして予備は他に取ってある。近いうちに君の元へ行こう、その時こそジ・エンドだ」


「わ、私の所に来れたとしても、あなたに何ができるの?次元交錯はもう完成して──」娘がはっと何かに気付いた。


「そうだとも、君はワールディリアを用いて世界の存在証明をこの次元でより強固なものへ昇格させた。そして、君は大きな過ちを犯したと言わざるを得ない、私が目を付けたパイロットを今日まで放置した事だ」


「そんなまさか…ああ嘘…」


 初めて娘が狼狽えた。今日まで一度も狼狽えたことなど一度もなかったのに。


「ワールディリアは一つだけではない、今彼女がホワイトウォールへ向かっている。──首を洗って待っていろ、おいたをした子供は叱らないとね」


 その言葉を最後に通信が切れ、ブリッジが静寂に包まれた。

 ノウティリスの介入により、結果としてガイア・サーバーの全損害は免れた。だが、茂っていた幹の大半が腐り落ちてしまい、寒々しい樹に変わっていた。

 枯れ樹となった頭上に星が瞬く。





 ワールディリアを発見した学者は世界にその存在を認めさせ、一躍時の人となった。新しい原子の発見だけでも名誉ある事なのに、次元を跨ぐ物質の証明は偉業とも言えた。

 そんな彼女に輝かしい人生が待っていたかと言うと、決してそうではなく、実に色んな人から妬まれることとなった。

 研究成果を狙われ、時には自身の命も狙われた彼女は身の危険を覚え、発見したばかりのワールディリアを諦め、その時既に完成していたガイア・サーバーに隠すことを選んだ。

 彼女は後世の学者たちに託した。自分ではできなかった世界構成因子の研究と解明を、より安全で、誰にも命を狙われることがない環境で達成できるように電子の海へ解き放った。

 ワールディリアの輝きは電子の海でも失われることなく、数千年の時を経ても色褪せることはなかった。

 大海の中から一粒を見つけることは容易な事ではない、けれど決して不可能な事でもない。

 ある日、その輝きを見つけた者がいた。発見者である学者がこの世を去ってから何年と経った後の事だ。

 その者の名前はティダ・ゼー・ウォーカー。

 ナディのたった一人の父親の名前である。

 彼女は父からのプレゼントとして、または形見として、貰った赤いピアスを片時も離さず身に付けていた。

 その彼女が海を越え、ホワイトウォールに到着した。





 カウネナナイ側の出口にも調査団のためのイカダの街が作られ、明かりが灯されていた。その様子をナディはダンタリオンのコクピットから見下ろしている。眼下にある小さな街の明かりは強風で掻き消えてしまいそうなほど弱く、けれど確かな頼もしさと暖かさもあった。

 ホワイトウォールに到着したセバスチャンはその街に近付くことなく、進路を右に向けて迂回し始めた。


「時に娘よ、お前さんは量子力学に詳しいかな」


「詳しいように見えます?」


「見えんな。──何故ホワイトウォールが発生したのか、その原理を解いてやろう。冥土の土産にしてはちと華がないが、まあそこは辛抱してくれ」


「聞きたくないと言ったら?」


「着陸地点を探すのに時間がかかる、どうせ暇なんだから黙って聞け」


「これがレイプ会話「新しい言葉を作るな」


 ダンタリオンへ突っ込みを入れつつ、セバスチャンは夜空に黒いシルエットを浮かばせるホワイトウォールを舐めるようにして飛行した。


「ホワイトウォールは大災害後、ナノマシンによる暴発現象だとされている。ハフアモア同士が接触すると爆発が起きるように、それが海中でも起こり目の前にある白い壁が誕生した」


「はい、そうですね」


 ナディはセバスチャンが座っているコクピットシートの縁を掴み、機体の揺れに負けないよう足を踏ん張らせていた。


「不思議には思わんか?何故その暴発現象が五年前なのか、海中には元よりハフアモアは存在していた、それが何故暴発を起こさずに済んでいたのか」


「まあ…そう言われてみれば確かに…」


 ナディは考え過ぎなのでは?と思うが、セバスチャンの思考はまさしく学者のそれであった。些細な出来事に対しても「何故?」と疑いの目を向ける、そこにこそ学問の発展があった。


「ガイア・サーバーにスーパーノヴァが接触した事に原因があると定義するならば、ホワイトウォールの発生はガンマ線バーストによるものだと仮説が立てられる」


「それが量子力学の話ですか?」


「いかにも。ガンマ線バーストとはエネルギーを保有した原子核が衝突した時に発生するものだ。衝突した時に中性子が外へ飛び出し、原子核は励起状態から基底状態へ移行するためエネルギーを発散する、それがガンマ線バースト」


「はあ…何とか理解は追い付いています」


「うむ。このガンマ線バーストのエネルギー量は人智を超えるものだ。その輝きは向こう数千年に渡っても消えないとされている、つまりそれだけエネルギー量が高い。故に、このマリーン内の海中で発生したガンマ線バーストが瞬時にホワイトウォールを形成したと思われる」


 セバスチャンは澱みなく解説しながらホワイトウォールへ目を走らせていた、ダンタリオンが着陸できそうな場所を探しているのだ。

 ナディはセバスチャンの解説を聞き、疑問を抱いた。


「その原子核ってのは一体何なんですか?それがハフアモアって事になるんですか?もしそうなら今日まであっちこっちにホワイトウォールが出来たことになりますよ」


 今日までハフアモア同士の爆発は幾度となく発生していた、けれどそのどれもが局所的な者であり、ホワイトウォールの形成には至っていない。

 ホワイトウォールの現象は、五年前のあの時あの瞬間だけに起こった、と言える。

 老人が的を得た質問に答えた。


「衝突したのはハフアモア同士ではなく、ナノ・ジュエルだ。お前さんもこの名前を耳にしたことぐらいはあるだろう」


「まあ。それで?」


「話はちと変わるが、ノラリスからホワイトウォールの破片を貰った。その中には特別個体機のパーソナルカラーを示す鉱物が含まれている、これを見なさい」


 セバスチャンが謎に自分の股間をまさぐり、自分のイチモツではなく一つの石ころを取り出した。絶対に触りたくなかったナディはそれを受け取らず、老人の背後からしげしげと眺めた。


「──見ました」


「せっかく温めてやったのに…ノラリスの考えではホワイトウォールにこの鉱物類が混ざったのは、スーパーノヴァが特個体にハッキングを仕掛けた影響だと口にしていた。つまりだ、スーパーノヴァはガイア・サーバーに接触する前からナノ・ジュエルの一部を既に有していた事になる、それがガンマ線バーストを発生させた原子核という事だ」


「………ん?」と、ナディはセバスチャンの説明にさらに疑問を抱いた。

 老人が言いたい事は、ナノマシンとナノ・ジュエルが接触したことにより原子核が衝突し、その結果としてガンマ線バーストの現象が発生した、という事である。

 しかしだ、それは不可能に近い現象である。


「ハフアモアは海中に存在していますが…ナノ・ジュエルはどこに存在していたんですか?その話だと、スーパーノヴァが所有していたのはあくまでもナノ・ジュエルの情報だけ、という事ですよね」


 言わば、『ハフアモアは三次元の世界』、そして『ナノ・ジュエルは二次元の世界』という事である。

 物質と情報が接触することはおろか、そこから物理現象が発生するとはナディには到底思えなかった。

 彼女の疑問はまさに正鵠を得ており、セバスチャンが「その疑問を今から調査しに行く」と答えていた。


「海中に潜んでいたナノマシン、それからスーパーノヴァが保有していた一部のナノ・ジュエルの情報、それがどうやって接触し暴発したのか、その謎を解き明かせばレガトゥムへ渡れることだろう」


「…………」


 説明を終えたと同時にセバスチャンが着陸できそうなポイントを発見した。ゆっくりとダンタリオンの舵を切り、ホワイトウォールへ接近していく。


「私はその鍵がお前さんが身に付けているピアスにあると考えている。実際に現象を再現した後はどうなるかまるで分からんがな」


(アネラに会えるなら…ライラがそこにもしいるのなら…)


 試してみるだけの価値はある、と彼女が考えた。

 特個体が着陸できる開けた場所にダンタリオンが下りた時、通信が入った。相手はラフトポートにいるジュディスからだった。

 ナディは自然と体を強張らせてしまう、昼間に見たあの険しい顔が脳裏を過った。


「──エロ爺い、ノラリスから聞きました、ナディの所へ行ったそうですね」


「それが何かね」


「彼女はそこにいますか?家がもぬけの殻でしたので」


「ああいるぞ」


 ナディの心臓がわし掴みにされ、息が苦しくなった。とてもではないが話をできる心境ではない、何を言われるか分からなかったので堪らなく怖かった。

 ジュディスが言った。


「ナディ、こっちに戻って来て、あんたにお願いしたい事があるの」


「お、お願い、したいことって…」


「ロケットエンジンだけではシルキー・ベルトを越えられない、だからノラリスにお願いする事にしたの。エンジンはコピーしてあるからまだ予備があるけど、次がラストチャンス」


「…………」


「ノラリスのパイロットはあんただから。…どう?」


「わ、私は…」


「あんたが断るんだったらラハムが乗ることになる、あいつはマキナだから機体コントロールはできないけど、ロケットエンジンの制御ならできる。まあ、行って来いの発射になるから生還は絶望的だけど、ノラリスもそれで構わないと言っているわ」


 ナディは何と返事を返そうか悩んだ。

 ロケットエンジンによるシルキー・ベルトの突破が失敗に終わり、今度はノラリスと共にラハムが空へ上がるとジュディスが言ってきた。その成功率は決して高くはなく、よしんば成功したとしても搭乗したラハムたちは戻って来ないと。

 そうだと聞いても、ナディはあのポートに戻りたいとは──どうしても思えなかった。迷惑をかけた人たちに会うのが怖くて仕方がなかった。

 だからこう答えた。


「も、戻りません…お、お爺さんと一緒に調査します…」


 ジュディスの返答はあっさりとしたものだった。


「あっそ。──二度と戻って来るな、この薄情者め」



 ダンタリオンが下り立った場所から二人はホワイトウォール内へ入り、暗い洞窟の中を進んでいった。あの日、ジュディスたちと再会する前に通った時と同じように洞窟の中は夏とは思えない程に涼しく、寧ろ寒いぐらいだった。

 気温だけではない、ナディの心は沈み、そのせいもあって余計に寒く感じられた。

 ゴツゴツとした道を進み、ホワイトウォール内の空洞部分に差しかかった。

 そこはあの日とは異なり、駅のプラットフォームではなくひどく懐かしいユーサ第一港だった。

 彼女たちは桟橋の上に立っていた、下を覗き込むとそこに海はなく、代わりに白い地面がどこまでも広がっていた。


「ここは…ウルフラグか?」


「はい…私が以前勤めていた所です…」


 セバスチャンは酷い言葉をぶつけられ、傷付いている彼女をじっと見やる。何か慰めの言葉をかけようと思案するが、結局何も言わずに歩みを進めた。

 桟橋を渡った二人は社員食堂の前に着いた。

 ライラと初めて言葉を交わした場所だ、階段の前に立ち、ピメリアの紹介でナディは彼女と知り合った。

 まさかこんな事になるなんて、あの日の自分が想像できただろうか。

 見事に再現された道にナディは視線を落としていた。

 

「カルティアンの娘よ、ここに来た目的を忘れるな」


「…はい」


「ここでホワイトウォールの再現が叶えば、お前さんはレガトゥムへ渡れるのだ。──利用してすまない」


「いいえ…まあ、そうだろうなとは…思っていましたから」


 ナディはピアスをもう一度外して、セバスチャンへ差し出した。老人は今度こそその赤いピアスを受け取った。

 何の変哲もないピアスだ、赤い宝石が一つはまっただけの代物、けれどほのかな熱を帯びていた。


「暖かいな…これは?」


「さあ…いつもの事でしたから…時折り熱くなるんです」


「…………」


 ──ティダ・ゼー・ウォーカーが電子の海で発見した世界構成因子は、二次元と三次元に跨る空想量子である。

 

(アネラ…ライラ…もう一度と会えるなら私は…)


 人のイマジネーションにも質量が存在し、質量が生まれたら引力も発生する。

 ナディの空想に反応を示す物があった。

 ここはホワイトウォールの中、ナノマシンとナノ・ジュエルのガンマ線バーストによって発生した場所だ。


「──ああ、一体何を──」


 再現されたユーサの港が光り始め、二人を中心に空想量子のポリマー体が集まってきた。

 想いは次元を超える。

 彼女の空想に反応を示し、ポリマー体が道を作った。


「こんな事が──ああ、信じられない…」


 二人は、ヴァルヴエンドの者たちも遭遇した事がない出来事に出会している。

 ナディたちの前には発光して直視できない扉があった、セバスチャンが言ったガンマ線バーストのように、衰えるどころか徐々にその輝きを増していた。

 彼女が先に歩き出し、その後に老人が続いた。二人は扉を潜り、いとも簡単にレガトゥムへ渡った。

 渡ったその瞬間、ノラリスが彼女のバイタルサインが消失したことを確認した。

 『死亡』という意味ではない、『存在そのもの』である。


(行ったか…)


 二人が潜り抜けた後、次元を跨ぐ扉が消え失せた。





 ライラは汚い星の女王と別れてから、ずっとレガトゥムの世界を彷徨い歩いていた。

 草原の色が白から赤に代わり、空も桃色から草原と同じ赤に代わり、まるで燃えているような所を通り過ぎた後、今度は一転して夜になった。

 その時はあまりの景色に心を奪われ、ここが何処なのかも忘れて見入っていた。

 天の川銀河団が目の前にあったのだ。崖の向こうには太陽系惑星が属する天の川の輝きが右から左へ横切り、手を伸ばせばすぐ届きそうな程近かった。

 その銀河団がやがてお隣さんのアンドロメダ銀河団と衝突し、星と星も衝突し、ヘリオポーズもごちゃ混ぜになってダストスープに変化した。

 ウルトラノヴァ、銀河団爆発。数兆個に達する星を内包する銀河団ですら引力の法則に従い、消滅していこうとしていた。

 壮大なカタストロフを目撃したライラはまた歩みを進め、そしてここまでやって来た。

 彼女は今、森の中にいた。

 歩き疲れていた彼女は、森の中に建っていた一軒の家を目指してフラフラと進んでいく。道の途中に沢山のエビフライの尻尾が落ちているが、それに気付かずライラが柵を乗り越えて扉の前に立った。

 念のためノックする、乾いた音が辺りに響いた。

 返事はおろか、中からとくに反応もなかったので無人だろうと判断し、彼女が扉を開けて入った。


「──!!」

「──!!」


 え、普通にいるんですけど...

 二人とも(´・Д・`)みたいな顔をして固まり、互いをじっと見やっていた。

 家の中にいた人は中性的な出立ちをしており、目元も前髪に隠れてよく見えなかった。性別の判別すらつかない、服装も無地のパーカーにジーパン、無個性なゲームの主人公のような人だ。

 とりあえず彼女は挨拶をした。


「は、初めまして…そしてごめんなさい…ノックしても反応がなかったから…その、あなたは?」


 そう声をかけるとどうだろうか、その人の周りにポップアップウィンドウが現れた。


(あ?)


 そのウィンドウには何やら文字が書かれているようであり、無個性主人公がどれを選ぼうか指を彷徨わせている。


(こいつふざけてない?)


 その人は結局一番下にあったウィンドウをタップし、「あなたがライラ・コールダーですか?」と自分の口で言ってきた。タップした意味は?


「そ、そうだけど…だから、あなたは?レガトゥムの住人…ってことでいいのよね?名前は?」


 するとどうだろうか、ライラの矢継ぎ早の質問にポポポポポンと九つのウィンドウが現れ、その人はパニックに陥っていた。

 疲れていたせいもあり、というより元から短気な傾向にあったライラがプチ!とキレて、その人の両頬をパチン!と挟んでこう言った。


「自分の口で言いなさい!いちいち選択肢に頼るな!ゲームの主人公じゃないんだから!」


 その人が答えた。


「あ、あ、え、ええと…そ、その、わ、私は…」思いがけない言葉が口から出て来た。


「私は…ナ、ナディの、け、携帯電話です…」


 ライラの頭が(´・Д・`)となった。



 その人に名前はなかった。けれど家の中を案内してくれて、今はリビングのソファに腰を落ち着けていた。

 事の経緯をお互いに話し合った、そして二人ともあの女が原因でこの世界にやって来たことを知った。


「何というか、あなたも災難だったわね。まさか携帯電話が自分の親だなんて」


「は、はあ…」


 その人はライラの斜め前に座り、両手を両膝の内側に挟んでもじもじとしていた。人見知りするらしい。


「それで…あの女…そうね、ルビッシュと名付けましょうか」


「る、るびっしゅ…?」


「そう、屑って意味よ」


「そ、それは何というか…ひ、ひどいような…」


「ルビッシュはどうしてあなたを生んだの?それにナディの携帯ってどうやって手に入れたの?」


 またぞろその人の周りにウィンドウが現れた、どうやら仕様らしい。けれどその人はもうウィンドウを見ようとしなかった、もじもじとしながらも彼女の質問に答えていた。


「ど、どうやって、は分かりませんけど…あなたをここへ連れて来る為に、と言っていました…」


「私を?」


「はい、あなたはどうしてもアクセスできないと言って…だから私を生んだと、そう行ってました」


「そう…」


 少し険しい顔をしていたライラがふっと微笑みを浮かべた。

 彼女は目の前にいる人の出自を知ったのだ。


「なら、あなたは私たちが居たから生まれてきたのね」


「──え、それはどういう…」


「だってそうでしょう?私とナディが出会っていなかったら、好きになっていなかったらルビッシュも彼女に目を付けることはなかった、でも私は彼女のことが大好きだから。──それって私たちの子供と同じ意味がない?」


「そ、それは、どうなんでしょう…」


「違うかもね」


「は、はい…」


 その人は自分で否定しておきながら、ライラの言葉に少しショックを受けていた。


「あなたって女の子なの?」


「え。さ、さあ…どうなんでしょう…」


「私が名前を付けてもいい?──レイアってどう?ガイアの娘もレイアという名前を持っていたのよ、神話だけどね」


「レイア…私の名前…」


 『レイア』という名前を貰ったその人の胸に、温かな何かが灯った。

 灯ると同時にその人は、レイアは「このままでは駄目だ」と思った。

 目の前にいるライラはここにいる人たちとはまるで違う、少し不健康そうな顔付きをしているが強烈な『生気』というものがあった。その生気は髪の毛一本にも宿り、ここに居てはならない存在だとレイアは思った。

 しかしどうすれば良いだろうか、どんな方法を使ったらあちらの世界へ返してあげられるのだろうか。

 彼女は誕生してから初めて『思考』した。空想ではなく『思考』だ。

 彼女はピメリアという人物を見て初めて笑い、ナディの気の置けないやり取りを聞いて初めて笑ったように、今度は他者の為に思考した。


「──あ」


「……ん?どうかしたの?」


 答えはすぐに分かった。初めからこの頭の中にあったのだ、それを隠されていた。


「来ています、こっちに」


「誰が──まさか…」


「来ちゃいけないのに、あなたの大好きな人が来ています」





 意識が落ちたとか、気が付いたらここにいたとか、そういう事ではなく、ピンピカに光っていた扉を潜った先は石造りのバルコニーになっていた。


「…………」


 一緒に潜ったはずの老人の姿はなく、ナディは周囲を見回すが気配すら感じ取れなかった。

 背後を振り返るとそこに扉はなく、あったのは一二の棺が並べられたおかしな部屋だった。

 ナディはそれらを無感動な目つきで見下ろしている、次元を超えたからといって己の心中に変化はない。


 ──二度と戻ってくるな、この薄情者め。


 ナディは厳しくも良き先輩に言われた言葉を引き摺りながら部屋の中に入った。中は埃っぽく、そして強い草木の匂いが鼻をついた。

 棺はツタに覆われて雁字搦めになっている、とても蓋を開けられそうにはない。それから一二の棺の前には背もたれが高い椅子が置かれていた。

 その椅子には何かが置かれていた埃の跡があり、誰かが座った形跡は一つもなかった。

 それらを眺めた後ナディは部屋を出て、左右に伸びる長い廊下に差しかかった。

 そこで彼女は声をかけられた、セバスチャンではない誰か。


「こんにちはウォーカーさん」


「あなたは…確か…」


 その人はアーセット・シュナイダー。以前深海へ潜って返って来なかった人だ。


「ここは良い所ですよ、何でも揃いますから退屈はしません」


「ここは、本当にレガトゥムなんですか…?」


「ええ、はい」


 彼はそう言ったっきり続きを話さず、ナディのことを見つめている。

 彼女がアーセットに訊ねた。


「あの、私に似た人を見ませんでしたか?アネラっていうんですけど…」


 アーセットは見たとも見ていないとも言わず、「思い浮かべてみてください」と言った。


「そうすればすぐに会えますよ」


「…………」


 ナディは言われた通り亡くなった親友を思い浮かべた。


(──ああ…)


 けれど、頭の中に親友の姿は再現されず、代わりに涙が溢れてきた。


「ああ…アネラ、ごめん、ごめんね…あの時撃てなくて、本当にごめんね…」


 彼女はこの時初めて、親友の死と向き合った。

 ウィゴーもそうであったように、消えることはない後悔の念と真正面から向き合った。

 ナディは堪らず膝を折り両手で顔を隠し、後悔と申し訳なさの波に翻弄された。

 

「あの時私が、私が撃っていれば…あなたは死ぬことはなかった…それなのに…私は、撃てなかった…」


 ぽたぽたと雫が石畳みの地面に落ちていく、黒い滲みをいくつも作った。

 膝折って泣き崩れる彼女に覆い被さる影が現れた、アーセットではない、その人は女性だった。ナディの肩を優しく抱き締め、「ありがとう」と口にした。

 ナディは未だ涙が溢れる面を上げてその人を見やった。

 その人はあの母親だった。


「サフィを助けてくれて本当にありがとう」


「あ、あな、たは…」


 嗚咽混じりにナディが答える。


「あなたのお陰であの子は今日も笑っているの、こんなに嬉しいことはない。あなたは優しい人よ、だから泣かないで」


「そうだそうだ」と言って、廊下の奥からその人が颯爽と歩いて来た。

 ピメリア・レイヴンクローは生前と何ら変わらず、雄々しい髪を靡かせ大股でやって来た。


「お前まで死ぬとは情け無い」


「ピ、ピメリアさん…わ、私…」


「ああいい、いい」と、ピメリアが面倒臭そうに手をぶんぶんと振ってナディの言葉を遮った。


「どうせちゃんと別れの挨拶ができなかったとか言うつもりなんだろ?んな事どうでも良いよ、私だって親父とろくに挨拶もせずに死んじまったからな〜」


 ピメリアが男っぽくどかっと腰を下ろし、ナディと同じ目線になった。サフィの母親は二人が気付かないうちにそっと姿を消していた。


「親子ってそういうもんだろ?──違うか、まあどうでも良い。で、向こうはどうなんだ?ちゃんとやれてんのかお前」


「それが…私…」


 ナディは涙を拭いながら自分が引き篭もりになったことをピメリアに明かし、そして人が怖くなって勇気を持てないと話した。

 ピメリアはナディの話を聞き、こう諭した。


「人って怖いだろ、どれだけ仲が良い相手でも予想外のことをしてくるし言ってくる、人の心は本当に分からないもんだ」


「…………」


「けどな、それはお前にも等しく言える事なんだぞ、ナディ」


「え……私、ですか…」


「そうさ!お前も他人からすれば何を考えているのか分からない、分からなかったから接し方も分からなくなってしまうし必然と距離が空いてしまう。お前も他人に怯えているように、他人もお前に怯えてんだよ」


「…………」


 ピメリアはナディを安心させるように、にかっと微笑んだ。


「最後のアドバイスだ、生涯に渡って為になる助言をお前に授けよう。──人は太陽だ!人の笑顔は自分を助けてくれる太陽なんだ、だからお前も迷うことがあったら人を選べ!」


「だから、その勇気が持てないって…」


「だからだよ!」ピメリアがナディの肩を遠慮なくバシバシと叩いた。


「お前が勇気を出して接した相手は嬉しい気持ちになる──はず。だから、そういう時こそ勇気を出して人を選べ!いいか?勇気はお前が出す以外に出所がない!心の中にしかないんだから」


「は、はあ…なんか分かったような…分かんないような…」


「おお、おお、調子が出てきたみたいだな、相変わらず反論ばっかりしやがって。──それじゃあな」と、ピメリアが何の憂いも見せずさっさと腰を上げていた。


「ピメリアさん…」


「湿っぽいのは良いから」


「──私を娘だと言ってくれて、ありがとうございました」


「ああ、元気でやれよ。私もさっさとここから出てまた海へ行ってくるよ──じゃあな!」


 と、ピメリアが言ったのと同時に体が薄くなり、後は夢現のように消えていった。

 ナディは泣き腫らした顔のまま立ち上がり、ピメリアが現れた廊下の奥へと進んで行った。

 その足取りはここへ来た時とは違い、どこかしっかりとしたものになっていた。



 長い廊下を渡り階段を見つけ、建物の出入り口から外へ出た瞬間だった、彼女はまた再会していた。


「ヴォルターさん…」


「──ん?──んん?!お前まさか…ナディ・ウォーカーか…?」


 稀代の英雄として、現代に甦ったアーサー王と謳われたヴォルターは煙草の代わりのつもりなのか、適当な長さに千切ったツタを口に咥え、白い石で組まれた石垣に座って空を眺めていた。

 ナディの変わりように我が目を疑い、彼は二度見していた。


「は、はい…その、ここにいるって事は…」


「ああ、死んだよ、ホワイトウォールに穴をぶち空けてな」


「え…それ、本当の話なんですか…?あれヴォルターさんがやったんですか…?」


 ヴォルターはナディの問いかけに答えず、「嘘吐きやがってなにが禁煙だよ…」と、ぺっ!とツタを吐いていた。


「そんな事は良いんだよ。お前、本当に死んだのか?」


「いえ…そういう訳では…」


「なら向こうに戻れるんだな?だったらちょうど良い、サーストンに伝えてくれ」


「サーストンって…ライラの事ですか?」


「ああ、どうせあいつの事だから自分のせいで俺が死んだと勘違いしているんだろうが…そんな事で気に病むのは百年早いって伝えてくれ」


「何を言って、昔からほんと自分勝手に…」


「自分勝手で何が悪い、良い子にしていたら誰かが面倒を見てくれるのか?人生ってそうじゃないだろ」


「じゃあ、何だって言うんですか、私のことを助けたり襲ってきたり、それが人生だって言うんですか」


「そうさ、皆んなてめえの都合で生きている、時には仲間になることもあれば敵になることもある。──お前もそうだナディ・ウォーカー、いくら周りを気にして生きたところで結局は誰かと喧嘩し合うこともあるんだよ」


 ナディはヴォルターの話を聞いて、確かにその通りだとすぐに納得した。


「どんな選択肢を選んでも必ず後悔はある、だから自分の胸に正直になってその選択を選んでいかなきゃならない。お前のやりたいことはお前自身がやれ、他人や環境に甘えるな、その甘えは決して救いにはならない」


「はい」


「──それじゃあな。それと最後に、ラハムにもよろしく伝えておいてくれ、お前まで死なせるつもりはなかったってな」


「は、はあ…──あ」と、言った時にはもうヴォルターもレガトゥムから去っていた。


 それからナディは広場をぐるりと回り、頽れた白い巨人を見やりながらその場を後にし、どこまでも続く平原部に差しかかった。

 気温は暑くもなく寒くもない、空はおかしな事に桃色であり、揺蕩っている雲も白ではなく茶色だった。

 足元に群生している名も無き草も白色であり、現実にはない景色がそこにあった。

 ナディは歩き続けた、ライラに会えると信じて足を動かし続けた。

 草原の色が白から赤に変わり、空の色も桃色から赤色に変わった時、それは現れた。


「あれは…」


 彼女の直上に青い星が昇っていた。真っ赤な空を背景にして、手を伸ばせば届きそうなそれは『地球』と呼ばれる母なる星だった。

 陸地面積は惑星全体の中で約三〇パーセント、それ以外は全て海で構成されている地球は他の惑星とは違い、多彩な色を持っていた。

 ナディは足を止め、地球を見上げた。

 美しいと思った、一面の青い世界を芸術品としてではなく、暗い宇宙の中でしっかりと息づく生命の星として、彼女は美しいと思った。

 地球を堪能した彼女が再び歩き始め、赤色の空から夜空へ変わり、ウルトラノヴァが発生した後のダストスープがまた現れた。

 けれど彼女は見上げもしなかった。彼女はひたすらライラを求めて足を動かし続けた。


 やがて森に差しかかった。空はいつの間にかまた桃色に変わっており、草原は白色に戻っている。

 ナディは森の中に建つ家を見つけた。歩き疲れていたので一休みしようとその家を目指した。

 森の中へ入り、明らかに誰かが通った痕跡を見つけた。


(これは…──)


 視線を落としていたのが悪かった、目前を横切って行った白い影を見落としてしまいそうになった。

 素早く顔を上げる、木々の合間を駆け抜けて行くのは──今度こそ、


「──ライラ!!」


 青いワンピースを着た白い髪をした女性だった、その人はナディの呼びかけに答えず一心不乱になって走って行く。彼女も跡を追いかけた。


「待って!ライラ!」


 木々の細い合間をナディも駆けて行く。草いきれが鼻をつき、細かな葉や枝が彼女の体に当たっている。


「どうして逃げるの!──ライラ!」


 何故だろう、自分の声は届いているはずなのに、目前を走るライラはこっちを振り向こうともしなかった。

 走っている間、ナディの頬に水飛沫がかかった。それはとても小さく、けれどほのかに温かい。

 ナディはライラが泣いていると分かった。


「ライラ!──お願いだから止まって!──逃げないで!」


 森の中を抜け、二人は断崖絶壁に出た。

 先を走っていたライラがようやく立ち止まり、ナディへ振り返ったがその目に涙は無く、代わりに細められていた。

 ナディはライラと五年ぶりに再会を果たした。けれど、どこか様子がおかしい。


「ライラ…」


 それでも彼女は一歩進んだ、右手に絶壁を望むその縁で。彼女たちは気付いていないが空には濃い藍色をした宇宙のチリが漂っていた、それは帯状となって下から上へ走り、森の向こう側へと消えている。

 すっかり大人になり、けれど頬が痩せ細っているライラがこう言った。


「──あっちに行って」


「──え…」


「あっちに行って」


 拒絶。理由は分からない。


「何で、何でそんな事…私だよ、ナディだよ!!あなたに好きだって言ってもらえたナディ・ウォーカーだよ!!」


 せっかく立ち上がったのに、せっかく、本当にレガトゥムで再会できたのに、ナディはライラに拒絶されてしまった。

 それでもライラは、


「あっちに行けえ〜〜〜!!!!」


 と、力の限りに叫んでいた。

 

「ライ──」どん!と、誰かに突き飛ばされ、ナディの体が宙に浮いた。

 すぐ隣は崖だ、地面は無い、上にも下にも広がる空があるだけ。

 

(ライラ!どうして──)


 ナディはどうすることもできず、崖の上から落ちていった。


 いつまでも続くかに思われた浮遊感はすぐに止み、ナディは柔らかく、そして懐かしい何かに抱き止められていた。

 閉じていた目蓋を開ける、目の前には誰かの腕があって、その向こうに白い渦状の雲があった。

 今自分が落ちているのか、それとも止まっているのか、ナディには分からなかった。


「──ナディ」


「────」


 その声を耳にした途端、懐かしさが爆発し、それと同じくらい「そんなはずはない」と否定した。

 否定した、だって居るはずがない、だってまだ生きて──


「お母さん…」


 ナディを抱き止めていたのは母だった。


「そんな──お母さんが何でここに…」


「ナディ、私が愛するたった一人の娘。ああ、私に似て、私よりうんと綺麗だわ…」


「お母さん!!どうして──ああ、どうしてっ…」


「最後にあなたと会えて良かったわ、ナディ」


「そんな事言わないでよっ嘘だって言ってよ!死んでない、お母さんは死んでない!」


 母は泣きじゃくる我が子を力強く抱き締めた。


「お母さん…お母さん!嫌…嫌!」


「あなたにはまだやるべきことがあるでしょ?」


「無い、もう無いよ!皆んなから嫌われた!──離れたくない、お母さんから離れたくない!」


 ナディはヨルンの胸に顔を押し付け、離されまいと彼女も力強く母の体を抱き締めた。


「駄目。──ナディ、覚えてる?誰かを愛するのに途轍もなくエネルギーがいるって言った事を。今度はあなたが誰かを愛するようになりなさい」


「嫌、嫌!私もここに残る!──お母さん!」


「大丈夫、大丈夫だから、ね?だから泣き止んで」


 二人を取り巻く世界が急速に光を失っていく、抱き締める母の体も軽くなる。


「愛しているわ、ナディ。私の娘、ティダの娘よ」


「お母さん!お母さ──」


 世界が暗闇に落ち、母の温かみも消え、ナディはレガトゥムから切り離された。

※次回 2023/12/3 22:00更新


間に合いませんでした、明日にもう一話アップします。

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