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第79話

.それを人は善意と呼ぶ



 内部の腐敗が止まらない。今は亡き厚生省事務次官が残した爪跡から菌が侵入し、組織の末端まで腐ろうとしていた。

 

「兄さん……」


 陸軍の首都防衛歩兵連隊と警察庁は職場上密接に関わり合っている。国防軍の中で方面基地が最も多い陸軍と微に入り細を穿つようにして置かれた交番との間では、我々でも関与できないほど数多くの人間関係が築かれていた。

 

「……そろそろ支度を」


「ああ……うん」


 事件が起こった際、そのコミュニティは優位に働く、だから()()なのだ。

 しかし、シルキーなるものが世に認知され始める前からそのコミュニティが悪用されていた。シルキーが何処にどれだけあるのか、という情報が交番に勤務する警察官から吸い上げられ、"必要な処置"だからと各方面基地でそれらが纏められていた。

 ──ジュヴキャッチが何だって?テロリストが何だって?組織構造すら悪用するお前らだって立派な犯罪者、言うなれば"政府マフィア"だ。

 下着姿のまま寝室から出て行った妹の後を追うようにして僕もベッドから下りた。



✳︎



クラン:次はいつ帰ってこれますか?そろそろ先輩に喝を入れてやってください


ナディ:何事なの


クラン:すっかり腑抜けてしまっています、あれは先輩の着ぐるみを着た小動物そのものですよ、ちっとも面白くありません


ナディ:可愛くて良いじゃんか


クラン:_(:3 」∠)_


 キッチンカウンターで携帯をいじっているとお母さんに頭を叩かれた。


「早く食べなさい」


「………うい」


 今日のお母さんはスーツ姿である、週に何度かの出勤日らしい。ほんのりと赤い生地に中は真紫のブラウス、どこの女社長だよと思ってしまった。

 お母さんもキッチンカウンター横に置かれた椅子に腰を下ろした。


「ねえ、そういえばさ、お母さんはヨトゥルって人知ってる?」


「急に何?」


「スルーズと一緒に働いてる……?ううん、同じ部隊にいる人なんだけど」


 自分で作った朝食を一口だけ頬張ってからお母さんが答えた。


「知らないわ。どこかの子女でしょ、あそこは貴族も市民も孤児も満遍なく受け入れていたから身元なんて分からないわよ」


「ふ〜ん」


「何よその気の無い返事、あんたから聞いたんでしょうが」


「ヴァルキュリアってそもそも何なの?」


 ちらっと私を見てから視線を逸らし、こんがり焼いたウインナーを齧り出てきた汁を慌てて拭ってから答えた。


「…それぞれの貴族が出資して成り立つ独立部隊、そしてその命令権を持つのが現国王。運用指針は臨機応変かつ柔軟な軍事行動、だったかしら」


「ふ〜ん……ねえ、嘘吐いてるよね?」


 まだまだ残ってるのに私のお皿へ朝食を投下した後、ごくりと牛乳を飲み込んでさっと立ち上がった。


「嘘なんか吐いてないわよあんたもそろそろ出かける支度を「お母さんの子供を何年やってると思ってんの?言っておくけどバレバレだからね?」


 恨みがましくお母さんが睨んできた、胸元では少し大きめのネックレスがきらりと光っている。


「──あのねえ、仮にそうだとしても今する話じゃないわ」


「やっぱり。ヴァルキュリアって何なの?」


「一言で言えやしいなわ──あら、こんな時間にお客さんだなんて珍しいわね」


 インターホンが鳴ったのを良いことにそそくさと離れた。


(マカナがあんな所にいて大丈夫なのかって訊きたかっただけなんだけど)


 そしてお母さんがすぐに戻ってきた。


「はあ〜〜〜全くあんたも知らない間に立派になったものね〜〜〜お母さんですら従者なんて付けたことないのに!」


「は?」


 何に怒っているのかさっぱり分からない。

 味を堪能する暇もなく食事を終えてマンション前に出てみやれば、そこで待っていたのはテジャトさんだった。


「おはようございます」


「お、おはようございます……あれ、今日って迎えに来てもらうお話でしたっけ?」


 今日のテジャトさんは何というか、起き抜けって感じがした。巻き毛の髪はだらしなく下がっているようだし、それがセットなのか寝癖なのか良く判別できなかった。


「そのはずなのですが……いえ、こちらの連絡不足でした、申し訳ありません。良ければ港までお送りしましょうか?」


「あ、はい、それは是非」


「それなら私もご一緒してよろしいですか?」


 うんわぁ...


「ええ、はい。どちらまで行かれますか?」


「……ビレッジ・クックのレアノスまでお願い致します」


「分かりました。どうぞお乗りください」


 突然の()入者に動ずることなく私たち二人を車に招き入れてくれた。恥ずかしいったらない。

 我が物顔で奥の座席に座ったお母さん、渋々私もその隣に座り込んだ。

 助手席にはやっぱりアルヘナさんもいた、テジャトさんと違って身なりはいつも通り整えられてい──ん?


(ブラジャーの紐が……)


 ほんの少しだけブラウスの襟から覗いている。急いでいた?でもどうして?


(生々しっ!……え、やっぱりこの二人……)


 副都市方面の幹線道路に進入した時、携帯にメッセージが入った。そのお相手はすぐ隣にいるお母さんからである。


お母さん:この人絶対ゲイよ。お母さんのことを見ても狼狽えもしなかったわ


「…………」


 メッセージで返事を返さない代わりに私は高々と腕を掲げた、何をされるのか分かったお母さんが「止めて!止めて!」と顔だけで懇願してくるがまあまな勢いで太もも目がけて振り下ろした!


「──っ!!〜〜〜っ」


「な、仲が良いんですね」


「え?え?」


 テジャトさんにはバッチリ見られ、外を見ていたアルヘナさんははてな顔である。


(まあ私も似たようなもんか)


 涙目になっているお母さんを無視して私も窓の外を見やった。



✳︎



「ちっ。もう外に出たあとか」


「みたいですね、随分と早い出発のようですが」


「もしかしてあの二人か?陸軍から回し者が来てるだろ」


「でしょうね。どうしますかビーリさん、跡を追いかけますか?」


「今からか?海軍の敷地に入られたら意味ないだろ。旦那に報告しよう」


「ヴォルターさんに?する意味ありますか?」


「坊や」


「……………」


「旦那は旦那で色々とあんだよ、察してやれ」


「何で僕が──何で歳上に気を遣わなくちゃいけないんですか」


「歳を取ったら何かと縛られてくるんだよ。坊やの事に気付いていてもかけられない声ってもんがあるんだ」


「……………」


「まあ良い、キシューの奴に任せるか。車に乗れ」


「………はい」



✳︎



「ふん、少しはマシな面構えになったようだな!」


 ああいたいた、いたよこの人。

 「いいか?ちょっと勉強したぐらいで良い気になるなよ、空っていうのはお前が思っている以上に」ビレッジ・クックでお母さんと別れ、テジャトさんの運転で海軍の方面基地まで「今回のコースはカウネナナイと隣接した海域だ!もしかしたら今度ばかりは」船に乗り込んだ後は早速説明会である、どうやら今回の航海は前回より長くなるらしい、ちらっと顔を合わせたピメリアさんに「どうしてもって言うならこの僕が──」


「もう!うるさいっ!」


「──っ?!」


 私の後ろをちょこちょこと付いて回るキミリアを一喝し、自分の部屋に荷物を置きに行く。

 キミリアもこの二週間で何かあったようだ、以前ならちょっと怒鳴ればへにょへにょになっていたのに精神的に強くなっていた。


「ふん!そんな事で怯む僕だと思うなよ!いいか!さっきも言ったけど今度ばかりはカウネナナイと衝突は避けられないんだ!」


「………………」


「──ちょ!」


 鞄を持っていた腕をぐいと掴まれ、その弾みで落としてしまった。しかもタラップの上で。


「あああー!!」

「あああー?!」



「──以上が回収するシルキーの外観予想図だ。入り組んだ海盆にあることから今回の回収にはオクトカーフを投入する予定であり──」


「…お前が無視するからっ」

「…そっちが悪いんでしょっ」


 付近にいた作業員の人にも手伝ってもらい、船と桟橋の隙間に落ちてしまった荷物を何とか引き上げられた。お陰で説明会には遅刻である。キミリアと並んでブリーフィング室に入り、こそこそと空いている席に向かう。

 出だしから災難である、荷物はびちょびちょ、もしかしたら回収し損ねた私物があるかもしれない(携帯とか貴重品は無事だった)。

 まあバレないはずもなく、皆んなの前で説明していた大統領が目敏く見つけて揶揄ってきた。


「──おや?二人揃って遅刻かな。あの二人はきっと同じ匂いがするに違いない、青春の一ページを見せつけられてしまったよ」


 ドッと笑い声が上がってしまい、恥ずかしさのあまり顔を俯けた。


「…どういう意味なんださっきの」


 当たり前のように隣に座ったキミリアが小声で尋ねてきた。あの冗談が分からないの?


「…私たちがカップルに見えたってこと」


 馬鹿じゃないのかこの人って本気で思ってしまった。


「っ!──そんなわけないだろ!僕とお前がカップルだって?!」


 キミリアの大きな声は大統領の声も遮り皆んなの視線を集中させた、少し離れた位置に座っていた他の三人も驚きの表情をしている。

 邪魔をされたはずなのに大統領は気にした様子を見せず、さらに揶揄ってきた。


「ウォーカー君、今回の回収作業は君のパイロットとしての腕を遺憾無く発揮してもらうつもりだ。だから痴話喧嘩は今のうちに済ませておいてくれよ、スピーカー越しに惚気られる私たちの事も考慮してほしい」


 忸怩たる思いで顔を伏せ、皆んなの笑い声をやり過ごした。

 ろくすっぽ頭に入らなかった説明会が終わり、それぞれが退出していく中でピメリアさんがニヤニヤ笑いを顔に貼り付けながらこっちにやって来た。


「おいおい、お前学校に行ってたんじゃなかったのか?いつの間にキミリアと仲良くなったんだよ〜」

 

 昨日まで一緒だった候補生より子供っぽく私を揶揄ってきた。ぐいぐいと肩を揺さぶってくる。


「そんなんじゃありませんよ……」


「本気で嫌そう」


 語尾に(笑)が付いている。


「僕だってなあ!カップルなんかに間違われて─「またまたそんな、ずっとナディの事気にかけてただろ。素直さは美徳だぞ〜「っさい!!」


 おお?キミリアが私のことを心配していた?問い質そうにも本人は背中を向けて仲間の所へ向かっていってしまった。

 

「ほんと賑やかな。ナディ、あなたも早く準備をしなさいな」


「ああ、はい」


 後から合流したグガランナさんにそう促され私も席を立った。まずはこのびちょびちょの荷物を乾かさないといけない。



 ノラリスの調整はラハムに任せ、おじいちゃんとジュディさんの傑作であるオクトカーフの調整をしている時だった。格納庫の入り口で複数人が何やら剣呑な雰囲気で話し合いをしており、その中心にはあのキシューさんがいた。

 今回同乗することになった元深海探査技術団の研究者が先に気付き、カメラの解像度やマニピュレーターの位置調査をしていた私に教えてくれた。


「何かあったんですかね」


「現場で揉め事はよくあるけど、管理職との揉め事はもっとよくあるからね〜」


 同乗する人はマイペースなようだ、プロばかりの職場では少し珍しいかもしれない、いや私もそうか。

 話し合いをしている一団から一人が離れてオクトカーフにやって来た、そのままタラップを上がって探査艇の搭乗口から顔を覗かせてきた。

 どこかで見たことがあると思ったら、以前探査技術団の本部にお邪魔した時に私たちの相手をしてくれたその人だった。


「どうも、あの時はお世話になったよ」


「いえ、こちらこそ……何かあったんですか?」


 コパシートでチェックリストを眺めていた研究者の人も作業の手を止めて見上げている。


「それがね〜あのマルレーンって人が搭乗者を変われってうるさいんだよ。自分がやるって突然言い出して周りを困らせているんだ」


「はい〜?何でそんな事になってるんですか。絶対に嫌ですからねこの席は誰にも渡しません、この日をどれだけ楽しみにしていたと思っているんですか」


「分かってるって。前回はユーサ勢に持って行かれたからな〜今度は俺たちが金星上げなきゃならん」


 やっぱりそういう点取り合戦があるらしい。けれど、研究者の人はどちらかというとシルキー採取より自分の好奇心を満たしたい欲が強いように思える。オクトカーフのチェックリスト以外にも時折自前のタブレットを眺めていた。


「ん?……あれって君のボディガードじゃない?」


「え?」


 ああ確かに、今なお話し合いを続けている一団にテジャトさんとアルヘナさんが加わっていた。ここからでは良く見えないが何かを手にしてキシューさんに見せつけているようだ。

 たったそれだけの事なのに、キシューさんがさっと踵を返して格納庫から去っていった。


「何だ何だ?何をやったんだ?」


 二人が一団から離れてこっちにやって来る、搭乗口にいた元本部長とバトンタッチして今度はアルヘナさんがコクピットを覗き込んできた。


「ウォーカーさん、お話があります。少しお時間をいただいても……」


「ああはい…ちょっと待ってください」


 下ろされた梯子を上って外に出てみやれば、アルヘナさんがとても申し訳なさそうな顔をしていた。元本部長は少し離れた所でこちらの様子を窺っている。


「何でしょうか?」


「まずはこれを……」


「……?──ああっ!許可証!」


 正しくは乗船許可証だ。この船は元々海軍の物なので外部の私たちが乗るにはこの許可証が必要なのだ。

 アルヘナさんが手に持つ許可証には私の顔写真が無い、『ゲスト』と書かれた貸与物だった。つまり...


(これだけ失くしていたのか………ん?)


「あの、これをどうやって……」


「失礼ながらウォーカーさん、そのですね……あなたのお荷物を調べさせていただきました。何か不備があってはいけないと思いましたので……」


「はあ……そうですか。ありがとうございました」


「…………」


 アルヘナさんがまだまだ何か言いたそうにしているが、元本部長の人に作業の再開を促されたのでオクトカーフの頭で別れた。

 パイロットシートに戻って作業を再開し、カメラ越しにアルヘナさんたちが見えていた。

 その二人はこちらに一度視線を向けたあと、そのまま格納庫からひっそりと出て行った。



✳︎



「…………」


「…………」


「……お人好しで助かったよ」


「兄さん、そういう言い方は好きじゃない」


 セントエルモの乗船許可証を用意したのは厚生省、つまり先程格納庫の入り口で揉め事を起こしていたあの女の仕事だった。

 

「……部屋に戻ろう、今日は早起きをさせられたからまだ体が怠いんだ」


「なら、午後から代わって。お昼までは私が──「ちょっといい?」


 またいつぞやのように...廊下の角からその女が現れた。

 キシュー・マルレーン、出生届けに明らかな不備がある得体の知れない相手、まあ保証局に身を置く人間は似たり寄ったりだ。


「何でしょうか?」


 こういった時、兄さんは必ず前に立ってくれる。その背中を見て私は安心するのだ、"ああ、まだ大丈夫"だって。


「そうつんけんしなくても、さっきの礼を言いに来ただけよ。……それにしても身だしなみがなってないわね、そんなに急いでいたの?」


「…………」


「妹さんも随分と艶かしい姿をしちゃって、下着がブラウスから覗いているわよ」


「……っ」


 頬が瞬間的に熱くなってしまった。

 確かに今日の要請は急だった、連絡が来たのはまだ陽も昇っていない時間帯だった。

 

「ここで一つルールを決めるってのはどう?どうやら互いに干渉しちゃってるみたいだから必要な措置だと思うんだけど」


 女が勝手に喋り出した、レイヴンクローとはまた違ったやり難さを感じさせる相手だ。


「ルールというのは?」


「あたしらの目的はあの子だけ。あんたらと違ってこっちは真面目に気にかけてんのよ」


「それは我々も同じ事ですよ」


 兄さんが当たり前の事を言い返すが、女が鋭く切り返してきた。


「違うでしょ?あんたたちが心配してるのは人材とシルキーの流失でしょうに。だからわざわざ参謀室からこっちまで出張ってきたんでしょ?あの子の身に関わることがあればあたし、軍の豚どもに関わることがあればあんたたちが受け持つってことでどう?」


 その物言いは侮辱以外の何ものでもない、私たちだって私たちなりあの子を気にかけて──口が災いしつい感情を荒立ててしまった。


「──ふざけないでっ!私たちは─「アルヘナ」


 瞬間冷却。真冬の海など足元にも及ばない、子供の頃から恐れ続けている兄さんの冷たい声が思考も何もかを奪った。


「ふ〜ん…………ま、とやかく言うつもりはないけどね。とりあえず今後は邪魔にならないようにしましょうね」


 それじゃあと、女が気安く手を振りながら姿を消し、姿を消しても兄さんは私のことを見てくれようとすらしなかった。



✳︎



 とは言ったものの、だ。女という生き物が怖いと言ったもののやはり興味はそそられる。これも一重にあのろくでなしと"師"と呼んでも差し支えないド変態商人のお陰だ。

 帳が下りた船内は夜勤者を除いて皆が眠りに付いていた、明日から始まる回収作業を前にして私が「早く寝ろ!」と号令をかけたからである。

 勘の良い者なら、あるいは付き合いが長い者からしてみればその真意は既にバレている事だろう。"侯爵が新しい女に夜這いする"この船の恒例行事だ...ふっふっふっ...


(いたたたっ、いたたたっ)


 股間を押さえつつアマンナが寝静まる士官室へ。ここの内鍵などあってないようなもの、私の手にはマスターキーが握られているからね!

 かちゃりと音を立てる、アマンナたち二人が乗船する前にこの私が自ら扉のメンテナンスをしたので蝶番の音など聞こえやしない。じゃあ鍵の音も消しておけよと思うがまあ良い、今後の課題だ。

 御目当ての女はベッドの上で寝息を立てている、薄いシーツを羽織った状態、暖炉がこれでもかと効いてた。


(そうかそうか……お前も求めていたのか……)


 たまにおるのだ、寧ろ夜這いを求めている女が、性欲を持て余して私のような老体にすら体を預けようとしてくる。その期待に応えるためにも肉体改造をしたのだお陰で日がな痛むが。

 ベッドの傍らに立つ、女は誘っているようで起きようとしない。なら遠慮なくとシーツを捲った。


「────おおっ…………」


 捲った拍子に女が仰向けになるよう寝返りもうってくれた。まさに黄金、神そのもの。


「これは素晴らしいな……」


 斜めから見下ろしても分かるというものだ、全てが完璧だった。首の細さも鎖骨の窪み具合も乳房の形も乳首の向きも腹筋の筋肉量も毛が無い陰部も太ももの形もふくらはぎの曲線も何もかも。何もかもだ、どれを取っても見事な造形をしていた。

 気が付けば、イキリ立っていたはずの息子がごめんなさいをしていた。

 これは触れて良いものではない、ケースに仕舞って外から鑑賞しておくものだ、そう思ってしまった。


「………………」


 捲ったシーツを元に戻し、二礼二拍手をして立ち去ろうとした瞬間、首根っこをぐいと掴まれてしまった。


「いやいや!いやいや!据え膳食わぬは人類の恥って言うでしょ?!何で手を出さないの!」


「や!やめぬか!は、離せっ!」


 女が──アマンナが乱暴にぐいと引き寄せてきた。こういうあからさまな態度は萎える、元から萎えていたが余計に萎える。


「私が一体どんな決心をしたと思うの?!いや本音を言えば触らせるぐらいに留めておくつもりだったけどさっ!」


「離せと言っておるだろ!!貴様がマキナである事は良く分かったから!!」


 そこでようやくアマンナが手を離した。


「はあ?見ただけで分かるもんなの?」


「ああ、そうさ!……お前さんは人ではない、明らかな人工物だよ」


「…………」


 よれよれになったローブを整え、今さらのように己の体をシーツで隠しているアマンナに向き直った。


「筋肉の偏りはおろか、骨格の歪みすら無い。人間誰しもが持つその偏りがお前さんには一つも無かったんだ、まるで人形を見ているような気分だったよ」


「例えば?」


「乳房というものは概ね右側、つまり心臓側の方が大きくなる傾向がある。けれどお前さんの胸は性欲すら抜かれる程完璧に同じだった」


「…………」


「で、私を誘った理由は何かね」


「………あ〜あ、やっぱり私には向かないや。ダンタリオンについて、それからガングニールについてあんたから訊こうと思ってた」


「だろうな」


 手近な椅子に腰を下ろし、アマンナの続きを促した。


「何を訊こうと?」


「教えてくれるんだ?」


「裸体を拝ませてもらったからな、それぐらいはお安い御用さ」


「ふ〜ん……ならいいけど。どうしてあの二機だけがウルフラグに渡ったの?」


 ──今さらじゃよ〜我が息子〜。

 アマンナが胡座をかき、シーツだけでその足の付け根を隠した姿がやたらと扇情的に見えてしまった。


「二機だけとは?元より──……」


「勘が良いんだね。その通り、特別独立個体機は全部で三機、その最後の一機がマリサだよ」


 キャッチボールになっていないのは良く理解しているが尋ねる他になかった。


「………ニクス・サーストンという男は知っているか?私の恩人の名前だ」


「いいや、初めて聞いた。マリサなら知ってるかもしれない」


「そうか……その男が当時のカウネナナイと取引きをしてウルフラグに渡らせたんだ、それ以上の事は知らぬ」


「それ疑問に思ったことない?ある程度の事実なら私も知ってるけど腑に落ちないのよね」


「何がだ?」


「誰と取引きをしたの?」


「それは────…………当時の国王と……」


「シュガラスク・ゼー・ウォーカー、だよね。本当にその人と取引きしたの?」


「……………」


「いい?特別独立個体機というものはオリジナルの機体が存在するの、私もそうだしマリサもそう。それからきちんとした起動手順が踏まれるまでは……あーそうね、ライブストリーミングみたいな形でしか機体を動かせないのよ。分かる?」


「論より証拠」


 事前の予習さえこなせば私の脳味噌は無尽蔵に知識を蓄えられるが、突破的な事態にはとことん弱い、つまりもう頭がいっぱいだった。

 ライブストリーミング?何をダウンロードしながら再生するというのか──。

 目前で起こった現象に我が目を疑った。


「お、おい──」


 アマンナが、目の前で扇情的な姿で座っていたはずのアマンナが細かな粒となって散っていくではないか。女は未知?そんなちゃちなもんじゃない、正真正銘得体の知れない何かだった。

 して、部屋で一人っきりになったかと思えば誰かが入ってきた。当たり前のようにパイロットスーツを着込んだアマンナである。

 何食わぬ顔でまたベッドの上で胡座をかき、


「これがそれ。で──「いやいや!待て待て!……今のは何だ?何が起こったんだ?」


「だからライブストリーミング、あんたが実演しろって言ったんでしょ」


「いやいやもう……頭がいっぱいなんだが……」


 容赦がまるでない。


「頑張って付いて来てくれる?──で、特別独立個体機を常時運用しようとするならどうしたって相手が必要なの、所謂パイロットっていうやつがね。でも、ダンタリオンにもガングニールにもその人が見当たらない、どうなってるの?」


「その話が本当なら心当たりが一つだけある」


「何?」


 ニクス、一体誰と取引きしたのだ?おそらく奴の事だからこうなる事も予見していたに違いない──いいや、その取引き相手から聞かされていたに違いない。だから私とろくでなしをこっち(カウネナナイ)に渡らせたのだ。


「──私らだ。私ともう一人の男がダンタリオンとガングニールのパイロットを務めていた」


「務めて──いた?今は?」


「別の人間がやっているはずだ、私らに関与する権利は無い、だからこうして海を渡ってきたのだ」


「──そういう事、ね。ふ〜ん……情報漏洩?」


「だろうな。お前さんが求めている答えは生憎だが持ち合わせておらんよ──いいや、あるいは……」


「ヴァルキュリアが躍起になっているあの不明機か……あいつも怪しいのよね〜、まあこうして話をするまであんたも十分怪しかったけど」


「嫌疑が晴れて何よりだよ」


「まだ終わってないよ。ウルフラグ人であるあんたとその男を迎え入れたのは誰?ただ海を渡ってきただけの人がまさかそう簡単に貴族様になれるわけないでしょ」


 ルカナウアを出航した船がようやく当該海域に到着したようだ、ゆっくりとした動作で船が停まり、少しだけだが室内が静かになった。

 ──思えばあの男が反旗を翻したのも、初めからある程度算段を立てていたのかもしれなかった。


「………デューク公爵だ、彼が私たちの身元引き受け人さ」



 アマンナの部屋からまろび出た私はある種の"興奮"に翻弄されてろくすっぽ眠りに付けなかった。

 特個体─アマンナは"特別独立個体機"と言っていたが─にまつわる知られざる事実を告げられたり、そして後からやる気を見せた我が息子を鎮めたりと休まることが出来ず、久方ぶりに味わう徹夜明けの怠さを引きずりながら艦長室に赴いていた。

 私の体調がどうであろうと回収作業は進められる、昨夜のうちに到着していた船は既に準備万端で後は私の号令を待つばかりだった。

 しかし、当然と言うべきか、ハフアモアが潜むとされているポイントを挟んだ向かい側にはユーサの船も停泊していた。


「どうしますか?」


「どうもせんわ。回収作業始め」


 やはり当然と言うべきか、こちらを監視していたユーサから通信が入った。


[ちょいちょいちょい、少しは話し合いをしようや。前の調査の時は散々邪魔したろ?こっちは空気読んでおたくらのこと待ってたのにそれはあんまりじゃないか?ええ?]


「何だこのゴロツキは……」


「向こうの責任者だよ。名前はレイヴンクローだったか」


 体調が良くない時のあの喋り方はいつになく勘に障った。

 

「こっちはもう既に号令をかけた後だ、今さら無かったことにはできんよ。諦めて帰ったらどうかね」


 無人探査機が順次が海へ下ろされていく、言った通りで今さら止められるはずもない。

 

[ああそう。ならこっちも好きにやらせてもらうわ、お互い恨みっこなしで]


 それだけを告げて通信が切れる。何をするのかと見守っていれば──。


「……グレムリン様、何か出てきましたよ……あれは──もしかして向こうの最新鋭の……?」


「──貸せっ!」


 艦長から双眼鏡をひったくって私も確認した。あれは前に乗り込んだ時に見せてもらった探査艇だ、名前は確かオクトカーフ...


「あいつらっ!こっちの調査手順をっ──!良い!ジェカーフを投入しろ!何が何でも邪魔をするんだ!」


「あ、アイアイサー!」


 ジェカーフは私たちが作った最新鋭の無人探査艇、あれから様々なバージョンアップがなされて気が付けば魚雷発射管を二門備えていた。本当に気が付けばである。

 さらに着水時の衝撃にも耐えられるよう装甲板は特個体と同様の素材を使用している、つまり号令から投入まで五分とかからない。これは他の者から「もっと投入を楽にしてほしい、とくに冬の季節は」と要望があったから改良を重ねてやった。きっとその時の私は機嫌が良かったに違いない、そうでもなければそんな我が儘は聞かぬはずだ。

 ともかく即座に投入されたジェカーフは最新鋭のソナーを使ってオクトカーフに接近し、研究者の暴走の果てに備え付けられた魚雷で脅しを付けてやった。

 すぐに反応が返ってくる、当たり前だ。ユーサはお供の軍に出撃を要請したようで順次特個体が発進し、ならばこちらもとルカナウア軍の機体が空と海へ舞った。

 待った待ったと声がかかる、これも当たり前だった。


[グレムリンの爺さん、ちょいと話し合いをしようや。そっちが本気なのは良く分かったから]


「──良いだろう。但し──」


 奇しくも同じ意見だった。


「話し合いは海の上だ」

[海の上で話し合おう]



「おっかいなもん持ってんじゃねえよ。うちの可愛いパイロットが悲鳴上げてたぞ?」


「──ふん!ハフアモアが人を襲う習性を持っているなら当たり前の話だ!」


 ピメリア・レイヴンクロー。セントエルモの実質的な支配者でハフアモアの第一人者、ジュヴキャッチの侵攻作戦をものともせず迎え打った豪胆な女だ。胸も豪胆だった。

 奴との距離は二メートルもない、互いに救助用ボートに従者を付けて対面する形となった。


(名にし負うその目の鋭さよ。あの男とは似ても似つかん)


 私たちが対面するボートから程遠い場所で潜航していたオクトカーフが海面に上がってきた。

 タコのような外観を持つ探査艇に一瞥をくれてからレイヴンクローに向き直った。


「先手はこちらに譲れ」


「どういった理屈で?」


「先に到着したのは我々だ。お前さんらは今し方着いたばかりだろう?」


 放ったボールがまともに返ってこなかった。昨日の続きか?と一瞬だけ勘ぐってしまった。


「──なあ爺さん、ここは互いに手を取り合おうじゃないか」


「はあ?」


 馬鹿にしたのは私ではなく付き人だ。


「お前らが先に邪魔をしてきたんだろう?今さら何を言ってるんだ?「─やめぬか。それを申し出た理由だけ聞いてやる」


「そりゃ光栄だ。──こっちの目的はウイルスの調査であって国に持ち帰ることじゃない、解明に繋がるヒントさえ得られればそれで良いと考えている」


「──はっ!出涸らしになったハフアモアをこっちに渡そうって?随分とまた傲慢な」


「だが、あんたらはあのオクトカーフの力を借りることができるんだ、何だったら自分たちの力を使わずにお目当ての物が手に入る。悪くない取引きだと思うが?」


「──かもしれない、だろうが。甘い言葉で騙せると思うてか!」


「冷静になれって。確かに私らもやり方が幼稚だったよ、それは認めるし謝罪だってする。それにお互い武装もしているんだ、このまま衝突を続けていたらそれこそ戦闘状況にまで発展してしまう、だからこっちの話し合いに応じてくれたんだろ?」


「……………」

「……………」


 丸め込まれている、それは良く理解しているが返す言葉が何も出てこない。──いいや、何を返してもやんわりと包み込まれるのが目に見えていた。


「なあ爺さん、ここは互いに歩み寄ろうや。停戦協定なんて上辺だけの仲直りじゃなくて、ここで!この海で!一つの脅威を前に歴史を動かそうじゃないか!絶対そっちの方が名を残せるぞ!」


 このクソ女が良くもまあいけしゃあしゃあと、だったら始めから邪魔などせずに歩み寄れってんだ!


「──断る」


「理由は?」


「信用にならない。──とくにお前さんはとくに!」


「じゃあしょうがない。で、そっちの要望は?」


「変わらん。我々は我々の力だけでハフアモアを回収する!貴様らは貴様らで好きにしろ!」


「オーケー。なら明日はこっちの番だからな!健闘を祈るぜ爺さん!」



「あーーーっ!!してやられたわあーーーっ!!」


「グレムリン様………」


「あの胸だけが取り柄の女めっ!!始めっからそれが狙いで私をっ……あーーーっ!!」


「あんな女がウルフラグにはいるのか…くわばらくわばら…」


 順番制になってしもうたわっ!そもそも向こうの要望など聞く義理は無かったはずなのにっ!気が付けば順番制になってしもうたわっ!

 もう良い!いくら地団駄を踏んでもこの怒りはおさまらぬ!寝不足からくる怠さも一発で吹き飛んだわ!


「今日中に回収するぞ!良いな!奴らに順番など回させるなよ!」


「アイアイサー!」


 しかし初日は坊主で終わってしまった。



✳︎



「良く通りましたね、絶対応じないと思っていたのに」


 ピメリアさんが爽やかな顔付きで船に戻って来た時は皆んなが歓声を上げていた。「調査権を勝ち取ったぞー!」と、もうエンドロールに入っても良いぐらいに船内中が盛り上がっていた。


「あんなの楽勝よ、文机と女の尻しか相手にしてこなかった野郎に交渉の場で負けてたまるかってんだ」


 同席していたグガランナさんが染み染みと言葉を漏らした。


「……ほんと、ピメリアが味方で良かったわ」


「ですね、私もそう思います」


「ちょっとは考えれば分かるもんだけどね〜そもそもあっちはうちに譲る義理も義務も無いんだから、強硬策に出続ければこっちは帰るしかなかったのに」


 皆んなから褒められて少しだけ有頂天になっているピメリアさんがそう種明かしをした。詮ずるところは交渉の場に出た時点で"負けた"という事である、今後役に立つか分からないが覚えておこう。

 どうせなら酌でも注いでおけとピメリアさんにお酒を渡し、それを意気揚々と呑み干してから私に話を振ってきた。


「で、お前も向こうで大活躍したそうじゃないか。私も鼻が高いよ」


「そんなに良いもんじゃないですよあんな怪奇現象、もう懲り懲りです」


「そうかいそうかい。それと、向こうのお友達とまた一悶着あったそうじゃないか、そこら辺は大丈夫なのか?」


 マカナの事だ。でも、何故それをピメリアさんが...?


「…どうして知ってるんですか?」


「ん?報告を貰ったからだよ。お前がヴァルキュリアのパイロットと何やら話をしていたってな。……あんまりこういう事は言いたかないが……まあ気を付けろ、お前もそれなりの立場になったんだからもっと周りに気を配れ」


「何でこっちが……友達なんですよ?話しちゃいけないっていうんですか?」


「ん〜〜〜………」


 眉を曇らせるだけでピメリアさんは何も言わない、代わりにグガランナさんがはっきりとこう言った。


「あなたの我が儘に振り回される人がいるって事なの、それをちゃんと自覚なさい」


「我が儘って……友達を思うことが我が儘だって言うんですか?」


 率直な意見をぶつけた。そして手痛い切り返しを受けてしまった。


「ピメリアが言ったでしょう、あなたは人の注目を浴びる立場にあるの。その立場ある人が特定の人物だけに好意を向けていたら周りはどう思うかしら?嫉妬とまではいかなくとも反応せざるを得ないのよ。あなたはもう草の根隠れた人ではない、波紋を作り出す人になってしまったんだから」


「…………」


 顔に出ていたのだろう、グガランナさんが言葉を重ねてきた。


「納得なんてしなくて結構よ。ただ、頭の片隅にでも留めておきなさい」


 その後、二人と四方山話をしながら食事を終わらせ自室に引き上げた。

 グガランナさんに言われた言葉が魚の小骨のように胸に引っかかっていた。波紋を作り出す?それはどういう意味なのだろうか。


(だったら私がまた草の根に隠れてしまえば……それはもう無理なのか。無理なんだろうな……)


 面倒臭い。人間関係というものは私が思っている以上に複雑なようだった。



 翌日、向こうがいきなり反故にしたりしないかと冷や冷やしながらも最終準備が進められ、どうやら大丈夫そうだといざ投入間近という時にカウネナナイから連絡が入った。

 やっぱり邪魔をする気か!と現場がにわかに慌て出すが意外にも情報提供をしてくれたらしい。

 ピメリアさんは半信半疑、いや無信全疑だった。


[嘘に決まってる。無視だ無視]


「ちなみに何て言われたんですか?」


 すっかりお馴染みになってしまった特個体による着水作業、私は慣れたものだが同乗した研究者は目蓋をばちこん!と閉じてじっと堪えていた。


[あー…何だっけか、ろくすっぽ聞いていなかったがどうやら今回のウイルスは移動するらしい。当初のポイントにはいないから注意しろってさ]


「はあ……それ結構重要なのでは?」


[んなわけあるか、どうせ撹乱が目的だよ。こっちは予定通りお前の腕で回収すっから。さっさと仕事終わらせて陸に帰ろうぜ]


 それをフラグというのでは?

 そしてそのフラグを見事に回収する羽目になった。当初のポイントをいくら探せどウイルスが見つからず、これはカウネナナイの言う通りだったと気付いた頃にはもう陽が傾き始めていた。躍起になったピメリアさんが続行を言い渡すが、天候が悪くなるからとアリーシュさんから引き上げを要請され、私たちにとって初日の回収作業はざるで終わったしまった。



✳︎



「かっーかっかっかっ!やり返してやったわざまあみろレイヴンクローめが!その乳を献上をしてくれるなら抜いてやらないこともないぞ!かっーかっかっかっ!」


 誰だあのあからさまな悪役は。

 グレムリンに呼ばれた部屋でマリサと二人、いや本人含めて三人で舌鼓を打っていた。

 どうやら向こうを出し抜いたらしいグレムリンは意気揚々、すっかり上機嫌らしいが問題はまだ何も片付いていなかった。


「ですがグレムリンさん、実際のところハフアモアの足取りはまだ掴めていないんですよね?」


 礼儀正しくマリサがそう尋ねた。


「──んん?ああまあそうだが、ある程度なら掴めているさ。今回のハフアモアはどうやら複合型のようだな」


「複合型?」


「二つの生態系を取り入れているという事だ。それこそリュウグウノツカイのように尾を切って己が分身を作る、あるいは牡蠣のように無性生殖を行なって卵を辺りに散布する──おおっと私の場合は有性生殖だがね!あっーはっはっはっ!」


 全然面白くない。


「……私から逃げたくせに」


「──っ!」

「──っ?!」


 ぼそりと呟いた言葉が、何故だかマリサにもクリーンヒットした。

 翌る日、グレムリンたちにとって二日目の調査が始められた。私たちの部隊は相手の出方次第で要出動なので常に待機を命じられている、そのため調査状況の更新が遅くお弁当を届けてくれる司厨員を待つばかりであった。

 その司厨員がお昼を前に私たちの元に現れて最新の情報もお弁当と一緒に届けてくれた。


「どうやら足が追いつかないらしいですね」


「追いつかないとは?」


「お目当てのハフアモアは発見できたらしいのですが、あのクラゲみたいな気持ち悪い探査艇では速度が足りないらしく取り逃してしまうようです」


「そんなに速いの?」


「ええ、魚そのものらしいので。あ、今日のメニューはアマンナさんから要望があったステーキですよ」


「──いやっほう!ステーキ〜ス、スス、ステーキ〜♪」


「良く食べられますね……こんなに揺れてるのに……」


「マリサさんはサラダセットですのでご安心を」


「あ、ありがとうございます〜助かります〜」


「気が利くね〜君〜。お礼に今晩一緒にお風呂入ってあげよっか?」


「いえ、こう見えても私はあなたと同じなので。良く男性に間違えられるんですよ」


「…………」

「…………」


「それでは。あ、男性がお好みなようなので次から私はご遠慮させてもらいますね」


 クールにキレた司厨員の人が甲板から去っていった。それを見届けたマリサが遠慮なく怒ってきた。


「──どうしてくれるんですかアマンナさん!あの人私たちの我が儘を聞いてくれる貴重な人だったのに!」


「い、いや〜ごめんね…?何かグレムリンなんかに逃げられてから変に自信失くしててさ、ちょっと見栄張っちゃって…」


「そもそもアマンナさんにはお相手がいるんでしょうが!」


 最近のマリサはアヤメの事を自分から話すようになっていた、少し前まではちょっとでも臭わせると機嫌が悪くなっていたのに。それも、あのバベルというマキナと一緒にグレムリンの造船所を訪ねてからだ、その時の事はまだ教えてもらっていない。

 ぷんぷん怒ったマリサと食事を取り、その後ぼけ〜っとしながら時間を潰し、夕方頃になって何だかんだとまた同じ司厨員が来てくれたので全力ごめんなさいをして仲直りすることができた。もう色仕掛けなんてしない。

 ちなみにグレムリンたちは二日目も坊主だったらしい。



✳︎



 今回の調査状況は芳しくないようだ、きちんとした情報が入ってこないので詳しくは分からないが、セントエルモのメンバーは皆がどこかピリピリとしていた。

 僕たちとしてはそっちの方が有り難い、今はまだ陸に戻って良いタイミングではなかった。


「あ、兄さん。今日は多めに貰ってきたから」


「……ああうん、ありがとう。でもこんなに食べられないよ」

  

「あ、そっか……」


 妹の様子が昨日から変だ、明らかに気を遣っている。それも全部の僕のせいなんだが、今さら取り繕う言葉なんてありやしなかった。

 無言のまま、僕たちに割り当てられた部屋で食事を取る。こういう気まずい雰囲気は一緒に暮らすようになってから幾度なく訪れていた。

 食器が立てる音だけが響き、そして案の定食べ物を残してしまった。何と言おうか、この部屋には冷蔵庫なんて物は無いから食堂へ返さないといけない、でもそれをしてしまったらまた妹が...

 コンコンと軽やかなノック音が鳴った。


「私が出てくるよ」


 まるでこの空気から逃げるようにアルヘナが席を外した。

 来客は意外にも護衛対象であるナディ・ウォーカーだった。


「す、すみませんお邪魔しちゃって……」


「い、いえ。…何かありましたか?」


 さすがに面食らう、あまり動じない僕でも彼女の登場には些か動揺せざるを得なかった。


「あー…そのですね、アルヘナさんが持って帰ったそれが最後みたいでして…良ければ分けてもらえないかと…」


(そんな事……?)


 彼女が手付かずになっている料理を指差した。──僕は情けなくも"助かった"と思ってしまった。


「あー…良ければここで食べて行かれますか?その、冷めてしまいますし…」


「いいですか?ありがとうございます。どうしても今日はそれが食べたくてですね」


「アルヘナ、悪いけど彼女のために食器を取りに行ってくれる?」


「あ、うん!」


 暗い顔をしていた妹の顔にぱっと花が咲いた、これでまた当分の間は気を遣わずに────。

 きっと、この時の僕はこの場に相応しくない表情をしていたことだろう。


「……失礼ですが、妹と食堂で顔を合わせましたか?」


 対する彼女の答えはこうだった。


「……すみません」 


「……………」


 この子は一体何者なんだ?どうして僕たちみたいな人間に優しくできるんだ。これならまだ、レイヴンクローやマルレーンのように明らかな敵意を持った人間の方がやり易い。

 ──人間の汚泥というものを見続けてきた僕にとって、この子の持つ優しさが不気味で仕方なかった。

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