第34話
.Make up①
自動販売機のモーター音がやけに耳に障る、気分を落ち着けたかったけどそうもいかなかった。
昨日から電源を落としている携帯画面を見やる、ガングニールはどうしているだろうか...様子が気になるが電源を入れる勇気が持てなかった。
──もし、何もメッセージが入っていなかったら──もし、パパやママたちの身に何かあれば...益体もない事ばかりが頭の中に浮かんでは消え、嫌なしこりとなって私の体に染み込んでいく。このループをどうしても断ち切ることができなかった。
空軍の基地内にある休憩室は作戦前のためひっそりとしている。官公庁の建物っぽく造りは古くあちこちが傷んでいるように見える、申し訳程度に置かれた観葉植物も寂しいものだった。
館内放送が流れてきた、もう間もなく作戦が開始されるらしい。
「──よしっ」
声に出して気合いを入れるだなんて私の柄ではない、けれどこうでもしないと重たいお尻を持ち上げられそうになかった。
✳︎
「カウネナナイに派遣した特殊部隊がルカナウア側の港町に到着したようだ、以降は定時連絡まで通信は行わない流れになっている。コールダー夫妻と合流した後、我々が援護に入れるタイミングは海に出てからだ、カウネナナイ内での全ての戦闘は停戦協定によって禁止されている。ここまで質問は?」
昨夜は何かあったようだ、今はもう目元の腫れも引いているようだが今朝方は酷いものだった。
今回の作戦責任者の一人として管制室に来てもらったライラ・コールダーが─気負い過ぎているようにも見える─瞳を私にぶつけて尋ねてきた。
「特殊部隊の方々はどうなるのですか?全ての戦闘が禁止になっているのなら協定を破ることになってしまいます」
「何、心配はない。彼らはこっちに帰ってくるまで存在しない事になっている──先に言っておくが、その分破格の報酬を前払いしているし事前の了承も得ている。だからこその特殊部隊だよ」
「分かりました」
初めて会った時に見せていた警戒心は今は無い、その瞳にあるのは決然とした意志だった。およそ戦闘を知らない、それも未成年がして良い表情ではなかった。
(当たりのようだ、これでいい。彼の事は忘れよう)
管制室に設置された作戦用モニター群に各部隊の現在位置が示されている、ルヘイの端に表示されている光点が特殊部隊、さらにその港町と向かいのルカナウアにある港にも同様に光点が一つずつ表示されていた。
「見えるかな、あの三つの点が君の両親を最も近くで守る部隊だ。あの点が全て消失した時は失敗したとみなされ全部隊が撤退する事になっている」
「……港にある光点はどういった部隊編成なのですか?」
「──うん?少し待ってくれないか……あったあった、陸軍と海軍の混成部隊になるのか……使用するのは強襲用ホバークラフト、まあこれなら問題は無いだろう……これでいいかな?」
手元のタブレットを見ながらそう答え、返事がないので本人を見やれば難しい顔をしたままモニターをじっと睨んでいた。
「ホバークラフトは通常の船舶よりも速度が速い、それから機雷の影響も受け難いという性質がある、だからそこまで心配することはないさ。問題なのは海に出てからだ」
「それは何故ですか?」
まるで出来の良い生徒のように間髪入れずに問うてきた。
「ルカナウアにはセレン、ルヘイにはラウェがそれぞれ隣接した形になっている。その間の海は公として扱われているからどちらの領海にも含まれないんだ」
「──ああ、軍事行動を取ってもどちらの国も問題無いって事になるのですね」
「問題が無いというより問題として扱われないと言った方が良い、まだ報告は上がっていないがカウネナナイ側も艦体をつかせるはずだ。我々の軍もセレンとラウェにそれぞれつかせている、つまり主だった戦闘は海の上で行われるという事だ」
「それはこちらが軍を派遣しているからではありませんか?カウネナナイから離れたら──」
鋭い指摘ではあったが本人もその矛盾に気付いたようだ。
「離れてしまったら特殊部隊の援護が出来なくなってしまう、そうなったら後は天に祈りを捧げて奇跡を待つしかなくなる。そんな無責任な作戦でもいいと言うのなら、今すぐ撤退させるがね」
さて、反撃してくるか素直に受け入れるか──
「キング中佐、一つお尋ねしますが戦闘をしたいだけではありませんよね?今回の作戦はあくまでも両親の帰還であってカウネナナイと戦うことではないということで合っていますか?」
「何を言うのかと思えば……そんな事は──」
「モニターに表示されている味方の配置を見る限り、最終的には戦うしかないように思えます」
「────」
「空が好きだと言いましたよね?その性癖は今ここで持ち出さなければならない事ですか?我慢していただけませんか」
──くぅっ!はあっ...良い、良い、良いぞこの娘...最高だ、思い込みが激しいにも程がある、そしてその思い込みが一から十まで合っているから尚のこと良い、こういう存在を私は待っていたんだ。今なら彼女の靴に接吻だってしてみせよう。
「……………分かった。ただ、それも向こうの出方次第という事だけは肝に銘じておいてくれ、何もなければ我々の部隊に出撃命令は下さないと約束しよう」
「お願いします」
(この配置でそこまで割り出せるというのかライラ・コールダー……これなら真剣に士官学校へ進学するよう薦めてみるのもいいかもしれんな──いや、私のせいだな、空で死にたいと本音を言ってしまったから答えに辿り着いたのか……)
私の本音と作戦の根幹をあっさり見抜いた本人はさして嬉しそうにしているわけでもなく、今もモニターに視線を集中していた。
彼女の何がそこまでさせるのか甚だ疑問だ、たかが民間人の立場で作戦内容に口出しするなど身の程を弁えろ──と、言いたいがやはりこういう存在こそが我々の明日を変えていくのだ。
こんな小娘に見抜かれる程度では我々のお里が知れるというもの、だからこそ躍起になれる、努力することができる、向上心を持って己を進化させていくことができるのだ。
「──感謝しよう、ライラ」
「…………え?何か言いましたか?」
「もうじき特殊部隊が港町から離れると言ったんだ。あの島を支配している貴族が王都と敵対している一派で助かったよ」
「──ルイマン侯爵、でしたか?」
「ああ、ルヘイにいる連中はとっくに特殊部隊の存在に気付いているだろうがどうせ無視しているはずだ」
「それはどうしてですか?──いえ、私としてもそっちの方が良いんですけど」
「絡んだところで旨みがまるでないからさ。自分たちを追いやった一派のためにわざわざ手を貸す奴はいないし、かと言って王族とやり合ってまで夫妻の身柄を欲しがるとも思えん。見て見ぬふりをしてやり過ごすのが一番良い」
「それ後で報告しなかっただろとか何とか言われて王都から糾弾されませんか?」
「それもない。それを言う時はこちら側が勝利した時だ、ルイマン侯爵からしてみれば良い揚げ足になるだろうから王都としては口が裂けても言えないはずだ」
「ああ……本当に何と言えばいいのか……」
「何、ライラが気にする必要はない。ま、だから特殊部隊はルヘイからルカナウアに渡った時が本当の勝負という事さ、今頃のんびりと装備の手入れでもしているだろう」
✳︎
「走れ走れ走れっ!」
「そっちに回りましたっ!」
「そっちってどっちだっ!──くそ!クラウン!お前のせいだからなっ!!」
「はっ!俺だって鼻が利かない時があるんだよ!」
「止まれっーーー!!撃つぞっーーー!!」
走り去った表通りから男の声が、私たちを追いかけるように木霊した。両隣は土壁に囲われ網目のように路地が延びている。それと、魚介類でも保存しているのかとにかく臭い所だった。
威嚇射撃が一つ、背後の男が撃った弾が土壁を削った。前方には別の男が鉄製の剣を持って構えている、このまま突っ込んで強行突破でもするのかと思いきや、小柄な男性隊員がクラウンの腕を引っ張りさらに細かい路地へと入っていった。
ぼろぼろになっている木製の扉を蹴破り中へ入る、案の定ここは倉庫のようで酷い腐敗臭が鼻をついた。臭すぎるが贅沢は言っていられない、急な襲撃によって部隊は散り散りになり私の傍にいるのはこの二人だけになってしまった。
クラウンが膝に手をついて大きく喘いでいる。
「……入院していた割には体力ありますね」
「割って何だ、そういうお前も平気そうだな」
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……ず、頭脳、労働の、俺には、堪える……ぜっ……」
「馬鹿な事言ってないでちゃんと説明しろ!どうして私たちが狙われるんだ!」
結局クラウンはその場に尻餅をついてしまった、次立ち上がる時は苦労するだろう。
「そんなの、俺だって知りたいよっ……はあ……どういう事だ?ここの貴族様は王都と敵対しているんじゃなかったのか」
「王都側に鞍替えでもしたのでしょうか。さっきの兵士たち、ルイマン家のエンブレムが掘られた防具を使っていましたから……」
「貴族の私兵か、そりゃマズイな……」
「お前、あの状況で良くそこまで観察できたな。大したものだ」
そう褒めると何故だか小柄な男性隊員がまた私から距離を空けた、どうやら好かれていないようだ。
すぐに回復したクラウンが立ち上がり、梁だらけの倉庫内をぐるりと見回してからこう言った。
「最悪な状況だが俺たちだけでもルカナウアに行かなくちゃならない」
「応援は頼めないのか?」
「そいつは無理だ、次に連絡を入れられるのは夫妻と合流した時だけだ」
「定時連絡まで身を隠すのは──ああ、定時とはそういう意味か………」
「そ、限りなく捨て駒に近いのが今の俺たちだ。おい、ここから桟橋の方角は分かるか?」
「あっちです」
クラウンに声をかけられた隊員が間髪入れず指で指し示した、方角もお手のものらしい。しかし、その方角というのが今し方逃げてきたばかりの所だ、どのみちあの私兵たちを正面から突っ切る以外にない。
「どうやって港まで向かう?」
「それを今考えて──」
この場にいる皆が複数の足音に反応した、鉄が地面を蹴り上げる威嚇的なものだ。ついで良く通る男性の声が外から響き渡った。
「聞こえているなウルフラグの諸君っ!!君たちの逃げ場はどこにも無いっ!!このユーレット・ルイマンがいる限り逃げられはしないぞっ!!」
さらにあちこちの倉庫から扉を蹴破る音も聞こえ始めた、私兵団を使ってしらみ潰しに私たちを探しているようだ。
小柄な隊員がそっと扉を開けて外の様子を確認している、そして戻ってきた彼の顔は青ざめていた。
「仲間が捕らえられています……」
「なっ?!──はぁ……くっそ!最悪だぜ……」
「ここは大人しく彼らに従った方が得策かと……命あっての物種です」
「そんなに私兵とやらは多いのか?」
「相手にできる数ではありません」
そうこうしている内に私たちが隠れている倉庫にも奴らがやって来た、同様に扉を蹴破りすぐさま槍を構えてみせた。
「これはご丁寧なこって……」
「妙な真似はするなよ。命乞いはルイマン様の御前でやれ」
突入してきた兵士は全身を鎧で包んでいた。
(暑くないのか……)
場違いな感想に自分でも笑ってしまいそうになった、随分と私も腑抜けになってしまったようだ。
さらに大勢の兵士が倉庫内に現れ、その中に一際身長が高く体格も良い男が先頭に立った。どうやらこいつがルイマン侯爵と呼ばれる奴らしい。
「ようこそ我が島へ!こういった訪問はご遠慮させてもらっているのだがね!」
彫りの深い男だった。陽に焼けた肌と巻き毛になっている髪が様になっている。服装も貴族のそれと分かる程豪華なものだった。
ルイマン侯爵が発言しても誰も何も喋らない。
「う〜ん……私のジョークはやはりつまらないようだな……まあいいさ。この三人も捕縛して連行し──ん?」
近くにいた兵士に指示を出しながら、はたとその動きを止めた。ルイマン侯爵の視線は何故か私に注がれている。
「んんん?君はまさか──いやぁ!まさかの再会かね?!やはり私が恋しいか!うんうん」
「は?」
「もう一人の相棒はどこにいる?いや何、私は趣味ではないのだがね、騎士長が是非ともうちにくれと言ってきたものだから紹介してあげたいんだよ!」
「……………」
「怒っているのか?そりゃそうだろう、あの時は失礼な事をした、男を知らないのならこの私が直々に教えれば良いのだと追放してから思い至ってなあ……いや何!こうしてまた会いに来てくれたのだ!ベッドの上で歓迎しようではないか!はっはっはっ!」
は?この男は何を言っているんだ?再会?私が恋しい?およそ初めて会う人間にかける言葉ではないはずだ。
人違い...?いや、私が誰かと間違えられることなんてあるのか?この白い目が見えなかったのだろうか。何にせよ気色悪い話だ。
生まれて初めてこう言った。
「人違いでは?すまんが私はお前を知らない」
「────ああ……そういう愛嬌も持ち合わせていたのか……ますます気に入った。ナツメは私が預かる!お前たちはこの者たちを連れて行け!」
「!!」
心底驚いた、何故私の名前まで知っているんだ。
クラウンと小柄な隊員が手枷をはめられている、私だけフリーだ。無論、二人から恨めしそうに睨まれたのは言うまでもないことだった。
✳︎
「ルイマンが鼠を捕まえたようだ。実に呆気ない……それと、以前来訪したという公爵の子飼いも一緒のようだ」
[公爵様の?それは本当なのですか]
「公にしておらんようだがルヘイの駐在軍が公爵家のエンブレムを見たと証言している。これは少々面妖な事になってきた、もし子飼いが本当に公爵家と縁がある者なら今の状況は具合が悪い、せっかく懐柔したというのに早々に手を切らねばならん」
[ルイマン侯爵殿の分別を期待するしか──もし手を出そうものなら……]
「あやつにそんな分別はあるまい、部下からの報告にも耳を傾けているはずだが………いや、エンブレムを見た駐在軍はカーリの町だ、ルイマンの下に訪れた時はエンブレムを見せなかったのだろう………何が狙いなのか」
ルカナウア駐在軍本部兼グレムリン城の会議室、不運な事にこの場は私と変態侯爵だけだった。
防腐剤をきちんと塗り込んだ木製の窓の外には、駐機されているスルーズ専用機が見えていた。頼もしく、また凛々しい機体だけど今回の出番はなさそうだった。
(何故ウルフラグの鼠たちは敵地で油断していたのか………ルヘイと言えど国王から軍を預かり統治している土地、危ないことぐらい分かりそうなはずなのに………)
変態侯爵もといグレムリン侯爵はモニター越しにオーディン司令官と会話を続けている、夫妻の館に訪れた時から何かしらのスイッチが入ったようだ。
この人はどんな女性にもふしだらな視線を向けずにはいられない変態野郎だが、いざ事が起こると人が変わったように己の役目を全うする。そういった点では──
「オーディン、今すぐルヘイに兵を放ってくれ。未然に防がねば後腐れしてしまう、それは私としても本意ではない」
[お言葉ですが侯爵殿、我々も目下作戦遂行中の身であります。カルティアン家の身内争いの為に手を割くなど私としても不本意です]
オーディン司令官がグレムリン侯爵の指示をはねつけた、ざまあみろ!と言いたかったがぐっとこらえる。
政治的な話、と言えばいいのかそこいらの話は私にはピンと来ないが、グレムリン侯爵にとっては大事な事らしい。いくらか声音を抑え、かつ圧迫感を持たせてさらに言い募った。
「ここでルイマンが失脚し追い出されたエノールと立場が逆転してみろ、お前たちヴァルキュリアが使っている潤沢な資金が早々に底を尽くことになるぞ。ルイマン家は今でも一応はカルティアン家の傘下だ、しかしエノール家に何の後ろ盾があると思う?」
[………………]
(え、黙るの?)
「それにだ、お前たちの部隊はこういった時の為に我々から出資を受けているはずだ。国王直轄でありながら自由に空を飛び回れているのは誰のお陰だと思う?もう一度言うがオーディンよ、今すぐルヘイに兵を放ってルイマンの愚行を止めさせろ」
私の視界にはモニターの背面しか映っていないのでオーディン司令官がどんな顔をしているのか分からな──いいや、そもそも表情なんてものはあの人に付いていない。
ややあってから返事があった。
[──分かりました、侯爵殿の指示に従いましょう]
「頼んだ。それからこの場にいるスルーズに発言の許可を与えよ、無言では話し合いができない」
オーディン司令官の返事を聞いて、何だそれと思ってしまった。
[スルーズ、発言を許可する。作戦完了まで侯爵殿と連携を取るように]
「……………」
さっきは渋ったのに今回はあっさり?何それ、その違いが良く分からない。
[スルーズ]
「はい」
「よろしい。では、密偵から報告があればまた連絡しよう」
モニターに手をかざして電源を落とし、その険しい三白眼を私に向けてきた。
「スルーズよ、王都から派遣された部隊がスケッギョルドの港に到着した。周囲に潜んでいる輩に見せつけるよう、お前の機体で部隊を援護しろ」
「私の機体で人を撃てと申しますか」
「違う、ただの威嚇だ。戦乙女に守られていると知ればおいそれと手出しはできまい」
ふしだらな視線ではない、島を預かる侯爵としての矜持と責任を窺わせる瞳だった(いや、今ちょっと私の足に視線を落としたな……)。
何度もグレムリン侯爵の頭を殴り付けた(と、妄想をしながら質問した)。
「潜んでいる輩というのは?数とその出自を教えてください」
「輩は二個小隊、人数で言えば約六〇名近くになる。スケッギョルドの町からヴルホルまで散開させて時を狙っている、おそらくは王都にいるディリン家が放った私兵団だ。大方コールダー夫妻の身柄を預かり交渉事に使いたいのだろう」
「……………」
「何かね、言いたい事があるならその口を使いなさい。最も別の使い方もあるが──いやいや失敬失敬、そう怒るでない!」
「……………とにかく、今からスケッギョルドに飛べば良いのですね、すぐに支度に入ります」
この変態親父めが...私のような一兵士にも詳らかに教えてくれたことは感謝するけどそれはそれだ。
もうあの険しい顔つきはどこにもない。いつもの変態侯爵に戻り、踵を返そうとした私に声をかけてきた。
「もし手荒な真似に出たら遠慮なく撃ってくれても良い。それから最後にコールダー夫妻の元へ挨拶に行きなさい」
「……それは何故──いいえ、どうしてあなたにそこまで言われなければならないのですか?不愉快です」
「あぁ………見目麗しい子の口から聞く罵倒は格別…………」
無視して踵を返す、一目散に会議室の出口を目指した。
私の背中を追いかけるように変態侯爵の声が届いてきた。
「君はあの夫妻のことを好いているのだろう?今生の別れになるかもしれん。それにあの館にいた君はただの娘だったよ」
◇
(大変不本意だが、これは決してあの侯爵の言う事に耳を傾けたわけではないのだが)私は三度、夫妻の館を訪れていた。城からそう遠くはない、それに出撃するまで幾分余裕もあったので挨拶にやって来たのだ。
身なりは正装からパイロットスーツに着替えてある、頭には勿論コネクト・ギアも装着済みだ。
ああ、早くこの任務を終わらせてオーディン司令官の元へ戻りたい。またあの声を聞きたい、だから頑張ろう。
三回目にして見慣れた扉を軽やかに叩く、すぐに中からパタパタと誰かが駆けてくる足音が聞こえた。その音が心地良く、まるで私の帰りを待ってくれているかのようだった。
「ああ!スルーズ!もう……会えないのかと………」
「………………」
最初は元気が良かった、けれど段々と声が萎んでいく。私の姿を見てすぐに分かったのだろう。
別れの挨拶を...そう思うのに言葉も色々と考えてきたのに...何も言えなかった。
「…………………」
「……もう行くの?」
「……っ!──その、はい……」
声も湿っぽい、何なんだろうか、これは。
「そう……もう会えないの?」
「……………そんな事はっ」
ありませんって、言えるの?言ってどうするの、この人は私の母親でも何でもない。たまたま知り合っただけの人、それにウルフラグ人だ、どうする事もできない。
そうだと分かっているのに、やっぱり何も言えなかった。
「スルーズ、これをあなたに」
「…………?これは、リアナさんが付けていた……」
細くて優しい手が私の手首を掴み、小さな何かを手のひらに乗せてきた。それはリアナさんが身につけていたイヤリングだった。
「あなたにプレゼントするわ」
「っ!!私はこんな物よりも──」
「分かっているわ、また会った時にとびっきりのをプレゼントしてあげる。それまでこれで我慢してね?」
──ああそうか、私は早くオーディン司令官の元に帰りたい、だからこんな事を言うんだ。
渡されたイヤリングをぎゅっと握りしめる、もう一人...私を怒らせたもう一人の犯人はいないのかとリアナさんの背後に視線を配った。
「……カイル?彼なら自警団の団長さんと一緒に出かけているわ。タイミングが悪かったわね……入れ違いになってしまって」
「そう………ですか。あの、一つだけ」
「ええ、何かしら?」
「……友達になってもいいかなって、今は、そう思います。向こうが何て言うか分かりませんけど……」
結局、色んな言葉や思いをねじ伏せて出てきた言葉がそれだった。本当はライラって娘に興味なんかない、どうでも良い。でも、私はリアナさんを最後に喜ばせたかった──んだと思う...
主語がなかったので伝わるかなと心配になったけど、リアナさんの顔がみるみる明るくなっていった。
「──そう!そう!それは嬉しいわ!ああ本当にどうしましょう……スルーズの方がお姉さん?それとも妹になるのかしら」
「いやあのすっ飛ばし過ぎですよ、もうそれ家族になっているではありませんか」
「ふふふ!それもそうね!ごめんなさい、嬉しくて気が動転していたわ。それじゃあスルーズ行ってらっしゃい、あなたの帰りを待っているわ」
「はい!」
ここにやって来る時に感じていた湿っぽい何かはもう胸中にない。爽やかと言える程のやる気に満ち溢れていた。
さあ!私がこの人たちを守ろう!その為に──あれでも...王都に渡ったら?ライラに会えなくなって──しまう?それが良いこと...なの?
✳︎
ウルフラグは法治国家である、突然だが。
法治国家であるが故に犯罪者に対する扱いもまたきちんと法律によって定められている。
逮捕する際に不必要な武力行使は認められていないし(抵抗すればこの限りではない)、連行する際も本人のプライバシーは守られるので、周囲の人にわざわざ見せびらかす必要もない(裁判所公告に名前が乗るのは仕方がない)。
だが、ここはカウネナナイ。島の法律は島を預かる一個人が決めるというとんでもない所である。
つまり、ルイマンという男に捕まった─私を除いた─特殊部隊の隊員らは手枷をはめられた状態で荷車に乗せられ、衆目に晒されながら町を移動する羽目になっていた。ルイマンの館に到着した時なんかあのクラウンに唾を吐かれたぐらいだった。無理もない。
「どうだ、この馬の乗り心地は?最高だろう?ま!私の方が乗り心地は良いと思うがね!」
「何度も言っているが人違いだ。それと粗末な物を私の尻に押し付けてくるな、気色悪いんだよ」
港町からルイマンの館まで、何故だか私だけ馬に乗せられていたのだ。勿論手綱なんて握ったことはない、だからこの変態男のすぐ前に乗せられる羽目になり道中ずっと固い物を押し付けられていたのだ。
「はいはい、嫌よ嫌よも抱いてのうち、だろ?安心するがいい、私と共に一夜を過ごした女は漏れなく女になる。あの夜が忘れられないと──」一人で勝手に喋り始めたこの男を無視し、到着した館の庭から周囲に視線を配った。
ここもすこぶる良い所だった。目前には無限の輝きを放つ海があり、崖の上に建てられたせいか遮る物が一つもない。空にはまたしても自由な鳥たちが飛び回り、地上のしがらみを悠々と見下ろしているようだった。
他の隊員らが兵士に連れられて行く、人数はきっちりと揃っているのでどうやら命を落とした者はいないよう──
(ん?)
ちょっとした違和感を覚えたがすぐにかき消されてしまった。
「ナツメよ、そう無視するのは良くない」
「うるさいな」
変態男が気安く肩を抱いてきた、むっとしたオスの臭いが鼻をついた。
「彼らのことなら安心してくれ、武装解除した後は王都に送りつける流れになっているからな。殺しはしないさ」
「それもこっちの出方次第、だろ?」
「良く分かっているじゃないか……彼らが五体満足で故郷に帰れるか──それは君次第、っていう事も伝えておこうか」
下卑た笑いと共に私の胸にそっと手を添えやがった。
「プライドってもんはないのか?弱味を握らないと口説くこともできないのか」
「いや何、そこら辺はどうでも良いと思っていてね。気持ち良くなれたらそれで良い」
私もそっとルイマンの手を払い退けた。
◇
(こんな事になるなら……いや、いやいや、今さらだな……)
私だけ案内された館の中もそれは立派なものだった。エントランスからさっそくホームメイド─こっちでそういう言い方をするのか分からない─が私の傍についてあれやこれやと世話を焼かれてしまった。
シャワーを浴びせられ、普段は着ることなんて絶対に無い服を着せられ、今は部屋の中で待たされている。今から?今からするのか?まだ昼間だぞ。
ベッドに腰かけた位置から入り口の近くに置かれてある姿見に、私の今の姿が映っていた。自慢にもならない黒い髪は真っ直ぐにとかれており、風呂場を出る間際に何やら塗りたくられたので今は艶々としている。ほうれい線が目立った顔もある程度化粧がされているので...まあ、そこまで悪くはない。
それとこの服は胸を強調させるもののようで、今日まで野郎の目を引く以外に役立つこともなかった胸の谷間が露わになっていた。
(今から抱かれるというのに呑気なものだ……)
そのまま仰向けでベッドに倒れた。柔らかい感触が背中を押し、薄暗い天井が視界に入る。
ここも良い所だ。ウルフラグと違って街の喧騒が一切伝わってこない、潮騒と鳥の鳴き声に包まれた静かな所だった。
ついと視線を変えて窓の外を見やる、ちょうど窓枠の中を鳥が飛び去っていったところだ。
(──そうだ、何も私が悩む必要はない。あいつの言いなりになってここで過ごすのも私の自由なんだ)
途中で飽きられてしまえば、その時はその時だ。勝手気ままにカウネナナイを巡ってみるのも良い、あの鳥のように私も...そこで私はようやく思い出した、小さな頃に抱いていた"夢"というものを。
(私は空を飛びたかったんだ……だから士官学校に入って訓練生になって……そして失敗した)
コネクト・ギアの装着手術に失敗した時の絶望感がひしひしと甦ってくる。あの時までは将来を有望視されていたんだ、それなのに──そうか、だから私は出世に明け暮れるようになったのか。周りを見返すんじゃなくて、飛べない私でも認めてもらえるようにと。
大きく息を吸い込む、部屋の中にいても濃い海の香りが肺に届き、そしてゆっくりと吐いていった。
全身の力が抜け切り、良い具合でリラックスしていた所に誰かがそっと扉をノックした。
(ルイマンか……あいつに頼むのは嫌過ぎるが仕方がない)
ゆっくりと体を起こして扉へと向かう。抱かれた後にでもこの事を伝えようと開くとそこには──あの小柄な隊員が立っていた。
「早く脱出の準備を」
「──え、ん?お前は……」
「何をぼうっと──って、デカっ!何ですかその胸はっ………はっ!今はそんな事より早くここからおさらばしますよ!」
「あ、ああ………」
何かを忘れているような──そうだ、こいつはさっき連れて行かれる時いなかったはずだ。それなのに人数が合っていたのは...数え間違いか?いやそんなはずはない。
部屋に入って私の装備一式をベッドの上にぶち撒けた隊員に声をかけた。
「おいなあ……お前さっき、」
「いいから!その目に毒な胸を隠してください!」
「………んだと、何でそこまで言われなければならないんだ……」
後ろから羽交締めにしてその小さな頭に押し付けてやろうとしたが、ひょいと躱されてしまった。
「意外とすばしっこいな!」
「当てつけですか!そんな事より着替え!皆んなももう館から脱出していますから!」
「分かった分かった」
何が当てつけなんだ?まあいい。
隊員が持ってきてくれた装備に着替え、名残り惜しくも部屋から出て行った。