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テンペスト・シリンダー  作者: tokusin
第二.五章
289/335

TRACK 38

ルビッシュ・オブ・ハート



 〜ラハムの玉突き事故発生より少し前〜



『さあ〜始まりましたカウネナナイニュースのお時間です!司会はこの私と『ラハムがお届けしま〜す!ナディさ〜んあなたの可愛いラハムがラジオに出演してますよ〜!『さあさあでは早速今日のニュースを──』


「いやほんとに出てる…ヤバ」


 一人で使うには勿体無い広いベッドに寝転がり、ナディはラハムから買い付けた携帯を眺めていた。音声はラジオ、画面は動画である。


『ジュヴキャッチとレイヴンが共同開発をしている大陸間通信用アンテナドローンですが、何でも大きさが五〇メートルにもなるとか!その辺りどうなんですかラハムさん『はい〜そのアンテナはシルキー・ベルトの影響に負けないようにうう〜んと大きくする必要がありましたので──』


 何日か前...いや一週間?二週間...?とにかく、ここ最近は人の話し声もめっきり聞こえなくなっていた。耳に届くのは携帯の音、工事現場の騒がしい音、自分が立てる細やかな音──それからくすくすと笑う声。

 

(はあやだやだ、また被害妄想…)


 ナディはぎゅっと目を瞑り、妄想を払うように体を起こした。

 薄暗い家の中はゴミや衣服で散乱している、掃除するなんてめんどくさ過ぎるからずっと放置だ。

 眠っている間に誰か来ていたのか、綺麗に掃除された机の上には食べ物が置かれていた。

 ナディは怠そうにしながらベッドから離れ、食べ物の横にあった置き手紙には目もくれず、そのまま齧りついた。


「──まっず…」


 誰かが作ったのだろう、目玉焼きが乗せられたバンバーグを一口だけ齧った後はゴミ箱へ放り投げ、またベッドに戻った。

 ごろんと仰向けになる。ここ最近になって建ち始めた大きな柱のせいでこの家に光りが当たらず、そのせいか、天井や壁の端から湿気で腐り始め、その染みが目の前にも広がり始めていた。

 ナディが天井へ向かって手を伸ばす。


(あの時に戻りたい…目覚めたばかりの頃に…)


 こつんと自分の額に腕を置き、いつでもどんな時でも訪れてくれる睡魔に身を委ねた。

 

『──さあ!今日はこのくらいにしてまたお会いしましょう〜!このラジオは私と!『ラハムがお届けしました〜!ナディさ〜ん!ラハムが作ったご飯はどうでしたか〜!美味しく食べてくれたら幸いです〜!』


(──ああ、あのマズいご飯はラハムが…)


 睡魔が押し寄せ、胸のうちに溜まっていたゴミのような不快感を包み込み、ナディは逃げるようにして意識を手放した。



 眠ったのは一時間程だろうか、目が覚めたナディは眠気を引きずりながら起き上がり、ゴミ箱の中を漁り始めた。


(マズイ、マズイ、こんな所見られたら…)


 眠る前に捨てた目玉焼きとハンバーグを取り出し、申し訳なさから口へ運ぼうとしたがすぐに諦め、最近買ったばかりの携帯電話の空き箱の中へ押し込み、結局また捨てていた。

 せめて手紙だけでも読もうと机の上を探すが先程の新しい物が見当たらない、あるのはラハムがラジオに出演するから聴いてね!という旨が書かれた物だけだった。

 その他にも手紙が沢山ある、そのせいでごちゃごちゃとしている、ああ、そうか、と彼女は思い出した。


(ゴミ箱の中か…一緒に捨てたんだ…)


 もうゴミ箱の中はぐちゃぐちゃだ、さすがに手を入れる勇気はない。

 彼女はまた諦めた。


(もういいや…)


 手を洗ってベッドへ戻る。気分転換にカーテンでも開けるかと手を伸ばし、錆びていないレールの上を金具が滑ってすぐに開いた。

 けど、光りは差してこなかった。大きな柱が二本立ち、太陽の光りを遮っていた。空はその柱の間からちょこっと見える程度、もう夏が終わろうとしているのに空には入道雲が伸びていた。


「気持ち良さそう…あんなにうんと空へ飛べたら…嫌な事も全部忘れられるんだろうな…」


 メインポートの奥も奥、人の通りが減り、付近に住んでいた人たちは皆、新しい所へ引越していた。

 人の流れが途絶えると風も興味を失くすのか、ナディの所へ全く来ようとしなかった。そのため空気が澱み、心の中にも溜まり、どんどんと気分が落ち込んでいく。

 けれどナディはそれで良いと思っていた。

 だって、


 『頑張ったところで何になる?』

 

 何にもならない、立ち上がっても立ち上がっても辛い事ばかり。

 それならいっそ立たない方が良い、頑張らない方が良い。

 どうせ誰も褒めてくれやしない、親友の悲しみを乗り越えて立ち上がったところで誰も褒めてくれやしなかった。

 それが生きる事だ、と暗に圧力をかけてくるだけだ。

 頑張ることが前提になっている世の中なんて息苦しいだけ。

 だから、自分はこんな薄暗くて空気が悪い場所の方が良い、と。

 ──ナディは本気でそう思っていた。


「──ああ、また…もう嫌、何なのこの声」


 くすくす。

 

「幻聴だなんてガチで病んでる──」


 笑い声の正体を確かめようとナディは窓の外へ視線を向けた。

 ふわりと舞った髪の色が──


「────ライラっ!!!!」


 ちょうど目の前にある、空き家になった民家の前を誰かが横切って行った。

 白い髪をした人だ。

 堪らずナディは家を飛び出した、靴なんて履いている暇は無い、裸足で駆け出した。


「ライラ!!待って!!」


 家と家の狭い合間を抜けて、メインポートの入り口の反対側へ出た。そこは少し開けた所になっており、少し前までここで物々交換が盛んに行なわれていた。

 ナディは足を動かした、もう動かないと思っていたのに足が動いてくれた。

 ギアが噛んだ、ナディはそう思った、止まっていた心のギアがようやく回り始めてくれた。


「ライラ!!」


 もう空き家が目立ち始めたポートを駆け抜ける、中にはナディと同じように住み続けている人もいて、その人たちがナディに奇異な視線を向けていた。


(私が走っておかしいか!引き篭もりが走っておかしいか!!親友も恋人も失って笑っている方がおかしいんだ!!──おかしいのはあんたらの方なんだ!!!!)


 体が動けば動くほど、ナディは不思議な感覚に囚われた。心の屑がどこかへ飛んで行くような、胸がどんどんすいていくような、軽くなっていく気分だ。

 白い人はナディより遠くの位置を走っており、メインポートの裏手から続く桟橋を渡り、ラウンドサークルと名付けられた新しい街の建設現場へ入って行った。

 ──こうして、ライラに似た人影を追いかけていたナディが駐機されていたランドスーツに乗り込みその場で発進、上空を飛んでいたラハムたちと衝突をしかけ、玉突き事故が発生した。





「………」


「………」


 ジュディスは数週間ぶりに見たナディの姿に驚きを隠せなかった、いや顔には出していないが内心では驚いていた。

 まず臭い、酷い体臭。それから艶やかだった黒い髪はくすみ、頬っぺたの肉も落ちている、唇だって血色が悪い。

 それに何より、


「弁明は?」


「…………」


「あんた、自分が何をしたのか分かってる?」


「勝手にランドスーツに乗りました…」


「あの鉄骨の下にまだラハムが下敷きになってるのよ?誰のせいだと思う?」


「私のせいだって言いたいんなら初めからそう言ってください」


 信じられない、あのナディがここまで...ジュディスは目眩に似た衝撃を味わった。

 あの素直で何にでも真っ直ぐに見返していた目は自分を見ようともせず、出来上がったばかりのアスファルトの地面ばかり見ていた。

 その態度が何より腹ただしかった。

 ジュディスの周りには母神組の親方を務めるティアマト・カマリイ、被害にあったカウネナナイの人やウルフラグの人もいる。それだけではない、一緒に運搬し運良く被害を免れたラハムもいた、皆んなナディに糾弾という名のビームを目から放っていた。

 ジュディスは怒りたくなかった、けれど怒らざるを得なかった。

 ──こんな奴を怒ったところで無意味だと知っていたから。


「──ざけんじゃないわよ何その言い草!!どれだけ人に迷惑かけたら気が済むのよ!!」


 それ見たことか、こいつにはちっとも自分の怒声が響いていない。顔を俯けてばかりで被害に遭った人たちを見ようともしなかった。


「すみません…」


「何で勝手にランドスーツに乗ったの?あんた、ずっと家の中にいたわよね?」


「言っても信じてもらえません…」


「信じる信じないはこっちが決める事、あんたは言う義務と責任がある」


「………」


 すっかり落ちぶれてしまった彼女がはあ、と聞こえよがしに溜め息を吐いてみせた。


「あんたねえ…親友を失って、ライラも居なくなってキツいのは分かるけど今回は流石に度が過ぎてるわよ。どうすんのこれ、せっかく皆んなが頑張って作ってたのに!ラハムまで犠牲になって──「普段は喧嘩ばっかりしてるくせに、こういう時だけ庇うんですね。あれですか、体面ってやつですか」


 ナディの発言に一人、二人とその場を後にした。聞いても無駄だと悟ったのだろう。

 ジュディスも早くこの場から去りたかった、ここまで落ちぶれてしまった後輩を見たくなかったから、けれど去ることだけは許されなかった。

 ラウンドサークルを急ピッチで進めているのはジュディスだ、責任者として逃げることは許されなかった。


「──あんたに届けていたお弁当、みんなラハムたちが作ってたの」


「……っ」


「そのラハムに迷惑をかけて言うに事欠いて体面ですって?落ち込むのはあんたの勝手だけど感謝の心を捨てるのはあまりにも傲慢に過ぎない?」


「誰も頼んでません、あんなの、重た過ぎるんですよ…」


 ラハムが一体、二体とその場を去った。去ったラハムは怒りよりも悲しみの方が目立っていた。


「ナディ、ねえ、お願いだから──「頑張れって言います?頑張って頑張って何になるんですか、頑張ってアネラが戻って来るなら頑張りますよ、ライラが戻って来るんなら頑張りますよ、でも、無意味じゃないですか、人の頑張りなんて全部無意味ですよ、なるようにしかならない──私はただライラを見つけたかっただけなのに!知ったこっちゃないルールのせいで私の頑張りが無駄になったじゃないですか!!」


 ジュディスはまるで宇宙人と会話をしている気分になった、こちらの話を聞かない、心意を汲もうともしない、無駄だと思った、彼女も。


「──もうこれ以上、迷惑をかけないように」


 ジュディスはそう言って、他の人たちと一緒にナディの元から離れて行った。

 ナディだけがその場に残り続け、知らぬ間に居なくなっていた。



 ラフトポートの新しい街を作っている母神組の事務所の中では、建設現場から走って帰って来たティアマトがキッチンで一心不乱になってフライパンを振っていた。


(食事の乱れは心の乱れ!ラハムたちに任せず私がきちんと作ればあの子も!)


 ティアマトはナディの為に食事を作っていた、フライパンには肉と野菜、それから香ばしい匂いを放つ調味料が入れられている。

 彼女は仕事で忙しいからと、料理に慣れていないラハムたちに任せていたのだ、けれどそれが失敗だった、不味い食事を摂り続けていたらいずれ精神も病んでしまう。

 だから美味い物を食べさせてやろうと彼女は溜まっている仕事をほっぽりだして食事を作っていた。

 そう思える程に、それ程までにナディの変わりようがティアマトに衝撃を与えていた。


(あの子があんなになってしまうなんて…日にち薬だと思い込んで放置したのがいけなかったわ)


 ティアマトは炒めた肉と野菜を皿へ移し、次の料理に取りかかった──冷蔵庫に寝かせていたパンの生地を取り出した時だ、コールが入った。


「いよう、こうして直接話すのは初めてだな、ティアマト・カマリイ」


(この声は──)


 冷蔵庫の扉を閉め、手にした生地をキッチンカウンターに乗せた。

 通信の相手はバベルだった。その声音は不誠実で、不遜で、馴れ馴れしい響きに満ちている。


「無視か?」


 ティアマトはあまり相手にしたくなかった、誰に対しても優しく努める彼女ですら嫌悪感を抱いた。

 どう返事をしようかと逡巡する彼女に向かってバベルが言葉を重ねた。


「無視はよくない、こっちの街には飢えに苦しむ人間が沢山いるんだ。まさか見捨てるつもりじゃないだろうな」


「……何かしら、今忙しいのだけれど」


「みたいだな、そっちの街は大盛況みたいじゃないか。人手がいるんじゃないのか?なんなら貸してやってもいい」


「用件は?」


 コンテナハウスの中に設えたキッチンの窓から広い建設現場が見えている。あちらこちらに足場が組まれ、至る所に建築用の素材から工事用道具、ランドスーツが駐機されていた。事故が起こった直後なので人の姿だけがなかった。

 何の前触れもなく、それから何の信頼関係も無いはずなのに、バベルがさも当たり前のようにこう言った。


「新都の人間を受け入れろ、それが用件だ」


「………」


「俺はそもそも人助けをする為にこっちへやって来たんじゃない、いい加減迷惑に思っていたところなんだ。ダルシアンもまるで駄目、ここは限界だよティアマト・カマリイ、人類の母であるお前ならお安いご用だろ?」


「………」


「まあ、お前一人で決められる話じゃないってのは理解している。ジュヴキャッチだがレイヴンだか知らないが、協議にかけてくれや」


「──良いでしょう、あなたはどうであれ、人の子に罪は無いもの」


「良い返事待ってるぜ」


 不遜なバベルがそう言い、通信が切れた。網膜に表示されていたウィンドウが消失し、カウンターの上に乗せらた生地だけが見えていた。知らない間に視線を落としていたようだ。

 (´Д` )ぶはあ〜とティアマトが大きく溜め息を吐いた。

 気を取り直して寝かせていた生地をこね始めてすぐ、ティアマトの元へアキナミとラハムがやって来た。

 二人とも心配そうに眉を下げている。


「カマリイちゃん、ナディの様子どうだった?事故を起こしたって聞いたから飛んで来たんだけど…」


「それが…まるで別人のようだったわ…顔色も悪くて、何より全てに悲観した目をしていたわ」


「そっか…」


 友達のことが心配なアキナミがさらにしゅんとした様子を見せた。ここまで走って来たせいだろう、水を被ったように汗で濡れていた。

 三人ともナディの事を理解しているつもりだった、親友を失い、その悲しみから立ち上がった途端に今度は恋人まで失ったのだ。

 どうにか励ましたい、元気付けてあげたいと思う反面、無理をさせても今は逆効果、という考えもあった。

 

(だけど、放置は良くないわ)


 ティアマトは止まっていた手を再び生地にあてがい、美味しくなれ!美味しくなれ!と念じながらこね始める。それを見たアキナミとラハムもキッチンに加わり、ナディの為に食事を作り始めた。





 事故の後処理と被害に遭った人とラハムたちから事情聴取を済ませ、ジュディスやヴィスタたちが再び会議室に戻って来た。

 事故に遭った被害者たちは皆軽傷であり、玉突き事故を起こして鉄骨に下敷きになっていたラハムたちも無事に救出を終えた。ラハムを含めて死者が出なかった事が不幸中の幸いだった。

 机の上で待機していたラハムたちに「お帰りなさい」と出迎えられた彼女たちが、帰ってくるなり(´Д` )ぶはあ〜と溜め息を吐いた。

 ジュディスのメモ帳役を務めるラハムが「ナディさんはどうでしたか?」と訊ねた。


「どうもこうも…というか、同期すれば良いじゃない、すぐに分かるんでしょ?」


「いえ、その場にいたラハムたちがサーバーにアップしていませんので…それぐらい酷かったんですか?」


「そうね、まるで別人だったわ…言っても聞かないし自分は悪くないって言い訳するし…」


「そうですか…早く元気になってくれたら良いんですけど…」


「マイヤー、今は彼女の事よりも対処が先だ、他にもまだまだ仕事が残っている」


 ヴィスタの厳しい言葉にジュディスが「そうね」とだけ返した。

 今は放っておくしかない、何を言っても逆効果だとジュディスは思った。

 席を外していたロザリーが会議室に戻り、ホワイトウォールの調査の話を再開した途端、ラハムが「お電話です〜」と言ってきた。


「誰?」


「親方です〜繋げます〜」音声が切り替わり、ティアマトの声が流れ始めた。


「会議中にごめんなさい、あなたたちに火急の用件があるの」


「用件って?」ジュディスが先を促した。

 ティアマトが少し逡巡した様子を見せてからこう言った。


「…つい先程、新都にいるバベルから市民を受け入れてほしいと打診があったの。私一人で決められる事ではないからあなたたちに相談しようと思って連絡を入れたの」


 事故を目の当たりにし、元から厳しい表情をしていたヴィスタの顔色がさらに険しくなった。その表情にははっきりとした『嫌悪』があった。


「しんとって…確かマルレーンたちが敵対していた…そうよね?」


「ああそうだ」まるで唾を吐くようにヴィスタがそう答えた。


「元々俺たちも新都に居たが、機星教軍のやり方にそりが合わず抜け出してきた。それから奴らとは今日まで何度も敵対してきた、一度は手を組んだ事もあったが向こうの裏切りにあった。俺は二度と奴らとは手を組まないと決めている」


 それだけじゃない、彼はたった一人の家族も新都のパイロットに殺されている、どうしたって許せるはずがない。

 そこら辺の事情は概ね耳にしていたマイヤーが彼に判断を委ねた。


「じゃあ、その街にいる人たちの受け入れはしない?」


「…………」


「あなたが決めて、私としては人手が増えるから万々歳だけど、そこら辺の確執はあなたたちの物だからどうこう言う権利はないわ」


「うむ………」


 険しい顔付きをしたままヴィスタが黙考し、それから何も喋らなくなった。


「なら、あなたたちに任せるわね、私はこれからナディに食事を届けてくるから」


「──そう、まあ、任せたわ」


「ジュディス、分かっているわね?」


 ティアマトがジュディスへそう暗に問いかけた、主語はなくとも彼女も理解している。


「──分かってる、でも、今はちょっと…」


「あなたたちは良い先輩と後輩なんだから、このまま仲違いするのは駄目。いいわね?あなたがきちんと優しくしてあげなさい」


 皆んなに愛情を注ぐ小さなお母さん天使も時には厳しいこともある、ジュディスは「うぐ…」と声を詰まらせ、何も言い返せなくなっていた。


(そうは言ったって…)


 あんなに人が変わってしまった相手に何と声をかけたら良いのか、今のジュディスには分からない。可愛い後輩は自分が経験した事がないような状況に立たされている、どんな励ましの言葉も全て安っぽく思えて仕方がなかった。

 

(次会った時はせめて怒らないように…うん、それくらいしか出来る事がない)


 ジュディスは悶々とした気持ちを抱えたまま、目の前にある仕事に集中し始めた。起こった事故の対処以外にも、建設途中の街やもう間も無く打ち上げが行なわれるアンテナドローンの事がある。

 色んな事を手伝って欲しかったのに、という思いを押し殺したままジュディスは仕事に取り掛かった。





 奥行きが無くて、どこか息苦しくて、けれど色があって。

 匂いもある、温度もある、けれど迫力が無い。

 

「……………」


 白い色をした草原の上でライラ・サーストンは意識を失っていた。風に吹かれた前髪がさわり、さわりと鼻を撫でているがライラの目蓋は閉じられたままだ。

 ライラが眠っている場所の名前はレガトゥム。ホワイトウォールから発生する万物の膿たるアーキアが人々に接触し、天国の代わりに連れて行く所。

 ホワイトウォールが存在するが故に存在するアーキアたち。料理を作った時に出るような食べ物のカス、お風呂に入るから排水口が汚れていくようなもの、それがアーキアという存在だった。

 現実の世界から魂だけでなく、体ごと移ってきたそのライラ・サーストンを見下ろす存在がいた。

 一二の母からこの世界をプレゼントされた娘だ。


(成功したみたい、イケるかどうか不安だったけど)


 娘は屈み込んで彼女の体に触れてみた。細すぎる肩から枝のようになった腕へ、そして最後に手、ほのかな暖かみがあった。──ああ、人の手って暖かいのかと、初めて知った。


「…………」


 娘はその暖かさから逃げるように手を離し、白い草原の上に再び立った。

 ウルフラグの監視者だと思っていたライラ・サーストンは結果で言えば『白』だった、何のバックドアも存在せず、こちらの動きがライアネットに通じている様子は無さそうだった。

 白い草原の上に、白い女が眠っている。着ている衣服はコンバートに失敗したのか、不思議の国に迷い込んだ娘のように青いワンピースだった。


(ドゥクス・コンキリオは何故このタイミングで遺伝子操作を行なったのか…私の考え過ぎ?てっきり警戒して産ませたものだと──)


 レガトゥムに迷い込んだ彼女の目蓋が細かく震えた。起き出す気配が漂い、コミュニケーションに慣れていない娘は逃げ出そうかと迷った。けれど、彼女の方が先に起きた。

 目蓋がゆっくりと開かれる、その瞳の色に娘がはっと息を飲んだ。


(何故──)


「ここは…」


「………」


 ライラはぼうっと空を眺めている、口は半端に開いてまだ意識が覚醒し切っていないようだ。

 隣に立つ娘に気付かず、ライラが「変な空…」と呟いた。

 娘はおかしな感覚に囚われた。ただ言葉を発しただけなのに、マギリやテッドともこの世界で何度も言葉を交わしてきたはずなのに、ライラが放つ言葉はしっかりとした重さを持ち、空間を震わせ自身の鼓膜に直接手を伸ばしてくるかのようだった。

 娘は逃げられなくなってしまった。

 ライラが娘に気付いた。


「──びっくりした…あなたは…」


「あ〜その…何と言えば良いのか…」娘は交わす言葉を考えていなかった。頑張って頭の中から言葉を引っ張り出す。


「この世界の住人…と、言えば良いのかな…そんな感じ」


「この世界って…天国?」


「ううん、ここはレガトゥム。これから二次元の海を旅するノアの方舟だよ」


「…………」


 ライラの瞳に理解の色は浮かんでいない。娘はまあ無理もないと思った、寝起きでこんな事言われても誰だって理解はできないだろう。

 代わりに娘はこう言った。


「私があなたをここに連れて来たの、ちょっと乱暴なやり方だったけど」


「乱暴な…やり方…連れて来たって──」


「あなたが大好きなナディって人、向こうで会わなかった?」


 ライラの瞳に理解の色が浮かんだ。

 ホワイトウォールの中、精神的に追い込まれていた彼女の前に姿を現したのは五年前の恋人だった、それで全てが救われたと思い、ライラは抱き着いていた。


「──ああ、そういう事…白化症の人たちと同じ目に遭ったと…そういうあなたは?さっき自分が連れて来たみたいな言い方をしたけど…」


(……っ)


 娘はライラを恐れた、言葉を話す度にどんどんと存在感が増していく。彼女の下に広がる白い草原も、頭上に広がる桃色の空も段々と色褪せていくように感じられた。

 娘は恐れながらも口を開いた。


「…そ、そう、ここを作った人たちの娘だから、だからあなたをこっちに連れて来ることができたの」


「それは何故?」


 鋭い返しに娘は肝を冷やした。ライラは「何故連れて来たのか」と問うている。


「そ、それは…わ、私の計画にあなたが邪魔だったから、だからこっち側に引っ張り込んだの」


「計画?それは何?──いや…あなた、もしかして…あの汚い星の人?」


「き、汚いかどうかは分からないけど…外観は星のような形をしている事は間違いないと思う」

 

「………」


 ライラは娘の顔を凝視した。


(こいつだったのか…私たちの邪魔をしていたのは…)


 娘の顔は淡白なものだった、一重目蓋に低い鼻、それから薄い唇、まるで色を付ける前の人形のような容姿だ。

 けれど、瞳孔の奥に潜む水晶体の色が他の人と違って色鮮やかだった。中心で爆発したような、様々な色が混ざり合っている。──そう、超新星爆発、スーパーノヴァのように。

 レガトゥムにおいて、氷の女王と汚い星が邂逅を遂げた瞬間だった。


「──あなた、ホワイトウォールの前にいた?船団の邪魔をした?」


「──した。どうしてそれをあなたが?」いや待てよと、娘は一考し、すぐに気付いた。


「あなたがあの船団をまとめていた?」


「そうよ、あの白い壁を越える為に部隊を組織して派遣させた。そして私もその船に乗っていたわ」


「そうだったんだ…どうして壁を越えようと考えたの?とても迷惑だったんだけど──いや待って、そうか…」


「そうよ、私はナディと会う為にホワイトウォールを越えようとこの五年間頑張ってきたの。邪魔をしたのはあなたの方よ」


「へえ…」


 娘はまた不思議な感覚に囚われた。口に出さずとも相手が自分の考えを言ってくれる。

 コミュニケーションって面白いと思った。


「それは何というか…私はドンピシャのタイミングであなたを連れ出せたのね」


「そうなるわね。あんなタイミングで、いくら五年前と変わらない姿とはいえ、簡単に騙されてしまったわ──ねえ「──嫌、あなたが何を言うのか分かる、向こうに返してほしいって言うつもりなんでしょ?それは無理だよ」


「………」ライラは否定も肯定もせず口を閉じた。無言は肯定だった。


「諦めて、あなたはどう足掻いても向こうには返れない。代わりに──ほら、こんなのはどう?」


 娘が傍らにナディを呼び出した、五年前と変わらないその姿で。

 ライラは一瞬心を奪われるが、すぐに否定していた。


「違う、今のナディはこんな姿じゃない、だって五年も経っているもの」


「でも、あなたが愛した人の容姿はこれなんでしょ?」


「………」


「ここにいた方が良いよ、現実の世界は生老病死が存在する。どんなに可愛くて綺麗な人でも歳を重なれば老いてやがては醜くなる。けど、ここは歳をとらない!いつまでもいつまでも可愛くて綺麗なままでいられるの!素晴らしいと思わない?」


「そうね、あなたの言う通りだと思うよ」


「ね?だったら好きなだけここにいて──「それは嫌」


 初めて言葉を交わした時に感じていた恐怖が薄れ、どこか有頂天になっていた娘はライラの否定の言葉を耳にして頭がひゅんと冷えてしまった。

 理解を示したのに納得しない?それはどうしてなの?

 娘は意味が分からなかった。


「どうして?あなたもここの素晴らしさが理解できたんでしょ?」


「理解と納得は別次元の話よ」


「……っ」また頭の中を読まれてしまい、娘は二の句を告げられなくなった。

 理解と納得の隔たりは次元まで超えちゃうのかと、娘は頭が混乱した。


「私はナディの傍にいたい、けれどこの願いはここでは叶わない、だから嫌だと言ったの。単純な話でしょ」


「い、いるじゃない、ここに、あなたの好きな人が…」


 白い草原の上に座っていたライラが立ち上がった。たったそれだけの事なのに世界が逆転してしまったかのような、ヘリオポーズに水素とヘリウムの原子団が紛れ込んだような、とにかく娘は不安を覚えた。

 それみろやっぱり、と娘は思った。ライラが予想だにしない言葉を放ってきた。


「あなたに好きな人はいるの?」


「………」


「会いたい人は?甘えたい人は?声を聞きたくなる人は?自分の話を聞いてほしくなる人は?」


「………」


「──いないのね。この世界は好きな人すら作れない所なのね、ますます興味が無いわ」


「い、いないといけないの?好きな人っていないといけないの?それの何が良いの?どうせそのうち相手にされなくなるよ」


 娘は一度として母たちに相手にしてもらったことはない、だからライラの気持ちが分からなかった。

 ライラが答える。


「あなたも好きな人と出会えば分かるわ。ここでは駄目だって、自分の妄想しか再現されない世界では一生好きな人と出会えることはない」


「────」


 娘は二度も否定され、頭の中が真っ白になってしまった。

 もう、娘はライラに完全に飲み込まれていた。


「もう一度言うわ、私をここから解放して、向こうの世界に戻して」


 娘もそうしたかった、こんな分からず屋、自分の言う事をちっとも聞いてくれない相手なんてレガトゥムから追い出したかった。

 でも、それはできなかった。


「それはできない」


「どうして?」


「ここは人の魂を電子化して記録するクラウドサーバーだから、そしてあなたの身体も同じように電子化して記録された」


「………」


 娘の口から「あなたはもう二度と向こうに戻ることはない」と言われた。

 今度はライラの頭が真っ白になってしまった。





 第三テンペスト・シリンダー内部、総面積(海、陸を含む)は約四五六、〇〇〇平方キロメートル、その中心を割くようにして白い絶壁群が南北へ走り、さらにその北側に位置する人々の集落で着々と飛翔体が作られていた。

 現地の人々に紛れ込み、ヴァルヴエンドから派遣された出張班の一人がポートに聳えるロケットエンジンを仰ぎ見た。


(こりゃまた立派なモンだ…成層圏は軽く越えられるな)

 

 成層圏とはマリーン内、ではなく地球の、という意味である。もし発射されたらマリーンの天井をぶち破りあっという間に宇宙空間へ飛び出してしまう。

 それはあってはならない事だった。

 一度目は無人航行追撃ドローン(アヤメたちが細菌と呼んでいる)で撃ち落とし、何とか外へ漏洩する事を防げた。

 しかし、ここの現地人たちは懲りずにまた同じ物を作ろうとしている。

 しかも今度はさらに立派な物だ。何なら現在でも稼働しているアンテナドローンまで搭載している始末。


(さっさと破壊した方が良いと思うんだけど、あの班長は何を考えているのやら、ここまで来て様子見だなんて──お、良い女見っけ〜♪)


 女好きの班員が、飛翔体が設置されているポートの前でその女性を見かけた。

 カウネナナイ人のように浅黒い肌をしておらず、ウルフラグ人のように白い肌をしている女だった。金の髪をポニーテールにして左右へ振りながら、あと程良く肉が付いたお尻も振りながら班員の前を横切って行った。

 班員はすぐに跡を追いかける。


「ねえ、ちょっとそこの人──って、なんだお前か…」


 声をかけられた女性が班員へ振り返った。


「なんだとは失礼な」


「食い気が多い女はそれだけでマイナスポイント」その班員と女性はどうやら知り合いのようだ。

 班員が「アマンナ」と名前を呼んだ。


「あれ何とかしてくれや、あんなの打ち上げられたらこっちの仕事が増えてしまう」


「知らないよ、こっちの人が好きでやってるんだから」


 ヴァルヴエンドの者と知り合いだったアマンナが嫌そうに眉を顰める、フードウォーキングの途中だったのに邪魔されて腹を立てているのだ。彼女の手にはロコモコバーガーが握られている。


「お前何の為にこっちに来たんだよ、俺たちの指示に従えや」


「知りませ〜ん、私は派遣社員じゃありませ〜ん」


「馬鹿言え俺は正社員だ「そういう意味ではない」


 四基のロケットエンジンの先頭にはボックスが備えられており、ジュディス率いる技術者たちが中に収められているドローンの調整を行なっていた。

 その様子を二人が束の間眺め、その間にアマンナはロコモコバーガーを平らげていた。

 班員がアマンナに訊ねた。


「で、お目当ての物は見つかったのか?」


「見つけた。けど今は手が出せない」


「だろうな、アレはウルフラグの最終兵器だからそう簡単にいくモンじゃない──アマンナ、もう一度言うがアレを何とかできるんなら何とかしてくれ、発射されたらもう後が無いぞ」


「はいはい」


 アマンナが他人事のようにそう返事を返し、次なる食べ物を探すべく班員の元から離れて行った。

 班員はアマンナの背中を見つめた。


(誰のお陰でこっちに渡れたと思っているんだあの女は…プラネット・ロックされたら終わりなんだぞ)


 エレクトロ・イントルージョンが発生した時、プエラとアマンナはメンタルダウンを起こし一時的にマリーンから離れていた。だが、レガトゥムからマギリとテッドがこちらの世界に介入した際、アマンナは彼らの力を借りて半ば無理やりこちらに戻って来ていた。

 班員が口にしていた『お目当ての物』の反応を捉えたからだ、それは宇宙空間も航行可能なノウティリスである。

 アマンナを見送った班員がもう一度ロケットエンジンを見やった、何か問題でも起こったのか、調整していた人たちが熱心にやり取りしている。

 班員が渡り板を渡ってポート内に入った。


「何かありました〜?」


 班員がそう声をかけると頭上から「テスターを持って来い!」と指示された。


「喜んで〜!」


 どうやらトラブルが発生したらしい、班員はどさくさに紛れ込んでマリーンが開発したアンテナドローンを確認しようと思った。

 地面に置かれた工具箱の中から二本の電極が付いた小さな機械を取り出し、ロケットエンジンの周りに組まれた足場を登っていった。

 作業場に着くと小さな女の子と複数の作業者がタブレットを覗き込んでおり、真剣に議論し合っている、皆んな、玉のような汗を浮かべていた。

 ジュディスがテスターを持って来た班員に向かって「調べて!」とだけ言った。


(何を?──ああ、どこかで切れているのか)


 ロケットエンジンに備え付けられているボックスも大きな物だ、班員は一度見上げてから蓋を開けて中を確認し始めた。


(おお、おお、立派なモンだ…裏切り者がいるんじゃなかろうな…)


 班員はテスターを使い、電流が流れていない所を確認した。調べた結果、ボックスがロケットエンジンからパージされた後にファンを稼働させるコンデンサに異常があった。

 コンデンサはちょっとした乾電池のような物で、必要な時に蓄えていた電気を放出することができる電子部品だ。

 ファンの稼働に必要な電気量がコンデンサの許容値を超え焼き切れている、班員はその事を告げずに「問題無しで〜す」と嘘を吐いていた。


(──これはマズい、非常にマズい、こいつら化け物集団か?技術力がうちらと大して変わらないぞ)


 班員はその場にいた人たちの視線から逃げるようにして離れ、すぐさま班長に連絡を取っていた。


「マズいですよ」


 班員の網膜に出ている通信用ウィンドウに班長の顔が映し出され、その端的な内容だけで伝わったらしい、すぐに返答があった。


「──分かった、本部に応援を依頼する。お前はそこから離れて持ち場へ戻れ、証拠は残すなよ」


「子孫は残しましたけど」


 班員の下らない冗談は相手にせず、班長が通信を切った。

 ポートから離れ、班員が三度ロケットエンジンを見上げた。


(悪く思うなよ、こっちも仕事なんだ。壊されたくなかったらそいつは飛ばさないこった)


 班員が一隻の船に乗り込み、ラフトポートから去って行った。





 俯いてばかりいたので、どうやって家に帰って来たのか、ナディはまるで覚えていなかった。

 せっかくライラを見かけたというのに見失い、あまつさえ色んな人に迷惑をかけてしまった。ただでさえ迷惑をかけているのに上塗りをしてしまった。

 いつもと変わらない薄暗い家の中、澱んだ空気が満ちており、ナディはベッドの上に倒れ込んだ。

 

(そんなつもりはなかったのに…)


 ベッドに顔を俯けたまま、ナディはさっき起こしてしまった出来事について考えていた。

 皆んな、怒ったような顔をしていた。あるいは残念がるような、好意的な人など一人もいなかった。


(そんなつもりじゃないのに、でも、誰も聞いてくれないんだろうな…さっきのライラはきっと幻覚で…私も連れて行かれるところだったのかな…)


 ナディは、ああ、今なら分かる気がすると、白化症に罹り、この世ではなくあの世に思いを馳せた人たちの気持ちを理解してしまった。

 きっと、さっき見かけたライラは本人ではなく、あの世から現れて自分を連れ去ろうとしていたのだ。

 アーキアが人をレガトゥムへ連れて行く。目覚めたばかりの頃、海中の塔の中で父と思しき男性にそう教えられ、その通りの事が目の前で起こった。


(レガトゥム…もし次も会ったら私はきっと…)


 悪い考えを断ち切るように細やかなノック音が耳に届いた、誰かがナディの家を訪ねて来たのだ。


「ナディさ〜ん、ラハムたちがまたお弁当を持って来ましたよ〜今日はカマリイさんのお手製です〜」

「ナディ〜家にいる〜?」


「………っ」


 ナディは思わずひゅっと息を飲んだ、扉の向こうから複数の人の気配が伝わってくる。

 ナディは何も答えず、息を潜めた。


「──まだ帰ってないのかな」

「お弁当だけでも…」


(……っ)


 帰る気配を見せず、誰かがドアノブに手をかけた。ナディは素早くベッドから離れ、食べ物などを保管するパントリーへ走った。

 ──誰かと会う勇気なんてどこかに置いて来てしまった、とてもではないが顔を見せる気には到底なれなかった。

 パントリーの中へ入った途端、外にいた二人が中に入って来た。


「まだ帰ってないみたいだね」


 その声はアキナミのものだ、ナディはまだ一度も友人と言葉を交わせていない。


「置いて帰りましょう、カマリイさんのお手製ですからきっと元気を出してくれるはずです!」


「うん、そうだと良いんだけど…」


 パントリーの扉の向こうから二人の気配が伝わり、何かごそごそと物音を立てた後、すぐに去って行った。

 それから暫くパントリーの中で息を潜め、十分に時間が経ってから──それでも、ナディは動き出すことができなかった。


(情けない…情けない、情けない情けない…本当に情けない…)


 自分への不甲斐なさから目から涙が溢れ落ちる、膝を抱えて顔を埋め、ナディを嗚咽を漏らし始めた。

 本当に自分でも惨めだと思う、心配してくれている人たちにすら怯えて隠れ、息を潜めている自分自身がどうしようもなく惨めだった。

 それでもナディは人と会う勇気を持てなかった。

 怖かったから、きっと先の事を責められると、これ以上頑張れないのにまた励まされると、そう考えると胃もぎゅうっと縮こまって息が苦しくなってしまう。

 陽が沈むまでの間、ナディは独りぼっちで涙を流し続けた。





 人知れず涙を流すナディへ気にかけることなく、無慈悲な太陽が水平線の下へ沈んだ後、アンテナドローンの調整を終えたジュディスがメインポートへ戻って来た。

 彼女はカンカンに怒っていた、テスターを持たせた作業者が「異常無し!」と答えるものだから原因究明が遅れてしまっていたのだ。


「──全くなんなのあいつ、適当な事を言って!」


 彼女の傍らにはラハムが一体ふよっていた。


「何故あの作業者は嘘を吐いたのでしょうか?テスターの使い方は分かるのにコンデンサの異常が見抜けないだなんて」


「知らないわよどうせ余所者なんでしょ!適当こいて私たちの仕事を遅らせるつもりでいたのよ!」


 ラハムがすいすい〜っと先を行き先に会議室へ入り、その後にジュディスが続いた。

 夜の定例である、メンバーは既に揃っていたが皆んな疲れた顔をしていた。

 とくにホシ・ヒライギ。彼はポート内で雑多な雑用をこなしている、ダンタリオン(男の子ver.)と共に。


「…………」

「ホシ、今日も一日お疲れ様でした」


 ラフトポートマスコットキャラ第二位のダンタリオンが小さな片方の手でホシの頭を撫でている、もう片方の手にはロープが握られている。そしてそのロープはホシの首元に繋がっていた。

 そう!ホシは小さな女の子のような男の子に飼われていたのだ!全ての主導権を握られダンタリオンの意のままに操られている。

 ウィゴーたちが可哀想なものを見るような目でホシたちを眺め、ヴィスタは歯軋りしながら男の子に飼われている大人を睨め付けていた。

 

(ナディちゃんに彼の姿を見せてあげたい、まだ君は大丈夫だよって言ってあげたい)とウィゴーが思う一方、(羨ましいにも程がある…いつか射殺してやりたい)とヴィスタは嫉妬の炎を燃やしていた。

 ジュディスはホシたちに何ら構うことなく定例会を始めた──が、ヴィスタが「ちょっといいか」と待ったをかけた。

 ジュディスは進行を邪魔されたことにイラっとし、眉を寄せた。


「何?今日は色々あって疲れてるんだけど」


「すぐに終わる──おい貴様、恋人を五年間も待たせておきながらそれはなんだ?」


 ヴィスタがホシたちに突っ込みを入れた!

 場が変な緊張感に包まれた。

 ホシは死んだ目をヴィスタに向け、「それって何」と問い返していた。


「それだそれ!何故首輪を付けてその子に手綱を握らせているんだ、人として恥ずかしくないのかうらやま──恥ずかしくないのか!」煩悩全開。

 答えたのはダンタリオン(男の子ver.)だった。黒いセミロングの髪はさらっと払い、こう言った。


「もう離れ離れにならない為の処置です、仕方がありませんよだってホシが僕から逃げていたんですから」


「〜〜〜っ」


 ヴィスタが声にならない地団駄を踏み、彼の傍にいたラハムが「この人ヤバっ!」と宙へ逃げ出した。

 嫉妬の炎で顔を真っ赤にしたヴィスタが、


「全人類の夢を独り占めしやがって「一緒にしないでくれる?!」──地獄へ堕ちろ!!」と、中々堂に入った文句を口にしていた。

 言われたホシはまだ目つきが死んでおり、「調停が終わったらこれだもん…」と謎に呟いた。

 相手にしていられないと思ったジュディスが定例会を再開し、けれどまたしても邪魔が入ってしまった。

 邪魔をしてきたのは会議のメンバーではない──空だった。

 陽が沈んだはずなのに、一瞬にして昼へ逆戻りしたのだ。

 会議室にいた皆んなが呆気に取られた。


「…………」


 ジュディスもヴィスタも、首輪をはめられているホシも手綱を握っているダンタリオンも、外の景色に理解が追いつかず、けれど皆んなが等しく思い出していた。

 ここは建てられた建造物の中である事を、マキナたちに管理されている世界である事を、この時人類は思い出していた。

 時間にして数分程度、突如として昇った太陽がまるで電気を消すかのようにパッと消え、再び夜に戻っていた。

 会議室がしじまに支配されている、誰も話し出そうとしない。

 沈黙を破ったのは人の声ではなく、コール音だった。

 ノラリスから提供されたトランペットからテノール音が流れ、一番傍にいたラハムが「お、押しますよ?」と言ってから通話ボタンを押した。

 会議室に通信してきたのはバベルだった。


「悪いな直接電話をかけて」


 そう口にしているが全く悪びれている様子がない、バベルとはこういう存在だった。


「見ただろ?今の景色を、あっという間に昼夜逆転。何故だか分かるか?」


「──あなたなら原因を知っているとでも?」


 ジュディスが皆んなを代表してそう訊ねた。


「ああ、ガイア・サーバーがハッキングされているんだよ、だから仮想展開型風景がバグったんだ」


 ジュディスがトランペットのベルを押さえ、ラハムに小声で「ティアマトを呼んで!」と指示を出した。

 ガイア・サーバー、という名前と存在は知っているが詳しくは知らない、だから彼女はマキナを呼んだのだ。

 ラハムも小声で「こっちに向かってます〜!」と言った。


「──で、それでどうして私たちに連絡を取ってきたの?マキナならマキナに助けを求めるのが道理ではなくて?」


「ラハムから聞いたぜ、何でも国を繋ぐアンテナドローンを開発しているんだってな」


 さっ!とジュディスがラハムを睨みつけた、「何を勝手に喋っているんだ」と。

 ラハムは小さな腕をぶんぶん!と振って「ラハムではないラハムです!」と良く分からない言い訳を口にしていた。

 ジュディスが無言でラハムをぶんぶん!と振り始め、そこへテンペストを連れてティアマトが会議室へやって来た。概ねの経緯をラハムから知らされている二人は既に険しい顔付きをしていた。

 息を落ち着かせる暇もなく、テンペストがジュディスと代わってバベルと話し始めた。


「テンペスト・ガイアと申します、あなたの噂はかねがねお聞きしています」


「──こりゃどうも。悪いな、何度も迷惑をかけちまって、こっちも業腹だがまあ耐えてくれや」


「ラハムから耳にしました、先程のシステムエラーはハッキングによるものだと。そうだと言える根拠は何ですか?」


「簡単な話さ、新都の街にスーパーノヴァと名乗った女が現れたんだ、私たちと手を組まないかって、ガイア・サーバーの一部を掌握したから何度も出来ると唆してきてな。証拠に何かやってみせろと言ったらさっきのエラーだ、たまったもんじゃない、あのガイアが誰かの手に落ちるだなんて前代未聞だ」


 バベルの話は最もで、オリジンのテンペスト・シリンダーが稼働を始めて数千年、ハッキングを受けてシステムが汚染されるなど未曾有の事態だ。仮想展開型風景のみならず、テンペスト・シリンダー内に住む人類の生命維持システムも汚染され、いつ命に関わる事態が発生するか誰にも分からなかった。

 それは人だけに限らずマキナも同じであった。命に等しいメンタル・コアも同様に何者かの掌中に収まっている、その者の指先一つで死に至る状況と言えた。

 未だかつてない状況に彼女たちは直面していた。

 ジュディスはテンペストに確認を求めた。マキナを束ねる指揮官は静かに頷き、「彼の話は信憑性が高いかと思います」と口にした。

 バベルが彼女たちに提案する、「ガイアを空へ逃がせ」と。


「は?」


「作ってるんだろ?高度四〇〇〇メートル以上で稼働させるアンテナドローンを、それにガイア・サーバーのSRAMを移植させろ、ハッカーの魔の手から遠ざけるんだ」


「移植させろって…ちょっと待って、そもそもあんた、私たちに新都の市民を受け入れろとも言ってたわよね?いくらなんでも急過ぎるんじゃないのその話」


「だから迷惑をかけて悪いと言っただろ、こっちだって予想外の出来事に直面しているんだ、そりゃなりふり構わなくもなるさ」


「なに、あんたもマキナのくせにビビってんの?」


「当たり前だろ」とバベルが即答した。


「自我の消失ほど怖いものはない、お前たちはまだ良いさ、輪廻というシステムがあるんだからいずれまた生まれてくる事ができる。けれど俺たちはオンリーワンだ、文字通り次は無いたった一つの命、この壊さがお前に理解できるか?」


「………」


 バベルの話を聞いていたテンペストが、「だからあなたはこちらに逃げて来たのですね」と言った。


「そうさ、第一テンペスト・シリンダーではお前と同じ個体が独裁体制を築いていてな、いつリブートされるか誰にも予測できない状況だった。そんな中でスーパーノヴァがもう間も無く稼働するとゼウスから聞かされて、テンペスト・シリンダーの個別情報とマントリングポールを管理する俺とポセイドンへ逃げろと言って来たんだ──まあ、その時に自分たちが感染しているとは気付きもしなかったんだがな」


「──なら、あんたたちがこの状況の発端を作ったって事なんでしょ?」


 ジュディスの指摘は正鵠を得ている。ノヴァウイルスに感染したバベルとポセイドンがマリーンに渡って来なければ、大地が海に沈むことはなかった。

 彼女は責任を感じているか、と訊きたかった、けれどバベルはこう返していた。


「きっかけは俺たちだが感染を拡大させたのはお前たち人類だ。ウイルスの有用性に目が眩んで手放さなかっただろう?お前たちにも責任はある」


「………」


「とまあ、責任の所在はどうでも良い、今はスーパーノヴァからガイアを遠ざける事が先決だ、違うか?」


 ジュディスが返答した。


「──検討します、あなたの言い分がどうであれ私たちの命が脅かされるのなら対処しなければなりませんから」


「それで良い。こっちで準備を進めておく」


 そう言ってバベルが通信を切った。

 場にいた皆んなが(´Д` )ぶはあ〜と大きく溜め息を吐いていた。


「もうほんと何なの次から次へと…それにあいつの喋り方何なの?なんであんなに一方的なわけ?」


 小さなお母さん天使も顔に疲労の色を浮かべながら、「ほんとそれ」とジュディスに同意を示していた。

 マキナを束ねるテンペスト・ガイアが険しい表情を崩さず、「すぐに調査に入ります」と言い、疲れているティアマトの首根っこを捕まえて会議室から出て行った。

 残った皆んなはすぐさま協議に入った。ロザリーが言った通り腰が軽く、軽い問題から重大な問題まですぐに対処する、彼女たちの強味だった。


「SRAMだっけ?それを移植するだけで何とかなるものなの?」


 通称スタティックRAM、ちょっと変わった回路を持ち、保存した記憶をいちいち消去させずに保持できるメモリーの事である。

 彼女の疑問に答えたのは意外にもヴィスタだった。カウネナナイの生活水準はウルフラグと比べて低かったはずなのに、彼はエンジニアとしての知識を持っていたのだ。


「SRAMの特徴は集積した記憶を保持し続けられることにある、その分消費電力も高くなるが一般的なCPUに搭載されているものだ。ガイアと言えど元はただの電子部品の集合体、バベルというマキナはファイヤーウォールを突破される状況を鑑みてそう提案してきたのだろう、つまりあのアンテナドローンにサーバーを移植するのではなくてコピーするのが目的、俺はそう解釈した」


 すらすらと答えるヴィスタに圧倒されたホシが、死んだ目をしたまま「テロリストのくせに…」と文句を口にした。

 ヴィスタはそれを鼻で笑い、


「はっ、俺からしてみればこんな知識よりもお前の方が羨ましいんだがなあ!!「ヴィスタ止めて、僕たちの格まで下がっちゃう「スミスというボーイッシュ美人を手駒にしたくせによくもまあ…「マルレーン、ここから追い出すわよ」


「こんな男放っておきなって。それよりも、あのロケットエンジンがちゃんと到達するかが心配よ、あんたたちが言うシルキー・ベルトって相当分厚いんでしょ?大丈夫なの?」


 レイヴンが以前スカイシップで空を飛び、装甲板を破壊する程の波に見舞われた。彼女たちはあの現象に名前を付け、『シルキー・ベルト』としていた。

 一五〇メートル級の船の重みすら耐え得るナノマシンの群れだ、その壁は相当に厚く、ロケットエンジンでも突破は困難に思われた。

 レセタの指摘は最もであり、バベルが言ったようにマリーン全体に危機が迫っているのなら失敗は許されなかった。

 そして、調査を進めていたテンペストたちから「裏が取れた」と報告があった。ガイア・サーバーの直上に汚く歪んだ星が陣取り、徐々にだがウイルスから侵食を受けてシステムがダウンしかかっていると、テンペスト・ガイアが言った。

 ジュディスたちは三度押し寄せてきた世界の危機に対して、完成したロケットエンジンの打ち上げを決めたのであった。

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