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テンペスト・シリンダー  作者: tokusin
第二.五章
254/335

TRACK 3

モーション・ファザー・シップ



 空は暗く、全てを照らしてくれる太陽も寝静まっているため夜の海は一面が黒い、そのため水飛沫を上げた生物の姿を確認することができなかった。

 それでもナディは目を細めて見続ける、果たしてその生き物が自分に対して無関心なのか好戦的なのかを知るために。


(方向は確かこっち…絶対に何かいる…)


 どれだけ目をこらしても黒い海に変化は無い、けれど聞き間違いでもなかった。

 ナディは視線を外し、先程落としたドローンを手に持った。

 ぶつけた木の実のせいでプロペラが少し歪んでいる、きっと対衝撃センサーが反応して停止してしまったのだ、そうだと考えたナディはドローンのボディをぺたぺたと触りパワースイッチを見つけた。

 何度かオンオフを繰り返しているうちにプロペラが回り出し、今にも空へ羽ばたこうとしていた。

 ナディはそのドローンを、音がしたと思しき所へ向かってえいやと投げ付けた。

 ──反応はすぐに返ってきた。


「──ぃぃいいやああっ?!?!」


 海中から飛沫を上げて、太った人の手のようなシルエットが飛び出してきたのだ。その手は稼働を再開したドローンを見事に捉え、すぐに海の中へ引っ張り込んでいた。

 たった一瞬の出来事である、けれどナディの頭は沸騰したように煮えたち、居ても立ってもいられないとがむしゃらになってオールを漕ぎ始めた。


(ヤバいヤバいヤバい!)


 進めど進めど景色がまるで変わらない、自分が進んでいないかのような錯覚に囚われ、背中がひりひりとひりつく感じを覚えた時に、遥か前方の海にぽつんと灯る明かりを見つけた。


「──は!」


 その明かりは一隻の船だった。


 その船はアリーシュたち、機星教軍が乗艦しているバハーだった。

 バハーからもドローンの映像と反応は捉えており、海中から現れた生物の正体もいち早く見抜いていた。


「アーキアだ、何と間の悪い」


 アーキア。それは大災害の後に突如として発生した未知の生命体であり、彼ら新都の市民を多いに困らせ、また命を脅かしてきた存在だった。

 彼ら軍はそのアーキアの脅威から市民たちを守っており、戦い方もある程度は心得ていた。しかし、それは戦闘区域に市民が居ない事を前提としたものであり、至近距離に居た場合の状況はまるで想定しなかった。つまり打つ手無し。


「どうするのですか?!」


「どうもせん、アーキアが彼女を見逃す事を祈って待つしかない」


「はあ?!助けに来た意味!」


「喧しい!あれは大型だ!艦載武器しか歯が立たない!しかしそんな物を使えば間違いなく彼女も木っ端微塵になってしまう!だから今は待て!」


「待っていられません!攻撃できないのならせめてこの船をボートに近付けるべきです!」

 

「レーダーも使えないこの状況でか?!船で轢き殺してしまうわ!」


「レーダーも使えないって、ドローンの映像と反応はきちんと届いていたでしょう?!何を言っておられるのですか!」


 機星教軍の男性はふんと鼻を鳴らし、黒い世界に目を向けた。


「あれだけは特別なんだ、ある男から提供された物なんだ」


「その男とやらに助けを求められないのですか?!」


「無駄だ、あれは享楽的に生きている輩に過ぎん。──今は居ない者の話よりあれを何とかせねばならない──第一戦闘配置!アクティブソナーでアーキアの位置を割り出せ!」


 管制官らが慌ただしく準備に取りかかるが、いかんせんウルフラグの船のため未だ手慣れていなかった。

 そのもどかしさに苛立ちを募らせたアリーシュが、部隊を指揮する男性に代わって矢継ぎ早に指示を出していた。


「違う!──そう!それから君は──そう!」

 

 ここはグガランナ・ガイアが暴動を起こした場所でもある、当時詰めていた管制官らは全員が射殺され、大災害を前にしてその命を落としていた。

 ここの後始末をしたのもアリーシュたちウルフラグの人間たちである、だが、今はその苦い思い出も忘れ、彼女はただ目の前の事に集中した。


(絶対に助ける!)


 艦から発せられたパルス信号が周囲へ散っていく。

 アクティブソナーは矩形波(くけいは)と呼ばれる四角形をした周波数を対象物に照射し、跳ね返ってきた方向と戻って来るまでの時間から位置を割り出す仕組みだ。

 海は空気中に比べて波形が伝わりやすい、だからアクティブソナーの結果がレーダー画面に即座に反映された。

 その画面を見ていた管制官は「故障だ!」

 と思った。


「あ、あの!画面が真っ赤なんですけど!」


「何い?!真っ赤?!」


 アリーシュもレーダー画面を確認する、パルス信号を反射した何かしらの物体がびっしりと、真っ赤になって表示されていた。

 考えられる要因は一つ。


「何だこの海は?!そこら中に何かが潜んでいるじゃないか!」


 そう、アリーシュが言ったように、海中には画面を真っ赤に染め上げるほど大量に何かが存在しているという事だ。

 管制官らの報告を耳にした男性がある事実に気付いた。


「それ…アーキアに届いていないのでは?」


「…………」


「これでは音響魚雷も撃てんではないか!」


 海中に潜んでいたアーキアに動きがあった。海の中で体の向きを変え、アリーシュたちから見て一〇時方向へ泳ぎ始めたのだ、その方角はジュヴキャッチの拠点があるラフトポート。

 バハーのブリッジにいた皆がアーキアの跡を追い、そして黒い海の中で瞬く三つの明かりを発見した。


「──ジュヴキャッチ!!」


 その明かりはナディ救出に飛び出した三人、マカナ、アネラ、ウィゴーが駆る特個体だった。



✳︎



「行かせて良かったのか」


「本人が望んだ事だ」


 彼ら、ヴィスタとミガイが居る場所は空母デッキのその端、一歩踏み出せば二〇メートル先の海へ飛び降りることができる。彼らはそんな所で話をしていた。

 また、彼らの前には一機の特個体が横たわっていた。


「過保護なのか非情なのか…まあいいさ。お前はこいつの為に行かせたんだろ?」


 そう言ってミガイが横たわる特個体へ顎をしゃくってみせった。

 その機体は鹵獲してから今日まで五年間、一度として稼働していない。彼らジュヴキャッチにとって、使えない特個体などお荷物以外の何者でもなかったが、こればかりは違った。

 横たわる機体は『ノラリス』だった。


「ああ。マカナが言うにはこの機体は特個体を拘束する力があるらしい。それ以外にも、全ての電子機器へハッキングすることも可能らしい」


「そんでもって軍の奴らもこれを欲しがっている。ポート内は今後の安全を考えて早々に手放すべきだという意見が多いがな、奴さんらに渡すのはちょいと惜しい」


「そうだ、これが動けばいくらかまともになるかもしれない」


 ミガイが間髪入れずに尋ねた。


「何がまともになるんだ?」


「この生活が、だ」


 人工の光りが一切無いお陰で、天からの月の明かりが良く届く。その月光に照らされたミガイが心底馬鹿にしたように鼻を鳴らしてから、舞台役者のように両手を広げて言った。


「まさか五年前に戻そうって?こんなに水浸しになった世界を?──はっ!いい加減現実を見ろ、それは夢の話になっちまったんだよ」


「そういうお前も、ようやくルヘイを奪還出来たと喜んでいたではないか」


「ああそうさ、ルイマンのクソ野郎が失脚してくれたお陰でな。だが、もうルヘイは海の底だ、俺たちは現実を見つめなくちゃいけない、そうじゃないとこの世界を生き抜いていけない」


 猛々しいミガイの長髪が、ふわりと夜風に舞った。彼の背後にあるのはこの世界を覆い尽くしている海だ、これまでの生活も思い出も友の亡骸も全て飲み込まれてしまった。

 彼らジュヴキャッチは新しい環境に適用しようとこれまで新しい文化を作ってきた。そして、新都にいる機星教軍は大災害前の文化を再建しようと必死になっている、所謂『既存社会』の枠を捨てられないでいた。

 ジュヴキャッチは言うなれば『新興社会』である、この対立から彼ら二つのグループは袂を分け、それぞれが独自で今日まで生活圏を維持してきた。

 そんな彼らが今なお対立している原因が『ノラリス』だった。

 現実をまざまざと突きつけられたヴィスタが一旦は面を下げる、夜空に浮かぶ月の明かりを受け、男とは思えないほどに長いまつ毛が震えるのをミガイは確かに見た。それからヴィスタが面を上げた。


「お前の言う通りだ──どうだ?あの頃と比べて俺は少しは頼り甲斐はあるだろうか」


「何の事──」そう言いかけ、ミガイははたと思い出した。


「まさか、ユーサを襲撃する前の事を言っているのか?お前も気の小さい男だ。少しはあるんじゃないか?だから皆んながお前に従っているんだ」


「そうか、ならばいい。──状況を見てノラリスを放棄する、これ以上軍と争っても意味が無い。俺たちの暮らしに必要ならノラリスは保護するが、不要なら捨てる」


「それで良いと思うぜ。三人が帰って来たらそう話せ」


「ああ」


 二人はどちらからともなくノラリスの前から歩み去った。



✳︎



 ナディはもう、生きた心地がしなかった。


「あ、ああ…ど、どうすれば…」


 真黒の世界で、それも目の前で戦いが行われていた。一つはこの海だらけの世界から産み落とされたような黒い影であり、もう一つはサーフボードを装着した三機の特個体だ。その特個体はどうやら黒い影と戦ってくれているようであり、さらにどうやら自分に危害を加えるつもりはなさそうである、とナディは思った。

 だが、そうではない、そこは心配していない、ナディが心配しているのはいつ自分が巻き込まれるか、という事だった。

 

(へ、下手に動いたら流れ弾に当たってしまう…何とかしてあの特個体のパイロットに自分の位置を──そうだ!)


 ナディはバッテリーが回復した携帯端末を起動し、備え付けのライトをオンにした。それから目一杯、携帯端末を持つ手をこれでもかと振った。


 オオ型アーキアの影に隠れるようにして、小さな明かりが左右に振れるのを真っ先に見つけたのはマカナだった。


(あれは一体……)


 目を良くこらして確認しようにも、目前にいる推定二〇メートルはあるアーキアがその腕を振り上げたため、マカナは後退するしかなかった。

 敵の間合いから外れ、直後に叩き付けられた相手の手によって黒い水柱が上がった。原始的な攻撃方法だがその分威力は高い、掠っただけでも機体が大破してしまいかねない。

 共に来てくれた二人、ウィゴーとアネラへ見つけた小さな明かりの事を連絡しようにも通信ができない、その事をマカナはひどくもどかしく思った。


(まだるっこいし!)


 マカナはアーキアが作った波を器用に避けながら機体を駆り、小さな明かりをこの目で確かめようと思い接近を試みた。もしかしたら軍の機雷かもしれない、だが、あともう一つの可能性もあった。


(ナディがそこにいるかもしれない!)


 アタッチメントデッキの重心をやや右寄り、進行方向とは逆に傾ける、加速した機体の速度が景色をずんずんと後ろへ流していった。

 マカナから見て二時方向にいるアーキアが他の二機へ狙いを付けていた、特個体用のライトに照らされたその影が黒いシルエットとして浮かび上がっている。

 二人の無事を祈りながらマカナはさらに機体を駆り、真っ黒の海に浮かぶ小さな明かりの元に到着した。


「──あっ!!」


 左から右へ一瞬で流れていった景色の中に、確かにマカナは友人の姿を見た。あんぐりと口を開けてどこか怯えているように見えたのは確かにナディだった。


「いたいた!いたいた!」


 マカナは小さな明かりに視線をやりながらアタッチメントデッキを操作し再接近を試みた、しかし、マカナの背後にいた軍の船からC.I.W.Sの斉射を見舞われ離脱を余儀なくされてしまった。


「くそっ!邪魔すんなっ!」


 スルーズ機の周囲に小さな水柱がいくつも立ち、マカナはナディがいると思しきポイントから離れて行く。事前に打ち合わせをしていたやり方で他の二人へ知らせ、マカナは態勢を立て直して軍の船へ機体を向けた。


 ライトを激しく明滅させていた機体が反転し、アリーシュたちが乗艦しているバハーへ向かって来た。


「こっちに来た!だから威嚇射撃は止めておけと言ったんだ!」


 アリーシュが軍の男性へそう向かって吠えている、下手な戦闘行動は取らずに救出を最優先すべきだ、と進言していたのだ。


「だったらあいつらを前にしてボートを出せって?!それこそ自殺行為ではないか!」


「ぐっ…」


 艦に接近してきた機体にC.I.W.Sが反応し、二〇ミリ口径のガトリング砲二基から弾丸が発射された。連続して発射されているため、まるで赤いロープが海へ延びているように見える、けれど接近し迂回し始めた機体には当たらず海に落ちていくだけだった。

 アーキアにも変化があった、残りのジュヴキャッチの機体と戦闘行動を取っていたオオ型が、その両腕をばしんばしんと海面へ叩き付けて素早く海の中へ潜ったのだ。その波が周囲へ広がり、そしてその波が一際大きかった。

 その様子を眺めていたアリーシュが再び吠える。


「──マズい!このままではナディがっ!」


 ナディが乗っているボートは未だにその居場所を突き止められていない、けれどこの付近にいる事だけは確かだ。

 視界が悪い中でも判別できる程の波に攫われてはさすがに無事では済むまい。


 そして、その事をマカナも十分に良く理解していた。

 迫り来るガトリング砲の弾丸を避けながら、マカナは軍の船をぐるりと回って三度ナディがいたポイントへ機体を向けた。

 

(間に合って!!)


 特個体のライトに照らされた先で、まるで落ち葉のようにぐらぐらと揺れているボートがあった。その激しい揺れにいつまで持ち堪えられるか分からない、体は火照っているのに背中だけが異様に冷たい、嫌な予感を払拭するようにマカナはさらに機体の速度を上げた。

 嫌な予感がすぐ現実の物になった。


「──なっ?!」

 

 潜航していたアーキアがボートもろとも跳ね上げ海中から姿を見せたのだ。

 宙に舞うボート、そして投げ出されたナディがスローモーションのようになって見え、マカナは息を止めた。


(間に合え間に合え間に合え──っ?!)


 機体のスピードが突然がくんと大幅に落ちた、ガトリング砲を食らってしまったのだ。

 コンソールから発せられるアラートを無視し、それでもマカナは機体の操縦に神経を集中させた。今、ナディが海に没してしまうと命に危険が迫る、それはアーキアに襲われるから、という理由もあるが、救出がより一層困難になってしまうからだ。

 宙に跳ね上げられたナディの落下予測地点上に機体が重なった、後はスルーズの手が間に合うかどうかだけ。


「ナディ!!」


 スルーズの手を広げ目一杯に伸ばす。

 けれど、あと少しという所で届かないと判断したマカナは機体に急制動をかけて反転、ほんの数メートル先で小さな水飛沫が上がるのを見送っただけだった。

 もしかしたら間に合ったのかもしれない、けれど間に合わなかった場合、特個体のサーフボードでナディを吸い込んでいたかもしれない、だから途中で諦めたのだ。


「ちくしょう!──あんのバカたれ共が撃たなければ!!」


 友人を救えなかったやり切れなさを半ば八つ当たり気味にそう吐き捨て、マカナは仲間の元へ戻っていった。



✳︎



 暗い、暗い海の中でナディは死期を悟った。

 高く宙に上げられてしまい、なす術もなく海面に叩きつけられてしまったので全身のあちこちが痛み、思うように体を動かせなかった。

 早く海面へ、早く上へ、そう思いはするが体が言うことを聞かず、ただ海の底へと落ちていく。


(ああ…こんな所で…)


 ナディは海面に叩きつけられる間際に見たあの機体の事を考えていた。すっかり色がくすみ、自分と同じようにあちこちが傷んでいるように見受けられたが、先程の機体は紛れもなく『スルーズ』だった。つまり、あの機体のパイロットはマカナである、という事だ。

 だが、それを今確かめる術がない。

 海水はただ冷たく、ずんずんとナディに乗しかかってきていた。月明かりを受けた海面近くはまだ明るいが、底はただただ暗い、逃れられないようにどんどんと引きずり込まれていった。

 意識が途絶えかけそうになる中で、ナディは海の底にあってはならない景色を見つけた。

 

(……街?)


 そう、海の底には街があった。さらに城の側に立っている尖塔の頂上付近が淡く発光している、そのお陰で本来であれば見えないはずの海底が見えていた。

 さらに信じられない事が起こった、ナディはいよいよ死期が迫っていると勘違いをする程に。

 ナディの位置からその尖塔に向かって小さな光りがぽつぽつと生まれたのだ、まるで道標のように。

 痛む体を懸命に動かしてナディは頭上を仰ぎ見た、自分の命の灯火のように淡く光っている月明かりがあり、先程見かけた大型の生物がその明かりを遮るようにして横切っていった。

 距離としては海面の方が近い、けれどあの大型生物の前に姿を曝け出す気にはなれず、ナディは光の道標に従うことに決めた。

 だが、体がもう動かなかった。

 急速に失われていく意識の中、ナディは走馬灯を見た。

 自分が生まれたセレンの島、移り住んだラウェの島、一人暮らしを始めたウルフラグの島──

 そして、自分の事を大好きだと言ってくれた初めての恋人。


(──ああ、ライラ……)


 そう願ったお陰か、それとも奇跡が起こったのか、ナディは誰かに強く引っ張られる感触を感じながら意識を手放した。


 どんと押し寄せてくる空気を感じたナディの意識が戻ったのは、それからすぐのことだった。


「……──げっほ!ごっほ!──はあ、はあ…」


 開けた目蓋の先には石畳みの階段があった、それから丸みを帯びた壁にかけられたカンテラの明かり、そしてその明かりにたかる大量の虫。

 ナディは重たい体を持ち上げさらに周囲へ視線を向けてみた。自分の体は半分程水に没しており、上半身だけが露出していることに気付いた。


「こ、ここは…」


 陸地だとは思えない、意識を失う間際は確かに海の中にいたのだ。


「も、もしかして…さっきの塔…?」


 這い上がるようにしてナディは立ち上がり、壁伝いに階段を登り始めた。

 鼻につく匂いは潮の香りに埃の匂い、それから何かの腐乱臭に木が燃える匂いが混じっていた。

 じっとりと湿った壁に手をつきながら階段を登り、その階段の先から微かな人の気配を感じ取った。

 一段ずつ登っていくにつれてその気配の濃さが増していく、ナディはそんなまさかと信じられない思いに駆られながら、それでも懸命に足を動かした。

 そして、到着した尖塔の頂上は約一〇メートル程の広間になっており、その中心で焚き火を囲っている人がいた。


「…………」


 ナディは何と声をかけたら良いのか分からず無言で歩み寄り、焚き火に前で胡座をかいていた人がこちらに気付いた。


「やあ、無事で何よりだよ」


 その人は目深にフードを被っているため顔がまるで分からない、体格からして成人男性のようだった。

 ナディは恐る恐るその言葉に応えた。


「あ、あの…私を助けてくれたのは…」


「私だよ、流石に見過ごせなかった。今はとにかく火にあたりなさい、冷えた体を温めないと」


「あ、ありがとうございます…」


 目覚めてからようやく出会えた他人である、思っていた以上にナディは自分がほっとしたことを感じていた。

 顔が分からない、けれどひどく優しい声音をした男性の斜め隣にナディが腰を下ろした。


「こ、ここは…?どこなんですか?」


 フード姿の男性がナディからふいと視線を逸らし、それから答えた。


「ここは海の中だ、大災害の浸水を免れた塔の中だよ」


「だいさいがい…それは、五年前の…」


「そう、この世界ががらりと変わってしまったあの日の事を皆が大災害と呼ぶ、だから私もそう呼んでいる。君も既に気付いていると思うが、この世界の殆どが海に没してしまった。ここはルカナウア・カイだ」


「海に没した…それは、カウネナナイだけではなくウルフラグも…?」


「そう、残った陸地は世界中を合わせても二〇パーセントも無い」


 そう話し続ける男性は決して焚き火から視線を外そうとしない。その事を少しだけ不審に思いながらもナディは質問を続けた。


「それで、皆んなはどうやって生活を?あなたみたいにこんな所で生活をしているんですか?」


「まさか、ここは特別だよ。他の皆んなはイカダを作って海に浮かんで、そこに家を建てて生活を営んでいる」


「あなたはここに住んでいるんですか?」


「そうとも言えるしそうではないとも言える。──私の事なんかより他に聞きたい事があるんじゃないのかな」


 焚き火にあたっているお陰で体の冷えが徐々に取れ始めてきた。体が温まるにつれてナディは気力が戻ってくることを実感した。


「私は五年前のあの日から今日まで眠り続けていました、起きたのはハリエの館で他に人が住んでいた気配もあって…誰が看病してくれていたのか知りませんか?」


「それは分からない」


(自分から聞けって言っておいて何じゃそりゃ)


 そう不満を抱えると、今度は不思議と元気も戻ってきた。


「私の名前はナディと言います、あなたは?」


「私の名前は今この場で必要ではないと感じている」


「顔を見せてもらえませんか?」


「それも今は必要ない」


「命の恩人の顔を見たいと思うことはおかしな事ですか?」


「ぐいぐいと来るね」


「どうして自分の正体を隠すんですか?」


「それは自分に引け目があるからだよ、だから見せたくはない」


「…………」


「……──ああ!止めなさい!嫌がっている人のフードは取るもんじゃない!」


 男性は伸ばされたナディの手をむんずと掴み、必死になってフードを取られまいと抵抗した。

 それでもナディは諦めなかった。


「あなたの声、どこかで聞いた覚えがあります」


「そんなはずは無いよ、君と会うのは今日が初めてだ」


「いつだったかな…確かスピーカー越しに聞いたような…」


「人の話聞いてる?」


「え〜…と、何だっけ、あなたからライラのお家について聞かされたような…私が何かの検査をしている時だったような…」


「だから人違いだよ、君と会うのは今日が初めてのはずだ」


「以前から私の事を知っていた?」


「……………」


 男性が焚き火に枯れ木を投入し乾いた音がパチリと一つ鳴った。

 ナディは男性の落ち着かない様子を目の当たりにして、始めは小さかった予感が徐々に大きな確信になりつつあることを実感した。

 ──それは、この男性が自分の父であるという事だ。


「私に父はいません、幼い頃に家を出たと母から聞かされました」


「それで?」


「亡くなった、とは一度も聞いたことがありませんでした。私は今日まで父はどこかで生きているものだと思っていました」


「そんなろくでなしの男をまだ慕うのか、君は優しい」


 ナディは直裁に尋ねた。


「あなたが私の父ではありませんか?」


「私?そんなまさか、私に家族はいないよ。勿論君のような美しい娘もいないし、自分の美貌を武器にするような妻もいない」


「……──いやそれ絶対母の事知っているじゃないですか!確かに母は自分の策に溺れる策士ですよ!」


 ナディは中腰になって再び男性に近付いた、またフードをむんずと掴んで無理やり引き剥がそうとしている。


「や、止めなさいって!!そういう強引な所はヨルンにそっくり──「やっぱり知ってるやんけ!──いいからこのフードを取ってその顔を見せろ──お父さんっ!!」


 ナディがそう叫ぶと男性の動きがぴたりと止まり、ついでどんと彼女の体を突き飛ばしていた。

 突然の乱暴な行ないにナディはなす術もなく尻餅をついてしまった。


「いたたた…きゅ、急に何を…「時間だ」


 ナディを突き飛ばした男性は立ち上がっており、海水の侵入を防いでいる天井部分を見上げている。


「奴がここに来る」

 

「や、奴って…あのシルキーみたいな大型の生物ですか?」

 

「そうだ、皆はアーキアと呼んでいる。シルキーを核とした単細胞生物の呼び名だ」


 ナディはえも言われぬ圧迫感を感じた。男性にそうだと言われてから、何かがひしひしと近付いて来る感覚に囚われた。


「た、単細胞生物って…シルキーとは違うんですか?」


「ああ違う、奴らは人間を向こう側へ誘う力を持っている。取り込まれたら最後、二度とこちらに戻って来られなくなる」


「向こう側って…」


 天井部分を見上げていた男性がナディへ向き直った。


「レガトゥムだ。プログラム・ガイアが目指したその反転未来、そこは仮想世界であり現実の世界を超えた所だ」


「…………あ──」


 男性が徐にフードを取った。

 

「最後に、いつでも君の味方になれるわけではない、それは良く覚えておいてくれ──ナディ」


「あ、ま、待って──」


 その男性はとても綺麗な目をしていた。ナディと同じように浅黒い肌をしながら瞳は海のように青い、加齢による顔のしわもどこか温かみがあり、ナディはいつまでも見ていたいとさえ思った。

 だが、塔全体を揺るがす衝撃によってその思いは断ち切られてしまった。


「え?!マジで?!」

 

「大丈夫だ、海上には軍の船がいる、助けてもらいなさい」

 

 衝撃は一度だけではなく二度、三度と続き、次第に亀裂が入ってついに海水が侵入してきた。


「ま──ほんと待って!あなたは私のお父さんなんですよね?!」


「違う。私に父と名乗れる資格は無い」


「めんどくさい性格っ!」


「──何だとっ」


 それが最後の言葉となった。アーキアの攻撃によって圧壊した壁から夥しい水が流れ込み男性もナディもいとも簡単に攫われてしまった。

 激流によって塔の外へ押し出され、揉みくちゃになりながらもナディは男性を目で追いかけた。


(あれは何を──)


 崩れた壁の瓦礫の向こうで男性は黒い生き物を従えており、塔を破壊したアーキアに腕を伸ばしているように見えた──そこでさらにナディは激流に押し上げられてしまい、男性の姿を最後まで見届けることができなかった。

 塔の外へ押し出されたナディを待ち受けていたのは、いつか見た宝石の海だった。

 様々な色に発光している小さな粒の群れがそこかしかに広がっており、魚のように泳ぎ回っているように見えた。

 海に沈んだ街の上を行き交う粒の群れは星くずのよう、ナディは自分が空の上を飛んでいるような錯覚に陥った。


(夜空みたい)


 塔の中で出会った男性のことや襲ってきたアーキアの事も忘れ、ナディは不思議な光景に見惚れ、そしてあっという間に海面近くまで上がった。

 海の外は驚いたことに空が明るんでおり、暗い空を追い払うように視界の端から爽やかな青色が広がりつつあった。

 さらに驚いたことに、ナディのすぐ側に一隻のボートがあった。それは自分が乗ってきたものではなく、小型のプロペラエンジンが付いたものだった。

 そのボートには複数の人が乗っており、誰かが「あ!」と上げた声を聞いた途端、ナディはこれで助かったと思い体中の力が抜けてしまった。


 ナディが気を失っていた時間はほんの一時であり、頬にあたる風の感触を感じてすぐに目を覚ました。

 周囲には見慣れない人たちがおり、救助用ボートが海の上を軽やかに滑っているところだった。


「気がついたか…?」


 そう優しく声をかけてきてくれたのは、カウネナナイでは絶対に見かけない金色の髪をした細身の男性だった。目は大きく頬が痩せている、ナディは起き抜けに「この人大丈夫かな」と心配してしまう程に痩せている人だった。


「あ、ありがとうございます…た、助けていただいたみたいで…」


 男性は目の縁に涙を溜めながら何度も首を振り、優しくこう言った。


「そんな…君と再会できて本当に嬉しいよ…」


「………?」


 ナディはその言葉に違和感を覚えた。


「どうかしたのか?」


「い、いえ…どこかでお会いしたことありましたか?」


「………………」


 男性の目が大きく見開いた、それは怒っているようにも呆れているようにも見えた。


「私が…誰だか分からないのか…?そんなまさかだよな?」


「え──だ、誰ですか…?」


 その男性、新都からバハーに乗艦し彼女を助けるために夜通し頑張っていたのはアリーシュ・スミスだった。男性ではない。

 昇った太陽に染られた真っ赤な雲と、薄い青色をした空の下から叫び声が上がった。


「──私はアリーシュ・スミスだああああっ!!「──えええええっ?!?!」


 二人はこうして約五年ぶりの再会を果たしたのであった。

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