幕間
赤い電波時計ゞ
水浸しのお店に入るのはもう慣れた。それにお店の人も排水することを諦めて、足が高い陳列棚に商品を置くのが常になっている。
そのせいでわたしはいつもお母さんに高い高いをしてもらっているのだ。くつじょく。
「ほら、ちゃんと言わないと」
「…………」
お母さんに向かって手を伸ばす、くつじょくなので勿論何も言わない。
先に店内で物色していたママがこっちにやって来て、意地悪をしているお母さんを嗜めた。
「こーら、そんな事ばっかりやってるからこの子も懐かないのよ」
「それは大いなる誤解。元々好きじゃない」
「はいはい、とか言いつつ昨日私の胸ですやあ……ってなってたくせに」
「む!あれは違うの!ママと勘違いしただけなの!」
くつじょく!わたしを持ち上げたお母さんがくすくすと笑っている。その柔らかくて優しい吐息がわたしの後頭部に当たった。
高い高いをして見せてもらった棚には可愛らしい時計が並んでいた。念願の一人部屋に置く時計を探しに来たのだ。
猫っぽい物、犬っぽい物。動物タイプも良い、その隣は偽物だけどキラキラと輝く宝石が貼り付けられた時計もある。これも良い。一段高い棚には星の形をした時計もあった。どれも捨てがたい。
「どれが良いの?」
「悩んでいる。どれが良いと思う?──ううん、どれが一番壊れやすいかな」
持ち上げるのに疲れたのか、お母さんがわたしを抱え直した。お陰で後ろを向かされてしまい棚を見ることができない。
歪な石ころから生えた植物、ゲル状になったひまわり、変わり種の観葉植物が並ぶ棚の向こうではママが真剣になってベッドを眺めていた。
うんうん唸ってからお母さんが答えた。
「分かんない」
「そうか。お母さんはものぐさだから長持ちする物を選ぶのが得意だと思ったのに」
「む。そういう言われ方をされたら悔しいぞ……ちょっと待てよ……この犬っぽい時計なんかは……」
わたしそっちのけでお母さんが物色し始めた。
◇
結局お母さんが選んだ時計は無骨にも程がある丸い電波時計だった。
「無念にも程がある」
「いや何その言い方、頑張って選んだのに。というか通信できるようになったの誰のお陰だと思ってんの?」
「ママ。と、その他約一名」
「分かってるならそれで良い」
「良いの?」
ママはまだ家具ハウスで物色中だ。わたしとお母さんはあらかた欲しい家具を買えたので近くにあるフードコートに来ていた。
擬似木製の丸いテーブルの上には、同じように丸くて赤い時計がちょこんと乗せられていた。わたしの部屋に置く時計だ、長い付き合いになりそうだ。
文句を言いつつもやっぱり自分の物になる時計が嬉しいので、手に取りくまなく眺めた。
「お?お母さんは凄い、誇って良いと思う」
「──ん?何が?」
シルキー製アイスクリームを頬張っていたお母さんが不機嫌そうにそう尋ねてきた。馬鹿にされていると瞬時に理解したらしい。勿論馬鹿にした言い方をした。
「ほら、これ見て。作られた年代」
「………ああ〜、昔のやつか」
時計の裏面に貼られたシールを見つけ、深い息を吐いた。
『A.D.一八四三年製造』と書かれているシールは、今と違って人の手で一から作られたことを証明するものだった。
時計の針を調整するボタンを押すと、長針も短針もぐるぐると回り始めてしまったのでそれはそれはもう焦った。
「壊した!壊した!せっかく買ってもらったのに!」
わたしの手元に届いたお高い純正アイスクリームもそっちのけにして時計と格闘する。
「お母さん!お母さん!直して直して!」
自分では無理だとすぐに諦める。
「ん〜?どうしようっかなあ〜、私に意地悪する悪い子を助けてもなあ〜」
「このアイスクリームで手を打とう!」
「いや私こっちの方が好み」
どっちが意地悪なんだ!わたしがこんなに困っているのにニヤニヤと笑っている。
きっとわたしに──と、そこへようやく買い物を終えたママがこっちにやって来た。
「ママ!ママ!またお母さんが意地悪するの!」
「こら!言い方!」
「また〜?全くもう……で、何でレイアは時計持ったまま泣きそうになってるの?」
「ほらこれ!針がぐるぐるして止まらないの!」
ママが一抱えはする袋を空いている椅子に下ろし、そしてわたしとお母さんの間に自分も腰を下ろした。その弾みで水面の上に揺蕩っていたテーブルセットの休憩ボートが少し傾いだ。
「これはこういう物なの。電波時計は針が逆回りできないから一周する必要があるのよ」
「え……そうなの?」
「そうよ、だから心配しなくて良いの、分かった?」
そう言って、周囲から"七色の奇跡"と謳われている瞳をわたしに向けてきた。
「──お母さんが物にこだわらない理由が分かった」
「ほほう」
「こんなに綺麗な瞳が身近にあったら全ての物が色褪せて見えてしまう」
「良く分かってる。それにその瞳はお母さんのものだからね、レイアはその次」
「もう!」
「え、わたしが二番目で良いの?きょうえつしごく」
「レイアまで!全く二人は……喧嘩ばっかりするくせに息はピッタリなんだから……」
わたしとお母さんにからかわれたママがぽっと頬を染め、シルキー製アイスクリームのオーダーボタンを押した。
一分もしないうちに配膳用ドローンがぱたぱたとこっちに飛んでくる。てんとう虫みたいなドローンの背中には『風でお料理が飛ばされても責任は負いません』と無責任な一言が書かれている旗がなびいていた。
今日は無事に届いたアイスクリームを一口だけ食べてから、ママが買ってきた袋の中身を漁り始めた。
「喧嘩ばっかりする二人にお揃いの物を買ってきました」
「ええ〜」
「ええ〜個性」
お母さんと声を揃えて抗議する。うん、やはりわたしのお母さんは良く分かっている。
「そして!私も同じ物を買いました!ぱちぱち〜」
「そうそう、そういうので良いんだよ」
「今のくだりはいるのか?三人一緒って最初から言えば良いのに」
お母さんとママの両方からほっぺたをつねられ、シルキー製よりも遥かに甘味が強いアイスクリームを一口ずつ奪われてしまった。
ママが買ってきたお揃いの物は濾過器だった。漏斗と抽出機が一体型になった物で、それぞれ犬、猫、狼の動物に似せて作られていた。何故に狼。
「ママはどれにするの?猫さん?」
「ううんママは狼かな。前にお母さんにね、夜になるとママは狼になるって言われたことが「ストップ!ストッープ!……子供の前でする話じゃないでしょっ!」……あ!」
これだ、お母さんを素直に好きになれないのはわたしのことを子供扱いするからである。それに二人とも子供のように耳まで真っ赤に染めている。けっ。けってなもんだ。
「もうお腹いっぱい、このアイスクリームも食べていいよ」
「もう!レイア!そんなに拗ねないで!」
「ふん!どうせわたしに部屋を作ってくれたのも毎夜毎夜狼になりたいからでしょ!」
「そんな事ないから!ね?今日は一緒に眠ってあげるから!」
「わたしは狼に食べられる猫さんですか?」
「そうだぞ〜私と一緒に食べられちゃう可哀想な猫さんだぞ〜」
「いや犬っころは黙っててください、今狼さんと大事な話をしているんです」
「何だと?!」
これでそれぞれの濾過器が決まった。わたしが猫さん、ママが狼、そしてお母さんが犬っころだ。
二人に挟まれながらアイスクリームを頬張っていると、休憩ボートが並ぶ屋外のカフェテリア近くをサーフボードに乗った人たちが通っていった。
それぞれロングボードとミドルボード、ノーズに付けられた給水口から得た水を推進力に変え、テールの水面側に付けられたフィンから勢い良く排出している。その勢いがわたしたちの所にまで届き、今度はボートが大きく傾いだ。
「──あっ!!」
テーブルの上に乗せていたわたしの時計が!すってんころりんと床に落ち弾みを付けてぽちゃんと海に落ちてしまった!
「ああ!そんなあ〜………せっかくお母さんに選んでもらったのに〜………」
「──ちょっと私苦情入れてくるわ」
「ちょちょ!そんな事より時計!レイア、大丈夫だから!あの時計、防水って書かれてたから!」
「………ほんと?」
「すぐに拾ってくるからちょっと待ってて」
お母さんが素早く上着を脱いで、ママがいつ見ても惚れ惚れするとわたし相手に惚気てくる筋肉質な上半身が露わになった。昔の戦いで腕やお腹に傷が入っている、それでもわたしは綺麗だと思った。
お母さんが休憩ボートの縁から海へ飛び込んだ、冷たい水飛沫がわたしやママにかかり、まだ食べ切れていなかったアイスクリームにもかかっていた。溶けている。
「む!わたしのアイスクリームが!これは苦情を入れてこないと!」
「──ちょちょちょちょ!レイア!こら──」
ママは何かとわたしに対して過保護だ。けれどお母さんは全くの逆で怪我をしようがお構いなしに何でもわたしにさせてくれる。
海に飛び込んでいくお母さんがとても羨ましかった、だからわたしも服も脱がずに海へ飛び込んだ。
昔は塩辛かったらしい海の水が口の中にこれでもかと入ってきた、あとついでに鼻の奥もつんとして痛い。
目を閉じていると誰かに手を握られた、いや、目を閉じていてもその手が誰のもか分かる。
先に潜っていたお母さんに手を引かれるままわたしも泳ぎ、そして、恐る恐る目蓋を開いた。
(わあ凄い……あれが昔のお家か………)
ちょうど休憩ボートの真下にあった民家の屋根に時計があった。お母さんの言う通り防水製らしく壊れることなく未だに針がぐるぐると回っている。
今ならいいかと思い、わたしの手を握ってくれる─いつまでもいつまでも、あの時もあれからもずっと握り続けてくれた─お母さんに向かってこう言った。
「(好き)」
ごぼこぼと口から空気が漏れて水面へと上がっていく。
海の中なら伝わらないと思ったのに、お母さんがとても嬉しそうにニンマリと微笑んだ。
◇
「わたしもいつか乗せてね、サーフボードに」
「ん〜?まだ早い」
「聞いてる人の話?いつかって言ったよわたし」
「ええ〜?聞いてなかったな〜レイアが私に好きって言ってくれたから聞いてなかったな〜」
本当にこの人はわたしより歳を取っているのだろうか?わたしの友達より子供っぽく見える。
海上モールで買い物を終えたわたしたちは自分たちの家に戻ってきた。そこは昨今珍しい砂浜があり、その砂浜から馬鹿みたいに高く続く階段があり、その先にわたしたちの新しい家があった。
白い壁に赤い屋根、青い煙突がある可愛らしくてお洒落な家だった。ママが手にする全ての権力とコネを使い倒して使い古して見つけた一軒家だった。別に職無しになったわけではない。
階段の下には昔わたしが使っていた古い車のおもちゃがあった。古いのはおもちゃではなく車の形だ、今は昔みたいに四つのタイヤが付いている物ではない。
砂だらけになったおもちゃを見てから長い階段をお母さんと一緒に一段ずつ上っていく。その途中で上機嫌のお母さんが後ろを振り返った。
「…………」
「………お母さんはどう思う?わたしは綺麗だと思う」
「………うう〜ん、私はそこまで割り切れないかな」
「じゃあ何でこの家にしたの?」
「そりゃ二人がここが良い!って言ったからだよ。──それにね」
別に嫌ってわけじゃないんだ、あの高いホワイトウォールを見ていると色んな人のことを思い出すから、と──そう言った。
今日も今日とてホワイトウォールがわたしたちを見下ろしていた、今は太陽の光りもあって"レッドウォール"だ。
その聳り立つ壁をもう一度眺めてから自分たちの家に入っていった。