TRACK 27
ライド・ザ・ウェーブ!
絶え間なく向かってくる波によってイカダはひと時も安定しようとしない、住み始めた時はしんどかったがこの揺れにも慣れてきた。
けれど、この潮の香りという匂いだけはどうにも慣れない、生き物臭く、そして決して無視できない強い匂いが男を悩ませていた。
男が住むイカダは全てお手製だ、街で受けた訓練の賜物である。訓練当時は「何を馬鹿な事」と鼻で笑っていたがなかなかどうして、あの時のいけ好かない教官は有能だったと言えよう、お陰様で見知らぬテンペスト・シリンダーで生活ができているのだから。
良く出来た木製のテーブルに置かれたラジオに通信が入った。成層圏間無線ドローンを通じた本社からの連絡だ、男は即座に耳を傾けた。
「修理部より修理出張班三課へ、デビラリティに抵触する事案が発生、場所はウルフラグ南部、アクセスポイントは現地のテンペスト・ガイア、至急調査されたし。繰り返す──」
(デビラリティって事は…あのイチモツ魔改造爺さんの入れ知恵か?だが、あれは向こうにいるはずだ…)
男はラジオから届く声をシャットアウト、脳内に埋め込んだインプラントルーターから無線ドローンへアクセスし、壁の向こうにいる同じ班の部下へ連絡を取る。
「──はいはい、はい、おはようございます」
「取り込み中か?」
「ああ──いえ、ただちょっと…まあ、ははは」
その部下は好色家でよく現地の人間に手を出す、きっとその最中だったのだろう、男からの連絡に慌てた様子を見せていた。
「何でもいいが痕跡は残すなよ」
「大丈夫ですよ、こんな辺鄙な所ならバレません──で、何かありましたか?」
「要回収者の居場所は掴めているか?」
「ああ、あの爺さんならここから北西方面にあるイカダの街へ向かいましたよ。何でもとびっきりの美人がいるとか何とか…」
「そっちにいるんだな?」
「え?そうですけど…何かありました?」
「お前…ラジオを切ってないだろうな」
「──あ、やっべ…」
「星察官が回収状を取ったら俺たちの仕事だ、現を抜かすのはお前の勝手だが下手をこくなよ、いいな?」
「す、すいません…ここの女がなかなか良くて──あ、班長、ちょっといいですか、あの船はどうするんです?」
「どうもしない、俺たちの仕事じゃない、放っておけ」
「了解しました」
通信を切り、ラジオを受信設定から発信へ切り替え、ウルフラグ側で待機させていた別の部下たちへ指示を出した。
「班長より各員へ、ウルフラグ南部にいると思しきテンペスト・ガイアの調査に入る、集合ポイントはE一五、N三〇。繰り返す──」
指示を出し終えた男、修理班の班長も準備に入った。
(あの爺さんの入れ知恵じゃないのなら、ここの人間が偶発的に触れてしまった事になる。良くて抹消、最悪棺桶行きだな…可哀想に)
班長がマリーンの空を見上げた、良く晴れてはいるが薄雲が広がっている。どこか圧迫感を受ける空だった。
(こういう空はあいつらに飛んでもらうのが一番良い)
準備を終えた班長がイカダから離れて行った。
*
スカイシップの後身部、そこは幾何学模様を計する空洞になっている。
「………」×8
「ちょっと、お通夜みたいな顔するの止めて」
延べ一五〇メートルを有するスカイシップは前身部約一〇〇メートル、新型エンジンあらため新名称ホールボール(見たまんま)が収まる後身部は残りの約五〇メートルを有する。
後身部はエンジンの為に丸々用意された場所である事から、エンジンの整備用に設けられた通路しか存在せず、しかも波打つように伸びているため大変歩き辛い。
『安全十第一!』とステッカーが貼られたヘルメットを被っているザイモンが、遺書を用意した皆を代弁して言った。
「私も軍に所属していたことがあるから身を持って知っているが…こんな馬鹿げた飛行テストは生まれて初めてだ…テストパイロットの有り難みが今ようやく分かったよ…」
ジュディスも彼に同意を示した。
「全くよ…いくらなんでも安全性の確認もなしに一発テストだなんて…私が作った船なのに棺桶にしか見えないわ…」
ジュディスもヘルメットを被っている、と言うか皆んな被っている。ホールボールの取り付け作業が終わったので現場へ視察に来ていたのだ。
彼女たちは計三六本に及ぶケーブルに繋がれたホールボールを見上げている、スカイシップの心臓だ、それは圧巻と言える光景だ。また、心臓を守るようにしてタービンキャンセラーのウェーブパイプが上下左右を覆うようにして伸びており、彼女たちは美術館に置かれた先進的芸術品を眺めているような気分になっていた。
「もう!しょうがないでしょ仮想世界でテストできなかったんだら!──はい!ぐちぐち言わない!見終わったらブリッジに集合!──そしてすぐ飛ぶ!超える!ナディにキスしてもらう!「自分の願望混じってんぞ「それで終わりなんだから!」
昨日は意気消沈とした姿を見せた鉄の総団長、けれど今日は待ちに待った初飛行の日である、「止まるんじゃねえぞ!」と言い出しそうなほど元気を見せていた。
ヨルンを失ってから三日、たったの三日、彼女たちは前人未到の挑戦を始めようとしていた。
ライラは突っ込みを入れてくれやがったハデスをきっ!と睨んだ。
「──というか!あんたたちまで遺書を用意する必要ないでしょ?!私に対する嫌がらせ?!」
「違う違う」とハデスは手を振った。
「俺たち一度、こいつの親玉に操られてた時があって記憶領域を弄られたんだわ」
「ええ?何それ」
ホールボールを囲う取り付け欄干から皆が離れて歩き始める、「それは昨日、私が割愛した話ですよ」とテンペスト・ガイアが後を継いだ。
「あ、そうなんですね」
ビビるライラ、テンペスト・ガイアにまだ慣れていない。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、テンペスト・ガイアはそっとライラへ寄る。
「政府が用意したフリーフォールという端末はご存知ですか?」
「あの四角形の変なやつ?」
ジュディスの合いの手に彼女が頷く。
「そうです、あの端末には特定の電波を遮断する働きと、特定の電波しか受信しない機能があったんです。結果的に私たちは陸師府に操られその時の記憶を失っているのです」
エンジンルームの道半ば、幾何学的構造物を支えるジョイント部に差しかかった。ここでは上下左右にウェーブパイプが延びており、網状の床越しから海へ向かっていくパイプが見えていた。
ザイモンも説明に加わった。
「私も陸師府のやり方は些か反対で、彼女たちを利用した事がトリガーとなった、だから組織を抜け出して調べることにしたんだ」
「そういやその話もまだだったわね、何を調べてるの?」
「ホワイトウォールについて、それから陸師府が異形の星と呼ぶ存在について、最後はこの件に保証局と大学が絡んでいるかどうか」
ジョイント部を抜け、ライラたちはエンジンルームから船内へ入った。飛ぶことを目的とした船であるため人が利用できるスペースは少なく、彼女たちが歩く通路もケーブルや配電盤などがぎっしりと詰められていた。
ザイモンの話を耳にしたライラは、それだけで陸師府の思惑に勘付いた。
「──もしかして、今回の大災害は保証局、というより特個体とシルキーを研究していた大学が引き起こしたって言いたいのですか?」
「そうだ、私も馬鹿げた推論だと思うが、頭が固い老人共からすれば実に分かりやすい筋なんだよ。彼らは大学が何かしらの陰謀を企てていると疑っている」
「馬鹿ばかしい…人のせいにして解決できる段階ではないでしょうに、街が海に飲み込まれたのは誰のせいにもできないわ」
「私もそう思うよ」
ザイモンは安心した、そして組織を抜け出したのは正解だったと思った。
ライラたちはザイモンよりも歳が若い、だが、もう既にこの世界をニューノーマルと受け止めて前へ進もうとしている。その活力、柔軟さは老人が権力、地位と引き換えに手放したものだ。
通路を渡りスカイシップのブリッジへ入る、そこでは既に総団長を心酔しているレイヴンのメンバーが発進準備を行なっていた。皆、散る覚悟はとうに出来ている。
艦長席に立ったライラが、良く通る声で管制官たちへ檄を飛ばした。
「今日までの尽力感謝致します!最後まで私に力を貸してください!」
ちなみに管制官は皆男である。煩悩哀れなり。死ぬかもしれないと分かっているのに大盛り上がりを見せ、歓声の中に「キスして〜!」「ハグして〜!」と馬鹿げた要求も混じっていた。
地獄の沙汰まで聞き分ける鉄の団長だ、その声を聞き分け「無事に帰ったら言われた通りハグしてあげます!」と約束し、管制官たちが半狂乱になってしまったので発進準備が遅れたのは笑い話である。
◇
準備は整った。
後は総団長が指示を下すだけ。
馬鹿騒ぎをしていた管制官たちも静まり、ブリッジ内は静寂に包まれている。今からこのしじまを伝説が生んだ化け物エンジンの咆哮で破るのだ。
その化け物はまだ一度も現実の世界で目覚めていない。暴れ回らないよう檻の中に閉じ込めているが、目覚めた後に何が起こるのかは神すら知らない。
ホールボールに繋がれたケーブルはムカデ翼に設置された上昇用ジェットエンジンへ続いており、もし何処かで爆発しようものなら船全体へ火の手が回る事になる。
ライラはその事を今思い出し、「あ!確かに安全性を先に確認しておくべきだったかも!」と後悔しながらも、
「ホールボール起動!」と、やっちゃえ!精神で指示を出した。
ライラにハグされる事しか頭にない管制官が、「あいあいさ〜!」と返事をしながら躊躇う素ぶりを見せず起動ボタンをタップした。
ここで不具合が起これば皆んな木っ端微塵。
けれど不具合はなく、微かな振動がブリッジを包んだだけだ。
「成功したみたいね」
「──はあ〜…」×8
「──次!ムカデ翼のジェットエンジン起動!」
「あ〜〜〜!」×8
一難去ってまた一難、ライラ以外のメンバーは大きく溜め息を吐き、またすぐに緊張状態に突入した。
ムカデ翼のエンジンも異常無しと報告が上がり、また「はあ〜…」と皆がするも、ライラは休むことなく「次!ホールボールの出力テスト!ムカデ翼の供給ラインはカット!七〇パーセントまで回転数を上げよ!」と指示を出す。
「あ〜〜〜!!」×8「っるさいのよいちいち騒ぐなっ!!」
今度のテストは凄まじかった。
目覚めたホールボールが現実の世界で産ぶ声を上げ、低い唸り声から空を切り裂かんばかりのかん高いものへ変わった。後方一〇〇メートルの檻の中にいるのにブリッジにまでその声が届く。ライラは化け物の咆哮に負けないよう、管制官たちへモニタリングを指示する。
「タービンキャンセラーチェック!船体ストレスチェック!──急いで!」
「船体振動ストレス理論値内!エンジン振動相殺を確認!ホールボール理論温度内!各ケーブル理論温度内!エアー、燃料漏れ異常無し!」
「──よし!ムカデ翼起こせ!供給開始!排気ノズル照射角度そのまま固定!──海から上がるわよ!!「え〜〜〜〜?!?!」×8
初の起動テストが無事に終わったライラは勢いに乗り、そのまま飛行テストに移った、前代未聞。皆が待ったをかけるも──船が地震に見舞われたように激しく揺れ始めた。
「馬鹿してんじゃないわよこういうのはもっと丁寧に「彼女の言う通りだ総団長今すぐ止めさせ「あかんねん!俺地震だけはあかんね「あわあわあわあわ「ああ…またマテリアル・ポッド行きか…「お母さん…今すぐそっちに行くからね…「あれ、でもなんか浮いてません?」
船が想像以上に揺れているのは重力と戦っているからだ、星の自転は空飛ぶ者の邪魔をする、スカイシップは今まさにその軛から解き放たれようとしていた。
高度計を確認していた管制官が「あ!」と声を上げた。
「上昇を確認!──一メートル、二メートル──浮いてます!浮いてますよ!」
湾曲したブリッジの窓の向こうにはレイヴン造船所のクレーンがあった。そのクレーンが確かに徐々に下がりつつある、何も向こうが沈んでいるのではない、スカイシップが浮いているのだ。
(よし!!)
ライラは確信した。
「──ホールボール出力上げよ!高度一〇〇〇まで上昇!」
ウェーブパイプの檻に収まった化け物が本来の力を発揮した。銀の色をしていたホールボールが赤熱し、まるで本物の心臓のように赤く染まる。船体を揺るがすほどのホールボールの咆哮が轟き渡り、渡ると同時に船の振動がぴたりと収まった。
「ジュディさん!あなたの師匠は本物の天才よ!重力離脱の振動も考慮してホールボールの振動を発生させていたんだわ!」
「──ああ!自壊するまで暴れ回ってたんはそういう理由か!」と、地震が収まると同時に元気を取り戻したバベルが言う。
ジュディスが叫んだ。
「私高い所が苦手なのよーーー!今すぐ降ろしてーーー!」
レイヴン造船所を擁する海から一隻の船が飛び立った。乗船できなかった(あるいは怖くてしなかった)レイヴンのメンバーたちは、目を大きく見開き船を見上げている。
海水が雨のように降ってくる、それは非日常の体験で、造船所に残ったメンバーたちは歓喜の声を上げていた。
船が本来の役目を忘れ、ジュディスの叫びも無視して空を飛ぶ。
マリーンにとって歴史的な瞬間だった。
*
(──ちっ、先を越された、まさか一発で飛行させるなんて…)
「班長どうします?空を飛ばれたらさすがに人の目に付きますよ」
修理班を束ねる男の網膜に一つのウィンドウが浮かんだ、現在通信している相手の顔写真が映っている。
「そんな事ぐらい分かっている。空調服を透過させろ、エンジンルームに直接忍び込んで飛行艦を落とす」
マリーンの船が飛び立ったのはつい今し方、修理班は付近の海に展開し忍び込む機会を窺っていた。けれど船は空を飛び、もう既に高度は一〇〇メートルを越えようとしていた。
空飛ぶ船から海水が落ち、男の周辺にぼつぼつと降り注ぐ。男はバイザーにかかった海水を拭い、着込んでいる空調服を透過させた。
せっかく海水を拭って綺麗にしたというのに、男の網膜に複数のウィンドウが浮かんだ、部下たちが私語で話し始めたのだ。
「普通に凄くない?あれ博物館で見たぞ」
「本当に一からあの船を作ったのか…大したもんだな…」
「いやいや、人は得てして同じ結末を辿るもの、介入しなくともあれぐらいは作れるようになるだろ」
「私語は慎め、仕事中だ」
ぷつりとウィンドウが閉じた。
空調服の透過率を最大まで上げ、透明になった修理班が海中から空へ躍り出た。着込んでいる空調服の最大高度はおよそ一〇〇〇メートル、彼らは生身のまま空を飛び潜入するつもりでいた。
追いかける船の速度はひどくゆっくりとしており、けれどしっかりと高度を上げている。
(本当に大したものだ、主翼に取り付けた補助エンジンの位置、ノズルの角度も申し分ない、船体の長さを二〇〇メートル未満に抑えているのも及第点。惜しむらくはエンジンルームを保護していないだけ、か)
着実に高度を上げていくマリーンの船が目前に迫り、修理班の一人が接近を試みた。空調服のファンを巧みに操り距離を詰めていく、エンジンの不釣り合い振動を抑える為の吸収体(ウェーブパイプの事)に班員が手をかけた。
「──?!あっつい!!」
しかし、その班員はすぐに手を離していた。
「どうした?」
「こいつら!──信じらんねえ!防熱処理をしてないぞ!熱々じゃねえか!触ってらんねえ!」
班長の網膜では怒ったように報告を上げる班員のウィンドウがアニメーション再生されており、怒りを表すように右へ左へ動いている。邪魔でしょうがない。
「吸収体の熱でエンジンが焼けますね。どうします?このまま放っておいてもそのうち落ちますよ」
「──だな、一時撤収を──」その時だった。
エンジンの排熱を受け止め、高温に達していた吸収体が一段と膨らんだではないか。修理班の面々は突然の挙動に虚を突かれ、即座に距離を空ける。膨らんだ吸収体の膨張率は約二.五倍、エンジンを包むように展開している形状と相まり、その姿はまるで空気を大きく吸い込んだ肺のようであった。
(──まさか!「さらに距離を取れ!!」
緊迫した声で班長が指示を出すも、膨らみ肺のようになった吸収体が次の瞬間、ぎゅっと縮小し辺り一面へ突風を起こした。
班員の一人が突風に巻き込まれてコントロールを失う、それだけでなく何度も「熱い熱い!」と叫び、やがて班長の網膜からウィンドウが消失した。バイタルロスト。死亡判定である。
態勢を崩した修理班を前にマリーンの船はさらに高度を上げ、空調服の限界高度に達した時、複数翼の補助エンジンが真下方向から角度を変えて上向き始める。と、同時に排熱を終えてクーリングダウンしたエンジンが高速回転を始め再び赤熱し、船を前方向へ進めていた。
全くもって成功である。マリーンの人間たちはたった一発で飛行運転を成功させていた。
飛行艦の試運転は失敗が付きもの、いくら技術改良を施しても失敗する時は失敗する、ヴァルヴエンドの企業も苦慮しているというのにこの現地人たちは易々とクリアしてみせた。
「大したもんだ…」
「班長、私語は禁止なのでは?」
「──撤収だ、俺たちの手に余る。換装体を回収して持ち場に戻るぞ」
テンペスト・ガイアを追跡していた修理班が高度を下げ、ウルフラグの海へ戻って行った。
*
「ウェーブパイプの排熱作業完了しました、現在の温度は約八〇度まで低下しています、ホールボールに影響無し」
「了解しました、引き続きモニタリングと随時報告をお願いします」
高度一〇〇〇メートルに無事到達したスカイシップ、ブリッジの外にあるのは青い世界、けれど海ではなく空である。
そう!空である。海ではない、繰り返す、ブリッジの外に広がっているのは上昇を続けて高度二〇〇〇メートルに達した空である。落ちたら即死だ、嘘ではない。
(あばばばばば)
と、鉄の団長も内心はビビりまくっている、とてもじゃないが歴史的瞬間を喜べる心境ではなかった。
(飛んでる!落ちたら即死!あばばばばば「──進路をホワイトウォールへ!ホールボール出力維持!異常があれば即時報告を!」
時として鉄の理性は実に厄介な代物である。自身の胸中がいくら震え上がっていようと泣き言を許さず、さらにスカイシップを進めるよう指示を出すこの口が憎い!と憎んだところでどうにもならない。ライラは半泣きになりながら艦長席に腰を下ろした。
他のメンバーもそれぞれ疲れた様子を見せながらブリッジの外を見やっていた。ジュディスだけはじっと縮こまり、己の膝を抱えて震えている。
クランは案外平気なのか肝が座っているのか、窓際に寄って下を見やり、「あ、街が見えましたよ」と景色を堪能していた。
フレアはお母さんにしがみ付き、そのお母さんはハデスにしがみ付き、そのハデスはテンペストにしがみ付き、そのテンペストは迷惑そうに顔を顰めていた。
「あなたたちは大丈夫でしょう、そう引っ付くのは止めてください」
ブリッジから席を外し、船内をぐるりと回っていたバベルが戻って来た。ライラから依頼されて異常がないか確認に行っていたのだ。
「どうだった?(あばばばばば)
「うん、平気なもんやで、とくに異常無し!」
「あなたは平気なの?(あちょっと揺れた!)
「うん、俺があかんのは地震だけやから平気やで。──しっかし案外揺れへんもんやな〜静かなもんやで。これなら波に揺られる方が激しいんちゃう?」という言葉がフラグとなり、スカイシップが何かに乗り上げたようにぐらりと傾いだ。
「──あかんもう終わりや〜!俺の人生ここまでや〜!「あああああ!!「カマリイちゃ〜ん!カマリイちゃ〜ん!「だ、だだ、大丈夫よ!フレア!わ、わわ私がついているから!「乱気流にぶつかったんでしょうか?「おそらくは」
ザイモンもここまで来ると「死ねば皆一緒!」の精神で逆に落ち着きを得ており、スカイシップが飛んでから一度も取り乱さないクランと何気なく会話をしている。というかこの女、空の上なら人見知りしないらしい。
空にしろ海にしろ、船は外の影響を受けるものである。乱気流にしろ波にしろ、船は揺れるものだ。
しかしてここは空である。海とは訳が違う、ブリッジの外では近くの雲がぐんぐんと後ろへ下がり、遠くの雲はゆっくりと下がっている、初めて見る光景にいつまで経っても心が慣れようとしない。
船の生みの親でもあるジュディスはずううっと膝を抱えて外を見ないようにしている、あんなに弱った姿は初めてだ。
初めて見せる先輩の姿にライラの心がすんと落ち着き、むくむくと悪戯してやろうという気持ちが芽生えてきた。
「──先輩、先輩」
「………」ちらっとジュディスがライラを見る。その姿はまさしく小動物そのもの。
「ここに座ってください、少しは落ち着きますよ」
「………」
言われた通りひょこっと体を起こし、けれどへっぴり腰でよたよたとジュディスが艦長席の元へ向かう。
(うっはウケる、何あの姿、ビビり過ぎでしょ)
目の前にまでやって来たジュディスの腕を優しく取り、ライラは自分の膝の上に座らせた。
猫である、借りてきた猫のようにジュディスはライラの膝の上でも縮こまり、船が揺れる度に体をびくつかせ、しきりに辺りを窺っている。
ここでパン!と手を叩いたら驚くだろうなとライラは思い、パン!と手を叩くと「あっひゃあ?!!」とジュディスが叫んだ。
「くっくっくっ……」
「あんた…地上に戻ったら覚えておきなさいよ…」
(あ、これはガチなやつだ、もう止めよう)
などと呑気さを取り戻しつつある艦長席であったが、管制官から緊迫した声で報告が上げられた。
「──総団長!船体ストレスが上昇しています!」
「あばばばばば!!(え?!何で何で何で?!そんな急に言われても!!)
「そ、総団長?!」
「はっ──船内船外問わずすぐさま原因を確認して!早く!」
艦長席にもモニタリング用のコンソールが置かれている、それも全部、こんなのいちいち見ていられないので管制官がいる。ライラはざっと確認するも、船内に異常は見受けられない。
それは管制官らも同様のようであり、「い、異常無しです!」と報告が上がった。
管制官も総団長も「これはどういう事だ?」と首を捻るなか、無我の境地に達しつつあるザイモンがある事実に気付いたというか思い出していた。
「シルキーです、空に散布されたシルキーがスカイシップに接触し、装甲板を破壊しているのです」
突然の敬語に皆が気付く様子はなく当然のように受け流している、そんな事よりシルキーである。
「そうだった!シルキーって海だけじゃなくて空にもいるんだったわ!──レーダーを熱源感知に切り替え!周囲を調査して!」
ライラは手元にあるモニターを確認する、サーモグラフィーに切り替わったレーダーを見て「ぎょええええ!!」と叫んだ。
熱源感知に引っかかったシルキーの群れが大挙として押し寄せてくるのが見えた、レーダー画面は真っ赤っか、どこにも隙がないほどに赤く染まっていた。
ライラの叫びを聞いた子猫ジュディスの姿はブリッジには無く、他のメンバーは「ぎょええええ!」を聞いて全てを悟り対ショック姿勢でその時を待っていた。ザイモンだけは直立不動である。人はあまりの恐怖の前に常識を壊して己の精神を守るものだ。
そんな事よりも、スカイシップの装甲板を剥がす程のシルキーの大波がもう直にやって来る。
モンスターエンジンの製造に成功し、モンスターエンジンの起動に成功し、スカイシップの飛行に成功し、後は壁を越えるだけ。
ここがレイヴンの正念場。
波に乗れ!
「──アーイキャーンフラーーーイ!!」
がつん!!とした衝撃がスカイシップ全体に押し寄せた、見えない壁にぶち当たったような感触だ。その衝撃だけで船体パラメーターはレッドアラート、ホールボールの出力低下、各ケーブルの破損、ムカデ翼のジェットエンジンストールアラート、しかして高度は落ちない。
それは何故か?シルキーの波にスカイシップが乗ったのだ。約五万トンに及ぶ船がシルキーの波に乗せられたのだ。
ライラは即座に自立飛行を諦め、シルキーの波を読むことに専念した。
「全レーダーをサーモグラフィーに変換!エンジンルームの切り離し急いで!」
船の揺れが安定していない、シルキーの波が船体重量に耐え切れていないとライラは判断した。
様々な助力を得て完成したホールボールを有するエンジンルームを、ライラはいとも簡単に切り捨てた、万歳!鉄の理性、鉄の団長でなければここまで思いっ切り良く決断はすまい。止まるんじゃねえぞ!
エンジンルームをパージ、途端にぐんと船体が持ち上がり、揺れが安定の方向へ向かった。
けれどそれはスカイシップの自由落下を意味する、波を読み間違えたら即落下、高度は四〇〇〇メートルに達しており、どんな生物でも即死を意味する高さである。
スカイシップの目前にはホワイトウォールがあった、すぐそこだった、彼女たちは後少しという所まで来ていたのだ、けれど壁越えは諦めざるを得なかった。
(ちくしょう!!ちくしょう!!後少しだったのに!!でも!!こんな所で死んじゃいられない!!何が何でも生きてやる!!)
「総団長ーーー!!目前に高さ二〇メートルの波が来ますーーー!!避けられません!!」
「その波に乗れ!!直後に対ショック姿勢!!身近にある物にしがみ付け!!」
ぐん──と船が持ち上がった、その角度は上方向に三〇度、ほぼ直角である。ライラたち乗組員は鳩尾を直接押さえつけられるような不快感を味わい、その後に下方向へ角度四〇度の落下が押し寄せた。
「あばばばばば!!!」
気分は命懸けのジェットコースター、何の安全装置もないジェットコースター、押さえられていた鳩尾が重力によって無理やり持ち上げられ、何も入っていないはずの胃袋から吐き気が込み上げる。
それでもライラは片時もレーダーから目を離さず波を読んだ。先に展開しているシルキーの波は下方向へ螺旋を描いており、ヨルンの遺体を飲み込んだ海へ続いていた。
けれど角度が足りない、このまま落下を続けたらシルキーの波から外れ高度三〇〇〇メートルの空から落ちる事になる。
ライラは柄にもなく祈った、人間最後の頼みの綱は神頼みである。
(ヨルンさん!あなたの娘を連れて帰ってこれなくてごめんなさい!でも娘さんを私にください!絶対幸せにしてみせますから!根性で可愛い娘を孕ってみせますから!可愛い孫をあなたに見せますから!──だから助けて!)
神のみぞには母の愛情が宿るものだ。
落下方向の波に飲まれていたスカイシップが突然、真横方向からがつん!とした衝撃に見舞われた。
チャンス!とライラは思った、なんか良く分からんが船首が螺旋を描くシルキーの波へ向いた!
「ねだるな目の前の波を勝ち取れーーー!」
さすれば与えられん!スカイシップが無理やり舵を切り、海へ続く螺旋軌道を描く波を射程圏内に捉えさせた。
下方向へ伸びていたシルキーの波の端へ差しかかり、次の瞬間──スカイシップが宙に浮いた。
「────」
スカイシップを支えてくれたシルキーの波は無い、モンスターエンジンも無い、自由落下が始まった。襲っていた振動も止み、ブリッジ内が静寂に包まれた、皆理解しているのだ、目前の波に乗れなければ死が待っていることを。
水平を向いていた船首が重力の軛に捕まり下を向き始める、星の自転は成層圏内にある全ての物体を逃がさない。螺旋軌道の波はまだもうちょっと左、まだ角度が足りない!
船首の角度が下方向へ三〇度傾きそうになった時、左翼にがつん!とした衝撃が走る。
波に乗った!
「──右翼をパージして!!」
右側のムカデ翼が根本から切り離されていく、船体バランスが中心点から左側へ移動し、その傾きがさらに波に乗せてくれた。
船首角度はきっかり三〇度、ひどいジェットコースター再び、けれど乗組員はこの角度と激しく揺れる振動だけが頼りだった。
さらに、今度は星の自転が助けになった、シルキーの波の端ギリギリに乗っていた船体を中心点へと向かわせてくれる。
(これならイケる!!人生はまだまだ続く!!ここで終わりじゃない!!)
高度計の針が見る見る下がる、高度二〇〇〇、一五〇〇、一〇〇〇...だが、その時がやって来た。
螺旋軌道を描いていたシルキーの波が終わろうとしていた、その続きは無い、波が無ければ乗ることはできない。
(そんな──)
エンジンルームと右翼をパージしたスカイシップが高度一〇〇〇メートルの空から宙へ躍り出た、ライラは死にもの狂いでレーダーを見やる、何も無い!真っ赤だったレーダーが途端になりを潜めていやがる!
これでは陸に帰還できない、一キロメートルの高さから落ちてスカイシップが無事で済むとは思えない。
(高度四〇〇〇メートルはあんなに賑やかだったのに!何か──何か!)
それでもライラは諦めない、頭の中には根性で産んだ娘と愛する人と一緒に暮らす幸せ家族計画が詰まっている。こんな所で死んでいられない!
だが、星の自転は残酷で何を置いても物理現象を優先する、右翼をパージし重心が傾いているスカイシップが左側を下方向に向けて落下速度を上げていった。
今まで踏み締めていた床が壁となり船が半回転した時、どこに隠れていたのかジュディスが「ぎゃあああ!」と叫びながら上から降ってきた。
艦長席にしがみ付いていたライラが子猫ジュディスをキャッチする。
「ああ!ああ!もう駄目!」
「先輩!」
溺れる者は藁をも掴む、ジュディスは必死になってライラへしがみ付いており、その取り乱しようを前にして総団長の心に申し訳なさが募った。
死ぬ。この船にいる乗組員は皆等しく死ぬ、その責任は自分にある。
(──ナディ!!)
──ああそうか、と、ライラは理解した、ヨルンが生きる事に執着を見せていた理由が。
確かにそうだとライラは思った、愛する人をこの目で見るまでは死ぬに死ねない、ライラもそうであった。こんな状況になってもまだライラは諦めていなかった。
しかし、星の自転は残酷である、人間の思惑ごと地上へ引っ張り込む、高度は五〇〇メートルを切った、縦に広がるブリッジの窓の外にはもはや棺桶にしか見えない青い世界があった。
──星の自転に抗う者たちが現れた、見慣れた機体がブリッジ前を通過する。
「──今のは──」
ついでかつん、かつん、かつんとした小さな衝撃が何度も走る、さらにぐんと鳩尾が押さえつけられる不快感、ライラたち乗組員がこの処女飛行で何度も味わった上昇運動によるもの。
それは何故か?──分からない!
分からないがライラは瞬時に「助かった!」と思った。
ブリッジ右側の席にいた一人の管制官が窓に張り付いている、外の様子を確認しているのだ、その彼が「死なずに済んだ!」という歓声の声を上げる。
「──あいつらだ!あいつらが助けに来てくれた!あれはなんだ?──作業用のフックか!俺たちのこと引っ掛けて持ち運ぶらしいぞ!馬鹿な奴らだ!」
ライラからは見えていないが、造船所で待機していた職無しの有象無象が作業用フックをその手に持ち、ぼろぼろになったスカイシップを引っ掛けて落下速度を緩めていた。
機体は数にして六〇、彼らレイヴン部隊は数万トンに及ぶスカイシップをド根性の一つで持ち上げていた。
やがて高度が一〇〇を切り、五〇を切り、無事に初飛行を終え、シルキーの波に乗ってきたスカイシップが海に着水した。
船はぼろぼろ、乗組員は阿鼻叫喚の連続でぼろぼろ、誰一人として元気なものはいない。けれど、彼女たちは傾いだ船内の中で声を上げて笑っていたという、救助に向かったレイヴンの証言である。
その後、無事に帰還を果たした鉄の団長は約束を叶えた、有象無象の一人一人を丁寧にハグして回り、空の上のみならず陸の上でも阿鼻叫喚の天国を作ったという。
*
オーディンは天国にいた。
数日に及ぶ禁錮が解かれ、彼は天国へやって来ていた。
左を見ても美女、右を見ても美女、前方には絶世の美女。いや左は無理だ、相手はあのマカナだから手は出せない。
オーディンはジュヴキャッチのメインポート、彼らが会議室として使用している部屋の中で胡座をかいている。彼の前にはセレン三人衆が足を揃えて座っており、その背後には仁王立ちのウィゴーとヴィスタ、そして謎にフラン、オハナ、カゲリ、言わば現ヴァルキュリアのメインパロットがオーディンを睥睨している。
ようやく話し合いの場が整えられた。
司会進行役はヴィスタ。
「まず、ナディに求婚した意図を問いたい」
(そこからかよ!)
オーディンは片側のアンテナを触り、言葉を選び、そして口を開いた。
「──嘘ではない、真意で──分かった冗談だから!武器を下ろせ!」
ショットガンを持っていたウィゴーがその銃口を下ろした。
「全く…ジュヴキャッチの面々に訊ねるが、フランたちから何も聞いていないのか?」
セレン三人衆が答えた。
「あなたがとんでもない女ったらしっていう話は聞きました」
「女性の敵なんですってね」
「オーディンさん…仮想世界では私たちを庇ってくれたのに…イメージ最悪です」
「俺の事はいいんだよ!──おいお前ら!この数日何していたんだ!」
ヴァルキュリアのメインパイロットが答えた。
「アヤメたちに手解きしてた」
「師匠と一緒に家建ててました。何でも再生数稼ぎには良いとか何とか」
「マカナ様の身辺をお世話していました」
「ああ駄目だ…ここには馬鹿しかいない…」
オーディン以外の全員が「お前が言うな!」と息の合った突っ込みを入れ、進行役のヴィスタが先を促した。
「で、お前たちは一体ここへ何しに来たんだ。本当にただ遊びに来ただけなのか?」
カゲリとフランが「あ!」と鋭く叫ぶがもう遅い、というか時間はいくらでもあったのに彼女たちは遊び呆けていた。
「俺たちがガイア・サーバーを狙っていた理由についてだ」
アダムとイヴの最後を看取ったナディが「一体何だったんですか、あれ」とオーディンに訊ねた。
「自動修復壁という言葉は知っているか?この世界を包んでいる壁の事だ。その壁には外界を遮断する力と──」その後をナディが継いだ、「排水する機能があるんですよね?そして偏りが生じてホワイトウォールがもう間も無く瓦解する──っていう話ですよね?」
オーディンには人間の顔が無い、モノアイのカメラとそれを覆う保護カバー、そして二本の耳のようなアンテナがあるだけ。それでもナディは自分の事をじっと見ているのが分かった、それもおよそ好意的なものではない事も。
案の定、オーディンが怒った。
「──それを知っててどうして黙っていたんだ!ホワイトウォールが瓦解すればウルフラグ側の海水がこちらに押し寄せて来るんだぞ?!」
「だ、だって!あの時はほんと何が起こってるのか理解できなくて──ダンタリオンはあなたたちの仲間ではないんですか?」
「あん?ダンタリオン?」
「そうですよ、あのガイア・サーバーには男の娘みたいなダンタリオンがいて!その子が私に説明してくれたんです!あの林檎を食べさせたら壊れた箇所が直るって!それなのに食べさせたら船が降りてくるわ星に食われるわ!──というかこの話もヴィスタさんにしたでしょうが!」
「Zzz…」
ヴィスタは立ったまま眠っていた。連日に及ぶ迎撃任務に彼ももう限界だったのだ。
「ダンタリオン…」オーディンの耳がピコン!と上がった。
「その機体のパイロットは?セバスチャン・ダットサンか?」
「え?そ、そうですけど…知ってるんですか?」
オーディンはナディの質問を無視した。
「その時ダンタリオンは何か言っていなかったか?」
「え?ああ…確か、人の為の天国がどうって…それが目的だからここを壊すって…でも壊すと言っておきながら何もしなかったし、あの二人は天に召されちゃうしで失敗したのかなって」
「──そういう事か。いいかナディ、ダンタリオンの破壊対象はガイア・サーバーではない」オーディンは床をとんとんと叩き、「ここだ、マリーンそのものだ」と言った。
「──ええ?!じゃ、じゃあ私は…」
「騙されたんだよ、あの童貞野郎に」
ええ〜うそ〜ん可愛いらしい子だったのに〜とナディが騙された事にショックを感じ、がくりと項垂れた。
ウィゴーが謎にショットガンにショットシェルを込めながらオーディンに訊ねていた。
「そこら辺の事情は僕たちには分からないよ、重要なのはホワイトウォールがいつ壊れるかだ。──オーディンとやら、壊れてしまうのはいつ頃になるの?」
「な、何故スライドしたんだ…持って一月という所だ、もう猶予は無い、ガイア・サーバーを破壊して機能を強制ダウンさせていればもう少し時間を稼ぐことはできたが…まあどのみちだよ」
「解決する方法は?」
「一つ、ホワイトウォールに穴を空けて溜まった海水を段階的に放出する、そうすれば壁にかかるストレスを軽減させられるはずだ」
オーディンが二本目の指を立てた。
「二つ、カウネナナイを放棄する、俺たちが使っている人工島に移住するなりウルフラブへ渡るなりして、ここを諦める」
オーディンの提案に会議室がしんと静まった。
どちらも実現不可能のように思えた、けれど危険は目前まで迫ってきている。
今日までヴァルキュリアのメンバーたちと遊び呆けていたナディは、冷水を浴びせられたような気分になった。
(カウネナナイを…諦める…)
「国を諦めろ」と言われたら、誰だってムッとする、だがそれだけ事が重大であることを意味している。
そこへ、会議室のしじまを払うようにサイレンが響き渡った、メインポートに外敵が向かっている報せだ。
「Zzz──はっ!──弾幕を張れ!奴らは足が弱点だ!」度重なる出撃の疲労で彼は重課金者なみの限界突破を繰り返していた、戦場ではないのに指示を出している。
ナディたち三人衆が「何事か!」と立ち上がり、オーディンは彼女たちが身を屈めた時にその谷間を拝もうとぬぬっと覗き込んだ。
「はい現行犯〜」と言いながらウィゴーがショットシェルをばら撒く。
「あっぶ──仕方ないだろ!──あぶっ?!当たったらどうするつもりだ!」
「あなたさっきナディちゃんが項垂れた時も谷間を見ようとしてたでしょ!!」
外より室内の方が危ない。
メインポートにやって来たのは渦中の人物であるセバスチャン・ダットサンであった。海中を移動していた事もあり、ダンタリオンの主兵装にもなっているハフアモアがびっしりと機体に付着していた。
ダンタリオンを真っ先に捕捉したグガランナ・マテリアルでは「あの変態爺いが帰ってきた!」と大騒ぎ。謹慎中のプエラも「ぬっ殺!」と臨戦態勢を整える。
グガランナがセバスチャンへ呼びかけた。
「グガランナです、何しに戻って来たのですか?言っておきますけどここにはあなたを歓迎してくれる人はいませんよ?」
セバスチャンから返答があった。
「この声はグガランナだな、お前さんのおっぱいも後で拝みに行くとしよう!「ぼいんぼいん!「──何ですって?!人がせっかく心配してあげているというのに!「いや違う、今のはダンタリオンだ、私ではない」
ダンタリオンの進行方向には、フランから手解きを受けたアマンナとバルバトスが待ち構えていた。その面構え、以前にも増して勇ましい、彼女たちはレベルアップしていた。
「ここを通りたくば──」
「私たちを超えて行け!」
しかし、セバスチャンはあっさりと無視。
「お前たちの美乳と微乳も後回しだ!「おい貴様!その微乳の微は美ではなく微だろ!「どっちでもいいでしょ」
ダンタリオンは二機の眼前でハフアモアの一部をパージした、汚い物を飛ばされたとアヤメとナツメが慌てて下がる。
「きったなっ?!」
「何あれ?!」
「さらばだおっぱい博物館!私は急いでいる!」
──セバスチャンはそれで離脱ができると思っていた、しかし彼は知らない、オーディン・ジュヴィによってグガランナ・マテリアルが魔改造されている事に。
グガランナの傍らにいた小さき戦神が「勝機!」と宣言、背後を見せて逃走を図ろうとしているダンタリオンを撃った。
「ってえ〜〜〜!!!」
「──なん?!」
「セバスチャン、回避不能、対衝撃姿勢を推奨」
グガランナ・マテリアルのお尻辺りの一部がぱかりと開き、中から顔を覗かせた砲身が火を吹いた。問答無用の背後撃ち、ダンタリオンは回避できず被弾、派手にハフアモアを散らしながら高度を下げていった。
「背部ユニットに甚大なダメージ、自立航行不能、墜落まで一分、バイアグラを飲んでも再起不能「それは酷い!」
被弾し黒煙を立ち上らせているダンタリオンが、ジュヴキャッチの母船に突っ込んだ。
そして、あえなく御用となった。
◇
ガングニールの元専属パイロットを務めていた元国防軍所属のヒュー・モンロー、並びにダンタリオンの元専属パイロットを務めていた元文部省所属のセバスチャン・ダットサンが邂逅を遂げた。
「久しぶりだの、この女ったらしが」
「久しぶりだな、この童貞野郎が」
「今日まで何度も顔を合わせてきたが、こうして互いの身分を隠さず話しができる日が来るとは思わなんだ」
「別に俺はお前と話がしたかった訳じゃない、どうでも良いさ」
「ああ、ああ、お前さんはそういう男だったよ、女以外に興味が無い、全身を義体化してもそこはちっとも変わっとらんな」
「そういうお前は随分と変わったようだな、通信がだだ漏れになっていたぞ。おっぱい博物館だって?──」後で俺にも紹介してくれ、と宣ったオーディンの頭を、ウィゴーがショットガンのバレルでどついた。
「──いった?!お前!さっきから暴力を働き過ぎだぞ!」
ウィゴーはオーディンを無視し、縄でぐるぐる巻きにされている老人を見やった。
「あなたはグレムリン、ですよね?」
「いかにも。だが、カウネナナイ亡き今、私の名前はセバスチャン・ダットサンである」
彼らは母船内の一室にいた、時間が経過し至る所が朽ちている、あまり綺麗ではない部屋だ。
セバスチャン・ダットサンを捕縛したウィゴーとオーディン、それからジュヴキャッチの一部のメンバーたちが集い、老人を囲んでいた。
「何しに来たんだ、お前、ここを壊すつもりでいたんだろう?」
オーディンが口火を切った。
「そうさ、だが失敗したよ、自動修復壁の稼働はまだ続いておる」
「じゃあ何か?裁かれにでも来たのか?」
セバスチャンが「違う」と否定した。
「せめてもの償いとして、ホワイトウォールの状況を伝えに来たんだ。壁の崩壊が始まっている、直に壊れるだろう、逃げるなら今のうちだ」
「…………」
部屋の外で待機していたナディがその話を聞きつけ、中へ入った。
「その話!本当なんですか?!」
成長したナディの姿を真近で見たセバスチャンが突然、「痛い!痛い!」と体を屈めたではないか。
「え、え?だ、大丈夫なんですか?」
「ああ!何という美貌!このセバスチャン・ダットサン!今日まで何人もの美女をこの目にして来たが見ただけで勃起したのはお前さんが初めてだ!「うんうん「──私と結婚してくれんか?」
ウィゴーが真顔でショットガンにショットシェルを込める、セバスチャンが「ああうそうそ」と言い、
「ヨルンの娘よ、崩壊の話は本当だ」
「でもあなたは、マリーンを壊すつもりでいたんですよね?」
「そうだ、ヒルダに会うために、私はかの世界へ渡りたかった、だがそれももう叶わない。だから──さっきも言ったが──せめてもの償いとして、お前さんたちを逃しに来た」
「本当に…?ホワイトウォールが壊れる…?あんな大きな壁が…?」
「ああ、もう手遅れだ」
愛する妻を追いかけるあまり、人の手には余る大罪を犯しかけた老人が力なく笑った。
ホワイトウォールが崩壊すれば一気に海水が流れ込む、それはカウネナナイにとって二度目の大災害を意味していた。
※次回 2023/10/28 20:00 更新