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第二十九話 初めての

29.a



 私は、初めて目覚めた朝のことをよく覚えている。こんな言い方をするとまるで、とんでもなく記憶力が高く、赤ん坊だった頃を覚えているかのように聞こえてしまうが、そんな事はない。私に赤ん坊だった頃はなく、目が覚めた時からこの私だったのだ。

 目が覚めて初めて思った感想が、寒い、だった。他に何か無かったのかとティアマトには馬鹿にされて突っ込まれてしまったが、ない。とにかく寒かったのだ。部屋の温度も被っていた布団も、私自身の体も。起きて見回した部屋は知らないはずなのに、机には面倒くさくなって途中でやめたレポートや、クローゼットにはたった一人の親友とお揃いで買った青いマフラーがあることを知っている。そして、私の名前がマギリという事も、初めて目覚めたのにも関わらず記憶していたのだ。

 寒かった、部屋に一人という状況だけでなく何の信用もない冷たい記憶に囲まれていたことが。だって信用がないってことは他人と何にも変わらないじゃないか、それなのに他人の記憶が私の頭の中にある。意味が分からない状況に理解も納得も出来ず逃げるように部屋を出た。たった一人の親友にも会いたくなかった、私であって私ではない。何を言われるのか怖かったから、微笑まれても怒られてもどんな反応をされても、それは今の私に向けたものではなく記憶の中の私に向けられたものだから。

 部屋を出るとリビングがある、目の前にはソファがあってそこに親友が座っていないことを祈りながら引き戸を開けると、


「寒いね」


「…………あ、うん、寒い…」


 ...私と同じように震えながらブランケットに包まりソファに座っていた。目が合った瞬間はどうしようかと大いに焦ったが声をかけられた、寒いねって。記憶と同じ顔と声で、今の私に向かって寒いねと、言ってくれた。

 親友は立ち上がり、肩に掛けていたブランケットを私に掛けてくれたのだ。ほら見て、と言いながら息を吹きかけて白く変わっていくのを二人で見守り、部屋の中なのに意味分かんないよね、と笑いかけてくれた。その笑顔に私も釣られて意味分かんないね、と笑い返した。

 そして瞬きをした次の瞬間には、まるで出来の悪いフィルム映画のように場面が様変わりして知らない女の人が目の前に立っていた。笑いかけてくれた親友は見当たらず寒かった部屋ではなくなり白色一辺倒のおかしな場所に私が立っていた。目の前に立っていた女が私を見つめて、どこか誇らしげにこう告げたのだ。


「おはよう可愛い私の子供、あなたの名前はマギリ、仮想世界の中でたった一人で生まれた可哀想な子、だから貴女にたった一人の親友をつけてあげるわ、その名前はアヤメ、もう会ってきたかしら?残念だけとそれもデータだから、今からあなだはぁ?!!」


 私は、初めて怒りに任せて殴りつけた女のお腹の感触を覚えている。こんな言い方をするとまるで、私がとんでもない暴力女のように聞こえるが、そんな事はない。理不尽に生み出されて、何の説明も無く記憶を与えられて、せっかく笑いかけてくれた親友から引き剥がしたのだ。当然の怒りだ。


 こうして私はティアマトのナビウス・ネットに誕生し、たった一人の親友を与えられた。親友は現実世界で頭に大怪我を負いその治療をしているところだ、さらに私は生みの親(?)に親友のお世話をするように仰せ使っている。まぁ私が甘え倒しているので役目を果たせているとは思えないが。

 そんな仮想の上に成り立っている、けれど私にとってはかけがえのない世界に異変が起き始めた。親友の記憶が一日おきにリセットされてしまうのだ。その事に感づいたティアマトが、私の家に直接上がり込んで詳しく話せとリビングに居座ったところに、また場面が移る。



29.b



「帰ってもらえませんかね、ここにいても解決しないよ」


「あなた、私が誰だか忘れているみたいね?その体に教えてあげましょうか」


「何?まだ腹パンされたこと根に持ってるの?意外と器は小さいんだねマキナって」


「この…」


 恨めしそうに私を睨んでくる。

リビングには私とティアマトの二人っきり、時間はお昼時の陰気な雲の下だ。今にも雨が降りそうだがなかなか降ってこない、そんなもどかしいようなイライラするような時に現れた奴なんてろくなもんじゃない。

 ティアマトにはお茶の一杯も出さずにソファに座らせたままだ。今日は黒いワンピースに上から半端袖の赤いカーディガンを羽織っている。髪はいつものように横に流してお姉さんみたいな雰囲気を出しているが顔は苦虫を噛み潰したように渋い。


(まぁ私が塩対応しているからなんだが)


 私は部屋着で、ティアマトの向かいに座っている。アヤメがいつも家の中で着ているフード付きの上着を無断拝借して、下は短パンだ。毛が長いラグの上にあぐらをかいているので少しこそばゆい。

 はぁと溜息を付いてティアマトの顔を見やる。いい加減に帰ってほしいのでまともに相手をしようと渋々腹を括った。


「前にも言ったけど、アヤメの記憶が何だかおかしいの、会ったはずの人のことや場所なんかも次の日には忘れているんだよ」


「そうみたいね、確かにあの子はアマンナに似た女の子に会ったはず、それなのに忘れてしまうなんて」


「あまんな…って誰?仲良いの?」


「それにグガランナに似せた学生にも会わせたのに、何にも反応示さなかったわ」


「待って待って!さっきから何言ってんの?」


 ティアマトの言葉に慌てて止めに入る。しかし全く私に取り合わず何やら空中を見て指先を動かしている。さっきまでの塩対応を忘れてティアマトの横に私も座り、細い二の腕を掴んで揺さぶりながら問い詰めた。


「ま、まさか私にみたいな女の子をぽんぽん作ってる訳じゃないよね?!」


「そんなに慌てるぐらいなら少しは言う事を聞きなさい、いくらでもこの仮想世界を変えることが出来るのよ?」


「わ、分かったから、言う事聞くからそんな怖いことしないで」


「本当に…アヤメの事になると人が変わるんだから、そこまで依存する設定にはしてなかったはずだけど…」


 指先を動かすのをやめて私の顔を見る。


「あの子の記憶を試していたのよ、とくに仲が良かったあの二人の外観データだけ作ってね、結果は駄目、やっぱりアヤメはおかしいわ」


 その言葉に落ち込んでしまう。現実世界にはアヤメと仲が良い友達が少なくとも二人いることが分かってしまった。私はアヤメしかいないのに。

 私に構わず話しを続けている。


「それに自分が住んでいた場所や世界の事も忘れてしまっているみたいだし、私はそこまで記憶を操作した覚えがないもの」


 その言葉にはっとする。では、その記憶を取り戻したら?私はどうなってしまうのか、心に暗い雲が漂い始めたのを見計らったように雨が降ってきた。無地のカーテンの隙間からは窓ガラスに水滴が付いていくのが見えている。その様子を少し不安な気持ちで眺めながら、どこまで記憶を操作したのかティアマトに聞いてみた。


「どこまで記憶を弄ったの?」


「貴女が自分の親友であることだけよ、いきなり貴女みたいな我儘な女の子が現れたんじゃあの子が可哀想だもの」


「何だそれ」


 何だそれ。同じ事思っちゃったよ、こっちは自分の存在が曖昧になってしまいそうで怖い思いをしているというのに。

 無責任な発言にいくらか気分転換が出来たみたいだ。ティアマトから貰っていたあの薬について聞いてみた。


「私はてっきりあの薬が原因でアヤメの記憶があやふやになっているのかと思ってた」


「はぁ…そんな訳ないでしょ、あれは正真正銘の鎮痛薬よ、こっちで飲むタイミングと同期して服用させていたのよ」


 綺麗すぎて逆に不気味な指で額を押さえながら答える。そこでティアマトも雨が降っていることに気づいたようだ、外の様子をちらりと見てから再び私に向き直り、無理な要求を突きつけてきた。


「マギリ、貴女も手伝いなさい、この間みたいに私から逃げずに、いいわね?何のために貴女を作ったと思っているの」


「アヤメと仲良くなるため」


「そのアヤメが今、記憶を失いかけているの、このままでは向こうの世界に帰れなくなってしまうわ、それでもいいの?」


「失うって大袈裟な…怪我した後遺症とかじゃないの?」


「それが分からないから私も焦って調べてるの、記憶喪失が一時的なものか進行しているものかで全く状況が変わってくるわ」


 その目は真剣だ、いつもみたいに偉そうにしていない。けど、


「…私は別に、このままでも…」


 アヤメには帰ってほしくない。この世界にずっと居てほしいと思う...ううん、向こうの世界に私が行く方法が無いから、だからここに居てほしい。

 けれどティアマトはそんな我儘を一切許すつもりはないらしい、厳しいことを言ってきた。


「もし、貴女が現実世界への帰還を邪魔するようなら迷わず消すわ、覚えておきなさい」


「…」


「それに、アヤメはこっちでも頭痛に悩まされているのよね?それがどういう意味か分かる?現実のアヤメも同じように大怪我を負った痛みに耐えていることなのよ」


 ...鬩ぎ合っていたアヤメを心配する心とここにいてほしいと我儘に思う心に決着がついたようだ。


「…私は、何をすればいいの?出来ることはあるの?」


「あるわ、まずは周りの観察からお願い、少しでも異変があれば私に連絡なさい」


 負けたのは我儘な心だった。大好きな親友が苦しんでいると聞いて、助けてあげたいと思えたからだ。けれど私には大きな問題を抱えていた。


「分かった、早速だけど一ついい?」


「何かしら?」


「アヤメと喧嘩して昨日から一言も口をきいていないの」


「…」


 それはそれは、苦虫なんてものではない。苦虫の生みの親を丸呑みにしたような、とてつもなく面倒臭そうに顔をしかめた。



29.c



 何とか持ち堪えていた天気はついに大粒の雨を降らし始めた。大学本館にある屋上庭園は激しく叩きつけられる雨で白く煙ってしまい、職員棟の入り口からではライオンの噴水を見ることが出来ない。雨の匂いと音に支配された私の周りには、一本も傘が置かれていない豪華な傘立てと、今日は休みなので用事があるなら直通電話にかけてね、とその旨を知らせる電光掲示板がある。

 雨が降るだろうと思い、あまり濡れたくなかったのでナイロン生地のウィンドブレーカーに短いパンツとレインブーツを履いて、一人でとぼとぼと大学までやって来た。休みなのに。お昼前になって教授から、明日に控えた見学についてもう一度打ち合わせがしたいと連絡が来たのだ。これ幸いと思い二つ返事で了承してここまで来たはいいが、頭の中は喧嘩したマギリの事で一杯だった。短パンのポケットに突っ込んでいた携帯が短く震えて、教授からメッセージが届いたことを知らせてくれた。


(はぁ…まだ怒ってるのかな…)


 やっぱり大学に行かず、ちゃんとマギリと仲直りしておけば良かったのかな。朝、顔を合わせても挨拶もせずにお互い自室に引っ込んでいた、あの空気に耐えられなかったから教授の誘いを受けたのだ。

 教授から、職員棟の入り口は開けておいたから先に入っていてほしいと連絡が来たので、携帯を片手に持ったまま振り返り自動扉の前に立つ。音もなく開いた自動扉を抜けて職員棟の一階ロビーに足を踏み入れる。真っ先に目に飛び込んでくるのはテンペスト・シリンダーの大型模型だろう、高さは私の背丈の倍くらいかな?模型の天辺は見ることが出来ないが、細部まで作り込まれた模型は見応えがあった。


「ふぅん…こんな風になってるんだ…」


 マギリと喧嘩した事も忘れて見入ってしまう。模型は二階建てで作られていて、一階は八本の爪で円形状の土台をがっしりと固定している。模型の隣、私の目線に高さを調節して表示された空間投影画像には下層と書かれている。さらに下層の下、円形状の真下から八本の棒が地中へと伸びており不安定な地盤でも固定されますよと、3D画像と共にまるで言い訳のように説明してくれていた。

 二階部分は上層と呼ばれ、二重構造の先端が丸みを帯びた縦に長い筒のようなものがセットされていた。一階と二階を繋げているのはネジ式のようにも見えて、まるで電球を逆さまに付けたような外観だった。

 テンペスト・シリンダーの全景を見たのはこれが初めてのはずなのに、違和感を感じた。


「ん?あれ、二つだけ?」

 

 おかしい、もう一つあったはずだ。下層と上層と、さらに上が...全部で三層になっているはずなのに目の前の模型は二層しかない。

 首を捻り、うーんと考え込む。私の思い違いかと暫く模型と睨めっこをするが、やはりおかしいと、違和感が消えてくれない。

 完成前かなと一人合点をした時に入り口から誰かが歩いて来る足音が聞こえてきた、振り返るとそこには雨に少しだけ濡れた教授が、ハンカチで嫌そうに頭を吹きながら歩いてくるのが見える、鞄に入れておいた少し大きめのタオルを手に持ちながら、教授に声をかけた。


「こんにちは、良かったら使いますか?」


 私が取り出したタオルを、まるで信じられない物を見るように目を見張り、ほんの一瞬動きを止めた。


「…」


「あ、あの、教授?」


 私の声に我に帰った教授が慌てて受け取ってくれた。


「ごめんなさい、あまり気づかわれた事がなかったものだから疑ってしまって…」


 何を?何を疑うんだ?受け取ったタオルを頭にごしごしと押し付け、恥ずかしそうにしている。

 教授の一言にあっけにとられていると気を持ち直したのか、教授が今日の急な誘いで申し訳なかったと謝ってくれた。


「ごめんなさい、せっかく創立記念日に大学に呼び付けてしまって、それにこんな雨で大変だったでしょう?良かったら食堂で何か食べましょう、貸してくれたタオルのお礼に私が持つから」

 

「あ、はぁ…いいんですか?」


「えぇ、恩返しはしないと、ね」


 そう言って少し頬が赤い笑顔を私に見せてくれた。

 教授が模型の前を通り過ぎようとした時、私は思わず呼び止めていた。模型について質問したかったからだ。


「あの、食堂に行く前に一つだけいいですか?この模型、何かおかしくないですか?」


「そうかしら?どこか壊れているとか?」


「いえ、そういう意味ではなくて、もう一つの層がありましたよね?二層ではなく三層あったと思うんですが…」


 どうして私もここまで拘るのか分からない。けれどこの模型はやはり見ていると違和感しか湧いてこないのだ、足りないと、私達の住む場所が一つ足りていないと。

 たっぷりと、間が開いてから教授が答えてくれた。


「…………………それはね、まだ出来ていないからよ」


「この模型がですか?」


「…いいえ、タイタニスがまだ目覚めていないから、貴女が住んでいた街はまだずっと先に作られるのよ」


 ..............は?私が...住んでいた街?


「何を言って…ーーーっ?!」


 教授の言葉が分からずさらに質問しようとした時に、いつもの、いいやいつも以上に頭が脈打つように痛み始めた。激痛に目がちかちかとして、その場に立っていられず膝をついてしまう。慌てて鞄に入れてある薬を取り出そうとするが、


「…そう、さすがにこの記憶までは制御出来なかったようね、でもいいわ」


「……?」


 何の話しをしているのか、教授に上向いたと同時に意識が途切れてしまった。



「気分はどう?急に倒れてしまったから心配したわ」


「…」


 意識が戻るとそこは病室のようだった。見上げた天井は薄い緑色をしていて、よく見ると葉っぱの模様が描かれていた。隣を見ると変わらず振り続ける雨が窓ガラスを叩いていて、その反対側を見ると教授が眉尻を下げて私を見下ろしていた。


「…あの、私…」


「一階のロビーで意識を失ったのよ、頭が痛いと言ってね、調べてみたらアヤメさん、過去に大怪我を負っていたのね、その後遺症だと思うわ、今は安静にして」


「…後遺症…」


 ...そうだったのか?そんな気がするような、しないような...

 未だはっきりとしない意識の中、オレンジ色に照らされた女の人が浮かび上がってきた。ぼんやりと意識の中の光景を眺めていると、教授が席を立ち間仕切りのカーテンをかけ始めた。


「私は隣にいるから、何かあったら声をかけて、しばらくすれば入院せずに帰れると思うから心配は要らないわ」


 離れようとした教授を慌てて呼び止める。


「あの、ここに、居てくれませんか…」


「…」


 またあの目だ、私は信じられない物なんだろうか。けど今度はすぐに返事が返ってきた。


「…えぇ分かったわ」


「すみません、一人だと心細いので…」


「何かする事はあるかしら?」


「いいえ何も…居てくれるだけで、大丈夫です…」


「…」


 眉を寄せて落ち着かないように椅子に座り直した、何かおかしな事を言っただろうか。

 さっかまで浮かび上がっていた風景は消えて、少しずつ意識がはっきりとしてきた。閉じていた目蓋を開けて、隣を見ると私を見つめている教授と目が合った。何か言いたそうに、いつも掛けているべっこう眼鏡の縁を触りながら、おずおずといった体で声をかけてきた。


「…少し、話しても大丈夫かしら、体に障るようなら…」


「いえ…落ち着いてきたので、大丈夫ですよ」


 べっこう眼鏡から今度は少しウェーブがかかった髪の先を弄りながら、思い切ったように聞いてきた。その仕草がまるで女の子のように見えてしまったので少しだけ笑ってしまった。


「…私の事、……なにを笑っているのかしら」


 笑っていたのがバレてしまったようだ、悪気がないことを被りを振りながら説明する。


「いいえ、何だかいじらしい女の子に見えてしまったので、何を言いかけたんですか?」


「もういいわ、早く寝なさい」


 怒らせてしまっただろうか...もうこちらを見ようとせず携帯を取り出して弄り始めてしまった。

 教授から目線を外し、再び葉っぱが描かれた天井を見上げる。いつまでこの頭痛は続くのだろうか、それに過去に大怪我を負った記憶などは無く教授が言っていた話しも何だか他人事のように思える。それに今まではオレンジ色に照らされた光景だけだったのに、その中に女の人がいたのは初めてのことだった。今まで感じた事がない不安がゆっくりと心を覆い始め、何か喋って気を紛らわそうと隣に座る教授を見る。今さら、本当に今さらだが私はこの教授の名前を未だに知らずにいた。


「あの…お名前は、何というのですか?」


 弄っていた携帯から顔を上げて私を見ながら答えた。


「…教授で構わないわ、それともうすぐここに医者が来るはずだからそのまま寝ていなさい」


 少しだけ寂しそうにしながら、答えてくれなかった。まだ怒っているのかな?


「教授って…私と同じで短気なんですね、まだ笑ったことを怒っているんですか?」


「…」

 

「怖い怖いっあいたっ」


 無言で何も言わずデコピンの構えでゆっくりと近づいてきた。


「まったく…」


 それから暫くして、大学に勤めているお医者さんが私を診てくれた。とくに変わったところは無いと言われて、もう大丈夫ですよと大学の病室から帰れることになった。

 あれ、また教授と打ち合わせが出来なかった...



29.d



 家に帰ってきたアヤメはどこか疲れているようだ、顔色が悪い。けれどかける言葉が無い。というか喧嘩...してしまっているのでおいそれとは近づくことが出来ない。

 ティアマトと喋っていた格好のまま、リビングで携帯を弄っている時にアヤメが帰ってきた。顔だけ上げてアヤメと目が合う前に再び携帯に視線を落とす。洗面所で手を洗っている音が聞こえる。蛇口を乱暴に締めて足音を鳴らしながら部屋と入っていく。


「はぁ…」


 どうして息を詰めなければいけないのか。それに居心地も悪い、家の空気に耐えきれず自分の部屋に引っ込もうと腰を上げた時、アヤメの部屋から何かが落ちる大きな音が聞こえてきた。驚いて部屋を見やるが音が聞こえてきただけでとくに変化はない。


(まさか…)


 いつもの頭痛で部屋の中で倒れた、とか?心配になってしまったので様子を見にいくことにした。こんなことでもなければ部屋にも近づこうとしない自分に嫌気が差してしまった。


「アヤメー」


 部屋の前に立ち声をかけるが返事がない。引き戸に手をかけゆっくりと開ける。


「アヤメー開けるよー」


 いきなり開けるなと怒られたくなかったので一応断りを入れながら引き戸を開けた。そこには、ラグの上に倒れ込むようにうつ伏せになってるアヤメがいた。


「アヤメ!!」


 血の気が引いてしまった。人間が倒れたところなんて初めて見たからだ。それに倒れているのはアヤメだ、喧嘩している事も忘れて大声で呼びかけながらアヤメのそばに駆け寄る。


「アヤメ!大丈夫?!頭が悪いの?!」


 テンパってしまいおかしな言葉使いになってしまった。私の言葉尻を捕らえてアヤメが怒ってきた。


「誰が…頭が悪いのはマギリでしょ…」


「ち、違う!痛むの?!薬は?」


「か、鞄の中に…」


 背中に押し潰された鞄の中から薬を探し出し、小さな錠剤をアヤメの口へと持っていこうとするが、私の手が震えてしまい思うように出来ない。だって、だって!こんなに辛そうなアヤメ、初めて見たから、顔は汗でびっしょりだし唇なんか紫っぽくていかにも不健康な感じがして、苦しそうに喘いでいるのだ。私まで苦しくなってしまう。


(お、落ち着け私!)


 もう一度とゆっくりと手を持っていこうとすると、今度はアヤメから私の手にパクついてきた。不謹慎にも、手のひらに伝わるアヤメの唇の感触に電流が走り体が硬直してしまう。アヤメの荒い鼻息も手のひらにあたって、まるで小さな動物に餌付けをしているようだと、蕩けた頭で思ってしまった。

 手のひらから直接薬を飲んだアヤメが睨むように私を見つめ、口を尖らせて文句を言ってきた。


「こ、こんな時まで…意地悪をするの?」


 きっと手が震えてなかなかアヤメに飲ませてあげられなかったのを勘違いして怒っているのだろう。私は慌てて否定した。


「ち、違うよ、慌ててしまって手が震えてそれに昨日はごめんずっと言えなくて」


 一気にまくし立てるように謝った...私は一体何を言っているんだこんな時に。何をどさくさに紛れて謝るような真似をしてしまったのか。それ見ろ、アヤメもまた睨んできたではないか。


「…今?…このタイミングで謝るなんて…」


「ごめんなさい、ダブルでごめんなさい…」


「マギリ…目を瞑って…」


 昨日の事と、今謝った事を重ね掛けして謝った後、アヤメの言う通りに目を瞑った。


「いっだぁ!!!」


 どこにそんな力があったのか、おでこに派手な音がしたかと思うと激痛が走った。どうやら私はデコピンされたようだ。


「これで、許してあげる…」


「はい、すみませんでした…」


 片腕でアヤメを支えて痛むおでこをさする。まだ顔色は悪いままだけど、アヤメが微笑んで私に看病をお願いしてきた。二つ返事で答えて、アヤメの腕を肩に回して立たせてあげる。ベッドまでゆっくりと歩いてアヤメを座らせて、その場を離れようとするとアヤメが私に抱きついてきた。突然の事にドキドキしながらも、私もアヤメを抱きしめていた。


「ごめんね、マギリ…」


「私も…ごめんね昨日は、嫉妬しちゃってさ、私にはアヤメしかいないから、何だか悔しくて…」


 ゆっくりと顔を上げて、また小動物のように小首を傾げて可愛い仕草をする。


「…マギリは友達多いよね、それなのに?」


 違うんだよと力説したかったけど、私の本性を言うのは躊躇われたので誤魔化して伝えた。


「本当に好きなのはって、意味かな」


 すると首を傾げたまま顔が少し赤くなっていく。見間違いじゃないよね?照れてるの?


「ふぅん…そっか…なら、もっと甘えていい?」


「いいよ、昨日のお返しにうんと甘やかしてあげる」

 

 そう言いながら腰に回していた手を、アヤメの頭に持っていき撫でてあげた。細くて柔らかい髪だ、撫でてるこっちまで気持ち良くなるぐらい。


「じゃあ…体、拭いてくれる?汗で気持ちが悪いから…」


「そ、それは、自分でやった方が…」


 早速諦めたくなった。拗ねるような無言の圧力に耐えきれず、私は洗面所まで走って行った。


 

 細かったぁ...それなのにしっかりと胸...いいややめておこう。邪な目で見ていたのがバレなくて助かった...どこが子供っぽいだ、一度アヤメと体型の話しになって私のモデルのようなスタイルが羨ましいと、妬みと褒め言葉を混ぜたような言い回しで責められたことがあったが、そのアヤメときたら...十分魅力的ではないか。私が男だったら今頃...いいややめておこう。

 親友をこんな目で見てはいけないと遅すぎる自戒と共に、食事を載せたお盆と一緒にアヤメの部屋に入る。薬が効いてきたのか顔色も随分と良くなり今は普段通りだ、寝間着に着替えたアヤメはベッドに座りゆっくりと寛いでいるように見える。肩にはあの時私に掛けてもらったブランケットがあり、手には携帯を持って何やら弄っている。今から食事をするのだ、まるでお母さんのように携帯を片付けるように注意する。


「はーいご飯ですよー、携帯は片付けましょうねー」


「はーい」


 子供か。アヤメの返事に何だか背中が痒くなってくる。

 お盆を机の上に置き、後はご自由に言おうと思ったが、はてな顔のアヤメが当たり前のように甘えてきたので慌ててしまった。


「食べさせて」


「え?」


「あーんってするから食べさせて」


「え」


「あーん」


 あー何という...そんな顔で待たれたらやらざるを得ないではないか。机に置いた食事を持ってアヤメに近づき、スプーンですくったスープをアヤメに飲ませる。小さな口から入っていくスープを眺めながら頭の中で整理する。


(あれ?これってティアマトに言われた役目が果たせてるんじゃない?)


 ならいいのか。飲み終えた唇はスープに濡れてぬらぬらと光っている、さっきの邪な自分が顔をにょきっと出して思わずドキリとしてしまった。


「うーん、そんなに?」


「え、まさかの文句ですか」


 私の言葉にけらけらと笑う。


「ごめんごめん、嘘だから」


「そこは嘘でも褒めてほしかったよ、はいあーん」


「あーん」


 暫くあーん合戦が続き、スープを飲み終えて一旦休戦となった時アヤメから痛い事を聞かれてしまう。


「昨日は誰に嫉妬したの?」


「…あの学生だよ、アヤメと同じ髪の色をした」


 私の目を見ながら思い出しているようだ。

てっきり覚えていないと言うと思ったのに、昨日の学生の事は思い出せたようだ。


「あぁ…あの学生…ん?あれ?」


「どうしたの?」


 腕を組み何やら考え込んでいる。徐に顔を上げて私の方を見て、


「私…あの人にキスをした事がある」


「んんん?!!」


「ような気がする…何か初めて喋った気がしないんだよね、何でだろう?」


 キス...え、キス?確かティアマトも仲の良かった友達に外観を似せたとかなんとか言っていた。ということは現実の世界でアヤメとあの学生...ではなく似た友達はキス!...をしたという事なのか。心の中に猛烈に燃えたぎる嫉妬の炎が生まれたことは言うまでもない。


(キスをする程仲が良いから忘れずにいれたって、ことなのかな)


 ティアマトに連絡しなければいけないがそんなのは後回しだ。

 私は居住まいを正しアヤメに向き直り、真剣にお願いした。


「私にも、キスしてください」


「うん」


 ...................................むにゅ、とした感触が私の唇にあった。


「…」


「…」


「何か言ってよ」


「むにゅ」


「怒るよ」


「…あ、ありがとう…」


 会話になっていないが無理もない。言ったそばからキスをしてくれたのだ。嬉しさよりも混乱が先に来てしまう。


「あ、あの一ついい?どうして理由も聞かずにしてくれたの?普通は、はぁ?とか何言ってんの、とか、そんな反応のはずだよね」


「はぁ?何言ってんの?」


「アヤメさん、ふざけるのはよしてください…」


 悪戯っぽく笑って私の言葉を真似ている。

その後に言ってくれた言葉を私は忘れることは絶対にしないだろう。


「私は、他の誰でもないマギリの事が好きだから迷わずキスをしたんだよ、それともう喧嘩はしたくなかったから、マギリと話しが出来なくて凄く辛かったよ」


 ...私の事を好きだと言ってくれた。喧嘩して口を聞かなかった間を私と同じように辛かったと言ってくれた。

 決着したはずの心が再び、より一層その戦いの激しさを増して鬩ぎ合っているのを感じながら、暫くアヤメと見つめ合っていた。

※次回 2021/1/21 20:00 更新予定

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