砂城
・砂上の楼閣
「砂の上にたてられた高い建物」という意味で、基礎がもろく、くずれやすいこと。また、実現不可能なことなどについてもいう。
※【例解新国語辞典】より抜粋
「序」章
人の心ほど、読めないものはない。
目の前にいる人が何を考え、思い、心に留めているのか側から見ただけでは分からないものである。だからこそ、人類は言葉を"開発"し"研鑽"し"広め"てきた。自身の思いを相手に伝えるため、それを最も分かりやすくするために誰もが知る"言葉"を使い、心と心を繋げ、今日まで社会性を維持し文明を築き、または発展させて生きてきた。
だが、それでも心と心が繋がらない時がある。いくら言葉を重ねても、どうにもならない時はある。それぞれの人間が持つエゴ(欲求)がぶつかり合い、互いに折れることができない状況に立たされた時、人は初めて"喧嘩"をする。
喧嘩は野蛮な行為である、理性を獲得した生命体がおよそやって良い行為ではない。だが、どうしても動物的感情、あるいは本能的な部分が理性を上回り、後先考えずに拳を振り上げてしまうのだ。
その事を良く知る存在、第一テンペスト・シリンダーで主に言語や情報関係に携わっていたグラナトゥム・マキナが、カウネナナイの王都であるルカナウア・カイに置かれた一室で、そう思考を巡らせていた。
その部屋に女性が入ってきた。そしてそのマキナにこう呼びかけた。
「バベル」
「──んん?何だ?」
バベルと呼ばれるマキナは考えを巡らせることがとても好きだった。とくに、開け放たれた窓から入り込むからっと乾いた風を浴びながら、カウネナナイの王城が一望できる景色を独り占めしながら没頭する思考実験は格別なものだった。
その思考を中断されてしまい、いくらか不機嫌になりつつもバベルが振り向くと、そこにはカウネナナイ王の姪にあたる女性が立っていた。その細い眉がほんの少しだけ寄せられて不安そうにしている。
「何だ、ではありません、あちらでハフアモアの奪還作戦が開始されました」
「……ああ、そいつはご苦労なこって」
バベルの口端が歪められ、まるで馬鹿にしているような笑みとともにそう返事があった。
女性がゆっくりと、その身に纏い、王家を示すマントを翻させながらバベルへ歩みを進めた。未成年の体つきを思わせる小さな胸には、自らの位を示すネックレスも揺れている。
浅黒くはあるが、しなやかな腕を伸ばして椅子を引き、丈の長いスカートに入ったスリットからちらりと足を見せながら女性がバベルの隣に腰を下ろした。
「心配ではないのですか?」
「いいや、俺はそんな事よりも君に変な虫がついていないか、そっちの方が心配だ」
バベルが腕を上げ、目の前に座る女性の頬にそっと手を添えた。女性は拒否するわけでもなく─かといって受け入れた様子もなく─ふっと視線を逸らした。
バベルが女性にこう呼びかけた。
「ナディ、あいつらの心配よりも自分の身の置き場を早く決めた方が良い。俺のことを支援してくれるのは有難いが、そろそろ限界のはずだ、違うか?」
「──はい、バベルのおっしゃる通り、今やこの国はハフアモアに熱狂してしまっています。あなたがここに訪れた時は誰も耳を傾けようともしなかったのに」
「それでも君たちは俺を支持してくれた。あんなに小さかったのになぁ〜、すっかりまぁ…良い女になって」
ナディと呼ばれた女性の頬に添わせた手を滑らせ顎にやり、軽く唇に触れてから前髪を優しく払った。バベルの行為をただされるがままに受けていたナディがつと視線を合わせてきた。
「またそのような事を……私も数ある美のうちの一つに過ぎないのでしょう。バベル、あなたが夜な夜な──」
ナディの糾弾を遮るようにバベルが言葉を重ねた。
「その数ある美の中でも君がとくに美しい、身内を裏切ってまでこちら側にやって来た甲斐があるというもんさ」
(マキナのくせに)バベルは女性がとても好きだった、とめどない思考を展開させるのと同じくらい、"美の象徴"たる女性、とくに未成年で大人のあれやこれやを知らない無垢な体と心を持つ相手がこの上なく好きだった。
バベルの求愛を受け流したナディが話を切り替えた。
「……それよりも、あなたが放った配下はどうですか?ルヘイにいるルイマン侯爵の調べはついたのでしょうか」
「釣れないねぇ〜、ま、いいさ。あいつらなら平気さ、そうヘマをする奴らじゃない」
「それは分かっています、王より承った軍を私的利用している証拠を掴めたのかと訊ねているのです」
「そう焦りさなんな、尻尾ってもんは出した時に掴むもんさ、自分から掴みに行ったってろくな事にならないぞ」
「………」
二人が会話をしている部屋の扉が控えめにノックされた。ナディの従者が彼女を呼びに来たのだ。
(マキナのくせに)女好きなバベルが、椅子から立ち上がる際に露わになったナディの胸元をしっかりと見ながらこう言った。
「あっちのウイルスが回収されたらまた俺の元に来い」
「それは何故ですか、便りでも十分事足りるでしょう」
ナディがくるりと振り向き、その弾みで長い揉み上げが宙を舞った。その軌跡すら蠱惑的に見えてしまったどうしようもない女好きのバベル(マキナのくせに)がこう返した。
「君の顔が見たいからに決まっているだろうが」
「………分かりました。それでは、また」
「──ああ」
部屋を出て行く間際、ナディはちらりとバベルの様子を窺った。
(……その顔は何よ)
あれだけ口説きにかかっていたバベルはもうナディのことを見ていなかった。視線は宙に固定されており、おそらく現実にある一切の物を見ていない、そんな表情をしていた。
まるで裁きを待つ囚人のようだと、バベルに対して薄ら寒いものを感じながらナディが部屋を後にした。
「有能だと思っていたグガランナ・ガイアが実はただのポンコツで寂しがり屋のかまってちゃんだった件について」章
カウネナナイを母国とし、敵国であるはずのウルフラグ国内に活動拠点を置く遊撃隊「ジュヴキャッチ」がユーサ第一港に襲撃をしかける朝、昨夜はピメリア・レイヴンクロー連合長と共に警察署へ赴いていたナディ・ウォーカーが自宅で目を覚ました。
傍には─狭いベッドにも関わらず─同い年で同じ会社に入社したアキナミ・キャンベルも眠っていた。少し癖が目立つ髪の毛があちこらこちらに跳ねており、その姿をまるで妹のように思いながらナディがきゅいっとアキナミの鼻を摘んだ。
「……普通に起こして〜」
「おはよ。ほら、さっさと起きるよ!」
「ええ何そのやる気……」
「今日は半日しかないんだから仕事頑張らないと!」
「ああ……そうだった、ナディって休日は朝早いんだった……ふわぁ〜」
無理やり起こされたアキナミが少しだけ不服そうにしながら、小さな口で大きくあくびをした。
うつ伏せのまま二度寝の体勢に入ったアキナミにナディが上から覆い被さり、脇腹やらお尻やら足やらとにかく抓った。
「もう!痛いよ!」
顔を赤くしたアキナミがそう抗議をし、普段通りのナディはすたたたとベッドから下りて部屋から出て行った。
(人の気も知らないで……)
彼女もまた、ナディへ密かに想いを寄せていたが、妹のように扱われてしまうためなかなか気づいてもらえなかった。けれど、それでもアキナミは良いと思っていた、こうして彼女の一番近い所にいられるのだからと。
しかし、ここ最近はえも言われぬ焦燥感を感じていた。昨夜も夜遅くまでナディは誰かとメッセージのやり取りを続けていたのだ。
(あのライラって子だよね……)
アキナミがベッドの宮棚に置かれたナディの携帯を手に取った、無防備にもパスコードを設定していない携帯を操作してメッセージを確認している。そこにはずらずらと、それはもうずらずらとナディとライラのやり取りが延々と続いていた。
思わずそのメッセージ群を消したくなったアキナミは、枕に顔を埋めてやり場のない焦りとも怒りともつかない感情をやり過ごした。
(あ〜〜〜っ!)
一人悶えるアキナミ、その背後にはもう着替えを済ませたナディが立っているのだが、彼女の存在に気付かずひたすら足をバタつかせた。
ベッドの上で泳ぎの練習を始めたと勘違いをしたナディが声をかけた。
「こら!人の携帯勝手に見たら駄目でしょ!」
「──っ!いや、これさ、このメッセージの相手誰なの?」
驚きつつもアキナミは面と向かって訊き出そうとした、訊かれたナディはそんな彼女に構わず衣服へと手を伸ばした。
「そんな事より早く着替える!こんな日に遅刻するなんて勿体ないよ!」
「ちょちょちょちょ!何やって──脱げる脱げる!」
ナディは問答無用といった体でアキナミの服を脱がしにかかった。昨夜貸してやったパンツを引っぺがし、その拍子で一緒に下着も脱げてしまっていた。
それでもナディは全く気にした様子を見せず、本当の姉妹のような振る舞いを続けていた。
「一人で着替えるから!もういいから!」
自分の体に覆い被さるわ服を脱がしにくるわ、朝から心臓にくるような─良い意味で─出来事に見舞われていたアキナミへ、朴念仁と言われても仕方がないナディが一拍遅れて質問に答えた。
「アキナミってメッセージのやり取りが嫌いなんでしょ?何に怒ってんのさ」
(──あれ、そうだっけ……いやそうかも、いやだからと言って)
もう頭の中は朝から大パニック。想い人に見透かされているわそれでも嫉妬心は消えないわでもちょっぴり嬉しいわ...身も心もしっちゃかめっちゃかになったアキナミがようやくベッドから下りた。
同郷の友達が一人テンパっているとはつゆとも知らないナディは朝から上機嫌だった。
(半日!社会人になってから初めての半日勤務!)
まさにいやっほう!状態に入っていたナディはとても浮かれていた。
昨夜、陸軍の尉官を背負い投げした連合長と警察署へ任意同行した際、港を閉鎖する理由をそれとなく教えられていた。しかし、それは杞憂に終わるだろうとナディは踏んでいた。大方、社員の安全を優先して"爆発予告"めいた悪戯に対処しているだけに違いないと、そういう風に予想していた。
ようやく起き出したアキナミが洗面所へ向かうのを横目に入れながら、ぱぱぱ!と手早く朝食を用意してキッチンカウンターに皿を並べた。
洗面所から戻ってきたアキナミの乱れた髪を整えてやり、二人揃って朝食を済ませてから家を後にした。
「何?どうかしたの?」とナディがアキナミに声をかけている、朝食を食べている時からちらちらとこちらを窺っているのが気になったからだ。「いや、別に」とアキナミが言ってから、
「またあの子と会いに行くの?」
「あの子って誰──ああ、ライラのこと?」
肩を並べて歩く二人にさんさんと太陽の光りが降り注ぎ、ナディの自宅からほど近い距離にあるバス停へ向かっている。からっとした太陽の光りとは違い、アキナミの瞳にはどこか湿った何かを含んでいた。
「ううん、向こうも何か大変みたいだし、会ったりはしないよ。それがどうかしたの?」
「別に、気になっただけ」
それっきりアキナミは黙ってしまった。
これは彼女なりの駆け引きのつもりだった、妹のように扱う想い人に少しでも自分の胸のうちを伝えようと...しかし、当の本人も黙ってしまい不発に終わってしまった。
むー!とむくれるアキナミと、半日で仕事が終わることにとても機嫌が良くなっているナディの二人がバス停に到着した。程なくしてバスが到着し、温度差のある二人を乗せて荒々しく発進した。
次のバス停でジュディス・マイヤーが乗ってくるものとばかり思っていたナディ、しかしバスは誰もいない停留所を飛ばしてそのまま走っていった。
つんと窓向こうへ視線を向けているアキナミを気にしつつもジュディスへ連絡を入れた、幸いバスの中には誰もいない、この際だから良いだろうと電話をかけることにした。
繋がった相手に呼びかけると同時にアキナミがくりっと視線を向けてきた。男性のようにすっと高い鼻をナディがまたきゅいっと摘みながら話をしている。
[……何、朝から何?あんたの方から連絡してくるなんて珍しいじゃない]
電話口から聞こえてくるジュディスの声はいくらか不機嫌そうだ。
「だって先輩がいなかったので、そっちこそ珍しいじゃないすか」
[あんた今何時だと思ってんの?]
ん?とナディが言い、携帯を耳から離して画面を確認している、確かに普段よりいくらか早い時間だった。
「ま、こんな日もありますよ」
[……ああ、確か今日は半日で終わるんだっけか──ああだからあんたそんなにテンションが高いの?社会人としてどうなのその精神性]
これは要らぬ神を起こしてしまったぞと、ナディが秒で後悔して電話を切ろうとした時、電話口の奥から聞き慣れたメロディーが微かに耳に入ってきた。それに気を取られつつも、起こしてしまった先輩の言葉に驚きを隠せなかった。
[というか、私今日有休だから、どのみち行ってな──]
「えっ!今日お休みなんですか?!ほんとに珍しいですね」
可愛い後輩から電話をもらったジュディスは、誰人も入室禁止にしている(そう、例えあの有名な潜水艦の艦長が本の中から出てきて会いに来てくれたとしても)秘密の部屋の中で頭を抱えてしまった。つい、余計な事を言ってしまったぞと彼女もまた後悔していた。
ジュディスは徹夜明けだった、久方ぶりの有休を満喫するためある物を必死になって作っていたのだ、彼女の回りにはその道具類や切れ端、それから参考のため見ていたタブレット、電源を切り忘れており延々と映像が流れていた。
そのタブレットを慌てて切ってから再びナディと話を続けた。
「と、とにかく!今日は休みだから!私に会えないからって泣いたりするんじゃないわよ!」
冗談のつもりで放った言葉は思いの外、可愛い後輩に当たったようだ。
[えー、ジュディ先輩と一緒にご飯食べられないんですね〜、私も休みにすれば良かった]
(こいつ!……可愛いこと言ってくれるじゃない……)
つい、本当につい可愛い後輩を招待しそうになったがそれもぐっと堪えて電話を切った。
いつもの朝、そして少しだけいつもと違う空気を乗せたバスを追い越していく車があった。足回りは悪路を走ってきたのか泥で汚れており、舗装された道路ばかりの都会の真ん中でそう見かけるような車ではない。それでもその車を運転しているドライバーは煙草をふかしながらハンドルを握っていた。
車内には体付きの良い、まるで軍人のような男性がドライバーと合わせて四人乗車していた。その誰もが口を閉じ、険しい顔つきをしながら過ぎ去っていく景色にただ視線を向けていた。
煙草を吸い終えたドライバーが車内に置かれた灰皿に吸い殻を押し込んだ、それと同じくして助手席に座っている男性が額に手を当ててさらに険しい顔つきになった。その男性が再び顔をつと上げてから、「どうだ」とドライバーの男性が声をかけている。
「あっちに動きはないようで、ハフアモアを保管している外れの建物にも陸軍の姿はないそうです」
「分かった」
ドライバーの男性は、ジュヴキャッチの総長を務めるミガイ・マクレガンという男だった。陽に良く焼けた肌をしており、無造作に伸びた髪の色は黒くそして強い、前髪から覗く目は野獣のようにぎらついている。この男は元々貴族の子であり、派閥争いに負けて要らぬ嫌疑をかけられ位を剥奪された過去を持っていた。
ジュヴキャッチに集う人間は没落貴族が多い、母国に居場所を失い、マッチポンプと言わんばかりのカウネナナイ王の計らいによって国外遊撃隊に命ぜられてこの地にまでやって来たのだ。
今回の作戦は"ハフアモア"と呼ばれる代物だ、カウネナナイ国内でも貴族や王族が目の色を変えて探し回っている"ウィッシュテクノロジー"と呼ばれる物であり、醜い争いを繰り広げながら獲得に血道をあげていた。彼ら、ジュヴキャッチが母国で再起を果たすためには何が何でもハフアモアを奪取する必要があったのだ。
「ハフアモア」とはカウネナナイが付けた名前であり、これは第一テンペスト・シリンダーでプログラム・ガイア(オリジナル)が創造した新世代の技術の結晶だった。当テンペスト・シリンダーから退避することにいち早く勘づいていたプログラム・ガイアが、逃げ出したマキナたちのエモート・コアにその種子を潜ませていたのだ。
第一テンペスト・シリンダーで現界を果たした「スーパーノヴァ」の種子とも言うべきウイルスにはありとあらゆる可能性が眠っている、何なら自分たちでその可能性を"一から"作り上げることだってできる。この事にすぐに理解を示し、実際的な使い方を模索し続けていたのがカウネナナイと呼ばれる国であり、どちらかと言えば否定的に受け入れていたウルフラグはウイルスの解明に着手していた。
このウイルスに対するリアクションの違いは両国間におけるイデオロギー(その行動の基となる考え方や思想のこと)の差から生まれた結果であり、その根本には「マキナに対する理解」の度合いがあった。カウネナナイ人は「星人」と呼ばれる架空的存在を信奉し、機械生命体を中心とした宗教および哲学に折に触れながら生活を営んでいた。所謂「デウス・エクス・マキナ"機械仕掛けの神"」を理解し、そしてその存在を信じているのだ。
かたや、ウルフラグ人は国自体が採択した「政教分離」(国そのものが一つの宗教に帰属することを禁止する)の法律から、過去において「威神教会」に身を属しながらもその袂を別れていた。これにより、ウルフラグ人はマキナに対する理解はおろか、その存在すらも忘れていったのだ。
ジュヴキャッチのメンバーを乗せた車が市街地を抜けて首都の中心部に差しかかった。母国とは全く違う街並み、けれど今となってはすっかり見慣れた景色だった。
他の車と共に首都から「キラ」の山までぐるりと囲う国道を走り、ビレッジコアで最も大きな交差点に到着した。二股に別れた道を右手に行けば、今回の目標であるユーサ第一港、それからこの地を預かるマキナたちの根城である研究所、それからカウネナナイにとって聖地であるキラの山へと行ける。
泥で汚れた車がジュヴキャッチのメンバーを乗せて、右手ではなく国会議事堂方面へ行ける左手にハンドルを切った。
ジュヴキャッチのアジトでユーサ第一港の見取り図を発見し、それによりテロリストの襲撃に備えていた合戦場では着々と迎撃準備が進められていた。
陸軍首都防衛歩兵連隊の指揮官を任されているナツメ・シュタウトは朝からとても不機嫌だった、彼女の部下であるオリーブ・ノアが突出した─馬鹿丸出しとも言う─行動に出たせいで、秘匿すべき情報をテロリストのみならず一般人にまで晒すことになったからだ。
陸軍本部で受けた叱責は何とも屈辱的であった、部下の失態であるにも関わらず上官である自分が怒られるこの教育体制は何とかならないのかと、やり場のない怒りを肚に収めながら、テロリスト襲撃まであと数時間を切った港を社員用の食堂から眺めていた。
タクティカルブーツの踵を鳴らしながらナツメが臨時の作戦本部となった食堂内へ振り返り、オリーブと共に動画に映っていた連合長へ話しかけた。
「これ以上おかしな真似はしないでいただきたい、よろしいですね」
小馬鹿にしたような笑みをしながらピメリアが答えた。
「はいはい。それよりもお前さんに任せて大丈夫なんだろうな、保証局の援護もないんだろう?」
ピメリアの目は相手を見抜くように窄められている。陸軍が保証局のサーバーから情報を不正取得していた件について、言外に咎めているのだ。
「外堀を固めてから喧嘩を売れ」と言ったピメリアの言葉を思い出しながら、ナツメは受け流していた。
「保証局の援護がなくともこの港を守ってみせましょう、どのみち今のあなた方にとってそれが一番の肝要かと思いますが」
ナツメも言外に「陸軍の肚を探っている暇はないはずだろ」と伝え、切れ者の連合長は「そうだな」と言ってから口を閉じた。
食堂内には各班を指揮する隊長や、各班と連携を取るために配置した通信員などでごった返していた。今回の半日封鎖が急な報せだったこともあり、何も知らずにやって来たユーサの社員が目を白黒させながら、秘書官であるリッツ・アーチーの説明を受けて退出していく。
もう間もなく始業時間になろうかという時に、確かに昨日説明したはずのナディがひょっこりと食堂に顔を出し、素っ頓狂な声を上げて驚いていた。
「わあ!──ああそうだった、今日はご飯食べられないんだった……」
「わ〜凄く物々しい……早く出た方がいいよ」
ピメリアから受けた説明を忘れていたナディはつい、いつもの習慣で食堂に足を運んでいた。折しも、説明役をしていた秘書官は連合長と全体朝礼の打ち合わせのため席を外していた。
二人はどうしようかと戸惑う反面、滅多にお目にかかれない光景に興味津々といった体で入り口辺りに留まっていた。それを見かけたナツメが二人へ声をかけた。
「そこの二人!………そうそう君たちだ、すまないがこちらに来てくれないか」
自分たちの食堂であるはずにも関わらず、二人は肩を寄せ合ってどこか怯えた様子を見せながらナツメの元へと歩みを進めている。先程までナツメと話をしていた連合長は食堂内にいるのだが、秘書官とスピーチの原稿を確認しているため視線を下げていた。
ひしと手を繋いでいる二人がナツメの前にやって来た。
「そう怯える必要はない。君たちに謝罪したかったんだ」
「……え?しゃ、謝罪ですか……?」
「ああ、昨日は私の部下が君に対して失礼を働いたようだ、不愉快な思いをさせてしまって申し訳ない」
ナツメは被っていた軍帽を取り、軽く頭を下げた。軍の指揮官にいきなり頭を下げられた相手はさらに驚くばかりであったが、じっと視線を固定していることにナツメが気付いた。
「私の目が珍しいか?」
「あ!いえ、すみません……」
ナツメも切った張ったの戦場を─それは組織内においても─潜り抜けてきた軍人である。しかし、民間人の、それも何ら罪のない相手と会話をする時は愛想の良い顔を浮かべられるものである。
柔和な笑みを湛えたナツメがこう言った。
「昔、空軍に志願する際、移植手術に失敗してしまってな、その名残だよ」
「……失敗って、何の失敗ですか?」
「特個体を操縦するためのコネクトギアさ。あれは人と機械を繋げる端末、アンノウンテクノロジーの複製体を操縦するために必要な物なんだ」
「…………」
ナツメの言う複製体とは、空軍が使用している戦闘機の事をさしており、そのオリジナルとされているのが保証局が預かる二機の特個体だった。オリジナルも複製体もまとめて"特個体"と呼ばれているため少々ややこしいのだが、このマリーンにおいてはそう呼ばれるのが習わしだった。
突然の告白にナディはどぎまぎしながらも、曖昧な返事を返してお茶を濁した。そこへナツメからこんな質問がなされた。
「ところで、君はハフアモアという言葉について知っているようだね?部下にも訊かれたかと思うが、何か知っているのであれば私に教えてほしい。君を疑っているのではなく、今後の作戦の為に必要な事なんだ」
ナディは一瞬だけ戸惑った、けれど胸襟を開いて自分の過去について語ってくれた指揮官へ素直に答えた。
「……ハフアモアはカウネナナイの言葉で"命の卵"という意味です。星人様の教えの中にある言葉だと、以前祖母から教わったことがあるので……」
「それにはどんな意味がある?」
「確か──」
子供らしい、細い眉を真ん中に寄せて記憶をたぐっている。誰かが荒々しく席を立った後、ナディが答えた。
「星人様に認められた人の所に現れる……証………?だったはずです、うろ覚えなんですが」
「──そうか、ありがとう。君の上司にもそう伝えておくよ」
「え?」
「こらあ!こんな所で何やってるんだ!」
「?!」
「?!」
二人にようやく気付いたピメリアがどかどかと歩いてきた、そんな彼女の怒声ともつかない声に二人は揃って肩をぴくりと跳ね上げた。
問答無用で締め出されていく未成年の二人を見ながらナツメは、
(命の卵……宗教の言葉だったのか、果たしてそれがウイルスの事をさしているのか、それとも別の"何か"をさしている言葉をウイルスに重ねているのか……)
他人に詮索することが肝要でないと言っておきながら、その自分もまた考え事をしていることにふっと笑みを溢し、切り替えるようにしてもう一度視線を窓の向こうへとやった。
(仕切り直しだ、あの女に私を分からせるためにも──)
オリーブ・ノアという女性は、良くも悪くもナツメに多大な影響を与えていた。それが例え、個人的な領域に踏み込もうとも。
ナツメはオリーブのような、相手を下に見ている人間の鼻を挫いて傅かせるのがいたく好きだった、性癖と言ってもいい、テロリストのアジト前でされたあの説教が、ナツメのプライベートな喜びを引っ張る要因となった。
ナツメの視界には穏やかではあるが平穏には見えない海があり、そして始業時間に差し迫ろうとしている港では、屋外の集会場に社員が陸続と集まる姿があった。
"集会場"と言ってもそこはユーサの社員専用の駐車場であり、陸軍の車や装甲車に囲まれながら設置されたひな壇を皆が見つめていた。
ここに集った社員は有給休暇でいない者を除いて七〇〇人近い、数年前に流行した変異型の風邪の予防対策の名残として、一人一人が距離を空けていた。そのため駐車場は人で広い間隔をもって埋め尽くされ、中には不特定多数の集団を嫌って食堂のバルコニーで待機している人たちもいた。
そんな様子をひな壇の近くから眺めていたリッツ・アーチーは一人、ほうと息を吐いていた。緊張しているわけではない、あと少しでこちらに保証局の二人が来ることになっていたので、その応対を連合長から仰せつかっていたのだ。いや緊張している、リッツはしきりに自分の携帯画面を確認してそわそわしていた。
(ホシさんと話できるかな……いや無理かな〜)
何せ今日は会談のために来るわけではない、彼らがかねてから行方を追いかけているテロリスト集団「ジュヴキャッチ」の身柄を押さえるためにやって来るのだ。
スピーチの原稿を持ったピメリアがひな壇に現れた、そんな折、リッツの携帯にメッセージが入った。
アリーシュ:もうすぐ着く
アリーシュ:渋滞にハマってしまった
アリーシュ:_(:3 」∠)_
アリーシュ:まちがた
アリーシュ:m(_ _)m
ぴこんぴこんと鳴る携帯をピメリアが注意してきた。
「うるさいぞ!」
「す、すんません!いやあのピメリアさん、スミス大尉が少し遅れるみたいなのでもう少し待ってもらえないっスか?」
「何をやっているんだあいつは!お前と仲良くなったからといって気が抜けているんじゃないのか!」
そう、リッツとアリーシュはあの飲み会を経てプライベートでも良く顔を合わせるようになっていた。雨降って地固まるとはこの事である(少し違う)。
また懲りずにぴこんと鳴った携帯をもう一度取り出して、リッツは慌てて返事を送った。
ホシ:車はどらちに停めたらいいですか?社員の方が多くて
リッツ:メッセ送る暇があるなら早く来て!私が怒られちゃったじゃん!
「ああっーーー!!!」
「っ?!」
誤爆したリッツはその場で叫び声を上げてしまった。おそらくもう一人が運転しているのか、秒で既読が付いてしまいメッセージを消すこともできなかった。
リッツ:すみません!間違えました!
ホシ:いえ、大丈夫ですよ、それより誘導をお願いしたいのですが
リッツ:近くに整理の人いないですか?
ホシ:誰もいないようです
そんな馬鹿なと思いながらも素早くピメリアの許可を取り付け、全体朝礼の進行役であるリッツが駆け出した。
全体朝礼には連合長、それから事態の重要性を社員に分かってもらうため、本作戦に参加する陸軍少佐、それから海軍大佐と大尉であるアリーシュたちも壇上に立つことになっていた。
湿気を多分に含んだ風を浴びながら到着した駐車場の入り口では二台の車が数珠繋ぎになっており、ちょっとした渋滞になっていた。ホシから連絡があったようについていなければならない整理員の姿が見当たらなかった、おそらく休憩に入ったタイミングで保証局の二人と、さらに海軍士官を乗せた車が到着してしまったのだ。
先に着いていた車の窓ガラスが下され、中からヴォルターが顔を見せてきたのでリッツは驚いた。
「おい、朝礼はもう始まってるんだろ?時間は大丈夫なのか?」
「えっ!あ、はい!待ってもらっていますので!」
「そいつはすまない」
少し首を傾げて運転席を見やれば、メッセージを送ってきたホシがハンドルを握っていた。
休憩に入っていた整理員が慌てて駆けつけてきた、リッツは整理員と一緒に車を預かることにして保証局の二人と、初めて見る海軍大佐と飲み友になりつつある大尉の二人を会場へ向かわせることにした。
車を下りて去り際、海軍大佐であるリヒテン・シュナイダーがリッツに声をかけていた。
「いつも大尉が世話になっているようだ。たまには我々の港にも来てくれ、歓迎しよう」
そう爽やかに声をかけた後は保証局の二人の跡について行った。
整理員が保証局の、そしてリッツが海軍の車に乗るとまた驚いた。
「いやあんたが運転してたわけじゃないのかい!」
「入ってくるなり何だいきなり!」
一度にあれだけのメッセージを送ってきたのだから、リッツはアリーシュが運転しているものと思っていた。
「というか自分の上司に運転させてたの?!」
「仕方ないだろ!大佐が自分で運転したいって言ったんだから!これでも肩身が狭かったんだぞ!」
「知らんがな!」
駐車場に集まり散り散りになっている社員を避けながら車を移動させる。いやちょっと待てよとリッツは思い至った、進行役である自分も遅れてしまったら全体朝礼の時間がさらに延びてしまうことに。さらに慌てたリッツの言葉使いが荒くなってしまうのも仕方のないことだった。
「君まで遅れたら大変な事になるんじゃないのか?私が変わってやろうか?」
「今さら!」
正装用の軍服に身を包んでいるアリーシュは何故そこまで怒るのかと訝しんだ。
「遅れたのは謝るがそうキツい言い方をしなくてもいいだろう!」
「あんたがぽこぽこメッセ送るから間違えてホシさんに送ったの!どうしてくれるのさ!」
「いや知らんがな!君が悪いんだろ!」
ぎゃあぎゃあ喧嘩をしながら駐車した二人の前を誰かが横切っていった。足元から入った大胆なスリットから覗く足はアリーシュの軍服にも引けをとらない、大波を打つように揺れる髪が太陽光を反射してキラキラと光っていた。まるで絵本から飛び出してきたかのような容姿、その人物が誰か分かった途端リッツがまた吠えた。
「ああっーーー!」
「っ?!」
「ヤバいヤバい!こんな時に逃げ出した!」
「逃げ出した?!あの人に一体何があったんだ?!」
てんやわんやの二人は慌てて車を下りて逃げ出した人物の跡を追いかけた。
その逃げ出したという人物は、ユーサに招待されまるでお姫様のように扱われてきたグガランナ・ガイアだった。ただ、彼女は何も逃げたわけではなかった。
(絶対に──!絶対に阻止しなければ──!)
グガランナ・ガイアは自らの心情を語るつもりでいたのだ。テロリストがこの場に襲撃してくることはピメリアから知らされていた。
ただ、彼女はウイルスや、そのウイルスに関連した事を話すつもりではなく...
(今さらあの場に戻ることなんてできません!──ええ、できるはずがありません!)
頭の中で言い訳を忙しなく構築し、アスファルトの地面を蹴るため忙しなく足を動かした。
背後に失恋中の二人が必死の形相で追いかけているとは露知らず、グガランナ・ガイアが周囲にいた人たちの視線を集めながらひな壇に到着した、するや否やに階段を駆け上がってさらに多くの視線を集めてみせた。
連合長の挨拶の為に設置されたマイクを手に取りスイッチを入れて一言。
「私は出来る女ですぅぅぅっ!!!!」
大音量でグガランナ・ガイアの声が響き渡った。ハウリングしたその声は、挨拶を部下に任せて食堂に詰めていたナツメの元まで届いた(後日談)。
きぃん!と不協和音が鳴り駐車場にいた殆どの人が耳を塞いだ、にも関わらずグガランナ・ガイアは自分の有用性を話し始めた。
「よろしいですかっ!私が──私こそがノヴァウイルスとか言うちんけな物について一番詳しいのです!ここで──ここで私を野放しにすることはユーサにとっていいえ!全人類にとって多大な損害を与えるはずです──ええそうですとも!損害がなければ私が作りだすまでですっ!」
グガランナ・ガイアは兎にも角にもここを離れたくなかった、言い方を変えるならば研究所の地下フロアに戻りたくなかったのだ。それはもう必死になって弁論した、調査対象であるノヴァウイルスがその機能を停止したことにより、自分がお払い箱になることを恐れたのだ。
呆気に取られていた幹部陣がようやく復帰し、真っ先に壇上に立ったのがピメリアだった。
「おいコラ!お前は何を─「テロリストが何ですかそれの何が怖いというのですか!あなたたちは何百年間も閉じ込められる恐怖を──」ここでようやくピメリアがグガランナ・ガイアのマイクを取り上げにかかるが「何ですか!今私は大事な話を─「大事もクソもあるか!さっきから何を─「昨日!昨日は誰も私の所に来てくれませんでした!そんなにテロリストが怖いので─「かまってちゃんかいい加減にしろっ!」と、二人がマイクを取り合う戦いが繰り広げられた。
「ノヴァウイルスはっ!ノヴァウイルスは確かに有用ですがもう死んでいますっ!そして私も死にかけていますっ!どうか!どうか皆様方の鶴の一声で私をここに残らせてください!大空を知った鳥が鳥籠の中に戻れないようにっ!「そんなの鳥の都合だろうがっ!」──私もまた人々から離れられないのですぅぅーー」ここでプツンと、マイクの音が途切れた。
◇
「お願い!お願いですから!私をここに残してください!」
朝礼を一旦延期にしてグガランナ・ガイアを執務室に連行した面々は、ただただ頭を抱えていた。もう脇目も振らずに誰彼構わずしがみついてくるものだから困り果てていたのだ。
「だあー!もう!いい加減にしろっ!こっちはお前に構っている暇はないんだよっ!」
グガランナ・ガイアがみっともなくピメリアにしがみついている、まるで子供が駄々をこねるようにして。ドレスがはだけてあちらこちらが露わになっているが、執務室にいるメンバーが皆女性ということもあり、誰も直そうとしていなかった。
ピメリアのベストを引っ張るようにしてグガランナ・ガイアが引き止めている、その横を通り過ぎようとしたリッツに標的を変えて、
「うわあっ?!」
「リッツ!リッツ!あなたまで私を見捨てるというのですか!」
「ち、違いますから!私はただ皆さんに説明を──」
グガランナ・ガイアは聞いちゃいない。
「そう言ってそのまま出て行くおつもりでしょう?!「だから皆さんの所へ行くって言ってるでしょう?!」駄目です!私はもっとあなたとお話したいのです!「この間は私から逃げたくせにっ!」
執務室にいたアリーシュとオリーブはただ呆然としているばかりである、ちなみにこの二人も執務室から出ようとすると問答無用で止められていた。
大きく溜息を吐いたピメリアがこう言った。
「急にポンコツになりやがって……」
その言葉を聞いたオリーブが小さく問うてきた。
「…この人いつもはこんな感じではないのですか?何というか、大きな子供というか……」
「まあ、寂しがり屋なのは分かっていたが……」
リッツのお腹辺りにしがみついていたグガランナ・ガイアがぴたりとその動きを止めた。動きを止めただけで、リッツのお尻に回している手を解かずピメリアへ視線を向けてこう言い返していた。
「分かっているならどうしてこんな酷い真似ができるのですか!この鬼め!」
「いやだからな?誰もお前を追い出すなんて言ってないだろ?ほんと急にどうしたんだよ」
ゆっくりとピメリアが腕を上げて─もう片方の腕はきちんとお尻に回しながら─オリーブを指さした。
「え?私?」
「そう、あなたです!あなたがここに来さえしなければ!あなたのせいで私の居場所が──」
「いやいやいやいや、何を言ってるんですか?」
指をさされたオリーブはただ目を白黒させているばかりである。
「あなた──第一テンペスト・シリンダーの特別個体機なのでしょう?隠そうとしたって無駄なんですから!」
「……………はぁ?」
そう言われてしまったオリーブが、可憐な顔を盛大に歪めた。何を言われているのか分からないらしい、そんなはずはないとグガランナ・ガイアがさらに詰め寄った、そして離されまいとリッツのお尻もつまみ上げた。
「痛い痛い痛い─「初めてお会いした時は分かりませんでしたがティアマトから報告がありました!あなたが特別独立個体総解決機であることを!」─痛いってば!離しなさい!「あなたがここにいたら私は無用です!無用の長物です!何せウイルスを流出させてしまった当事者なのですから!」
リッツから頭を叩かれまくったグガランナ・ガイアがようやく手を緩め、その間に執務室がしじまに支配されてしまった。
しんとしたかと思えば、
「──あっは!ぷっくくくっ……いやこの人マジで面白いですね、いきなりSF展開……あっはははっ!」
オリーブはグガランナ・ガイアの話を笑い飛ばしていた。
「何をそんなに笑うことが……あなたは特別個体機なのでしょう?」
「いやー、まさか私が戦闘機のオリジナルだなんて……そういうネタで小説とか書いてみたらどうですか、きっとバカ受けしますよ」
「何を言って──あなたも体内通信が可能なのでしょう?!ティアマトからそう報告がありましたよ!」
「体内通信なら誰でも出来るでしょ、カウネナナイの人間がそうなのですから」
オリーブの発言に皆が色めき立った。
「はあ?!……その話、本当なのか?」
「ええ、奴らは国を追い出される時に無理やりインプラントを埋め込まれるんですよ。これが奴隷の証だって」
飄々とした表情をしたオリーブが自分のこめかみを指で叩いている。
「そのインプラントは発信機と通信機をかねていますから、国から逃げ出すことができないですし、その代わりにいつでもどこでも連絡が出来るんですよ」
「にわかには信じ難いですが……もしそれが本当なら、少しやっかいな事になりましたね……」
端末を使用せず、タイムラグ無しで連絡を行なえる優位性をいち早く理解したアリーシュがそう呟いた。今からこの港はそんな連中に襲われてしまうのだと、誰もが沈黙しかけた時、関係ない存在がいた。
「だから!私を!私を無視しないでください!」
「もううるっさいんだよ!このポンコツかまってちゃんが!それ以上騒ぐなら本当にこっから追い出すぞっ!」
あれだけ騒いでいたグガランナ・ガイアがぴたりとその口を閉じた。
「俺たち最強集団"ジュヴキャッチ"が陸軍を相手に遅れを取るはずがない!」章
埃っぽく、そして男性の汗の臭いが薄らと混じった空気と共に、ライラ・コールダーは疲れた体を無理やり起こした。
(はあ……寝た気がしない……)
彼女は昨夜、厚生省指定のホテルでジュヴキャッチのグループに襲撃され、間一髪のところでその魔の手から逃れていた。あまりの出来事に感情が追い付かず、少し遅れて救助に駆けつけた保証局のヴォルターに言われるがまま、厚生省の夜間警備員の仮眠室に来ていた。
そこでもまだ心が落ち着かず、寝落ちするまでひたすらナディとメッセージのやり取りをして一夜を過ごした。それでも、あと少しで人攫いの身になっていた恐怖は抜け切れず、朝日が昇ってもまだ胸に居座り続けていた。
ベッドフレームを軋ませながらライラが立ち上がり、近くにあったデスクに腰を下ろした。昨夜買ってもらった弁当の包みを開けていると、軽いノック音が聞こえた。
「おはようございますコールダーさん、お体の具合はどうですか?」
扉を開けずに声をかけてきたのは陸軍所属のマリサという女性だった。ライラの身辺警護と世話の為にオリーブの元から離れて彼女についていた。
あまり食欲もなかったため冷め切ってしまった弁当の開けた蓋をもう一度閉じて、マリサを迎え入れるためライラが立ち上がった。
少し錆びついた音を立てながら開いた扉の先に、マリサが新しい袋を持って立っていた。
「朝からあんなに重たい物は食べ難いでしょう?代わりの物を買ってきましたので」
「……ありがとうございます」
マリサがふわりと笑い、その笑顔に釣られてライラもようやく笑みを溢した。
「安心してください、ここは厚生省内の部屋ですので、何があっても奴らは近づけませんから」
マリサがそう月並みな言葉をかけた、けれどライラの心はあまり軽くならなかった。
「そうだといいのですが……」
「それに、こう言っては失礼かと思いますが、昨日コールダーさんは電話をかけましたよね?だから奴らに付けいる隙を与えてしまったんですよ」
「………」
マリサの言う事は最もである。ライラは昨夜、ハウスキーパーなど様々な人材を派遣しているハインハイム社と呼ばれる所へ電話をかけていたのだ。その内容を盗聴していたジュヴキャッチのグループは、ライラに怪しまれないようそのハインハイム社を名乗り接触を試みたのだ。
その事も良く理解していたライラではあるが、彼女はまた違う所でも悩んでいた。自分の身のみならず、周囲にもこの魔の手が差し向けられるのではないか、ということに。
保証局のホシ・ヒイラギと呼ばれる青年と交わした内容を知らないマリサは、ライラの心意まで汲み取ることはできない。できないが、彼女なりにライラの事を気にかけていた。その優しさが、強張っていたライラの心を徐々に解していった。
「──それもそうですね、昨日は私が招いた事でもあります。反省してます」
マリサから受け取った袋の中には食べ易いヨーグルトや健康機能付きのジュースなどが入っていた。それらを取り出しながら会話を続けた。
「一番反省しなければならないのは、未成年であるあなたを毒牙にかけようとした奴らですよ」
(さっきは私が悪いみたいな言い方をしたくせに……)
ここでようやく─マリサのデリカシーの無い言い方のお陰で─ライラの心が上向き始めた、そうかと思えば今度は空腹をこれでもかと感じ、テロリストに襲われる前から空っぽになっていた胃袋が抗議を上げ始めた。
渡された朝食をぺろりと平らげたライラの様子を見て、代わりに冷めた弁当を頬張っていたマリサが水を一口飲んでからこう言った。
「ご飯が食べられるということはまだ大丈夫な証ですよ。私たちがいた戦場では、戦いのショックで十分にご飯を食べられなくて衰弱してしまって、そのまま亡くなっていく人がいましたから」
「……そうなんですね、肝に銘じておきます」
「食う寝るは人が生きていく上で一番重要な事ですから、それ以外の欲求は二の次です。ま、これは戦場における話なんですが」
経験に裏打ちされたマリサの言葉に興味を抱いたライラが質問した。
「戦場って……五年前のセレン戦役の事ですか?」
やや間が開いてから、マリサが答えた。
「────そうですよ、セレンに限った話ではありませんが」
「……どんな所だったんですか?」
また、間が開いてからマリサが答えた。
「────毎日不安に怯えながら過ごす場所でした。あの時が一番戦闘も激しかったから、朝に言葉を交わした他の隊員が亡骸となって戻ってくるのが当たり前だったんです」
想像できますかと、マリサがライラに問うた。その言葉に「これ以上この話題に踏み込むな」という意味を感じ取ったライラが口を閉じた。
マリサは自分が所属していた話ではなく、代わりに戦果を上げた空軍の話をしていた。
「そんな戦争に終止符を打ってくれたのが、今は解体されてしまった「ラズグリーズの狂犬」と呼ばれる部隊でした。彼らは勇猛に敵艦隊へ突撃し、そして一人のパイロットを残して全滅しました」
「………」
「当時はカウネナナイの艦隊に手も足も出なかったのですが、ラズグリーズの部隊が壊滅状態にまで追い込んだんです。その時の作戦が敵側にとっても背水の陣だったようで、我々軍は敵と痛み分けの状態で停戦へと漕ぎ着けたんです」
「そうだったんですね………その生き残った方というのは──」
「昨日、あなたを助けてくれたクーラントさんですよ、彼がその生き残りなんです」
マリサの話が寝耳に水だったライラはただ驚くばかりだった。その話が事実なら、ヴォルターという人間はウルフラグにとって"英雄"と呼ばれても何ら差し支えはないように思えた。けれど、ヴォルターは保証局員として今なお現場で立ち続けている。
ヴォルターの経緯に何らかの、それも並々ならぬ事情を感じ取ったライラは再び口を閉じた。
「ところで、コールダーさんのご両親はどらちにいらっしゃるのですか?」
「──両親、ですか?」
──もしこの質問が、ご飯を食べる前であればライラは素直に答えていたことだろう。自分の身に起こった経緯をルカナウアにいる両親へ伝えるため──そう解釈して、何も疑うことなく教えていたに違いない。
しかし、微妙に脈絡がズレているマリサの質問を不審に思ったライラは言葉を濁した。
「……さあ、連絡を取ってみないことには……あちこちに移動していますので」
「──そうですか」
ライラはここで引き下がったマリサをさらに不審に思った、火急の用件であれば是が非でも訊き出すはずだからだ。
(──探られている……?でもどうして……陸軍の人がパパたちの居場所を知りたがる理由が分からない……)
じっと─失礼のないように─ライラは相手を観察するが、仕草に何らおかしな所はない。マリサは食べ終わった弁当の空き箱をビニール袋に入れている、特別緊張した様子もないし普段通りに見えた。
(いや、慣れているのか……相手の懐を探ることに──)
その事実に気付いた途端、ライラの方が一気に緊張し始めた。そもそも何故、陸軍の人間が身辺警護についているのか、今さら不思議に思えてきた。彼らは今日、テロリストの襲撃に備えてユーサ第一港に詰めているはずだ。
ベッドの上に置いていた携帯をライラが手に取り、マリサへ一言告げてからメッセージを作成した。送る相手は「ラズグリーズ」の生き残りであるヴォルターだった。
ライラ:昨夜はありがとうございました、今マリサさんという方と一緒です
何かあればすぐに連絡しろと、ライラはヴォルターと連絡先を交換していたのだ。
意外にも、返事がすぐに返ってきた。
ヴォルター:何か変な事されていないか?
ライラ:と、言いますと?
ヴォルター:あいつらがお前の警護をやりたいと言ってきたからだ
ヴォルター:自分がコールダー家の人間であることを忘れるな
ライラは自分の勘が当たったに過ぎないが、それでもヴォルターの内容は頭を殴られたような衝撃があった。
ここでがたんと、マリサが急に立ち上がった。突然の行動と、自分の存在を知らしめるようにわざと鳴らした椅子の音にライラがびくりと反応した。
そして、
「どうやら出直した方が良さそうですねコールダーさん」
「────」
「これだけは安心して下さい、私たちは決してあなたには危害を加えるつもりはありませんので」
意味深な事を告げるだけ告げた後、マリサはライラの返事も待たずに仮眠室から出て行った。
◇
グガランナ・ガイアのポンコツスピーチは、港を監視していたジュヴキャッチの偵察班も耳にしていた。ウイルスが保管されていると思しき外れの建屋から程近い、断崖絶壁を眼下に望める森の中に彼らは潜んでいた。
偵察班を指揮しているメンバーも貴族の子であり、オリーブが話していたように彼もまた、カウネナナイを離れる時にインプラントを埋め込まれていた。
強制的に埋め込まれたせいで、頭痛にも似たコール音を受け取りながら彼が連絡を行なっていた。
[そっちの様子はどうだ]
[マキナが馬鹿げたスピーチをした以外はとくに。ただ、そのマキナが言うにはウイルスはもう死んでいるとのことらしいですが……]
[だったら尚のこと好都合だ、あと一時間で合流する。準備を始めろ]
[分かりました]
血管が切れたような途絶音の後、彼は後方に控えていた他のメンバーに早速指示を下した。どうやらミガイはさらに時間を早めるつもりでいるようだ。
早朝に配信された動画のお陰でウイルスの大きさは概ね把握していた、未だに誰も配置されないあの建屋から運び出し、港から数キロ圏内に待機している原子力潜水艦に運び込めば後は国内に持ち帰るだけである。さらに有り難いことにこの港ではウイルスの解析に着手していたようで、その調査結果も持ち帰えれば尚のこと良い、追い出された国で返り咲く未来が容易に想像できた。
潜水能力も有しているスニーキングスーツに身を包んだ彼らが、そろりと一歩前に踏み出した。そして、カウネナナイ領で得られたハフアモアの技術を転用して作られた光学迷彩も同時に起動し、偵察班が港内に足を踏み入れた。
班を指揮している男が訝しむ、この期に及んでもまだ見張りの一人も立たせようとしないウルフラグ人に。
(ブラフか……?それとも別の所にハフアモアを移したのだろうか……)
ジュヴキャッチ内でも、今朝配信されたあの動画に対する意見が二つに分かれていた。一つが自分たちジュヴキャッチを惑わせるためわざとウイルスの居場所を教えた、という意見と、もう一つが建屋に誘い込んで袋叩きにするためのブラフという意見だった。
どちらにしても、ジュヴキャッチとしてはあの建屋を調べる以外にない、それに動画に映されていた様子ではすぐに移動できるほど小振りなサイズでもなかったのだ。
男は躊躇した、ここまでウイルスを明け透けにされてしまっては寧ろ自分たちの身が危ないのではないかと考えたからだ。足を止めた男に部下たちが何事かと気配を窺っている。
(総長から建屋を調べろと命令を受けたが……ただの捨て駒なのではないのか、これは……)
男の視界には味方の光学迷彩を暴く、赤外線と紫外線の複合波長を放つゴーグル越しにはぼんやりと映る部下たちの姿と、世にも奇妙な色に彩られた海が見えていた。
意を決してハンドサインを出そうとしたその刹那、部下から声をかけられた、何かを見つけたらしい。
[班長、港に軍艦が寄港しています、回りには護衛艦の姿もあります]
[……何?]
退路の確保を行なっていた部下が海に浮かぶ海軍の船を見つけたようだ。その報告を聞いた男は、建屋に誰もいない理由に合点がいった。
[海軍の船にウイルスを預けるのか?だからこうして誰も──]
[いや、それはどうでしょうか、あちらがハッタリの可能性もありますよ]
[そんな事あるか?わざわざ海軍まで出張っているんだぞ、こっちの軍は皆んな仲が悪いんじゃなかったのか]
[だったら尚のこと、海軍がウイルスを預かることになったんだろ、違うのか?]
[なら、ここの下調べは中止しましょう、敵の思う壺ですよ。間違いなく待ち伏せしているに決まっている、そうでなければ動画を流した意味がない]
[──静かに、俺たちの仕事をこなすだけ──]
ここまでオリーブの思惑通りになったと言っても良い、そして、この絶妙なタイミングで全体朝礼を終えたその本人が建屋からひょっこりと現れた。全身をタクティカルスーツに包んできちんと武装までしている姿でだ。
オリーブの術中にはまった偵察班はたったそれだけの事で大いに慌ててしまった。
何故このタイミングで?どうして姿を見せたのか、俺たちを誘い込む罠ではなかったのか、こいつは何も考えていないただの阿呆なのでは?
様々な憶測が偵察班の中で交わされるが、答えは誰も持ち合わせていない。建屋の扉の前でカービン製(銃身が八〇センチ以下の物をさす)アサルトライフルを構えており、飄々とした顔つきで周囲に視線を向けていた。アサルトライフルの銃口は下げられているため、自分たちの存在に気付いたわけではないと判断した偵察班の班長は"前進"のハンドサインを出してゆっくりと──進むことができなかった。オリーブがつと、自分たちの所へ視線を寄越したからだ。
(……………)
偵察班の背後には絶壁しかない、それに光学迷彩も起動しているので何も見えていないはず──それでも偵察班は動きを止める以外になかった。
ただの偶然か...それとも侵入経路を監視しているだけか...それにしても、オリーブが視線を寄越している間隔が長すぎる。オリーブがタクティカルベストから何かを取り出した、スティック状にピンが付いている。それを見つけた班長はインプラント越しに叫び声を上げた。
[退避っ!散れっ!何があっても被るなっ!]
言うや否や、オリーブがぽいっとスティック状の物を放った。班長たちがいた地点にコツンと落ちると小規模の爆発の後、電子欺瞞紙と呼ばれる電波を反射する物体がキラキラと宙を舞った。
これは所謂"チャフグレネード"と言われ、敵が使用しているレーダーなど電子機器の撹乱を目的とした投擲武器だった。それと、あともう一つの役割が"光学迷彩を浮き彫り"にさせるというもので、セレンの戦場を生き残ったオリーブが身に付けた一つの知恵だった。
光学迷彩は周囲の景色に同化し姿を消すことができるが、そもそも進行波を反射する特殊な欺瞞紙だけは擬態することができない。だから班長は必死になって逃げ出したのだ。
それにオリーブが次から次へとぽんぽん投げてくるものだから班長たちはさらに必死になって逃げ回った、少しでも範囲が被ってしまうと即座にバレてしまうからだ。
一通り投げ終えたオリーブが、聞こえよがしにこう言った。
「もうそろそろ来るかと思ったんだけどな〜。ま、いいか、根性無しみたいだしどうせ何も盗らずに帰るでしょうよ」
(あんのクソ女っ……)
初戦から出鼻を挫かれてしまった班長がそう毒づき、オリーブがさっさと中へ引っ込んでいった。
ほうほうの体で逃げ回っていた偵察班は頭に血が上っていた、今から突入すべきだと主張する人間が殆どだった。してやられたと猛省している班長は何とか皆を宥め、嫌々ながらも総長に連絡を取ることにした。
[ハフアモアの特定できず、建物内に陸軍が詰めているようです]
連絡を受け取ったミガイは違法品のランドスーツをチェックしながら言下に指示を出した。
[突入しろ]
ミガイの前には、優にニメートルを越す人型を模した機体があった。装着部である胴体が開け放たれ、魂を抜き取られたような人形のようにそれはただ佇んでいた。
指示を受けた偵察班の班長が口ごもる、それでもミガイは行けと再度指示を出した。
[……了解。それから港には海軍の艦艇が寄港しているそうです、おそらくどちらかがブラフかと──]
[んなことは分かっている。俺たちがそっちに到着するまで、ハフアモアの居場所を特定できるかにかかっているんだ、それが分からないお前ではないだろうが]
[……了解]
[安心しろ、ここで成果を出せば向こうにいるお前の女子供は裕福な暮らしができる]
班長は何も言わずに通話を切った。
◇
開発課が所有する屋内プール実験棟から、複数の爆発音が聞こえたとナツメの元に通報が寄せられた。作戦開始までまだ時間はある、にも関わらず誰が勝手におっ始めたんだとナツメが慌てて連絡を取ってみれば、
[ただの掃除ですよ掃除。あいつら決まって光学迷彩を使って侵入して来ますから。あ、迷惑でした?]
「そんな事──そんな事は報告書に書かれていなかったが──」
ナツメは手を戦慄かせた、知らず知らずのうちに手が白くなるほど握り拳を作っていた。
勝手に携行武器を使用したオリーブがこう言った。
[現場で身に付けた知恵まで報告しないと駄目なんですか?それならそうと先に言っておかないとこっちは分かりませんよ]
「────もういい、その場から動くなよ。今から代わりの者を寄越す」
堪忍袋の緒が切れてしまったナツメはそう冷ややかな声を出した。確かに、オリーブに自分の力を認めさせて傅かせるのもそうなのだが、彼女は本作戦を預かる指揮官だ。己の欲求と作戦の成功を天秤にかけ、早々に見切りをつけていた。
ただ、ジュヴキャッチがもう既に港内に侵入していることが分かったため、共同で作戦に従事している海軍へナツメが連絡を取った。
アッシリア艦隊に所属する軽空母艦、それから掃海艦、護衛艦という布陣でテロリストを待ち構えていた、前回セントエルモの調査の際にも出動していたクルツ・リーゼント大尉にテロリスト侵入の報せが届いた。
「数は分かっていますか?」
お調子者としてのなりは潜め、今は真面目に指揮を務めている。クルツは早速部下を数名集めた。
[数は不明です。禁止条約に含まれている光学迷彩を使用していると報告がありました]
クルツが盛大に眉を顰めた。視認性を大幅に低下させて、かつ様々な犯罪行為にも使われやすい光学迷彩をどうやって発見したんだと、口に出さずともその不可解そうにしている顔が物語っていた。
「分かりました、こちらも警戒を強化させておきます。それと積荷の方は?」
[今急いで準備させていますので、もう暫くお待ちください]
身持ちが固そうな女だなと失礼な事を考えながら電話を切り、クルツが部下たちに指示を与えた。
「港にいる特個体のパイロットを呼び出せ、それから全員チャフグレネードを装備して巡回にあたらせろ」
「チャフ?」
「光学迷彩を使用しているんだと、チャフをばら撒いとけば何とかなるだろ」
「そんなに数があるわけないでしょ」
「………」
セントエルモの打ち上げの際、エイリアン認定を受けてしまった部下が冷たくクルツをあしらった。
とにかく行け!と、変わらず不機嫌なままになっている部下を追い出そうとしたが、別の士官がこう提案してきた。
「ユーサの人たちにお願いしてみますか?」
「あん?何をだ」
「水撒きですよ」
「────ああ、お前頭良いな」
褒めても全く機嫌が直らない士官の提案を受け、クルツがナツメに連絡を入れた。陸軍の少佐も水撒きを思いつかなかったようで、いくらか悔しそうにしながらもその提案を受諾し、連合長に繋げてくれた。
そして、陸軍の少佐から水撒きの話を聞いたピメリアは執務室でグガランナ・ガイアをいなしながら素っ頓狂な声を上げていた。
「水撒きぃ?何のために?」
[先程の爆発騒ぎに使用されたのがチャフグレネードと呼ばれる物で、それにはレーダー類を妨害する紙類も入っているのです。申し訳ないですが、港内の清掃をお願いしたいのです]
「今か?」
[機器に悪影響を与えるので、できるだけ早い方が良いかと]
「………まあいいさ、それならそうしよう」
ナツメの軽いお礼を聞いた後、ピメリアが電話を切った。
ポンコツになったまま、挙句には子供のように駄々をこねていたグガランナ・ガイアの頭をピメリアがぱしんと叩いた。
「ほらお姫様!仕事だ仕事!今から水撒きに行くぞ!」
「……え?水撒き?ですか」
ピメリアに抱きつき人心地がついたのか、グガランナ・ガイアがぽかんとしている。
そんな様子のグガランナ・ガイアにピメリアがすうっと目を細めてから、
「──お前さん、働かざる者食うべからずって言葉は知っているな?ウイルスの機能が停止していたことも黙り、挙句の果てには「行きます!」朝礼スピーチで好き勝手のたまい「やります!」これだけ迷惑をかけた相手に一肌も脱こうとしない奴が「頑張ります!」
しゃん!と立ったグガランナ・ガイア、ピメリアがうんうんと頷き、各職場で港の戸締まりをしている社員に号令をかけるため課長陣を呼び出した。
呼んだ課長たちが到着するまでの間、言わばグガランナ・ガイアの子守りをしていたピメリアが尋ねていた。
「さっきの話だがな、あれはどういう意味なんだ?」
随分と落ち着いたグガランナ・ガイアがきょとんと首を傾げた後、「ああ」と一言。
「テンペスト・シリンダーの事ですか?」
「そうそうそれだよ、確かお前はそこからウイルスが持ち込まれたと言っていたな。そのテンペスト……?って言うのは何なんだ?」
はだけたドレスと乱れた髪の毛を整えながら、然もありなんとマリーンを預かるマキナが答えた。
「この世界そのものの事です。信じられないかもしれませんが、ここは外界から守られた筒の中なんですよ」
「………」
ウルフラグの人間は"テンペスト・シリンダー"そのものを知らないと、理解したグガランナ・ガイアが言葉を選びながらそう伝えるが、それでもピメリアを絶句させていた。
「──ああ……その、それは、あいつも言ってたSFの筋書きとかではなく、か?」
「はい、筒の外の世界は荒れ果てた星です。多量の毒を含んだ空気が満ちて、大地は割れて、海もマリーンと違って汚く澱んでいます」
「マリーンってのは?」
「ここ第三テンペスト・シリンダーの呼び名です。マリーン以外にも、あと十一基のテンペスト・シリンダーが稼働しています」
「………」
ピメリアの表情をじっと見ていたグガランナ・ガイアはある事に気付いた。彼女が話を聞いて─驚いているのは勿論だが─馬鹿にしたわけでも、冷めた様子でもないことに、何かを深く考えこんでいるようだった。
それでもやはり、にわかに信じ難い話のため、ピメリアは自分の考えを口にせず、代わりにこう問うていた。
「──証拠はあるのか?ここが確かに筒の中だと言える、あるいは外にも世界があるということを示せるものが」
グガランナ・ガイアは即答した。
「ありません。実際に外へ出てみる以外に示せるものがありません」
「──そうか、まあそうだろうな」
「あなたは笑わないのですね。前にヴォルターとホシにも同じ話をしましたが、鼻で笑われてしまいました」
「言っておくが私も信じたわけではない」
けど、とピメリアが言葉を挟んでから、
「お前の話を否定できる根拠を持っていない。ま、端的に言えば半信半疑ってところさ」
口端を上げてピメリアがにやりと微笑んだ、そこへ執務室に現れた人影があった。ピメリアが呼んだ課長たちではなく、保証局のヴォルターだった。いつも険しい顔つきをしているが、それに輪をかけて眉間に縦じわが作られていた。
入ってくるなり挨拶もなく、ヴォルターが単刀直入に切り出した。
「グガランナ・ガイア、マリサという特個体に心当たりはあるか?」
「………いいえ、存じませんが……」
「質問の仕方を変える。お前は特個体について何を知っている?」
圧迫感さえ感じるヴォルターの言葉に、ピメリアとグガランナ・ガイアが不愉快な顔つきになった。まるでグガランナ・ガイアが初めから"悪い"と言わんばかりの物言いだったからだ。
雲行きが怪しくなる前にピメリアが割って入った。
「ちょっと待て。状況を説明しろ、何があったんだ?」
「お前には訊いていない、口を挟むな」
「………」
「そうですね、私が知る限りでは特個体と呼ばれる存在はあらゆる電子機器にアクセスすることが可能だという─「そんな事は分かっている!」─それを可能にしているのがガイア・サーバーと呼ばれる存在です。ご存知でしたか?」
初めて聞く単語にピメリアと、喧嘩腰になっていたヴォルターが黙った。
「ガイア・サーバー、母なる電子の海、このテンペスト・シリンダーに存在するあらゆる物を一括管理している、と言えば分かりますか?」
「なら、お前はやはり特個体の関係者なんだな?」
折しも、ヴォルターが小馬鹿にしてまともに聞かなかった話に戻ってきた。
「違います。前にも申し上げましたが、私たちマキナはこの世界を管理、運営しているプログラム・ガイアの子孫にあたります──言葉が適当ではありませんでしたね、そのプログラム・ガイアから分かたれたアプリケーションが自我を持ったと捉えてください」
「関係者なのか、違うのか、そう答えてくれ」
「そうだと─「グガランナ、答える必要はない」
ヴォルターの質問に答えようとしたグガランナをピメリアが止めた。
「ヴォルター、今度はお前が話す番だと思うが?」
この男にしては珍しく、逡巡した様子を見せてから、ライラが置かれている状況について説明した。
「──昨夜、ライラ・コールダーが襲われたのは知っているな?その護衛に買って出た陸軍のマリサという女の足取りが全く掴めないんだ。この意味が分かるか?」
「掴めないというのは………」
「あなた方が私の身辺を見ていた事に関係した話でしょうか」
「…っ!」
「ヴォルター、あなたは私の周囲にある監視カメラから私のことを見ていましたね?それと電話やメッセージの類いも見ていたでしょう」
「そういう事か……」
「誤解のないように言うが、これも立派な警護に入る。不愉快極まりないのは重々承知しているが、これも俺たちの仕事だ」
また珍しく、ヴォルターが素直に謝罪を述べるも二人の表情はぴくりとも動かなかった。
ヴォルターの言葉が宙に浮きかけた時、その後をピメリアが無理やり繋げた。
「で、ライラの警護をしているマリサというあの女が、特個体じゃないのかってお前は疑っているのか?」
誤解を解くことを諦めたヴォルターがそれを引き取った。こうして、ユーサと保証局との間で確かな亀裂が入ったのであった。
「そうだ、だから特個体の関係者と思しきお前に話を訊きに来たんだ。奴らが使用している車から携帯から何から何までアクセスする事ができない」
「何故そこまでする必要がある?」
「コールダー家の人間だからだよ。マリサの下についている連中の中にテロリストが紛れ込んでいるかもしれないからな」
グガランナ・ガイアが毅然とした態度でこう言った。
「もう一度申し上げますが、マリサという特個体について存じておりません。彼女はれっきとした人の子ではありませんか?アクセスを妨害しているのは彼女ではなく、陸軍を疑うべきかと思いますが」
正論を突きつけられたヴォルターが鼻白んだ。そこへようやく呼ばれていた課長陣が姿を見せ、ヴォルターは何も言わずに執務室から出て行った。
二人ににべもない態度を取られたヴォルターは大股で廊下を歩き、扉をぶち破らんばかりの勢いで押し開け、そして扉の向こうにいた誰かに当ててしまったようだ。
「──いったぁ〜〜〜〜………」
「……すまない」
ヴォルターが勢いよく開けた扉に運悪く当たってしまったのはナディだった、ドアノブを握ろうとして伸ばした手を痛そうに摩っている。
中から出てきたのがヴォルターだと知るや否や、ナディの眉が不機嫌そうに寄せられた。
「……何をそんなに怒ってるんすか、物凄く痛いんすけど」
「だからすまないと言っているだろ、こっちも立て込んでいるんだよ」
「はあ?なんすかそれ」
苛立ちを宥めるため、ヴォルターがこんな事を切り出した。
「……お前、ライラ・コールダーと仲が良かったよな?何か連絡を貰っていないか」
「それ、怒ってる理由と関係あるんすか?」
「それこそお前に喋る必要が─「あちょっと待って先にトイレ行かせてください!」
自職場の戸締まりをあらかた終えて、たまたま通りかかった執務室がある建物で用足しをしようと思っていたナディが、慌てて中へと駆けて行った。中途半端な形で放置されてしまったヴォルターは、去るに去れず人に見つかり難いところで煙草に火をつけた。
二本目を吸い終えたところで、ナディが鼻を摘んで手を振りながらヴォルターの元へ戻ってきた。
「ここ禁煙なんすけど、あっちにちゃんと喫煙所あるんすけど」
「悪かったよ。で、連絡は貰っているのか?」
ナディが席を外している間に、あっという間に機嫌が直ったヴォルターがもう一度同じことを尋ねてきた。
「貰ってますよ、というか昨日はずっとやり取りしてましたけど……何かあったんですか?」
「何かいつもと様子が違うとか、変なところはなかったか?」
「…………何か、話があっちに行ったりこっちに行ったりしてしまたね、最初はお酒でも飲んでるのかなって思ってましたけど……」
ヴォルターは悩んだ。民間人の、それも未成年を相手にして昨夜の事件を話しても良いのかと。だが、連合長とマキナから協力らしい協力を得られなかったこともあり、ヴォルターは正直に話してやることにした。
「ライラ・コールダーが昨夜、ジュヴキャッチのグループに襲われたんだ」
「──────えっ、え?」
「安心しろ、本人は無事だ。まあ、精神的なところでまだ不安定になっていると思うが……」
「………どうしてライラが?」
「人質だろうな、ここを襲う連中が国外に逃げ出すまでの、それしか考えられん」
「………………」
「続きを話してもいいか?こっからが訊きたいことなんだ」
惚けたような表情をしていたナディに向かって気を払ったヴォルターがゆっくりと尋ねた。未成年なのに、争い事に慣れていないはずのナディが意を決したように続きを促した。
「どうぞ」
「ライラ・コールダーの傍についている陸軍の人間が不審な動きをしている、もしかしたらお前に何かしらのメッセージを送っていないかと気になったから尋ねたんだ」
ヴォルターの質問に答えずナディが携帯を取り出し、ぱぱぱっ!と素早く画面をタップし始めた。何をするのかすぐに理解したヴォルターが止めに入った。
「馬鹿たれ!監視されているかもしれないのにメッセージを送るな!」
ナディがずずいと携帯の画面を見せつけた。
ナディ:今日、お昼から休みなんだけどまた遊びに行ってもいい?
「……は?……お前、俺の話聞いていたのか?」
確かに昨日襲われたと説明したヴォルターは、ナディが送ったメッセージの内容はちんぷんかんぷんだった。会えないと分かっていて何故そんなメッセージを送るのか...すぐに返信があった。
ライラ:駄目、今日は用事があるから
またナディが何も言わずにぱぱぱっ!とメッセージを作成している。そしてまたヴォルターに遠慮なく見せている。
ナディ:いつ終わるの?家の前で待っててもいい?虫眼鏡さんも一緒なんだけど
「お前まさか……」
ナディの真意に気づいたヴォルターがそう呟き、
「ライラならきっと虫眼鏡さんって誰?って聞いてこないはずですよ。それに私、陸軍の人の前で虫眼鏡おじさんって一言も言ってませんから」
ナディの読み通りになった。
ライラ:だから駄目、昨日から色々あって家に帰れてないから
ナディ:何があったの?
ライラ:ごめん、本当は昨日、襲われたの、今は陸軍の人と一緒だから大丈夫なんだけど…
ナディ:大丈夫?!その人って誰?男の人?
ライラ:ううん、マリサっていう女の人
ナディとライラの一連のやり取りを眺めていたヴォルターは舌を巻く思いだった。
(こうも自然な形にもっていけるだなんて……これなら奴らに監視されていても不審に思われないな……)
あくまでも個人的なやり取りして、けれどそこに真意を見せないよう巧みに言葉を選びながらなおもやり取りを続けた。
ここでライラから助けてほしいと、遠回しなメッセージが入ってくるようになった。
ライラ:でも、まだ怖い、狙われているような感じがして……
ライラ:厚生省の中にいるんだけど、ずっと誰かに見張られているような気がして
ライラ:気のせいかな?
ナディ:大丈夫だと思うよ、陸軍の人と一緒なんでしょ?
ライラ:うん、でも、できればクーラントさんも傍にいてほしかった
ライラ:昨日、その人に助けられたんだ、その時にね、奴らは味方だと思わせて隙を突いてくるから用心しろって
「……言ってないな。良く分かった、確かにこれはSOSのサインだ」
「ライラが陸軍にも狙われているってことですよね」
いつの間にかナディと密着するようにして携帯画面を見ていたヴォルターが慌てて距離を取った。
歳不相応に、毅然とした表情を見せたナディが言い切った。
「私が行きます」
「駄目だ」
「じゃあ誰が行くんですか?ヴォルターさんが行くんですか?行けるんですか?」
初めて名前呼びをされたヴォルターが少し面食らいながらも、強く否定した。
「お前な……確かに今のやり取りは大したもんだが、だからと言って陸軍を相手にだし抜けると思うなよ。下手すればお前だってどうなるか分かったもんじゃないんだ」
「責任と、その自覚が何より自分を成長させるものだと言いましたよね、今度は自分の身のために人任せにしろって言うんですか?」
「……………………」
ものの見事に言い負かされてしまったヴォルターは口を開けることすらできなかった。
「本当に困った事があれば助けてと言いますから、私に行かせてください」
「………分かった。だが、お前のことは見張らせてもらうぞ、俺たちが何にでもアクセスできるのは知っているな?」
「いいですよ、そっちの方が私も安心しますから」
「………」
そう言って、あとはすたすたと歩き出してしまったナディをヴォルターが慌てて止めに入った。
「待て待て待て待て、こっちにも準備ってもんがあるんだ。それにお前、まだ仕事が残っているんじゃないのか?」
「ああ、そうでした、何か水撒きをやるっぽいですね」
「水撒き?」
「はい、急に港中に水を撒けってピメリアさんから言われたらしくて……」
「まあいい、それが終わる頃にはこっちも用意ができている、連絡するまで待っていろ」
「分かりました」
ヴォルターとナディが泥縄の作戦会議を終えて別れた後、建物から課長たちが姿を見せ、その後ろにピメリアとグガランナ・ガイアも続いていた。どうやら総出でやるらしい水撒きが、早速各職場で開始された。
◇
オリーブに痛い目を見せられてしまった偵察班の班長は、何とか潜入した屋内でも同じ思いを味わっていた。
ユーサが所有している実験場はいくつか存在し、ジュヴキャッチのグループが潜入した実験場は港内の外れに位置していた。地上二階建て地下二階に及ぶコンクリート製の実験棟には、数種類の実験プールが用意されていた。建物の施工が終わった後に搬入されたプールは、近くに海があることから一階に設置された汲み上げポンプでプール内の水─と、言うより海水─を直接循環させるシステムを採用していた。
件のウイルスは一度プール内の水を排出し、一階に設置された耐水圧扉を開けて中に放り込み、そしてもう一度海水を海から直接投入していた。
ジュヴキャッチは一度、一階から遠隔操作によるドローンを忍び込ませたのだが、プールを大きく囲う布のせいで肝心のウイルスを視認することができなかった。このままでは引き下がれないと躍起になった偵察班が屋上の排気用ダクトからもう一度小型ドローンを侵入させてみたのだが...
[班長、どうしますか?野郎、綺麗に天辺まで隠していやがる……]
そこで見た景色は、一階と同様にわざわざ骨組みまで作ってプールの上から大きな布を被せていたのだ。これでは何も分からない、プール内にウイルスがいるのか、それともただのハッタリなのか...陸軍が明らかにジュヴキャッチを意識して対策を練っているのが見て取れた。
班長は歯噛みした、確証もない所に突入を命ずるわけにもいかず、かといって無手で帰るのも躊躇われた。
[別働班はどうだ]
[もう桟橋に着く頃かと──いやちょっと待ってください]
別働班との通信を担当していたメンバーが急に慌て出した、何事かと班長が見守るなか下を向いて頭痛に耐えていた男がすっと顔を上げた。
[ヤバいですよここの連中、どうやら港中に水を撒き始めたようです!]
[何ぃっ?]
[あの女、間違いなく俺たちがこうして潜入してくることを分かっている節があります、このままでは俺たちも──]
ジュヴキャッチのメンバーは大いに慌ててしまった。いくら光学迷彩とはいえ、水をかけられてしまえば即座に位置がバレてしまうからだ。そして、屋上から設備室に侵入した偵察班は階段を駆け上がってくる複数の足音を聞きつけ、さらにダクトから忍び込ませていたドローンの映像が途切れてしまった。
メンバーはやにわに室外へと走り出した、彼らと同様にコンクリートの壁に同化した光学迷彩ロープの下では、開発課の社員による水撒きが始められていた。これでは下りるに下りられない。
[──くそっ!ここの連中頭がおかしいんじゃないのかっ!何を呑気に水撒きなんかしているんだっ!]
地上では、ぶつぶつと文句を言いながら細身の男性たちが嫌そうに水をぶち撒けている。そして、後から陸軍の兵士も屋上に到着し、先頭に立った兵士にいたってはその手にホースが握られていた。
[──くそがっ!!]
勢いよく水を撒かれ、偵察班は間一髪のところで光学迷彩ロープにぶら下がることができた。
さらに、実験棟に一台のトラックが近づいてきた。大型の機材テストのために設けられた大扉の前にバックした状態でつけられ、中からフードを被せられたコンテナが搬出されている。おそらくあれが──そう思った班長は煮えくり返った腹を鎮めるために、バレるのも厭わず強かに壁を殴りつけた。
[──こちら偵察班!ハフアモアの居場所を特定した!外れの建物からトラックに乗せられている!こちらからは手が出せない!]
決して聞こえたわけではないが、鼻で笑われたような気がした。
[──ご苦労、あとは俺たちの仕事だ、頃合いを見て母艦に撤収せよ]
班長はもう一度壁を殴りつけた。
しかし、偵察班がやっとの思いで得られた情報も、別働班の報告によりその信憑性が一気に低下してしまうことになった。何故なら、その別働班も同様にハフアモアを発見したと報告したからだ。
別働班の侵入経路は造船課が所有している造船ドックからであり、建設途中の船の傍らに停められたトラックの列から一台が動き出したのだ。それも荷台に乗せたコンテナから水が溢れるところも目撃しているため、彼らはまず間違いなくあのトラックに乗せられていると踏んでいた。
別働班の班長は、インプラント経由ではなく肉声で会話をしながらそのトラックの跡を追いかけた。
「はっ!どうやらこっちが当たりのようだな!」
「さっさと現物を確認しましょうや!そうすりゃ俺たちが──」
造船ドックから続く道路の先、先日セントエルモのメンバーが調査船に乗り込んだ桟橋へと続いていた。その道すがら、道路の脇から直上に向かって水を撒く者がいた。綺麗な弧を描き、そしてそれに気づけなかったメンバーの一人が派手に水を被ってしまった。
「──っ!!」
連合長からの指示で、ただ水を撒いていた社員は目を白黒させていた。何も無い、と思っていた空間に人の形に濡れた何かが現れたからだ。
あとの出来事は一瞬だった。荷台に乗せられたコンテナの中から陸軍の兵士が現れ銃を構え、降伏勧告をする前に社員がジュヴキャッチに撃たれてしまったのだ。
社員は即死だった、頭に血が上ってしまったジュヴキャッチが民間人をその手にかけたのだ。
報復戦の始まりだった。
民間人を射殺したテロリストも眉間に一発貰い即死、その陸軍の兵士も他のテロリストから応射を見舞われ、ただ水が張られたコンテナの中に没してしまった。青く透明な水が次第に赤く染まりゆくなか、ようやく事の状況を理解した他の社員らがあっという間に駆け出していった。
「撃て撃て撃て撃てえっっ!!!」
味方を撃たれた者同士が銃を構えてトリガーを引く、その銃撃音は長らくウルフラグの国土で聞くことはなかった、確かに戦争の音だった。
造船ドックで社員がテロリストに殺された、という話は瞬く間に広まり港中の民間人がそれを知ることとなった。
水撒きをしていた社員たちは我先にと逃げ出すが、何処に行けば安全なのかまるで分からない。テロリストの襲撃がただの悪戯の類いではなく、現実に起こったと知るや否や港中がパニックに陥った。
「──くそっくそくそくそくそったれがあっっ!!!!」
テロリスト襲撃の報せを聞いたピメリアが、漁業課の船溜まりでこれでもかと吠え立てた。
「くそ共がっ!何故きちんと報告をしなかったんだっ!!」
「──ピメリアさんっ!ピメリアさんヤバいっスっ!すぐそこまで来ているらしいっス!」
桟橋の向こうから必死の形相でリッツが駆けて来た。リッツの呼びかけを無視したピメリアが、作戦を指揮しているナツメに電話をかけるが一向に繋がらない。
「ふざけるなよ──」
ピメリアが苛立ち紛れに吠えたと同時に、造船ドックの方角から爆発音が届いてきた。開発課の実験棟から聞こえてきた、気の抜けたような爆発ではなく、明らかに殺傷力を伴ったものだった。
ピメリアは焦った、どうすれば対処できるのか、どうすればこの混乱から回復できるのか、初めての事態に何から手をつければ良いのか分からずただ電話を繰り返しているばかりだった。二人の後ろを大勢の社員たちが駆けて行く、おそらく造船ドックから離れたいがために。その内の一人がピメリアを見かけて走り寄り、
「どうしてくれんだよっ!あんたのせいで社員が殺されちまったじゃねえかっ!」
「──お、落ち着いてっ!」
「あんたが余計な事をさせずに退避させていれば殺されずに済んだんだぞっ?!──何とか言えよっ!」
取り乱した社員がピメリアの胸ぐらを掴み揺さぶっている、面と向かって罵倒された連合長は何も言えず押し黙るしかなかった。
(私が悪いんじゃないっ!私はただっ──)
軍の指示に従い、そして大切な社員を一人失ってしまった。これは紛れもない事実であり、自分でも言い訳のしようがないと気づいた。
社員が何も言わない連合長を見放し、傍から離れていった。
「………ピメリアさん、今はとにかく皆んなの誘導を、」
「──うるさいなっ誰が私の言うことを聞くってんだよっ!!──失せろっ!!」
恐怖と混乱は容易に人へ伝播していく、我が身可愛さに取り乱し、いとも簡単に信頼関係をも壊していく。
それはまるで砂の上に築かれた城のようだ、心ない言葉が人を傷つけさらに伝播させ、城の土台もろとも破壊していく。
連合長の下についていた秘書官までもが離れ、一人桟橋に取り残されてしまった。それでも戦争の音は止まない、造船ドックのみならず開発課の実験棟がある方角からも銃撃音が響き始めた。
(あんなピメリアさん初めて見た…)
それも無理もないのかなと、リッツは思った。テロリストが港内に侵入していたのだ、退避予定の正午まであと一時間を切ったばかりである。リッツが聞いた限りでは、テロリストは禁止条約に含まれている光学迷彩を使用し、その特定に体良くユーサの社員が使われてしまったのではないかと、そう口にする話を耳に入れていた。
パニックなった社員らが食堂方面へ、ひいては駐車場へと逃げ出していた。この港から一刻も早く離れたいようだ、そんな大勢の社員の背中を見ながらリッツは己の無力感に打ちひしがれ、自身もなすがままに跡に続いていると、ぐいっ!と襟元を引っ張られてしまった。
「リッツ!何処へ行くのですか!」
「──グガランナっ?!また逃げ出したとばっかりに!」
「そんな事よりピメリアはどちらですか?!この騒動を早く鎮めなければ二次被害が発生してしまいます!」
「ピメリアさんはっ……今はそっとしておいてあげた方が……」
「何を馬鹿な事をっ……これだけ一斉に人が出払ってしまったら交通事故だって起きかねないのですよ?!駐車場を見てご覧なさいっ!」
先程までのポンコツ具合がなりを潜めているグガランナ・ガイアが、ぐぐいっとリッツを引っ張り駐車場の前まで連れて行った。そこでリッツは、我先にと逃げ出し、社員同士で罵り合う光景を目の当たりにしてしまった。
確かに、これではテロリストにではなく味方の車にいつはねられてもおかしくはない。
だが、どうすればいいのかとリッツが悩んだ。あの、これだけの荒くれ者を束ねていたあの連合長ですら取り乱していたのに、と。
半ば現実逃避に近い形で惚けていたリッツの頬をグガランナ・ガイアがぱしん!と平手打ちを見舞った。
「しっかりしなさいっ!ピメリアが動けないのならこの港を良く知るあなたが動かなければ事態は収集しませんっ!」
「でも─「でももへちまもありませんっ!いざという時まで人任せにしていたら後で必ず後悔しますよっ?!」
グガランナ・ガイアの叱責がリッツの胸を打った。男の子のような可憐な顔に決然とした力が宿り港内を見回した後こう言った。
「グガランナ!確かサーバーと繋がっているんだよね?!ここから港内放送に使われている機器にアクセスできる?!」
生まれて初めて人に、知識ではなく"マキナ"として頼られたグガランナ・ガイアが答えた。
「オフコースっ!!」
一方その頃、艦上警備に就いていた海軍所属の歩兵隊は激しい後悔に苛まれながら事態の収集にあたっていた。
テロリストと陸軍の火蓋を切るきっかけを作ってしまった彼らは、艦上警備を投げ出し造船課所有の船溜まりへと急行していた。テロリストの目標は、二つに分けられたウイルスの搬送トラックである、そしてそのうちの一つは未だに造船ドック付近でたたらを踏んでいた。
浅慮に過ぎたと言わざるを得ない、まさか水を被ったテロリストが逆上して民間人を射殺するとは思わなかった。
艦上警備隊が二分し、一方の隊が現場に到着した。そこには既に死体がいくつか転がっており、運転席近くにもテロリストと思しき死体もあった。フロントガラスは割られ、中にいたはずの運転手も姿が見えない。
「陸軍の援護に回れっ!これ以上戦火を広げるなっ!」
どこに隠れていたのか、次から次へとテロリストたちが港内に侵入してくる。コンテナに隠れていた陸軍の兵士も残り少ない、ギリギリの形で間に合ったと言えよう。警備隊を指揮する男が援護に入ろうとしたその時、
「──これ以上の戦闘はお控え下さい、ノヴァウイルスが目的ならどうぞ持っていって下さい。ただし、これ以上戦闘を続けるというのであればウイルスもろとも海の藻屑と変わることになるでしょう」
港内に設置されたスピーカーから良く通る女性の声が響き渡った。その放送を耳にしたテロリストが一瞬だけ動きを止め、だが、その隙を突いた者たちがいた。
「──馬鹿止めろっ!」
仲間を半数以上も殺されてしまった陸軍の歩兵部隊が、遠慮なくテロリストたちを射殺していった。先程の放送はテロリストと軍に対して行われた内容であるにも関わらず、激情していた陸軍の耳には届かなかったのだ。
テロリストからさらなる応酬が見舞われた。援護に入った艦上警備隊もその標的にされてしまい、せっかく戦闘行為を中止にできるきっかけをむざむざ手放すことになってしまった。
艦上警備隊も半ば引きずられるようにして参加する羽目になった、港内放送からなおも呼びかけが続けられている。
「ユーサ社員の皆様、どうか落ち着いてください、テロリストの目的はウイルスであって港を襲撃することではありません!繰り返します──」
この放送はもう一つの警備隊にも届いていた。実験棟に侵入したジュヴキャッチの偵察班と陸軍との間で戦闘が起こり、現場に到着した警備隊を指揮する副隊長は、テロリスト側の伏兵から狙撃されて銃口を構えることなくこの世を去っていた。
この事実が艦上警備隊らを激情へと駆り立て、放送は届いていたが誰も耳を傾けようとしなかった。
初めから実験棟に詰めていたオリーブもそうだった、頼りにしてはいないが上官であるナツメと連絡が取れずにいた、代わりの者を寄越すと言っていたがその者が一向に現れず、ただ追い返すつもりでいたオリーブの隊にテロリストが攻撃をしかけてきたのだ。
アサルトカービンから弾倉を抜き取り、素早く交換した。コッキングレバーを引いて次弾を装填したあたりで通信が入った。ナツメからではない、老齢を思わせる深い声をしている相手からだった。
[首尾は?]
[下手こいた、詫びのしようもない]
[昼時だというのに食べ物と言葉を間違えないあたり、相応下手をこいたようだな]
[それより何?今立て込んでるんだけど]
[訊かなくても分かる。折を見て撤退しろ、最悪コールダー家の一人娘さえ確保できれば良い]
[そっちはあの子に任せてあるから]
[そうか。それでは、恙無く]
通信が切れた。
ストックを鎖骨に当て、身を隠していた実験棟の壁から身を乗り出した。一瞬だけ視界に入った光景は、海軍の歩兵隊と挟み撃ちにあっているジュヴキャッチのメンバーだった。互いに負傷者を出している、幸いオリーブの部隊に脱落者はいないが、援護に入ってくれた海軍の歩兵隊に一人死亡者が出てしまっていた。
オリーブは強く歯を食いしばり、なるべく致命傷にならないよう弾丸を見舞った。これ以上、余計な死傷者を出したくなかったからだ。だが、ジュヴキャッチの一人が予期せぬ動きを取り、オリーブが放った弾丸が胸の辺りに被弾した。
(ああもうっ!こんなはずじゃっ!)
被弾した一人が崩れ落ち、その隙を突くようにしてオリーブの部隊が猛攻を仕掛けた。次々に倒れていくジュヴキャッチのメンバーたち、また一人、また一人と頭や胸を撃ち抜かれて絶命していく。
最後の一人になった時、食堂方面から鋼鉄の足で大地を踏み叩く音が聞こえてきた。指揮官専用のランドスーツ、それからその傍らには同型が二機追従していた。
(……今頃のこのことっ!)
味方を全滅させられたジュヴキャッチの一人が、敵前逃亡を果たそうと海へ駆け出した。「いい、そのまま逃げろ」とオリーブが念じるも、無慈悲な指揮官機が通常の三倍はあろうかというアサルトライフルを構え、走り出したテロリストにその銃口を合わせた。
トリガーを引く、弾は一発。一発と言えども使用されている弾丸は二〇ミリにも及ぶ"対強化外骨格弾"であり、人間が食らってよい弾のサイズではなかった。
まるで訓練の的のように撃たれたテロリストが見るも無残な姿に成り果て、人形のように吹き飛ばされながら絶命した。
「──ウイルスの死守、ご苦労だった。あとは私が預かろう」
「………そりゃどうも」
筋肉ウサギ、オリーブから見たランドスーツの印象だった。頭部にはセンサーの役目を果たす長い"耳"が二本、それから胸部にはシンクロ型操作用マニピュレーターの小さな腕が突き出し、脚部は柔軟性と対衝撃性を高めるため湾曲した造りになっていた。そしてお尻には丸い形をした外部バッテリーを装着しているので、どう見たってウサギにしか見えなかった。
ナツメが装着しているランドスーツを睥睨しながらオリーブが後方へ下がった。上官が言った通り、あとの面倒は自分たちで見るらしい。
身の丈三メートル近くはあるランドスーツ隊が、"当たり"であるトラックのコンテナへと近づいていった。簡単な作戦になるはずだった、動画配信をしたのもジュヴキャッチを惑わせるため、相手が混乱している間にウイルスを軍艦に乗せてしまえば──結果的にそうなったのだが、あまりに犠牲者を出し過ぎてしまった。
ランドスーツがトラックを押し進めていくのを、どこかぼんやりとした様子でオリーブが眺めていた。
「とうそう!」章
〔ガングニールがナディ、ライラをグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
〔ガングニールがメッセージの送信を取り消しました〕
〔ナディ、ライラがグループに参加しました〕
ライラ:何これ、というかガングニールって誰
ガングニール:オレだよオレ
ナディ:オレオレ詐欺みたい
ナディ:ガングニールは特個体のガングニールだよ
ライラ:は?
ライラ:何それ、本当なの?
ガングニール:お前さんの携帯、マリサという女に監視されているからな
ガングニール:このグループなら盗み見られる心配もない、何せこのオレが一から作ったんだからナ!
ナディ:今そっちに向かってるから
ナディ:待っててね
ナディ:(´-`)=3=3=3
ライラ:本当に?
ライラ:あのメッセで伝わったの?
ライラ:マジ相思相愛
ガングニール:ナディは運転中だ
ライラ:あとどれくらいで着きますか?
ガングニール:何故に敬語
ガングニール:タメ口で話してくれて構わないゾ
ライラ:いやだって、ガングニールってあのガングニールですよね、むしろタメ口いけるんですか
ガングニール:どのガングニールも皆んな同じコトを言うと思うゾ
ガングニール:あと半時間もすればそっちに着く、お前さんは今一人か?
ライラ:一人、でもたまに様子を見に来る
ライラ:マリサって人も特個体のパイロットなんですか?
ライラ:パイロットなの?
ガングニール:言い直すのカワよ
ガングニール:少なくともオレたちの仲間ではない、マリサというパイロットは聞いたこともねえな
ライラ:多分だけど、クーラントさんとのやり取りを見られてたっぽい
ライラ:ところでクーラントさんがラズグリーズの部隊に入ってたの知ってる?
ガングニール:知らんなぁ、初めて聞いた
ガングニール:あのオッサン、昔話は一切しないからなあ
ライラ:仲良くないの?
ガングニール:そうなるの?
ナディ:めっちゃやり取りしてる、未読数がハンパない
ナディ:外に出られる?
ガングニール:オッサンの許可がないと出られない
ナディ:いやガングニールではなく
ガングニール:主語って大切だぜ?
ライラ:ナディはいいの?ナディも危険な目にあうかもしれないんだよ
ナディ:平気
ライラ:ありがとう
ガングニール:市街地に入った、もうそろそろ着く
ガングニール:外に出られないか?
ナディ:今運転中
ガングニール:いやお前さんではなく
ナディ:主語って大切ですよ?
ライラ:何そのやり取りw
ライラ:聞いてみる
〔ガングニールがクランをグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
ナディ:謎の増員
ガングニー:いやお前さんは普通に喋ってくれてもいいんだぞ?
ナディ:ライラがかわいそう、一人ぼっちだから
ガングニー:優しい子ェ……
ライラ:駄目だって、それとしつこく理由を聞かれたから疑われてるっぽい
ライラ:何でクランまで誘ったの?
ガングニー:マリサに特攻仕掛けられてるからな、分散だよ分散
ガングニー:言っておくがこのグループ、民間のサーバーからかなり浮いてるからな?
ナディ:到着しますた
ライラ:お帰りなさいあなた!
ライラ:( ˊ̱˂˃ˋ̱ )∠chu!
ナディ:顔w
ナディ:こっからどうしよう?何か良い案ある?
ガングニー:警報鳴らすか
ガングニー:ちょっと待ってろ
ライラ:何かさっきから一文字減ってない?ルはどこにいったの
ガングニー:いちいち名前打つのメンドくさい
ライラ:特個体なのに手打ちw
ナディ:まさかの手打ちw
ガング:鳴らしたゾ
ライラ:わ、ほんとだ、うるさい、
ライラ:来た来た、部屋に入ってき
ガング:おーおー、陸軍の奴らが慌てていやがる
ガング:隙見て逃げ出してくれ
ナディ:それで大丈夫なの?
ガング:どのみち部屋ン中から出さないと合流もできないだろ
ライラ:どこ!クルマどこ!
ガング:逃げ出せたか?
ライラ:トイレの中!仮眠しつつから一番近いところ!男子トイレ!
ガング:考えたなぁ
ガング:位置把握しますた、防火扉おろすぞ
ガング:トイレを出て右手、非常用扉から出てくれ
ガング:建物のウラからぐるりと回ってこい
〔クランがグループに参加しました〕
ナディ:凄いタイミング
ナディ:やっほー
クラン:何事ですか
クラン:港の方は大丈夫なんですか?
ナディ:私が出た時はまだ大丈夫だったよ
クラン:?
クラン:外に出ているんですか?
ナディ:ライラきゅん
クラン:え、ほんと何事ですか
ガング:オレが説明しよう、ナディは運転中だ、そしてライラも車に乗っているゾ
〔クランがメッセージの送信を取り消しました〕
〔クランがメッセージの送信を取り消しました〕
〔クランがメッセージの送信を取り消しました〕
ガング:どんだけw
ガング:ゆっくりでいいゾ
クラン:初めまして、いつも先輩方がお世話になっています
ガング:何その親みたいな挨拶w
ライラ:クランをイジメるな!
ガング:すみません
ガング:飛ばせ飛ばせ!正門のおっちゃんなんか気にするな!
クラン:こちらこそ申し訳ありません、人見知りなので緊張しています
ガング:メッセージですら人見知りするって器用な奴だな
ライラ:クランは出勤してないの?
クラン:はい、今日はイベントに来ています
ライラ:何のイベント?
クラン:アニメ関係のイベントですね、即売会をやったりレイヤーの方が集まったりする
ガング:レイヤーって何?
クラン:コスプレイヤーの事です、アニメや漫画のキャラクターの衣装を着たり、そのキャラになりきったりする事です
ガング:層のことかと思った
ライラ:そっちのレイヤーじゃないから
ガング:ちょい待ち、奴ら追いかけて来てるな
ガング:そのイベントって何処でやってるんだ?
ライラ:行く気なの?
ガング:人混みに紛れて奴らを撒くしかない
ガング:空軍の基地に逃げ込めたらそれで良い
ガング:そこにもオレたちの本拠地がある
ライラ:クラン、場所を教えてくれる?
クラン:〔画像を送信しました〕
クラン:何かあったんですか?
ライラ:私が狙われてる、二人に助けてもらってる
ライラ:マジ感謝
クラン:え、警察に通報した方がいいのではありませんか
ライラ:狙ってるのが陸軍の人たちだから、私がコールダー家の人間だからだと思う
クラン:それが何か関係しているんですか?
ライラ:さあ、分かんない
〔ナディがジュディスをグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
ガング:何勝手に誘ってんの?
ナディ:どうせなら、誘われなかったって後で拗ねそう
ライラ:あり得るw
クラン:あり得ますw
ナディ:もう着くよ、駐車場ってあるの?
クラン:ないです、近くのコインパーキングに停めてください
ガング:乗り捨て推奨、そんな事やってる時間ないゾ
ライラ:いいの?
ガング:お前さんの保護が最優先だ
ガング:二つ先の信号左折、そこら辺りに停めても迷惑にならないだろ
ライラ:紳士な違法ドライバー
クラン:本当に大丈夫なんですか?ピメリアさんに連絡した方がいいんじゃないですか?
ガング:あっちは今大変な事になってる、オッサンも付きっきりだ
ライラ:もしかして本当にテロリストが襲ってきたの?
ガング:そうだ
ガング:オレたちがちょうど出た時に小競り合いがあったみたいだ
ガング:黙っていて済まない
ガング:すまない
〔クランが鷹の爪をグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
ガング:何故に誘うの
〔鷹の爪がグループに参加しました〕
ライラ:鷹の爪ってw
ナディ:鷹の爪ってw
鷹の爪:何だこのグループは、ホストは誰なんだ?
ガング:あいつら!信号無視しやがったぞ!せっかくイジったのに!
ガング:走れ走れ!
鷹の爪:何があったんだ?というかガングって誰なんだ?
クラン:ライラさんが陸軍の方に狙われているそうです
クラン:ガングさんとナディさんが助けに向かったそうです
クラン:ガングさんは私も知りません
ガング:オレだよオレ
鷹の爪:まさか特個体の?
ナディ:着いた!玩具入場パス!
ライラ:わたしたち盛ってない!
ガング:あいよ、そのまま通ってくれ
ライラ:でかした!後ろでひっかかってる
鷹の爪:陸軍に狙われているのは間違いないんだな?
ガング:間違いない、それからマリサは特個体としての能力も持っているようだ
ガング:奴の監視下から逃れるためにこのグループを作った
鷹の爪:分かった、私の方から抗議しよう
クラン:メインホールの外階段から上に
クラン:二階バルコニーの外れにレイヤーさんたちの更衣室がありますのでそちらへ!
鷹の爪:ガングニールとやら、お前は今どこにいる?
ガング:ここだゾ
ガング:オレたちは常にサーバーにいるから、何処という概念はない
鷹の爪:だったら港の応援もできたんじゃないのか?
ガング:あれについてはどうしようもない、誰にも予想できない事だ
ガング:どうしたってタイミングが悪く重なる時がある、お前さんのせいではないし、かといって誰かのせいにできるものでもない
ガング:そっちにはダンタリオンがついているから安心しろ、空母のウォーターカタパルトで待機しているはずだ
鷹の爪:分かった、お前の事は信用していいんだな?
ガング:お前さんが疑わない限りはな、ライラの保護が最優先事項だ
鷹の爪:分かった
鷹の爪:二人は無事か?
ナディ:更衣室なう
ライラ:参加者と間違われた
ライラ:マリサさんたちは近くにいないっぽい
ナディ:軍の人が来てるって言ってたよ
ナディ:騒ぎになってるっぽい
ガング:今別の車を向かわせているから待ってろ
ナディ:え!
ライラ:うそ!
クラン:何かあったんですか?
ガング:おい、二人とも
ガング:クラン、今すぐ更衣室に向かってくれ
クラン:わかまりたし!
ナディ:〔画像を送信しました〕
ライラ:〔画像を送信しました〕
ガング:ああ?何やってんの?
ガング:いや、このコスプレイヤー可愛いな……
ガング:カワよ、怒り泣きカワよ
〔ジュディスがグループに参加しました〕
ガング:凄いタイミングで入ってきたな
クラン:分かりました、お二人は無事です、いえ三人とも無事です
ガング:三人?
ガング:あ、そういうこと?このコスプレイヤー、ジュディスっていう子か!
ガング:後でフォローしておこう
ナディ:指舐めますかって言ったらめっちゃキレられたw
ライラ:ジュディ先輩かわw
ジュディス:さいあく
ジュディス:なんなの
ジュディス:ほんとなんなの
ジュディス:自害しそう
ジュディス:隠してたのに
ガング:隠す必要あるか?そんじゃそこらの芋よりお前さんが一番カワイイと思うゾ
ジュディス:あんただれ?というかこのグループ何、何で三人揃って更衣室にいんの、ワケワカメなんだけど
〔グループビデオ通話が開始されました〕
ガング:あ
〔通話が終了しました〕
ガング:今のでバレたな、マリサが更衣室に向かってる
ガング:今すぐ逃げろ!
鷹の爪:未読数ハンパない
鷹の爪:陸軍に苦情入れたぞ、今どうなってる?
ガング:グループ通話を使ってバレて逃走なう
ガング:コンテスト会場!
ガング:そこへ逃げ込め!
ジュディス:いやちょ
〔ガングニールがリッツ、ヴォルター、ホシ、グガランナ、ティアマト、ラハム、ハデスをグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
〔ガングニールがダンタリオンをグループに招待しました。招待中の友だちが参加するまでお待ちください〕
鷹の爪:誘い過ぎだろ
ガング:分散だよ分散
〔リッツ、グガランナがグループに参加しました〕
リッツ:何これ、何のグループ?
グガランナ:こういう形での対話も新鮮味があって良いですね
鷹の爪:さっきはすまなかった
鷹の爪:あの放送はナイスだ
リッツ:きちんと顔を見せてください、今どこですか?
リッツ:テロリストは一旦いなくなったそうです、今陸軍の人たちがウイルスを船に運んでいます
リッツ:ここに書いて良かったんですかね
ガング:大丈夫だ、ここのメッセージは外部に漏れない
鷹の爪:執務室にいる、今は陸軍に抗議しているところだ
鷹の爪:あのマリサがライラを付け狙っている、玩具とナディが救助に向かっている
鷹の爪:折り返しの電話が来れば私もそっちに行く
リッツ:頼みましたよ、私一人はキツいです
グガランナ:リッツはメッセージだと「っス」って言わないのですね
ライラ:それ私も思った、めっちゃ真面目に見える
リッツ:ナディちゃん、ロッカーには気をつけてね
ライラ:本当にすみませんでした
ナディ:どういう意味ですか?
ライラ:本当にすみませんでした
リッツ:名前を知りたくて日がなうろうろしている女の子がいるかもしれないって意味だよ
鷹の爪:そんな事より今どうなっている?
ガング:ジュディスが顔を真っ赤にしながら「爆ぜろ!」って演技してる
鷹の爪:そっちじゃない!
鷹の爪:マリサたちはどうしている!
クラン:観客席でこっちを睨んでいます、参加者以外立ち入り禁止なので
クラン:ジュディ先輩には制限時間を無視して演技してくださいって言ってあります
クラン:物凄くウケています
鷹の爪:だからそっちの報告は要らないんだよ!
〔ヴォルター、ダンタリオンがグループに参加しました〕
ヴォルター:首都防衛班から連絡があった、ライラに接触したグループがそっちに向かっているらしい
ヴォルター:お前たちは一体何をやっているんだ?
ダンタリオン:ガングニール、あなたの不手際ですよ
ガング:うっせえ!こんな所で文句言うんじゃねえ!
ガング:車が到着したぞ!会場の北出口の路肩に停めてある!
ガング:急げ!
ダンタリオン:駄目です、その車はもうマーキングされています
ダンタ:その会場のヘリポートへ向かってください、空軍に要請をかけて輸送ヘリを飛ばしてもらいます
ガング:もしかしてオレのせい?
ヴォルター:当たり前だ
ダンタ:当たり前です、無人で動く車なんて目立って仕方がありませんよ
ナディ:一位をかっさらったジュディ先輩やば
ライラ:すたんでぃんぐオベーション
クラン:あの表情は反則ですね
ジュディス:せめて表彰式までいたかった!
ジュディス:こんな事初めてなのに!
ガング:元はと言えばお前さんが勝手にグループ通話を始めたのが悪いんだからな?
ジュディス:いきなり巻き込まれたこっちの身にもなれ
ガング:すみません
ナディ:特個体にすら言い返す先輩やば
クラン:きた、きました!
リッツ:クランまでいるの?!
リッツ:早く逃げて!
ナディ:へりぽどっち
ガング:コンテスト会場の左手、エレベーターで最上階まで上がれ!そこから、
ダンタ:ホール内にジュヴキャッチを確認しました!
ダンタ:来るのが早い!
ジュディス:やばいやばい
ジュディス:なんとかして!
ジュディス:ライラが連れていかれた!
ヴォルター:どっちだ?!
ナディ:バーのマスター!
ジュディス:えうそでしょ
ナディ:テロリスト!ライラ!
ナディ:え、ちょ
ヴォルター:お前ら二人!アクセスして逃走ルートを遮断しろ!
ガング:もうやってる!
ダンタ:西側非常階段の監視カメラから確認、ライラ・コールダーとテロリストグループが一緒です!
ダンタ:陸軍が先回りして階段出口で待機!
ダンタ:さっきからアクセスを妨害しているのはこのマリサとかいう特個体か!
ダンタ:何て邪魔な!
〔¥$€2がマリサをグループに招た///グループに参加しました〕
マリサ:この辺で手打ちにしてもらえませんかね、こっちも何かと忙しいんですよ
マリサ:それに元から彼女に危害を加えるつもりはありませんから
鷹の爪:陸軍本部に問い合わせたが、お前さんの名前がなかったそうだ
鷹の爪:得体の知れない奴に大事な社員を預けられると思うか?
マリサ:どのみち、私たちが保護しなければ彼女はテロリストの手に渡ってしまいます
ガング:テメェらが余計な事するからこんなことになったんだろが!
ダンタ:人の身で我々の真似事なんかするから!
マリサ:レプリカ風情は黙っていてください
クラン:きゅうしうゅつ
クラン:救出
ナディ:玩具援護!
マリサ:は?
玩具:任された!
ヴォルター:何をやったんだ?!
ジュディス:えれべたは?
ダンタ:その通路をまっすぐ!左手に一基!もう呼んでありますのでそのまま乗ってください!
ナディ:でかさた
ヴォルター:どうなっている!救出とは何だ!
〔マリサがグループを退会しました〕
ナディ:乗った!そのあとは!
玩具:出て右に真っ直ぐ!屋上に上がる階段がある!
玩具:階段の踊り場をぜ///
ダンタ:まさか我々にまでハッ///
〔ガングニールとダンタリオンがグループを退会///#mgした〕
ヴォルター:どうなっている!
〔ホシがグループに参加しました〕
ホシ:ランドスーツを装着したテロリストが港に現れました
ホシ:それと、輸送ヘリがもう間なくそちらに到着するとのことです
ホシ:どうなっているのですか?
グガランナ:クランがライラを助け出しました、その後はエレベーターに乗ってヘリポートへ向かっているようですが連絡がありません
リッツ:クランが?!
リッツ:それほんとなの?!
ヴォルター:ライラがマリサとテロリストに狙われている、その救出を援護していた特個体の二機が急にグループを退会した
ヴォルター:お前の仕業か?
ホシ:まさか
ホシ:というかそんな大事になっているのに何故援護要請を出さなかたったのですか?
鷹の爪:だから陸軍にも狙われているって言ってるだろ!
ホシ:それよりもガングニールの出撃要請を視野に入れておいてください
ホシ:艦内は第二種戦闘配置命令が出ています
鷹の爪:お前ら、ほんといい加減にしろよ、何故私のところに連絡を寄越さない!
鷹の爪:手を切らせてもらう、ウイルスは全て解放する
ナディ:来ない!きたない!ヘリない!
ジュディス:早くしろ!みんな無事だから!
ヴォルター:ホシ!ヘリはまだか?!
ホシ:今市街地の上空です、もうすぐです
ライラ:やばいやばいやばい
ライラ:きたきた
ライラ:かくれるばしょないの
グガランナ:ヘリが到着するまで室外機の影に隠れてください!
クラン:銃声!
クラン:そっちやばいですよ!
ジュディス:こっちに来い!
ナディ:あともう一人入ってきた
鷹の爪:マリサか?!
グガランナ:ヘリの姿を監視カメラから捉えました!あと数刻です!持ち堪えて!
〔ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム、ラハム…がグループに参加しました〕
ラハム:ふんすなのです!
ヴォルター:誰でもいいどうなった?!
ナディ:ぶじ
ライラ:へり
ジュディス:衣装やぶれた
ジュディス:さいあく
ジュディス:下着まるだしで走ったの馬れて初めて
クラン:みんな無事です
ナディ:ラハムさんに助けてもらいました
ナディ:来た瞬間にふんす!ってやったらテロリストの人たちがぱたぱた倒れました、あとマリサさんも
鷹の爪:無事なんだな?!
ナディ:はい
ライラ:ありがとう
クラン:無事です
ジュディス:からだは無事だけど心が無事じゃない
ラハム:皆さんのお役に立てました!
ヴォルター:それならいい、良くやった
〔ヴォルター、ホシがグループを退会しました〕
リッツ:皆んなお疲れ!
リッツ:ピメリアさん、分かってますね
鷹の爪:ああ、すぐに合流しよう
鷹の爪:グガランナ、お前も頼りにしている
グガランナ:ふんすなのです!
ラハム:それはラハムの言葉です!
〔鷹の爪、リッツ、グガランナがグループを退会しました〕
〔ナディ、ライラ、クラン、ジュディス、ラハムがグループを退会しました〕
〔ティアマト、ハデスがグループに参加しました〕
〔ティアマト、ハデスがグループを退会しました〕
「自分で決めたこと」章
ライラの救出劇がひと段落し、一息を入れる暇もなくピメリアは生々しい傷跡が残る実験棟に足を運んでいた。テロリストや軍の兵士たちの亡骸も地面に横たわったままである、およそ民間人が見ても良い光景ではない。だが、ピメリアは慣れていた、"動かなくなった人間"というものに。
(あの頃を思い出すな……)
空の薬莢を踏みつけながら実験棟の一階大扉を開いた、潮風で痛んだ蝶番が耳障りな音を立てる。
(さっさと放流しよう、私の判断のミスだ)
二〇年程前にもピメリアは同じ光景を目にしていた。両国間の戦闘における死傷者数は数万人に達し、近年では類を見ない程の規模だった。
兵士、民間人を問わず沢山の死体の山が築かれた、築かれてしまった。そこにピメリアの家族も含まれている。
過去の記憶をあまり意識しないように、ピメリアが実験プールの制御盤の前に立った。室内でも小規模の戦闘があったようでいくらか薬莢が転がっている。それを足で払ってから、制御盤の「放水」ボタンに指をかけた。放水してしまえばプール底に溜まっている銀色の真珠たちも海へ帰ることになる、せっかく獲得した物ではあるが、これ以上ウイルスに執着するつもりはなかった。何せ、このウイルスを守る過程で社員の一人が命を失ってしまったのだ。いくら軍側にも説明責任を果たさなかった落ち度があるとはいえ、これ以上戦うつもりは毛頭なかった。
ボタンを押そうかという時に、スピーカー越しの声が響き渡りピメリアの耳にも届いてきた。
「そいつはちょっと待ってもらいたい、ユーサの連合長さんよ」
ピメリアが振り返った先にテロリストたちがいた、それもランドスーツに身を固めている部隊だ。
「ここに何があるのか知っているのか?」
慣れているピメリアは怯えることもなくそう聞き返していた。
「当たり前だ、それこそ俺たちが欲しているものだ。ハフアモアは単なるオマケにすぎん」
「ならば簡単な話だ、私と取引きをしろ。真珠を渡す代わりに社員には一切手を出さないと約束しろ」
民間人を相手にしているからか、声をかけてきたランドスーツの装着口が開いた。
「いいのか?俺たちと取引きをすれば罪に問われることになるぞ」
「いいさ、陸軍も海軍もあてにならない」
「──ふん、まあいいさ。で、俺たちはどうすればいい」
「社員の退避が完了するまで一切動くな。全員の退避が完了したら後は好きにしろ」
「そうやってボタンに指をかけたまま待っているつもりなのか?」
「当たり前だ。少しでもおかしな真似をしてみろ、プール内の水を全部海に放ってやる」
名にし負う鷹の目のような鋭さをもってピメリアがテロリストを睨みつけた、ランドスーツから降り立ったテロリストはふんと小さく鼻を鳴らしただけだった。
「ハフアモアは既に俺たちの手にある、あんたが眉間を撃ち抜かれるかのが先かボタンを押すのが先か、ここで賭けることだってできるんだ。自分が分の悪い駆け引きをして─「ごちゃごちゃとうるさいぞ、社員が退避した後なら好きにしろと言っただけだ」
「……………」
脅しが効かないと判断したテロリストは口を閉じた。彼も放流されてしまうのは望まない、他班へ実験棟に延びているパイプラインの割り出しと監視を命じ、ピメリアの条件を一旦飲むことにした。
「いいさ、好きにしろ」
ピメリアも携帯を取り出しリッツへ連絡を取った。
◇
「はあ?!テロリストと一緒にいるぅ?!何でそんな事になってるんスか!」
[仕方がないだろ、それより社員の退避を優先してくれ]
「今やってますけど……それよりピメリアさんは大丈夫なんスよね?」
[こいつらの良心に賭けるしかない、頭を撃たれたら亡くなった奴に謝りでも行くさ]
「あのねぇ…そういう事じゃないでしょ?連合長として責任を果たしてくださいって言ってるんスよ」
[まだ顔向けができん]
リッツはも抜けの殻になっていた食堂で待機していた、傍らにはグガランナ・ガイアもいる。他にはそれぞれの職場の課長や、逃げ遅れてしまった社員などでごった返していた。
造船ドック、それから実験棟で発生した戦闘は一旦幕引きとなり、陸軍主導の下運ばれていたトラックはテロリストのランドスーツ隊に襲撃されていたのだ。
陸の上において最強格であるランドスーツが敵に敗れてしまい、ウイルスも奪取されていた。
結果的に言えば作戦は失敗に終わっていた、頼みの綱である陸軍も撤収し、海軍もただ海の上に揺蕩っているだけだった。何が何やら...自分たちは助かったのかまだ脅威が残っているのか、リッツには判断できない事ばかりだった。
肝心の連合長だってまだ姿を見せない、かと思いきやまさかテロリストと睨み合いをしているだなんてさすがのリッツも呆れる他になかった。
(そんなに元気があるならこっちに来てよ!)
テロリストに襲われた一名を除いて、負傷した殆どの人が騒動が原因によるものだった。不幸中の幸いと言うべきか、それとも不運だったと言うべきか、実際にテロリストに襲われてしまったのはその人限りだ。
社員の半数近くが港から退避をし、残った者たちが順次駐車場へ向かうなか、正装姿のアリーシュが食堂に姿を現した。そのアリーシュは顔面蒼白であり今にも倒れそうなほど意気消沈としていた。
「……何と言えばいいのか──いや、今回の件はお詫びのしようもありません、こちら側の不手際で招いたことです」
リッツの友人としてではなく、アリーシュはいち軍人として謝罪にやって来たのだ。水撒きを提案したのが海軍ということもあり、アリーシュは大尉として責任を強く感じていた。
飲み友として仲良くなりつつはあるも、リッツとしてもそう簡単に許す気にはなれなかった。
「謝罪よりもまずは状況説明をしていただけませんか?こちらは何も知らされていないんス、これでは社員の皆さんが余計に不安になっていくだけっスよ」
砕けた口調ではなく、(リッツなりに)真面目な口調だったので、ほんの少しだけアリーシュは胸を撫で下ろしながら説明に入った。
「……はい。まず、今の状況としてはウイルスを奪取したテロリストグループが自分たちの母艦にユーサ港の船を使って運んでいます。艦上警備隊、ならびに陸軍歩兵部隊はアッシリア艦隊の副旗艦である軽空母級アッカーに集結して待機しています」
「陸軍の指揮官は?姿が見当たりませんが」
申し訳なさそうにしていたアリーシュが、さらに眉を曇天のように曇らせた。
「ナツメ・シュタウト少佐は行方が分かりません、テロリストグループのランドスーツ隊と戦闘になり、その後消息を絶っています」
「まさか………」
軍人らしく、アリーシュも非道なことを言い切った。
「まだ遺体は見つかっていません、死亡判定を下すにはまだ早すぎます」
リッツとアリーシュの会話を耳に入れていたカズが口を挟んできた。彼も先程までの騒動を少しでも抑えようと奔走しており、正午を少し過ぎた辺りでもう憔悴しきっていた。当然、言葉遣いは荒くなっていた。
「おいなあ、んなことより何でこんな事が起こったんだ?そっちの説明が先じゃねえのか、テメェらの不手際でこっちは一人死んでんだよ」
「………艦上警備に就いていた隊員の一人が、光学迷彩を使用しているテロリストグループを追い払うために水撒きをしてはどうかと……陸軍の方へ打診があったそうです」
カズは目の前にあった椅子をこれでもかと蹴り上げた、蹴られた椅子は勢いをもってアリーシュに当たり、喧騒に満ちていた食堂が一瞬で静まり返った。
「──テメェらが全部悪いんじゃねえかっ!!何でそんな危険な事を俺らにやらせたんだっ!!一般人を作戦に使って恥ずかしくねえのか何とか言ってみろやっ!!」
カズの剣幕は、ただそれだけで武器のようであった。さしもの軍人であるアリーシュも黙らざるを得なかった。
「……カズさん、スミス大尉を責めても仕方がないっスよ」
「ああっ?!テメェはこいつらの味方をするってのかっ?!どんな貸しを作ったらこんな人殺し連中の味方ができるってんだよっ!!」
「……貸しとか借りとか、今は関係ないっス、スミス大尉はただ説明をしてくれただけで……」
リッツの膝が細かく震えている、怒髪天を衝いたカズの前に立つのが怖いのだ。その事を理解したアリーシュはさらに申し訳なくなった。
ほんの一瞬、睨み合っていた二人の間に割って入る者がいた、黙って成り行きを見ていたグガランナ・ガイアである。
「よろしいですか、今は責任の所在よりも現状回復が急務かと思われます。幸い、テロリストグループはお目当ての物を手に入れて港内にいないのですから、今のうちに社員の方たちを誘導しましょう」
「んな正論言われなくったって」と、グガランナ・ガイアにさえ吠えようとしたカズの言葉に被せてこう言い切った。
「分かっているなら動きなさいっ!アリーシュも!こんな所で油を売ってないで海軍の人たちに要請をかけて誘導にあたらせなさい!後悔も反省もやるべき事をやってからにしなさい!」
グガランナ・ガイアから一喝を受けてしまったカズが勢いよく歩き出し、言われた通りに誘導のため表へ出て行った。
リッツがほうと息を吐いたのも束の間、今度は荒々しい足音を立てながら複数人のグループが食堂内に入ってきた。
そのグループが何者かすぐに分かったアリーシュが、カズに勝るとも劣らない剣幕を立てて噛み付いた。
「──貴様らっ!!ここが何処だか分かって──」
「動くなっ!……ただの人質だ、ハフアモアを回収するまでここを監視させてもらう」
先頭に立っていた男がそう発言し、アサルトライフルの銃口を構えた。他の男たちも食堂内で散り散りになり、残っていた社員や課長、それからグガランナ・ガイアにも銃を向けていた。
マキナであるが故に、事実上"死"という概念をもたないグガランナ・ガイアは当たり前のように声をかけていた。
「ご機嫌ようカウネナナイの人たち、あなた方はもうウイルスを回収したのではなくて?アリーシュからそう聞き及んでいますが」
「………」
声をかけられたテロリストはぴくりとも反応しない。
「……そうですか、対話を拒否されるのですね、残念です。では、こちらで調べさせていただきますね」
言うや否やグガランナ・ガイアが、テロリストを前にして目蓋を閉じてしまった。あまりに無防備かつ不用心ではあるが、マキナ故の行動でもあった。
すぐに調べがついたのか、グガランナ・ガイアが目蓋を閉じながら口を開いた。
「ウイルスを保管していた実験棟でピメリアとあなた方の仲間が一緒にいますね。プールの水を循環させる制御盤の前にピメリアが立っています」
実験棟内にある監視カメラの映像を取得したグガランナ・ガイアがそう説明し、マキナについて良く知らない、言うなればウルフラグ人は驚くばかりだった。リッツもピメリアからそう連絡をもらっていたが詳しい状況まで知らされていなかった。
マキナについても良く知るテロリスト、言うなればカウネナナイ人がマキナに話しかけた。
「時代遅れのマキナ、これ以上サーバーにアクセスするってんなら撃ち抜くぞ」
脅されてもやはり、グガランナ・ガイアは小揺るぎもしない。
「時代遅れとは何ですか、古巣にいるマキナの方が最新型とでも言いたいのですか?」
「変な真似をするなと言っているんだっ!」
「あなたも情報が欲しいのではなくて?見たところ、先程までの戦闘に参加されていないようですが……さしずめ他のグループに使われている口なのでしょう?」
グガランナ・ガイアが言った通り、食堂に現れたグループは見た目こそダイバースーツを着込み同じに見えるが、どこも汚れた様子がなく今来たばかりと言わんばかりの綺麗さだった。
自分たちの立ち位置を見抜かれ、カッと頭に血が上ったテロリストが銃声を一発轟かせた。食堂内にいた誰もが怯え身を隠すが、怒らせた本人はそれでも反応を示さなかった。
「黙れって言ってんのが聞こえないのかっ!」
「グガランナさん!これ以上刺激するのは止めてください!ここには民間人もいるのですよ?!」
「では、ここにいる民間人を解放してあげてくださいまし、どのみち彼らが退避を完了しなければウイルスはそちらの手に渡りませんよ」
「それはどういう──」
グガランナ・ガイアは監視カメラの映像からピメリアの唇の動きを読み、会話の内容まで把握していた。そしてそれを伝えようとした矢先、外から砲撃の音が響き渡ってきた。
方角は漁業課の船溜まりから、この場にいる誰もが予想外の音を耳にして慌ててしまった。民間人もテロリストも、自分たちが攻撃を受けたと勘違いをしたからだ。しかし、いつまで経っても着弾せず、さらにもう一発の砲撃音が轟いた。
あと少し、あと少しでテロリストと民間人の間に"和解"という橋渡しをできるかに思えたグガランナ・ガイアが、珍しく不愉快そうに眉を寄せた。
「余計な事を……」
窓際に駆け寄り外の状況を確認しているテロリストの一人が声を張り上げた。
「──船が攻撃を受けている!陸軍のランドスーツ!さっきの話は嘘だったんだなっ?!」
テロリストが見た限りでは陸軍の指揮官専用機のランドスーツが、どこから持ってきたのか対艦体長距離砲を海上で作業中の船舶に向かって放っているものだった。
食堂内が一瞬で緊張に支配される、互いに停戦状態であったはずなのに陸軍がジュヴキャッチに対して攻撃を開始したのだ。
また報復戦の始まりか、誰もがそう思いいや増して緊張感が高まっていくなか、グガランナ・ガイアがおかしなかけ言葉を放った。
「──ふんすなのですっ!!」
近くにいたテロリストが素早く反応──することができなかった、そのままぱたりと崩れ落ちてしまったからだ。見れば、食堂内にいた全てのテロリストが同様に地面に伏している。
「何をやったんだ──いい!それよりも早くここから避難を!港から一刻も早く退避してください!」
せっかく収まりかけていた混乱がぶり返す、食堂から、ロッカールームから、それぞれが隠れていた所から一斉に駐車場へ向けて残っていた社員たちが走り出していった。
食堂に残ったリッツがグガランナ・ガイアに尋ねた。
「何をやったの?それって確かあのグループメッセージでも言ってたやつだよね」
「彼らたちは頭の中にインプラントを埋め込んでいます。気絶を目的として、約二テラバイトに及ぶデータを無理やり送信してあげました」
「いや良く分かんないけど死んでないんだよね?またすぐ起き上がってくるんでしょ?だったら私たちも逃げないと!」
「ええそうです!今のうちに!」
今度こそがらんと誰もいなくなってしまった食堂を後にする間際、グガランナ・ガイアが実験棟にいるピメリアを監視カメラから確認した。そこでは、穴を穿たれた制御盤と慌てて駆けて行くランドスーツの部隊、ピメリアの姿は見当たらないが大方上手く逃げ出したのだろう。
とりあえずは胸を撫で下ろし、グガランナ・ガイアも仲が良くなった二人の背中を追いかけた。
◇
人の身では持てないランドスーツ専用の砲身を構え、シンクロ操作型マニュピレーター内で擬似的に再現された重たいトリガーをナツメが引いた。
直径五〇ミリにも及ぶ砲弾が、ランドスーツを着込んでもなお莫大な反動を伴い発射された。耳の聴覚はとっくにイカれている、それでもナツメは攻撃の手を緩めなかった。
(とっとと落ちろっ!!)
ナツメは躍起になっていた、己が指揮する作戦が失敗に終わりかけていたからだ。海軍の手にウイルスが渡るならまだしも、敵であるカウネナナイの手に渡ってしまうのならいっそのこと人もろとも破壊してしまえと、対艦体戦用に開発されたランドスーツ専用の移動式単装砲を持ち出していたのだ。
海軍、それからユーサの連合長からコールが入っているがそれらを無視してとにかく攻撃を続けた。どのみちこの作戦が終われば降格処分は免れないと、自分が取る行動でどれだけの人間に迷惑をかけているのか考えることもせず。
放った砲弾が船舶を掠めた、手動操作による照準補正も終わりいよいよという時に追従していたオリーブから通信が入った。
[別働隊を確認!こっちに来てますよ!数は四!どれもIFFが設定されていない国内品!]
「んな事は分かってるっ!お前の方で何とかしろっ!」
ナツメ同様、ランドスーツを装着したオリーブが離れた。ついで、造船ドックの方角から射撃音が届き間髪入れずにナツメの足元に被弾した。分が悪いにも程がある、それでもナツメはこの場から離れようとしなかった。
[何やってんの!もう限界でしょうが!]
「元はと言えばお前が余計な事をしたからだろう!こんな失敗が許されるものかっ!お前さえいなければ──」
胸部内に埋め込まれたコンソールにアラート表示が灯った、方角は造船ドックではない、実験棟がある方角だった。
激情に駆られ判断力を失っていたナツメは標的を船舶から、先程相対し敗北を喫してしまった部隊へその砲身を向けた。
"対艦体専用"である単装砲、条約により人間ならびにランドスーツを相手に使用することは固く禁じられている、それでもナツメがトリガーに指をかけた。
[そんな事やったら──]
「向こうも光学迷彩を使ったんだ!これでおあいこだっ!」
引いた、砲弾が食堂の前を通り過ぎて過たずテロリストのランドスーツに着弾した。砲弾を食らってしまったランドスーツは錐揉み回転をしながら後方へ吹き飛び、バウンドしながらようやく止まった。
快感だった、辛酸を舐められた相手を吹き飛ばすのはえも言われぬ快感があった。調子づいたナツメがさらに標的を絞ろうと──だが、ふいにランドスーツが動きを止め、それどころかバランスを崩してその場で膝をついてしまった。
「何だっ?!何が起こっているっ?!」
[アンチマテリアルライフル!海上から!何て命中力!]
ナツメのランドスーツの右脚部の大腿部、それから膝に一発ずつ、船溜まりから海上の船の距離は目算で一五〇〇メートルであり、アンチマテリアルライフルの最大射程距離だった。
動きを止めたナツメのランドスーツを敵が見逃すはずもなく、対ランドスーツ用のアサルトライフルが突風のように押し寄せてきた。
被弾、被弾、被弾。捲れ上がる装甲板は最早紙切れ同然、装甲板の下に張り巡らされた繊維式擬似筋肉も露わになり夥しい量の潤滑液が辺りに飛び散った。
ここでナツメの元に連絡が入る、無視することが許されない陸軍本部からのものだった。
[シュタウト少佐、ただちに撤退せよ。どうやら我々の内部もカウネナナイの毒が回っていたようだ]
(こんな時にっ!)
[オリーブ・ノア大尉、それから大尉の部下についてだが、経歴に詐称があることが認められた。彼女らは少なくともウルフラグの人間ではない]
(今さら何をっ──)
ふいにライフル弾の雨が止んだ、けれど着弾する豪雨の音は止んでいない。
ナツメの状況など気にかける様子もなく、陸軍の参謀を務める男が一方的に話を続けていた。
[ユーサ港の連合長から抗議があってな、どうやら君の下につけたオリーブ・ノアの配下がライラ・コールダーへ無理やり接触をはかったようだ。こちらとしても意図しないことであり──]ナツメの耳にはもう、出世をちらつかせるだけの男の言い訳は届いていなかった。
「……何をやっているだお前、お前にそんな事までされる筋合いはないはずだ」
ナツメのランドスーツにオリーブのランドスーツが覆い被さっていた、必滅の豪雨から守るように。ナツメは首が痛くなる程斜め上を見上げ、だが肝心のオリーブの姿は見えなかった。
[……ただの罪滅ぼしってやつですよ、このままはさすがに寝覚めが悪すぎるので]
「お前……お前……何がしたいんだっ?!私をからかったり迷惑かけたり庇ったりっ!自分勝手にも程があるだろっ!こんな守られ方をして私が喜ぶと思うかっ?!」
擬似筋肉の繊維が千切れていく音、派手に飛び散る潤滑液の音。それらの音に負けないよう、オリーブ・ノアが最後にこう言った。
[自分で決めたことだから!ナツメの気持ちなんて──]
姿勢制御すらできなくなったオリーブのランドスーツが後方へ吹き飛んでいった。まるで生身の人間が倒れたように湿った音を立て、それっきり静かになった。ナツメも、オリーブも、攻撃を続けていたテロリストのランドスーツ部隊も。
ナツメがそろりと姿勢を起こす、ランドスーツの腕から循環できずに澱んでいた液が飛び散る。辛うじて生き残っていた頭部カメラが、微動にしないテロリストのランドスーツを捉えていた。前方に展開している部隊はナツメではなく海へ視線が向けられている。
「………何だ──」
ナツメも視線をずらして海を見やる、そこには海中から奇妙な物が天へと伸びていた。さらにズームアップして確認してみれば、それは爪のようであった。船など一太刀で易々と切り裂ける大きさをしている、高さは優に五メートルは下るまい、それが音もなく振り下ろされた。
「何なんだあれは……」
五メートルを超す巨大な爪を振り下ろされた船はひとたまりもない、呆気なく切り裂かれ、船上にいる人もろとも海へと引きずり込めれていった。
ナツメの脳裏に、ここ最近になって発生していた海中の発光騒ぎが過ぎる。それと同時に、今の今まで呼びかけを散々無視してきた海軍へ連絡を取った。
「ナツメだ、見えているか……?あれは何なんだ……」
[こちらでも確認している、あれはタガメだよ、前回の作戦でも同様の生き物が海底に生息していた。大方、その親玉か何かだろう]
「たがめ……タガメ?」
理解が追いつかないらしい、しかしそれも無理もない。
どこか落ち着いた様子で受け答えをしていた軽空母の艦長、クルツの声に緊張が走った。
[──シュタウト少佐、あんたには色々と言いたいことがあるが今はとにかく逃げろ、襲われた船舶から無数の──港に向かっている?!いいから逃げろっ!]
言われるがままランドスーツの装着を解除した、地面に仰向けの状態で投げ出され強かに体を打ち付けてしまったが気にならなかった。
ランドスーツから這い出て海を見やれば、白く泡立った異質な波がこちらに押し寄せて来ていた。テロリストのランドスーツ部隊も異常事態に身動きが取れないでいる、その隙に抜け出しちらりとオリーブのランドスーツに視線を向けた。
「…………」
前後から射撃を見舞われたランドスーツはズタズタに破壊されていた、潤滑液に混じって赤い液体も滲み出しているのでおそらく...
背後からアサルトライフルの射撃音が聞こえてきた、けれど標的はナツメではなく海へ向けられているようだ。身も心もランドスーツと同じくらいに引き裂かれたナツメが、船溜まりからほうほうの体で逃げ出した。
◇
軽空母級アッカーのウォーターカタパルト内に海水が満たされていく、そのシークエンスを落ち着かない様子でホシが眺めていた。
ダンタリオンと接続したホシの視界は頭部のカメラアイと同期している、方角はさることながら高度、速度、レーダーも同時に表示されているため、ダンタリオンのコクピット内にコンソールの類いは一切なかった。
アッカーの艦長を務めるクルツ大尉から連絡が入った。
[ジュヴキャッチの母艦と思しき潜水艦がウイルスを収容して離脱を開始した。それから、収容作業を行なっていた船を襲った化け物もその跡に続いている。お前は奴らを追ってくれ]
「こっちは大丈夫なのですか?」
[空軍、それから陸軍に応援を要請しているところだ。何が起こるか分からん、用心してくれ]
海水に没したカタパルト内の水圧がわざと高められていく、ホシは素早く機体のチェックを済ませどこも浸水していない事を確認してから艦長へ報告した。
「オールグリーン、機体に異常なし」
[よろしい、では頼んだ。俺たちが海の藻屑になっていない事を祈っていてくれ]
クルツ艦長らしい掛け声を受け、ホシがダンタリオンを発進させた。うつ伏せの状態で固定されていた機体が水圧式のカタパルトに押され、まるで魚雷のように軽空母から解き放たれた。
初速は二〇ノット(一ノット=約一・八キロ)を超え、最大速度は三五ノットを優に超えていく。ダンタリオンの全長は約一〇メートル近くあり、総重量で言えば約四〇トン近くはある。そんな高重量かつ自動車と大して変わらないスピードで海中を進んでいくものだから、ダンタリオンが通った後の海水の流れはとても酷くなる。
W1型(水中戦仕様)に換装したダンタリオンがさらに速度を上げ、ウイルスを収容したジュヴキャッチの潜水艦を追従する。網膜に投影された位置情報によれば相対距離は約一〇キロメートル、あちらもダンタリオンと同様の速度でウルフラグの経済水域から離脱を試みようとしていた。しかし、あの異様な生命体の反応はない、レーダーが捉えられないのかはたまた擬態しているのか、事前に位置情報を確認できないためホシも接近を躊躇っていた。
水深計(現在の水深を示す値、一般的に特固体は深海域での活動ができない)に気を配りながら機体を進めていると、前方から何かが迫ってくるように見えた。その何かは海中に漂っているようで、約八〇キロ近くまで速度を上げているダンタリオンがその何かに突っ込んだ。
《何かが当たっている!ダンタリオン分かるかい?!》
《これは──真珠です!ユーサの皆さんが採取したあの銀色の真珠です!凄い数!》
ダンタリオンの装甲板に当たって散り散りになっていくものは、海底に沈んでいたはずの真珠だった。
《何だってこんな所に──いや、もしかして……》
ホシはようやく合点がいく、海中を漂う珊瑚の謎も解けた。
《船を襲ったあの生き物が海中を泳ぎ回っていたのか!海の発光騒ぎも──ああそうか、それで海の流れが乱れて珊瑚も海中を漂っていたことになるのか…》
《であれば、もしかしたらその未確認生物がウイルスを産み落とした可能性もあるのではないでしょうか、そしてそのウイルスからさらに微細なウイルスも産まれて……カウネナナイが"命の卵"と表現したことに関しても説明がつきます》
ダンタリオンの憶測は的を得ていると言っても良い─卵が先か鶏が先かという疑念は残るが─ここに来てようやく、海中で起こっていた異変を紐解く鍵を得られた。
潜水艦との距離が数キロ内に到着した時、ダンタリオンの水中航路より下方、深海域からぶわりと水の流れを感じ取った。四〇トン近い機体が上方へ持ち上がる程だ、違和感が危機感に変わり速度を緩めた途端、
《──ホシっ!!》
《──分かっている!!》
激しい気泡が舞い上がり視界を覆う海のカーテンに様変わり、ついで何かが猛スピードで深海から駆け上がってきた。すんでのところで何とか追突を躱すが機体のコントロールが上手くできない、乱れた水流にダンタリオンも同様にもっていかれそうになった。
《何が見えた!》
ホシはコントロールに手一杯、通り過ぎた生き物を視認することができなかった。
《──タガメです!ですが鯨と同じ形状をしていました!》
《くじらとは何だ分かるように説明しろっ!》
ダンタリオンが捉えた姿は全長二五メートル近く、上半身はタガメ、下半身は鯨のように長い胴体と尾鰭を有していた。さらに水中で機敏に動き回るための鰭が胴体に複数存在し、自由自在に動かしダンタリオンを凌ぐスピードで泳ぎ回っていた。
ホシはもうジュヴキャッチどころではなくなった、特固体の倍近くある巨大未確認生物の対応に頭がいっぱいになっていた。
《──来るぞっ!》
どうやら巨大未確認生物は標的を潜水艦からダンタリオンへ変えたようで、ぐるりと弧を描いて再び接近してきた。
水中戦仕様に換装しているダンタリオンのバックユニットの一部が展開、多弾頭魚雷の射出態勢に入るが計四門あるうちの二つが沈黙していた。
《さっきの突進でっ!駄目です無理に展開できません!》
《二つも使えたら十分だっ!》
浸水し機能が落ちてしまった二門は諦め、残りの二門から多弾頭魚雷を発射した。ダンタリオンの背中からぐるりと回り、かと思えばブースターが点火し四〇ノットを超す速度で巨大未確認生物へと進んでいった。
基となる魚雷からさらに個別の魚雷に別れ、(本来であれば)広い範囲に対して攻撃を行なう多弾頭魚雷が巨大未確認生物に炸裂した。予想外だったのか、それともMIRV(マーブ、個別誘導複数目標再突入体)を搭載した魚雷を知らなかっただけなのか、真正面から攻撃を受けた巨大未確認生物が堪らず進路を曲げ、ダンタリオンから遠ざかっていった。海中には銀色の破片がキラキラと舞っている、さしずめシルバー・スノウと言ったところか、ホシはそれに目もくれず逃げ出した巨大未確認生物の跡を追いかけた。
《ビーコン用意!》
《了解しました!》
この時、ダンタリオンが捉えていたジュヴキャッチの潜水艦がウルフラグの領海から離脱していた。どのみち、目の前にいる未確認生物の対処に必死だったのでそれどころではなかったが、ホシはすっかり頭から抜け落ちていた。
多弾頭魚雷を真正面から食らった未確認生物が進路を深海へと向け始めた、水深計にアラート表示が灯りこれ以上逃げ込まれたら不味いと、ホシが慌てて狙いをつけた。
《補正は任せたよ!》
《任されました!》
ダンタリオンから打ち出されたビーコンが巨大な尾鰭の先端に何とか付着し、レーダーにきちんと反映されているのを確認してから海上へ向けて進路をとった。
海中から空中へ、有人探査船と同様に重量調整のために溜め込んでいた海水を放出しながら、ダンタリオンが海から上昇した。W1型は水中戦仕様のため空中制御は著しく落ちてしまうが、それでも飛行することは可能だった。
高度を上げるにつれ、離れたユーサの港が点のように見え始めた時通信が入った。そのお相手は、海軍から応援要請を受けてスクランブル発進をした首都防衛航空飛行団第一飛行隊、リー・キング中佐が所属していた精鋭中の精鋭たちからだった。
(キング中佐がいたところか……)
通信を繋げる、自信に裏打ちされかつ決して驕りもしない誠実な声が届いてきた。
[こちら第一飛行隊、貴官らの情報提供に感謝する、港に現れた銀色のタガメはほぼ一掃した、それによる人的被害も今のところ確認されていない]
《被害者ゼロですか?》
[ランドスーツの中から女性の遺体を確認しただけだ、おそらくジュヴキャッチとの戦闘でそうなったのだろう]
《分かりました、ご助力ありがとうございます》
[セレンの英雄にそう言っていただけるなら幸いだ、我々も気を抜かずに精進しよう]
空軍の中にも彼らのように、皮肉合戦に興じない人たちもいる。久しぶりに空軍とまともな会話ができたなとホシは思い、いつもより速度が遅い機体を港へと向かわせた。
◇
ピメリアはもういっぱいいっぱいだった。
自身の不注意で社員一人の命を失ってしまい、罵られ、自分よりも遥かに強い相手と睨み合いを続け、放水ボタンを押して逃げ出して隠れ、命からがら撒いたかと思えば今度は大量のタガメが港に押し寄せてきたのだ。
せめてコア試料に含まれている真珠だけでも思い辿り着いたウェットラボでは、その真珠が数メートル規模にまで膨れ上がり、そしてその中から奴らが孵化しているところを目撃してしまった。幸い、ピメリアはタガメに気付かれていなかったのでそっと踵を返し、実験棟からまろび出て駐車場へと足を向けた。
罪悪感で胸が張り裂けそうだった、何も得られないどころか港も人も滅茶苦茶にされてしまい、皆に合わせる顔がなかった、一握りの責任感も粉微塵に砕けて逃げ出すことしか考えられなかった。
どれだけの人間が犠牲になってしまったのか、考えることすら恐ろしい。ただ、無我夢中で駆け込んだ駐車場には殆ど車がなかった、それだけが唯一の救いだった。
ピメリアは自分の車の前で座り込み、遠くから聞こえてくるジェットエンジンの音を耳に入れながら、ずっと俯きそして今に至る。
陸軍と、それから空軍の応援部隊が港に到着しすぐさまタガメの鎮圧にかかった。数こそ多いが単体では非力なようで、半時間も経たないうちに異形の侵略者を制圧したようだった。
ひっきりなしに鳴る携帯電話を億劫そうに取り出している、もしここでメッセージのバナーに目がいかなかったらピメリアは叩き壊すつもりでいた。「大丈夫ですか?!」と、ナディとライラからメッセージが届いていた。
(あぁ……私のせいなのにまだ心配してくれるのか……)
全ては自分が招き寄せたことだと、彼女にしては珍しく塞ぎ込んでいた。そんな状態の彼女に二人からのメッセージは、鋭い熱さをもって胸に刺さった。目頭から溢れる涙を無視できそうにない、それ程にありがたい気遣いだった。
(まだ…やれることはある…それぐらいはしなければ…)
粉微塵に砕けた責任感をかき集めて立ち上がった、そんな折、制圧と無事の確認が取れた空軍の部隊が港から離陸を始めた。
青と赤のカラーリング、それからモノアイ(単眼式カメラ)は真っ新な雲のように白く、背部の飛行ユニットはマニューバ優先のため、白い板切れのような物を装着しているだけだ。排気ノズルから排出されるアフターバーナーも小さく、まるで玩具のようにも見えた。
全六機の部隊が隊長機を先頭に、V字編隊を組んで颯爽と港から去っていった。届くはずはないと知りながらもピメリアが彼らに向かって手を上げている、港を救ってくれた人たちに感謝の気持ちを示したかったからだ。
陸軍の応援部隊が駐車場を借りて展開しており、戦闘後なのかいくらか汚れているランドスーツもいた。なかにはあのタガメを生捕りにした猛者も存在し、対ランドスーツ用に開発された捕縛ロープに包まれたタガメも数体ほど転がっていた。
ピメリアはそれに目もくれず、真っ直ぐにある人物の元へ歩みを進めていた。彼女同様、酷く憔悴し切った顔をしている本作戦の指揮官であるナツメだ。ピメリアに気付いて顔を上げるが、すぐに目を逸らしていた。
「……お前も随分と酷い目にあったようだな」
「……お互い様ではないのか」
「それもそうだ」
ナツメの身なりも酷いものだ、装着スーツは破れ流血もしている。とくに、右手は虫に刺されでもしたのか醜く膨らんでいた。
ナツメがその右手を庇いながらもう一度顔を上げた。
「今さらお前に下げる頭などない、独りよがりの指揮を取ってご覧の有り様だ。港への補填は本部がやる、そっちに苦情を言ってくれないか」
言葉遣いも酷いものだが、ピメリアはさして気にした様子を見せていない。
「だからお互い様だって言ってるだろ、私だって社員の皆んなに合わせる顔がない。私が出した指示のせいで一人死んでしまってるからな」
「………当てつけか?」
「違うさ、それよりお前の部下は大丈夫なのか?」
またナツメが視線を下げ、声を搾り出すようにして言った。
「……私を庇って死んだよ、さっき死亡が確認された」
「………そうか」
「分かるか?私の気持ちが………庇われて死なれたのは生まれて初めてだ、そんな出来た人間でもないのに何であんな事をやったんだ……」
ナツメはもうピメリアのことを見ていなかった、失った部下へのやるせない思いに翻弄されているのか、再び塞ぎ込んでしまった。
ナツメからそっと離れたピメリアが携帯を取り出し、人混みの中で電話をかけた。そしてすぐ真後ろで別の携帯電話が鳴り始めたので慌てて振り向くと、そこには眉をはの字にして立っているリッツがいた。傍らにはグガランナ・ガイアもいる。
「──ピメリアさんっ!良かった、無事だったんスねっ!」
だっとリッツが駆け出し、そのままの勢いでピメリアの胸に飛び込んできた。
「ああ良かったあっ!連絡が取れないからっ……どうしたものかとっ……」
胸に顔を埋めぎゅっと抱きしめてきたのも束の間、今度は眉を釣り上げピメリアを睨んできた。
「もうっ!無事なら無事って連絡くださいよっ!どれだけ心配かけたら気が済むんスかっ!」
「……悪かったよ。グガランナも悪かった」
「いいえ、私は気にしておりません。あなたなら必ず戻ってくると思っていましたから」
無事に再会を終えた三人に、強い太陽の光りが降り注いだ。
「ジュヴキャッチとマリサから逃げ切り空軍基地に逃げ込んだナディたち、初めて訪れる基地に目を白黒させながら係りの人の跡に付いて行き、案内された部屋で一息吐くもユーサ港が大挙として押し寄せてきた未確認生物から襲撃を受けていると報せを聞いて慌てながら知り合いへメッセージを送り、はたと思い出してピメリアにもメッセージを送り、何だかんだと無事に未確認生物を撃退とした報せを聞いて今度こそほっと胸を撫で下ろすと、港で別れたアキナミと他所の港へ視察に行っていたゴーダが案内された部屋に現れ、身元引き受け人だと言ったそばからアキナミが人の目も憚らずナディに抱きつきライラが剣呑な雰囲気を放ちつつも、「心配させてごめんね」とナディが優しく背中を撫でながらそう伝え、アキナミが「そんなにライラって子が大事なの?!」と修羅場確定弾を放ち、「た、ただの友達だから!」と誤解確定弾の応酬を終えたところで空軍基地の司令官であるリー・キング中佐が部屋に現れ、車椅子に座る中佐に皆が息を飲んでいる間に「すまないが、今回の騒動について後日事情聴取を行いたい」と中佐が発言し、「それがこの子らに対して言う事かっ!」と室内に雷が落ち、「誤解されては困るが我々は救助を目的とした組織ではない、コールダー家の者がいたからついでに助けたまでだ。礼には礼で返してもらいたい」と指揮官が静かに反論し、ナディとアキナミの事で頭も胸もいっぱいだったライラが「分かりました、私一人で十分ですよね」と何とか言い返し、「それでいい、すまないが我々も後がないんだ」と意味深な事を言うだけ言った中佐が部屋を後にし、修羅場になりかけていた部屋にもう本当に今度こそ弛緩した空気が流れたと思いきや、身元が分からず裸足で身なりも汚れていたため疑われて別室で身体検査を受けていたラハムが「改めまして!ラハムはラハムと申します!」と部屋に乱入し、「今はそういう空気じゃないからまた後でしなさい」と珍しく優しいジュディスがラハムを諭し、これ幸いとナディがラハムに構う振りをしてアキナミから逃げ「どうして私の居場所が分かったの?」と尋ね、「グループに招待していただけましたから詳しい場所が分かりました!」とラハムが元気良く答え、「グループに招待されなくても大体の場所が分かってたってことなの?」とジュディスが鋭い質問をし、「はい!ラハムはナディさんの為に尽くしたくて会いに来ました!」と誤解確定弾二発目が室内に発射され、さすがのクランも「節操なさすぎではありませんか」となかなか辛辣な突っ込みをナディに入れ、「違うから!そんなんじゃないから!」と否定するも「あの時ラハムを励ましてくれたナディさんのことが大好きになりました!たとえ嫌われようともこの決意は変わりません!」とプロポーズとも取れる言葉にさすがに皆がドン引きしたあたりでカズトヨがそろそろ帰ろうと促し、ラハムとアキナミにがっちりと挟まれたナディがライラを気にかけながらも部屋を後にし、遅れてやって来たそれぞれの家族が基地の入り口で皆んなを迎え、クランは泣き、ジュディスは一言も家族の者と言葉を交わさず車に乗り込み、ライラはもう怒りすぎてナディに一瞥もくれず別の車に乗り込み、まだがっちりと挟まれているナディは二人とカズトヨが運転する車に乗ってそれぞれ帰路につき、茜色がさし始めた太陽の光りを受けてようやく人心地がついたナディがうたた寝をして、気がついた時には自宅のマンション前、不安そうに立っていた妹であるフレアを見かけてナディが「げっ」と呻き、カズトヨにお礼を言いながら三人が揃って車から降りるや否やフレアが駆け出し「この人誰っ?!」と驚き、「まさか本当に画面から出てきたのっ?!」と少しだけ頭が弱い発言をしたフレアと一緒にナディが自宅へ戻り、そこではまるで犯罪者のようにあれやこれやとフレアから詰問を受け、「こっちは大変だったの!帰ってそうそう質問責めしてくるな!」と怒り、「こっちは物凄く心配してたんだよっ?!メッセージは返さないし連絡もしてくれないしっ!」とフレアも怒り始め、まるで水を得た魚ように得意げになっているアキナミが「まあまあ、無事だったんだから良かったじゃん」とお前は何様発言をしたところで頼んでもないのにお風呂の用意をしていたラハムがレストルームから顔を出し「お風呂の準備が出来ましたよ!」と声をかけ、我先にと走り出したナディが脱衣所に駆け込み服を脱ぎ散らかして湯船に浸かるなりこう言った」章
「………………疲れた、読む身にもなれっての」
「終」章
カウネナナイの国には五つの島嶼が存在し、またその島にはその島を支配している貴族が存在している。
ガルディア・ゼー・ラインバッハ王が住まう王都ルカナウア・カイから二日かけて歩みを進めれば、ハリエと呼ばれる島に到着することができる。王都とは海を挟んだ位置にあるハリエだが、ルカナウア・カイとは違いそこは貴族の位を剥奪されて没落してしまった元貴族の人間が数多く暮らしている場所だった。
場所柄、それと人柄の関係からハリエの島は決して景気が良くない。華やかな王都を目前としながら、そして華やかな暮らしぶりを知る人間が己の境遇や蹴落としてきた政敵を恨みながら過ごしているせいである。
しかし今日は違った、国外遊撃隊として"烙印"を押された男たちが吉報を届けてくれたからだ。最も大きい港を持つ町では皆が皆んな一様に喜び、なかにはまだ手に入れさせしていないハフアモアを狸の皮算用で返り咲くための道具として計画を立てている者さえいた。
そんな町の人の様子を眺めながら、フード付きの外套を羽織った女性が港の外れへと歩みを進めている。手にはパンパンに膨らんだ紙袋を抱えている、食べることが好きな隊長のために買ってきた物だ。
ハリエよりさらに船を漕いで到着するプロイの島が見える堤防では、一人の女性が釣りに興じていた。優しく吹く潮風に一本に束ねた長い金の髪が揺れ、海に垂らした釣り糸も寂しく煽られていた。
「隊長、調子はどうですか?」
外套を羽織った女性がそう声をかけ、堤防の上で胡座をかいて釣りをしていた女性が振り返った。
「──ん?ああ、お帰りマヤサ、町の様子はどうだった?」
「見てくださいよこれ、余所者の私にもこんなにオマケを付けてくれましたよ」
「それは良いね──あ、こら!それ私んだからね!」
堤防の下からひょこひょこと頭を突き出してきた人たちがいた。
「いいじゃないですか別に!アマンナ隊長の釣りが下手過ぎてこっちは腹ペコなんですよ!」
「何をう!私が悪いのか?!釣られない魚が悪いんだろ!」
「何ですかそれ、魚のせいにする人初めて見ましたよ」
「あーはいはい、皆んなの分もあるから隊長に迷惑かけないで」
「ほんとマリサはアマンナさんラブだよね、ちょっとはボクの愛にも気付いておくれよ」
「嫌」
「それよりオーディンの子飼いがノヴァウイルスを取ってきたって本当なの?」
「こら!隊長に向かって失礼でしょ!」
「そうだよ〜私があれこれやったからね〜これでようやくこっちのパワーバランスも保たれるってもんだよ」
「すみません…隊長…」
「何で謝るの」
「まさかあのタイミングでティアマト・カマリイの子機が乱入してくるとは夢にも思わなかったので……」
「マリサの悪いところだよね〜」
「……それを言うなら無理して接触した隊長だって悪いでしょう、あの時はほんと生きた心地がしなかったですよ」
「そんなに心配して、マリサ禿げるよ?」
「禿げるか!」
和気あいあいと、堤防では男女六人が町で売られていた食べ物を口にしている。その中心には、第一テンペスト・シリンダーの特別独立個体総解決機であるアマンナがいた。屈託のない笑顔で皆と語らいながら食事をしている、彼女にとってこの時間が何よりの楽しみだった。
「あの見取り図、隊長が渡した物なんでしょう?どうしてマクレガン家の長男は隊長に気がつかなかったんでしょうね」
「ううん、渡したのは私じゃない。あの白ひげ親父。ガイア・サーバーから枝付けたのは私だけど」
「ああ、デュークの人……」
「一応それとなくオリーブの実も置いていったんだけどね」
「そんなの誰が気づくんですか」
「辛辣ぅ〜」
「それと、ダンタリオンに強制介入もしましたよね?後始末大変だったんですからね」
「あれはしゃーないよ、だって海で泳ぎたかったんだもん。それにダンタリオンって扱いがちょー楽だし、基本パイロットラブの設定じゃん?」
「じゃん?じゃありませんよ、記憶の整合性も取らなくちゃいけなかったんですよ」
アマンナが自分の指についた調味料を舐めている、それをマリサが熱がこもった目でじっと見つめ、それに気付いたアマンナがこう声をかけた。
「舐めてみる?」
「今はいいです」
後ならいいんかーいとアマンナが突っ込みを入れると、彼女の下についている部下たちが声を上げて笑った。
男女六人が肩を並べて食事をしている堤防から程近い所に、ハリエの島を支配している貴族の館があった。
その貴族の名前はヴァイカウントの位を持つポリフォ・エノールだ。彼の質素な館には、カウネナナイ内で唯一「公爵」の位を持つ男と、五年前から政界に姿を見せるようになったバベルと呼ばれる男がいた。
ポリフォは卑屈に垂れ下がった眉を曇らせ、ちらりと相手を観察してからこう切り出した。
「……我々の遊撃隊が無事にハフアモアを持ち帰るそうです、もうお聞きになっているかもしれませんが…」
「悪い事は言わない、そのハフアモアは手放した方が良い」
そう、公爵とバベルはポリフォ、ひいてはハリエの人たちを説得するために訪れていた。威厳と深みのある声で公爵がそうポリフォに告げ、彼はいよいよをもって困り果てていた。
「そう言われましても……そもそも公爵様から持ちかけた話ではありませんか、ウルフラグ内にあるハフアモアを得るために協力しようと……」
「ま、今回のハフアモアは諦めるこった。こっちにも色々と手違いがあったんだよ」
バベルの雑な物言いに、普段は人の目を気にして小さく縮こまっているポリフォであったが、この時ばかりはさすがにバベルを睨みつけていた。
「……バベル様、それで納得できるハリエの人間はいません、きちんとした説明を求めます」
「良いのか?こちら側につくことになると思うが」
「…………」
公爵の言葉にポリフォが慌てて口をつぐんだ。
たっぷりと蓄えた髭を弄びながら、まるで子供の言い聞かせるように公爵が話し始めた。
「この国は荒んでいる、清き道を歩んで人々を導いていた君のような男がこんな辺境に飛ばされてしまうのだ、昔の威光はもはやない。代がわりをしたラインバッハ王も民はおろか家臣にも目もくれずにハフアモアに心を奪われている、いずれ反乱が起きるのもまず間違いはないだろう」
そこで一旦言葉を区切り、こう続けた。
「その時に一つの派閥として立ち上がるのが君の役目だよポリフォ・エノール子爵殿、今ここで件のウイ──失礼、ハフアモアの騒動に巻き込まれて足元をすくわれるのは良しとしない」
「…………はい、仰る通りかと……ですが、これでも私はこの島を預かる者です、町の者たちを納得させなければならない私の身を慮っていただけたら嬉しいのですが……」
ふむと、公爵が髭遊びを止めて隣に座っていたバベルについと視線を寄越した。
[どう思う]
[どうもこうもねえよ、あのウイルスは向こうのもんだろうが、間違いなく枝を付けているはずだ]
[コールダー家もろともこっちに引っ張りこめたら良かったのだが……いやはや、本当に戦場では何が起こるか分からんな]
[あんたがそれを言うのか?マキナを二分してしまっているのも原因だと思うがな]
[それに関して君には発言権はないと言ったはずだぞ。郷里に従え]
意趣返しのつもりでバベルが肉声を使って公爵にこう言った。
「んなことよりあんたの部下にもきちんと説明しといた方がいいんじゃないのか?頭まで撃ち抜かれて作戦を成功に導いたんだぞ」
「と、言いますと?」
「いや何、こちらの話だ、君が気にする必要はない」
「ま、ただの口封じだと思うがな。わざわざ死体の頭に穴まで空けて──おっと失礼、これは言い過ぎた」
公爵の涼やかな瞳がバベルにきつく向けられている、わざとらしく肩をすくめたバベルがようやく口を閉じた。
二人の会話についていけないポリフォが額の汗を拭い、親譲りの柔らかい髪を払ってからさらに話を続けた。
「今や、この国はハフアモアを有するか否かで立ち位置ががらりと変わってしまいます。ハリエに居を移した我々が王都に返り咲くにはやはり、マクレガンが持ち帰ったハフアモアが必要不可欠なのです。あれはまさに金のなる木、ウィッシュテクノロジーさえあれば爵位さえ買えてしまいます」
「そんな物で君は満足するというのかね」
「私、ではなくこの島の者たちが、です。プロイの輩もここ最近はおとなしいですが、次いつ攻めてくるのか分かったものではありません。ハフアモアは金のみならずここでの暮らしを安定させるためにも必要なのですよ」
だから我々は危険な橋を渡る決意をしたんだとポリフォが締め括り、手放すよう説得に来た二人がううむと黙ってしまった。ポリフォの固く、そして善からくる決意を知った二人がハフアモアを買い取らせてくれと提案してきた。
「………買い取る?ですか」
「ああ、あれを我々が保管し、卵が産まれたら率先してこの島に提供しよう。それからプロイの侵攻は私の部下に任せる。これで君の懸念は払拭されたとこになると思うが、どうかな」
主賓室─と、言っても少し調度品を置いているぐらいの部屋だが─の外から船の汽笛の音が届いてきた。原初の星と教えられている太陽も海に没し始めた時間だ、夏特有の暑い空気が外の喧騒と一緒に流れ込み、悩むポリフォの頬を撫でていった。
(何故そこまで手を貸すのか……この島にそこまでの旨みはないはず。それにバベルと言えば、五年前に王城から撤退したカルティアン家の跡取りに付いている……間違いなく裏があるに決まっている……だが…)
また何かの争いに巻き込まれていることは明白だった、プロイの侵攻をせき止めるだけの役割しかないハリエの島に公爵が手厚く保護をするなど、あまり考えられない話だった。
しかしだ、ポリフォにも島の人たちを守る義務と生活を豊かにしていく責任があった。
「………分かりました、公爵様がそこまで仰られるのなら……しかし──」
ポリフォの言葉を公爵がやんわりと遮った。
「分かっている、マクレガンには私の方から話をつけにいこう。その方が君も何かと顔が立ちやすくなるだろうからな」
「でもいいのか、あんたの立場でここまで面倒を見ても、周りの貴族連中からやっかまれるのはこの男だぞ?」
そりゃそうだとポリフォは口を開きかけて、ぐっと堪えた。バベルという男は常に飄々としており、かといって相手に心を許している気配はまるで感じられない、下手な事を言って隙を見せたくなかった。
公爵の位を持つ者だけが着用することを許されている、腰から下げているマントを払いながらその公爵が立ち上がった。
「──何のために君をここに呼んだと思っている、露払いぐらいはしてもらわねばな」
「はあ?それはあんたんトコの精鋭部隊が──」
「それはプロイの対応に就かせる。あれが可憐だからといって手を出すなよ、あれでも婚約者がいる身だからな」
「あんたも、俺なんかに任せていいのか?」
「──ハフアモアの知識をもたらしたバベル様がこの島に逗留してくださるのであれば、確かに我々ハリエの人間は霞んでしまうでしょう」
「そういう事だ」
「あーはいはい、やってやるよ。それよりこの島ってパブとかあるのか?」
「え、ええまあ…王都と比べたら質素ではありますが……」
公爵が退出した後も主賓室で(ろくでもない)会話が続けられており、その会話を耳に入れながら扉を閉じた。
ポリフォの館は町のど真ん中に位置し、これは権威を示すよりも町民とのやり取りを簡潔にするための狙いがあった。どこまでもポリフォ・ノエールという男は他人の事を考え、その善性は本来であれば王族が持つべき心構えであった。
公爵が歩く廊下からは錆びれた建物と、大勢の人間で賑わう港が見えていた。それらを横目に入れながら階段を降り、外で待機しているはずの部下へ連絡を取っている。
[アマンナ、この島に暫くの間滞在していろ]
[どれくらい?]
[次の国民投票が行われるまでの間だ]
[いやそれ実質無期限じゃん。ウイルスはもういいの?]
[暫くは良い、ハリエの島にハフアモアが渡ったという報せが何より重要だからな]
[ああそういう……]
[では、また何かあればすぐに連絡する]
[うぃー]
呑気な挨拶を聞き届けてから、公爵が通信を切った。
ジュヴキャッチのメンバーが乗る原子力潜水艦の中は、ハリエで彼らの到着を待つ人たちとは打って変わってとても静かだった。皆が一様に疲れ、狭い食堂内では誰も口を開こうとしなかった。一応、祝杯のつもりで手元に酒が置かれているが、同じく誰も口をつけようとしない。
潜水艦のブリッジでハリエの港とやり取りをしていたミガイが食堂に現れた、項垂れていたメンバーが顔を上げ、じっと彼の顔を見ていた。
「………んだよ、少しは喜んだらどうなんだ、辛気臭え」
そういう彼の心も気がくさくさとしていた、それを自覚していたミガイが仲間たちに八つ当たりをしている。
「……あれを見て喜べると思うのか?」
メンバーの一人がそう口にし、場の空気がさらに重たくなった。
「ハフアモアさえあれば、何でも夢が叶うなんて──誰が言ったんだそんな世迷言!!あれが星人様のお恵みだって言うのか?!」
特個体のパイロットであるホシが接敵していたあの異形の巨大生物を、彼らもまた見ていたのだ。奪取したハフアモアを潜水艦に収容していたグループにも死者が出ている、その事が彼らカウネナナイの人たちに何より深刻なダメージを与えていた。
生まれた時からそうだと教えられ、父母から"星人様のようになりなさい"と優しく諭されてきたその対象が、自分たち人間に牙を剥き襲いかかってきたのだ。今日まで培ってきた価値観も倫理観も全て、砂城のように崩壊し、足元から崩れていく感覚に彼らは囚われていた。
ミガイもそうであった。自身の根幹をなすイデオロギーに「疑い」が生じてしまうと、もう何をすれば良いのか全く分からなくなっていた。
総長のために用意されていた席にミガイが腰を下ろし、場に放たれて宙に浮いていた怒声の後を彼が引き取った。
「あれは星人様の恵みでもなんでもない、ただの化け物だ」
「なら!この船にあの化け物の卵が乗ってるっていうのか?!こんな事のために俺たちは命を懸けたわけじゃないんだぞっ!仲間が死んだんだぞっ?!敵の刃に倒れたんじゃない!虫ケラのように殺されたんだぞっ?!」
「──今さら無かったことにはできねえだろうがっ!!」
ミガイそう一喝し、仲間の無念の死に憤りを露わにしていたメンバーが口籠った。
「公爵様から提案があった、俺たちが奪ったハフアモアを買い取るんだそうだ」
「……買い取る?お前まさか、あの化け物について何も喋っていないのか?」
「元はと言えば公爵様からポリフォの旦那に転がり込んだ話だ。大方、ラインバッハ王の献上品にでもして自分の格を取り戻したいんだろうさ、あのじいさんも随分と側に追い込まれているからな」
ミガイは半ば、自身の中に渦巻く黒いもやから逃げるようにして、港とのやり取りをぺらぺらと喋っていた。そのミガイを責める、いいや責められる人間はこの場にはいない。皆が皆、星人様に対して疑いの眼差しを向けており、また得られたハフアモアも怖くて仕方がなかったからだ。
自分たちの苦労が徒労に終わらずに済んだと分かると、ようやくメンバーの間に安堵が生まれ始めた。公爵の持つ資産がどれ程のものかは知らないが、今回の働きに見合うだけの価値はあるはずだと、温くなった祝杯で乾いた喉を皆が潤していた。
──見ているよ、星人さまはずっとお前のことを見ているよ。
生まれた時から星人さまの元に帰るその日まで、じっと見ているよ。
悪いことをしていないか、良いことをしているか、決してウソはつけないからね。
だから、どんなに辛いことがあっても頑張りなさい、その健気な姿を見て星人さまは必ず応えてくれるから。
──けれどね、気をつけるんだよ、星人さまの加護はこの世界だけだから。
※文字数オーバーのため、後書きに足が出てしまいました。読みづらくで申し訳ありません。
次回 更新 2021/3/19 20:00 更新予定