第63話
.人人点々
様々なメディアで題材にされている『パニックホラー』なるジャンルを観ていると、決まって私は『自分だったらこうする』という妄想をしながら眺めているのが常だった。
例えば、初めてゾンビを見かけた人が「え?何だか様子がおかしいな……」などという所謂"噛まれ役"になる場合が多い。けれど私は確認する時間など作らずさっさと逃げ出す、とか。
例えば、街がゾンビで溢れ返る前にさっさと車に乗り込んで脱出する、とか。
さらに例えば、今みたいに建物の中にいる時は一つの場所に留まらず必要な物資を集めながら順繰りに部屋を回り、戦う道具を見つけて戦って生存率を上げていく──と、妄想していた。
けれど実際は違った。今日まで観てきた映画の登場人物たちと同じように私は一つの部屋に閉じこもっていた。場所は遺体安置所、室温一〇度以下に設定されているここはとても寒かった。
怖いのだ、思っていた以上に怖い。銀色の虫が病院内を徘徊し、色んな所に楕円状の卵を産みつけているのだ。
人は一度落ち着いてしまうとなかなか腰が上がらないものらしい、早く移動して助けを求めるため外に連絡を取らないと...そういう思考が頭のど真ん中に居座っていても体が動こうとしなかった。
「う〜寒い……何か着る物でもあれば良いんだけど……」
それに考え無しにここへ来たわけではない、虫は変温動物なので寒い環境の中では上手く動けないはず──と、思ったのだがあのタガメたちは深海域で生息していたと入ってから思い出していた。
(ヤバい……寒さに強いんならこんな所にいても意味がない……けど)
ここから外へ飛び出すのがとても怖かった、そして何より"億劫"だった。
"何とかなるだろう"という気持ちもあって、さらに動く気になれなかった。"怠惰"と"怖がり"は本当に悪い組み合わせだ、この場にいる事が最善だと考えてしまうから。
薄暗い安置所に入ってから何分経っただろう、もしかして一時間は経っている?時計が無いので分からない。
地下にある安置所の前を時折何かが通り過ぎていく、その足音は決して人が立てられるようなものではなく、細い金属の棒で床を突いているような音だった。
それに廊下だけではなく、壁の中からも小さな金属音がキンキンと鳴ったりする。きっとあの小さな幼虫たちがダクトの中を駆けずり回っているのだ。
見つかったら終わりだ、逃げ出す術は無い。自分から袋小路に入ったようなものである。
(いや〜……映画って良く出来てるんだなあ〜……ちゃんと人の心理も考えて──っ!)
冷たい床に向けていた視線をさっと上げた、閉じられている扉から何か物音がしたからだ。
また、音が鳴った。金属の棒でゴリゴリと扉の表面を削っているような音だ。
「………………」
息を殺してじっと耐える。お願いだから他所へ行ってくれと、今すぐにでも立ち上がりたい衝動を必死になって抑える。
けれど──駄目だった、廊下にいた虫が扉をこじ開けて中に入ってきた。
「Jwtqgtw、Mwpwp、Dtpwg」
「…………っ」
中に入ってきた虫はカマキリだった。長い首の先にある頭が細かく動き、安置所の隅にいた私を真っ直ぐ捉えている。
カマキリの身長は大人と同じぐらい、そして折れ曲がっている鎌は赤く濡れていた。
ガチガチと足音を立てながら、お酒を呑んだ酔っ払いのようにふらつく足取りでこちらに向かってくる。私のすぐ前でたたらを踏みながら立ち止まった。
どうして私はこの生き物を──寝起きの事は今でも覚えている。あの時あの軍の人に撃ち殺してもらえば良かったと、相対して激しく後悔した。
「ーーーMpwpwっ「──ひっ?!」………」
カマキリが素早く鎌を構え、何もせずゆっくりと下ろした。
怖い、ただひたすら怖い。理解できない動きをするカマキリが次に何をするのか全く読めない、"未知"に対する恐怖心が心を覆い尽くした。
冷たい床にお尻が引っ付いてしまったような感覚に囚われた、目の前のカマキリに思考を奪われ何も考えることができない。
そのカマキリが数歩後ろに下がり、血に濡れた鎌を大きく広げて床についた。
「………?」
頭を低く落とし、代わりに長い胴体を天井に向かって突き上げた。
何をしようとしているのか、ただ見守るしかなかった私の前でカマキリに異変が起こった。激しくその銀色の体を震わせたかと思えば、突き上げていた胴体の先から黒い線のような物がにゅるりと出てきたのだ。
「あぁ……」
得体の知れない粘液に塗れた黒い線のような物が、カマキリの胴体を伝いながらこちらに向かってくる。
それが何か分かった瞬間から全身に鳥肌が立っていた。圧倒的であれば恐怖も嫌悪も掻き消し、何をされるのかという"興味"が鎌首をもたげる。
それはハリガネムシ。宿主であるカマキリの体内から出てきて、今度は私に狙いを定めた。
(──気持ち悪いっ!!!)
目前にいるハリガネムシは両手で握れる程の大きさがある。微動だにしなくなったカマキリを伝いながらなおも近付き、ついにはその先端が私の頬に触れた。
稲妻のような嫌悪感が全身を貫いた。一瞬で口の中が干上がり、こんな状況なのに喉を潤したい衝動に駆られた。
頬を撫でたハリガネムシがゆっくりと移動し、今度は左耳を愛撫するように優しく触れていった。
「あぁっ………」
ぞわぞわと、鳥肌が意志を持ったように体中を勝手に歩き回った。すぐ隣で、ハリガネムシの先端が湿った音を立てながら開いているのが分かる。さらに細い管のような物が視界の隅に映り、恐ろしいまでに生暖かい感触が耳の穴に触れた。
(──あぁ、喉が、渇いた……)
全身の神経が左耳の穴に集中している。
自分が今から何をされるのかどうなってしまうのかカマキリと同じように操られてしまうのかその予測をこの細い管から少しでも、
バカン!と──大きな音が鳴った。
「…………え?」
ぐいと手を引っ張られる、ハリガネムシの仕業かと思った。つんのめるようにして足が動き出し、私の前を走る誰かの足が見えた時、蓋をされていた恐怖心が決壊し恥も外聞をかなぐり捨てて感情に任せた。
「──いやぁあああっ!──げっほ!ごっほ!」
目一杯空気を吸い込んだせいか、火薬臭い煙も一緒に吸い込んでしまい咽せてしまった。
「もう大丈夫だからね!間に合って良かったよ!──ふう〜ヒヤヒヤした!」
「ラハムだってあなたのような筋肉があれば華麗にナディさんをですねっ!」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!とにかく駐車場へ!急がないとマズい!」
「もう大丈夫ですよナディさん!ラハムとウィゴーさんがついていますからね!」
懸命に走った、あのカマキリから、あのハリガネムシから逃げるように。どうしてこの二人がここにいるのかまだ良く分かっていないけれど、私の手を握ってくれるウィゴーさんの手は不思議と冷たく心地良かった。
──ああ、この人は確かに人間だって思えた。
気がつくと私たちは病院のメインエントランスにいた。灯りは落とされてここも薄暗い、激しい戦闘があったのかあちこちが破壊されており何より異質だったのが、
「駄目ですよナディさん!あれは見なくてよいものです!」
──卵だ、丸くて歪んでいるアレはカマキリの卵だった。至るところに産みつけられている。孵化が終わった物もあれば、まだ潰れていない物もあった。
それを見た時、左耳にぞわりとした感触が走った。
「──いや!──いやいやいやいや!取って取って!」
「な、ナディさん?!」
「どうしたんだい?!」
何であんなものにこの身を委ねていたのか。
「取って取って!お願いだから取って!」
「な、何を取れば?!何も付いていません──ナディさん!!」
嫌悪感の正体である小さな塊を力任せに引きちぎった──途端に鋭い痛みが走り、私の左手が温かい何かに濡れた。
それは血だった。床に投げ捨てたのは小さなコネクトギアだった。
「何をやっているんですか!自傷行為に走るだなんて!」
(──ああ、お母さん、ごめん……)
血が流れていく度に私の中から力が抜けていく、その場に立っていられず膝をついてしまった。
✳︎
無理もない、当たり前の反応だと思った。
(この子はやっぱり強い、というより最近の子は皆んな強かだ)
こんな状況で取り乱さず下手に動かず、一人でじっと堪えていたんだ。緊張の糸が切れて恐慌状態に陥ってしまうのは、寧ろ正常な反応だと言える。
ヴィスタたちと別行動を取って正解だった。お陰でこの子に恩返しすることができたんだから。
「……いや、まだ早いかな……」
「ウィゴーさん!ナディさんが!」
「見れば分かるよ!とにかくその子を担いで!」
「え!無理です!今のラハムは人と同じ筋肉量しかありませんから!昔ならいざ知らず─」「─分かった分かったから!とにかく肩を貸してあげて!」
病院の出口はすくそこだ、けれど病院中に散っていた蟷螂が集結しつつあった。
あちこちから金属の音がする、叩くように引っ掻くようにこちらに向かってきているのが分かる。
ナディちゃんが自ら引きちぎった小さな金属片から何かが這い出てきた。それは黒い線のような生き物であり、さっきの冷たい部屋の中でナディちゃんに襲いかかろうとしていた生き物の赤ちゃんのようである。
どうやら彼女はあれに怯えて錯乱していたようだ。彼女の行ないは正しかった。
「うげえ何ですかあれ!気持ちが悪い!」
「ラハムちゃん!叫んでばっかりいないで足を動かして!」
「む!このラハムを子供扱いするのはウィゴーさんだけ「もういいから!早くしてってば!」
あの黒い生き物の名前を頭の中で検索し、全然思い出せないので諦めて出口へ足を向けた。
出入り口を通せんぼしている蟷螂の群れに向かってショットガンを撃った。ショットシェルを真正面から食らった蟷螂どもが奇声を発しながらもんどりを打つ。
「Gpwptpmーーーッ!!!!」
「ショットガンを食らって生存できる生き物はこの世に存在しないとゲーム実況者が言っていたからねえ!」
「いやあなたも大概ですよ──ウィゴーさんウィゴーさん!さっきのハリガネムシがランドスーツに向かっていますよ?!」
そうだハリガネムシ!
「──え?そんな馬鹿な事が……ハリガネムシの生態って確か……」
「寄生した宿主を操るんです!!──ああ!!」
ラハムちゃんがそう声を上げた時にはもう、奴らとの戦闘に敗れて頽れていたはずのランドスーツがゆっくりと起き上がっていた。
「あともう少しなのに!出口がすぐそこなのに!」
「フラグ立てるの止めてもらえませんか?!「いやもう立ってるんだよ!」
出口に向けていた踵を返し、ラハムちゃんの手を引っ張って走り出した瞬間だった。僕たちの軌跡をなぞるように対ランドスーツ用のマシンガンが襲ってきた。
「あああーーー!!!」
「あああーーー!!!」
捲れ上がっていくリノリウムの床、飛び散る破片が僕の後頭部に当たる。遮二無二になって走り、総合の受け付けカウンターに身を躍らせた。
「あああーーー!!!雑ぅぅ!!!」
「うるさい!ラハムちゃんはちょっとシャラップしてて!」
放り投げたのがまずかったらしい、奴らと同じようにもんどりを打ったラハムちゃんが抗議してきた。
「こっちは病人がいるんですよ?!レディファーストって言葉も知らないのですか?!」
「だから先に投げてあげたんでしょうが!そんな事よりあれは一体どういう原理なの?!どうしてハリガネムシがランドスーツを操れるんだ!」
「知りませんよそんなの!」
「はあ〜〜〜!もういいよ!君は逃げ込む場所を探して!このカウンターだってそう長くはもたなっ?!」
言ってるそばからランドスーツが再びマシンガンを撃ってきた。ただのカウンター如きが耐えられるはずもなく、見る間に穴だらけになっていく。
「ああ!!もう!!どうするんですか!!折角華麗にナディさんを救出できて薔薇色の私生活が待っていると思っていたのに!!」
「煩悩ダダ漏れだよ?!」
「死を直面した生き物は我が儘になるんですよ!」
「いや君マキナだよね?!」
「ナディさんが危ないと言っているんです!」
「どっちなの!!」
やぶれかぶれでランドスーツに向かってショットガンを撃った。傷は入ったけど足を止めるまでには至らなかった。
「生きてますよ!ショットガンを食らった生き物は必ず死ぬってさっき言いましたよね?!」
「いやあれはノーカンだよ、どう見たって生き物じゃないし」
「急なクールダウン!ハリガネムシを狙えって言ってるんですよ!」
「無理言わないで!」
にっちもさっちもいかなくなってしまった。手持ちにある武器はレミントンM870の一丁のみ、あんな虫もどき相手ならこの信頼実績実況者御用達のコイツで十分だとたかを括ったのがいけなかった。
(どうすれば!どうすれば良いんだ〜せっかく恩返しできたと思ったのに!────ん?)
蟷螂の死骸で溢れた出口の向こう側、外がにわかに明るくなった。その光りはまるでスポットライトのよう、上下に動いている。
「……助かった」
「ついに現実逃避ですか?ゲーム実況ばかり見ているから──ん?あれは……陸軍のランドスーツ隊!やった!助かりましたよウィゴーさん!」
「今の暴言は忘れないからね」
外にいたランドスーツが荒々しく出口を蹴破り中に入ってきた、数は三体、必要最低限の構成数だった。
ハリガネムシに取りつかれたランドスーツが狙いを変える、しかしそれより早く出口側にいた陸軍のランドスーツがこれを撃破していた。
「うわわわわわ問答無用!こっちには人がいるのに!」
撃たれたランドスーツの部品から、壁を抉った時に散った破片が宙を舞い僕たちに降り注いできた。その中には応射のために見舞ったマシンガンのバカデカい薬莢も含まれており、危うく二人に当たりかけた。
「──あっつっ!!!」
庇った腕から嫌な臭いがする、瞬間的に焼けてしまい皮膚の一部も捲れていた。
「ウィゴーさん……そういう所はトゥンクですよ……」
「ほんと君ってうるさいね!」
二度頽れたランドスーツは見るも無惨な程にボロボロだ、あれではいくらハリガネムシに取りつかれても動けはすまい。
そのランドスーツから小さなハリガネムシが這い出てきた。浅ましくも、元いた宿主に戻ろうとしているのか僕たちの方へ這ってくる。
鈍い痛みを堪えながら立ち上がり、そのまま足を上げてハリガネムシを踏みつけた。
そして、僕たちを救ってくれた陸軍のランドスーツ隊へ──[悪く思わないでくれ]
外部スピーカーから流れてくるその声は酷く無慈悲で冷淡で、ほんの少しだけ迷いがあった。
「…………僕がジュヴキャッチだから、っていう訳じゃないよね?後ろにいる二人も巻き込まれると知ってて銃口を向けているんでしょ?」
もう一度、対ランドスーツ用のマシンガンを向けられてしまった。それも未知の生命体によるものではなく、僕たちと同じ人間の手によって。
彼はこう言った。
[悪く思わないでくれ。全て悪い方へ、悪い方へ転がった結果なんだ。君たちは何も悪くないし俺たちはもっと悪くない]
「言っている意味が分からないけど?」
[ここで死んでくれと言っているんだ。悪く思わないでくれ、必要な事なんだ]
カチンとトリガーが引かれたその刹那、何処に隠れていたのか蟷螂の一体が僕たちの間に割って入ってきた。
[──っ?!]
「っ?!」
「そんな!庇った?!」
そう、ラハムちゃんの言う通り。目前で起こったことが信じられない、あの蟷螂が僕たちを庇うようにして撃たれていた。
[何が起こって──いい!撃て撃て!シルキーもあの民間人も逃すな!]
──だから必要最低限の三体だったのか。そう理解した次の瞬間、また信じられないことが起こった。
きっと身を隠していたであろう蟷螂の幼体がランドスーツ隊に殺到したのだ。
[何処から──くそ!くそくそ!何で俺たちがこんな目に──]
露わになっている彼らの一部から幼体が噛みつき、隙間から侵入して食い千切り、最も無惨な方法で命を取られてしまった。
怨嗟の声がエントランスに木霊する。その声を耳に入れぬよう、ラハムちゃんがナディちゃんの耳をそっと閉じた。
✳︎
火傷するような熱い感触を受けた。それは両耳であり、そうだと理解すると次は鋭い痛みが左耳に戻ってきた。
「──いったっ!……んん、痛い……」
「ナディさん!」
ラハムの泣きそうになっている顔が目の前にあった。いや、泣いていた、その大きな瞳から雫が一つ、私の頬を打った。
「ああ良かったです……本当に良かったです、もう大丈夫ですよ」
「そう……なの……?ウィゴーさん、ウィゴーさんは?」
か細い声だったのに、こちらに背を向けて立っていたウィゴーさんが振り返ってくれた。
「色々あったけどもう平気だよ、大丈夫」
「どうして……どうしてここにいるんですか……?」
「そりゃ勿論「ナディさんを助けに来たからです!」ちょっと……ほんとちょっと……」
「そんなこれ見よがしに言わなくてもナディさんにはきちんと伝わっていますよ、あなたが恩返しに来てくれたことに」
「……恩返し……?」
「え?!まさか覚えてないの?!あの時僕を助けてくれたでしょ?!ジュディスちゃんと一緒に!君がこの病院に取り残されているって通信を傍受したから助けに来たんだよ!」
「そう……なんですか?」
ラハムに促されるまま何とか立ち上がり、さっきまで頼もしい背中を見せてくれていたウィゴーさんと向かい合った。その眉が悲しそうに垂れ下がっている、どこか愛嬌のある顔だった。
「そうだよ〜……でも、ま、いっか、君が無事ならそれで良いよ。とにかく表に出よう、ここは空気が悪過ぎるからね」
ウィゴーさんとラハムが肩を並べるようにして歩き出した、二人の体に隠れて向こう側がまるで見えない。
「あの……どうなったんですか?さっきまでカマキリが……」
「もういないよ、もう大丈夫」
何が何やら...痛む左耳のせいもあってろくに考えることすらできない。
出口に差しかかった時だった。
「っ?!」
「ウィゴーさんの嘘つき!いるではありませんか!」
ラハムが言ったように、確かにカマキリが何体か出入り口の外にいた。いたのだが、どこか様子がおかしい。それにウィゴーさんも気付いた。
「いやでも、襲ってこないね……」
「さっきの事と関係しているのでしょうか?」
「さっき?」
私の質問に二人がびくんと反応し、あからさまに動揺しながらそれでも出口に急いだ。
「な、何でもないよ!ナディちゃんが気にする必要はない!」
「そ、そうですよ!襲ってこないのなら好都合!このまま外に出ましょう!」
破壊された出入り口、ガラス片を踏みながら外へと出る。それでもカマキリは微動だにせず、じっと私たちのことを見続けていた。
──ほらね、やっぱりと思った。やっぱりこの虫たちはこっちから何もしない限り何もしてこないのだ。
そして──夜の帳を払うため、昇った太陽の光りに照らされた空が視界に入り、またあの声が耳に届いた。
《それを人は善性と呼ぶ。だが、君は色々とあけすけに過ぎる、だから奴らに目を付けられてしまったんだ》
青色から赤色へ、グラデーションに染まる赤焼けの空の下。ちょうど真後ろにある真っ赤な雲を従えて、その機体は立っていた。
「何だ……あの機体……」
「空軍の機体では……ありませんね」
こんな言い方はとてもおかしいけれど、その機体は悠々と、堂々と、そして自信たっぷりに私たちのことを見下ろしていた。
太陽が放つフレアのように、そして私の妹であるフレアのように、真っ新で白色に輝く瞳がちょっぴり動いた。
「あなただったんだ……私に話しかけていたのは……」
「……ナディさん?」
《ここで私のことをあなたと呼ぶ君だからこそ幸運だと言える。俗世間に飛び出した甲斐があったというものだ》
二人には聞こえていないのだろうか?きょとんとした眼差しを機体と私に行ったり来たりさせているだけだった。
額から突き出た一本の角が太陽の光りを反射した、後頭部から伸びる立髪は段々になっており、ほんの少しだけ風に煽られて動いていた。
また──機体の瞳が少しだけ動き、私を捉えてから、最後になるがと前置きをしてからこう言った
《人と機械を結ぶ架け橋が壊れてしまった以上、自意識会話を続けることが難しくなってくる。忘れないでほしいのは私は君の味方だということだ》
自意識...会話?何それ、初めて聞いた。
でも、ああそうかと納得したので試しにやってみた。
《………助けてくれてありがとう、え、こんなんでいけるのかな、伝わってる?》
私の心の声が届いたのか、屹立していた機体がゆっくりと膝を地面に下ろした。その姿勢はまるで騎士のよう、煌々と輝く太陽の光りすらも従えて──何も言ってくれなかった。
けれどその白い瞳だけは変わらず、私のことを捉え続けていた。
✳︎
[──今回の騒動につきましては政府と軍との連携が良好に行なわれていなかった事に起因すると考えております。なので今後はより一層互いの組織を透明化し、また縦割り構図を改めていきたいと考えております。三度申し上げますが、今回の騒動で被害を受けた市民の皆様方には深く謝罪させていただきます──]
綺麗に禿げた天辺を見せつけるように頭を下げた。焚かれるフラッシュの光りが丁寧に反射し、クトウと名乗った総理大臣がピカピカと光っている。
「ねえ、この人別に悪くなくない?」
「……ああ、そうだな」
「ええもう……いい加減アマンナさんの事は忘れなって」
「そうだな……」
駄目だコイツ。いや私にも似たようなもんだけど...
テレビモニターでは昨日の夜から今日の未明にかけて発生していた『シルキー第三次騒動』についての報道があった。
ウルフラグ内閣府を代表するクトウ総理大臣が事の発端を、それはそれは遠回しに表現しながら説明していた。結局何のことか良く分からん。
さらに、その騒動に便乗するような形でカウネナナイのテロリスト組織『ジュヴキャッチ』が爆発騒ぎをこれでもかと起こし、街の交通網に大打撃を与えていた。そのため陸路による脱出、あるいは救出が難航し死傷者数を大幅に吊り上げていた、らしい。
(うう〜ん?この人らがやった事って……)
首を傾げて考える。ずり落ちてしまった毛布を肩にかけ直し、冷た過ぎる冷房の風から我が身を守った。服着ろって話なんだけど。
(通信障害が発生したお陰だよね……シルキーとかいうバケモンが街中に襲ってこなかったのは……)
答え合わせをしたいけど...
もう一人のポセイドンの頭にぽかりと殴った。
「起きろ!」
「………ああ、アマンナさん……俺の心を開いておきながらその仕打ちはないよ……フラれるよりキツい……」
「まだそんな事言ってんの?」
お互い部屋の中では服を着ないポセイドンがゆっくりと面を上げ、虚な瞳をこっちに向けてきた。
「何でそんなに平気そうなん……?教えてほしいのん……」
「あんたはこれ見てどう思う?ウルフラグ政府が悪いと思う?」
今までのは演技か!とツッコミたくなる程舌鋒鋭く切り捨てた。
「起こった問題についてろくに話し合いもせずにそれぞれが好き勝手やればそりゃ大事に発展するんじゃないの?こいつら自分の立場に縛られ過ぎだろ」
「辛辣ぅ〜」
「ん?今の何かアマンナさんっぽい……」
「そ、そう?そうでもないかも」
「……この際だからお前がアマンナさんに似たマテリアル・コアに換装し「いや発想が気持ち悪い」
がくりと項垂れたポセイドン。厚手の毛布にくるまり芋虫のようになってすごすご部屋の隅に退散した。
私はモニターに向き直り、世間様の動向を調べるのにも飽きたのでハンティングゲームを起動した。
モニターにはアマンナさんそっくり(キャラデザに一週間を費やした自信作!)のアバターが、舞台となっている雪に覆われた村を颯爽と走っているところが表示されていた。
(ほんと良い出来……ああ、尊い)
「……お前もヤバいぞ、そこんとこ分かってる?」
背後から芋虫が攻撃してきた。うぐぐと胸を押さえ、仕返しに何か言ってやろうとすると...マントリングポール管制室の扉が勝手に開いた。
「やっほ〜邪魔するぜ〜」
「っ?!」
「っ?!」
まただ、あの日と同じように...あの黄金の思い出を作ってくれた時と同じようにアマンナさんが颯爽と部屋に──入ってきた!
「アマンナさん!」
「アマンナさん!」
ばば!と立った拍子に肩から掛けていた毛布がずり落ちた。
「何で全裸なの!服着ろ服!」
赤いパイロットスーツ姿のアマンナさん。頬が少しだけ赤く染まっている、その表情をと〜て〜と思いながら着る服を探し始めた。
◇
「え?あんなのただの冗談に決まってんじゃん。もしかしてずっと気にしてたの?」
「いやだって……ラスボスっぽい人がそう言ってたからそうだろうって……いやでもアマンナさんの反応を見て合点がいきました」
「あ〜良かったあ〜〜〜ほんとに騙されてたのかと思った」
「そんな訳ないじゃん。あん時はその場のノリっていうか…まあ、ノっとけ的な?」
小首を傾げ、私も真似したいポニーテールが揺れた。
「で、アマンナさんの隣にいるダンディなおじ様は新手の魔王か何かですか?それとも辺境でスローライフを送ってレベルがカンストした転生者の最終進化形態─」「─ドゥクスだ。どうぞよろしく」
そういう事かと理解した。わざわざ山を超えて私たちに会いに来てくれたのは司令官を連れてくるためだったのだ。
その事実にちくりと胸が痛む。
もう一人のポセイドンも不躾な視線を送って八つ当たりをしている。
「へえ〜あんたがこっちの……で、何か用?」
「バベルはどうしている?奴の様子を見に来た」
「バベル?どっちの?」
「こっちだ。マリーンのバベルだ」
「何で私たちが知ってると思ったの?」
こうして司令官と会うのは初めて、というより会話するのも初めてだった。
本来マキナは不干渉、当たり前だけどその当たり前の事実にも腹が立った。
ドゥクスと名乗ったマキナが答えた。
「バベルに聞いたからだ、ポセイドンたちと仲良くやっているとな。で、実際のところはどうなのだ?」
「見れば分かるだろ、この管制室には俺とポセイドンしかいない」
「あい分かった、それで十分だ」
「?」
「?」
え、もう終わり?いやそっちの方がありがたいんだけど何だか拍子抜けした。それにその程度ならメッセージ一つで事足りたろうに。
「行くぞアマンナ」
「ええ〜?もう?折角来たんだからもう少しゆっくりしていこうよ」
ダンディなおじ様がダンディなポーズを取って溜息を吐いた。
「全く………私はマントリングポールを視察してくる、それまでの間だけだぞ」
「いやっほう!──ねえねえ、そのゲームは何?何だか私に似ているような気もするんだけど」
「ああそれはですね、ポセイドンがヤンデレ発動して夜な夜な作っていたアマンナさん激似ハンターでして──」と、ポセイドンが勝手に解説をし出した。
それを横目に入れながら私は不思議と椅子から立ち上がり、司令官の跡を追いかけていた。
管制室の外から眼下に広がるマントリングポールの採取弁を、司令官が見るともなしに眺めている。欄干に響く私の足音にすぐに気付き、視線を寄越してきた。
「何かな?」
「いや、ウルフラグの一件についてちょっと意見を聞きたくてさ、あんたはどう思ってんの?」
ブルーの瞳が好奇心に揺れている、話しかけてきた私をもの珍しく見ているのだろう。
司令官が自分の顎を何度か撫でてから答えた。
「──悪い点と良かった点、二つあるかな」
「良かった点?何それ、あんなの全部悪いに決まってんじゃん」
「確かに、ノヴァウイルスの暴走により幾人もの命が奪われてしまった。我々マキナからしてみれば酷い結果であり、もしかしたらガイアを決議にかけなければならなかったのかもしれん」
「…………」
だが、と言ってから続きを話した。──そのブルーの瞳を爛々と輝かせながら。
「今回の騒動でようやく見つけることができた──できたんだ。今の今までこちら側が盤面をひっくり返されていたが、ようやくツキが巡ってきた。ガイアを説き伏せて偶像崇拝の的になってもらった甲斐があるというものだ。手を貸してくれた麻布には感謝せねばなるまい」
「え〜と……何の話?」
ドゥクスと名乗ったマキナが最後にこう言った。
「──師の教えの話だよ、ポセイドン。人と人は点で結ぶように繋がっているという事だ」
※次回 2022/7/2 20:00 更新予定