第5話
.That is...
(痛かったなあ〜もう、あのおじいちゃん力強すぎ…)
整理整頓も終わってどうせ掃除しろって言われるのが目に見えていたから先に済ませたのに、何が気に入らなかったのか再び戻ってきたおじいちゃんが何度も私の背中を叩いてきたのだ、それも無言で、怖いったらない。そりゃ皆んな造船課に近付きたくないわけだ。
揺れるバスの車内には、私と同じ会社勤めを終えた人たちが沢山乗っていた。疲れた顔、嫌そうな顔、死んだ顔、皆んなそれぞれだけど抱えている気持ちはきっと同じ。
(ダッりい〜、だろうなあ……その気持ち良く分かる)
社会人になって半年しか経っていない私が言うのもおこがましいが、今ならここにいる全員と楽しく愚痴を言い合えるような気がした。それでも会社勤めを続ける理由は何だろうか、やっぱり人それぞれ違うのだろうか。家族のため、生活のため、欲しい物のため、中には働かなくても生活ができる人もいたりするのだろうか、何だそれ、考えただけで腹がたってきた。いや待てよ...私もそういう収入の得方をすればいいのでは?確か、ふ、不法?収入が何とかって...
ユーサ専用のバスは街のターミナルまでであり、その後はそれぞれの交通機関を使って家路につく。私が借りたワンルームマンションは、街の中心部からもう少し先にあるので市バスを使う必要があった。天辺が見えないぐらいに高いビル群の足元を抜けて、幹線道路から県道へ入ろうとバスがカーブを曲がった、大きく揺られた拍子に私の前に座っていた女性の足を踏んづけてしまった。
「あ、すみません」
「ったいなあ〜」
こっわ。黒い髪に毛先だけを真っ赤に染めた女性がこちらを睨みつけてきた。すると、
「ん?あんたもこっちなんだ」
「………」
「あのデッカい女は一緒じゃないの?」
(え?何で話しかけてくるのこの人)
まっっったく見覚えがない、それなのにこの女性は私のことを知っている素振りで話かけてきたではないか、都会怖い。何も言えずに黙っていた私を不審に思ったのか、ツートンカラーの女性がんんん?と下から覗き込んできた。
「何?何で黙ってんの?足踏んだこと気にしてんの?別にいいよ、職場の好みで忘れてあげる」
「え、あなたもユーサで働いているんですか?」
「停止するまで立たないでください」とアナウンスがあったそばから女性が勢いよく立ち声を張り上げた。
「はあ?!当たり前でしょ何言ってんの?!それに今日会ったばっかりじゃん!!」
「???」
「いやいやいやいや!あんたとデッカい女がうちらの所に来たでしょ?!造船課の船溜まり!」
「………?」
「はあっー!あったま来た!この私を覚えていないなんて説教してやる!付いて来て!」
「え?!あ!ちょ!私ここじゃありません!」
「いいから!」
えー!あと一つ向こうのバス停なのに!我が家がすぐ目の前にあるのに!
何を怒っているのかさっぱり分からない女性が私の腕を掴んでバスから引きずり下ろした、周りの乗客やバスの運転手から白い目で見られている、誰も助けてくれない、都会冷たい。それにこの女性を良く見てれば、下は会社指定のスカートを履いているではないか、上からすっぽりとサマーニットを着ていたので分からなかった。どうやらユーサで働いているという話は嘘ではないらしい。
「ちょちょちょ!どこに行くんですか?!」
バスから降り立った場所は「私もいつかはこんな所でご飯を食べたりするんだろうなあ」と、ぼけーっと眺めていたお洒落なお店が並ぶ通りだった。中心地から続いていた街の賑やかさとこれから向かう閑静な住宅地の狭間にあるような所だ。バスから降りても女性が腕を離してくれなかったので慌てて聞いてみると、
「今から行きつけのバーに連れてってあげる!こんなこと滅多にないんだから!」
えーやだあ!行きたくない!せっかく早く終わったから長めのバスタイムで携帯ゲームをしようと思っていたのに!働き始めてから全然ログインできていないしカムバックログインボーナスでウハウハ──え!本気で連れていくの?!
「あ!あ!思い出しました!あの人ですよね?!思い出しましたから離してください!」
「嘘つけえ!本人に向かってあの人って言う奴があるか!観念しろ!」
やだあ!
◇
「珍しいねえ、ジュディスちゃんが友達連れてくるなんて」
「いつものやつ二つ」
「その子ちゃんと成人してるの?」
「社会人になったら赤子も大人」
んなわけあるか!
「ち!違います!まだ未成年です!」
バーの人がケラケラ笑いながらコップを取り出した。
夜の繁華街を連れ回されて辿り着いたお店、もといバーは雑居ビルの地下にあった。華やいだ声に煙草の煙、雑多な音と匂いに包まれたこの通りはまだ私には早いようだった。場違い感がハンパない。案内されたバーもどこか薄汚れており、お客さんは一人もいなかった。通りから続いている階段の壁には古いポスターがきちっと並んで貼られており、入り口から店内にかけてグラデーションになるよう配置されているようだった。階段を下りた先にあるフロアには四つしかテーブルがなかった、そのテーブルの上には四季を表しているのか、季節毎にしか咲かない有名な花のオブジェクトが置かれていた。何気お洒落。
いつもの席なのか、それとも単にひまわりが好きなのか、一番奥にあるテーブルにジュディスと呼ばれた女性が先に座り、これ幸いと逃げ出そうとするとバーの人が早速コップ二つを持ってテーブルにやって来てしまった。
「あんたも早く座って」
無念。
「はあ……あの、そんなにお金持ってないですよ」
「私の奢り、有り難く飲んで」
「迷惑な……」
「ん゛?!」
「な、何でもないっす…」
「あははは!仲が良いみたいだね〜妬けちゃうな〜」
何言ってんだこの人。バーの人が上品にコップを置いてくれた、袖を捲った腕がとても筋肉質だったのでぎょっとしてしまった。
(だ、大丈夫かな〜途中で追い出されたりしないかな〜)
まさかこんな形でバーデビューするなんて...慣れない場所だし何だか落ち着かないし、斜向かいに座っているジュディスさんは涼しい顔をして既に飲んでるし。拭えない疎外感を感じながら私もコップに口をつけてちびりと飲んでみた。
「あ、美味しい」
ミルク?いつも飲んでいるミルクより甘味が強く、それでいてすうっと後味が引いていくのでとても飲みやすかった。私の感想を聞いたバーの人も嬉しそうにニッコリとしている。
「そりゃ良かった、それはカルーアミルクといってお酒をミルクで割ったものなんだ」
「お酒入っているじゃないですか!!」
私の突っ込みにゲラゲラとバーの人が笑い出した。
「嘘ウソ、それはノンアルコール!カルーアミルク風味のジュースだよ!」
ごめんね〜!とか軽い調子で謝りながらカウンターへと戻っていった、良かったお酒じゃなくて。
「はあ〜…それで、その、私に何か用事っすか」
漁についてあれやこれやと聞いてきた女性の口癖を真似してこっちから切り出した、とっとと終わらせてとっとと帰りたい。
「用事って、あんたが私のこと覚えていないかったからこんな事になったのよ?少しぐらい反省して」
「………ありがとっす」
「そうそうそれでいい。いい?私は造船課に最年少で入った秀才なの、天才じゃなくて秀才なの」
「天才なのにどうしてドックじゃなくて船溜まりにいたんすか」
「あそこはカズトヨさんに選ばれた人間にしか入れない神聖な場所だからよ、私のような秀才にも、いいや秀才だからこそ下積みが必要なの、だから船溜まりで仕事をしていたの」
「カズトヨって誰っすか?」
「はあ〜〜〜………これだから凡人は………」
溜息を吐いているジュディスさん、頭を振る度に柔らかそうな前髪が右に左に揺れている。
「ゴーダ・カズトヨ、あのウッズホールの最盛期を一人で支えた天才中の天才よ。政府がウッズホールを買収した真の目的がゴーダ・カズトヨを敵国に取られないためと言われているわ」
「凄いっすねー」
「そうよ、そして私はそこに自力で入ったの、今はまだ下積み中だけどいつか絶対カズトヨさんの隣で仕事をしてみせるんだから!」
かあん!とコップを叩きつけるように置き、「割ったら弁償だからねー」とバーの人が注意してきた。
「で、あんたは何でユーサに入ったの?」
自分のことをひとしきり喋り終えたのか、今度は私に話題を振ってきた。たった一杯、お酒を飲んだだけなのにもう頬に赤みがさしていた。
「え?私ですか?う〜ん……皆んなそうだったから……」
「はあ?何それ」
「地元で専門校に進学したのも仕事がしやすくなるかな〜って感じだったし、その専門校でも皆んなユーサを目指してから、みたいな?」
「勿体ない」
「え、何がですか?」
「あんた、自分の人生を何とも思ってないの?仕事って人生の大部分を占める重要なファクターじゃない、それをそんな適当に決めてしまうなんて勿体ないって思ったの」
「そう……言われたらそうなんですけど……先輩は船を作りたかったんですか?」
先輩、そう呼ばれて嬉しそうにしているのは気のせいだろうか。
「そうよ、でも今はあんたの話。何かやりたいってことってないの?」
「そんな、急に言われても……とくには……」
「安心しなさい、この私が相談に乗ってあげるから、何でも言ってみ」
どんと、自分の胸を叩いた。
「う〜ん……今すぐ帰って家でゆっくり「ん゛?!!」な、何でもないっす……」
やりたい事、か。そう改めて聞かれ、真っ先に思ったのが何も持っていない自分の薄っぺらさだった。楽しいと思えることや嬉しいと思うことは沢山ある、けれど特別に「これをやりたい」という気持ちがあまりなく、ただ毎日を幸せに過ごせたらそれで良いとしか思えなかった。地元の学校でも、先輩のように目的意識を持って日々励んでいる人は沢山いた、その人たちを眺めながら「何だか良いな」と他人事のように思って過ごしていた。自分の事について考えるのが苦手なのだ、結局最後は「自分なんて」と卑下する気持ちが出てきて嫌なり、蓋をして何もなかったことにする。そうやって今日まで生きてきた、そしてこれからもそうやって生きていくのだろうと、自分を卑下してしまう自信のなさでもそこだけは自信があった。
空になったコップを先輩が掲げ、バーの人に何か注文するのだろうと思って見ていると、そのカウンターの奥から何かが出てきた。
「わ、何か出てきた」
「ん?あんた、あれ知らないの?ポンコツ店員」
手のひらサイズのお人形さんがふよふよと浮いている、良く見てみれば足元に一枚のファンが付いていた。
「あれ、ドローンなんですか?」
そう言っている間にもポンコツ店員?がテーブルに近づいてくる、ここでは当たり前のシステムなのか、先輩もとくに驚いた様子を見せずメニュー表に視線を落としているだけだ。
「ゴ注文、何デショウカ」
「え!喋った!」
「いちいちうるさい、私もこいつと同じやつ」
「同ジヤツ。メニューニアリマセン」
「はーつっかえ…マスター?いい加減バージョンアップさせたらどうなの?」
「ああ!何やってるんですか!」
先輩がこともあろうに浮いていたお人形さんをぱしんと叩いたではないか、叩かれたお人形さんが一度地面に激突してから再びふわりと浮き上がった。
「それ、耐久性だけは折り紙付きだからね〜、ジュディスちゃんみたいな乱暴なお客さんがいなくなったら新しいのに替えるよ」
「ふん。カルーアミルク、これでいい?」
「カシコマリマシタ。オ客様ハ?」
「ん?」
「え?私?」
「あらら、叩かれてさすがに壊れちゃったかな」
先輩の方を向いていたお人形さんがくるんと向きを変えて私にも注文を取ってきた、じっとして注文を待っているようなので先輩と同じ物を頼むと、
「カシコマリマシタ」
「何よ、同じやつで通ったじゃない」
「ああ!また!駄目ですよ!」
一度目は通らなかったのにすんなりと注文が通ってしまった、それに怒った先輩が手を振り上げたので慌てて止めに入った。
「ナディちゃんが優しい子だからきっと素直に聞いてくれたんだね〜」
「ふん!どうせ叩いた弾みでバージョンアップされたんでしょ」
「何言ってんすか先輩」
今度は私に手を振り上げた!
「ど、どこがポンコツなんですか!優秀じゃないですか!」
先輩の痛くない猛攻を防ぎながらさっきのお人形さんについて聞いてみると、普段は一方通行のやり取りしかできないらしいのだ。
「あのAIは決められたやり取りしか出来ないように設定されてるの!それなのにあんたにも注文を取ったから驚いたの!」
「痛い痛い!だったら同じやつって注文した先輩がおかしいんじゃないですか!」
「私ぐらいならあれで通って当たり前なの!」
意味が分からない!
先輩と二人、ぎゃあぎゃあ騒いでいるとバーの人が新しいコップを持ってきてくれた、先輩とお揃いのカルーアミルクだ。そして、それに一口付けて落ち着くと、店内に新しいお客さんが入ってきた。地上にある扉が開き、複数の足音が階段を下りてくる、ちびちびと飲んでいた先輩も入り口の方へしきりに視線を送っていた。
「珍しい、こんな所に客が来るなんて」
「いや私たちも客……」
見るのは失礼かなと思いながら私も視線を向けると...
「…………」
(俳優っぽい)
四人組みの男性、その先頭を歩いていた男の人とほんの一瞬だけ、時間にして一秒もない、目が合ってしまった。澄んだ茶色の瞳は切れ長で、私と同じ黒い前髪の隙間からそれが見えた。すっと高い鼻に真一文字に閉じられた口元、どこか不機嫌なようにも見えるけど、何か考え事をしているようにも見て取れる、そんな男の人だった。つまり格好良い、あんな人そうそう見られるものではなかった。バーの人に軽く挨拶をして、カウンターの奥へと四人が姿を消してしまった。
「何だ、ここにもプライベートボックスがあったのね。マスター、いつか私たちも入れてね」
「その機会があればね。はいこれサービス、あのお客さんは僕の友達でね、少しの間席を外すから」
ごゆっくり〜と気さくに挨拶をしながらバーの人もカウンターの奥へと消えていった。
「これ飲んだら次行くわよ」
「え、まだ行くんですか?」
「当たり前、この私が誰かを誘うだなんて滅多にないんだから、光栄に思って」
「そ、その前にトイレに行っても………」
何故だろうか、急に催してきたので席を立とうとすると────「ちょ!何やってんの?!」体中の力が抜けたかと思えば、薄汚れた天井が目の前にあって、お酒とミルクの甘い匂いに包まれながら意識を失ってしまった。
✳︎
《おいオッサン、国内の観測所を調べてみたがどうやら黒っぽいぞ》
《いちいち言うな、俺も見ていたから分かっている》
双眼式のルーターを外して視界をシャットアウトさせた、目蓋を閉じた時とは違う暗闇に支配され、擬似的に再現された眼の疲れを解した。眼鏡と似たようなものだ、特個体と接続を果たすために装着したこの義眼レンズは、簡単に取っ替え引っ替えが可能である。生身の人間は眼鏡の度が合わなくなれば買い替えるように、俺の場合は「眼」そのものを取り替えることが出来た。
視界を復帰させてモニターに映し出された閲覧履歴を見やる、ウルフラグ国内に置かれた気象庁管轄の各観測所の結果がずらりと並んでいた。
《ダンタリオンの言う通り、ここ最近の水位に異変があるみたいだな。各観測所のデータを統合すれば国内の水位は凡そプラスマイナスゼロだが、グガランナ・ガイアが指定したポイント周辺の水位がガタガタだ》
《つまり、奴の言う通り海中に何かしら潜んでいるということか?》
双眼式以外にも旧来のアクセス機器が並んでいる、キーボード、マウス、タブレット、それらが並べられたデスクの上は散らかり煙草の灰でいくらか汚れていた。冷め切ったインスタントコーヒーで喉を潤し、「室内禁煙」と書かれたプレートを眺めながら煙草を取り出した。
《だろうな、詳しい位置までは特定出来ないが……ウイルスが水位に影響を与えるってのは何なんだ?》
煙草の吸い過ぎで舌が痺れている、不味いコーヒーも飲んだせいで味が酷いことになっていた。
《生物学でいう病原体をさしているようではなさそうだな……まあ、ここがそのテンペスト何たらと仮定するならば、ウイルスとしての働きはもうこなしているという事になるだろうが……》
《オッサンはその話どう解釈している?》
《ただの与太話》
《にしてもだ、こうも状況が変わりつつあるんなら……》
《下らない、古文書の解読なら文化省にでもさせておけ。何なら今からサーバーにアクセスしてみるか?》
《自殺したいんなら一人でやってくれ、許可無く覗き見したら脳が焼き切れるだろうが》
特個体のシステムは厳重に管理されている、個人の端末から企業の管理サーバーに至るまで特個体を対象にしたファイヤーウォールが敷かれており、許可なくアクセスすればその場でお陀仏、気象庁のサーバーにアクセス出来たのも局長が手を回してくれたお陰だ。
大して美味くもない煙草を揉み消し席を立った、ガングニールのアクセス能力を唯一行使できる特別機器管理室の扉を開けて外に出る、薄暗い部屋にいたせいもあり無機質な蛍光灯の光りが視界を襲ってきた。
《どこに行くんだ、まだ仕事は終わってねえぞ》
《ホシの報告を待つ。海軍に話をつけに行っているからな、奴らも何かしら異変を察知しているかもしれない、していないならそれまでの話だ》
《ほんと、寸前になるといきなり及び腰になるのな》
《生き残る知恵というやつだ、戦場を知らないお前に分かるはずもない》
返事はなかった。
✳︎
「………」
「………」
「………」
「何か?」
「あ、いえ、先程は笑ってしまい申し訳ありませんでした」
「いえ」
「………」
「………」
重い空気の中、僕は助手席にスミス大尉を乗せて首都方面へと車を走らせていた。何故かって?大佐に頼まれたからだ。
『すまんが運んでやってくれ、お前のような無害な奴であればあいつも慣れるだろうさ!』
何に?
(はあ〜…好かれるのも良し悪しだな〜…まあ、結果的に協力を取り付けられたからいいけどさ)
どうせ向こうに帰るなら部下も乗せてやってくれ、という事だ。スミス大尉も嫌なら嫌と言えばいいものを、「はっ!」の一言で受諾したものだからこうして乗せる羽目になってしまった。けれど、数々の海底調査手段を持つ海軍の協力を得られたのはとても大きい、海底探査機ならユーサも所有しているが有事に対応するだけの手段はない。ウィルスがどのようなものなのか未だ判明していないので、海軍が持つ力はとても頼りになった。
日中の間垂れ込めていた雲も払われ、夜空には月が昇っていた。グガランナ・ガイアからもたらされたこの世界の成り立ちについてハンドルを握りながら考えてみるが、やはり拒否感が先に来てしまった。この世界があと十一個もあると言われても、理解が及ぶより先に「そんな馬鹿な話が」と思ってしまう。
髪の毛を下ろしてラフな服装をしているスミス大尉はずっと窓の向こうに視線を向けており、一言も発しようとしない。けれど、さすがに到着するまでの間このままではいけないと思い、緊張しながらも声をかけた。
「スミス大尉は古文書について考えた事はありますか?」
すぐに返事があった、けれど声音は冷たい。
「どの部分をですか?」
「あー…最後の一文について、ですかね、謎かけとして終わっていますよね」
「神々が神になったという部分ですか?」
「そうです、矛盾していると思いませんか?神々と表記していながらそのあとに神になったのであれば、神々が神ではなかったことになりますよね」
「そこまで考えた事がありません、そういうものだという認識に留めています」
「あ、そうですか……」
軍港周辺の山道から市街地に差しかかる、緩やかな坂道を上るために少しだけアクセルを吹かし、静かな車内にエンジン音が届いてきた。
(あー……何を喋ればいいんだろう…)
そんな折、携帯電話に着信が入った。あ、そうだ、忘れていたよと思い出し、しかし車内には自分以外の人も乗っているので慌ててダンタリオンを呼び出した。
《なあにぃ?私に口説き方でも教わろうって?その前にあなたを口説きたいわ》
《ごめんね、悪いんだけど僕の携帯に繋げてくれるかな?電話がかかってきているんだ》
《まさか、女?》
《違うよ、仕事の話だよ》
返事はなく、そのまま携帯電話に繋がってくれたようだ。その相手は予想通りの人で、元気の良い声が耳元に直接届いてきた。
[もしもしー!リッツ・アーチーっス!お電話いいっスか?]
《はい、大丈夫です。先程も失礼致しました》
[いやいや別に…ん?何か変な音がしまスね、もしかして運転中っスか?]
特個体のシステムに電話を繋げて会話しているのでノイズか何かが聞こえてしまっているのだろう、こういう言い方はあれだがダンタリオンはとても便利である《邪魔しちゃうわよ〜?》
[ん?!今の誰っスか?!]
《い、いえいえ!その、今隣に乗っている人がいまして!その人も電話してまして!》
ダンタリオン!どうして邪魔するんだ!慌てて言い訳をするがアーチーさんの声音に変化があった。
[あ、そうっスよね、ヒイラギさんもお忙しいっスよね、日に何度も電話してすんません]
《いや、いやいや!そ、それでご用件は?》
[そのっスね、今日決算報告会があったんスけど他の人たちからも異変があるという報告がありまして、それで連合長の方からもう一度詳しく話を聞きたいって言われてるんスよ]
「さっきの話なのですが、」
「は、はい?!」
「古文書について詳しく調べている友人がいまして、良ければお会いになられますか?」
こんな時にどうして話かけてくるんだ!さっきまであんなに黙っていたのに!
[ヒイラギさん?]
「あ、はい!すみません!ちょっと電波が乱れていまして!」
「はい?」
ああ!!口で答えてしまった!!
《予定を確認して折り返しますね!すみません!バタバタしてしまって!》
[あ、はい、よろしくお願いしまス]
どこか他人行儀に感じられる冷たさを放ちながらアーチーさんが電話を切り、ひと段落ついた。
「すみません、電話していまして……」
「電話?」
「あ、その、イヤホンで通話をしようと思ったのですが」
「………」
いやいやいやいや!どうして体を近付けてくるんだ?!運転中ということもあり直に見て確認はできないが、すぐ隣にスミス大尉の気配を感じ、そしてシャワーでも浴びたのか石鹸のとても良い匂いがふわりと漂ってきた。
(この人の距離感が分からない!)
「付けているようには見えませんが…」
「は、反対側につけておりますので…」
この後、ドキドキしながら、ダンタリオンにからかわれながら車を飛ばし、何とか目的地に辿り着いた。
◇
「どうした、リヒテン指揮官に嫌味でも言われてきたのか?」
「……いえ、大丈夫です」
良く無事だったものだ、いつ事故を起こしても不思議ではなかった。
《感謝おし、このあたしが事故を起こさないよう見張っていたからあんたが無事だったんだ、こんな事は滅多にないよ》
しわがれた老婆の声でダンタリオンがそう釘をさしてきた、いや、元はと言えばダンタリオンが余計な邪魔をしてきたから《邪魔とは何さね、要らん虫が付かないようにしただけさね》
「はあ〜……」
保証局の建物内にある、誰もいない喫食スペースでヴォルターさんと向かい合わせで腰を落ち着けていた。古い建物ということもあり、スペースの壁は煙草の煙で薄らと黄ばんでいる、テーブルの上には飲み物と軽食が並べられており驚いた事にヴォルターさんが用意してくれたものだった。
食べ物の封を開けながら海軍の協力を得られた件について報告した。
「アッシリア艦隊所属の護衛隊を一部回してもらえることになりました、指揮を担当するのはアリーシュ・スミス大尉です。出動はこちらの都合に合わせてくれるそうです」
「尉官が指揮を担当するのか?」
「そこらへんの人選については良く分かっておりません、出してくれるだけで御の字と思っていますから」
「そりゃそうだ。他には?」
「数日前に機雷処理の任務を担当した部隊が、海中に珊瑚が漂っているのを発見したそうです、それも機雷を処理する前から、海域はユーサ港に近い所です」
「ふむ……今し方、ガングニールと気象庁の管理サーバーにアクセスしたんだがな、首都近海の水位に異常があることを認めた」
「国土交通省が良く許可をしましたね。それと、海底探査機に搭乗していた上等兵が沖合にコントロールを奪われるとも言っていました」
「沖合に?それは何故だ?」
「詳しく聞いたわけではありませんが、とにかく当日は艦艇にしろ探査機にしろコントロールが難しかったと言っていました。波も穏やかで風も決して強くなかったはずなのにと」
「………」
考え事をしているのか、眉間にしわを寄せたヴォルターさんがポケットから煙草を取り出し、はたと気付いてテーブルの上に煙草を投げた。ここは禁煙だ、けれど僕しかいないのだからいいだろうとヴォルターさんに促すと、すまないと一言告げてから火をつけた。明日の朝には臭いも抜けていることだろう。
「ホシ、あの秘書官に連絡取れるか?もう一度あの連合長に話をつけにいく必要が出てきた」
「もう既に連絡をもらっています、あちらも僕たちの話をもう一度聞きたいと言っています」
「それならいい。どこまで話す?」
「包み隠さず、が良いんでしょうけど内容が内容ですから……う〜ん……」
「余計な情報は混乱を招く、ここは海軍に一枚噛んでもらうか」
「え?海軍のせいにするってことですか?余計にややこしくなりません?」
「その海軍が直々に艦艇を出すんだ、整合性は取れている。それとも他所の世界からやって来たウイルスが悪さをしていると言ってみるか?馬鹿にされるならまだしも真に受けられた方が面倒だ、あっという間に広がるぞ」
「………ですが、」
「良い、俺の独断だ。お前は何も知らなかった事にしておけ、いいな」
「……分かりました」
こういう所は潔いのがヴォルターさんという人だ。
その後、明日の訪問時間を調整してからアーチーさんに連絡を取り、長かった一日がようやく終わりを迎えた。
✳︎
目が覚めた。頭と体が少しだけ痛い、見上げた天井が綺麗になっていたのでもう掃除をしたのかと、ぼんやりとする頭でそう考えた。
「起きた?」
「!」
「悪かったわ、あんたが飲んでたカルーアミルク、ノンアルじゃないって気付けなかった。ここは私の……ナディ?」
「………」
「寝たふりすんな」
ぺちんとおでこを叩かれたので観念して起きた。目が覚めたと思ったら、髪の毛をちょんまげにして顔面真っ白お化けが覗き込んできたのだ、目を瞑ってやり過ごそうとした私が間違っているとは思えない、だって怖いから。
「………ここって、バーじゃ、ないんですよね」
ゆっくりと姿勢を起こす、お店にあるような大きなソファで眠っていたらしい。所々年季が入って破けている革張りのソファだ、それから室内もお店と言わんばかりに広い場所だった。
「え、ここ、先輩のお家なんですか?家っていうよりオフィスのような…」
「そうよ、ここは元々オフィスだった物件なの、そのお陰でこうしてうんと広いの」
確かにうんと広い、私の家より倍以上の間取りだった。ソファがある場所はベッドルームのつもりなのか、テレビモニターにゲーム機、それからパイプベッドも置かれており、パーティションのように配置された本棚の向こうには大きめのデスクがあった。壁には何かの船なのか一枚のポスターが貼られていた、さらに向こうがキッチンスペースになっており、さらにその奥に廊下があった。
「え、と…誰が私をここまで…まさか、先輩が?」
「当たり前じゃない、気を失った後輩を見捨てる程冷たくないわ」
「馬鹿力……」
「あんたは何か文句を言わないと気が済まないの?造船所は何かと力仕事が多いの」
ふん、と力こぶを見せるように腕を持ち上げているがすらりとしている。
「そ、そうなんですね……で、では、私は、」
「あんたもシャワーを浴びてきなさい、今日はここに泊まっていいから」
「い!いや、さすがにそこまでご迷惑をかけるのも悪いですし」
「どーせ、自分の家に帰りたいだけなんでしょ?」
ぎくり。
「ん」
テレビモニターが置かれている壁を見るよう、顎で「ん」とされたので見てみると、
「え、もうこんな時間……」
そう、時計の針が十二の数字を回っているところだった、深夜と呼べる時間帯だ。
「………分かりました、シャワー浴びてきます」
「そうしな、顔パックも使っていいから」
顔パックって何だ、ああ、その白いやつか。ソファから立ち上がろうとするとくらりと体が傾いてしまい、先輩に支えられてしまった。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、だと思います、あれお酒入ってたんですよね?」
「そう、あんたが飲んでたお酒って度数もそんなに高くないし、ジュースみたいな味だから気付けなかったんでしょうね」
「は、はあ……でも美味しかったです」
「そう」
にんまりと、嬉しそうに笑う先輩から離れてシャワールームへと向かう。大きめのデスクの上には何かの途中だったのか、様々な本が広げられていた。キッチンスペースにはやかんが一つ、しゅうしゅうと湯気を上げていた。廊下に足を踏み入れると扉が三つ、トイレとシャワーと、何もプレートがかけられていない扉が一つ。
(秘密の部屋かな)
良いな、これだけ広かったらそういう使い方も出来るんだなと思っているとずだだだと先輩が走ってきた。
「良い?!シャワールームはそっちだからね!奥は違うから!」
(絶対そうだ、見られたくない系のやつだ)
鼻息が荒い真っ白お化けに背を向けてシャワールームに入る、洗濯機にきちんと畳まれて並べられているバスタオル、洗剤やらを置いた棚の奥に磨りガラス状の扉があった。脱衣籠の中には先輩の衣服があり、あれ、私の着替えはどうすればと思い閉めた扉を開ける。
「せんばーい、私の着替えは、」
「?!?!」
やっぱりまだいた、そして秘密の部屋の扉を慌てて閉めている。
「な、何!」
「いやだから、私の着替え──ああ!!」
顔パックなる物を取った先輩の顔、ちょんまげにしていることもありようやく思い出した。
「あの偉そうな人!邪魔だって言った人だ!」
「今頃かよ!!最初っからそうだって言ってたでしょ!!」
「だってあの時は帽子被ってたし髪の毛もなかったからてっきり男の人だと思ってた!」
「そういう事?!あれは作業の邪魔になるから帽子の中に押し込んでたの!!」
「そういう事ですか、で、その部屋に何が入ってるんですか?」
「え?!べ、別に?!何も無い!」
「ええ〜?そんなに慌てて隠す程大事な物があるんじゃないですか〜?」
ずっと引っ張り回されていたストレスもあり、ここは先輩をイジることにした。後輩の私にも怯えた様子で扉の前から離れようとしない先輩が面白くて仕方がなかった。
「無い!何も無いから早くシャワーを浴びなさい!」
「ええ〜?もしかしたらここに私の着替えとか入ってるんじゃ──あた!あたたた!」
「そんな物入ってるわけないでしょ!私の下着でも使っとけえ!!」
「痛い痛い!暴力反対!!」
調子に乗りすぎたのか、先輩を怒らせてしまいこれでもかと二の腕を抓られてしまった。
◇
(ひー痛い……)
今日は痛い思いをしてばっかりだ。まあ、さっきのは私が悪いんだけど。何となくそうかなとは思っていたけど、やっぱり先輩もこっちの人らしくシャワールームにバスユニットは無かった。けれど、窓から見える景色は何とも言えない格別なものだった、大きすぎる窓から遠くに望むビル群が見えていたのだ。周りには建物も無いため裸を見られる心配もない、これを毎日見られるなんて贅沢だった。
(私の家からも見えるけど、ちっちゃいんだよね〜)
さらに後ろを向けば夜の繁華街と今は真っ黒の海も、ほんのちょっぴりと見えていた。朝風呂をかませばきっと綺麗な海も見えることだろう。良いなここ、たまに遊びに来たくなってしまう。
「ん?」
ちょうどシャンプーのボトルを取ろうとした時、その繁華街より奥にある真っ黒の海がぽうっと光った...ように見えた。どこかの班が夜釣りでもしてるのかなと思い、けれどあんな光り方するのかなと疑問に思った。
(海の上じゃなくて、海の中が光っていたような……ま、気のせいか)
どうやら見たのは私だけではなかったようで、次の日の朝にちょっとした騒ぎになってニュースで取り上げられていた。