第61話
.燈
ことり。何かが落ちる音で目を覚ました。
「んん……なに……」
それはどこかで見たことがある人形だった。
ファンは付けられておらず薄らと埃を被っているそれは、前にバーでジュディさんがポンコツ店員と呼んでいた物だった。
「ああラハムの……何でこんな所に……」
前の患者さんが置いていった物だろうか、病室の端にあった棚からラハムの人形が落ちていた。
それだけじゃない、他にも医療器具やベッド横に置いていた私の携帯も床に落ちていた。
「何で……」
誰かが入ってきたのかな...寝ぼけた頭でそう考えた時、病室が大きく揺れてしまった。
「っ?!」
ことり。また何かが落ちる音が聞こえ、窓の外からくぐもった雄叫び声が耳に届いた。
「…wptgmpppーーーっ!!…」
「今の声って、まさか……」
病室の扉の向こうから慌ただしく誰かが駆けてくる。リノリウムの床をブーツで蹴り上げる音だ、私がいる病室の前で立ち止まり「ここが最後か?!」と誰かに確認している。
無理やり開けられた引き戸の先には武器を持った軍の人が立っていた。
「早く逃げる準備をしなさい!」
「え……?え?」
遅れて入ってきたナースさんがコネクトギアに接続されたケーブルを抜き、ポータブル式の調整機器に接続し直した。
「いいから!私たちに付いて来て!」
「何がっ……」
こっちはまだ寝起きなんだ、いきなり現れてそれはないだろうと思うが窓の外から現実を突きつけられた。
「Mwpwpqpppーーーッ!!!!」
またあの声だ。電子音で再現したその声は耳に障り頭を揺さぶってくる、何とも不快なものだった。
眠りにつく前はあんなに満たされていたというのに、またこの声が私を責めてきた。
不快な電子音に紛れて空気が抜けるような爆発音も耳に届いてくる。窓の外から火薬の臭いが入り込み、私を無理やり立たせたナースさんが「戦ってくれているからね!大丈夫だからね!」と自分へ言い聞かせるように口にしていた。
されるがままに私も走り出し、枕元に置いたマスクを思い出したので振り返ると──
「──っ」
いた、そこにいた。窓枠に鋭い脚をかけてこちらを覗き込んでいる虫がいた。
全身を銀色に染め上げ瞳の色が真っ赤に燃えている。どうして?どうしてそんなに警戒しているの?
だってあの時は──卵を海面まで引き上げる時は手伝ってくれたのに──
私の手を握っていたナースさんが叫び声を上げながらぱっと離し、我先にと廊下へ飛び出していた。
(私を迎えに来たから……きっと嫌だったんだろうな……)
私たちの前に姿を見せたその虫は一般的にカマキリと呼ばれる生き物に似ていた、ラグビーボールのような目をくりくりと動かし逃げていったナースさんを捉えている。
武器を持った軍の人が素早く構えてトリガーを引いた、目が眩むようなフラッシュに紛れて苦しそうな電子音が病室に響き渡った。
「待っ──」
おかしいと思う?私は自分でもおかしいと思う。突然こんな状況になって、既に倒れている虫に向かって撃ち続けている人に手を伸ばし止めようとしたのだ。
私の手を、助けを求めていると勘違いした軍の人が力強く引っ張り、そのまま部屋の外へと追い出した。
「君も早く逃げなさい!病院の外に軍の護衛車が待機しているはずだ!」
──それ、私のせいですか?と、口にしようとして思い留まった。
ゆっくりと閉じられていく引き戸の向こうでは、(決してそんな必要はないのに)勇敢にも銃を撃ち続けている軍人さんの背中があった。
どうして?何で?どうして?
噴き出す疑問に答える術はない。
どうして?あの時は健気に手伝ってくれたのに、どうして人を襲うの?
駄目だった、どうしてもあの時の姿を忘れることができなかった。有人探査機のアームと一緒になって卵を支えてくれたあの虫たち──同じ仲間じゃないの?
動けなかった、動きたくなかった。
閉められた引き戸に誰かが叩きつけられ、湿った音も漏れ聞こえてくる。扉と床の隙間から赤い液体が溢れ始め、私の膝も濡らした。
温かかった。私のせいだ、全部私のせいなんだ。あの時もあの時も卵を引き上げてしまったからこんな事になっているんだ。
私がテロリストの指示に従わず無視していれば、きっと虫たちも人を殺すようなことはしなかっただろう──
《考え過ぎだ》
「…………え?」
知らないうちに項垂れていたようだ。誰かにそう言われたような気がして頭を上げた。
──夢でも何でもなかった。確かに私の膝は血で濡れており、今も廊下に広がっている。
「──っ!!……いやっ…何でこんなっ……」
温かい血が何より悍ましい、触れている膝から小さな蟲が這い上がってくる感覚に囚われ堪らず声を漏らした。
私を庇ってくれた人なのに、その人が流した血に嫌悪感を抱くだなんて──《いや、君が抱いたその嫌悪感は正しい。何せ本当に蟲がいるのだから》
「……えっ?いや、は?今の何?」
あれだけ騒がしかった扉の向こうはしんと静まり返り、廊下で物音を立てているのは私だけのようだ。
けど、確かに声が聞こえた。それは深いようで幼いようで、男性のようで低い声をした女性のようで。
(……廊下の向こうから?《そんな事より足元から這い上がってくる蟲をどうにかしたらどうなんだ?》
誰の声か分からない、けれど足に違和感を覚えたのでそのまま視線を向ければ、
「──ぁぁああぎゃあああっ?!?!なんなんなんなんっ?!?!」
それはもうびっしりと、赤く濡れた小さな粒が...虫かこれ、幼虫?──うわあああっ!!!
《そうそう。人はとかく虫に怯えるものだ。安心したよ、うんうん》
腕からぞわぞわと鳥肌が総毛立ち、一心不乱になって小さな幼虫をこれでもかとはたき落とした。
「あー!あー!あー!あー!あー!もういやあーーー!」
大丈夫?大丈夫かな?目に見えた範囲では虫はいないようだ、けれどあんなに小さかったら服の隙間に入り込んでも分からな《だから考え過ぎだ、君の体にはもう付いていないよ》
「──誰ですか!さっきからコソコソと!」
素早く後ろを振り返った、けれどやっぱり誰もいなかった。
「っ?!」
今度は扉の向こうから、けれどそれは無線機から流れてくる声だった。
[…ているか!……答しろ!……後はお前だ……]
これが夢じゃないのなら、さっきまで見ていた光景が夢ではなく現実だったのなら、無線機から呼びかけている人はきっと入り口で待機しているはずだ。
扉を開こうにも開かない、私を庇ってくれた人がもたれかかっているからだ。
逃げ出したい、早く日常に戻りたい、全部なかったことにしてほしい、という思いを胸に押し込みながら扉に向かって叫んだ。
「……救助は終わった!!待たずにさっさと行けえ!!」
[…了…!…場所は……基地!……えるなよ!]
良かった、わざと声を低くした甲斐があった。
大声を出したせいか、周囲から何かが這ってくるような音がした。この場にいるのは私だけじゃないと悟り、いつまで経っても姿を見せない誰かさんに話しかけた。
「……私、馬鹿なことしたかな?待ってもらった方が良かったかな?」
返事は無かった。
✳︎
[──の番組を取り止め、臨時ニュースとして放送しております。約三時間前に発生した爆発騒ぎが各地にも広がっており、交通網に多大な影響を与えています。そのため警察、救急隊の動きにも支障が出ておりさらなる被害が拡大するものと予測されています]
(大変なことになってんな〜)
いや俺もなんだけどね?
[また、先日大統領行政室より発表がありましたシルキーに関連した騒動がウルフラグ空軍付属病院を中心として発生しており、各軍が対応のため緊急出動する事態となりました。ウルフラグ国防軍から要請を受けた内閣府は臨時の対策会議室を設立し、早期解決を目指した対策会議を行なうと先程発表がありました。被害を受けている地域はテロップに──]
部屋の主が「退屈だろ、テレビを点けておくから見ていると良い。すぐ戻る」と独り言を言いながら点けてくれたテレビをじっと座りながらただただ眺めていた。
[被害を受けた病院近くに記者が到着しました、中継を繋げたいと思います]
[──はい、こちらはシルキーの襲撃を受けた病院近くのビルの屋上です、あちらが見えますでしょうか?病院の敷地内には破壊された特個体の機体と混じるようにしてシルキーの亡骸も見えています。病院の建物も所々が破壊され、その攻撃の激しさが手に取るように分かります]
何なら病院から火の手も上がっている。黒い煙が夜空に上り、その上空を何機ものヘリコプターが旋回していた。
テレビカメラに映った限りでは周囲の民家の灯りも落とされており、まるで街そのものが死んでしまったようにひっそりとしていた。
いや俺もなんだけどね?
(動きたい。今のうちに逃げ出したいでも怖い!)
部屋の主がいつ帰ってくるのか、もし動いているところを見られたらどうなってしまうのか、考えただけでも恐ろしかった。
何で〜?何でマテリアル・コアを起動したら女みたいな格好をさせられているんだ〜?それにここは何処なんだ?寝室っぽいけど寝室っぽくない。だって...子供体型の人形がずらずら並んでいるから!
え、こっわ!何なのここ〜それに部屋の主は俺がマキナであると知っているようだ、首筋にあるアナログポートにケーブルを挿して...
(これも罰ってやつなのかな……)
あいつは自分から望んでいたように思う、けれどそのきっかけを与えたのは俺、あんな事になるなんて夢にも思わずどうすれば良いのかまるで分からなかった。
身も心も雁字搦めにされている。人間怖い。
いやほんと怖い、何を考えているのか分からない人間にマテリアル・コアの中を探られているんだ。もし俺がこのマテリアルを指一本でも動かそうものなら通報がいくように弄られているんじゃないかと思うと、動くに動けなかった。
(でもまあ、これが罰だというんなら……甘んじて……)
テレビ画面では変わらず男性レポーターが病院周辺の状況を口早く説明しており、既に何台かの護衛車両が基地方面へ走っていったと話している。
その病院では今も散発的な戦闘が続いているようであり、陸軍が所有しているランドスーツが時折映っていた。
空軍が所有している機体は撤収したようだ、少なくともテレビカメラには映っていない。
(……?電波が乱れてるのか?)
淀みなく喋っていた男性レポーターの声が途切れがちになり、画面の解像度も途端に落ち始めてきた。そして映像がプツンと切れ、複数の色を同時に表示して評価するカラーバーに切り替わった。
「………………」
薄暗い部屋の中、無意味に表示され続けているカラーバー。テレビの周りにはスケールモデルの人形がずらり、俺の隣にも等身大の人形が何体か並べられている。
「………………」
ぷぅんと甲高い音に支配され、異質な空間で意識を失うことなく逃れることもできずにいると、徐々に世界が崩壊していく錯覚に囚われた。
(これが俗に言う地獄というやつか………)
──その時だった!部屋の主が帰ってきたのだ!
「……ひっ」
乱暴に開けられる玄関扉、余程待ち切れなかったのか寝室へ真っ直ぐ走ってくる!俺を連れ出した人間は間違いなく人形好きの変態野郎だ!
「ひぃっ!」
部屋の主が俺を怯えさせるようにわざとドアノブを鳴らしている、上下にガチャガチャと、数度繰り返したあと地獄の扉が開かれた!
「あーーーーっ!!!」
「ハデス!私よ私!グガランナ!」
「………あれ、グガランナに見える……あれ?何で……?」
「見えるじゃなくて私よ!それより何て格好をしているの!」
...やっぱりそう思う?胸がないのにレース付きの下着をつけられ、透けて見えるキャミソールも着せられている。それに襟足もスッキリしている感覚があるので一本にまとめられているのだろう。
「全く人騒がせ──マキナ騒がせな「……言い直す必要あった?」あなたを拉致った人間はあとで制裁するとして!今はとにかく身の潔白を証明するのが先よ!」
「いやでも……俺が動いたら家の主が帰ってくるんじゃ……」
「そんなものさっさと逃げ出してしまえば良いだけでしょう!………あるじゃない!ちゃんとした服が!ほら!早く着なさい!」
突如として現れたグガランナも少しだけダボついた服を着ている。そのグガランナが家の中をひっくり返して俺が着る服を探してくれた。
その姿勢に不思議と頼もしさを覚え、俺はついグガランナに甘えてしまった。
「……怖いよ〜人間怖すぎるよ〜女も男も皆んな怖いよ〜」
「あーよしよし、怖かったわね。……そりゃこんな所にいたら怖いはずだわ……」
俺が胸に抱きついてもグガランナは嫌がる素振りを見せず、それどころか優しく頭を撫でてくれた。
途端に元気になった(情緒不安定とも言う、マキナなのに)俺は女物の下着もキャミソールも破り捨ててグガランナに渡された服を着込んだ。
「俺をこんな目に遭わせやがってっ……ぬっコロしてやるっ!!」
「途端に元気になったわね。言っておくけどその服はあなたを攫った犯人の物よ?それで良いの?」
「………え、そうなの……?……何かヤダな……」
感情ってそもそも爆発するようなものではない。爆発した分だけあっという間に萎んでしまった。
グガランナが俺の手を引っ張り人形だらけの部屋から連れ出してくれた。部屋を抜けた先はがらんどうのリビングになっており、俺を攫った犯人の歪な精神構造を垣間見た思いだった。
玄関からさらに外へ、そこで俺は人が作った広大な住処を初めて目の当たりにした。
これが"街"というものらしい、建物はてんでバラバラ、灯りが点いたり点いていなかったり何の規則性もない。けれどはっきりとした"人の連帯感"のようなものを感じ取った。
冬ならではの冷たい風に打たれながら外通路を歩きマンションの共用エレベーターへ、それに乗り込み一息吐いた。今頃になって何でこいつが俺を見つけることができたのか気になった。
「グガランナ、何で俺の居場所が分かったんだ?」
「今さら?これよ、これ」
何か知らない間に随分と砕けた様子のグガランナがだっさい携帯を見せてくれた。それは一般的な物ではなく正方形の形をしていた。
「何そのダサいの」
「政府から貰ったマキナ専用の携帯電話よ。不思議とこの携帯だけ繋がるようだからウルフラグのサーバーにアクセスしたの、そしたらあなたが女の子のようになって人形だら「だあああ!言わなくて良い!せっかく抜け出せたのに!」
ちんと間抜けな音を出しながらエレベーターが一階に到着した。がこがこと傷んだ扉が開いた先には、俳優のように顔立ちが整った男といかにも中間管理職が似合いそうな男が立っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
二人とも煤だらけになっている、汚れた手で顔でも拭ったのか黒い線が何本か走っていた。
何故に無言?そして俺を何故にそこまで見つめるの?二人が道を譲ってくれないのでエレベーターの扉が再び閉められていく──
「──貴様がグガランナ・ガイアが!」
「っ?!この人ヤバいこの人ヤバい早く早く早く!!」
その俳優然とした男が閉じようとした扉の隙間に手を挟み、無理やりこじ開けようとしてきた。グガランナは指だけで『閉』ボタンを壊さんばかりに連打している。
「待て!貴様に色々と訊きたいことが──アンカー!お前は非常階段から──」
こじ開けることを諦めた男が別の男に指示を出し、エレベーターが再び上り始めた時には駆け出していた。
「あわ……あわあわあわあわ……あ、あの男だ間違いない…お前のことを知っていたし俺のことを凝視していたし……」
「いや、私というよりあなたを外へ連れ出した私をグガランナと判断したんでしょう」
「何をそんな他人事みたいに!どうすんだよ!──ああやだあ!もうあの部屋に戻りたくなあああい!俺の常識と良識が壊れていくうう!」
「落ち着きなさい、あなたを奪われたりしないわ。それよりもあの二人、随分と火薬の臭いがしたわね、気付いてた?」
「んな事より俺の心配だよおお!もう最上階に着くじゃないか!」
「はあ全く……あなたも人間臭くなったわね……そんなに怖いならサーバーに引き上げれば良いじゃない」
「──あ、それもそうか。──いやいや!あいつは俺のマテリアル・コアで変なコトしてたんだぞ?!奪われてたまるかこのマテリアル!」
「それもそうね……着いたわ、準備して」
こいつほんとにあのグガランナ?何というか頼もしいというか...
降りた先は俺たちが逃げてきたフロア、つまり犯人の部屋がある所だった。グガランナは降りてすぐ曲がった先をひた走り、屋上のヘリポートがある鉄製扉をふんす!と無理やりこじ開けていた。
「なんつう馬鹿力」
「お陰で助かったんだから別に良いじゃない」
「ただの器物損壊では?」
「…………」
はっ!とした顔をしながらもグガランナが階段を駆け上がり、遅れてやって来た男二人も俺たちの跡に続いた。
「待て!ここから先はどのみち行き止まりだぞ!」
「あばばば!やだやだやだ怖い怖い怖い!」
「ま、待て!別に君を脅かそうとした訳では──」
それが一番怖い!その優しい声が一番怖い!こいつだ!というか今白状したようなもんだろ!
グガランナが再び馬鹿力で扉を押し開き、マンションのヘリポートに到着した。
綺麗だった。本当にこんな状況じゃなければ人間が作った夜の街を堪能できたのに!
足を動かす度に乾いた鉄の音が足元から上ってくる、グガランナの手に引かれるままヘリポートの端に到着し、奴の言った通り俺たちは行き止まりにぶち当たってしまった。
奴らは走るような真似はしていない、ゆっくりとした歩みで俺たちの跡を追いかけていた。
「おいどうすんだよ!ほんとどうすんだよ!」
「どうもしないわ、彼らと取引きをするだけよ」
「いやもうそれ答えが見えているようなもんなんだけど……」
俺が愚痴をこぼしてもグガランナは取り合わず、手を握り庇うように背中へ回してくれた。
「お前ほんとにグガランナ?何か、今日は凄く頼もしく感じるんだけど」
この状況なのに...グガランナがにんまりと微笑みながらこっちを振り向いた!
「……そう思う?私もいよいよ染まってきたのね……」
(怖い)
怖い。もう女も男もマキナも皆んな怖い。
ここで微笑む意味が分からない。
遅まきながら奴らが到着し、懐に隠していた拳銃を取り出している。
「グガランナ・ガイア、ちょうど良い機会だから常々疑問に感じていたことを尋ねようと思う」
何その回りくどい言い方。俳優然とした男の声が耳に届く度、冷たい風とはまた違った鳥肌が全身を駆け巡っていった。
「私のこの頼もしさのこと─」「─いや違う。というより今日初めて出会ったのに人柄について尋ねるはずがないだろう」
「いやほんとだよ」
漫才?意外と息が合うのかこの二人。俺も突っ込みを入れたせいか、グガランナがぎりぎりと強く手を握り返してきた。痛い。
奴の声は、ヘリポートにいるにも関わらず不思議と良く届いた。
それは確定した事項であり、質問ではなくただの確認だった。
「何故お前はハフアモアの現出を見逃したんだ?マキナを束ねる存在ならば、この世界の全てに精通していたはずだ」
「──その言い方はガイア・サーバーについても明るいようですね。あなたの身近にマキナがいましたか?」
「……グガランナ?」
喋り方が変だ──いや、元々こういう喋り方だったはず。この一瞬でそこまで変えられるものなの?
「いなくとも分かる。何せ私は王の血を引く人間、故にガイア・サーバーに近い位置にいた」
「……………」
グガランナは何も答えない。
「何故見逃した?あれは母なる大地を喰らい尽くす存在だ。ウルフラグにとってもカウネナナイにとっても何の益もない」
「ですがあなた方は以前、ユーサの港を襲撃してまでそのハフアモアを奪ったでしょう?」
「そうだ。だが、それは国王であるガルディアの命であり、当時のカウネナナイも今のウルフラグのようにハフアモアのその毒に目が眩んでいた。我々のお陰でウルフラグに回る毒の量がいくらか減ったはずだ──まあ、結果として同じ道を辿ったわけだが……」
無警戒にも男が周囲へ視線を向けた、釣られた俺も見やればさらに街の灯りが落とされているようだった。
ここでグガランナが切り返した、その話題から遠ざけるように。
「それはあなた方の仕業でしょうに。街の至る所に爆弾を仕掛けて無辜の民を傷つけている、違いますか?」
「毒蛇に噛まれた時は素早く患部を吸い上げその毒を排出する。それに間に合わなければ噛まれた部位を切断し、全身に毒が回らぬようにしなければならない」
「ウルフラグの民が切断されるべきだと?」
「違う、これしか世界を存続させる方法がない」
「ならば、やはりあなた方の仕業だと言うのですね?」
「論点がずれている。訊きたい事は何故この世界の管理者たるマキナがハフアモアを見逃したのか、という点だ。この惨状が見えないのか?人の燈が消えた街を見て後悔はないのか?お前たちが招いた事だ」
奴の言葉、その一つ一つが重たく鋭く冷たく、俺たちマキナの所以を根底から問うてきた。
誰のせいだと思っている?それは両者の間にある最大の"共通点"であり"怒り"だった。
「そもそも我々マキナを要らぬと言い、武器を取り、鉄のカーテンの向こうに追いやったのはあなた方人類です。だから私たちはあの狭い箱庭の中で何百年という月日を無為に過ごしてきたのですよ──ですが、ええそうですね、お答えしましょうか」
「──ただの憂さ晴らしか?」
「いいえ。何故私がノヴァウイルスを見逃したのか、それは────だって、そっちの方がより確実性が増すと思ったからよ」
「…………?」
「………グガランナ?」
今、明らかに声質が変わった。気のせいではない。
相対している男も不可解そうに眉を寄せている。
「ここは狭い。いいえ、世の全てのテンペスト・シリンダーは狭い、本来の住処を追われて辿り着いたディストピアだもの。一体誰がこの未来を予測できたのでしょうね?それに私の想いを重ねた結果こうなった、としか言いようがないわ」
「何が言いたいんだ」
「外へ出たかった、ただそれだけよ。私たちが選んだ隠れ蓑は本当に狭いの、ドゥクスにお願いして当時の政府に作らせた研究所は本当に狭かった」
グガランナが何を言っているのかまるで分からない。グガランナがどんな顔をしているのか見たかった。
見るんじゃなかったとすぐに後悔した。
「もう彼処には戻れない」
「──っ」
俺が捕われていたあの部屋で見た人形のように虚で真っ直ぐで、けれど口元は自然な微笑みを湛えていた。
目と口を別々に使っているような顔をしていた。
偶然にも、いや不運にも男と問う言葉が重なった。
「お前は──」
「──誰なの?グガランナじゃないよな?」
今度は目と口が入れ替わった。
「そんなまさか、私は確かにグガランナ・ガイアですよ、今日まで共に過ごしてきたではありませんか。──それよりも、この惨状を鎮める手を打ちましょう」
いつの間にか銃口を下ろしていた男が再び持ち上げ、撃鉄を上げながらこう言った。
「止めておけ、ウルフラグのみならずこの世界の為にならない」
「仕掛けた爆弾で民を傷付けることが世界の為になると?」
同様にグガランナもだっさい携帯を持ち上げた。
(ちくしょう、俺は一体どうすれば良いんだ…?)
不気味なグガランナと人形を愛している勿体ない男が睨み合っている。どちらにつくべきなのか、それともこの場から逃げ出すべきなのか──あともう一人の冴えない男が居なくなっていることに気付いた。
「……………っ!グガランナっ!」
咄嗟に声を出していた、出してしまった。
冴えない男がヘリポートを支える柱を伝い、俺たちの背後に回り込んでいたのだ。なんつう身体能力、ヘリポートの縁にかけられている手を運良く─あるいは運悪く─見つけた俺はグガランナにも教えるため声を出していた。
それが決定的な瞬間となりグガランナに数瞬の猶予を与えることになった。
男がトリガーを引く。それより早くグガランナが携帯の画面をタップした。
「──くそっ!」
男の声より速く、弾丸がグガランナの眉間を貫いた。
女性型のマテリアル・コアが着弾の衝撃でふわりと宙を舞う。金色の髪が風に煽られ一瞬だけその勝ち誇った顔を隠した。
マテリアル・コアを制御する擬似脳細胞体が破壊されてしまい、受け身を取ることもできずそのままヘリポートの縁から夜の街へと身を投げ出した。
「………ら、はむ………ラハムオペレーション?」
グガランナが持っていた携帯だけが場に残った。そして、その画面にはポップな字体で『発動中!』と表示されていた。
✳︎
何あれー!凄い事になってんなー!
(む、いかんいかん。私はそういう人格設定ではない。いやでもあれ何?凄い事になってんなー!)
早く到着しないと間に合わない、流石にあの状況にあの環境では精神もそう長くは保たないだろう。
気が急いているのに目の前に広がる光景に目を奪われてしまった、いや疑うとも言う。
私の今のサイズで言えば、そうだな、装甲板を繋ぎ合わせているボルトぐらいの大きさだろうか?人で言えば手のひらに乗る程の大きさだ。
その大きさの人形が自前のファンを使って夜空を自由自在に飛び回っていた、そしてこの数、一〇〇や二〇〇では利かないだろう、下手をすれば万単位である。
(これが今の人の世か)
街中で起こった爆発騒ぎのせいで死せる海に転じていた。人の営みを示す灯りが殆ど無く、そのお陰で比較的低い高度を飛んでも発見されるようなことはなかった。
爆発の影響は街の灯りだけではない、広い範囲で通信障害も発生していた。これでは十分な連絡を取り合うことも不可能であろう、しかし今は好都合である《うわ、さっぶ…》
(ん?寒い?何処に身を隠しているんだ?病院内に寒い所なんてあったか?)
急がねばならない。
もう、人の命が潰えるところは見たくなかった。
✳︎
空軍の付属病院がある街から片道約一時間の所に陸軍の駐屯基地があった。海岸沿いの道を渡った先である、病院がある地域内にも基地があるにはあったが戦闘地帯から近過ぎるという理由で隣街に避難所が移されていた。
(いない……どこにもいない)
スポットライトに照らされた基地の駐車場は広く、そして沢山の人で溢れ返っている。誰もがその間を走り回り、怪我の手当てを受けたり再会の喜びを分かち合ったり、中には基地の人へ八つ当たりをしている人たちもいた。
そのどれにもナディの姿が無い、そんなはずはない、付属病院にいた全ての人はこの基地に避難する事になっていたはずだ。
(どうなってるの……大怪我をしていたわけじゃない……十分動けたはず……)
まさか。その先を考えるのはどうしたって躊躇われる、いいや体が拒否反応を起こしている。
(もしかしたらキング中佐たちが……)
一縷の望みを求めて空を見上げる、ちょうど一つの光点が海方面から街へ移動しているところだった。
どうにかして連絡を取りたい、けれど今は全ての通信機器が使えなくなっていた。
もどかしいにも程がある。何も出来ずにただ待ち続けているしかない私の手を誰かがそっと握ってきた。
「大丈夫?」
アキナミだ。
「まあ……それよりあのおじさんは?」
あの海岸線で遭遇してしまった私たちは、文字通りデスロードを突っ走ってここまでやって来た。
その頃はまだ通信障害も起こっていなかったので容易に連絡を取ることができていた。ラジオから避難先は此処へと、緊迫した様子で話すパーソナリティはいつかつまらないジョークを言っていた人だった。
けれど、この街に到着した途端から携帯に電波が入らなくなり連絡を取ることができなくなっていた。さらにここまで連れて来てくれたドライバーも緊張の糸が切れてしまったのか、酷い腰痛を訴えて負傷者を収容している兵舎へと案内されていた。
様子を見に行ってくれたアキナミが二本の缶コーヒーを携えて戻ってきたところだった。
「元々腰痛持ちだったんだって。今は鎮痛剤を処方されて安静にしているよ」
「そう……ありがとう」
アキナミが何も言わず缶コーヒーを差し出してきたのでそのうちの一本を貰い、あまり喉の渇きを覚えていなかったけど一口だけ含んだ。
広い駐車場の端にいた私たちは、缶コーヒーを片手に暫くその景色を眺めていた。基地の近くには自然公園にもなっている山々があり、その黒いシルエットの向こうから砂粒のように小さい誘導灯の明かりを見つけた。
アキナミにヘリコプターがこっちに来ると告げる前に、真っ赤に光る誘導棒を持った基地の人が私たちの所へ駆けてきた。
「距離を空けてー!!今からヘリコプターが着陸しまーす!!空けて空けてー!!」
間延びした声で周囲へ注意を促し、手にした誘導棒をこれでもかと振っている。
「方角的には病院の方じゃない?あれにナディが乗ってるかもしれない」
「…………」
アキナミの言う通りだ、でも──
程なくして着陸したヘリコプターから陸続と人が降りてくる、それぞれ暗い顔をしたり安堵した様子を見せたり様々だ。最後にナース服を着た女性が降りて、無慈悲にもヘリコプターが夜空へと再び舞い上がっていった。
「──そんな!」
最悪だ、悪い予想の方が当たってしまった。
堪らず私は誘導棒を持った基地の人に駆け寄った。
「他には?!もうヘリコプターはこっちに来ないんですか?!」
きっと、私のような人が他にもいたのだろう。おおよその事情を察してくれた基地の人が声を落としながら答えた。
「……今ので最後だ。これ以上救助者がこっちに来るという連絡は受けていない」
「ああ、そんな……だって今の人は付属病院の──いえ、何でもありません……」
「……………」
この人に言い募ったところで何も変わらない、徒労感と絶望感が空から降ってきたように私の全身を覆っていった。
手に熱い感触を覚え、ふいと隣に視線を向けると少しだけ微笑んでいるアキナミがいた。何でもないよとゆっくりと頷いてみせた時、私は声を荒げていた。
「──何であんたはそんな平気そうな顔ができるのよ!信じられない!ナディのことが好きだったんじゃないのっ?!」
身近にいる人間に八つ当たりしてしまうのは仕方がない、駄目だと分かっていてもこの怒りをぶつけられずにはいられなかった。
それでもアキナミは何でもないと微笑んでいるだけだ。ほんと、腹が立つほどクールである。
「ナディなら大丈夫だって、今は信じて待っているしかないよ。それに私はライラの事も心配だからね」
「ああもう……どうすれば良いのよ……」
「ほんと、ライラはナディの事になると子供っぽくなるよね。どれだけ好きなの?」
「あんたに八つ当たりするぐらいは好きよ。……ごめん」
「別にいいって」
馴れ馴れしくアキナミが肩を叩いてきた。
一度離れたはずのさっきの基地の人が、降りたばかりのナース服を着た女性と連れ立ってこちらに戻ってきた。
その女性は下を向いており、こちらを一切見ようとしない。基地の人も眉が垂れ下がっている。
何事かとアキナミが先に用件を訊いてくれた。──きっと私を気遣ってのことだろう。
「あの、何か?どうかしたんですか?」
「その、君たちが患者さんの名前を口にしたのを聞いてね、それでこの人が……」
鳩尾辺りから舌の根元まで熱い感情が駆け巡った。
話を振られた女性がようやく頭を上げ、そしてこう言った。
「………本当にごめんなさい。本当にごめんなさい、病院に………「何ですか?病院が何ですか?」……っ!……その、逃げ出したあとも追いかけられて乗っていた車も……何とか間に合ったからヘリコプターに乗せてもらえて「だから何ですか?私の友達を見捨てたのが正解だったとでも言うんですか?」
女性が話す合間に口をこれでもかと挟んだ。
確かに、確かに、確かにこの人もボロボロだった。膝小僧はずり剥けているし腕やお腹も切れており血を流した痕があった。
きっとこの人は避難する直前までナディの傍らにいたのだ、そして何かがあって見捨てて一人逃げて来たに違いない。"そうだ"と言及しなくても分かる。
か細く震えながらそれでも女性は赦しを求めてきた、この私をナディの関係者であろうと踏んで。
「本当にごめんなさい……本当にごめんなさいっ……正解だったなんて思わない、でも、怖かったから……」
「………………」
私が何かを言わなくちゃいけないの?何でどうして?今すぐにでも引っ叩きたいこの衝動を抑えてまでこの人に言葉をかけなければいけないの?
逆だろと思った。何で私が歳上の人に気を遣わなければいけないのか。泣き出したいのはこっちなのに。
「………………」
未だに頭を下げ続けている女性に視線を落とした。
✳︎
この子は本当に優しい。誰もが目を逸らしていた私をこうも真っ直ぐに見下ろしてくれるのだから。
彼女の細い足が目の前にある。今ならこのブーツで顔面を蹴り上げられても、痛みを感じることはあっても屈辱だと感じることはないはずだ。
それぐらいに後悔していた。
じっと私を見下ろしている気配を放っていた女の子が、誰よりも優しい言葉をかけてくれた。
「私はあなたを赦すことはできません、したくもありません。あなたは私の大切な人を見捨てて来たんですよ?どうして赦してくれると思ったんですか」
あの時──病院の入り口で待機していた同僚たちの顔、いつまで経っても現れない最後の患者さんを迎えに行くと言い飛び出した私、そして一人で帰ってきた私。
誰も何も言わなかった、あの空気といったら目の前に現れた虫の化け物ぐらいに恐ろしかった。
でも──と、思う。私だって勇気を出して行ったんだ、あれだけ院内放送で呼びかけていたのに、あの子は病室で眠っていたんだ。あの起き抜けの顔を見た時は心底腹が立った。
皆んな危ない思いをして君のことを待っているんだよ?と詰りたかった、けど、結果として私はあの子を見捨てて逃げていた。
そして、私は誰からも詰られるようなことはなかった。見て見ぬふりをされてしまった。──悍ましい、ここにいるのに誰にも相手にしてもらえないこの煮えたぎるような寂しさ。
悔やんでも悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない。
けど──この子は違った。面を上げる勇気はこれっぽっちもないけれど、この子に言われた非難の言葉が渇望していた心と体に染み渡っていった。
「……はい……はい、近くにいます……分かりました」
私の我が儘に付き合ってくれた陸軍の人が小さな声で誰かと会話をしている。
「失礼ですが、あなたはライラ・コールダーさんで間違いありませんか?」
優しいこの子の返事はたったの一言だけ。
「それが何か?」
「キング大佐がこちらの基地に来られるそうです、なのでそれまでの間こちらに──」
その時だった。上空から飛行機のような音が聞こえてきた、けれど飛行機と違い絹が擦れるような柔らかい音も混じっているようだ。
ヘリコプターのように風が吹き上げてくる、彼女のロングスカートも煽られ裾が暴れていた、それでも彼女はその位置から微動だにしなかった。
どうして?不思議に思い、下げたままだった顔を上げて彼女を見やった。
「──危ないですよ!離れて!」
「大丈夫ですよ、キング中佐が私を踏む潰すようなことなど絶対にあり得ませんから」
絶対の安心感を放つ人型の機体を背景にして、彼女は未だに私のことを睨んでいた。強く、強く、機体と同じぐらいの力強さを持って睨みつけていた。
いっそ神々しい、機体のヘッドライトに照らされた彼女はまるで裁きの天使のよう。
機体が着陸し、最後にふわりと舞った髪の毛を払いながら私へ告げた。
「ナディのことは私が必ず連れて来ます。あなたにその気があるのなら、彼女の前でもう一度頭を下げてください。きっとあの子のことだからあなたを責めたりはしないでしょう──いいえ、きっと誰だってあなたを責めるこなんてできません。だから!……守らなければならない矜持ってものがあるんじゃないんですか?……長々と失礼しました、お体にお気をつけて」
「…………ありがとう」
その言葉が彼女に届いたか、それは分からない。
こちらに背を向けて歩き出した彼女は誰よりも頼もしく思えた。