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第99話

.一四基のメインエンジン〜私とラハムの最高傑作!結局バラバラになってとほほの巻〜



ーヴァルキュリアの電撃侵攻作戦が開始される前日ー



「どうせラハムは忘れ去られているんです。この間だってせっかく来たのですからラハムの相手をしてくれたっていいのに、ほんの少〜しお話をしただけですぐどこかに行ってしまわれたんですよ?」


「そういう性格をしているからだろ」


 最近は無遠慮な物言いが増えてきた。

 こんな女に気を遣ったところで仕方がない、それにどれだけ適当に返事を返しても全く気にしていないという事が分かり、いよいよを持って私はただの壁打ちの壁だと思い知らされた。

 しかしやはりルックスが良すぎる。むちっとした体付きはいつ見ても見応えがあるし、何より外見だけで"包容力"というものを感じてしまう。バブ〜。と、以前冗談でふざけてみたら「あら〜よしよし〜」と頭を撫でられて股間が大変なことになって診療所に駆け込んだことがあった。こいつは神か?

 そんなこんなで今日まで突貫工事を続けてようやく宇宙空間へ打ち上げる『すぺーすしゃとる』なるものが完成した。打ち上げるだけなのでヴァルキュリアの部隊が使用している強襲揚陸装置にも似ている。というかそのまんま。大きさは違う。

 作ったのは良い、後は廃棄されて久しい石油プラットフォームに持ち込み誰に迷惑をかけることなく発射するだけである。


(あぁ…まさかこの歳にもなってあんなに右手と愛し合うだなんて夢にも思わなかった)


 あの頭を撫でられた時の屈辱感と恥ずかしさと胸の奥底から湧き起こる"バブ"感。人って結局誰かの庇護下に入るのだなと痛感して気持ち良くなった瞬間でもあった。一〇回ぐらいじゃないか?診療所で発射したのは。

 そしてお次は念願の新型エンジンである!


「ラハムよ!いつまでもそんなうじうじしとらんですぺーすしゃとるを積み込むぞ!」


「らじゃ〜〜〜!」


 それみろ、全く気にしとらん。

 ぽよよん、ぽよよん。



「あなた、お話があります」


「────」


「こちらの方は?お爺ちゃんのお知り合いですか?」


「妻です」


「あら〜あらら〜あららら〜〜〜………」


 と、ラハムがそのままフェードアウトしていった。


(何故逃げる?!逃げるというのはアレか?!アレだったのか?!私もまだまだ隅に置け「あなた」──はい」


 妻の冷たい声が鼓膜を震わせ、ついでに私の肝も震わせた(?)。

 妻は滅多に人前に姿を見せない、いつも自宅で私の帰りを持っており、今日まで欠かさず食事を用意し寝床を整えてくれていた。

 だからこうして公の場で姿を見せるという事はそれ即ちそれだけで一大事ということである。


「今朝、王都の診療所からあなたの旦那様がベッドで一〇回も自慰行為をしていましたよと便りが届いたのです」


「……………………」


「だからこうして街の人たちに無理を言って船を出してもらい、迷惑だと承知でここまでやって来たのです」


「いや……それは……そのだな……」


 妻はカンカンだ、見れば分かる。今は妻の機嫌を取っているわけにはいかんのだが自分のせいだからそんな文句も言えない。


「私の気持ちが分かりますか?今日まであなたの趣味や女性遊びには目を瞑ってきました。子を成せない私に見切りをつけて他所の女と番になるのだって覚悟していたのです。──それが、まさか診療所で一〇回も……そんな便りを貰う私の気持ち、考えたことはありますか?」


「ふ、深く考えたことは……な、ないかな〜……」


 妻はまだ若い。若いと言ってももう四〇を超えているがそれでも十分に美しく、また気品があった。脱げばそれはもう...

 妻と出会ったのは一四の時だった。私がではない、妻が一四歳。サーストンから紹介された女性がまさかの未成年、当時は色香の欠片もなく正真正銘の子供だった。

 だから成人するまで体の関係は持たず、ただ互いに同じ時間を共有して過ごしていった。それが良かったのだろう、成人を前にしてくると体付きが大人のソレに代わり、私も今か今かと待ち侘びるようになった。

 そして、妻が迎える誕生日の深夜〇時、「お待たせしました」と歯に噛んで笑った妻を押し倒してもう──それはもう、それはもう本当にHした、しまくった、あの時の感動は今も胸に深く刻まれている。

 それからもう何度も体を重ねた。「あ、女ってこういうことか!」と天啓を得た私は今まで過ごしてきた研究一筋の日々を忘れるようにHした、沢山した、まだ妻とHしたい。

 でも、いくら経っても子供ができることはなかった。

 それでも私は愛すると妻に誓った。子供がいなくてもお前さえいてくれたらそれでいいと、現実に打ちひしがれる妻に思いの丈をぶつけてその日もHした。最高だった。

 ──だが!だが!それはそれ!これはこれである!いくら愛する妻がいようが男というものは美しい女性が目の前にいたらとりあえず興味を持つものなのである!だから私は己のムスコをコネクト・ギアに替えてパイプカットもして子を作らないように配慮したのだ!

 この決意を分かってもらえないのはまあしょうがないとして、そういった経緯を持つ長年愛し愛してくれた妻が重たい溜息を吐きながらこう言った。


「……お医者様から……お医者様から旦那様の相手もしてやってくださいと言われた私のこの惨めな気持ち……分かりますか?」


「わ、分かるような、分からないような…」


 ついに妻が怒髪天を迎えた。うむ、怒っても美しいとは実に良い。その顔で是非とも私のムスコも管理してほしいと直接言ったらビンタを食らってしまった。


「──痛い!」


「あなた!今日という今日は許しません!今日一日あなたに付いて行きますから!」


「いや何でそうなるんだ?今からちょっと危険な事をするから是非とも家に帰ってほしいのだが……」


「どうせ先程の女性もご一緒されるのでしょう?!お名前はラハムさんですか?!診療所のベッドでもラハムラハム「──ああ!ああ!分かった分かったから!連れて行くから頼むからそれ以上言わんでくれ!」


「良いですか!もしどうしてもしてほしくなったら別の女性ではなくこの私に「─お願いだから!お願いだから愛する妻よそれ以上は何も言わんでくれ!ほら!他の者たちも見ておるだろう?!」


 うぬぅ...入り口近くにいるあいつとあいつとあいつ、全員の顔は覚えた。私の痴話喧嘩が余程珍しいのかさっきからチラチラと...


(全員減給処分にしてやる!!)


 そんなこんなで私の妻も同伴することになった。

 ちなみに、出航するまで時間があったので本当に妻に頭を下げて「お願いします」と頼んだ事は内緒の話である。



(ええ〜仲良くなっとる……)


 無事に新型エンジンを積み終え出航したのも束の間、あれだけ怒っていた妻もすっかり元通りになり工船の甲板でラハムとお喋りに興じていた。


「まあ、そんなに長い間ご一緒されていたのですね」


「はい、あの人には何から何までお世話になりました」


「ふふふ、誰もが羨む夫婦なのですね、ラハムは感激しました」


「変なコトされていませんか?あの人はとかく女性が好きなものですから」


「手は出されていませんけどいつもラハムの体をねっとりと見ていますよ、お可愛いものです」


(うぬぅっ!!バレていたっ……)


 まあ女性同士が仲良くしているから良しとしよう。共に乗船した女性がいがみ合うとそれだけで全体の士気に関わる。原因は私なんだが。

 甲板で親睦を深めている二人と別れて船内へ向かう、積み込んだ新型エンジンのチェックをするためだ。


「…………」


「──ん?何だ、私が恋しいのか?」


 離れる間際、ラハムが私のことをじっと見ているような気がしたのでそう声をかけてやった。ラハムはべっと舌を突き出しただけである。


(意味が分からん)


 今度こそ二人と別れて船内へ向かった。



「……………」



「え、エンジンのちょ、調子は良好ですよ、ぐ、グレムリン様……」


(……こやつっ!!)


 くっくと笑いを堪えながら技術府の者が答えた。こいつも減給。

 私の目の前には横たわった強襲揚陸装置がある。今回の為に超大型に改装した特別仕様だ、その中には計一四基のエンジンが格納されている。

 計画は至って簡単。石油プラットフォームに持ち込み装置を打ち上げ、宇宙空間でエンジンをパージしそこで遠隔起動を行なう。後は実際に発生する振動を計測しそれをフィードバックしてさらなる改良の足しにするのだ。

 うむ、言うのは簡単だ。私をくつくつと笑っていた部下も計画の先行きを思い眉を曇らせている。


「本当に上手くいくんですかね。そもそもここが筒の中だという話すら信じ難いのに」


「概ね事実だ、お前さんもマキナをその目で見てきたんだろう?奴らの目的はこの筒の中で人類を繁栄させることにある」


「そして外の世界はボロボロで私たち人類を閉じ込めていると……」


「そうなるな」


「穴を開けて大丈夫なんですか?」


「ちょっとぐらいなら大丈夫だろう」


 船は順調に石油プラットフォームへと進んでいる。この辺りは本当に何も無い絶海だ、このまま進んでいけばウルフラグの首都であるビレッジコアへ行けるはずだが...


(はて、今日まで実際に渡った者はいるのだろうか?いやいまい、長年ウルフラグとは戦争状態にあったから誰も行こうとすら考えなかったはずだ。──本当にこの世界は良く出来ている、筒の中だと我々に悟られない為に長年の戦争があったのだろうな)


 このまま突き進めばそこは筒の内側、検討もつかぬ程巨大な壁が待ち受けているはずだ。

 少しだけ興味をそそられたが目的地である石油プラットフォームが見えてきた。


「あそこが廃棄されてもう何年になるんですかね」


「さあな、少なくとも私の曾祖父さんぐらいだろう」


「そんな所で打ち上げ試験をしても大丈夫なんですか?作業の途中で瓦解したりしないですかね」


「一度ぐらいなら大丈夫だろう」


「グレムリン様、少しは安全面にも配慮してください。怪我を負うのはいつだって現場の人間なのですよ?」


「問題なし!異常なし!」


「全く……研究を前にすると周りが見えなくなるのはグレムリン様の悪い癖ですよ」


 近づき始めた石油プラットフォームは計四つの構造物を有している。コラムと呼ばれるバラストタンクを有する柱によって浮上し、ブレースというでっかい補強材で固定されている。確か、流されないよう錨用ワイヤーを海底に落としているはずだ。

 そのコラムもブレースも錆だらけ、遠目に見てもぼろぼろになっているのが見て取れる、確かに部下が心配するのも無理はなかった。

 きっと昔は大勢の人間がここで暮らし、いつ枯渇するか分からない海底資源を掘削して得ていたのだろう。その大型の掘削機を支える塔もすっかり錆びれ、力無くただ佇んでいるだけであった。

 さて、そんな寂れてしまった場所を私たちが賑やかにしてやる。今日はきっととんでもない日になるに違いない。女を抱く時とはまた違う興奮が湧き起こり、そしてすぐさま賢者タイムに突入してしまった。

 別の部下が船長室に入ってきた。


「グレムリン様!エンジンステータスを管理するシステムがハッキングを受けています!」


「──何い〜〜〜?!」


 え、またこれ?どうして私はこう直前になると邪魔が入るのだ。

 寸止め嫌い!



✳︎



 どうやらカウネナナイは本気で軍艦を空に飛ばすらしい。随時送られてくる開発中のエンジンの仕様を眺めながらどこにそんな技術力があるのかと訝しんだ。


(いや、これはきっと技術力ではなくて…情熱。そう、情熱を感じるわ)


 壁に貼ったポスターをちらりと見やる、私が最も愛した船長が乗る潜水艦が「お前はどうなんだ?」と問いかけてきているような気がした。


「ジュディ、それってもしかして例のやつ?」


「ああ、うん……」


 ブライだ。以前、ジュヴキャッチに加担したとして検察官と係争中だったが、セントエルモ・コクアが誕生したと同時に幇助罪に関する法律が一部見直され、ブライたちのように"半被害者"でもあった人たちの釈放が決まったのである。そして、彼女は私の家に入り浸るようになっていた。

 行く当てが無いとか何とかいつも言っているけど、私に対する好意が見え見えだった。こっちとしても断るに断れず、ずるずると関係が続いている。


(初めて会った時がまるで嘘のよう)


「──それにしてもこのエンジンは良く出来ているわね、燃焼室の配置といいタービンのバランスといい、極限まで効率化されているのが分かるわ」


 しかして彼女は優良なエンジニア、何なら私より腕が上。

 ずるずる、ずるずる、ずるずる、ずるずる。ライラがあんな事になっているのに私はこんな恋人ごっこをして良いのだろうか。


「でも、これでよしんば軍艦を飛ばせたとしても飛ぶだけよね?」


 ブライの方が歳上である、でも彼女が「タメ口で良い」と言うものだから無理して喋っていた。だが、やはりこうしてプライベートでも仕事の話を遠慮なく出来る相手というものは貴重で、その貴重さを手放したくないが故に自分を曲げて接していた。うん、ストレス。


「そうね、仮に主翼を付けて揚力を得られたとしても直進運動が限界だわ。特個体のように静運動が取れないのなら実用的な運用は不可能でしょう」


「進み続けるしかない船って確かに無能ね」


「それからエンジンの振動だってこれだけ高出力なら馬鹿にならないわ、下手をすればその振動だけで船自体が瓦解しかねない。カウネナナイは一体どうやってこの問題を解決するつもりなのかしら」


「添加剤とか?」


「有機モリブデン?それって摩擦を軽減させるための膜を貼る程度でしょう?それで果たして持つかどうか…」


「一番の振動は何かしら、そこさえ解消されれば……」と言いつつ、ラハムから送られてくるデータを細かく調べる。

 この極秘データが送られてきたのはちょうどブライと合流したあたり、つい話し相手が欲しくてカウネナナイが開発している新型エンジンを打ち明けると物の見事に釣れてしまった。そして今に至る。

 

(あいつも向こうで何やってんのよ、これバレたら洒落にならないでしょうに)


 いや有り難いんだけどね?

 一緒に画面を見ていたブライがずずいと顔を近づけてきた。キツそうな目は変わらずだ、でも意外と甘えん坊だと知ったので昔ほどキツい印象はなかった。


「──軸受の強制振動がやはり一番の課題なのね…タービンによる自由振動も回転数が上がればその分増加していく…一般的なジェットエンジンとあまり違いはなさそうだわ」


「きっとジェットエンジンをそのまま巨大化したんだろうね」


 エンジニアトークの真っ最中に突然ブライがあらぬ話題を持ち出してきた。


「……このラハムというマキナとは仲が良いの?」


「え?な、何?突然…」


「いえ、私はあなたのことをまだ何も知らないから」


「ま、まあ…ふ、普通かな〜」


 ウェットな質問にどう答えれば良いのか分からず言葉を濁した。


「そう……ちょっとだけ悔しいわね、私の知らない時間をこのマキナは知っているんですもの」


 ああもう好意が凄い!直球!


「いやあの…」


「ごめん、迷惑だった?」


「う、うん…そういう事言われてもどうすれば良いのか分かんないし…」


「気を付けるわ」


「で、でも、迷惑ってほどでも…」


「どっちなの?」


 ブライが照れ臭そうに笑ってこの話は一旦打ち切りになった。



ジュディス:助けて


クラン:どうかしたんですか?


ジュディス:歳上女性のかわし方について


クラン:自虐風自慢?


ジュディス:そんなんじゃない、マジで困ってる、毎日来るんだけど


クラン:あの先輩についに恋人が…


ジュディス:素直にもう来るのやめてって言った方が良い?


クラン:それを私に聞きますか?言い寄られたことがない私に聞きますか?


ジュディス:ごめん


クラン:その素直さが逆に切羽詰まってる感出てますね。ライラさんのお見舞いの時に聞けばいいじゃないですか


ジュディス:それもそうね。ところで次いつ行く?


クラン:なう


ジュディス:は?


クラン:ライラさんなう、今うさぎリンゴ食べてるなう


ジュディス:誘えよ!


クラン:いや私その人の連絡先知らないので無理です


ジュディス:私だわ!


 ほんとこいつ。

 クランのように気兼ねなく話ができるんならいくらか気が楽なんだろうけど、果たしてそれを恋人と言えるのかは私にも分からない。

 今から外出すると伝えると、当然のように行き先を訊かれてしまった。


「ちょっとその、入院している後輩の所に…場所は身内だけにしてくれって言われてるから、ごめんちょっと言えない」


「そう…分かったわ」


 少し寂しそうに眉を曇らせている、途端に申し訳なさが募ってくるが今さらだった。


(ほんと何で私なの?!マジでどうすれば良いのか分からないんだけど!)


 手荷物をまとめて先に彼女が玄関口へ向かい、最後にくるりと振り返ってきた。


「ねえジュディ、私ってもしかして迷惑?」


「──っ」


 心を見透かされたような気がしてすぐに返事を返せない、思わず口籠った。


「迷惑だったらもう来ないわ、私だってそれは本意じゃないもの」


「…………」


 ごくりと唾を飲む。


「な、何で…私なの?」


 意を決して尋ねたつもりだったのに、あまり要領を得ない答えが返ってきた。


「どうしてでしょうね、私も自分自身に困惑しているわ」


「……………」


 そしてブライと別れてライラが入院している病院へ向かった。

 私が到着した頃にはうさぎリンゴパーティーも終わっており、サイドテーブルに水々しいお皿だけが残されていた。


「先輩はその人が苦手なんですか?」


「おい」


「え、何で怒られるんですか、先に話を通しておいたのに」


 まだ何も言っていないのに入室そうそうライラに尋ねられてしまった。

 というかライラもライラで自分の状況を忘れてそんな事訊く?普通訊く?こいつもまあ逞しいもので、気分によってころころアイマスクを替えていた。今日はカモメがプリントされた涼やかなイメージがあるアイマスクをしている。本人曰く「今は目が見えないから肌触りだけで選んでいる」らしい。


「いいよクランちゃん、どうせ先輩の事だから言うか言うまいか悩んで結局何も言わず家に帰ってまた一人で悶々と悩むんだからどうせ」


「それは確かに」


「グッジョブ」とライラが親指を立てた。


(こいつほんと凄い。声だけで位置をぴたりと当ててる)


 クランが少し照れ臭そうにしながら親指を立ててライラの手にこつんと当てた。


「ところでさ、前に頼んでおいたワイヤレスイヤホン買ってきてくれた?」


「ああ…それがまだなんですよね、なかなか人気のモデルっぽくてどこのお店も品切れで─「─ちょっと!私の話は?!聞いてくれないの?!」


 ──しまったと思った時にはもう遅い、二人してニヤニヤ笑い出した。


「もう良い!帰る!」


「も〜先輩、拗ねたら駄目ですよ。マジで子供に見えますから「うっせえわ!」


「あ〜なるほどね〜前に先輩が腑抜けになったってこういう事か〜」


「ね?ただの小動物でしょ?私は先輩にライオンの皮を被ったリスを期待しているのにこれではつまらないですよ」


 またいつもの調子のクランの頭を叩くなり何なりして気を落ち着かせ、私も丸椅子に腰を下ろすと本題に──いや本題ってわけでもないんだけど再びライラが同じ質問をしてきた。


「で、先輩はその人のことが嫌いなんですか?」


「う〜ん…嫌いって言うより…」


「そこ、大事なトコロですよ。自分がその人をどう思うのか、先輩がはっきりさせないと」


「う、う〜ん……」


「ライラ先輩はやっぱり言い寄られたことって多かったんですか?」


「うん、まあね。全部断ってきたけど」


「やっぱり冴えない人たちばっかりだったからですか?」


「冴えないというより下心が見え見えだったから。自分の想いを伝えるのって勇気が必要な事じゃない?それなのにそこに打算を入れてくる人って臆病か卑怯かのどっちかじゃない」


「あ〜〜〜なるほど、それもそうですね」


「私の話はいいの。そのブライって人はそういう人なんですか?何か打算的というか」


「うう〜ん…分かんない。別れる前にどうして私なんですかって訊いたら私にも分からないって返された。これってどういう意味だと思う?」


「…………」

「…………」


「別れる前にどうして私なんですかっ「いや聞こえてますよ、リピートしなくていいです」


「何よ、だったら何で黙ってたのよ」


「先輩…めっちゃ好かれてますね、その人に」


「はい、私も何となくそうかなと」


「…何でそうなるの?」


「そしてめっちゃ信用されてますね、そんな曖昧な事を平然と言えるだなんて…」


「歳上としてのプライドは無いんでしょうか?」


「無いんじゃない?──いや〜先輩がその人の想いに応えたら私たちを超すラブラブカップルになるかも」


「その計算式は良く分かりませんがそれはそれで面白そうですね。──先輩!応援します!」


「ふざけるの止めてくれない?」


「先輩ってもしかしてただ戸惑ってるだけ?」


 その質問はすぱんと胸に入ってきた。


(う。そう言われたら、そうかもしれない…)


「そ、そうかもしれない。今日まで好意を持たれたことってあんまり無かったから、それも恋人的なやつ…」


「だったらとりあえず同じ時間を過ごしていればいいんじゃないですか?そのうち慣れますよ」


「そんな簡単な話なの?」


「さあ、私も先輩のような状況になったことがないので何とも」


「あんたね…」


 さらにライラに言われた言葉が、どこかなよなよとしていた私の胸をぱしんと叩いた。


「先輩の恋になるかもしれない話ですよ?そんなの答えがあるわけないじゃないですか」


「………っ」


「そのブライって人もきっと先輩と同じ心境かもしれませんし。だ・か・ら、先輩がその人をどう思うのか決めなければいけないんです、決められないなら決まるまで一緒に過ごせばいいんです、それも一つの人間関係ですよ」


「──き、キープ的な?」


「急に俗っぽくなった。──もうそれでいいですよ!それよりクランちゃんのお相手は?」


「待って!マジで待って!クランの王子様の話も気になるけど今は私の話!私の話で!」


「なりふり構わない先輩ってマジで可愛いですね」


「どうして私にはそういう反応してくれないんですか?」


「毒しか吐かない奴にこんな事するか!」



 クランと二人、病室を後にして病院内にある休憩所へ向かった。あまりにお喋りをしていたため喉が渇いてしまったのだ。

 病院、と言っても以前入院していた所と比べて随分と小ぢんまりとしている、診療所と言った方が良いかもしれない。場所はハウィとビレッジ・クックの間、過去の戦争で酷く壊されてしまった町を復興して新しくなった所に今の病院があった。

 休憩所の自動販売機でがここんと二人分の飲み物を買い、海辺が望めるベンチに腰を下ろしてライラの検診を待つことにした。


「ねえ、あんたどう思う?」


 いつもいつもふざけてばかりの生意気な後輩もこの時ばかりは真面目に答えた。


「ライラさん、気丈に振る舞っていますよね」


「やっぱりそういう風に見えた?」


「そういうジュディ先輩もなんでしょ。……あの人は本当に強い人ですよ、周りの手なんか要らないぐらいに」


「そうね……」


「私たちに出来ることって、こうしてお見舞いに来るぐらいなんでしょうか」


「…………」


 季節はすっかり春だ。寒かったあの日々が嘘のように昼間は暖かく、少し体を動かせば汗をかく。

 空にはすみれ色の雲が点々と上り、私たちに夕暮れが迫っていることを教えてくれた。


「──船を作るとか?」


「……はい?」


 内緒の話を思い出した、確かその日は今のようにライラと病院に行っていた時だったと思う。まさかその時の相手が今度は入院するだなんて、本当に人生は何が起こるか分からない。

 長年の間秘めていた夢を、不思議とこいつにも語ってやろうと思った。


「私ね、自分で自分の船を作るのが夢なのよ。海にも潜れて空も飛べて、たった一隻で何処までも行ける船を作ることが、あいつにも話したことがあったのよ」


「──作りましょう」


「え?」


 生意気な後輩のくせにその返事だけはやたらと一丁前で。


「作ってライラさんに見せてあげましょう」


「……そうね、それも良いかもしれない」


「私も手伝いますよ」


「あんたが何の役に立つのよ」


「に、荷運びぐらいなら…」


「何よそれ」


 全く役に立ちそうにない、けれどクランの思いが不思議と嬉しかった。


(あいつの目が治る頃には設計図の一つでも…いや、何なら船の躯体でも見せてやったら驚いてくれるかもしれない。──いいじゃない、情熱……情熱ってこういう事なのかもしれない…)


「──作るか!」


「いやだからさっきからその話を──!」


 クランが窓ガラスの向こうに視線を固定し、バシバシと私の背中を叩いてきた。


「痛い痛い!力加減をっ…」


「先輩!あの人って…確か医師会のメンバーじゃ…」


「え゛?な、何でこんな所に…」


 海辺の前にある駐車場から陸続と車から降りてくるスーツ姿の集団、その先頭に立っているのは確かにここ最近テレビで見かける医師会の長たる人物だった。

 何ら迷うことなく綺麗な石畳みの道を歩き、病院の入り口へと向かっている。


「何でここにいんのよ!」


「ライラさんの事がバレた?!このままだとマズいですよ!」


 二人わちゃわちゃしながら休憩室を後にする。医師会がライラの移植手術に反対していることは皆が知っている、きっと抗議をするためにやって来たのだろうが...


(何でバレたのよ!ライラがここにいるのは私たちしか──)


 まさか、ブライ?彼女が医師会に密告した?確かに私は彼女に病院に行くと告げた...跡を付けられていたとか?彼女が私に接触してきたのもこれが狙いだった?

 全て憶測に過ぎないしその本人もここにはいない。それよりまずはあの医師会のメンバーを何とかしなければならない。


「ど、どうすんですか先輩!ぞろぞろと!ぞろぞろと入ってきましたよ!」


「見りゃ分かる!」


 すんごい圧力。老いも若いも関係なく皆が一様にスーツを着込み、般若の面差しで歩く様は怖い以外のなにものでもない。

 何とか足止めできればと思う、これだけ仰々しくやって来たのだからライラや義眼を作っている人たちだってとっくに気付いているはずだ。

 生意気な後輩の高い背中をバシン!と一つ。


「…あいつらの前で倒れてきなさい!」


「…え!私に演技をしろと?!」


「…あのヨルンさんに比べたらあんな連中でも屁でもないでしょ!ライラの目がかかってるのよ!」


「あ、確かに!」


 廊下の角でこそこそとしていた私とクラン、背後には慌てて駆けて行くナースの姿もあった。

 ここが正念場。何が何でも足止めしなければ。

 意を決したクランがだっと廊下の角から飛び出し、ちょうど邪魔になる位置で蹲った。


(ナイス!あれなら──)


 お腹を押さえてうううと呻き声をクランが上げている、曲がりなりにも医者ならあんな人を放置しないはず──と、思っていた。


「……なっ?!」


 蹲るクランを無視してそのまま通り過ぎていこうとするではないか。まるで川の流れを分断する石のように、誰もがクランの相手をしなかった。

 今度は私が角から飛び出す番だった。


「──ちょっと!!」


「何かね?」


「あんたら……あの子を無視するってどういうつもりなのよ!!それでも医者かっ!!」


 能面のような顔をしている老人だった、感情の起伏がまるで感じられない、けれど胸に飾っているバッジはやたらと輝いていて全体的にアンバランスな印象を受けた。


「診てやりなさい」


 たったのそれだけ。こいつ本当に医者なのか?


「はあ?!あれが本当に患者だったら──「本当に?それはどういう意味かね」


 つい口走ってしまい、能面の顔がぴたりと私に向けられた。


「まさか嘘を吐いた?」


「………っ」


「聞きしに勝る勝ち気なお嬢さんのようだ、マイヤー君が悲しむだけだから今すぐそこを退きなさい」


「…え“?!」と狼狽えたのは別の人に抱え起こされているクランだった。


「………父ですか」


「そうとも、君の父親が居場所を教えてくれたのだ」


 腑が煮え繰り返る。けれどそれをぐっと我慢してなおも言葉を継いだ。


「シルキーの何がいけないと言うんですか?」


「差別が生まれるからだ。シルキーを使って回復した人とそうでない人、そこに差別が生まれる」


「それは何故ですか?」


「私たちでは診られないからね」


「そんなのって──」


 お前たちの勝手だろ!と吠える前にクランが、あのクランが医師会のメンバーに向かって暴言を吐いた。


「既得権益が減少するからでしょう、違いますか?」


「…………」


 矛先がクランへ向けられた。


「シルキーを使った医療が認められたら、あなたたちの病院に来る人が減るかもしれません。いくら医療と言っても客商売、怪我や病気をする人が減ればあなたたちの価値がその分下がってしまいます」


「それ以上の暴言は名誉に関わるよ、それでも良いかね」


「…………」


 病院の入り口側から体格の良いスーツ姿の人が現れた、医師会とは違った別のバッジ、あれは勲章だった。

 さらに──


「……──ジュディス!ジュディス!お前は何てことをっ──」


 私の父だった。自分の娘なのに、まるで信じられないものを見るような目で私のことを見下ろしていた。


「自分が何をやっているのか分かっているのか!!」


「見れば分かるでしょ!!自分の後輩を守ってんのよ!!」


「お前はまたそうやって──シルキーの転用がどれだけ人に悪影響を与えるのか分かりもしないのに!」


「あんたらみたいに権力がなければ喧嘩もできない連中に助けられるぐらいならシルキーの方がよっぽど──」


 文句を最後まで言うことができず、代わりに左の頬に鈍くて重い痛みが走った。殴られたと分かった時には今度は私が床に倒れており、そして誰も助け起こそうとしなかった。

 グーパンだよ、実の娘なのに。


「いい加減にしないかっ!どうしてお前はいつもいつも私たちの言う事を聞かないんだっ!どれだけ手を焼かせたら気が済む?!」


 頭がぐわんぐわんする、父と喧嘩するのはいつものこと、けれど今日はいつにも増してヘヴィーだった。


「これ以上私に恥をかかせるな!!「──マイヤー君、もう良い、お説教は十分なようだ」


 父も母も、いつだって私を理解してくれたことがない。いつだって文句を言われ、いつだって他人と比べられてきた。

 そして今日は──そう、利用されたのだ、私が。後輩を思う気持ちを利用されたのだ、悔しくないはずがない、悲しくないはずがない、だから涙が出てきた。

 そっと誰かが私を起こしてくれる、生意気な後輩だった。

 何事もなかったように私たちの前を通り過ぎていく医師会のメンバー、父すら目を合わさないようにしている最中に声をかけた。


「お父さん」


 久しぶりにそう呼んだような気がする。


「これ、返すわ、二度と使わないから」


 そう言ってポケットに入っていた携帯を投げて寄越した。父が受け取ったかは分からない、投げたそばから視線を外したからだ。


「……思い出はまた作ればいいんですよ、すぐにできますよ」


 こういう時だけ優しくする後輩の言葉が、さらに私の涙腺を緩めた。



✳︎



「……………」


 胸が締め付けられる。ただただ胸が締め付けられた。


「……侯爵様」


「……早急に作業を完了させよ。場所の選定がちと甘過ぎた」


「はい……」


「皆にもよろしく伝えておいてくれ。それと気分が悪くなった者がいたらすぐに報告するようにと厳命しておけ」


 いつもその調子なら...と、部下が小言を残してプラットフォーム内にある石油貯蔵室から出ていった。

 濃い油と潮の香りがない混ぜになって私の鼻腔を刺激する、それらに混じってさらに腐乱臭もあった。...吐き気がするとはまさにこの事、何も長年放置されたプラットフォームの臭いのせいだけではない。


(酷い……)


 もし──もし私たちの間に子が出来ていたら...その時の情勢によってはこの凄惨たる光景の中に混じっていたのかもしれない、そう思うといもしない子を考え胸が締め付けられた。

 きっと孤児(みなしご)だけではあるまい、貴族らしい衣服を纏った遺骨もあった。

 誰がこの惨状を作ったのかは今となっては分からぬこと、願わくば前任のグレムリンではないことを祈るばかりだ。


「すまん、少しばかり騒がしくさせてもらうぞ」


 何を収めているのかもはや分からぬタンクの前に、並べられた子供たちの遺骨に頭を下げ私も後にした。



 時間は夜半時、いくら季節が変わろうと絶海を撫でる風は冷たく、老骨に容赦ない冷気を与えてきた。

 発射準備は整いつつある、四棟のプラットフォームの合間に空いた隙間に工船が入り込み、周囲を取り巻くブレースにワイヤーを取り付け発射時の揺れを固定させている。

 欄干から望む石油プラットフォームは何処も暗く、また生気も感じられない、ここが人で賑わうことはもう永遠にないだろう。

 部下が錆だらけの階段を慌てながら上ってきた、頼りないハンドライトの灯りが上下左右に揺れている。

 部下が近付くにつれて血相が変わっている事に気付いた、どうやらアクシデントらしい。


(研究、実験にアクシデントはつきものだ。いちいち慌てていたらキリが─「グレムリン様!捕らえたラハムが今すぐウルフラグに帰せと発射装置の近くで暴れています!「──何いい〜〜〜っ?!ふざけるなよあのムチムチマキナめ!!」


 何を考えている?!燃料をしこたま積み込んだ発射装置の傍でだと?!ただの脅しではないか!

 息せきを切っている部下をひっぱりまた長い階段を下り、プラットフォームの一階部分に備え付けられた渡り板を駆け抜けた。

 さっき言った通りラハムが暴れていた、誰から奪ったのかアサルトライフルを燃料タンクに突き付けながら叫んでいた。


「ラハムはもう待てません!この発射装置に乗り込んででも今すぐに戻らせていただきます!」


「やめんか馬鹿者!!」


 涙でぐしゃぐしゃになっている顔を私に向けてきた。何故泣いている?


「お爺ちゃん!!後生です!!ラハムをウルフラグに帰してください!!帰してくれたらこの体を好きにして良いですから!!」


「う、うむぅ〜〜〜「悩むんですか?!あのマキナはスパイ行為がバレたから逃げようとしているんですよ?!」


 うん、それはそもそも私が盗んで良いと言ったものだ、エンジン仕様が分かったところでウルフラグのぼんくら共にはどうせ作れまい。

 私が捕らえろと命じたのはラハムが"マキナ"だからだ、最後の最後にマキナ側から何れしかの邪魔が入ると懸念しての対策だった。

 しかし、予想していたものとはかなり様相が異なる、本当に何で泣いているのか分からなかった。


「ラハムよ!何故泣くのだ!そして後生だから銃を下ろしてくれ!」


 さらに意外な返事が返ってきた。


「──ジュディさんです!あの人は確かに乱暴者でラハムにとことん厳しい人ですがあんな酷い扱いを受けて良いはずがありません!ラハムが一発ぶん殴ってきてやります!」


「はあ?ジュディ……」


 何そのお人形みたいな名前。

 脳裏にちらりと何かが引っかかった。


(ジュディ…?──ジュディス・マイヤーのことか?……確かその名前はゴーダ・カズトヨとオクトカーフを製造したエンジニアの……──)──ラハムまさか!新型エンジンのデータを送信していた相手はっ……」


「ジュディさんです!!フリーフォールを通じてジュディさんの悲痛な叫びが──あああ!もうラハムは我慢出来ません!」


「待たんかああっ!!タンクを撃ったらどうなるのかそれぐらいお前さんにもっ──」


 あいつ本当にマキナなのか?!

 銃口をタンクに当ててトリガーを引くかに思われたが、唐突にピタリと動きを止めた。ついで場の空気も。


「……ら、ラハム?」


 一瞬、目の錯覚かと思ったがラハムの体がゆっくりと傾き始め、そしてその場に倒れてしまった。倒れた弾みでトリガーを引きやしないかと肝が冷えるが、場は凍りついたまま静かなものだった。


「な、何なんだ……」


「充電切れ……?変な動きの止め方ですね……」


 そろりそろりと距離を縮める、またぞろ暴れ出したりしないかと皆が不安がっている。そこへレーザーポインタの雨が降ってきた。


「……っ!」


「動くな」


 どのレーザーもぴたりと狙いを付けている、私も例外ではなかった。

 階段、欄干、至る所に銃を構えたパイロットスーツ姿の人間が月光に照らされているのが見えた。そのどれもが小さく、そして幼く見える、決して遠近感が狂っているわけではない。

 警告を発した声も随分幼く──。


「この場にいる全員を拘束する」


 ──"人間兵器"の犠牲になった、子供たちの亡霊が現れたのだ。



 甲板を駆け回る軽やかな足取り、その重たさを感じさせない音はやはり子供であり、襲撃者の中に大人はいないようであった。

 手足に枷をはめられ目隠しもされている、音だけが全ての情報源、耳を防ぐ手段は持ち合わせていないようだ。


(何故殺さない?)


 目的も不明だが、何より襲撃者が着用しているスーツが不可解だった。

 いやパイロットスーツなのは間違いない、不可解なのは全身を駆け巡っていた"線"だ、カウネナナイでもウルフラグでも見たことがない。


(足の外側と内側で線の配色を青から赤に変えているのは──脈か……?そうか、動脈と静脈に分けているのか、つまりあれは対G機能……足だけではなく他の部位も同様であった。では、胸部にクリアパーツが使われているのは何だ?胸と言えばおっぱいいやいや心臓以外に何がある……最重要防護に何故脆いパーツを……)


 パッと見た襲撃者を脳内に描き起こし、微細に検討していく。スーツデザインからその機能性を鑑み一つの解答を得る。

 つまり──


(やはりここは筒の中で間違いない。外に世界があるのだ)


 軽やかな足取りが一つ、私のすぐ傍を通っていた。船内中に散らばって調べものをしているようだ。

 冷たい床が皮膚に張り付きそうだ、このままでは凍傷を起こしてしまう、私は意を決して声をかけた。


「──そこの、すまんが体を起こしてはくれんか?」


「…………」


 はっと息を飲む気配が伝わってくる。どうやら皆が皆、警告を発した者のように冷酷というわけではないらしい。

 もう一度声を──


「聞こえておるか?私だけではなく他の者もせめて座らせて─「─喋ってんじゃないよこの贅沢者!!」


「んんっ?!」


 鋭い蹴りが腹に一発、もうちょっと下だったら危ないところだった。

 子供の蹴りだが侮ることなかれ、なかなか痛い、そしてこの状況が痛み以外のものを私に与えてきたので堪らず声を張り上げた。


「やめんか!変な性癖に目覚めたらどうする!責任を取ってくれるのか?!」


「ひっ……」


 か細い悲鳴を上げてたたたと走り去った、どうやら引かれてしまったらしい。

 しかし、またすぐに新しい人の気配が近付いてきたかと思えば、


「んんんんっ?!」

 

「…………」


 ぐりぐり、ぐりぐり、無言でぐりぐりとしてくるではないか、我がムスコを。


(た、耐えろ!耐えるんだセバスチャン!ここで勃起してしまったら妻に合わせる顔がない!)


 数分、いや永遠、いや数分、背徳的な痛みに股間が支配された後、すっと足が離れた。


「セバスチャン・ダットサン、部下に変な気を起こすのは止めてもらいたい」


(何故私の名前をっ……?!あ、危なかった……)


 頭上から降り注ぐ冷たくも幼い声、やはり襲撃者を指揮している者も子供だった。


「この船の調査はあらかた済んだ、後はあの飛翔体を解体して海に投げ入れるだけ。その前に尋ねたい事がある」


「……ならば、少しぐらいは我々の待遇を良くしてもらいたい。せめて部下たちだけでも起こしてやってくれ」


「それにこちらが従うメリットはあるか?」


「我らに楯突くメリットこそあるかね、テンペスト・シリンダーの外側から来た君よ」


「…………」


 返事はない、代わりに複数の足音がこの場から離れていった。どうやら願いは聞き入れられたようだ。

 そして私も抱え起こされ、欄干に背を預けるような形で座らせてもらえた、これならいくらかマシだ。


「なら、改めて尋ねるが何故こんな事をした?」


「こんな事とは?」


「あの飛翔体だ、あれは明らかなオーバースペック、テンペスト・シリンダーを飛び越えてもなおパワーが余りある。まさか宇宙(そら)へ上げるつもりだったのか?」


「そら?」


「宇宙だ。テンペスト・シリンダーから宇宙空間へ打ち上げるなど前代未聞、だから介入してきたんだよ爺さん」


 お?意外とフレンドリー。


「左様、あれはこの筒を飛び越え宇宙に到達せんがために作った発射装置。しかしてそれも手段の一つに過ぎん」


「どういう意味だ?」


「そこまでは言えん。どうせ解体されて海の藻屑になるのだろうが、何、また作れば良いこと。今度はお主たちに邪魔されぬように入念な準備をすれば良い」


「次は何をすれば良い?また言う事を聞いたらその目的について教えてくれるのか?」


「ムスコを──「何だって?息子?」──ああ、いや……それより、何故私の名前を……」


「ヒルダ・ダットサンが答えた」


「──お主……」


「随分と同情されたよ。ほんと虫唾が走る……」


「……手は出しておらんだろうな」


「へえ……そういう。それもあんた次第だ、で?目的は何だ?」


「妻は何処にいる?──くっ」


 またムスコを踏まれたが今度は反応しなかった。


「答えるのが先だ、もしくは俺たちに願い事を言え」


「妻を解放しろ、彼女は民間人だ、この計画に何ら関係はない」


 見えていなくとも分かる、()()()と笑う雰囲気が伝わってきた。


「ああ、それならもう解放したよ。──この世からな、あまりにうるさかったから」


「…………っ!!」


「こいつっ──」


 全身の筋肉を活性化させて手足にはめられた拘束具を壊してやった、一度きりのオーバードーズ、次はない、だが襲撃者を欺くことができた。

 妻が同情する気持ちは良く分かる、私もついさっきまでそうだった。

 しかし、人を殺めたとなればそれは別。目隠しをかなぐり捨て、今さら銃を構えた襲撃者の鳩尾に握り拳を一発叩き込んだ。


「──ぐっは!」


 襲撃者の足が甲板の床から浮き上がり、そのまま拳を振り抜いた。

 ──何かが来る、分かる、甲板の床を通じてその振動が伝わってくる。


(──この感覚、死んだと思っていたがそうか)


《…………》


 殴り飛ばした襲撃者は口から血を吐き気絶している、それを介抱せずに周りにいた他の者たちが一斉に銃口を向けてきた。

 当たりはすまい。何故かならば──。


「げっ?!何だあれ!」


「う、撃て撃て!」


 激しい水飛沫を上げながら海中から踊り出てきた。昔の面影はまるでない、けれどそれは──ダンタリオンであった。


《お前も随分と変わり果てたようだ》


《…………》


《感謝する》


《…………》


《妻の弔いをせねば…こんな有象無象にヒルダが─《──いいえセバスチャン、彼女は生きています。ただ、今夜が峠でしょう》


 変わり果てたダンタリオンは七色に輝く泥人形のようであった。そんな状態でエモートが作動していることに驚き、話しかけてきたことにも驚き、そしてその内容に愕然とした。


《それはどういう意味……なんだ?》


《病に冒されています》


《そんな……どうして……》


 ──診療所からの手紙...私の下らない行為だけではなかったのか...


(だからヒルダは私の元に来たのか...それだというのに私は一体何を……)


《セバスチャン、人の寿命はどうすることもできません、あなたの振る舞いは彼女にとってきっと正しかったはずです》


 周囲にはまだ襲撃者たちがいる、ただ、突如として現れたダンタリオンを前にたたらを踏んでいるようであった。

 それならば好都合、手近にいた一人をとっ捕まえてヒルダの居場所を吐かせた。


「きょ、居住エリアの……中に……」


 私が胸ぐらを掴んでもダンタリオンから目を離そうとしない、余程怯えているらしい。


「何だ、お前たちはこの機体について何か知っておるのか?」


 薬物投与によって盛り上がったこの筋肉、たとえ訓練を受けた子供とはいえ力比べで勝るのはいとも容易いことだった。

 それでも私ではなくダンタリオンへ釘付けになっている、反応が普通ではない。


「こ、これは……ぜ、全域……」


「何だって?」


「…………」


 ぜんいき?"全域"と言いたかったのか?

 ダンタリオンがにわかに動き出した、ついで泥状になった装甲板に何かが着弾する鈍い音、私が気絶させた指揮者の意識が戻ったようだ。口の端から血を流し、そいつだけは私のことを力強く睨んでいた。


「お前……良くもっ……」


「下らぬ嘘を吐いたお前さんが悪い」


「だからと言って殴り飛ばすことはないだろう!!──もういい、気が変わった」


 気が変わるも何も、初めから私たちを害するつもりで接触してきただろうに。


「これ以上手出しはするな、子供とはいえ容赦せん」


「お前一人に何ができる?」


「子供のお前に何ができる?」


「おい、そこのお前、身分を明かせ」


「は?何を言って─「─ヴァルヴエンド修理班第二課所属の長瀬です」


 全身パイロットスーツ、そしてフルバイザーのヘルメットで顔も分からない、ただ、そのヘルメットに異変が起きたのはすぐに分かった。そのヘルメットの一部が赤く点滅し、合成音声で「多文化保護法に抵触しています」と音声が流れてきた。

 それでも話を続けている。


「出身は第三総合出産センター、緑ヶ丘学園に入学後一級土木施工管理、二級工事施工管理技士の資格を取得、三年前に──」


 ぼん。と、小さな爆発が起こった、淡々と話を続けていたその子供の首で。


「……………」


「残念だ爺さん、これであんたも除外の対象になった。もうこのテンペスト・シリンダーで人生を終えることはできない」


「お前……お前さんは……自分が何をやったのかっ……」


「強制排除のプロセスを辿っただけだ、これもマニュアルにあるんだよ。──射殺しろ」


 私を取り囲んでいた銃が一斉に火を吹いた。それでもダンタリオンが守ってくれるが中にはこちらに突進してくる者が現れた。


「──ダンタリオン!近づけさせるな!」


 人間爆弾の再来だ、悪夢だ、これをこの世の地獄と言わず何と言おうか。

 逃げるしか手立てがない、私が逃げなければここにいる子供たちが皆犠牲になってしまう。


「大丈夫だって、俺も何度か経験があるから」


 その意味不明な言葉を背に受け、船の甲板からほうほうの体で逃げ出した。



 "グレムリン"の名前の由来、それは"機械に悪戯をする妖精、あるいは悪魔"という説がある。

 機械を好み、機械に好まれる。それが"グレムリン"の名を冠する一つの要素なのかもしれない。

 では私はどうだ?合致しているじゃないか、人間工学とロボット工学を愛しこの手で作ると夢見た童心は今なお胸に存在し続けている。

 そこにつけ込まれたのだろう、だからこんな悪夢を見ているのだ、そうに違いない。


《ダンタリオン……ヒルダの居場所は何処だ?》


 返事は無い。

 先程まで私を守ってくれていたダンタリオン、朝露のように消え失せてしまったようだ、甲板から逃げ出しどれだけ走ったのか分からない、その間に何処かへ行ったしまったのか。

 気が付けば私は石油プラットフォームの中で最も高いクレーンの中腹辺りにいた。絶海を駆け回った潮風が容姿なく吹き付け、オーバードーズによって萎縮を開始した筋肉をさらに締め付けていく。もう時間がない、早くヒルダを見つけなければ...

 遠くに望む空の端が薄らと明るんでいる、間もなく夜明けのようだ。


(せめて最後に一言だけでも……)


 あの妻が...あのヒルダが病に冒されていただなんて、もしかしたらダンタリオンが嘘を吐いているのかもしれない──という希望的観測にしがみ続け走り回ったが肝心のヒルダが何処にもいない。

 それにヒルダだけではない、他の者たちもすっかりと消え失せてしまったように思える、先程から人っ子一人見かけない。


「私は……何をしにここへ……」


 錆びついたクレーンの柱から一人の人間が現れた。


「あなた……」


 ──ヒルダだ、鼻頭と頬を真っ赤に染めた愛する妻がそこに立っていた。


「ヒルダ……大丈夫なのか?」


「…………」


 細かく首を振るだけで何も言葉を発しない。


「何故私に黙っていたんだ……そうだと教えてくれていたらどんな手を使ってでもお前を治してやったのに……」


「いいえ、それはなりません。私はあなたの邪魔をしたくなかった、だから黙っていたのです」


「邪魔をしたくないとな?十分しておるではないか、何を今さら……」


 ヒルダがくすくすと笑っている。


「それもそうですね、ええ、本当に可笑しい……最後の一日をあなたと共に過ごしたかった、だからこうして無理やり跡を追いかけて来たのです。どうか浅ましい私をお許しください」


「いいさ、いいさ……いいんだヒルダ……何か望みはあるか?」


 今日まで私を支え続けてくれた妻に対し、私は命を投げ打つつもりで尋ねた。妻はゆっくりと手を上げ、私が逃げて──何から?何から逃げていたのか...とにかくやって来た方角を指差した。

 そこには一隻の船が停泊しており、甲板に筒のような形をした発射装置があった。

 ああ、そうだ、私はあれを打ち上げに来たのだった。


「あれに一緒に乗りましょう、きっと綺麗な空が見られるはずです」


「ああ、いいとも、共に行こう」


 それが望みならば私は何処へでも、果ては天国だろうが地獄だろうが付いて行く。

 妻が私の手を取り優しく引っ張ってくれた、体はもはや言う事を聞かず、自分のものではないように感じられた。


(どうしてこんな事になってしまったのか…そうだ、襲撃者──とは、誰のことだったのか……)


 筋肉を活性化させ、交感神経も一時的に強制活発化させたその副作用で私の頭も体もぼろぼろだった。全ては妻のために、この体を駄目にしてでも守るために隠していた私の最終兵器だった。

 

「ヒルダよ……不審な輩は……誰もおらぬか……」


「あの子たちの事ですか?」


「──なに……?」


 一人の少年がこちらに走ってきた。無感動な目をぴたりと固定し、一心不乱になって足を動かしている。首と腰には不釣り合いなベルトが巻かれていた、そしてその少年が私に抱きついてきた。

 少年が何かを言ったような気がする、やはり無感動な目をこちらに向け唇が小さく動いているのが見えた。

 ──暫くじっとしていたが何も起こらない、ベルトに収められているはずの爆弾も爆発しなかった。


「な、何で……」


 その時になってようやく少年の無感動だった目に色が灯り、何だか焦っているようにも見えた。


「良かったではないか…何を焦る必要がある…?」


 私がそう声をかけてやると少年が答えた。


「グレムリン様のお役に立てない!このままじゃ家族の皆んなが──…………」


 "グレムリン"という名前には"機械に悪戯をする妖精、あるいは悪魔"という意味がある。

 だからこそ、この悪夢が再現されてしまったのだ。私も"グレムリン"だから。情勢やその時の立場によっては私も似たようなモノを作っていたのかもしれない。


(幻覚だ、これは全て幻覚なのだ)


 先程までは冷たい朝焼けが空を染めていたのに、また気が付けばもう昼になっていた。太陽は高く昇り、ジリジリと肌を焦がしてくる。


「ヒルダ…ヒルダは何処だ…何処にいる…?」


 早く私に見せておくれ、色香も無くまた打算も無いあの素直な笑顔を私に見せておくれ。

 蜜月にすら至らぬあの時間が私の全てを変えてくれたのだ。人に興味を示せなかった私にヒルダ、お前が人の良さを教えてくれたのだ。

 幸福だった。あの狭窄視野の実験の先にこんな幸せがあるとは夢にも思わなかった、それを見せてくれたのはヒルダ、お前なんだ。


「あなた、ここにいます」


「ああ、ヒルダ……」


 階段の前に立っていた、そのしなやかで綺麗で男の扱い(私専用)に長けた腕を伸ばし、何度頬擦りをしてもすぐに勃起してしまう美しい手を私に向かって広げていた。


「さあ共に」


「ああ、すぐに行こう」


 あれだけ重たかった体がふわりと軽くなった、いよいよそういう事かと腹を括ったが違ったようだ。

 ラハムだ、それに私を置いて逃げ出した部下もいた、私の体を支えてくれているのだ。

 全てのピントが合ってきた、妻が私と共に発射装置に乗り込もうと誘っているのだ、そして私はそれを打ち上げるためにここまでやって来た。──素晴らしい最後じゃないか、私は死んでしまうがあのオクトカーフを製造したマイヤーにデータは飛んでいる、あのゴーダの目にも入ることだろう。

 何の憂いも無い、何の悔いがあるというのか、最高の幕引きではないか。

 妻と共に発射装置の中に入る、ラハムと一緒に作った私の最高傑作が計一四基、述べ三〇メートル強の高さに詰め込まれるようにして並べられていた。


(もしかしたら妻はこれに嫉妬して……)


 妻が先にタラップを上れと言ってきた、きっと私の体を支えるためだろう、本当にいつでも気が利く良い女である。

 最後の階段を一段ずつ上る。体がなかなか言うことを聞いてくれず苦労したがこれも最後だ、これを上り切れば即席の管理室に到着する。全て後付け、間に合わせのものだから直接手動管理する必要があり、私とラハムが出航前日まで缶詰めになっていた場所でもあった。

 階段を上り切った直後、私はいよいよその場に蹲ってしまった。呼吸をするのも辛く、体を動かすことが途轍もなく億劫に感じていた。


(あともう少し…あともう少し)


 妻が──あの妻が、私に構うことなく取って付けたような扉を開けて中に入っていったではないか。何故...?確かにここからでもロケットブースターに点火は可能だが...そうか、あの襲撃者たちが要らぬ細工をしたせいで手動点火しか使えなかったのか...


(だからヒルダが私の代わりに……?)


 それってどうなんだ?

 ああ、でも...


「あなた……最後の最後まで一緒に……」


「ああ……」


 膝枕をしてもらったら本当にこの世の全てがどうでも良くなってくる。太腿の感触を堪能しているうちに点火シークエンスが始まり、システムエラーの洗い出しに入った。

 全てグリーン、何の問題もなかった、やはり私は天才だ。

 発射装置を重力の軛から解き放つロケットブースターがついに点火した。激しい振動が発射装置全体に広がり、必然的に私たちの体も揺れた。

 ぷるぷる、ぷるぷる、ラハムと比べて慎ましい妻の胸も揺れている、最っ高の眺めだ。

 そこへ邪魔するようにアラート音が鳴った。


「何だ…何か不具合でも…」


「大丈夫ですあなた…」


「そうか…それなら…」


 最後にその胸を一揉み...

 手を伸ばす、ぽよんとした感触が返ってくる、残念なことにもうムスコも起き上がれないようだ。

 背中から強い力を受けた、どうやら全てのロケットブースターが無事に点火し離陸を果たしたようだ。

 目蓋が重たく感じてきた、まだだ、まだこの目で外の世界とやらを焼き付けねば...だが今は少しだけ休もう。

 少しの間目蓋を閉じた。走馬灯のように今日までの思い出が蘇り、そして余韻も残さず過ぎ去っていく。本当にこのまま天国へ行けるのかと自問自答し、妻の為だからと今際の際にも関わらず己の気持ちに蓋をした。

 ロケットブースターの推力が重力加速度を振り切ったようだ。次第に振動が静まり、代わりに誰かがタラップを上ってくる音が耳に届き始めた。

 妻だろうか?目蓋を開けるとそこに誰もいなかった。


「はあ…はあ…はあ…はあ…」


 いや、やっぱり妻だ、けれど様子がどこかおかしい、鉄のように重たい目蓋を目一杯あけて愛するヒルダの顔を見やる。


「お前……何処へ……」


「……良かった、まだ意識が、あるのですね……」


 荒い呼吸を整えている、先程上った時は平然としていたのに。

 それに妻はバックパックを背負っているようだ、そりゃ疲れるはずだ、しかしそれは何だ?


「何を持って……いるんだ……」


「……あなた、お許しを、これしか助ける方法がないのです、よろしいですね」と、妻が震える手で何かを取り出した、それはカートリッジ式の注射器だった。


「何を……」


 問答無用、私の首に注射器をあてがい作動させた。


「……うぬぅっ」


 首からマグマを注入されたような熱さを感じ堪らず呻く。その熱さが全身を駆け巡り、あれだけ重たく感じていた目蓋も体も、そして夢現としていた意識も次第に覚醒していくのが分かった。

 私の最終兵器だ、妻は朽ち行く体にもう一度同じ薬を投与したのだ。


「ご気分はどうですか?」


「どうも何も……どうも何も……」


 意識ははっきりとしている、けれど何故だかこの状況が理解できない。共に天国へ行こうと誘った妻が何故私を生かそうとするのか。


「何故こんな事を……──痛いっ!!」


 妻は目一杯に手を振り上げ、そして私の頬をまたしてもぶった。


「気分を答えていないのにぶつやつがあるか!!」


「どうして自分からこんな物に乗ったのですか!!誰にそうしろと言われたのですか!!」


「お前じゃないか!!最後の時をこの装置で一緒に過ごしましょうと言ったのはお前じゃないか!!」


「私がそんな事をあなたに言うわけがないでしょう!!あれだけ皆さんが必死に止めたというのに!!」


「だからと言って何度もぶたなくて良いだろう!打つなら私の股間を打ちなさい!!」


「まっ──もう、本当にあなたときたら……とにかくこれを背負ってください、よろしいですね」


「何だこれはっ!!──まさかパラシュート……?」


 初めての喧嘩、今日までおしどり夫婦として過ごしてきたこいつと初めて喧嘩をした。

 普段は滅多に見せない剣幕を立てていた妻が、またしても問答無用で背負っていたパラシュートを私の背中に回してきた。

 まさかここから?お前はどうするんだ?


「おい、何故一人分しかない?お前の分はどこにある?」


「ここでお別れですあなた」


「馬鹿なことは言うもんじゃ──」


 ロケットブースターの振動とは比べものにもならない衝撃が装置を襲い、私も妻もその場に倒れてしまった。

 そうだ、ここは発射装置の中だ、重力を振り切ってテンペスト・シリンダーの天井にぶち当たったのだ。

 ここから積み込んだ新型エンジンの一基が起動するようにプログラムされている、二〇〇〇MNの推力で天井に穴を空けるためだ。

 しかし、このままでは妻が──。

 ヒルダの顔に悲壮感も絶望感もなく、あったのは晴れやかな笑顔だった。


「お前まさか……病に冒されていたというのは本当のことだったのか?」


「はい。無理な治療を続けた結果です、私はどうしてもあなたとの子供が欲しかった…どうか意地汚い私をお許しください」


「な──」


「王都の診療所から貰った便りにもう長くはないと、そろそろ旦那様に打ち明けるべきだと綴られていました、でも私は結局何も言えずにここまでやって来てしまいました」


「この大馬鹿者がああっ!!!!」


 新型エンジンが起動した。百の獣を重ね合わせたような低い音が全体を震わせた、今となってはそのタービン音が何より邪魔だった。

 今すぐ地上に戻らねば──だが、妻の頑なにも思える笑顔に揺らぎが生まれることはなかった。


「そんな事を伝えるためにわざわざ乗り込んだというのか?!私の失態だぞ?!お前に一体何の関係が──「私があなたの妻だからです。元より決めていたことです、見窄らしく何の力もなかった私をここまで愛してくださった、だからこの命に変えても必ず恩返しをしようと決めていたのです、それが今なんです」


 百の獣が甲高い雄叫びを上げ、長い長い間私たち人類を閉じ込めていた天井に──穴を穿った。

 果たしてそれが自由の一歩か、衰退の一歩になるのかは今の私には分からぬこと。ただ、分かるのは愛する妻を失いかけようとしている事だ。

 天井を突き破った装置があちらこちらにぶつかりながら、それでもなお上を目指して飛翔していく。その激し過ぎる振動のせいで積み込んだ他の新型エンジンが破壊され、また固定金具が外れて落下していく。外は見えない、およそ検討もつかない技術に包まれた天井裏にいるようである。

 妻が立ち上がった。


「さあ、あなた……」


「嫌だ、私もここに残る、お前がいないこの世になど未練はない。どうせムスコももう勃たんのだ」


「バイアグラがあるでしょう」


「そういう問題じゃない!」


「あの空いた隙間からどうか外へ、このままではどうなるか分かりません」


「ヒルダ!頼むから私の言う事に従ってくれ!」


 ────ああ、ああ......そうか、本当のお前はそうやって...男っぽく口角を上げて笑うのだな...そんな事も知らずに私は...


「嫌ですよ。あなた、女という生き物はとても強情なのです、覚えていてください」


 本当にその通りなのだろう、突入した時はあれだけ激しかったのに、出る時は何の衝撃もなくすんなりと外へ出られた。

 世界の外──テンペスト・シリンダーの外側、一体どんな世界が待ち受けているのかと期待したが何のことはない、我々の世界と同じようにただ空が広がっているだけだった。


「つまらない…こんな所にお前を残して……」


「今ならまだ間に合います」


「ここから落ちろとは、さてはお前も焼けっぱちだな?」


「誰のせいでこんな事になったと思っているのですか!!」


 固定していたエンジンが無くなり、残骸と化した固定金具に捕まり外を見やる。真っ白い、質量を持ったかのような太い煙が海の只中にぽつんと置かれているドーム状の建築物から延びていた。


(本当だ……本当に我々の世界はあの中にあったのだ……)


 私だけ脱出する?そんな馬鹿な事を本当にすると思っているのだろうか我が妻よ。このオーバードーズによって再強化された体があればお前なぞ────


「──なっ」


 とん、と体が宙に浮く。

 全てがスローモーションになって流れていった。





「愛しています。どうかお元気で」





 それだけ聞こえたような気がした、凄まじい風に揉みくちゃになってしまい妻の顔を見ることすらできなかった。

 高い、高い、想像以上に高い。私たちが住む世界は遥か下、本当に助かるのか疑問に思えるほどだ。

 想像を絶する乱気流によって体を弄ばれ、ようやく上空へ体を向けることができた。

 星だ。我が愛する妻がいる発射装置は星だ、どんな星よりも輝いているように見えた。


(待っていろ待っていろヒルダ!!すぐに新しい装置を組んですぐに迎えに行く!!だからその時までどうか──)


 だが...私の決意は粉微塵に砕け散ることとなった。

 何処からか発射された飛翔体が真っ直ぐに、妻がいるのに、まだ生きているのに発射装置に向かって──


「……やめろ」


 過たず、狙い澄ましたかのように、


「やめろ……やめろやめろやめろ、ヒルダが──」


 この星で、この宇宙で一番に輝く星を──撃ち抜いた。


「──ヒルダあああっ!!!!!」


 悲痛な叫びは超高高度の風に流され、誰に届くことなく掻き消されてしまった。

※次回 2022/11/26 20:00更新予定


佳境に入りました、これから一週間単位、話数はまちまちですがアップしていきます。

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