第98話
.一五の夜
それどころではなくなった。
「持てない物は諦めて!支度を整えたらさっさと行くよ!」
「ま、待って──」
それはキシュー・マルレーンという人が館に到着した直後のことだった。友人はいない、カゲリもヒルドもいない、教育ママことナターリアもグガランナさんもいない、いきなり二人っきりの状況でそれは起こった。
「まったく嫌になるわ!この仕事が終われば向こうに帰るつもりでいたのに!」
キシューさんは何というか、色々衝撃的な人だった。まず耳や鼻にピアスを付けているし髪も男性のように短いし言葉使いも悪い。
国王から聞かされていた私たちの母のイメージとかけ離れていた。もしかしたら違う人なのかもしれない。
それよりだ、そんな事よりだ、ついにヴァルキュリアが本腰を上げて本土を攻めてきた。
私が心配するのはただただ友人たちのことばかり。
(マカナ…ナディ…)
私に出来る事は何もない、ただ無事を祈るしかなかった。
予定していた威神教会への訪問も中止、中止にせざるを得ない、何せ王都中が混乱に陥ったからだ。今はキシューさんと身支度を整え逃げる準備をしていた。
「悪いわね!見知ったばかりの相手と一緒に逃げることになって!」
「い、いえ…それはこちらこそ…」
「でもまあ安心して!あんたの事は──まあ、何とかしてあげるから」
「……?」
でも、やっぱり私の母ではないのだろうか、だって肌の色が──。
✳︎
──見知ったばかりの相手?自分が言った言葉なのに嫌気が差した。
(嫌な予感はしていたけど…ねえ、まさか)
館の外は騒々しい、このタイミングで攻撃を仕掛けてきたヴァルキュリアたちのせいである。市内への侵入を防ぐため王都の兵士たちが駆け回り防衛線を構築している、これなら人混みに紛れてこの子を巻くことも可能だ。
(私みたいな無責任な女からようやく離れられたっていうのにね、本当に可哀想な子)
もうこの世にはいない男の事を思い出す。しわがれた手に老齢を思わせない厚い胸板、頭から足先まで震わせる深い声、そして他人の冷たい目に数々の仕打ち。私はいつでも初めての事を思い出すと甘い記憶と苦い記憶を同時に思い出すのだ。
オマケだ、望んで手に入れたものではなかった。
その子が準備を終え、あとはルカナウアの港へ避難するだけという時に一人の兵士が来訪した。
「何かしらね、嫌な感じがするわ」
「…………」
兵士が扉を開けるなり一言。
「ルカナウアの港が落ちた!ここで待機していろ!絶対に表に出るなよ!」
そして乱暴に扉を閉めて去って行く。
冗談ではなかった、こっちとしては─やっぱり─裏切ったミラー兄妹をとっ捕まえるだけで良かったんだ、それなのにこの子と二人っきりで閉じ込められるだなんて冗談ではない、私の正気が保ちそうになかった。
「ど、どうしますか…?」
「どうもしない、国王に直談判して助けてもらうわ、私たちは無関係だもの」
「では、今から城へ?」
「私はそうする、あんたはここにいな」
「…………」
何なのその目は、何故こちらを窺うようにじっと見つめてくるのか。
(腹が立つ。国王に文句を言わないと気が済まないわ)
あいつはそうだと知って私をここへ向かわせたのだ。何様のつもりなの?今さら贖罪でもしろって?自分は王位継承権を得るために何人も殺してきたというのに?
それから『アネラ・リグレット』という名前を持つ女の子を見ることもなくさっさと館を後にした。
◇
(くそっくそっくそっ…気分が悪い…)
王都の兵士たちは大して有能ではなさそうだ。あれだけ警戒し防衛線を構築している割には街そのものは平穏だった、どこにも敵らしい姿が見当たらない。
だから私は昔のように視線を落とし、路傍の石ころを蹴りながら城へ向かった。ここはやはり駄目だ、私を駄目な子供に戻してしまう。
(子供って…私も十分歳を取ったはずなのに)
あの子たちが滞在している館から裏通りを歩き市内へ、そしてさらに裏通りを渡って城へ向かった。小さな頃から物乞いとして過ごしていた人間にしか分からない道だ、家と家の隙間を歩いているようなものである。
表通りには誰もいなかった、平穏さと相まって人がいない街は不気味な感じがした。
五年前まではウルフラグと戦争をしていたんだ、今頃裕福な奴らは地下に潜って下らない遊びに行って興じていることだろう。避難勧告が発令された時に限って物乞いの子供たちがその姿をいっぺんに消す。今はどうかはわからない。
そういう意味ではリゼラ・ゼー・ラインバッハに拾われたことは感謝している。
「止まれ」
下を向き、考え事をしていたせいでその兵士に気がつかなかった。ご立派な民家の庭から私のことを睨め付けていた。
「こんな所で何をしている」
「何って、今から城に向かうの、見て分からない?」
「外出禁止令を出したはずだぞ。その格好は…」
兵士が言いたいのは服装のことではあるまい、この白い肌の事を言っているのだ。
「そ、ウルフラグからやって来たの、悪いけど疑うのは止めてくれない?」
「この状況でか?──身体検査をさせてもらう」
「冗談じゃ──」
それはマズい、肌こそ変えてもらったがコネクト・ギアはきちんとある。それを見られたら──「ま、待ってください!」
「──っ」
あの子だ、館に置いてきたはずのあの子が私の跡を追いかけて来ていた。
「アネラ・ラインバッハといいます、国王から彼女と一緒に城へ来るよう仰せ使っています」
家柄を示すエンブレムを兵士に見せている、それラインバッハの名を口にするということはこの子はもう──。
「………失礼しました。いつ敵が襲ってくるか分かりません、道中お気を付けて」
「ありがとうございます──あ」
私は助けてくれた礼も言わずに歩き出した。
「待って!」
避難勧告が発令された時に裕福な家に拾われるよう命がけて覚えた道をひたすら歩く。決して追いつけないよう、ここで永遠に別れられるように。──けれど。
「……ま、待って──」
それなのにあの子も懸命になって跡を追いかけて来た。振り返るとあの子は細い道に足を取られて転んでいた、みっともなく汚い地面にうつ伏せになって倒れていた。
──根負けした。
「……見かけによらずガッツがあるね」
踵を返してアネラを立ち上がらせる、汚れた服を手で叩いて少しだけ綺麗にしてやった。──ああ、こういう事だったんだと今さらになって気付かされた。けれど、
「あの、あなたは……「あの王様から何を聞かされたのか知らないけど私はあんたの身内じゃないよただ名前が一緒ってなだけ、勘違いしないでだから逃げてたのよ」
一息にそう言ってすぐに後悔するが、この子たちをセレンに置いてきた時点で私はもうとっくに終わっている。
「そ、そうですか…す、すみませんでした…もしかしたら母について何か知っているのかもと思って…」
「何も知らないよ。はい、じゃあ行くよ」
「あ、はい」
この子の手を引くか引くまいか、一瞬だけ悩み、そして激しく嫌気が差した。──自分自身に対して。
✳︎
(人違いか…でも)
違うと言われてしまった、自分は母ではないとキッパリと言われてしまった。
それなら私はかなり迷惑をかけてしまったことになる、そりゃ自分の子供でもないのに母だと思われたら誰だって良い気はしないはずだ。
でも、と思う。
(どうして初対面なのに嫌そうにするんだろう)
この人ともっと接したいと思う、世間話でもいいから言葉を交わしたいと思った。そうすればきっと何か掴めるかもしれない。
だが、私の思いは到着した城の惨状を目の当たりにしてすぐに吹き飛んでしまった。
一面、血の海になっていた。
「これは……」
「どうやらもう侵入されたみたいね、こりゃまた惨い……ほら、あんたはあんなもの見なくていいの」
キシューさんにぐいと手首を掴まれ引っ張られていく。そして辺りの光景が視界に入らないように気遣ってか、私の頭を上から押さえつけてきた。
キシューさんの足を見ながら正門前を通り過ぎる。所々激しい血飛沫によって地面が赤く染まっており、その中に人のものと思しき物が転がっていた。指、手首...
胃が瞬時に不快感を覚え、喉の奥を刺激しながら何かが込み上げてくる。
「うぅっ……」
「さっさと足を動かす!こんな所で立ち止まっても良い事なんか何もない!」
強引過ぎる力にたたらを踏みながら、それでも言われた通り懸命になって足を動かした。
濃い血の臭いの中を通り過ぎ、ようやく城のメインエントランスに入った。まだ血の臭いが続いていた。
「誰かやられた?血の跡が……」
俯いていた顔をそろりと上げ、私もその血の跡を辿った。その先はどうやら謁見の間がある城の中庭へ続いているようだった。
「…た、たぶん謁見の間ではないかと…怪我をした人はそこへ向かったんじゃ…」
「どうして?そんな所に怪我を治療する場所でもあるの?」
「いいえ、きっとガイア・サーバーを…」
「ガイア、ね。事務次官の報告書にもあった言葉だわ、あんがと」
「──え?」
突然、どんとした衝撃が私を襲った。踏ん張れずにその場で倒れてしまった。
「案内ご苦労様、あんたを連れて来て正解だった」
「何を言って…」
「そのガイア何たらも調査対象に入ってたの、それだけ。──じゃ」
キシューさんが何か黒い物を手に持っていた。
✳︎
外の新鮮な空気を吸えば少しはマシになるかと思ったけど、そうでもなかった。
さすがに自分の子を、一度ならず二度も手にかけるのは気分が最悪にサイアクだった。何度胃の中をぶちまけようが手に残る感触が消えてくれない。
セレンの時もそうだった。
(…………)
さっきのあの子──いや、アネラのようにふらつく足取りで謁見の間とやらに向かう。自然な配置に手入れをされた木々の間に人が通った道がある、あちこちに大き過ぎる薬莢が転がっているあたり、ここでも戦闘があったようだ。
進めば進むほど破壊の度合いが増していく、焼かれた木に抉れた地面、市内に配備されているシュピンネという機体も足をもがれた状態で放置されていた。
──それで良いのね?
──はい。あんな汚い子供の面倒まで見られません
あの時もそうだった。歩けるようになったばかりのあの子を私は殴って気絶させ、セレンの衛兵たちに預けたのだ。言っても聞かなかったから、何度駄目だと言っても付いて来ようとしたから、だから短気を起こした私はあの子を──。
「────」
しんと静まり返る森の中、一番汚かったのは自分自身だったと気付かされる。
口元を拭い、ようやくマシになった足取りで謁見の間へ向かう。
さっさと仕事を終わらせよう、カウネナナイは私を苦しめる、誰も私の事を知らないウルフラグの地が自分には合っている。
「………はあ〜〜〜」
謁見の間とやらは昔で言うところの厠小屋のような所だった。開けた梢枝の合間から差し込む光りに照らされた建物がひっそりと佇んでいる、入り口の近くには量産されたらしいシュピンネが複数機あった。破壊された様子はない、つまり乗っていたパイロットは中へ向かったのだ。
森の奥から流れてくる小さな川が途切れることなく建物の中へ、その流れに沿うように私も入る。
どうやら木造建築らしいこの建物には電気の類いが一切なく、明かり取りの窓から差し込む光りが全てのようだ。入り口から続く通路と川は真っ直ぐ伸びて左へかくんと折れている、争った形跡はどこにもないがやはりここにも血の跡があった。
(それからこの壁の真新しい傷は……)
あの王様のものだろうか?
さわさわと擦れる木々と弛まず流れる川のせせらぎしか聞こえないこの場所はとても良い、だが、およそ似つかわしくない血と壁の傷が起こった事実をまざまざと感じさせてくれた。
もうヴァルキュリアは戻れない、何があってもカウネナナイの地を五体満足で踏めることはないだろう。
(リゼラ様…あなたのご息女は立派な大罪人ですよ。それでもまだ玉座を──)
玉座を...?もしあの女がこのタイミングで玉座を奪ったらどうなる...?──そういう事だったの...?だからラインバッハ家と対等だったカルティアンをウルフラグのラウェに逃した...?
揃っているではないか、歴代の王の中でもとくに力があると畏怖されているあのガルディアを、引き摺り下ろせる役目を持った二人が。
角を曲がるとそこはちょっとした休憩場のようになっていた、四角に囲われた所には胡座をかけるように柔らかい布が敷かれ、その辺りを川の流れがさらに囲っていた。
その奥は暖簾で隠されており、薄らと血の跡が続いていた。どうやらここが終着点らしい、建物の構造上ここから先へはどこにも行けないはずである。
「蛇が出るか鬼が出るか……」
暖簾を潜る、すうっと胸が透き通るような匂いに包まれた。
(この先にきっと…ジョン・グリーンが夢見た新天地があるはず…)
私もそこで──母としてやり直せるだろうか?それとも、分不相応にも関わらず抱いてしまったあの頃の恋を実らせた方が良いのだろうか?
最後の角を曲がる。その先には一本の大きな樹が立っており、その傍に白亜の巨人が立っていた。
✳︎
「銃を下ろして」
「…………」
彼女は何も言わない、すらりと背が高く顔色一つ変えない、冷たい印象を与える女性だった。パイロットスーツの色を見るあたり、きっとこの人が"レギンレイヴ"。
そして彼女の傍には黒いロングコートを羽織った人も立っていた。特個体のように頭から突き出た二本のアンテナ、あるべき目はなく代わりに赤く光るモノアイのカメラが顔の中央にある。
その人の手はボロボロだった、何かと戦ってきた後のように。
どくどくと流れ出る温かい血が私のお腹と足を伝って地面に落ちていく、早くカゲリちゃんを手当てしないとマズいのに二人を睨みつける以外にできることがなかった。
ロングコートを羽織った人が一歩だけ前に進み、そして驚くほど深い声を発した。
「退いてくれ、君たちを殺しに来たのではない」
「………だったらどうして撃ったんですか」
「手違いだ」
「──手違いで女の子を殺そうとした人の言う事が聞けると思いますか!あなたたちの方こそここから出て行ってください!」
早く何とかしないと、早く何とかしないとカゲリちゃんまで死んでしまう。
国王陛下に言われるまま戻って来た電森林室には既にあの女性が侵入しており、そして何の警告もなく発砲してきたのだ。
間抜けな私をカゲリちゃんが庇ってくれた。
「──レギンレイヴ、彼女たちの退出の手伝いを」
「はい「──近づかないで!!」
何故だかレギンレイヴが酷く傷付いた顔をしたがすぐに表情を戻していた。
「これ以上近寄ったらこの銃であなたのことを撃つから!」
カゲリちゃんの物だ、私の物じゃない。
──何て私は馬鹿だったんだろうと、目の前で息絶えそうになっている命を見て自分の愚かさに初めて気付かされた。
構えを解いていたレギンレイヴがもう一度銃口を上げ、そして言った。
「貴様に撃てるとでも?あの日もそうやって色んな人に匿われながらようやく生き残れた貴様が私を撃てるとでも?」
「何を言って──」
「手前──いえ、あの日、セレンで起こった戦闘は私が用意した火蓋です」
何を言っているのかすぐには分からなかった。どくどくと感じるのは撃たれてしまったカゲリちゃんのお腹か私の脈か、判別できないほどに混乱していた。
「全てはガルディア様の命でした。ウルフラグに媚びを売り着実に力を蓄えていた実姉を討たんがためカワイの町を滅ぼし、それでもセレンへ逃げ延び生きながらえたリゼラ・ゼー・ラインバッハに終止符を打つためあらぬ嫌疑をかけて戦争を起こすよう敵国へ仕向けました」
「…………」
ぐっとカゲリちゃんのお腹を押さえる、これが良い方法なのか検討もつかないが流れ出る血をどうしても止めたかった。
カゲリちゃんが小さく呻いた、まだ息はある。
「それがセレン戦役の全貌です、そして私は当時のあなた方のお付きとして忍び込んでいました。私だけではありません、名をフラン・フラワーズという、今はヒルドと名乗っている元戦乙女もいました」
「──!」
「元よりあなたもマカナ・ゼー・ラインバッハもその妹もガルディア様の手中にあったのです。──いつでも殺せるように」
「レギンレイヴ、誰がお喋りをしろと言ったんだ」
「司令官、私はあなたの言う通りにしてきました。今ぐらい我が儘を言っても良いでしょう?」
つまらない問答をしている間に...そう思い立ちゆっくりと腰を上げるが即座に撃たれてしまった。弾丸は私の真横を擦り、背後に聳える樹に着弾した。
「何処へなりと行ってください、金輪際近づかないと約束しましょう。──ただし、電森林室という言葉を何処で聞いたのか、答えていただきます」
「…………」
それは──できない相談だった。
「……言えない」
「なら、その女の子が息絶えるのをここで見守りますか?」
「その…女の子?あなたはこの子の事を知っていたんじゃないの?ねえ、リン・ディリン。カゲリちゃん、さっきまであなたの名前をずっと呼んでいたよ、どうしてこんな事をするんだって」
「……っ」
「お願いだからこの子だけでも助けてあげて、私を庇ってくれたんだよ、見過ごせないよ」
「なら、質問に答えてください。──単刀直入に尋ねます、このガイア・サーバーの破壊方法は?物理的なダメージで壊せないことは既に実証済みです、何せさっき撃った跡がもう無くなっているんですから」
「…………」
「何故黙るのですか、答えてくれたらすぐに解放してあげます」
「あんたたちの狙いはこのサーバーってわけね」
突然声がした、それも聞き覚えがあるものだ。
二人が声がした方へ素早く向き直った、その反応は兵士らしいものだが今は悪手だ。
撃った。反動で手が痺れようが肩が外れそうになろうが構わず私はハンドガンを撃ち続けた。
ヒットしたのか分からない、でも私がカゲリちゃんを抱えて走り出してもとくに何もしてこなかった。
そのカゲリちゃんが、
「……──リン様…………」
そう、小さく呟いた。
本当にこの子は主人思いの良い子である。
「早くしな!アイツらヤバいけどあの巨人はもっとヤバい!」
──巨人...?何のこと...?
カゲリちゃんを抱えながら振り返る、レギンレイヴが足を押さえて蹲っている、一人だけだ、あの黒いロングコートを羽織った人がどこにもいない。
私たちに逃げるチャンスを与えてくれたキシューさん、何故ここへやって来たのか、誰に聞いたのか分からないけれど、あともう一人がいなくなった事を教えようと再び前を向くと、
「キシューさん!!」
「──っ!!」
鋼鉄の拳を構えてキシューさんへ殴りかかろうとしていた、とても避けられる距離ではない。
(いつの間に!)
けれど鋭く放たれた拳はキシューさんを捉えることができず、代わりに別の誰かを捉えて数メートル以上転がせていた。
キシューさんが背後から突き飛ばされたのだ、そして突き飛ばした人が代わりに殴られていた。
キシューさんは突然の事でも取り乱さず、つんのめりながら手にしていた拳銃をその人に向かって発砲し距離を取っている。殴られてしまった人は柔らかい草の上でぴくりともしない。
キシューさんが叫んだ。
「アネラっ!!」
「────え」
「アネラ、アネラ、アネラっ!!」
本当に、ぴくりともしない、名前を呼ばれても指一つ動かさない。
「何であんたがこんな所にっ──立って!立ちなさい!」
「……アネラ……アネラ?」
ぐわんぐわんした、もう意味が分からない、何なんだここは、早く離れたい。
こんな事ならグガランナさんに何も聞くんじゃなかった。
──ああ、いた、いたよ、巨人が。キシューさんの言ったことは本当だった。
白くて全身のっぺりとした巨人が微動だにしなくなったアネラを見下ろしている。顔のパーツもまるでないのに悲しそうにしているのが何となく分かる、そんな巨人だった。
直感した、何故だか直感した、連れて行かれると思った。私の大事な友人があの巨人に盗られると瞬時に理解した、だから私はまた銃を撃った。
「──アネラから離れて!」
しかし、何故だかキシューさんが慌て出した。
「違う!違う!私はこんな目に遭わせたくて引き離したんじゃない!──何で私みたいな屑を助けたの!あなたたちを捨てたのに!」
ついさっきは取り乱さなかったのに今のキシューさんはもう誰のことも目に映っていない、私も、すぐ近くにいる白い巨人もロングコートの人にも視線をくれず一心不乱になってアネラを揺さぶっていた。
...死ぬの?アネラまで死んじゃうの...?ここは戦場だ、命を奪おうとしている私たちの敵がいる。誰がいつ唐突に終わっても不思議ではない、私はそれをさっき学んだ。
それにしたってあんまりじゃない?どうしてアネラとカゲリちゃんがこんな目に遭わなければいけないの?
(あなたたちを捨てたって…それってつまり…)
アネラを殴り飛ばしたロングコートの人がキシューさんの背後に立った。
「頭を動かすな、後遺症が残る」
「──誰のせいでこんなことになったと、」
キシューさんの罵倒を遮りこう言った。
「カルティアンの娘、答えろ。見殺しにしたくなければこのサーバーの止め方を包み隠さず話せ」
「この屑がっ!私より酷い屑がいるなんて知らなかったよ!「─何とでも言え!!俺はヴァルキュリアたちを救う為なら何だってすると決めたんだ!──言え!カルティアン!」
あの白い巨人が見えないのだろうか...?身の丈四メートルはある巨人の白い手がロングコートの人に伸びている。
「……知りません、ここが電森林室と呼ばれている以外何も……」
「誰から聞いた!その名はガルディアも口にしていなかったぞ!」
「……グガランナ・ガイア、という人です」
「そいつは標本化にも加担しているのか?」
「……標本化……?」
「お前が今し方撃ったレギンレイヴはいずれ処分される、そして処分された後は研究用として標本化されて保存されるのがヴァルキュリアの習わしなんだ!」
「……嘘」
「その鍵がここにある!だから俺はここを攻めた!こんな残酷なループを断ち切るために国を離れて今日まで機会を伺い続けてきた!ガングニールのオリジナルを使って調べ続けてきんだ!だが!このサーバーの事だけは何も分からなかったんだ!──時間がない!教えろ!」
人の話を──
「だからと言って大勢の人に迷惑をかけたんですか?!カゲリちゃんやその部下の女の子を殺したっていうんですか?!」
「あいつらを殺すぐらいなら!有象無象の輩が生き延びてあいつらが死ぬぐらいなら!──俺には無理だったよ、屑のろくでなしだが慕ってくれた女の子を見殺しにするほど腐っちゃいない」
「…………」
「だから国を敵に回した。……カルティアン、お前もその胸に抱く子を守りたいなら戦って勝て、この世の中はいつだってそうやって守られてきたんだ」
「…あなたが負けたらヴァルキュリアは…マカナはどうなるんですか?」
「死ぬ、だから戦いを起こした。お前が負けたらその子が死ぬ。……どうする?」
──良く、理解した。何故、レギンレイヴがカゲリちゃんやその部下の女の子を躊躇いなく撃てたのか。何故人が争いを起こすのか、何故さっきの私は躊躇することなく発砲できたのか。
皆んな、命がかかっているからなんだ。そしてその命は決して交わらない、どちらかが生き残ってどちらかが死んでしまう、だからこうして敵対して自分にとって大切な人たちを守ろうと必死になる。
必死。その必死さはこの人からも伝わってくる。
でも、私は元よりそんな世界に興味が無かった。
(誰かを蹴落とさなければ一番になれない、幸せになれない、生きることすらできない世界)
そんな世界、無くなってしまえば良いのにと心の底から思った。
「──何っ?!」
そう思ったからなのか、それともただの偶然か、広がるガイア・サーバーの梢枝のさらに上にある空が割れ始めた。中央に綺麗な線が一本入り、そこを中心にしてさらに広がりを見せ始めた。
「何だこれは…空の中に…空?」
ロングコートの人が呟いたように、割れた空の先にはまた空があって...そして一機の特個体が銃を大地に向けて構えていた。
その機体は初めて見るものだった。カウネナナイが使用している特個体と同じベースに見えるが、頭部には冠を表してるアンテナがありおよそ実用的には見えないがマントも装着していた。
空からスピーカー越しの声が落ちてくる。
[お前たちに勝ち目も逃げ場もない。ここで頭を垂れるというのならお前たちの命だけで幕を引かせてやる]
「ガルディア……」
「あれはまさか、国王の専用機……?」
[決して開かれることがなかったガイア・サーバーに虫が入ってしまった、末代までの恥だよ、お前たちは]
どうやらここはドーム型の部屋だったようで、割れてしまった空と本来の空の模様がほぼ完璧に瓜二つだった。
これもガイア・サーバーが持つ技術力なのかもしれない。
[オーディン──いや、元ウルフラグ海軍所属の男よ、ドゥクスの紹介だからと貴様を国内に招き入れたのがそもそもの失敗だった。その失敗をここで帳消しにさせてもらう]
「──やれるものなら。俺に遅れを取って瀕死になったお前に何ができる」
[このクソ野郎めが、貴様のお陰で俺はもう女も抱けない体になってしまった。この機体そのものが俺にとっての延命装置だ]
「良かったじゃないか、女の怖さを知らずに右手と愛せるんだから」
[死ぬ恐怖も知らないお気楽野郎に負けるかよ]
「死ぬ以上の恐怖を知らないガキが生言うな」
国王陛下が搭乗した機体が滑らかに降りてくる、その間オーディンと呼ばれた人は微動だにせず、逃げるどころかまた私に話しかけてきた。
「カルティアン、お前はどっちの味方をする?」
「──私は……」
「この世界を支配するマキナか?それともガイア・サーバーを独り占めするあの王か?それともたった五人の命を救うために罪人になった俺か?」
「私は………」
キシューさんがいなくなっている、アネラもいない、きっと隙を見て逃げ出したんだ。
気が付くと胸に抱いていたはずのカゲリちゃんもいなくなっていた、血の跡が電森林室の奥へと続いている、私が撃ったレギンレイヴがいる方向だ。
「お前が決めろ、誰と敵対して誰を味方にするのか。庇った相手に裏切られることも傷付けた相手に助けてもらえることもある、それが戦場だ」
「あなたは何の為に……マカナたちに裏切られるかもしれないのにまだ続けようとするんですか?」
「するさ、俺が自分で決めた事だからだ」
「…………」
それが本当に、本当に本当に良く分からない。学校に通っていた時も分からなかった、社会に出て働いても分からなかった。
"自分で選ぶ"という事の意味が、"自分ならこうする"という選択が、"自分はこうしたい"という願望が、私にはなかった。
こんな状況だけど、こんな状況を作った張本人なのに、アネラを殴り飛ばした人なのに──私はこの人の選択を不覚にも"羨ましい"と思った。
巨人がいなくなっている、何処かへ行ったのか隠れているのか。
代わりに純白に輝く巨人が空を飛翔してきた。
✳︎
[これが最後だスルーズ、空にいる機体を堕とせ]と、私たちの司令官が言う。
[今回の侵攻作戦が見切り発車だったのは認める、お陰でレギンレイヴも負傷した。だが、やはりこれしかなかったんだ、被害を受けていたプロイの人間たちも俺たちが軍を引き付けている間に逃れられたはずだ]
司令官の言う通りなのだろう、どのみちルヘイ軍との戦闘で疲弊していた私たちは打って出るしかなかった。ガングニール・オリジナルで出撃して注意を引いて、その隙にルカナウア・カイの近海まで接近して...いかにもゲリラらしい場当たり的な作戦だった。
王城の中庭の一角にドーム型の建物があった、今まで何度か付近を飛行したことはあったがあんな物は初めてである。おそらくフロック機にも搭載されている光学迷彩を使っているのだろう。
「私も逃げてきたばかりなんですが!──時間は残っていません!もう間もなくカイの部隊がこっちに合流してくるはずです!」
そのドーム型の建物の上空には初めて見る機体が滞空しており、ただの飾りにしか見えないマントを翻しながらこちらに向き直った。
パイロットは国王陛下だった。
[リゼラの娘マカナよ、すぐに退け]
「…………」
返事はしない。黙ってライフルの照準を合わせる。
[ここを破壊することがどういう事なのか、お前たちは何も知らないからこんな蛮行を犯せるんだ。退け、退かぬならお前の妹共々容赦はしない]
「──っ」
国王陛下が搭乗する特個体はもう目前だ、射程圏内に十分入っているがトリガーを引けなかった。
[ガルディア、お前まさかっ──]
[ラウェにある学校へ通っているそうじゃないか、姉と違って実に健全で実に堅実な道を歩んでいる。──だが、所詮は政争の道具だ、お前が死ねば次は妹の番になる、だから容赦しないと言った]
「……お好きに……お好きにどうぞ」
一瞬だけ─いいや本当はあの子の温もりも思い出したけど─脳裏に過ぎり、そしてすぐに消し去った。
あの子はきっと私を嫌っている、だから平気──。
[母親共々揃って屑だな。さすがはあのリゼラの娘だ、目的達成の為に家族の死を厭わないなんて気が狂っている]
「──馬鹿にしないでっ!!」
ライフルをしまい、近接武器に持ち構えて突進を選んだ。たとえ堕とせなくてもドームの上空から弾き飛ばせるはず──そう睨んでのことだったが国王陛下の機体はびくともしなかった。
「なっ?!」
[守りに徹したこの機体を舐めるなっ!]
ホバリングしているのに元の位置から微動だにしていない、一体どんな重量をしているのか。
無様に頭を晒してしまった私は直後、問答無用で頭部からの打撃をもらってしまい地に堕とされていた。高さは百メートルもない、機体を立て直す暇もなく、けれど初めからこれが狙いで──。
[スルーズ!退避は済んでいる!そのまま機体でその樹をへし折れ!!]
[しまっ──]
スピーカーから国王陛下の声が流れてくる、その時にはもう私はドームの中にあった森に軟着陸を済ませており、特個体の胸部ほどの高さがある樹に手をかけていた。
ここさえ破壊すれば私たちの目的は達成する、そうなれば危険な任務に就いている皆んなを解放させてあげることができる。
怪我をしたというレギンレイヴのことも心配だ、ガングニール・オリジナルの護衛をしているヨトゥルも、単機でルカナウアの港に向かったフロックも心配だった。
これが終われば私たちは一連托生の身、これから先ずっとこの四人だけで──四人だけで生涯を共にすることになるだろう。
四人だけ。
「ヒルドおおっ!!あなたは何処に行ったのよおおっ!!」
記憶消去も無くなった、体の調整も無くなった、お陰で忘れていた記憶が手元に戻ってきた。
ヒルドだけじゃない、私は色んな人を忘れてきた、きっと優しくしてもらったことがあるだろうにその恩すらも忘れてきた。
その理不尽な怒りとやるせない自分の無力さを力に替えてこれでもかとレバーを倒した。手にかけた樹が裂けていく、だが、見たこともないスピードで回復していくではないか。
(何よこれっ!これじゃ終わらないじゃない!)
裂けた幹から次々と新芽が顔を覗かせ、早送りをしたかのようにツタをあちこちへ延ばしていく。その内の一本が私の機体にも絡み付き、外装板の隙間に入り込み、そしてコクピットにまで延びてきた。
取り込まれる、このままではこのおかしな樹に私まで取り込まれてしまう。背中に冷たい汗が流れるがそれでもレバーを握る手を緩めなかった。
これさえ破壊すれば皆んな──その時だった。
[………ーズ……ルーズ……]
(声?!誰の?!)
[スルーズ、スルーズ]
「────」
[スルーズ、私です、リアナ・コールダーです。この声が聞こえていますか?きっと届かないことでしょう、それでも私はあなたにメッセージを届けたくて残しました。あなたの話は全て教えてもらいました、何て悲しいことなのか、記憶を消されてしまうと聞いた時には涙が止まりませんでした]
「あ……あぁ……」
ピアスだ──この人から私は──。
[スルーズ、あなたがどうしてそんな辛い立場になっているのか私には分かりませんが……あなたの帰りを待っています、また一緒にお喋りをしましょう。私たちの間に新しい子供が出来たと喜んだあの日のことを今でもはっきりと覚えています。あなたがたとえ私たちを覚えていなくても、私たちはあなたがひたむきで、お洒落も知らなくて、けれど娘に負けないぐらい綺麗な女の子だと知っていますから。このメッセージがあなたに届くと信じて──]
そこで音声は途切れていた。
(リアナ……さん、それに……カイルさん……)
私を覚えている、私は忘れていたというのに。だが、けれど、その事実がはっきりと私の中にある何かを変えてしまった。変えてしまったからもうレバーを握り直すことができなかった。
もしかしたら、私たちを受け入れてくれる人たちがいるのかもしれない、もしかしたら司令官もこれからずっと。
樹の裂け目に生まれた新芽がついには新しい樹となって天へ伸びようとしていた。コクピットの中は侵入してきたツタから葉が生り、顔や体に柔らかい感触が当たっていた。機体も動かない、レバーだって握っても反応が返ってこなかった。
出られない、このままではコクピットの外に出ることができない、それでも侵入してくるツタの数が増えてついには──。
「──……止まった……?どうして……」
あれだけ旺盛に繁殖していたツタが途端に元気を失くしている。お陰で侵食は止まったがどのみちコクピットは開けそうにない。
外は一体どうなっているか、ここからでは分からない。
「──っ!」
突然、コクピットを封鎖しているボルトが外れてしまった、それでもツタが邪魔をして完全に開かなかった。
「スルーズ!スルーズ!!」
「……司令官?」
ほんの少しだけ空いた隙間から司令官の手が入り、そして力任せに開こうとした。
「今…助けるから…そこで待っていろおおおっ!!!!」
ぶちぶちと何かが切れる音と共にコクピットが徐々に開いていく、広がる隙間から外の光りが差し込み自分の体に起こっていた変化を目の当たりにすることとなった。
「……何よ、これ……」
ツタだ、ツタがパイロットスーツを破って私まで取り込もうとしていた。恐怖心に駆られながらそのツタを引き抜き、体のあちこちに小さな痛みが走った。
得体の知れない植物から、自分が今し方まで座っていたパイロットシートから逃げるように慌てて立ち上がり、勢い余ってつんのめってしまった。
司令官の硬い体が私を受け止めた。
「……ブ……じカ……」
「司令官……司令官……」
体のあちこちがショートしている、火花が散り、義体も樹のように裂け束になった擬似繊維が剥き出しになっていた。
それにコクピットもひん曲がっている、きっと司令官は自分の事も厭わず無理して私を助け出してくれたのだ。
「結局……コノ様だ……オレは、一人ノ女を助けルのがやっとダ……」
「…………」
不思議と周囲が静かだった、私を叩き落とした機体ももう居なくなっている。
何故?
「………なら、今度は私が司令官を助けます」
「女ニ…助ケられるだなんて…情けナイにも程ガあるな……」
「だからあなたは結局女性から見放されるんですよ。知ってましたか?強がる相手より甘えてくれる相手の方が付き合いやすいんです」
「──フッ……そうか、そんナ簡単な……」
司令官が力なく項垂れた、きっと死んじゃいない。
それよりもだ、あの大きな煙は何?あんなもの私がカイの部隊を振り切ってやって来た時にはなかったはずだ。
方角は北西、ヘイムスクリングラが停泊している海域よりさらに奥、そこから一本の白い煙が天に向かって大きく、大きく延びていた。
まるでミサイルを数百、いや、数千体まとめて撃ったように白く太く、そして長い煙は雲を突き破り...
「………え?」
月を穿っていた。
「──まさか……」
日中に望む月は白くて薄い、そこに大きな穴が空いており黒い世界が垣間見えている。さらにその穴から不気味な亀裂が東西南北に走り──。
「まさかここも……」
私が生まれ育った世界そのものがドームの中にあると初めて知った瞬間だった。