前人未到の超深海へ・上
〇メートル
西暦二〇〇〇年代、彼女たちの暦から遡ること約三〇〇〇年前に当時の国家群は大きな過ちを犯してしまった。
疲弊していく世界中の資源に対して当時の国家群は、未だ手を付けていない地球内部の"マントル"に焦点を当てて資源開発を進めた。二二世紀に入った直後に"マントリングポール"を完成させ、当時の国連の監視の下に組み上げ実験が北極及び南極の地で行われた。
実験当初は成功した、北極及び南極はマントルプルーム(地殻内部で起こっている対流メカニズムの総称)に該当しないため、失敗することなく順調に組み上げ作業を行なっていた。
得られたマントルにはそれこそ目を疑う程の金属類が含まれており、すぐさま精錬が行われて枯渇しつつあった金属資源の足しになっていった。
「しかしここで悲劇が起こるのだよ」
「そんなのいいからモニタリングしてくんない」
「いやいや、我欲の為なら地球すら食い物にする人間たちの歴史は聞いておくべきだ、知っていて損はない」
若い男に見える人影の前に、少し怠そうな雰囲気を纏っている若い女がいた。その女がこれまた面倒臭そうにしながら受け答えを続けている。
「そんなのサーバーに接続すれば一発で分かるじゃん、何でいちいち口頭で説明を受けなきゃいけないの?」
彼女の言うサーバーとは"ガイア・サーバー"の事であり、後述するが"テンペスト・シリンダー"と呼ばれる機械仕掛けの筒を管理しているネットワークの総称だ。
若い男が答えた。
「それがねえ〜サーバーにはアップされていないんだよ、自分たちの不始末までアーカイブする管理者はいないだろう?」
「じゃあ何であんたは知ってんの?第一テンペスト・シリンダーではそういう教育もやってんの?」
「まさか、アナログな資料をかき集めて答えに辿り着いたんだ。テンペスト・シリンダーを建造したウルフラグはマントリングポールの開発、製造も手掛けていた。つまり?」
「………自分たちが招いた惨事に自分たちで対処した、って事?」
「その通り!」
若い男が言うように、組み上げ当初は成功していたマントリングポールに大惨事が起こってしまった。
マントルには"コールドプルーム"と"ホットプルーム"と呼ばれるメカニズムが存在し、その"ホットプルーム"が予期せぬ地域で発生してしまったのだ。西暦時代で言えばホットプルームは南太平洋側、主にハワイ、それからインド洋側で言えば主にアフリカの地域に下部マントルから高音に熱せられたマントルが上昇していた。
しかし、組み上げ事故により地殻内部のメカニズムに乱れが生じ、至る所に高温に熱せられたマントルが上昇するようになってしまった。
マントルのメカニズムは火山活動にも密接に関わっており、噴火の予兆が掴めない諸外国は溢れて出るマントルに対応する術もなく、一世紀もかけずに殆どの国土を失ってしまう事態になった。
この事に対処するため当時のウルフラグ社は"テンペスト・シリンダー"の雛型を完成させ、その技術と知識を世界中の開発機関へ無償提供した。
こうして、現在の地球では溢れ出たマントルによって荒廃してしまった大地に代わり、機械仕掛けの筒"テンペスト・シリンダー"に住まうようになったのだ。
「ふ〜ん……なるほどね〜……ここまで聞いた限りでは別にウルフラグは悪い事してないんじゃない?いや、確かに地球をめちゃくちゃにした原因を作りはしたんだろうけどさ」
「それがね〜ウルフラグって企業がまたややこしい存在でね〜今でもその禍根が残っているんだよ」
「ああ……星管連盟って所だっけ?あんたがこっちに来るまで名前すら知らなかったよ」
「そそ、国連が前身になっている──まあ、テンペスト・シリンダーを管理している団体かな?とにかくそことウルフラグは今でも仲が悪いんだ。未だに三〇〇〇年前の事件で係争中だからね?」
「嘘でしょ?それ本気で言ってんの?」
「勿論本気だよ。ま、断続的に行われているって言った方が正しいんだけどね。第一次、第二次、それから俺も関わった第三次AI懸念事項案っていう件で星管連盟が法廷でぶり返すらしいんだ」
「うっは〜〜〜」
若い女が大仰に反応している、我が意を得たりと若い男がさらに話を続けた。
「本来は個々のテンペスト・シリンダーに一切関与しない星管連盟が、このマリーンに介入してくるぐらいだからよっぽどの事態だったんじゃない?」
「じゃないって、あんたは当事者でしょうが。バベルはどうしてるの?」
「さあ、別れた時はこっちの暮らしに馴染むって言ってたから。俺は俺でこっちのマントリングポールの管理があるからね、付いて行くような真似はしなかったけど」
「それ大丈夫なの?」
「さあ、それこそ海面上の話だから」
「他人事。ま、私もあんたが来てくれたお陰で楽できているから良いんだけどね」
「そうだろうそうだろう、俺もあっちにいた時は退屈で死ぬ思いをしたんだから……ナビウス・ネットに異世界作って何度冒険したことか……あいつら元気にしてるかな〜」
「あ、それ良いね!今度やり方教えてよ!」
「いいよ!人間たちが作る創作物ってほんと馬鹿にならないからいつ触れても面白いんだよ!」
「──確かディアボロスが失われた物語を復活させるキャンペーンとか言ってあれこれ復元させてたな……それ読んでみようかな」
「本当に?!というかこっちのディアボロスも芸術関係に明るいのか。向こうのディアボロスも自分でファンタジー世界を作ってクソゲー呼ばわりされてたよ」
「何それ、何その話、詳しく教えて!」
こうして、若い男女は自分たちの役目も忘れてただひたすらに四方山話に花を咲かせていた。
マリーンに住まう彼女たちが超深海へ潜航する少し前の話である。
一〇メートル
その星管連盟と連携を取ってマリーンの調査に赴いていたアマンナは、一人物憂げな表情で窓際の椅子に腰を下ろしていた。
「あ〜……今すぐ会いたい……こう、何というか……禁断症状みたいなのが出てきた……」
誰に言ったわけでもない独り言がカウネナナイ王都、ルカナウア・カイの空へと消えていった。
彼女がいるのは王都内にある館の一室だ、数々の調度品はどれも値が張る物ばかりでそれ一つで贅沢な暮らしが出来る程、ここはカウネナナイで唯一公爵の位を持つデュークの屋敷であった。
それらの調度品には目もくれず、アマンナはただただカウネナナイの空に思いを馳せていた。
「会いたい、あー会いたい会いたい会いたい会いたい…………ん?」
窓際に顎を乗せて会いたいコールをしていたアマンナが、階下から昇ってくる誰かの声を聞きつけた。その人も同様に窓際に座ってぶつぶつと何やら言っている様子だ。
「──んどくさい、めんどくさいなー、早く戻ってきてくれないかなー話と違うんですけどみたいな。めんどくさいな〜」
アマンナがそろりと窓の下を覗き込む、ちょうど真下にある部屋の窓辺に黒い髪の毛が見えていた。
人懐っこくて他人と関わることが好きなアマンナは遠慮なく声をかけた。
「やっほー」
「──っ?!」
階下の女性はまさか自分の独り言が聞かれていると思っていなかったのか、素早く上向いた後慌てて部屋の中に引っ込んでいた。これは面白いものを見つけたぞとアマンナが自分の部屋を後にし、ある程度なら自由にして良いと言われている屋敷内を歩いて階下へと向かった。
夏の暑い日差しから秋のそれへと変わった柔らかい光りが差し込む階段をアマンナが降りていく、「嗜みだ」と言われて無理やり着させられたゴシック調のドレスの裾がふわりと宙を舞う。その様子を階下から眺めている人物がいた。
バベルである。
「──ほう、確かに言う通りだな、黙っていれば確かにあんたが一番見た目が良い」
バベルのことを快く思わないアマンナは顔を顰めて返事を返した。
「だから何?」
アマンナがバベルの前に立っても彼は退こうとしない。
「いや別に、ただ感想を言っただけだ。それとだな、今はちょっと面会を控えてほしい」
「は?」
「カルティアン家の御当主様はナイーブだって言ってんだよ」
(ふ〜ん……あれが王位継承権を持つ……)
「自分の独り言を聞かれて恥ずかしいから部屋に通すなって言われてるんだ、悪いな」
バベルの話を耳にしたアマンナは俄然興味が湧いてきた、こりゃ何が何でも滞在している間に会うべきだと頭の中で算段を立てながら会話を続けた。
「あっそ。ねえ、あんたに一つ訊きたい事があるんだけどさ」
「おお、何でもいいぜマドモアゼル、好きなだけ聞いてくれや」
バベルがアマンナの細い腰に手を回し、優雅に自分の体へ引き寄せた。アマンナはそれに一切反応せず、見透かすような視線を送りながらこう尋ねた。
「──こっちのバベルとは仲良くやってんの?」
「そりゃ勿論。あっちはこっちに興味が無いと言ってサーバーから出てこようとしないがな」
「どんな奴なの?あんたとそっくりでこういう下品な真似ができるマキナなの?」
「相変わらず冷たい奴だなお前は。俺が聞いた話だとどんな奴とでも仲良くなれる天才だって訊いていたんだけどな」
答えをはぐらかしたバベルがそっとアマンナから離れた。
「私も好き嫌いぐらいするよ、とくにあんたみたいに周りを利用しようと企む奴は嫌いかな」
「俺もお前みたいに遠慮なく本音を言う奴は嫌いだな、やり難いったらない。もっと駆け引きを楽しもうぜ」
「思考実験の再現の為に?」
「……………」
バベルから飄々とした雰囲気が消え、代わりに相手を注意深く窺う気配が漂った。
「ま、好きにすれば良いけどさ、私の周りにちょっかいをかけるのだけは止めてね?」
「………何故そうだと──」
「こんな所にいたか二人とも、今すぐ客室に来い。技術府の者たちが到着した」
バベルの言葉は現れた人物によってかき消され、一緒に纏っていた雰囲気も霧散した。
「ようやくのご到着か、彼女も呼んでこよう」
にへらと笑い、口端を上げながらある一室へと姿を消した、そこはアマンナが向かおうと思っていたカルティアン家当主の部屋だった。
二人を直々に呼びに来たのは館の持ち主であるデューク公爵だった。彼も彼だけに与えられた腰のマントを纏いおめかしをしている。
「ドゥクス、私反対なんだけど。なんであいつと一緒なの?」
「もう少しの辛抱だ、奴には別命を言い渡してある」
「それなら良いけど。あの子たちも警戒して館に近づこうとすらしないんだから」
アマンナだけが公爵のことを『ドゥクス』と呼ぶ。『ドゥクス』という名前も持つ公爵が先導し、その跡をアマンナが追いかけた。
デューク公爵の館、その客室には技術府と呼ばれる国内でも随一の頭脳集団が集まっていた。その長を務めるのは王都の隣にあるルカナウア島を支配するグレムリン侯爵である。そのグレムリン侯爵が給仕の女性たちへ無遠慮な視線を送りつけて楽しんでいると、館の当主である公爵が側近の者たちを従えて客室に入ってきた。
「……おお」
壮年の偉丈夫の傍らに立つは絶世の美貌を持つ女性二人、日がな研究室に篭って図面と格闘している彼らにとっては女神も同義であった。
感嘆の息に包まれた中を一向が悠々と歩き、一名を除いて皆が席についた。
「────」
「グレムリン、話を進めてくれるかな」
「──ああ、失敬……今三回目を迎えたところだった………いやはや、この世の美貌を独り占めしたヨルン・カルティアンの御息女だけでなくまだ秘宝が存在していたとは……」
秘宝と呼ばれたアマンナはピンと来ておらず、薄らと愛想笑いを浮かべているだけだった。
「では公爵よ、まずは先日の一件について謝罪しようと思う。あれは明らかに私の落ち度であり、みすみすコールダーの者たちを国外に逃してしまう羽目になった。あい、すまぬ」
「よろしい、君の献身的な態度を見てこちらも溜飲が下がったよ、水に流そう」
「ありがたき。では次に、我々がここに参った理由についてだが公爵の私部隊をどうかこちらに提供していただきたく」
公爵は顔色を変えずに尋ねた。
「それは何故?君の膝下には立派な機人軍がいるだろう」
「ある作戦が目下遂行中でして、そのお力添えを」
答えをはぐらかされても公爵は顔色を変えなかった。長年の折衝によるお陰と言えるだろう。
「公海に潜むハフアモアの回収かね?」
しかし、だからと言って公爵の内面まで変化がないわけではない。公爵は明らかな"疎外感"を感じていた。
「──左様、どこでお訊きになられたのか……国王も今回の作戦に公爵は関与させぬと発言しておりましたが……」
グレムリンがちらりと視線を寄越した先には、ヨルン・カルティアンの娘にあたるナディ・カルティアンが座っていた。彼女は糾弾という名の視線を浴びても動ずることはなかった──そういうお芝居だからだ。
「──何の事でしょうかグレムリン侯爵、私はあなたとの約束を反故にした覚えはありません」
「……………」
公爵は二人のやり取りにじっと耳を傾けている。
「それならばノエール子爵かね?」
「まさか、今頃得られた財の割り振りに奔走しているはずですよ。それに公爵様は部隊の方々と先に王都へ赴いていましたから」
「もう良い。それで?君たちが私の部隊を借りる理由を訊いても良いかね」
公爵からしてみれば、自分の配下に置いていたはずのカルティアン家が他所の貴族と内政について言い合いをしているのだ、これが面白いわけがない。
公爵はもう自分の立場が失われつつあることを自覚しながら話を先に進めた。
公爵の下についていたカルティアン家の切り崩しに成功したと確信したグレムリン侯爵が、はぐらかしていた答えをあっさりと口にした。
「──話は簡単です、公爵が仰る通り回収作業を進めている我々の船の護衛をお願いしたいのです。相手はウルフラグ、それから不明の船舶群からです」
「………………そうか」
「………何か?」
「いいや。きちんと答えてもらった上で返答するが、君のお願いを断らせていただく」
「それは何故?」
「かねてから調査を進めていたルヘイ島のルイマン侯爵の不正が認められたからだ。国王より直々に捕縛せよと命令が下されている、そこに私の部隊と後ろに控えている男の部隊を派遣させるつもりだ」
この発言にはさすがのアマンナも色めきだった、客室に来る前と話している内容がまるで違うからだ。
「………左様か、それは残念。我々も知らぬ所でそのような事が………良いのかねカルティアン家当主よ」
元はと言えばルイマン家はカルティアン家についていた、仲間が捕まるところを黙って見ているだけかと尋ねられたナディはあっさりとこう答えた。
「構いません。王都を離れた時点で彼らとの協力関係は途絶えていましたから」
「……ま、そうだろうさ、ルヘイから追い出されたノエール家と接点を持ったのだからな、それはあちらも納得しておることだろうよ」
「ノエール子爵はハリエからルヘイへ兵を放つつもりでいます。なので私も公爵の下から離れることができません」
これにはグレムリン侯爵が目を丸くした。先程はハフアモアの回収作戦について息を合わせたはずなのに、今度は公爵の下から離れないと発言したからだ。
(ううむむ……今は時を急いて無理に引き離さなくとも良いか……確かにあの娘っ子には足を舐めさせてくれと伝えたはずなのだがな……)
気を取り直したグレムリン侯爵が締め括った。
「では、我々の用件も終わりました故お暇すると致しましょう。とんだ無駄足になるかと思いましたが、そちらさんの秘宝を拝むことができたんだ……ああ、三人目の子供のうぶ声が聞こえてくるようだ……」
相も変わらずド変態発言をかました侯爵に向かってアマンナが初めて口を開いた。
「何なら本当に作ってみます?私はいつでも歓迎しますよ」
「──何だとっ?!?!」
「アマンナ!止めぬか!」
アマンナの発言に技術府のみならず、公爵までもが椅子を蹴倒しながら立ち上がった。隣に座っていたナディは口元を手で押さえて驚いていた。
「まあまあ、冗談には冗談で返すのがマイルールなので」
「そんなルールがあってたまるかっ!」
「アマンナよ……いや我が妻よ……今の発言は本気だああ本気だとも!君と夜を共にできるのなら全てを海に放り投げよう!」
アマンナの冗談を真に受けたグレムリンがひしと手を握り、懇願とも言える口説きに入った。対するアマンナは嫌な顔一つせずその手に自分の手を重ねてこう言った。
「捨てられたら困ります。そうですね、この世のありとあらゆる美味い食べ物を持って来てくれたら私も本気で考えましょう。子も良い物を食べないと大きくなれませんからね」
「────ああもうそこまで考えているのか……私が浅はかだった──いいだろう!ハフアモアの回収は後回しにして君の為に供物をこの世のありとあらゆる所から取り寄せてもう一度ここに馳せ参じよう!」
「お願いしますね、私腹ペコなんですよ」
「アマンナっ!!いい加減にしろっ!!」
まあ実際そんな事もなく、グレムリン侯爵はハフアモアの回収作戦のために調査船が停泊している港街へと帰っていった。
その日の夜、月が雲に隠れて薄暗くなった時を見計らってアマンナがそろりと部屋から抜け出していた。お目当てはカルティアン家当主がいる部屋である。
昼間はバベルに邪魔をされてしまったために会えなかったが、アマンナはどうしてもナディと会話をしたかった。
階段を降りて誰もいないことを確認し、そろりそろりと歩みを進めるとお目当ての部屋から灯りが漏れていることに気付いた。これは好都合と捉えたアマンナが遠慮なく扉をノックし、程なくして中からゆっくりと扉が開かれた。
「……あなたは、公爵様の部隊の……」
「アマンナでいいよ。ちょっと中に入れてくれない?他の子たちは別の場所にいるから寂しくてさ、相手をしてくれると嬉しい……かな?」
「…………はい、良ければどうぞ」
薄暗い灯りの下でも、ナディが面倒臭そうに眉を顰めたのをアマンナは見逃さなかった。
(面白い子)
ナディに案内されたアマンナは早速部屋に入り、窓際に置かれた小さなテーブルに腰を下ろした。ナディもその向かい側に座り、はてどうすれば良いのかと小首を傾げていた。
「え〜と……どうして私の部屋に?」
「昼間、めんどくさいって連呼してたでしょ」
「っ!……いや、あのですね、それは、何と言いましょうか……」
途端に顔を赤らめるナディ、それを可愛く思いながらもアマンナは疑問に思った。
(バベルの野郎に言いつけたんじゃ……?)
本当に入って来ないよう言い付けたのであれば、そもそもアマンナの入室を拒否していたはずだ。これはあの男に一杯食わされたなとアマンナはほぞを噛んだ。
薄い生地の寝巻きに厚手の羽織りを被ったナディは目をうろちょろとさせている、その彼女に向かってアマンナが話しかけた。
「いやさ、貴族の当主がめんどくさいめんどくさいって連呼してるのが珍しかったからね、話してみたいと思ったんだよ。誰にも言いふらさないから安心して」
「………は、はい」
それからアマンナとナディは夜の帳がすっかり下りた部屋の中で会話を続けた。話をすればする程、アマンナはナディが普通の女の子であることを見抜き始めていた。
「ナディって偉いよね〜面倒臭い事なのにそれでも立派に務めを果たしているんだからさ」
「そんな事ありませんよ、私だって本当はやりたくないのを我慢しているだけですから」
すっかり打ち解けたナディはアマンナに警戒することなくそう話をしている。テーブルの上にはささやかながらナディが用意してくれたカップと小さなつまみ菓子がある。
「ねえ、ズバリ聞くけどさ、ナディは影武者だよね?影武者って言い方が正しいのか分かんないけど」
「そうですよ、私はただの替え玉です、本来の当主は私ではありません」
あっさりと認めたことにアマンナは驚いていた。
「……それ言ってもいいの?訊いた私が言うのも何だけどさ」
「別にいいですよ、訊かれたらそう答えようと決めていましたから。はあ〜〜〜長かったなあ〜〜〜ようやく私を偽物だと見抜く人が現れてくれた………」
「いや、何か、色々あったんだね……」
客人の前でも遠慮なくテーブルに突っ伏したナディの頭をアマンナが撫でている。それに気を良くしたナディはされるがまま、無防備に頭をアマンナに預けている。
そのナディにアマンナがそっと尋ねた。
「あのさ、ウルフラグにもナディって子がいるのは─「知りません」─え?」
間髪入れずに否定された事にアマンナは思わず訊き返した、顔を俯けたままナディはアマンナを見ようとしていない。
「本当に?その子はウォーカーっていうファーストネームだったけど……君に似てるんだよね」
「見間違いでしょう」
「いやいや、さっきは確かに替え玉だって言ったよね?ってことはその子が本物の当主じゃ、」
「違います」
「………あ、そう……なんだ」
打ち解けていた空気に微妙な亀裂が入った──かに思われたがそこはアマンナである。さっさと切り替えて別の話を振っていた。
「ナディはどうしてド──デュークの下から離れなかったの?あの話の流れならグレムリンと一緒に館を出られたよね」
頭だけにょきっと向きを変えてからナディが答えた。
「ノエール子爵との約束がありましたから、彼らはルヘイに戻りたいのです。ルイマン侯爵を捕らえる命令は本当ですし、その件に私が──と言うよりカルティアン家が関わっていないと後々の変遷がややこしくなりますから」
「へ〜〜〜偉いね君は、偽物なのに良くやるよ」
テーブルに顎を乗せたまま話を続けている。
「そういうアマンナさんもさっきの話で良くそこまで分かりましたね」
「いやほら、そこはね?私が頭脳明晰だから仕方がないんだよ」
アマンナのおどけた言い方にナディがくすくすと笑っている。
ナディがガコガコと椅子を鳴らしながらアマンナのすぐ隣に陣取った。
「どうしたの?」
「いえ、あなたはちゃんとしろ!と怒ってこない稀有な方なので、今のうちにだらけておこうと思いまして」
アマンナが笑い声を上げた。
「ふふふっ、何それ」
「私、本当は超がつくほどめんどくさがり屋なんですよ。毎日毎日自分のベッドから下りたくないぐらいで死ぬまでだらけていたいと思っているのです」
「良いじゃんその夢、私が毎日毎日相手にしてあげるよ」
「……あ〜救世主、まさにアマンナさんは私にとっての救世主ですよ、そんな事言ってくれる友達もいませんでしたから」
「いやその友達の方が正しいと思うんだけどね」
「正論より我欲です」
「良いこと言うね!」
夜の帳が下りた部屋に二つの笑い声が上がった。
五〇メートル
カウネナナイで回収作業が急ピッチで進められている傍ら、ウルフラグでは新型の探査艇が完成を間近に控えていた。
アマンナが秘密の夜会を挙行した翌る日、ユーサ第一港の造船課が所有する屋内作業場にセントエルモの探査艇チームが一同に会していた。作業場の中央に鎮座ましましている新型の探査艇を皆が沈痛な面持ちで眺めていた、決して失敗したからではない、完璧と言っても過言ではない出来栄えだった。
しかし、ある問題が浮上してしまった。
「重量のことを忘れておった」
「誰も指摘しませんでしたからね」
「あいや〜〜〜…………今から解体──いやいや設計図から見直す時間は──しもうたなあ〜〜〜」
頭を抱えているのは探査艇チームの責任者であるゴーダ・カズトヨだ。今となってはユーサに吸収されてしまったが、ウルフラグ国内で最大手の造船企業だった『ウッズホール』を根底から支えた傑物である。
そのゴーダを面白く眺めているのは同じく造船課で働くジュディス・マイヤーだった。
(おもしろ。いや大問題なんだけど……)
港内であれば探査艇を持ち出す事は可能である。この後、開発課が所有している実験棟にて超高圧試験を行なう予定になっているのだが、問題は調査船の揚収クレーンの最大吊り上げ荷重だ。
「まさか吊り上げられんとは……」
ウルフラグが現在所有している探査艇で最大重量は二六.七トン、しかしゴーダらが開発した新型の探査艇は最大重量が優に四〇トンを越していた。これは搭乗するパイロットたちのライフサポートを目的したスペースが主な原因であり、調査船の揚収クレーンの吊り上げ荷重は四〇トンまでである。これではよしんば海に出られたしとても肝心の潜航ができない。
ゴーダは一旦、完成した探査艇の水圧試験のため搬出を指示した。順次搬出作業が進められていく探査艇を見上げながらどうしたものかと頭を悩ませ続けている。
「うう〜ん………」
完成した探査艇は有り体に言ってタコのような形をしていた。タコの頭部にあたる所に耐圧殻が二つ、足の部分に各種装置が取り付けられていた。タコに見えてしまうのは四本の伸縮可能なアームが存在しているからだ。
「あのアームを取っ払いますか?機体の接地を目的にしていますけど、卵の回収ならアーム一本で済むでしょうし」
今回の潜航は海底調査ではなく"潜航"が目的のため、新型の探査艇は上下運動に特化したものになっていた。本来の探査艇は海中での三次元運動を可能にするため各種スラスターを装着するのだが、新型の探査艇にはそれらがない。海底に機体を接地し、いちいち向きを変える必要があった。
「──駄目だ、スラスターを追加したところでさほど変わりはせん。クレーン以外の方法を考えるしか………いやそんな事が可能なのか……」
(!!)
ジュディスはゴーダの呟きにピンと閃いた、しかしそれを実現するにはこの老人に泣きを見てもらう必要がある。
今なお頭を抱えるゴーダの肩にジュディスが優しく手を置いてこう言った。
「……何だ、慰めは要らんぞ、これは儂の失態だから──」
「ゴーダさん、ここは一つ大人になりましょう」
「………?何を言っておるんだ?」
「空軍に頭を下げて特個体の力を借りるんです」
「……っ!その手が──いやいや、いやいや、あんな啖呵を切っておきながら今さらどの面下げてっ……」
「だから、大人になりましょう。あの時は悪かったと言ってライラから話を通してもらうんです」
「いやいや、いやいや……」
かれこれ一ヶ月近くも前になるのだが、セントエルモに協力しようとしていたライラ・コールダーをゴーダが一喝して追い返していたのだ、「今さら何の用だ!」といった具合に。
そしてそのライラは、今となっては空軍の特別顧問という立場にいた。ここはプライドを捨てて頭を下げるべきだとジュディスがゴーダを説得するが、それでも被りをふり続けている。
ジュディスが止めの一言。
「いいんですか、せっかく作った探査艇をこのまま作業場の飾りにしてしまって。ここに人を乗せて前人未到の偉業を達成させたくはありませんか?」
「ぐぬぬぬっ……………はあ、仕方ない、あの娘っ子に話をつけてくれるか……」
ようやく観念したゴーダがそう言い、ジュディスは喜んで答えた。
「もちろん!」
彼女の声は、作業場を後にしようとしていた新型の探査艇の跡を追いかけるように響き渡った。
娘っ子ことライラ・コールダーが港に現れたのはその日の昼頃だ、思っていたよりも早くに話し合いの場が設けられたためゴーダは内心焦っていた。しかし時は金なり。この後の予定も詰め詰めだった事もあり、事務棟の会議室に入室してきたライラに開口一番、
「あの時はすまなんだな!悪い悪い!」
彼なりに謝罪を口にしたつもりなのだが、いかんせん表情が悪かった。へらへらと笑っているようにしか見えない笑顔はライラの表情を一層固くしていた。
「…………………」
ジト目である、ライラは遠慮なくゴーダのことを睨みつけていた。
「ライラ、あんたの気持ちも分かるけどここは大人になってちょうだい。ゴーダさんも合わせる顔がないって言ってたけどこうして頭を下げたんだから」
不機嫌さを隠そうとせずライラが素早く問い返した。
「これのどこが?」
「ライラ、ゴーダさんを見返すんなら会議室ではなくて船の上でやりなさい」
ジュディスの鋭い指摘に今度はライラが押し黙る。
喧嘩しかけた二人を取り持った意外とやり手のジュディスがゴーダの背中をばしん!と叩き発言を促した。
「あ、あー……その、なんだ、お前さんの方からあの大将に話をつけてくれんか?ちょいと問題が起こってしもうてな」
「問題とは?具体的に説明してくれた方が私としても説得しやすくなりますので」
「………調査船のクレーンが探査艇に耐えられない、有り体に言えば重量オーバーなんだ。完成するまで誰も気付かなかった」
「でしたら空軍に要請する特個体は三機で十分ですね、一つの機体が持てる最大重量は三〇トンまでですので。それから着水できるよう水中戦仕様に換装させる必要がありますから海軍にも出動要請をかけなければなりません」
「そ、そうか……それをお前さんの方から頼めたりは……」
特個体についてすらすらと答えているライラを見てジュディスは舌を巻いていた。ついこの間までは同じ釜の飯を食べていた仲間なのに、こうも軍に明るくなっているなんて驚きだったからだ。
(相変わらずこいつも向上心が高いのよね……きっと猛勉強したんだろうな)
一ヶ月前に塩対応されてしまったライラはここでようやく溜飲を下げることができた。
明らかなドヤ顔に目をキラン!と輝かせながらこう言った。
「ただし、要請するからには条件があります。私を調査船に乗せてください、現場で指揮を取らなければなりませんから」
「ええ?指揮ってあんた……そこまでやって良いの?」
「勿論、ガーランド大将からは戦闘行為以外の援助活動ならある程度の権限が認められています、なのでカズトヨさんの方からチームの責任者に話を通しておいてください」
「──分かった、お安い御用だ」
(結果的にライラが軍に移っておいて良かったわね)
話し合いが始められた時にあった空気も何のその、ゴーダとライラは握手を交わして互いの条件に了承の意を示した。
水圧試験中の実験棟からゴーダが呼び出されたため退出し、会議室はライラとジュディスの二人だけになった。あの日、ライラの自宅で会ってから今日が久しぶりの再会であった。
ジュディスの質問は決まっている。
「で、あれからどうなの?」
「どうとは?」
「しらばっくれても駄目、進展はあった?」
ジュディスはニヤニヤ笑いを止められない、ちょっとした修羅場を目撃していたからだ。
観念したライラが答えた。
「………全然顔を合わせてないんですよね。ま、私も向こうも忙しかったから仕方ないんですけど」
「へえ〜〜〜何か倦怠期に悩む恋人みたいな言い方」
「いやそういうわけじゃ……そもそも向こうはただの友達だと思ってたわけですから」
「ま、すれ違いは良くあることじゃないの?恋愛なんてしたことないけど」
想い人を思ってか、眉を寄せていたライラの顔にピコンと明かりが差した。
「──そういえばジュディ先輩に好きな人っているんですか?」
「ええ〜どうかな〜今は仕事が恋人みたいな感じだから」
明らかに言いはぐらかしているジュディスにライラがすすすと寄っていった。
「いやいや!その言い方は明らかにいるでしょ!誰ですか?同じ職場の人ですか?もしかしてもう結婚している人とかですか?」
「何でやねん。そんな話はいいからさっさと軍に連絡を入れなさいよ、あと三週間もすれば出航するんだから」
「え〜ケチ臭い……パイロット班はどうしているんですか?」
「今座学中。新型探査艇の扱い方を叩き込まれているところよ、来週から整備や実地訓練、結構予定がパンパンに詰まってる感じかな」
「そうですか……」
「あいつと話し合うのは作戦が終わってからね。嫌われていないのは間違いないんだからそんなに気に病む必要はないわ」
「……そうですね」
ジュディスの言葉にライラが薄らと微笑み、二人だけの会議が終わった。
◇
パイロット班が探査艇の扱いについて講義を受けているその隣の部屋で、観光課の課長を務めるリョウ・マースは部下からの苦情を受けていた。
「何なんですかあの人!いきなりやって来てあれが駄目これが駄目って!仕事にならないんですけど!」
「他に何か言われた?」
元来女性好きのリョウは眉間に縦じわを刻んだ部下を前にしても苦になっていない、それどころか嬉々として話を聞き出している。
「言われましたよ!やれ遅刻した時はきちんと時間を記入しろとか見なしで残業させるなとか!そんな事までいちいち管理していたら私の仕事が──」
剣幕を立てて文句を言っているのは観光課内で主に物品販売を担当している班長だ。結婚してもなお美貌を保ち、やり手として次期課長候補に名を連ねている女性だった。
役得だと思いながらリョウは話を訊き続けた。
一通り言い終えた女性が部屋を退出し、リョウが一息吐くと新しい人影が入ってきた。リョウと同期で入社し同じ課長を務めるカズだった。
「よ、どうだ?」
「どうだじゃないよ、文句が凄かったよ。カズの所は?」
「俺も似たようなもんだ、ピメリアの代打で入ってきたあのオッサンに文句ばっかりだ」
「トップが代わるとかならず摩擦は起きるけどさ、今回はちょっと酷いよ」
連合長を務めていたピメリアが他部署へ転属になった事により、第四港で課長を務めていた男が就任してきた。その男がまあ事細かく指示を出してくるものだからどこの職場も悲鳴を上げていたのだ、ピメリアはどちらかと言えば大らかなやり方だったのでその違いに皆が不満を持っていた。
その件で各職場から意見の吸い上げを行なっていた二人は、会議室で揃って溜め息を吐いていた。
「どうしたもんか……今さら連合長に戻って来いなんて言えねえしな〜」
「誰もフォローできなかったからね、仕方がないよ」
今でこそその数を減らしているが、第一港は前にテロリスト集団『ジュヴキャッチ』から襲撃を受けており、その責任を半ば取らされる形でピメリアは他部署へ転属していた。
この二人はその時に連合長を庇ってやれなかった事を後悔していた。
「まあ……そうだろうな。それと、セントエルモのバックアップはどうなってる?ユーサ本部から直々にやれって指示が来ただろ」
「それも今さらのような気がするけど……まあ何とかって感じかな」
セントエルモのバックアップとは主に航海中の日用品であったり食料品であったりを揃える事である。
計画が立ち上がった当初ユーサは「関与しない」と解答していたが、大統領行政室から発信された情報であったりセントエルモが独自に立ち上げたホームページなどから世間の注目が日に日に集まっていた。そんな中でユーサも立場を変えらざるを得ず、ここ最近になってから「全力でバックアップする」という姿勢に切り替えていた。
それは良い、リョウも仲間であるセントエルモを応援するのはやぶさかでも何でもないと思っているが、いきなり立場を変えてあれやこれやと指示を出してこないでほしいとも思っていた。
「結局割りを食うのは現場だからね、最初っからそうしていれば慌てる必要もなかったのにさ」
「お上の連中はいつでもそうさ、世間様の目が怖くなったからバックアップすると言い出したんだろうさ」
「いやまあ、ねえ………」
「苦情を纏めて嘆願書を作るぞ、本部に送りつけてやる!」
「あ、作る方はそっちでね、あと男性もそっちね、苦情はこっちで聞いておくから」
「はいはい」
本当は嫌がるはずなんだけど...そうカズは思いながら、とくに女性に対して強いリョウの頼もしさを感じながら会議室を後にした。
一一〇メートル
「えーもう行かれるんですか?せっかくだらけ仲間ができたと思ったのに……」
「ごめんね、デュークから言われているからさ。またこっちに戻ってきた時に駄弁ろうよ」
「ナディ様、客人の前でそのような態度は好ましくありません」
「ナターリアが行けばいいじゃん」
「ナディ、そういう言い方は良くないよ。私と違って本気で心配してくれているんだから」
「……………」
「アマンナ様、ナディ様の息抜きにお付き合いしてくださったことは感謝致します。ですが、誑かすような真似はしないでください」
館のエントランスにはアマンナとの別れを惜しむナディとその側近であるナターリアがいた。
パイロットスーツに着替えていたアマンナを引き止めていたのだ。
「誑かすって人聞きの悪い、単にお喋りをしていただけですよ」
軽装鎧に身を包んだナターリアがそそそと体を寄せて耳打ちをしてきた。
「……ナディ様のことはご内密にお願いします」
「……別にいいけど、あなたも本物が誰か知らないの?」
「……五年前からお傍にいたことだけは確かです」
(五年前って言えば確か……)
恐い髪を無理やり三つ編みにしているナターリアがすっと離れ、ついで館の入り口から複数人入ってきた。隊長であるアマンナを待っていた他の隊員らだった。
「隊長!もう準備はできていますよ!」
「早くしてください!副隊長が拗ねて黙りなんですから!」
「はいはい分かったから。それじゃあね」
迎えにやって来たのはウルスラとスダリオだ。あどけなさが残る顔立ちに長い髪をした女性がウルスラ、これまた子供っぽい印象を受ける短髪の男性がスダリオだった。
ナディとナターリアに別れを告げたアマンナが館の外に出る、空には沢山の雲が浮かびすっかり暑さがなくなった太陽の光りがルカナウア・カイに降り注いでいる。
ウルスラとスダリオを脇に置いてアマンナが駐機場へと足を向ける。館のすぐそばにある開けた敷地には計六機の特個体が駐機されていた。
アマンナたちが姿を見せた途端、パイロットたちが搭乗している特個体のメインエンジンが起動し、葉擦れのように細やかなタービン音が辺りを支配した。
「遅れてごめんねー」
部隊専用のフェイスヘルメット(顔の輪郭に沿って装着される投影端末型デバイス)を装着しながらアマンナが声をかけると、早速拗ねているらしい副隊長から返答があった。
[早くしてください、バベルさんの部隊が先行しています]
「あいあい、私たちもさっさと行きましょうか」
アマンナが自機に乗り込みエンジンを起こす、VTOL式(垂直離着陸)の機体制御も取り入れていた特個体全機がその場で肌寒い青空へと舞い上がった。
その六機を館から眺めている人影が二つ、ナディとナターリアだ。
五年前から仕えている側近がそっと当主に視線を寄越し口を尖らせた。
「……あまり身分を明かすような真似は控えてください。どこから漏れるか分かったものではありません」
注意を受けたナディは反論するわけでもなく真面目に答えた。
「ナターリアさんもいい加減私から離れてもいいのではありませんか?いくら見た目が似ているからといってもそろそろ限界です」
「奥様からの言いつけですから背くことはありません」
「ただの替え玉ですよ?私はあの時たまたま居合わせただけで王家の者ではありません。バベルの計らいがなければ今頃ラインバッハ家の慰み者にでもなっていたことでしょう」
ゆっくりと振り向いたナディの髪が、秋風にさらわれてふわりと舞った。その柔らかい髪を羨ましく思いながらナターリアが答えた。
「そのような言い方は例え冗談でもお止めください。身を呈して庇われたルイフェス様が嘆き悲しまれます」
「………そうですか、それなら止めましょう。天国にいるのに迷惑をかけるわけにはいきませんから」
ルカナウア・カイから飛び立った六機がすっかり見えなくなり、ナディが館の庭から踵を返した。その、どこか寂しそうにしているナディの背中に向かってナターリアが声をかけた。
側近として、ではなく。
「……それから、私が離れないのは放っておけないからよ、アネラ」
くるりと振り返った当主がこう返した。
「──だったらもっと優しくして!」
ナターリアなりに勇気を出してそう声をかけたのだが、思いがけない言葉が返ってきたのでついいつもの調子で怒ってしまった。
「──ナディ様!!」
「べぇっ!!」
カルティアン家を預かる当主としてはあるまじき行為だが、悪戯っぽく舌を出すその姿は歳相応とも言えた。
デュークの館で二人が追いかけっこをしている間、ルヘイ島の近くに滞在していたデューク公爵はユーレット・ルイマン侯爵と通信機越しにやり取りをしていた。
簡潔に言えば降伏勧告である。
[いくら何でもそれはあんまりではありませんか公爵様。確かに私どもはウルフラグの鼠どもをみすみす逃してしまう失態を犯してしまいましたが、だからといって捕縛するのは……]
「それだけではないと言っているだろう、君はウルフラグの者と手を組んでハフアモアを得ていたはずだぞ、それに余罪だってある」
ルヘイの近海にデューク公爵が指揮を取る軽巡洋艦が一隻、さらにルヘイの港には機人軍の母艦も停泊していた。
海と陸とで続けられている睨み合いのせいでルヘイの港にある全ての船が出港を見送っていた。
[ウルフラグと手を組む事が罪だと?それなら貿易商人たちはどうなる?彼らだってウルフラグとやり取りをしているじゃないか]
丁寧な受け答えも段々と口調が荒くなっている。
「彼らは国王から認められた者たちだ。だが君は違う、得た利益を献上せず畑の肥やしにしているだろう?しかも王から下賜された軍を使ってだ、これは立派な不敬罪に該当する。年貢の納め時だ」
ユーレットの行ないは端的に言えば"脱税"である、それから軍を私的利用したことによる"職権乱用"、どこの世でも"犯罪"と言って差し支えない行為である。さらに王の意志に背いた不敬罪、トリプルパンチだった。
はっきりと事実を告げられたユーレットが開き直りこう返した。
[──仕方ないだろ!こうでもしなければルヘイが豊かにならないんだから!まずは足元からって考えも理解できないのか?情けない王室に代わってこの俺がルヘイを豊かにしているんだ、こっちが潤えばそっちにも明け渡すつもりでいたのに!]
「それが君の答えか?ラインバッハ王の御前で同じ事が言えるか?」
[言ってやるから俺の御前に連れてこい!]
「──よろしい。では、これより君を数多の罪を犯した事により捕縛させてもらう。如何なる行動も王に対する反逆だと捉えられる、罰を軽くしたいのならばおとなしくしていることだ」
ユーレットからの返事は無く、途切れた後のノイズだけが通信機から流れてきた。
折よくデューク公爵の私部隊から通信が入った。
[到着しました]
「──うん?その声は副隊長か。隊長はどうした」
[今朝ご飯を食べているところです]
「朝ご飯──ええい!緊張感の無い奴らめ!ユーレットが罪を認めた上で反撃の姿勢を取った!直ちにルヘイ島に侵入してルイマン家当主の身柄を押さえろ!」
こめかみを押さえて呆れていたデューク公爵がそう素早く指示を出し、軽巡洋艦の上空近くを飛行していたアマンナの部隊がルヘイ島に進路を取った。
一方、ルヘイの港に停泊していた機人軍の母艦にも動きがあった。空母のカタパルトに待機していた特個体が次々と離陸を始め、空があっという間に埋め尽くされてしまった。
さらにウォーターカタパルトからも機体が射出され、空と海に機人軍の布陣が配置された。
「徹底抗戦ということか」
機体を配置しただけで攻撃は行わない。港、それから町上空に機体を待機させてデューク公爵らの出方を窺っている。すぐさま(朝食を終えた)アマンナから通信が入った。
[ドゥクス!これじゃあ何もできないよ!無関係な人たちまで巻き込まれてしまう!]
(自分が預かる国民を盾にする気か……汚いやり方だが効果的だ)
ユーレットの狙いは下手に戦火を拡大させ、国王側の失態を招きたい所にある。そうすれば国民の反感意識を増幅させ、国王を強制的に失脚させることができる"国民投票"へと繋げるつもりでいるのだ。
睨み合いが続けられ、時折旋回行動を続けているアマンナの部隊へ威嚇射撃が行われた。このまま膠着状態が続くかに思われたが、戦況を開く者たちが現れた。
[遅くなった。あとはあいつらに任せればいい]
[その声──バベルか。何?神話よろしく塔を破壊しようって?]
[お、良いなそれ。今度は俺が神になるのか、悪くない皮肉だ]
通信機に入った声はバベルのものだった。彼が言う通り、軽巡洋艦のコンソールに三つの光点が発生し、ハリエの方角から急速に接近しつつあった。
「バベル、手荒な真似だけは──」
[分かってるって、無差別攻撃なんて時代遅れのやり方はしないさ。黙って見てろ]
そう自信たっぷりに宣言し、最後に言葉を挟んでから通信が切られた。
[──ま、ただのマネごとだけどな]
ルヘイの上空に新たに現れた機体は三機、そのどれもが形と大きさがバラバラの歪な部隊だった。
[何だありゃ──]
アマンナか、あるいは他の隊員がそう呟いた途端、三機の中で最も大きい機体から一本のアンテナのような物が地面に向かって突き出してきた。ついで、傍らにいた他の二機が離れて旋回行動に入る、突然の行動にアマンナの部隊も機人軍もただただ見守るばかりである。
(あれは一体何を──真似事だと言っていたが──まさか!)
デューク公爵がある事に気付いたその瞬間、旋回していた二機からもそれぞれアンテナが突き出してきた。さすがに気味が悪いと思ったのか、上空に現れた三機に長距離砲を構えていた機人軍の一機が威嚇射撃のためトリガーを引き絞る──が、砲弾が発射されることはなかった。
それどころか射撃態勢のままぴたりと固まってしまった。
軽巡洋艦のブリッジでコンソールを監視していたクルーが悲鳴を上げた。
「デューク様!機人軍の機体の反応が全て途絶えています!」
その報告を受けたデューク公爵は頭を抱えた。
「──あんの余所者めが………」
アマンナからも現地の様子を報告してきた。
[ドゥクス!これどうなってんの?機体が動きを止めたんだけど?!中に乗ってるパイロットは大丈夫なの?!]
側から見ればバベルの部隊が行なったのは"無差別攻撃"である。あってはならない事態を引き起こしたかに思われたがそのバベルから通信が入った。
[心配するな、局所的に強制介入をしただけだ。これで侯爵軍を無力化できたはずだ]
[あんたまさか………特別個体機の真似事を……]
[悪くない手だろ?誰も死んじゃいないんだ]
だが、バベルが行なった局所的強制介入は機体や軍艦だけに留まらず、ルヘイの民や船舶、ありとあらゆるものにまで波及してしまった。今後数週間に渡ってルヘイの経済活動が停止してしまう事態にまで発展してしまった。
デューク公爵がカウネナナイで指揮を取り始めてから初めての大失態だった。
二五〇メートル
ルヘイの島において大規模な軍事的行動があった報せがウルフラグに届いたのは、それから一週間を過ぎた後だった。
それまでの間にウルフラグ側では様々な問題が起こり、「これは何かあったのでは?」と主に輸入業を営む業者の間で言葉が交わされていた。
そう、ルヘイと取引きをしていた業者の元に荷物が届かなくなってしまったのだ。
「どうすんだよどうすんだよ!頼んでた物が届くのに最低一ヶ月はかかるって出航日までに間に合わないじゃないか!」
「落ち着きなってカズ、今考えてるから」
物流の影響はユーサ港にまで届いている。政府として先ずは、できる限り満遍なく物資を国内に行き渡らせるため"制限"をかけた。いくら争っていた相手国とは言え、輸入業に頼っていたのもまた事実だったのでその影響は計り知れない。セントエルモの船に積み込む満足な量がユーサに届かないのだ。
これに大慌てをしたのがリョウとカズである、この二人が主にバックアップの責任者として役目を仰せ使っていた。
「考えるって──ああ!そうだ!コールダーのお嬢様に頼もうぜ!あの家ならたんまり持ってるだろ!貿易してるんだから必要量だけ分けてもらうってのは?!」
「いいねそれ!是非とも交渉役は僕にやらせてくれ!」
「お前……目的履き違えるなよ」
「分かってるって!」
根っからの女好きであるリョウは、危機的な状況も忘れて振った湧いたような話に浮かれていた。もしかしたらあのライラ・コールダーと仲良くなれるかもしれない...そう思わずにはいられなかった。
必要な物資が届かない報せはピメリア・レイヴンクローの元にも寄せられた。彼女と副責任者を務めるグガランナ・ガイアは国会議事堂に赴いており、出航直前の打ち合わせを行なう前だった。
案内された待機室で待っていると、マクレーン・ヒルナンデス大統領の下で業務をこなしている補佐官からその報せを受けたのだ。
「それは本当なんですか?」
「はい、約一週間程前からルヘイとのやり取りがぱったりと途絶えてしまって……カウネナナイからきちんと返答があったのは昨日のことなんです。何でもルヘイにいる卸業者や所有している船舶が全てダウンしてしまったようで……」
「──まさか、無差別攻撃とか、大量破壊兵器が使用されたんですか?」
「いえ、死傷者はいないようですが何でも復元されるまで最低でも一月以上はかかるとか何とか……私たちも詳しい事は知らされていないんです」
それだけを告げてから補佐官が退出し、総理大臣と大統領、それから海の交通を預かる国交省大臣の到着を待っていたピメリアは頭を悩ませた。
「どうすんだよ……食べ物が無けりゃ船出はできないぞ……」
「食べ物だけではなくて日用品の類いも数が乏しいらしいですね……これを」
すっかりネット慣れしたグガランナが愛用しているタブレットをピメリアに見せている。そこにはスーパーなどで品薄になっているといった書き込みがSNSにアップされており、首都のみならずウルフラグ国内のあちこちで発生しているようだった。
「ルヘイっていったってそこが全部じゃないだろ?どうしてこんな事になってんだ……」
「おそらく殆どの人が買い溜めをしているのが原因ではないかと……それを証拠にハウィのスーパーから品薄になっていますし……」
「あ〜……何?次いつ入るか分からないからあるうちに全部買っておけってやつか」
「そうです。それが国内のお店に波及してしまったのでしょう、確かに一月も経てば収まる騒ぎかもしれませんが私たちは……」
欲しい物が買えない、のみならず生活必需品が無くなろうとしていれば誰でも不安になるし、事態が落ち着くまで買い込んでおこうとするその心理はピメリアにも良く理解ができた。セントエルモの事がなければおそらく自分も買い込んでいただろうとしていたのは想像に難くない。
しかし、ピメリアたちの状況が悪かった。
「カウネナナイの連中もひっきりなしに海へ出てるんだろ?それも私たちが目指している場所に」
ピメリアたちが呼び出された理由はそれだった。大統領行政室の方からカウネナナイへ当日は出航を控えるようにという連絡は既にされているが、それを皮切りにしてカウネナナイの船が良く出るようになった。
ピメリアたちは「早く出航することはできないか」と催促を受けていたのだ、このままではカウネナナイに卵を横取りされてしまう。大統領があれだけの熱い演説をした手前、「カウネナナイに取られました」とは逆立ちをしてでも言いたくないのだ。
だが、だからと言って船員たちに必要な物資がなければ出航することはできない。ユーサ第一港から公海まで片道だけで一日、往復二日、さらに回収作業は五日間が予定されている。合計で一週間、その間船員たちに飲まず食わずでいろと言うのはどこの悪魔だよと言わんばかりの所業である。
待機室にようやく迎えの秘書官が現れた、総理大臣らの準備が整ったらしい。ひとまず暗い話題を切り上げて秘書官の跡に付いて行った。
付いて行った先も似たようなものだった。
「先程、ユーサ港からコールダー家に話を通してほしいと相談を受けましたが、私の方で断らせていただきました、どうかご了承ください」
「それは何故ですか?」
会議室の椅子に腰を下ろすなり、総理大臣がそう報告をしてきた。ピメリアからしてみればまさに「ナイスアイディア!」なのだが理由があった。
「この状況があと一ヶ月で終わる保証がどこにもないからです。もし、最悪の事態が起これば国としてもコールダー家を頼らざるを得ません。それにこの状況で一つの団体を最優先したとなれば、国民も納得はしないでしょう。それを理解していたからリョウ・マースという方は我々に一報を入れてくれたのです」
(あいつか……ほんと土壇場になると頭が切れるな……)
間接的に自分の部下の有能さを目の当たりにしたピメリアはいくらか誇らしい気持ちになった。しかしそれはそれである。状況の打開には繋がりそうになかった。
それから、と枕言葉を置いてから総理大臣が話し続けた。
「カウネナナイから塩を送っていただいたのですが、現在回収作業をしている団体が難儀しているそうです。何でも深海に放った全ての無人機が帰ってこないそうなんです」
「全て?それは本当なのですか?」
問い返したのはグガランナだ。
「ええ、とくに漸深層を過ぎた辺りでぱったりと。何度も細かくマルチナロービームを使用して正確な海底図を作っても失敗するそうです。ウルフラグも心してかかるようにと」
「……何だ、マルチナって、初めて聞いたぞ」
「全くお前は………そんな事も知らずに責任者をやっていたのか……」
グガランナにこそっと尋ねたピメリアを、国交省大臣のクヴァイ・ロドリゲスが目敏く見つけて溜息を吐いていた。
マルチナロービーム、正式名は『マルチナロービーム音響測深法』と呼ばれる。これの原理は船から波長が異なる十数本の音波を海底に向かって扇状に放ち、広い範囲の海底を調べるというものだった。
海の中は電気信号などより"音"の方が良く伝わる、その性質を利用し海底などに当たって跳ね返ってきた音波を元に地形を調べる近代的手法だった。
グガランナから分かりやすい説明を受けたピメリアがふむふむと頷いた。
「──あちらさんは全部無人機でこなしているんだろ?こっちは有人だ、まだ勝ち目はあるさ」
「それだけ危険だという事だ。にしても……その海域には一体何があるんだ?何故無人探査機が戻ってこないんだ……」
体格が良いクヴァイが首を傾げている。
「そういえば……確か保証局が大型の未確認生物を確認したって言っていたな、そいつの仕業じゃないのか?」
ピメリアの考えを総理大臣がきっぱりと否定した。
「それはありません。あの時確認した生体反応のデータはカウネナナイにも送っていますが、感知していないとのことです」
「──じゃあ何か、他にも……いる?」
ピメリアの呟きに答えられる者は誰もいない、そうあってはならないという願いと当たらずも遠からずといった空気感が会議室を支配していた。
三一〇メートル
技術府の長を務めるグレムリンは大いに焦っていた。あの作戦が上手くいったにせよ、海底に眠るハフアモアを回収する時間があまり残されていなかったからだ。
「何でこうも失敗するんだ……せっかく時間を稼いでもこれでは意味がない……」
ウルフラグがハフアモアの回収を行なうとの連絡を受けてから、彼ら技術府は急ピッチで回収に必要な各種探査機を作り上げていた。
辺境攻略制圧部隊『ヴァルキュリア』が所有しているヘカトンケイルを基にして作成した新型の深海探査自立型無人機の投入を間近に控えていたのだが、いかんせん事前調査がことごとく失敗に終わっていたのだ。
(投下したランダーの回収もままならない。ある程度の水の流れは掴めたが……それでも無人機をロストしてしまう程流れが速いわけでもない……)
ランダーとは、深海底に着底させた後はプログラム通りに調べ物をする自動浮上式の観測機器パッケージの事だ。
深海底の水質から流れ、泥の採取やカメラによるモニタリングを可能とし、技術府の調査に大いに役立つはずだった。投下したランダーは全部で三基、しかしそのうち二基を失ってしまい辛うじて回収したランダーも殆どが破損していた状態だった。
「何かがおる……間違いなく海底に何かが潜んでおる……」
投下した地点はそれぞれ六〇〇〇、九〇〇〇、そして一二〇〇〇メートルだ。そのうち回収できたのは六〇〇〇メートルのランダーのみ、引き上げた時はぼろぼろだった。
何かに食われたように四角い形をしたランダーは大きく凹み、そして大量の重金属が付着していた。
(鉄、銅、亜鉛、それから少量ながら硫化水素にメタンガス……金属の牙を持った深海魚でもいるのだろうか……)
調査船の一室でグレムリンは何度目になるか分からない溜息を吐いた。このまま強行しても結果は見えている、せっかくハフアモアをふんだんに使って作成した新型の自立型無人機も深海の餌食になってしまう。
間違いなく何かがいる。ウルフラグから提供された未確認生物の反応データはまるで使い物にならないが、確実に海の底には無人機を平らげている化け物が潜んでいるはず、グレムリンはそう捉えていた。
グレムリンがいる部屋に技術府の者が入ってきた。
「侯爵様、ミガイ・マクレガンが到着しました」
「……よろしい。出迎えてやらねば」
不安は多分にある、できる事ならもう数年は調査や解析に時間をかけたかったが状況がそれを許してくれない。ここでハフアモアを回収しなければ後からやって来るウルフラグに横取りされてしまうからだ。
調査のためにいくら投下しても戻ってこない無人機、遅々として進まないこの状況に対してグレムリンはある作戦を考えていた。そのキーパーソンとなるのが『ジュヴキャッチ』のメンバーだった。
調査船に接舷された漁猟船から良く陽に焼けた男たちが陸続と乗り込んでいる。吹き付ける海の風は冷たく、甲板に出たグレムリンは厚手のローブの裾を手繰り寄せた。
真っ先に乗り込んできた男はジュヴキャッチの実質的なリーダーを務めているミガイだった。
「こんな所でする話ではない。中に入れ」
グレムリンに促されたミガイはきっと睨んだだけで何も言わず、黙ったまま船内へと入っていった。
調査船に乗り込んだジュヴキャッチのメンバーをドライラボへと案内したグレムリンは、中に入るなり真っ先に告げた。
「すまんがお前さんらに一肌脱いでもらうつもりだ」
「何をさせる気だ」
「ミガイよ、お前たちはウルフラグからハフアモアを持ち帰った時、確かに見たのだな?醜く大きな化け物を」
「……………」
「これを見てみろ、投下したランダーに付着していた化け物の涎だ」
ドライラボに保管されていたランダーの付着物をミガイたちに見せている、それは黒く汚れた泥のような物だった。
「……何だこれは、腐った卵の臭いがする……」
「お前さんたちが見たという生物、あるいはその近種が海底にいると思われる。それを討伐ないし誘き寄せてほしい」
「!!」
ミガイが目と牙を剥いて怒鳴り声を上げていた。
「──ふざけるなよこのクソじじいがっ!!俺たちに生贄になれって言うのかっ!!こっちはようやくルヘイに帰れるってのにっ!!」
「ユーレットが失脚しただけで、何もお前さんらに位が戻ったわけではあるまい」
怒鳴られてもグレムリンは一向に怯まなかった。
「今回のこの作戦は国王陛下も見守っておられる。成果は問わない、生きて帰ってこられたら位を戻すと言っておられる。どうするね?」
「──こんのっ………」
殺気だっているのはミガイだけではない、他のメンバーも皆同様だった。王は「爵位を持ちたければ指示に従え」と言っているのだ。
「こっちはヴィスタの野郎も捜さなきゃならねえってのに……」
「ほう、意外と仲間思いだな、お前さんは。王位争いに嫌気が差して妹に譲ったあの軟弱者の心配をしておるのか?」
「違う、ただ落とし前をつけさせるだけだ。あいつはこっちに戻ってこないままウルフラグで好き勝手やっていやがる、立派な裏切りだ」
「……まあ良い。で、どうするね?やってくれるかな?」
「──ちっ。拒否権なんかあって無いようなもんだろうが」
不承不承といった体でミガイが囮役を引き受けた。
「良く分かっておるではないか。心配せんでも護衛はつかせる、機人軍とヴァルキュリアを表層ギリギリに待機させておく、お前さんらは潜水艦で潜航した後にこの涎を撒き散らせ」
「それで上がってこなかったから?」
「私の勘違いという事でAUVを投入する、どのみち時間が残されておらんのだ」
ウェーブした黒い髪をかきあげ、ミガイがふんと小さく鼻を鳴らした。
「それなら俺たちはタダで爵位を戻せるかもしれないってことだな」
「そうさ、悪い話ではなかろう?」
ジュヴキャッチの面々が静かに頷き合い、作戦の決行が決まった。
そうとなれば後は早いものだった。予め用意されていた原子力潜水艦にジュヴキャッチのメンバーが乗り込み、調査船の周辺で待機していた機人軍の母艦やヘイムスクリングラでも準備が進められた。
グレムリン侯爵からGOサインを受け取ったオーディン司令官は、ヘイムスクリングラの指揮官室に戦乙女の面々を集めた。
「グレムリン侯爵より決行が言い渡された。スルーズ、フロックは水中戦仕様に換装後水深一五〇メートルまで潜航、以降は別命あるまで待機せよ。ヒルド、レギンレイヴ、ヨトゥルはリニアカタパルトにて待機、不明船舶軍とウルフラグの横槍に備えておけ」
「はい!」
ヴァルキュリア部隊の隊長を務めるスルーズが威勢よく返事をし、それぞれが持ち場についていった。
ウォーターカタパルトでは既にスルーズ機とフロック機がうつ伏せの状態でセッティングされており、機体の下から乗り込んだ二人がパイロットシートに自分の体を固定していた。
司令官の前ではキビキビと動くスルーズ、司令官がいなければ遠慮なく毒を吐く。
「ほんと、この姿勢嫌いなのよね〜……フロックは平気?」
[平気ですよ。スルーズは三半規管が弱いんじゃないですか?]
「そういう問題なの?」
雑談を交わしている間にもカタパルト内に海水が満たされていく。水深二〇〇メートルと同等の水圧に高められ、くまなく機体をチェックしている。
「こちらスルーズ、オールグリーン」
[フロックです、問題ありません]
ブリッジに報告した後、すぐさま出動許可が下りた。
[こちらブリッジ、許可が下りました、ユーハブコントロール]
「アイハブコントロール。スルーズ、冷たい海を楽しんできます」
[お土産を期待しています]
「海の藻屑でも良いですか?」
[縁起の悪い……]
フロックからダメ出しを受けたスルーズ機が射出、ついでフロック機も発進した。
大陸棚から遠く離れた絶海に二機が放たれ、濃い青色をした海の中を約三〇ノットで進んでいく。二機から少し離れた所からジュヴキャッチが搭乗している原子力潜水艦も潜航を開始していた。
空とは違った抵抗感を感じながらスルーズがフロックに話しかけた。
「今回の作戦、上手くいくと思う?私は駄目だと思うんだけど」
[その根拠は?]
「──勘、ただの勘……かなあ。変態侯爵の話を聞いても手応え感じなくない?」
水深計を見やりながらスルーズたちも注意深く潜航していく、誤って中深層に突入してしまったら一発でぺちゃんこになってしまうからだ。
スルーズに答えたのはフロックではなく、グレムリン侯爵の膝下にいる機人軍からだった。
[我々の税を垂れ流しにしている戦乙女には分かるまい。それから侯爵様に対する暴言は控えてもらおうか、次はないぞ]
(へいへい)
口には出さず、心の中だけで悪態をついた。
ヴァルキュリア部隊以外にも、表層ギリギリの水深には既に機人軍の機体が待機していた。オープンチャンネルで話していた内容を機人軍のパイロットが耳に入れていたのだ。
(相変わらずヤな感じ)
[お手柔らかにお願いしますね]
フロックの愛想良い言葉に返事はしなかった。
微妙な間柄にあるパイロットたちを他所に、原子力潜水艦が指定された水深に到着しすぐさま魚雷を発射していた。その魚雷には化け物の体液と思しき付着物が含まれており、後は誘爆するなり何かにぶつかった折に起爆するに任せて散布させるのが目的だった。
魚雷が発射されて五分、一〇分、二〇分と時間が経過していく。潜水艦のブリッジにいるジュヴキャッチのメンバーは皆が息を潜めていた。
ソナーを監視しているミガイの額にも汗が浮かんでいる。
「………………」
じっと耳を傾けるが深海域から何かが上がってくる様子はない。
「………あのじじいの読み違いか……?」
「そうだったら万々歳なんです──これは……?」
「何だ?」
ジュヴキャッチの副リーダーを務めている男(ユーサ港でアマンナに出し抜かれたあの男)がソナーではなくレーダーを凝視していた。
「何だこの反応は……近くか?」
「上がってくるようですが………」
レーダーに反映された光点が何を示しているのか判断できないためミガイらは調査船に通信を入れ、そしてすぐさま返答があった。
[おそらくランダーだ、パッケージはこっちで回収する。回収するまで深海に動きがなければお前さんらは引き上げよ、AUVを投入する]
「ふん、当てが外れたようだな、こっちは楽ができて万々歳だぜ」
「それをフラグって言うんですよ」
[同感だ]
しかしそのフラグが回収されるような事もなく、深海域は静かなものだった。
海面に浮上してきた物体はやはりロストしたと思われていたランダーだった。だが、その破損具合は著しく、何とか原型を留めているほどにベコベコだった。
「────オーケーオーケー良いだろう……その挑戦、受けて立とうではないか!!」
「──侯爵様?!」
回収したランダーを前にグレムリンが唐突に大声を出したので、周りにいた技術府の面々を驚いていた。
ロストしていたランダーが作戦を決行したと同時に、それも一番破損した状態で戻って来たのだ。グレムリンはこれを化け物からの"果たし状"と受け取り息巻いていた。
調査船の船尾では新型のAUVがクレーンに吊り上げられている。その形はクラゲに近い、円型の本体の下にはいくつもの球が装着されており、触手のようなフレキシブルアームが何本も垂れ下がっていた。
大きさは直径で二〇メートル程、カウネナナイが所有するAUVの中で最大だった。
無事に着水を済ませ、グレムリン侯爵が声高に潜航せよと号令をかけた。
「──始め!!」
潜航を開始したクラゲ型AUVが海中でくるりと反転、逆さまの状態でフレキシブルアームを作動させ、それこそ本物のクラゲのように潜っていった。
その様子を海中から見ていたスルーズが一言。
「気持ち悪っ!何あの足の動きっ!」
球が装着された円型の部分がクラゲで言うところの頭に見え、何本ものフレキシブルアームがうねうねと動く様は確かに気持ちが悪い。
スルーズは大変気味悪がっているが、フロックはほうと感心していた。
[なるほど……揺蕩うように進んでいけば水圧の影響も受け難いし海水の流れにもさらわれ難くなりますね……]
「あれ見て感心するとか……というか深海にも水の流れとかってあるの?」
[勿論ありますよ、詳しい説明は省きますけど海底は地熱などによって温められて底層水が浮上してくるんです。所謂対流ってやつですね]
「あーなるほどね、あるよね対流、分かる分かる」
適当に相槌を打ったスルーズにフロックがくすくすと笑っている。
フロックの言う対流とは具体的に言えば"熱塩循環"の事を差している。水は温度の違いによって密度も変化し、冷たくなれば重たくなって底に沈み、海底付近にある水は地熱によって温められて軽くなる。他にも水に溶け込んでいる塩化ナトリウムなどによってその水の体積にも違いが生まれるのだが、これらをまとめて"熱塩循環"と呼んでいた。この対流があったればこそ、深海域に生息している生物にも酸素が供給されて生態系が維持されているのだ。
うねうねと潜航しているクラゲから一つの球が切り離され、本体を置いてその場に残り漂い始めた。
「ん?何あれ、何か球が浮かんでるんだけど」
[あれは………ヘカトンケイルですね……]
「何であれだけ切り離したの?」
[──ああ、そういう事ですか。あれはクラゲを監視するためのルーターのような物ですね、おそらくは]
これはグレムリンにとっての秘策でもある、投入したAUVを見失わないよう監視するためと、超深海という電波が一切届かない場所でもいざとなったら遠隔操作するためのルーターとしての役割があった。スルーズたちから見えていないが、細いケーブルがヘカトンケイルから伸びてAUVと繋がっているのだ。
「万全の状態で、ってわけなのね」
こうして、スルーズや他の機人軍から見守られながらクラゲ型AUVが超深海へ向けて旅立った。
問題が起こったのは潜航を開始してから約一時間後のことである。
クラゲ型AUVの潜航速度は約三.五ノット、時速で言えば約七キロだ。中深層、漸深層と問題なく進み、深海層に突入した途端の出来事だった。
切り離したルーターをモニタリングしていた技術府の者が画面を見ながら叫び声を上げたのだ、それはどちらかと言えば"歓喜"に近いものだった。
「──あ!あ!あ!今何か!今何か近くを泳いでいきました!」
「何かでは分からん!報告は明確に!」
「チャレンジャーのカメラに生き物が映りました!」
グレムリンは監視用のルーターに名前を付けていた(便宜上)。それぞれ上から順に、
タスカロラ
ガラテア
ストレンジャー
トリエステ
ネロ
アルバトロス
ペンギン
チャレンジャー
エムデン
ホライゾン
ケープジョンソン
リミティング・ファクター
そして、七〇〇〇メートルを担当していたチャレンジー・ルーターに見たこともない程に大きな目をした生き物が映ったらしいのだ。
「やはり化け物は存在していたのかっ!!」
「分かりませんっ!ですがあんな生き物がいるだなんてっ!──ああ!侯爵様!私は幸せ者でございます!もう作戦の事なんてどうでも良くなるほどにっ!」
「馬鹿たれっ!一人で喜ぶでないっ!」
海の上に流れる風は骨身に染みるほどに寒い、だが甲板に残って監視を続けていた者たちは誰も船内に戻ろうとしなかった、グレムリンもそうである。状況が状況なら、グレムリンも新種の生物を発見できたと狂喜乱舞していたことだろう、それほどに深海という世界は未知で溢れているのだ。
(くう〜〜〜っ!手放しで喜べるこやつらが憎いっ!)
新種の生き物をこの目で見られた喜んでいた技術府の者が、
「あ」
「何だ?!」
間抜けな声を上げた、それが事の始まりだった。
「カメラ映像が……途絶えました……」
「何ぃっ?!」
それを皮切りにして他のルーターを監視していた者たちも次々にカメラ映像が途絶えたと報告してきた。主な水深域は下部漸深層辺りから、タスカロラ以降一〇〇〇メートルおきに配置していた計四基のルータが一瞬にして使えなくなってしまった。
「何が起こって……同時に食らったとでもっ……複数存在しているのかっ?!──AUVの反応はっ?!」
「あ、あります!無事です!え、遠隔操作系統はまだ生きています!」
「何だ……?カメラだけ壊れたのか……?」
クラゲ型AUVはもう超深海層に到着している、カウネナナイが持っていた潜航記録を大幅に塗り替えていたがそれどころではなかった。
遠隔操作が可能だということは、まだケーブルは生きているという事である。しかしそれが良く分からない、カメラが壊れたとなればルーターそのものに異変があったという事、だがケーブルは生きているのだ。
「何が起こって……何が起こっているんだ!」
八〇〇〇メートルに到達したAUVがエムデン・ルーターを切り離し、そのルーターをモニタリングしていた技術府の者がグレムリン侯爵の肩をバシバシと叩いてから引っ張っていった。
「な──何をするっ!口で言わぬかっ!」
甲板にいる誰もがパニック状態。
「──これっ!これをっ!」
「だから何だ──と…………はあ?」
言われるがままグレムリンがモニターを見やった。
そこには明らかな異物が映っていた。
生き物ではない、報告にあった未確認生物の外観もしていない。
八〇〇〇メートルの超深海層なのに、そこには人の顔があった。
「何だこれは……………あ」
ぷつり。表層に残したタスカロラ・ルーターを除いて全ての反応が途絶えた。
こうしてクラゲ型AUVも海の藻屑となり、カウネナナイが誇る頭脳集団の挑戦は失敗に終わった。
一〇〇〇メートル
「ねえ、何があったの?どうしてカウネナナイの人たちはあんなに悲しそうにしながら帰ってきたの?」
「うう〜ん……深海のことだからさっぱりなんだよね……というか君が知らないのに俺が知るわけないだろ、余所者なんだから」
「それもそうか」
若い男女の二人は今、雄大な草原の真ん中に突っ立っていた。遠くに見えるは目がくらむほどに超巨大な剣が突き刺さった山があった。
ここはどちらかのナビウス・ネット内に築いた異世界だった。草原を駆け回っている乾電池の群れに、空を飛び回っているのは鳥ではなく子豚だった。
近付いてきた乾電池の群れを若い男がロングソードで斬り払い、「EXP200万!」のポップアップウインドウに辟易しながら話を続けた。この杜撰な設定から見るに、若い女が作った異世界なのだろう。
「何この経験値……」
「最初っからレベルカンストしてた方が後々の冒険が楽にならない?俺TUEEEがすぐできる」
「そういうジャンルじゃなかったと思うけど──まあいいや。カウネナナイの人たちは確かに何度も調査を行って海山を見つけたりもしたんだ」
「かいざんって何」
「海の中にある山のように高い地形のこと。その海山のせいで海水の流れに乱れが発生していることを突き止めたから、あのつるつるお爺ちゃんはゆっくりと、けれど堅実に進めるAUVを開発したんだ」
男が言うつるつるお爺ちゃんとはグレムリン侯爵のことである。
「それでも失敗したんでしょ?超深海には一体何があるの?人の顔がっ……とか言って固まってたよね」
柔らかい草を踏み締めながら二人が歩みを進めている、向かっている方角は前方にある山手だ。
「俺も見たかったよ。普段海の中で仕事しているけど海の世界を見てきたわけじゃないからさ──おや?ちょっと待てよ、異世界を深海の世界にしたら面白いんじゃ……?」
「私これ一作目なんですけど、もう次回作の話しするのは止めてほしいんですけど」
「ごめんごめん。ウルフラグの人たちはどうするんだろうねえ……無人ではなく友人探査艇で潜航するんでしょ?」
「それに船員たちの食べ物も十分に確保できてないんでしょ?どう考えても中止すると思うけどねえ〜」
若い男女の二人は他人事のように世間話をしながら歩みを進めていった。
一〇五〇メートル
グレムリン侯爵率いる調査船が回収に失敗した頃、ユーサ港ではさらなる問題が起こっていた。
就任したばかりの連合長がパワハラと言っても差し支えない指示を現場に出してきたのだ。
「で・す・か・ら!セントエルモや現場に必要な物は自分たちで何とかするしかないんです!このままでは港の利益だって落ちていく一方ですよ?!」
「だからと言って何で俺たちのせいにされなくちゃいけないんだよ!」
「こういった不測の事態を予期して備蓄していなかったあなた方の責任でもあるのです!」
「そんなふざけた話があるかっ!だいたい俺たちが何もしてこなかったと思ってるのか?!電話したわ!全部の業者に電話しても量が足りないって言われたんだよ!」
ユーサ港の会議室で唾を飛ばし合う二人、連合長とカズだった。
丁々発止の二人を遠巻きに眺めているのはリョウと開発課の課長を務めているアーセット・シュナイダーだった。
二人に聞こえないよう、アーセットがそっとリョウに耳打ちしている。
「……新しい連合長、相当焦っているようだね……」
「……ですね、港の仕事と政府も絡んでいるセントエルモの事で頭がいっぱいなんでしょう」
このままでは埒が明かないと思ったリョウが、ちょうど文句を言い終えて小休止していた二人に割って入った。
「ちょっといいですか?さっき僕たちに何とかしろっておっしゃいましたよね、それはどの程度ですか?」
「──ああんっ?!リョウ!てめえ!こいつの言いなりになるっていうのかっ?!」
「そうじゃないけど、でもこのままってのもマズいでしょ?どうなんですか、連合長」
「──私に確認を取る前にまずはやってみせろっ!」
その言葉を受けたリョウが椅子から立ち上がり、それにつられるようにしてカズとアーセットも席から離れた。
ゴーダは会議に参加していない、作業場で整備のやり方などをパイロット班に叩き込んでいる最中だった。
連合長から言質まで取れはしなかったが、リョウは概ね満足していた。
「で?!どうすんだよっ!!何か考えがあるんだろっ?!」
「あるよ、皆んなに分けてもらおう」
「はあ?」
「ん?それはどういう意味なんだい?」
リョウが思い付いた作戦は簡単だった。港にいる人たちやその友人、知人を伝って食べ物や日用品を分けてもらえないかと交渉することだった。
「ばっ!そんな簡単に上手くいくわけないだろ!」
これにはカズが反対した、言うは易いが行なうには難しい。
「そう?こういうのは一人から始まるものだからさ。僕は観光課の人たちに頼んでくるよ」
「おまっ………自分が仲良くなりたいからってここまでするか?」
「する。実益と願望がかなってるならするでしょ」
リョウは根っからの女好きである、今回の騒動をダシにして、まだ話をしたことがない女性社員に声をかける口実にしようと企んでいるのだ。
これにはカズもアーセットも呆れる他になかった。けれど、不思議と頼もしさも感じるから始末に負えなかった。
リョウが行なった作戦はそう簡単に実を結ぶこともなく、職場のあちこちで罵詈雑言を言われている課長をクラン・アーチーが目撃していた。
(何やってるんだろう……)
クランが働いているのは屋内の作業場である、ハンドメイトによるアクセサリーを作成している現場だった。
隣に座っている年配の女性社員がクランに話しかけてきた。
「あの課長さん、色んな人に手を出しているって噂だからクランちゃんも気をつけなよ」
「ええ?課長って奥さんがいましたよね」
「根っからの女好きなの。ほら見て、あんなに文句を言われているのにどこか嬉しそうにしているでしょ?優しい人で良く話も聞いてくれるんだけどね〜手癖が悪いのが玉にキズかな〜」
「はあ………あ、こっちに来ましたよ」
屋内作業場はとても広い、ずらりと並んだ列の一つずつを練り歩いていた課長がクランたちの所にもやって来た。
「ちょっといいかな?話したい事があるんだけど」
「え、あ、はい」
本当にやって来たぞとクランが身構えた。
「今ね、色んな人から食べ物や日用品を分けてもらえないかって相談しているところなんだ。クランさんも良ければ分けてもらいたいんだけど……いいかな?」
(え、何でこの人私の名前知っているんだろう……)
従業員名簿が頭の中に入っていそうな記憶力である。
「え、えっと、そのですね、私もご飯はここ最近外食で済ましているのであんまり……それに私も日用品が買えなくて……」
クランの影から先輩社員も同意してきた。
「私もそうですよ、子供たちのご飯が最優先ですから」
「うう〜んそっかあ……ならしょうがないね。ところでクランさんはもうこっちの職場には慣れた?」などと軽やかに話題を振ってきたので、しどろもどろになりながらクランが受け答えをしていると一人の女性社員が課長の元にやって来た。
「あ、あの……課長」
(あれ?この人確か…ナディさんと同じ班にいた…)
声をかけられた課長は嬉しそうに振り返った。
「プウカさんだよね?どうかしたの?」
(この人もしかして全員の名前を覚えてるの?……意外と人見知りするタイプなのかな)
クランの見当違いを他所に課長とプウカが話し始めた。
「今、日用品を分けてもらえないかって聞いて回っているんですよね?良かったら何ですけど……いくらか余っているので持って来てもいいですか?」
「え!いいの?!本当に?!生活は大丈夫なの?!」
(え!自分から?!)
プウカの申し出に課長もクランも、話しかけられたくない先輩社員も目を丸くした。
「あ、はい……買い込んでいますので、何とか……」
感極まった課長が遠慮なくプウカのことを抱きしめていた。
「なっ!」
「──ありがとう〜〜〜っ!」
「課長っ!離れてっ!」
すかさず先輩社員が課長を引き剥がしにかかった、立派なセクハラである。
「あーごめんごめん!つい嬉しくてね!どうしてそうしようと思ったのか理由を訊いてもいい?」
突然抱きしめられたプウカはほんのりと頬に赤みがさしている。ああ、こういう人が騙されるんだなとクランが勝手に勉強しているとプウカがぽつりと呟くように答えた。
「その……一緒に働いていた後輩が困っていると聞いたので……ちゃんとお別れの挨拶もできなかったから……」
(ナディさんのことだ、絶対ナディさんのことだ!)
プウカなりの恩返しのつもりだった、もしくは謝罪。だからどこか申し訳なさそうにしていたのかとクランたちが納得し、影に隠れていた先輩社員も感化されていた。
「はあ……なら私も出します、ほんの少しですけど」
そうとなればあとは早い。クランも日用品の提供を承諾し、その話があっという間に作業場全体に広まっていった。
とくに女性は男性と比べて連帯意識が高い、「皆んながやるなら私もやる、皆んながやらないなら私もやらない」といった考え方だ。さらにさらに話も飛躍し易く、食べ物はどうするんだと課長そっちのけで話し合いが設けられ、
「皆んなで買い出しに行けば何とかなるんじゃない?」
「課長、どうですか?明日一日休みにしてください。そうすれば皆んなでスーパーへ行ってきますよ」
と、いった具合に買い出しゲリラ作戦が提案された。
作業場全体を閉じるだなんて常識的に考えたら喜ばれるものではない。しかしその判断をするのがリョウだった。
「それ僕も付いて行っていい?そうすれば港の経費で落とせるし、買った物は全部船に乗せるから後の事は分からなくなるしね〜」
止めるどころか付いて行くと言い出す始末、挙げ句の果てには「自分たちも好きな物を買え」と言ってきた。
これに喜ばない人はいなかった。
勿論喜ばない人はいる、就任したばかりの連合長だ。
「そんなふざけた話があるかっ!」
報告を受けた連合長は秘書官を伴い観光課へと赴くが、誰も相手にしようとしなかった。
「どうして私に言うんですか?」
とか、
「課長に言ってください」
とか、
「私は知りませんので」
など。
リョウが築き上げてきた"信頼"の差が歴然と表れた瞬間だった。それにそもそもこの連合長はあまり好かれていないこともあり、観光課の社員は始めっから取り合うつもりがなかったのだ。
かと言って、これ以上の強硬策に出られない連合長は地団駄を踏む以外に気分を紛らわせる方法がなかった。
「──もう知らん!何なんだこの港はっ!」
ピメリアが進めていた"女性推進化計画"も功を奏して、一致団結した観光課は港で一番強い組織に成長していた。
翌る日、人っ子一人いない観光課の職場を目の当たりにしたジュディスは目を白黒とさせていた。
(え、何?どうなってんの?)
昨日から始められた整備実習のため、造船課の作業場に行こうとしていた直前だった。いつもなら社員で賑わっている観光課に人が誰もいないのだ、こりゃあの連合長に嫌気が差して集団ボイコットでもしたのかなと考えながら造船課の作業場に入ると、ここにもボイコットをした人間が一人いた。
「ナディを見なかったか?」
「──は?ナディ?」
「まだナディさんだけ来ていないんですよ」
「……………」
作業場にいたのはゴーダとパイロット班のラハム、それからアキナミ・キャンベルだけだった。集合時間はもう間もなくだ、はっきりと言って遅刻寸前だった。
「そのうち来るんじゃないの?連絡はないの?」
答えたのはナディと同郷であるアキナミだ、日焼けしていた肌も白くなりつつあった。
「ないんです、なんなら私の電話にも出なくて」
「──何か事故に巻き込まれたとかでしょうか?!ラハム心配になってきました!」
「マイヤー、お前さんからも電話をしてやってくれんか?」
皆は心配そうにしているがジュディスには心当たりがあった。あの面倒臭がり屋の後輩が今日まで真面目に講義を受け続け、実地訓練もサボらずにこなしていたのだ。
ジュディスが電話をかけたのはナディではなくライラだった。
[……おはようございます。朝早くから先輩が電話してくるなんて珍しいですね]
電話口からガサゴソと音が聞こえてくる。
「ライラ、ナディと代わってくれない?」
「え?!ライラさんに電話してるんですか?」
「あ、そういう事か……」
ラハムは驚いているがアキナミはピンときたようだ。
[は、え?な、何でですか?私一人なんですけど、どうしてナディと一緒にいると思ったんですか]
「いいから代わりなさい。どうせあんたのことだからナディに匿ってくれって頼まれて断れなかったんでしょ?そいつと話をしないと実習が始められないの」
[いや、ですから──]
何とか言い逃れしようとライラが言葉を紡ぐがジュディスが一言。
「想い人を叱って正してあげるのも思い遣りだと思わない?あんたのやってる事はただの甘やかしよ、ナディの為にならない」
[…………………はあ]
ライラが溜息を一つ、すぐに代わった。
ジュディスの読み通り、今日の実習をサボろうとしていたナディが電話に出た。
[………うっす]
やさぐれたチンピラみたいな挨拶をしたナディにジュディスがすぐさま一喝した。
「──あんた今何時だと思ってんのっ!!もう集合時間は過ぎてんのよっ?!今すぐこっちに来いっ!!」
[一日ぐらい……一日ぐらい休ませてくれても良いじゃないですかっ!!こっちは一ヶ月間まるまる訓練してたんですよっ?!休み無しでっ!!]
あのナディがジュディスに言い返してきた、よほどストレスが溜まっていたらしい。
「あんたが自分から参加したいって言ったんでしょうがっ!!そのくせサボるとかどんだけ自分勝手なのよっ!!」
[どんな事にも休息は必要だと思いますけどっ?!それに観光課の人たちだって全員が休みを取って買い出しに行っているじゃないですかっ!!それは良いんですかっ?!観光課は良くて私だけ駄目なんですかっ?!]
(それで休みを取ってたのか……)
ナディの怒鳴り声はスピーカーにしていなくても周りに届いていた、ジュディスがアキナミたちに目配せをするとこくこくと頷いている、どうやら嘘をついているわけではないらしい。
どこからかその情報を入手したナディが「なら私も!」と忍耐袋の緒が切れてしまったのだ。
出航まであと二週間を切っている、整備実習が終わればいよいよ本番の潜航が待っていた。
「どうしますかゴーダさん、今日は休みにしますか?」
「そんな余裕はどこにもないんだが……そこまでキレている奴に無理やり教えても実にならんのも確かだし……うう〜ん」
まあしょうがないと言ってから、ゴーダが一日休みにした。
「その代わり、明日からラウェに寄港するまで休みは無いと思え──と、伝えておけ」
そっくりそのままナディに伝えると、驚きの声を上げていた。
[えっ?!ラウェ?!どうしてラウェに寄るんですか?!]
「あんたのお母さんからの要望らしいよ、連合長から聞いてないの?」
[聞いてませんよそんな話ぃ〜〜〜………あの、ちょっと、今からそっち行ってもいいっすか?]
「は?あんたが休みにしろって言ったから休みになったのに何言ってんの?」
[あ、じゃあ私のことは良く頑張っていると先輩の方から口添えしてもらえたら──]
どうやらナディは自分の母親を恐れているらしい。
勿論ジュディスは悪戯っぽく答えた。
「分かってるわよ、ボイコットして皆んなを困らせた可愛い後輩だって私の方から伝えておくわ」
電話口でナディが悲鳴を上げた。
いきなり休みになった三人は作業場を後にし、これからどうしようかと作戦会議をするため食堂に足を運んでいた。
その食堂でも食料の調達に難儀しているためいつもよりメニューが少なかった。
(大丈夫なのかしらねえ……ラウェでもある程度買い付けるって聞いたけど……)
「お?おお!凄いですねこの人たち……」
変わった携帯の画面を見ていたラハムが声を上げ、何事かと二人も覗き込んだ。
「何見てるの?」
「観光課で働く人たちがSNSで情報を共有し合っているんですよ!」
「へえ〜〜〜そりゃ凄い」
とくに注文することなく食堂のテーブルに腰を下ろした三人は画面を見続けている。そこには、一般的なSNSサイトにタグ付けされたコメントがずらりずらりと並んでいた。
「………あ、クックのスーパーにはまだ並んでいるみたいですね」
「近くの市場にも売ってるんですって!」
「良くこんなに買えたわね」
「人海戦術凄すぎる」
コメントを見ながら三人が呟いている。
やれどこそこのスーパーなら売ってるとか、やれ自分は間に合わないから家族に行かせるとか。得られた情報をすぐさま共有し、たとえ恋人を使ってでも現地に向かわせるそのやり方は"指揮官"と言っても過言ではない。それに観光課で働く社員は数百名を超えており、一人一人が指揮官と兵士を兼ね備えた動きをしているのだ。
それにちらほらと、観光課の課長であるリョウが戦利品を抱えた女性社員と一緒に写っている写真もアップされていた。
「何だかこの人とても楽しそうにしていますね」
「女好きの課長さんだからね」
「ジュディスさんは声かけられました?」
「かけられた。あんたは?」
「かけられました、ラハムにも自己紹介してましたよ」
「ほんとこの人凄いわね、誰にでも唾つけるなんて」
コメントと写真と、随時更新させながら画面を眺めていると見知った二人が現れた。
ナディとライラである、二人もどこかのスーパーの駐車場で袋を抱えながら肩を並べて写真を撮っていた。
「何やってんのこいつ!サボったくせに買い出しに出てんじゃないわよ!」
「いや〜、きっとヨルンおばさんが相当怖いんだと思いますよ」
「そんなに厳しい方なんですか?」
「怒るとね。普段は優しいんだけど」
「あー何これ、頑張ってますアピール?面白いじゃない……」
アップされたナディたちの写真にジュディスがコメントを書き込んでいる。「そんな量で私が優しくすると思うな!もっと買ってこい!」と送信すると秒で返事があり「だったら売ってるスーパー教えろください!」と返ってきた。
また画面をスライドして更新すると、今度はナディとライラと一緒に自撮りをしているリョウの写真がアップされていた。
「ほんとこの人どこにでも現れるな」
「あ、この人がナディたちを撮ってたんですね」
「ラハムも段々楽しそうに思えてきました……近くの市場に行ってみますか?」
「いいね、私らも買い出しに行ってみよっか」
「領収書を持ってきたら港の経費で落としてくれるらしいですよ」
「あ、そうなの?それならついでに私物も買っちゃおっか」
「え、いいんですかそれ」
「ちょっとぐらいいいでしょ、手間賃よ」
こうして、とくに「やれ」と言われたわけでもない三人もゲリラ戦線に加わり食堂を後にしていた。
楽しそうな事なら誰に指示を受けなくとも自ら行なうものである。ここまでリョウが考えてのことなのかは分からないが、今回の買い出しゲリラ作戦がSNSを通じて色んな人に影響を与えたことは言うまでもない。
電撃的に行われた買い出しはその日の夕方を迎える前に終局し、港にはこれでもかと沢山の食べ物、日用品などが社員の手によって届けられることとなった。
出航まであと二週間を切っていた、土壇場で難を乗り越えたユーサ第一港は連帯意識も相まって、その日はお祭りのように賑やかしい雰囲気に包まれていた。
一五一〇メートル
「何……ですと……それは真ですか?」
「ああ嘘ではない、現地からの報告だ。ウルフラグの調査船が無事に出港したそうだ」
ルカナウア・カイに築かれた国王の城、ここはガルディア・ゼー・ラインバッハと謁見する間だ。
謁見の間にはその国王とグレムリン侯爵、そして国王の傍らにデューク公爵が控えていた。謁見の間、と言ってもさほど広くはない、室内に流れている水のせせらぎと明かり取りの窓枠から葉擦れの音が良く耳に届いている。国王が胡座をかいているその奥はきめ細かく縫われた布が下ろされ、ひっそりと通路が続いていた。
秘密の話をするにはちょうど良い、廊下の途中にあるようなスペースが謁見の間だった。
「当てが外れたな、グレムリン」
「……………」
一段低い所に腰を下ろしているグレムリンは項垂れた。
「一体何が──一体何があったんだ……?確かに流通網は麻痺していたはずなのに……」
国王より少し離れた位置に立っていたデューク公爵が口を挟んだ、本来ならばあり得ない行為だ。
「まるで予見していたかのような物言いだな、侯爵よ」
「…………」
先のユーレット捕縛の件でデューク公爵は多大な責任を負わされてしまった。ルヘイの民たちにも甚大な被害を与え、危うく『国民投票』の場を設けられる直前まで事態が発展していた。
しかし、もし先の一件が仕組まれていたものであれば話が変わってくる。さらに国王も絡んでいたとなれば──
「バベルの部隊に機体を与えたのは君のようだな、何故詳しい機能をこちらにも──」
「デューク、その話は後でやってくれ」
不穏な空気になりかけたところを国王が制した。
「お前も言うなれば被害者だ、だから他の貴族たちを黙らせて穏便に済ませてやったんだ、それに同意したはずだろ?蒸し返すのは良くないぞ」
「……………仰せのままに」
デューク公爵は一切納得している様子はない、けれどこれ以上追及しても煙に巻かれるだけだと判断した。
「グレムリン、お前には尖兵になってほしい。近々行われるウルフラグの回収作業を何が何でも邪魔をしろ」
「──ウルフラグの者たちも横槍を入れてこなかったのに……ですかな?」
「そうだ──ちょいと事情があってな……星人がどうしてもハフアモアを回収してきてほしいと言ってきたんだ」
これにはデューク、グレムリンが目を丸くした。『星人』とは経典の中に出てくる架空の人物であったはずだ、それなのに国王がその名を口にしたから心意を計りかねていた。
「国王よ、それは………」
「嘘ではない、本人からの願いだ」
「……………」
グレムリンは信じられないといった体で被りを振っている、国王が嘘をついているように見えなかったからだ。
「──実在したのですか、星人が」
「お前に関係があるか?宗教には興味がなかっただろうに」
バッサリと斬り捨てられたグレムリンと名乗る侯爵が口を閉じた。
「デュークをお前の下につける、我々の手で回収ができないのならせめて邪魔をしてウルフラグに渡るのを阻止してくれ。やり方は問わない」
「お言葉ですが──」
「これは命令だ侯爵よ。従わないのならユーレットと同様に名前を剥いでハリエに送りつけるぞ」
「…………仰せのままに」
「行ってくれ」
国王が素早く立ち上がり、あとは一瞥をくれることなく廊下の奥へと姿を消した。
◇
「さて、答え合わせといこうじゃないか」
謁見の間を離れた二人は王城の中をゆっくりと歩いていた。小高い丘の上に築かれた城から王都の街並みを一望することができる。盆地に興されたルカナウア・カイの街は低い山並みに囲われている。街の中心には、その山から流れてきた川が留まり湖も形成していた。
ついこの間は公爵に説教をされてしまったグレムリンはいくらか肩身の狭い思いを抱いていた。
(ややこしい人間をつけおってからに……これなら単身の方がまだマシだ)
ややあってからグレムリンが答えた。
「と、言いますと?」
「惚けるな、局所的な強制介入を実現させたのは君の手柄だろう?それをバベルの部隊に渡しているはずだぞ」
「まさか、私はあのカルティアン家に寄生している男の言う事を聞いただけ、言われた通りの物を作ってやっただけです」
「──そうか、そのバベルも腰を抜かしていたんだがな」
「それは本人の読み違いでしょう。互いに盤面を間違えた者同士、ここは穏便にいきましょう」
「………そうだな」
(ようやく黙ってくれた……今日はしつこいな……)
グレムリンの皮肉を受けたデューク公爵が押し黙り、いくらか声音を変えてからすぐ話を振ってきた。
「それとウルフラグの邪魔をしろと言われたが、具体的にどうするつもりかね」
「どうもこうもありません、私は彼らの挑戦を直接邪魔するつもりは毛頭ない」
謁見の間がある区画から外通路を渡りきり、客室を何千と抱える最も広い建屋に入った。外から差し込む光りだけで十分明るい、質の良い絨毯の上を大勢の給仕たちが駆けずり回っていた。
そのうちの一人をグレムリンが呼び止め─ついでに見目麗しい姿を目で楽しんで─二人分の飲み物を持って来させた。二人は入り口の近くにある休憩用のソファに腰を下ろして話を続けた。
「それはいいのかね、命令に背くことになるが」
「直接、です。間接的に邪魔をさせてもらいます」
「それは?」
街から流れてきた冷たい風が外から入り込む、グレムリンの視線から街並みは見えないが薄く煙る青い空と山の峰々があった。
それら自然の景色に目をやってからこう答えた。
「我々もウルフラグの船の傍に停泊し、見守らせていただこうかと」
二〇〇〇メートル
「信じられない!どうして宿屋に泊まる度に経験値が減っていくんだ!これじゃあ戦う意味が無い!」
「え〜そう?こっちの方がやる気出るんだけどな」
「何そのダンジョン仕様、入り口に戻る度にレベル1になる的な」
などと、若い男が異世界を創造した若い女に文句を言っているが、満更でもない様子である。それにこの二人の旅はかれこれ二年近くになる(ナビウス・ネット内の時間において)、駆け出しの町で冒険者デビューをしてあっという間にその名声を轟かせていた。
二人が宿泊している宿屋は超巨大な剣が突き刺さったその山の麓である。
遥かな昔、大英雄と熾烈の戦いを繰り広げていた大魔王が「あっ!」と誤って手を滑らせ、その剣が人間界に落ちてきた時に突き刺さったとされるのがその山である。
「この世界ってどうやったらクリアになるの?」
「あの剣を抜いて大魔王に返したらクリア。魔王軍が攻めてくるのも剣を失くした!って騒ぐ大魔王の嫌がらせの鬱憤晴らしだから」
「何それはた迷惑な……」
「世の中の仕組みって大体こんなもんじゃない?誰かと誰かの確執で出来上がっているようなもんでしょ」
「深いこと言うね〜」
「それよっかさ、ウルフラグの人たちはどうなったの?」
「ん?──ああ、それがねえ〜……」
ご自慢のロングソードの手入れを始めようとしていた若い男がかくかくしかじかと答えた。
それを聞いた若い女が固いベッドの上で驚いていた。
「ええ?!何それ!!ちょー凄いじゃん!!それじゃあウルフラグは無事に出航できたんだ!」
「そうそう、まさかあんな簡単に揃うとは俺も思わなかったよ。まさに現代が生んだ人海戦術ってね、どんなに小さな情報でも鮮度が高ければそれだけで有益になるからね」
「へえ〜〜〜SNSかあ〜〜〜………もし異世界の人たちも携帯を持ってたらどうなるのかな?」
「誰も冒険しなくなるんじゃない?わざわざ家の外に出る必要がないんだもん」
「それもそうか……面白いと思ったんだけど」
「いいね、そのネタ。今度私が作ってみよっかな」
「?!?!」
「?!?!」
若い男女が揃ってベッドの上で飛び跳ねた、知らない女がいつの間にか部屋の中にいたからだ。
基本、ナビウス・ネット内にいる住人は決められた言動しか取らない、言うなれば『NPC』と同義なのだがその知らない女は明らかに自由意志で喋っていた。
「な、な、な、な、なななっ」
「だ、だだだ、だっ」
「何?さっきまで普通に喋ってたじゃんか、何でそんなにどもってんの?」
「いき、いきなりっ、だ、だ誰なんっですかっ……」
「お、お、俺たちはっ何もっ、普通にっ……」
「二人は兄妹?それとも双子?長年自分の居場所に引き篭もってたから上手く喋れないの?」
知らない女──と、言うよりアマンナだ、そのアマンナの歯に絹着せぬ言い方に二人が同時に吠えた。
「人見知りじゃないっ!」
「人見知りって言うなっ!」
「いや人見知りかって訊いてないんだけど……まあいいや。あのさ、二人にお願いがあってナビウス・ネットにアクセスしたんだけどね、いいかな?」
「な、な、何ですか……」
「と、と、友達になってほしいって言うなら、やぶさかでも……」
「い、一緒に、冒険、するぐらいなら……」
「え?!マジで?!私も冒険して良いの?!──いやいや、それは置いといてね……」
ウルフラグの調査船がラウェに到着する少し前のことである。
二〇五〇メートル
「あ!お母さん!お姉ちゃんから連絡来たよ!もうこっちに来るって!」
「──え?!もう?!言ってた時間より早いじゃない!──こうしちゃいられないっ早く支度をっ」
「もうお母さん!何やってるの!その服で良いじゃんかっ!」
ラウェにあるナディの実家、この島特有の家の造りをしたリビングは大きく窓が開け放たれていた。そのため、ナディの妹であるフレア・ウォーカーの声はご近所さんに良く届いていた。
娘のために料理の支度をしていた母親が二階へと駆け上がっていく、上から響くドタドタ歩きを聞きながらフレアは今か今かと待ち侘びていた。
近所に住んでいるフレアの友達がたたたと駆けて来た、ラウェの港から大きな船が二隻も近付いて来るのが見えたよ!と報告にやって来たのだ。
「お母さーん!私先に行ってるからねー!」
セントエルモのメンバーを乗せた船と空軍の船がラウェにやって来ることは島の皆んなが知っていた、ちょっとした騒ぎにもなっている。
リビングからそのまま外へと駆け出した、ラウェにはちょっとした温泉もあり気候は首都と比べたらいくらか暖かい、その風を浴びながらフレアはすぐ近くにある港へと走って行った。
ラウェの港町はいくつか存在し、フレアたちが住んでいる所は二番目に大きな場所だった。町のすぐ近くにある山を挟んだ向かい側に主要な港がある、そこにナディとアキナミが過去に通っていた専門校がありフレアとその友達もそこの学生だった。
なだらかな坂になっている町の通りを友達と並んで走る、時折りご近所さんに挨拶をしながらもう視界に入っている港へと急いだ。
「うわっ!おっきいねっ!あそこにフレアのお姉ちゃんが乗ってるんでしょ?!」
「そうだよ!お姉ちゃんがセントエルモのパイロットなの!」
港にはもう二隻の船が停泊していた、結構な人だかりもできている。あそこに自分の姉がいるのかと思うとフレアは嬉しくて堪らなかった。
(まるで有名人みたい!)
弾む息をそのままにフレアたちも港に着いた。役場の人や港の関係者でごった返しており、もうそれだけでお祭り騒ぎになっていた、桟橋の近くに屋台まで出ている始末である。
船にかけられたタラップから一団がぞろぞろと降りてきた。姉はどこだ!ここから見えない!とフレアがあっちにこっちに首を捻っている。
「あ!いたいた!お姉ちゃんいたよ!」
フレアより先に友達が見つけたようだ、前に立ちはだかるおっちゃんの背中の隙間から見やれば、確かに色んな人に囲まれて船から降り立ったナディがいた。
セントエルモの一団が役場の人たちと挨拶を交わしている、見知った顔もあれば知らない人たちもいる。その中でも我が姉がとくに目立っていた(フレア目線)。いつも通りに見えるし、どこか緊張しているようにも見える、自分の故郷なんだからもっと気楽にすれば良いのにとフレアはくすりと笑みを溢した。
挨拶を終えた一団がぞろぞろと歩き始め、ナディの傍にいたライラがフレアのことを見つけてそっと教えていた。
「フレアーーーっ!!」
フレアに気付いたナディが声をかけてくれた、そうとなればあとはこっちのもんだ、人目も憚らずフレアとその友達は皆の注目を集めている一団へと飛び込んでいった。
「お姉ちゃん!お帰り!」
「ただいま〜あんまりこっちは変わってないね」
声をかけるとそれこそ子犬のように駆けて来たフレアをライラは愛おしく眺めていた。
「あったり前じゃんか!ライラさんもお久しぶりです!」
「うん!フレアも久しぶりだね!その子はフレアの友達?」
「ど、は、初めまして……」
フレアの隣にはとても純朴そうな女の子がいた、しどろもどろになりながらライラに挨拶を返している。
「初めまして!一日だけだけどよろしくね!」
「は、はい!」
ライラの美貌に見惚れてか、その子は薄らと頬が赤くなっている。
よしよしと手応えを感じているライラは一人やる気に満ち溢れていた。
(ナディのお母さんと会える日がやって来た!ここはいくらでも猫を被ってだな……)
(こんな言い方は失礼だが)離島のように狭い町に住んでいる人たちのネットワークは恐ろしく強固であり、どんな些細な情報でもすぐに行き渡ってしまう。何としてでもナディの母親に良く思われたいライラはどんな人に対しても愛想良く振る舞うつもりでいた。
フレアたちも一緒になって桟橋から町の方へ歩いていると、早速ライラにチャンスが訪れた。
しかし、
「あ!お母さーん!こっちこっち!」
(──え″!)
フレアがそう呼んだ女性、遠目からでも分かるほどにとんでもなく綺麗な人だった。
「──ナディっ!」
そのとんでもなく綺麗な人がすらりと長い腕を上げて手を振っている、それに合わせて宝石のように光っている黒い髪も小さく揺れていた。
思いがけない相手にライラは足がすくんでしまった、まさかあれほど綺麗な人がナディの母親だと思わなかったからだ。
声をかけられたナディは呼ばれているのにくるりとフレアに向きを変えて小声で尋ねている。
「……お母さん何か言ってた?私のこと何か言ってた?!」
「ん?何も言ってないよ?普通に心配してただけだけど」
難しい顔をしたナディがライラの腕を掴んでたたたと母親の下へ駆けて行く、まさかいきなり腕を掴まれると思っていなかったライラはなすがままであった。
「ごめんライラ!ちょっと付き合って!」
「え?え?え?」
あっという間に母親の前に着いてしまった。近くで見ればなおさら、生まれて初めて見るほどにその人は綺麗だった。
ナディの母親、ヨルン・ウォーカーは我が子を真っ直ぐに見据えている。
「お帰りなさい」
「た、ただいま……元気にしてた?」
「してたわよ。ちっとも顔を見せようとしないからお母さんたち心配してたわ」
「そ、そう?結構な頻度で電話してたと思うんだけど……」
「な〜に?まさかお母さんに恥ずかしがってるの?」
「ま、まあ…そんな感じかな……?あ!この子私の友達でライラって言うの!今日泊めてあげてもいいよね?」
「え!あっ……そ、は、初めまして……ら、ライラといいます……」
さっきのフレアの友達のように、ライラもしどろもどろになってしまった。気の利いたことが何も言えず、挨拶をするだけで精一杯である。
「初めまして、いつも娘たちがお世話になっています。ライラちゃんのことはフレアからも聞いているわ、自分の家だと思ってゆっくりしてちょうだい」
「は、はい!」
ヨルンは美貌もさることながら、その声にも不思議な力が宿っていた。耳にした者を惹きつけるというか、目を離さずにはいられなくなるというか、ライラは気付いていないが頬が真っ赤に染まっていた。
(凄い人だ……こんな人が自分の母親だなんて信じられない……)
それからヨルンはピメリアやジュディス、ゴーダたちにも挨拶をして漏れなく全員の目を惹きつけていた。
ヨルンの洗礼を受けたライラは失念していた、いや、耳に入っていなかった。ナディが泊めてあげるといった言葉が、その事を思い出したのはナディの実家に到着してからだった。
◇
「そんなに綺麗なら男どもが放っていないだろ、そこんとこどうなんだ?」
「そんなまさか、皆んなとは仲良くやっているわ。そういうあなたも十分に綺麗じゃない」
「へっ!あんたみたいな人に褒められても嬉しくないね!おい!ラハム!こっちにも酒をくれ!」
「はいはいただいま!」
「ラハムーーー!早くジュース持ってきてーーー!」
「はいはいはいはいただいまあーーー!」
「こら!ナディ!お客さんにそんな事させたら駄目!自分で取りに行きなさい!」
「え〜〜〜」
「ラハムさんも早く食べないと無くなりますよ!」
「何ここのお魚!めっちゃ美味い!」
「そうだろうそうだろう、獲れたてだから美味いさ!沢山食ってお姉ちゃんたちみたいにおっきくなるんだぞ!」
「おじさんおじさん、この人私たちより歳上だから」
「え!そうなのかい?!こんなちっこいのに大したもんだなあ〜〜〜!あっはっはっはっ!」
「珍しく先輩が怒らない」
「こんなに美味い刺身を食えば気にもならないわ」
「そういう問題なんですか?」
「ライラはどう?口に合う?」
「え!あ、うん、凄く美味しいよ!」
「お嬢ちゃんはコールダーさんとこの娘さんらしいな!昔は世話になったよ!」
「あ、はあ……どうも……」
「ラハム〜〜〜!」
ナディの実家のリビングでは大変賑やかしく宴会が開かれていた。そこには代わる代わる島の人たちが差し入れを持って来るものだから食卓には食べ切れないほどの料理が乗せられている。
ピメリアとヨルンはお酒を飲み、ナディたち未成年はジュースを片手に新鮮な魚料理をペロリペロリと平らげている。そんな中でも不服そうにしているのが一人、ライラである。
(いやまあ、どうせこんなこったろうと思ったけどさ……)
ナディの実家は広い、結局お泊まりするのはライラだけではなく、セントエルモのメンバーもお世話になることが決まっていた。
ライラの周りでは誰もがお喋りをしながら舌鼓を打っている、宴会ならではの浮ついた空気感を存分に楽しんでいた。
しかしライラは気が気ではない、己が掲げた『母親と仲良くなる作戦』が遅々として進まないので気を急いていた。
ご近所周りへ挨拶に行っていたグガランナ・ガイアと、昔馴染みがいるとのことで一緒に付いて行ったゴーダが大量の袋を持って戻ってきた。
「ほらあ!たあんと食え!」
ゴーダの頬は赤みが差している、大方他所のお家で酒を呑んできたのだろう。ナディやジュディスたちがその袋を預かり、もうテーブルに乗らないのに中身を広げている。グガランナとゴーダも車座に加わり、途端に狭くなってきた。
そんな折にピメリアからお呼びの声がかけられた。
「ライラ!ライラ!ちょっとこっちに来い!」
(よしきた!)
すすすと立ち上がり、ピメリアたちが座っている所へ移動した。対面するように座っていた二人の間、テーブルの端にライラが─ヨルンに少し寄って─腰を下ろした。
今日のピメリアは珍しく酔っていた。いつか見たあの時は空軍の男どもを返り討ちにしても酔うようなことはなかったのに。
「ほあら!うちのご自慢の社員だ!びっくりするぐらい綺麗だろう!」
(いやあのピメリアさん、私もう辞めてるんですけど)
とは今は言うまい、何せヨルンの前なんだ。ライラはニコニコと笑みを作り続けている。
「そうねえ〜私もさっき見た時は驚いたわ〜まさかこんな綺麗な子がうちの娘の友達だなんて」
「い、いえ、そ、そんな……う、よ、ヨルンさんの方が綺麗です……」
何とか、何とかライラは気の利いたことが言えた。
すると、ヨルンが気を良くしたのかライラの腰に手を回してくいっと引き寄せてきた。
「まあ嬉しい!お世辞でも嬉しいわ!」
(はー!はー!スキンシップ!はげし!)
ライラの心拍数が一気に跳ね上がった、元々高かったのに。
「おい!ライラ!何で私にはお世辞の一つもないんだ!私の方が付き合いが長いのに!………はっは〜ん、お前さてはあれだな?ナディの母親だからって気に入られようと─「ああ!ああ!綺麗、きれい!ピメリアさんも凄く綺麗!素敵!」
適当に褒めながら割って入るが遅かった、ヨルンにもばっちり聞かれてしまった。
「なあにぃ?ナディの母親だから?もしそうじゃなかったら私も適当にあしらわれていたの?」
(あー!あー!ナディのお母さんだ!間違いなくこの人はナディのお母さんだ!)
さらにぐいとライラを引き寄せ、もうべったりと引っ付いたヨルンは悪戯っぽい笑みを浮かべながら囁いている。ナディも時折見せる『S』の顔だ、ヨルンの方が大人なのでより獰猛に見えるのも気のせいではなかった。
至近距離から見つめられていたライラはその娘の接近に気付けなかった。
「もう!私の友達に何てことしてるの!いいから離れて!」
ライラとヨルンの間へ物理的にナディが割って入ってきた。
(あー!助かった!)
さらに珍客も一人。
「修羅場よ!こんな所で修羅場ってるわ!私も混ぜてよ〜一人は嫌なのよ〜にゃあ〜にゃあ〜」
お酒を飲んでベロベロになったジュディスだ。
「まあまあこんな所に可愛い猫がいるわ、ほら!こっちにいらっしゃい!」
「にゃあーーー!」と言いながらジュディスがヨルンに突っ込んでいった。
それを面白がったナディが素早く携帯を構えて動画を撮り始め、それをピメリアが「SNSにアップしろ!」と囃し立て、酒の勢いもあって宴会がどんどん混沌としていった。
皆、今日までの奮闘と明日からの緊張も相まって、陽がとっぷりと暮れるまで羽目を外していたのであった。
◇
死屍累々。酒に溺れた者たちがリビングに大の字で横たわっている傍ら、夜の帳が下りた二階ではある扉の前にひっそりと佇む人影があった。
ライラだ。
「…………………」
──二階の角が私の部屋だから着替え持ってきほしい。
ナディに頼まれ事をされたライラは鼻息も荒く扉の前でカチコチに固まっていた。
(ナディ……ナディ……いくら病院の件があるからって私のこと信用し過ぎじゃないかな……)
薄い扉を開ければそこはまさに理想郷、想い人が幼少の頃から過ごしていたまさに聖地。宴会の雰囲気とお酒の匂いもあってライラの頭はのぼせ上がったままだ、とてもまともな判断ができるとは思っていないだがしかし、このチャンスをみすみす逃すほどライラも馬鹿ではなかった。
意を決して扉を開ける。
(いざゆかん!)
すぱん!と引いた引き戸の向こうは──
「────はっ!」
──ライラは、我に返ったライラは何故だか分厚い本のような物を持ってベッドに正座していた。
「またやってしまった……どういう状況なんだこれ……」
くるりと視線を部屋の中に向けてみる、広さはそこそこ、窓は二つ、壁際に寄せられたベッドの近くには使い古された勉強机と散らかった本棚があった。床に何冊か教科書のような物が落ちている。
(そうだ……そうよ、私はまずアルバムを探そうと思って棚を荒らして、見つけて……)
荒らすってどうなんだと思いながらも視線は手元に注がれている。お目当ての物を─無意識のうちに─見つけ、この世で最も神聖な(ライラにとって)ナディのベッドの上で拝見しようとしていたのだ。
「危ない…あと少しで変態になるところだった…」
今さら。
ドタドタと階下から足音が聞こえてきた。これに慌てたライラはベッドの上を転げ回り、逃げ場所がないと悟って結局正座に戻った。
再びすぱん!と開かれた扉の先には、バスタオルを体に巻いただけのナディが立っていた。
「あーーー!」
「あー!じゃないよ!何やってるの!着替え待ってたのに!」
ナディの体は濡れたままだ、髪の毛先からポタポタと雫が落ちている。生まれたままの姿に濡れたタオル、子供っぽいと思っていたその体のラインは確かに女性のそれであった。
「なんっ!何、何でそんな格好でうろうろしてるのっ!」
見たいけど見る勇気がなかったライラは慌てて目を逸らした。膨らんだ胸元とバスタオルにぎりぎり隠れていた足の付け根が頭に焼き付いてしまった。
「だから!着替えをお願いしたのにライラがなかなか戻って─「ナディ!何て格好で彷徨いているのっ!床がびしゃびしゃになるでしょ!」─「ぎゃああっ!バスタオルを取らないでっ!」
「ぎゃあああっ?!?!」
目の前でひん剥かれたナディの裸を、目の当たりにしてしまったライラも悲鳴を上げた。
「ライラちゃん!あなたも遊んでないでお風呂に入ってきなさい!後がつかえているんだから!」
「えっ?!いや!あのちょっとっ!!」
自分の"子"とみなせば例え人様の子供でも途端に厳しくなる、それがヨルンという人間だった。
裸になったナディと首根っこを捕まえたライラをヨルンが風呂場へと引きずっていった。
「ちょちょちょちょ私はいいですから!後で入りますからっ!」
「いいから入ってきなさい!明日は早いんでしょう?!」
「まままま待って待って待って!」
「ちょっとお母さんマジでバスタオル返して!」
二階の廊下から階段を降り、キッチンの奥にある脱衣所へと二人が連行された。その間ライラはもう頭の中が大混乱に陥っていた。
すぐ隣には全裸の想い人、微かに漂う石鹸の香りすら蠱惑的に思えてくる。それにこれだけ慌ただしくしていたら誰か一人ぐらいは起きてきて──どうせ「私も入るにゃあ!」と邪魔をしてくるだろうとライラは思ったのだがそんなこともなかった。
「ああっ!!」
二人まとめて脱衣所に放り込まれ、ぴしゃん!と磨りガラスの扉を閉められてしまった。
「…………」
「………へっくち!」
狭くはないが広くもない。振り向けばすぐそこにはナディがいる、そんな状況に立たされたライラは感覚や頭の中身が麻痺し始めてきた。
むわっとした湿気の中にも想い人の匂いが包まれている、ここまで来て脱がずにいるのが失礼に思えてきたライラはいそいそとボタンを外し始めた。
(まだ付き合ってもないのにまだ付き合ってもないのにまだ付き合ってもないのにまだ付き合ってもないのに)
震える手は緊張のためか、あるいは期待しているのか...上の服を脱いで下着姿になってもナディは何も言ってこなかった。ここで「え?本当に一緒に入るの?」と言ってくれたらこの手を止められるのだが...そう思いちらりと後ろを振り向けば、
「……………」
「っ!!」
ニヤニヤと、あの悪戯っぽい笑みをした『S』のナディがいた。
「ほ〜ら早く脱ぎなよ〜私だけ裸って不公平じゃんか〜」
「いやっ!ちょっ!もうっ!自分で脱ぐからっ!」
(間違いないヨルンさんの子供だ!ナディは間違いなくヨルンさんの子供だ!)
あの獰猛な笑みには遠く及ばないが、ナディも十分にヨルンの血をひいていた。
スカートに伸ばしてきたナディの手を払い、ライラは自分の間合いでゆっくりと脱いでいった。細い足を隠していたタイツも下ろして...あとは下着だけの姿になった。
「へっくち!」
「……先に入ったら?というか先に入ってて、さすがに恥ずかし──ああっもうっ!脱ぐわよ!脱げばいいんでしょっ!」
あろうことか、ナディは下着にまで手を伸ばしてきた。観念したライラは勢いに任せて下着も脱ぎ散らかし、ナディを見ることなく風呂場へと直行した。
湯気が立っていたので良くは見えない、自分の裸を見られたくなかったのでライラはあまり馴染みがないバスタブへと体を沈めた。
これが良くなかった。
「あ〜どっこいしょ」
おっさん臭いことを言いながらナディもバスタブに入ってきたのだ。足を伸ばすことができない、そんな狭いバスタブに成人前の体格をした二人が無理やり入ればどうなるか。
「……………」
透き通った湯船、結局ライラは至近距離から見る羽目になってしまった。
ナディが頬に垂れた揉み上げを耳にかきあげながら、遠慮なく止めを刺してきた。
「前にさ、ライラの家に泊まりに行った時は一緒に入れなかったじゃん?」
「そ、そ……そ、それが?」
「ライラと一緒にお風呂に入りたかったんだよね」
「……………」
「気持ち良いね──やっぱ二人は窮屈だね、私に体を預けてもいいよ……あ、背中こっちに向けて……あ、そうそう────」
その後、ライラは明け方まで悶えて一睡もすることができなかった。
◇
「天国と……地獄って……同じ所にあったんですね……」
「は?朝から何?」
「先輩はあれだけ呑んでいたのに平気そうですね……」
「いや、それがね〜こっちのお酒って何か悪酔いしないっぽいのよね〜こんなに目覚めが良いのは初めてだわ」
「羨ましい……」
「いや何が?」
目の下にはクマ、けれどどこか頬はツヤツヤとして世にも奇妙な顔つきをしているライラの前にはずらりと朝ご飯が並べられている。
(そういえば……朝ご飯はしっかりがウォーカー家の家訓なんだっけか……こんなに食べられない……)
けれどヨルンが用意してくれたのだ、こんな所で粗相をするわけにはいかないと観念したライラが出された料理にパクついた。
「………あっさりしてて美味しい」
昨夜テーブルに乗せられていた魚料理のあり合わせだが、あっさりとした味付けのスープが寝不足ぎみの胃袋にもすうっと落ちていった。
「そうでしょうそうでしょう、料理の腕には自信があるんですから」
ライラの言葉に気を良くしたヨルンが嬉しそうに答えていた。
「料理、だけは、美味しい」
ヨルンの隣に座っていたナディがそう呟き、間髪入れずに頭をぺちん!と叩かれていた。
「いたっ!」
「余計なこと言ってないでさっさと食べなさい!」
セントエルモのメンバーも交えて朝ご飯を済ませ、いよいよ出発の時間がやってきた。ピメリアやゴーダ、所謂年長組が丁寧に感謝の言葉を述べてから退出し、その跡をジュディスやアキナミたちが続いていった。
家に残っていたのはナディとライラだけである、すぐ傍にいたフレアはとても不安そうにして姉の顔をじっと見つめていた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、五日後には戻ってくるんだから、ね?」
「………うん」
「ナディ、気をつけてね」
さっきまではつらつとしていたヨルンも眉を寄せている。そのウォーカー家のやり取りを見てライラは気が引き締まる思いをした。
(そうだ……私たちはとんでもなく危険な挑戦をしてくるんだ……)
家族水入らず。だから皆んなが先に出て行ったのかとライラも遅まきながら理解した。けれどせっかくここに居合わせたんだ、ライラをそう思い直して涙ぐみ始めた二人に向かい、自信を持ってこう宣言した。
「安心してください、ナディは私が必ず連れて帰ってきますから」
ライラの真摯な言葉が胸に届いたのか、ヨルンは"親"の顔も捨てて真剣な目つきで頷いた。
「………お願いね、あなたの言葉を信じているわ。無事で帰ってきて」
最後にヨルンがひしとナディを抱きしめ、そして最後にライラのことも抱きしめた。
こうして、超深海への挑戦を前に英気を養ったセントエルモが大海原へと旅立っていった。