第89話
.ヒルド
私は昔から"運"に恵まれていた。
まだ小さかった頃、近所に住んでいる子たちと一緒に川へ出かけ、魚を取ったり虫を捕まえたりして遊んでいた。その日は朝から久しぶりに良く晴れていたので鬱陶しいかった雨の心配もまるでしていなかった。
けれど、お昼を過ぎた辺りでにわかに曇り出し、捕まえた虫を餌にして魚釣りに熱中していた友達をおいて私一人だけ川縁から離れていた。勿論声はかけた、でも誰も「心配ないよ!」と微笑み──そして増水した川に飲まれてしまった。
『鉄砲水』と呼ばれる現象を当時の私が知る由もなく、突然発生した激流に皆んなが飲まれていくのをただ呆然と眺める他になかった。その後、バケツをひっくり返したような雨が降り出し、木の下で縮こまっていた私を家族が迎えに来てくれた。
──良かった、あなただけでも無事で。
──運が良かった、運が良かったんだよ。
それから私の"幸運"な人生が始まった。
(また私だけっ………)
いや、流石にもう運も尽きただろうか。死の臭いがする独房の中はさすがに幸運とは言わないだろう。
決してそんなつもりはない、結果としてそうなってしまっただけで私に他意はない。でも、今日まで生き長らえてきたこの私が何よりの証明になっている。
傍にいた人たちは誰もいない、いなくなってしまう、まるで幸運の代償であるかのように私は一人ぼっちになってしまう事が多かった。
だからヴァルキュリアを離れた、いずれ一人ぼっちになってしまうのなら、私の人生の中で一番楽しかった日々を思い出として持ち帰り、せめてもの慰めとしてこの思い出を抱き締めて過ごしたかった。
けれどそれももう叶わない。身寄りの無い、こんな偏屈な女の証言なんか誰も信じないだろう、あの冴えない歳上に何かあれば私はそのまま処刑される。もしかしたらウルフラグに更迭されてそこで断罪されるかもしれない。
(もう嫌……疲れた……)
そういえば前にも似たような事があった。
威神教会と周辺貴族の間で小競り合いが生じ、当時住んでいた町がその戦火に巻き込まれた時のこと。
名前など覚えていないが、威神教会のやり方に不満を唱えた貴族が統治していた町に、教会側の僧兵が『断罪』として責め立てて来た。火矢を放たれ町が燃え、私は家族の助けがあって何とか町の外へ逃げ出せた。後から遅れて到着した貴族の私兵団に家族を助けてほしいと懇願し、家は何処そこだと教えて匿ってもらえた。
──ただ、運の悪いことにその私兵団は敵側に潜り込んでいた教会側の人間だった。
家族がどうなったのか私は知らない、後から聞いた話では私の家族が首謀者になっており、事の責任を取らされたと聞く。つまりはスケープゴートに仕立て上げられたという事だ。
その当時の貴族の名前など覚えていないが──家紋は『ディリン』の名を示す物だった。赤く、煤に塗れた夜空に翻る旗が脳裏にこびりついている。
(違う、運が良いんじゃない。ただ間が良かっただけ……)
力なく投げ出した足の先には今にも朽ちてしまいそうなベッドがあった、薄暗い灯りに照らされている、ほんの少し手を加えたら簡単に壊れてしまいそうだ。
(ただ利用されただけだ、家族も私の立場も。だから剣を持った。剣は良い)
冷たい床に手を付き立ち上がる。
(振れば振るほど自分を忘れられる、色んな人に迷惑をかけた事も情けない自分も一人ぼっちの寂しさも何もかもっ!!!)
まだ私の中に激情が残っていた、"怒り"も良い、絶望の淵に立たされてもその場で奮起する力を与えてくれる。
何に怒っているって?
「──私自身よくそったれ!!」
また逃げるつもりか!これが自分が決めた道だからと意固地になって過ぎ去った道を見て見ぬふりをするのか!
「あの時戻っていれば助けられたかもしれないのに!」
自分に力が無いと嘆いて仕方がないと醜く悟って全て環境のせいにするつもりか!それが嫌だから──
「──私は剣を握ったんだろっ!!」
朽ちかけていたベッドを蹴り飛ばし、案の定簡単に分解された木屑を拾い上げた、重さは比べるまでもないが長さはちょうど良い。
いつもの通り腕を上げ、そしていつにも増して振り下ろした。ただの木屑で壊れるほど錠は脆くない。一度、二度、三度、駄目ならもう一度始めから、手の皮が剥けるまで続けるが木屑が先に折れてしまった。
(あいつは関係ない、マジで何も関係ない。不甲斐なかろうが他国に逃げていた貴族様だろうが)
別の木屑を拾い上げ同じことをやる、扉にかけられた錠を何度かぶっ叩き続け、ようやく緩んできた。
あとはこれさえ引っこ抜けば──。
✳︎
何なんだ、せっかくの休日だっていうのに。どうして私はこんな所に来てまで利用されなければいけないのか。
「良く来てくれましたナディ。あなたを心から歓迎致します」
「私は何をすれば良いのでしょう」
「用意した演説台に立つだけで十分です、後はこの私が」
「それだけの為にヒルドちゃんも利用したんですか?」
「……?」
──違うの?
マカナのお母さん──いや、今は教導長と言った方が心がささくれずに済む。その教導長が訝しげな視線を投げかけてきた。
あの男性に再び連れられて来た場所は街中にある教会だった、ラインバッハ王と敵対している派閥の本拠地である。
とても豪華な所だった、床は磨かれ鏡のよう。礼拝堂の窓辺には等間隔に花も置かれている、祭壇にはマキナを象った像もありここにいる人間たちとは裏腹に清らかな空気が満ちていた。
「ルイマン卿のことは残念でした。それから、彼が隠し持っていた下心を見抜けず容易に近づけてしまいました、不甲斐ない私をどうか許してください」
「教導長がお連れになったのではないのですか?」
待たされていた礼拝堂から外へ向かう、こちらに向けられた背中はぴんと張っており何をも拒絶しているように見える。赤の他人だとさえ感じた。
(──ううん、きっと私が……)
「信じてもらえるとは思いませんがルイマン卿とは造船所の中で出会したのですよ。あの場に連れて行ったのは成り行きです、そうさぜるを得ませんでした」
「そうですか」
二人揃って礼拝堂から外へ、教会内の広場には既に大勢の人で溢れ返っていた。その中央には教導長が言った通り、それはそれは立派なお立ち台があった。
裏口から人垣が続いている、熱心な顔付きをしている人もいれば胡散臭そうに眺めている人、中にはこの人混みの中で商いをしている人もいた。──あの男性も人垣の外れの方に一人で佇んでいた、傍には仲間と思しき人の影もある、皆揃って暗い顔をしている。
雑多、実に雑多である。色んな思惑を抱えた人たちが一同に会するとこうもまとまりが生まれないのかと唖然とし、そして自分の立場を忘れてしまいそうになった。
私はただの乗組員であって玉座を目指す貴族ではない、その事実が今まさに人の波に飲まれようとしていた。
階段を一段ずつ上る度に今朝の記憶が薄らいでいくよう、溜め息を吐こうが天を見上げようが歩みは止まらない。
(何だってこんな目にばっかり……とっとと終わらせよう、どうせあの王様は私がこうなる事と分かっていたはず)
知らない人から煽られ知っている人から当てにされて、誰も私のことなんか見ちゃいない。ナディではなくカルティアンが重要なのだ。
(あー…なーる、これが名を持つって事か。アネラ大変だっただろうな…)
──虫酸が走る。
お立ち台の最上段から色んな人の顔が良く見えた、見たくもないのに良く見えた。
それでも陽の光りは変わらない、良きも悪しきも平等に照らすだけ、あれこそ『真の王』ではなかろうか。
教導長が一歩前に進み、お立ち台の最前列に立った。
「──良く集まってくれました!これよりカウネナナイの真実と王であり私の実弟であるガルディアの事実をこの陽の光りの下に──」
最前列にいる人たちは教導長に向かって手を振っている、そこから離れていくにつれ熱気が下がっていく、分かりやすいバロメーターだ。
一団の外には物腰が鋭い人たちが何人か、辺りを見回りながら演説の様子を伺っていた。
きっとこの場は──。
「────何で……」
ある人影を見かけたせいで素早く動く人の影も目に入らなかった、呟きが群衆に届くことはなく天へと昇る。
脱力していくのが自分でも分かる、そんなまさかという疑問と驚きが思考を奪っていく、でも「ああそうか」と酷く冷たい所で理解している自分もいるにはいた。
さらに素早く動く影、今さらのように囲いの外にいた人たちが慌てて駆け出す、その人に突き飛ばされた人が悲鳴を上げすぐさま伝播しあっという間に叫喚の坩堝と化した。さっきまで皆んなてんでばらばらだったというのに、たった一つの恐怖でこうもまとまってしまう。
人の気配を縫うようにして駆け出した影はもう目前だ、あと一足飛びでここまでやって来ることだろう。
そして今さらのように教導長がその刺客に気付いた。
「──ナディっ!」
もうここまで来たら誰が敵なのかさっぱり分からない、『カルティアン』を利用したい人、消したい人はごまんといるはずだ。
ラインバッハ王だって私が邪魔で仕方がないはずだ、威神教会だって組みしなかった私を誰かに盗られるぐらいなら消してしまえと考えるはず。
なーんて、そんな馬鹿げたことを考えながら直近に迫った男の顔を見やった。その瞳に感情はなく変わりに鋭い小太刀を構えていた。やっぱり私か、もしくは二人両方か。
──もう一つの影のことを忘れていた。
「──んなこったろうと思ったわよっ!!」
突き出された小太刀を鷲掴み、飛び散る赤い飛沫は彼女のもの。
「ヒルド……」
凄まじい殺気を放ちながら二つのツインテールが私と男の間に割って入った、肩で大きく喘ぎ前傾姿勢を取っている、まるで獣だ。
その背中が何と逞しいことか、ギラッギラに輝く善性は人に恐怖心を与えると初めて知った。
「…楯突くつもりか」
理性的な声がヒルドを糾弾した。
「…こんなんでも私の主なのよ、黙って殺されるわけにはいかないわ」
すると男が──
「──聞け!ここに賊を食い止めてみせた!名をヒルド!カルティアン家に恩ある身でありながら蛮王ラインバッハの言いなりに成り下がった!」
おいおいおいおい何の真似?小太刀を私に突き出しておきながら今度は自分が救っただと?
「見てみろこの手を!「──っなせっ!!」人を殺めんが為に歪んだ手を!──僧兵たちよ!この女を捕縛しろ!いつ暴れるか分からぬぞ!」
何も見ていなかったのかと呆れてしまった、演説台の下にいる群衆はヒルドではなく男に喝采を送っていた。
ヒルドは満身創痍、ぼろっぼろだ、抵抗するが男に掴まれた腕はびくともしない。彼女は──ヒルドは間違いなく私を助けてくれた、目を見ずとも語らずともあの背中を見ればそれだけで分かる。
教会側の兵が演説台に近付いてくる、群衆たちの喝采が熱狂に変わりつつあった。早く追い出せと、国から追い出せと、誰も彼もが異口同音にヒルドを罵倒した。
男がついと私に目を合わせ、ふっと微笑んだ。「助けられるものなら助けてみせろ」と。
男の目が驚愕に開かれる、まるで信じられないものを見るかのようだ。
──馬鹿にすんなよ!踏み込んだ足にさらに力を込めてこう言った。
「私の従者が何か失礼をしましたか?」
「────っ」
今度は男が絶句する番だった。
「──あんた……」
あれ、ヒルドも絶句していた。何故に?
まあいい、私の言う事は一つだけだ。
「彼女は私の大切な従者です、下らない奸計に利用しようというのなら許しはしません」ここから声を張って「──どこの主が自分の従者に命を狙わせるというのですか!ここは演説台!喜劇がしたいんなら舞台へ行けええ!!」
唾を飛ばされた男は不快そうに眉をしかめ、颯爽と演説台から下りていった。何人かの僧兵たちが跡を追おうとするが人垣に阻まれすぐに諦めていた。
それだけ熱狂していたからだ、あの男がヒルドを刺客に仕立て上げた以上に、狂ったように私たちへ手を突き上げていた。
近くにいた教導長やその側近たちはいない、姿を消したようだ。演説台の上には私とヒルドだけ、手はぼろぼろで血だらけだった、赤い雫が滴り血溜まりを台に作っている。
彼女は真っ直ぐ私を見ていた、見開かれた瞳が今にも零れ落ちそう。
「……あんた、自分が何をやったのか分かってるの?あのまま私を突き出せば良かったのに……」
喝采の声に掻き消されそうな声でそう言った。ヒルドから腰を下ろして床に座り込む、私も今さらのように膝がガクブルってきた。よくよく考えれば武器を持った相手に良くあんな啖呵が切れたものだ。
ぺたんと座り込む、もう立てる気がしない。
「そんな事できるはずがないよ、私を助けてくれた人を突き出すだなんて」
「でも、さっきのあいつはガルディアの側近よ?きっと混乱に乗じてあんたか教会の人間を殺すつもりだった。いいの?私なんか庇って……」
「いいよ、だって私あなたのことが妹みたいで可愛いと思ってたから。自分の保身の為に誰かを見捨てるような真似なんてしたくない」
「私がそうだったって言ったら?周りの人を見捨てて生き残ってきた人間だって言ったら?それでもあなたは許すの?」
「不可抗力だったんじゃないの?……本当に冷たい人間があんな背中を人に見せられるはずがないよ」ヒルドは泣き始めていた。
「……どんな背中だっていうの?」
彼女の細くもしっかりとした肩に手を置いて、ゆっくりと抱きしめながら言った。
「格好良かったよ〜どうして私の周りにいる歳下はこうもしっかりしているんだろうって思えるぐらい。この場にいる誰よりもあなたが一番格好良かった、助けてくれてありがとう」
ぎこちなく、ヒルドが私の背に手を回して泣き始めた。声は出さずぐずるような泣き方だ、きっと昔は大変な甘えん坊だったんだろう。
雪解けの季節。それはしんしんと冷えていた人の心を溶かす季節である。多くは語らずともきっと沢山の思いを抱えていた彼女の涙と血がその証拠、そして人に対して絶望しかかっていた私もその疑念が彼女によって溶かされていた。
私は命と心を彼女に助けてもらった、そんな人を見捨てられるような自分になりたいとも思わないしそれこそ願い下げだった。
でもまあ問題は残っている。
泣き止み始めたヒルドに立つよう促すつもりでこう言った。
「まあ、後のことはお母さんが何とかしてくれるよ」
「……ぷっ、何それ……ほんと頼りない」
まだまだ冷たい風が私たちをさらっていく、けれどその冷たさがちょうど良く心地よかった。
✳︎
「…………────おいおいおいおい今度は何だまた獣かどれだけ警備が緩いんだよお前ら仕事しろっ!!」
珍客ならぬ猛獣二匹目、いや、ヨルン・カルティアンとはまた毛色が違う美女を引き連れたショットガン持ちの女が私室に入ってきた。
ピメリアだ。
「いきなり物騒な物持ってくんじゃ──っ?!」
鼓膜が破れるかと思った、撃ちやがった!
「お前っ!自分が何を──ああ!ああ!事情を説明するからそれ何とかしろ実弾じゃねえかっ!!!!」
両耳を押さえて己の鼓膜を守る、本当にうるさい。齢四〇を過ぎて自分の鼓膜を心配する日が来るとは思わなかった。
俺が座っていた位置を起点にして室内のあちこちに穴が空けられていた、ショットシェル恐るべし、ちょっとでも動いていたら俺も蜂の巣にされていた。
「……死ぬかと思った」
ピメリアが一言。過ぎ去った真冬を彷彿とさせるような冷たい声だった。
「私の可愛い娘も同じ思いをしたよ。それだけじゃない、グガランナからウルフラグで起こった件についても教えてもらった」
「何の件だそりゃ、俺も知らん「──惚けるなっ!!!!」
また撃たれたかと思った。再び騒ぎを聞き付け後からやって来た側近たちも遠巻きに眺めているだけ、それだけこの女が怖かった、飛び道具持ってるし。
「キラの山に向かった私の知り合いが事件に巻き込まれたんだよ!その発端はマキナだ!あんたが腹に抱えているドゥクスという奴が一枚噛んでいたこともグガランナから教えてもらったさ!──何故私に黙っていた!」
「待て待て、その話は本当に知らない。ドゥクスは確かに今はカウネナナイに付いているが使役しているわけじゃない、昔はそっちにいたみたいだしな、と言っても百年以上も前の話だが」
「──ドゥクスというマキナは何処にいる?奴にも落とし前をつけさせる、奴が見捨てなければライラはっ!!──……」本当に獣みたいな女だな、ヒルドにも負けず劣らず太陽ような殺気を放っている。
何かの言葉を飲み込んだピメリアが話を戻した。
「何故私の娘を襲った」
「ただの政権争いさ、ここで退場してもらえたら俺の今の立場も安泰になる、だから手を出した。失敗したみたいだが」
やっぱり銃口を構える、しかしトリガーは引かなかった、一寸の良識は持ち合わせているらしい、しかし長くは保たんだろう。
「──認めるんだな?」
「ああ。まさかあの娘がそんな大立ち回りをするとは思わなかった、俺の見当違いだったよ」
ポンプアクション式のショットガンに次弾を込めやがった、排出された薬莢が間抜けな音を立てて床に転がった。
詰め寄るピメリアを手で制した。
「カウネナナイでは挨拶みたいなもんだ、そういちいち剣幕を立てるな、この先保たんぞ」
「残念だが私は帰国することになった」
「自分の可愛い娘を置いて?」
「だからこうして責任を取らせに来たのさ」
「こりゃまた、おっかないショットガンマリッジがあったもんだ。安心しろ、もうカルティアン家に手出しはしない、それもカウネナナイの流儀だよ、一度戦に敗れたんだ、向こうが玉座に立つような事になるまでは何もしない。というかこれでおあいこのつもりなんだけどな、こっちとしては」
怖い怖い。睨みを利かせた人間にぴたりと銃口を突きつけられると、撃たないと分かっていても恐怖心が勝った。
「何故そうだと言い切れる」
「これで俺とカルティアン家は立派な対立関係になった、けれど今は一つの約束の下に手を取り合う間柄、これ以上騒ぎを大きくすればセントエルモ・コクアを支持している他の連中にも影響が及んでしまうからさ。下手すりゃせっかく流れた投票の話をぶり返されてしまう、そうなったら今度こそ俺は逃げられないだろうな。つまり今日が最初で最後のチャンスだったんだよ、これで分かったか?分かったならその銃を下ろせ、死人は人の居場所を語らんぞ」
「…………」
──はあ、さっきの女より数倍緊張した。いくら体術を持っていても弾丸は避けられない。
銃口を下ろしたピメリアにドゥクスの居場所を教えてやり、それからヒルドを手当てしている街の診療所も教えてやった、きっとそこに可愛い娘もいることだろう。
「感謝はしない」
「されてたまるか」
「今日で会うのが最後になるかもしれないからこの場で告げておく、私が帰国する理由だ。向こうにあるシルキーの全ての所在地が判明した」
「──は?全て?」
「そうだ、理由も原因も不明、しかしその判明した場所に保証局の人間が向かって実際にシルキーを隠し持っていた企業を突き止めたよ」
「………誰の仕業だ?そんな事マキナでもできないはずだ」
背後に控えている女をちらりと見やる、視線が速攻バレて微笑まれてしまった。
「私ではありませんよ国王陛下」
「そうかい。で、この場にはあんたが残るのか?」
「はい、マキナであれば遠隔地にいても容易に連絡できますから。ピメリアが帰国した後は私がその責を全うします。──くれぐれもお手柔らかにお願いしますね、プログラム・ガイア」
部屋の隅に視線を投げかけるが、当の本人は熱湯をかけられた雪のように瞬く間に消え失せていた。
「事件に巻き込まれた関係者によれば──」
──鼓膜を守って正解だった。
「ティダ・ゼー・ウォーカーと名乗った男が国内のシルキーを全て明るみにしたそうだ。──ここまでが私が知っている情報だよ。じゃあなこのクソ野郎。──他国の王とやらも大したことないな……」
最後の方は独り言だ、毒を吐くようにしてピメリアとグガランナ・ガイアが退出していった。
「………………生きていたのかあの男」
死んだとばかり思っていた、表舞台に出てこないからセレンでくたばったものだとばかり思っていた。
俺の聞き間違いでなければティダはナディの父親、俺の親父の弟にあたる人間だ。
(どうやって……?いや、どうやって向こうに……?)
しまったこれはしまった。あの女にドゥクスの居場所を教えるべきではなかった。
ここに来て初めて自分が描いた道筋に亀裂が入った。
✳︎
「グッジョブ」
「………」
「グッジョブ「いや痛いんだけど止めてくんない?」
何この子供。何でさっきから治療したばかりの手を親指立てて叩いてくんの?
でもまあ今ならそんなに腹は立たない、何というか、あの独房の中にいた時とは比べものにもならない...ううん、それとは違う方向性を持った脱力感が今の私にはあった。
あの時は絶望していたけど今は違う、満たされていた。
また子供が手を狙いながら「グッジョブ」をやってきたので「いい加減にしろ!」と声を張り上げると、別の部屋で話をしていたナディが顔を覗かせてきた。そして乾いた怒鳴り声を一つ。
「こら!何やってんの!」
「い、いえ!私はただ怪我を具合を確かめようと!」
「怪我の具合を確かめてどうすんの!」そりゃそうだ。
「痛むようなのでまだ神経は生きているんだなと…もし何も感じないならそれこそ一大事ですので…」
変な説得力を持った言い訳をしたので私もナディも黙ってしまった。
この子の名前はカゲリという、ナディに仕えているらしい側近だ、つまり私と同業。
診療所の外にはシュピンネという虫型の特個体が一機見張りとして立っていた、そのお陰で誰も寄りつこうとしない。診療所の裏庭にも一機、厳戒態勢である。
私の腕を診てくれた医者と話し終え、再びナディが診察室に入ってきた。
「とりあえず腕は治るって。暫く剣は握れないだろうけどそこは我慢してね」
「うん……」
──え゛?何今の声。自分の声?こんな喋り方だった?
傍らに未だ立ち続けているカゲリが一言。
「剣が握れないのなら別のモノを握れば良いのではないでしょうか。ヒルド様も見た目は綺麗なので下手な男ならすぐに引っ掛けられるでしょう」
「あんた喧嘩売ってるよね?」
「いえ、体を壊した時ぐらいは世話をしてくれる伴侶を見つけた方が今後の為になると言ったまでです。どうせ元気になったらまた剣を握るんでしょう?」
「それは一理ある「──ないわ!ナディも変に惑わされないでよ!」
ナディが屈託なく笑い、カゲリは真顔で「?」と首を傾げた。こいつマジで言ってたのか。
診療所の中は暖かい、それは何も室温だけでなく私の心もそうだった。
「それよりもヒルド様、主に向かって呼び捨てはナターリア様のゲンコツものですよ。呼び方を改めてください」
「こいつっ……」
「え?別にいいんだけど……じゃあ私のことはお姉ちゃんって呼んでくれる?」
「え、別にいいけど人前は嫌」
何だその顔、そのまま溶けてしまいそうな程にニヤニヤと目を細めている。カゲリもしたり顔でうんうんと頷く始末。私の方が歳上だろ!
「じゃ、悪いんだけどカゲリちゃん、何か飲み物を持ってきてもらえない?三人分」
「かしこ!」
あいつマジでやってるのか。ふざけた返事をしたカゲリがすたたたと診察室から出て行く。
「この診療所にね、カゲリちゃんの部下だったかな?その子も入院してるんだって。快調に向かってるらしいけどまだまだ時間がかかりそうだって言ってた」
「ふ〜ん……それであんな変ちくりんなのが……」
「で、私のことは何て呼ぶつもりなの?」
「……お姉ちゃん」
う〜んよしよし!とナディが私に抱きついてきた。
(あったかい……)
人の温もりは暴力だ、何もかも私から奪っていく。
「お姉ちゃん、ありがとう、私のこと庇ってくれて」
「お互い様」
言葉はそれだけ。あとはこの暖かい温もりに身を任せ──られなかった。
診療所の外から「こら!」とか「不届き者!」とか「その黒いのは何だ!」と騒がしいカゲリの声が聞こえてきた。
入ってきたのは大柄な女だった。
「ナディ様逃げてください!こいつヒルド様よりヤバいですよ!」
「んだとこらっ!あんたほんといい加減にしなさいよ!」
確かに黒い筒のような物を持っていた、それは特個体にも装備される銃に似ている。
女が静かな声でナディを呼んだ。
「ナディ、話がある」
「ピメリアさん……分かりました」
ただならぬ気配はカゲリも感じたはずだ、ピメリアと呼ばれた女はナディ以外見向きもしなかった。
──そして、ピメリアという女の跡に付いて行ったナディが隣の部屋で話をし、診察室に残された私とカゲリはこんな声を聞いてしまった。
「──ライラが……完全失明って……」
先程まで私を暖めてくれた人と同じ声とは思えないほどに絶望に苛まれていた。それは芽吹き始めた蕾が刈り取られるような、そんな悲しそうな声だった。