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星落ちた後の彼ら彼女ら〜case3.アヤメ、アマンナ、グガランナ(少なくとも十年以内)〜

.下着泥棒



「アヤメー、あれいない」


 どこ行ったんだろう、せっかくだからまた一緒に飛ぼうかと思ったんだけど。立ち入り禁止になっている格納庫から一番近い休憩スペースに顔を出してみたが、がらんとして誰もいない、いないというかこの艦体には私達三人しかいない。


「まーたこんな所に放置してるし」


 休憩スペースに置かれたソファの上にアヤメの洗濯物があった、このままではえろえろグガランナを発情させてしまうと見つかる前に回収することにした。手に取ったアヤメの服はしっとりとしている、「生乾きやないかーい」などと独り言を言いながら部屋へ向かおうとすると艦内放送が流れてきた、テンペスト・シリンダーを旅立ってから初めての事である。


ー全員集合、ブリッジー


 アヤメだ、それに何やら怒っている様子。これはまたグガランナが何かやらかしたなと、服を持ったままブリッジへ向かった。



「犯人はアマンナでしょう?見てごらんなさい」


「………」


「何?」


 機体の整備でもしていたのか、おでこの髪を括ってちょんまげにしてツナギ服姿のアヤメが腕を組んで仁王立ちで待っていた。その傍らには手足が無い同期用マテリアルに換装したグガランナが私に向かって腕を突き出していた。


「何かあったの?」


「下着」


「下着?それが何?」


「無くなったの、私の貴重な下着が一枚無くなったの」


 ずっと私のことを睨んでいる。


「ほらアマンナ、早くごめんなさいをしなさい」


「何でやねん!そんな物盗るわけないだろ!」


「じゃあ何で私の服を持ってるの?」


 ああそういう事?!


「グガランナがまたハァハァしないように回収しただけだよ!アヤメも不用心に過ぎるよ?!隣に立ってんのはマキナ一の変態なんだから!」


 すっとグガランナに視線を変えて再び睨み付けている、睨まれたグガランナも必死になって否定していた。


「待ってちょうだい!私が下着を盗むわけないじゃない!欲しいなら欲しいって直接言うわよ!」


「そういう問題じゃない。グガランナ、早く出して」


「違うって言っているじゃない!」


「下着を新調するのにどれだけ苦労したと思ってるの!二人はマキナだからいいよ!大して汗もかかないし汚れたりしないから気が楽でいいんだろうけど私はそうもいかないの!早く出しなさい!」


(私も汗かくんだけどな)


 そういえば下着も随分と変えていないなと、お気に入りのジャンパーを引っ張って下着を確認する。成体型のマテリアルに変わったから当たり前なんだが、随分と大きくなった胸を包んでいる下着の端がほつれ始めていた。さらに言えばアヤメとお揃いのニーソックスもそうだし、ハーフパンツもそうだ、長年使い続けているので色落ちして所々が白くなっていた。

 グガランナに疑いの目を向けたアヤメが掴みかかっている。


「だから!私じゃないって言ってるでしょ!」


「じゃあ誰が盗ったのさ!私の部屋にも無いし展望デッキのどこを探しても見つからなかったんだよ?!」


「もしかして……誰かこの艦体に潜んでいる……とか?」


 ただの思い付きだったが、私の一言に二人がぴたりとその動きを止めた。



 月の明かりを受けた雲の絨毯がどこまでも続いている、唯一の光源である月の下にはマッターホルンの頂上がにょきっと生えていた。ここに停泊するようになって暫く経っており、いつ見ても飽きないこの壮大な景色を眺めがらアイスクリームをパクつくのが何よりの楽しみになっていた。しかし今日はそうもいかなかった。


「…………」


 アヤメだ、良く入り浸っている展望デッキに現れひたっっっすら私の肩やら頭やらをつんつんとしている、構ってほしいサインだ。


「もう、何?今アイス食べてるんだけど」


「見れば分かる。ねえ、下着、無くなったままなんだけど」


「これ食べたら一緒に探してあげるから、アヤメも食べる?」


「食べる」


 ずっとつんつんしてほしかったけどそういうわけにもいかず、観念して振り向いたアヤメにアイスを薦める、ちらちらと私のことを見ながら渡されたアイスを食べていた。隣に座っているのは私が最も愛する相手であり、眼下に望むその頂きも私が最も愛していたものだった。

 テンペスト・シリンダーを旅立ってからというもの、アヤメは良く私に甘えてくるようになった、今もまさにそうだがやってほしい事は最後まで言わず私の口から言わせようとするのだ。それが堪らなく愛おしい、どうやらアヤメは追いかけられるよりも追いかけたい側の人間らしく、こちらからぐいぐいといってもあしらわれるだけなのだが、ぱっと手を引くと「え?どうして?」と逆にあちらからぐいぐいとくるのだ。


(ま、私がそうしろって言ったんだけど…)


 アヤメを傍に置きながらマッターホルンの頂きを眺める、贅沢に過ぎる時間を堪能した後一緒に下着を探してあげることにした。


「どんな下着なの?」


「普通なやつ」


 普通なやつ...こりゃ言いたくないだけだなと聞き出すことを諦めて二人展望デッキを後にした。


「………」


「………」


 二人肩を並べ、展望デッキから居住エリアへと足を向ける。お互い無言だ、とくに話すこともないので何も言わない。ちらりと隣に視線を向けると少しだけ前を行くアヤメの横顔が目に入った、もう慣れてしまったが見上げていたアヤメの顔を真横から見られるようになった感慨と支配感にくらくらしていた時期があった。手を伸ばせばすぐに届く、心身共に最も近い存在、心の奥底から喜びが滲み出てくるようだった。


「ん?」


 居住エリアに差しかかるとアヤメが歩みを止めた、柵なしエレベーターより向こう側を何やら見ている様子だ。


「どうかしたの?」


 何も答えずてててと小走りで駆けて行く、エレベーターを通り過ぎて休憩スペースへ続く道の入り口で腰を屈めている。


「下着が落ちていたとか?」


 私もてててと駆け寄りアヤメが何を拾ったのか覗き込もうとすると慌ててポケットの中に隠したではないか。


「ううん、何でもない、ただのごみだった」


「いやいやそんなはずないでしょ、ゴミをポケットにしまう人がどこにいるのさ」


「何でもない」


「見せて」


「何でもないってば」


 一向に見せようとしないアヤメの態度にムキになって無理やりポケットの中身を暴こうとした。


「見せなさい!隠し事はナシ!」


「何でもないってば!しつこい!」


「しつこい?!私に向かってしつこいとは何だ!いいから見せてよ!」


「何様だ!私にだってプライバシーはあるんだぞ!」


 体格も同じなのでなかなか決着がつかない、それにどうしてアヤメはそこまでして見せようとしてくれないのか、絶対何かを拾ったはずだ。


「もういいよ!ふん!」


 掴んでいた手をこれでもかと乱暴に離し踵を返してエレベーターに乗り込んだ、後はアヤメを見ることなくさっさと自室に引き込む。下着探しなんか知るもんか!ずっと頑なな態度を取っていたアヤメにいくらかショックを受けながらもベッドに倒れ込んだ。



「おかしい……」


 アヤメと別れてから早一時間近く経っている、それなのに姿を見せない。


「おかしい……」


 口喧嘩、とまではいかなくてもさっきのような別れ方をした後は決まってアヤメの方から部屋まで来てくれる、少し照れ臭そう、あるいはまだ怒っているのに謝りに来てくれるのだ、いつもなら。それなのに来ない。


「おかしい……」


 わざとやったとはいえ、アヤメが姿を見せてくれないのならどうすることもできない。思考停止してしまった私はベッドの上で悶々として過ごす以外になかった。

 そんなに大事な物を拾ったのだろうか...私が怒っているのにそっちのけだ。


(何だ、私が怒っているのにって……)


 自分よりも大事な物がある、そう思わされるのは何とも厭な事だ、自分が一番でありたいと思う心が強くなれば強くなるほど不思議と空回りしてしまっているように思う。さっきまであんなに満たされた気持ちになっていたのに今はどん底だった。くきゅうとお腹の虫が抗議するのとノックされたのが同じだったので少しだけ驚いてしまった。


「アマンナ、あなたも手伝いなさい」


 グガランナだ、アヤメではなかった。その事に関してもいたく腹が立ってしまい無言でやり過ごそうとするととんでもないことを言ってきた。


「手伝わないならご飯は抜きにするわよ」


「行くよ!行けばいいんでしょ!」


 ただの八つ当たりだ。


「何?またアヤメと喧嘩でもしたの?」


 オリジナル・マテリアルから換装して今は通常形態に戻っているグガランナ、動き易さを重視した上下お揃いの服を着ている、まるで乗組員ような格好だ。


「別に!」


「分っかりやすい子、そんなにいちいち取り乱すぐらいなら独占しなければいいのに」


「うっさい!」


「体は大きくなってもまだまだ子供ね。さっさと付いて来なさい」


 偉そうに!ぷんぷんしながらグガランナの背中を追いかけた。



「くひゃい」


 ぷんぷんしながら付いて行った場所はコアルームの最奥、普段は立ち入らない整備室だった。そこもぷんぷんと嫌な臭いが充満していたので鼻を摘みながら抗議の声を上げた。ナノ・ジュエルだ、使用済みの物は本当に臭い、森羅万象ありとあらゆる悪臭が込められたような臭いだった。


「我慢なさい、そこの棚から引き出してダストボックスに放り込んでちょうだい」


「うっへぇ〜」


 一際高い、昔のスパコンのようなのっぺりとした棚からナノ・ジュエルを引き出す、使用前は宝石のようにきらきらとしているけど使い果たしたナノ・ジュエルは黒く燻んで()()()()な姿になってしまうのだ。臭い。


「カーボン・リベラが臭かった理由ってこれなんだよね、あっちは甘い匂いだったけどこいつはとんでもなく臭い」


「今はカーボン・リベラじゃなくてフォレストリベラという名前に変わっているわよ」


 ほお...フォレストリベラ、良い名前──あれ、どうしてそんな事を知っているんだと新しいナノ・ジュエルを洗浄済みの引き出しにセットしているグガランナを見やる。


「何でそんな事知ってんの?」


「………」


 ナノ・ジュエルは私の心と同じぐらい繊細で、微細な塵も付けないよう手袋をはめているグガランナの手がほんの一瞬だけ止まった。


「鼠クジラの旦那さんから聞いたのよ」


「ふ〜ん……」


 その後は何事も無かったように作業を続けている。それにしたってあの旦那が?人里を嫌って荒廃した地球の空を旅しているあの旦那が、テンペスト・シリンダーの街の名前なんかに興味を持つのだろうか。

 使い終わったナノ・ジュエルはその旦那さんに預けるので専用のダストボックスにシュートしておく、頃合いを見て回収に来た鼠クジラに食わせてあげればサラピン(新品)を渡してもらえるのだ。今の私達にとってナノ・ジュエルは生命線そのものといえる、食糧から燃料から何から何まで賄ってくれるのでとても貴重な物だった。


「ところでさ、アヤメの下着はもう返したの?」


「決めつけるのは止めてもらえないかしら、盗む暇があるなら寝込みを襲うわ」


「ヤバいだろそれ……」


 考え方がヤバい。


「それよりも早いとこ終わらせなさい、臭いが付いてしまうわ」


「お風呂に入ればいいじゃんか」


 ん?おや?と疑問に思いながらも、私も臭いが付いてしまうのは嫌だったのでさっさと終わらせることにした。

 ナノ・ジュエルの入れ替えもひと段落し、グガランナがメイン電源を入れると微かな振動音と共にスパコンみたいな棚が起動した。ここから艦内へエネルギーが補填されていく仕組みだ、詳しい原理は良く分からないし聞いても多分理解出来ない。


「アヤメは何してんの?」

 

 手に少しだけ付いてしまったナノ・ジュエルの汚れをグガランナの服で拭いてやろうと近寄るが、あっさり逃げられてしまった。


「あなたの整備」


 嫌そうに眉を顰めながらしっしっと手を振っている。


「言い方考えろ、私の体を検分しているみたいに聞こえる」


 何もしないとジェスチャーで示し、それを信じて背中を向けたグガランナにべっっったりと付けてやった、振り向き様に頭をこれでもかと叩かれ「臭いが付いたらどうするの!」と怒鳴っているがもう付いている。


「全く!お風呂に行くわよ!」


 叩かれた頭を摩っているとグガランナに首根っこを掴まれ引き摺られながらお風呂場へと向かった。

 まあ、何だ、こんな相棒だけど私は感謝しているんだ。私の正体を知りながらも態度を変えず、二人一緒になって中層を旅していた時と同じように接してくれる相棒、頼もしいと言えばいいのか、拠り所と言えばいいのか、適当な言葉が思いつかないがとにかくそんな感じ。



「さあ──極楽浄土に今行かん!」


 すぱぁん!と開け放ったお風呂場の扉の向こうには先客が一人いた、アヤメだ。一気に心臓の音が早くなる。


「静かに開けなさい、壊れたらどうするの」


「………」


 アヤメに注意されたがつーんと無視をしてやった、さっきはあんな態度を取ったんだ、これぐらい仕返ししてやらないと気が済まない。


「アマンナはグガランナのお手伝い?」


「………」


 ふん、と代わりにお湯を肩にかける。湯気で煙る風呂場に二人っきり、グガランナは休憩スペースのご飯生成機(勝手にそう呼んでいる)をセットしているのでこの場にはいない。さすがに二度も無視をされて勘付いたのか、何も言ってこなくなった。私の怒りと寂しさはそんなものではないと一人で勝手に盛り上がっていると、湯船に大きな波紋が生まれた。そして、


「怒ってる?」


「………」


「さっきはごめんね」


「………」


「どうしてもアマンナには見せたくなかった物だからさ」


「………」


「お風呂から上がったらまた一緒に飛ばない?今日は月が良く出ているからきっと気持ち良いよ、駄目?」


「………」


 ずぅぅぅぅぅぅっとつんつんしていたアヤメ、それでも答えようとしなかった私に業を煮やしたのか、そのしなやかで歳を取っても綺麗なままの腕を腰に回してきゅっと抱き寄せてきた。


「暑苦しい」


 嘘、本当はこちらも思わず抱きしめたくなる程嬉しいのに文句を伝えていた。もっと近寄ってほしかったから、拗ねていればもっと優しくしてくれると思ったから、そして思った通りにアヤメはそうしてくれた。頬に軽くキスをしてくれて、そっと耳に顔を近付けてきた。


「…どうすれば許してくれる?教えてくれないかな、何でもするよ」


「……別に、このままでいい」


「暑苦しいんじゃないの?」


「アヤメは嫌?」


「ううん、こうしているとね、安心する」


「私は不安だよ、アヤメが違う所に行ってしまわないかって、近付けば近付く程不安になる」


 思ってもみない言葉が出てきた、けれど口にして自分の気持ちを自覚した。どれだけ近くにいても、総解決機を経由して繋がったとしても、この不安だけは拭えなかった──ああ、そうかと納得した、だから私はアヤメに怒っていたんだなと。


「それでさっきは無視したの?」


 バレバレだった、けれど恥ずかしくはなかった。


「……うん、ごめんね」


 そこでようやくアヤメに視線を向けると、ちょうど手のひらが目の前にあった。ん?と思った矢先、鋭い痛みがおでこに走った。


「──いったあっ?!」


「無視されるのだいっ嫌い!ふんだ!べー!」


 今度は私がぐいぐいといく番だ、こうなったらアヤメはなかなか機嫌を直してくれない。


「ご、ごめんね?お風呂から上がったらうんと飛んであげるから!ね?」


「ふん、私と一緒にいると不安なんでしょ、それでもいいの?」


「そんな事ないよ!さっきのはほら、あれだからあれ、ああ…そう!言葉のアジってやつ!」


「それを言うなら言葉の綾!お腹が減ってるんなら休憩スペースに行ってこい!」


「確かにお腹は減ってるけども!今はそれよりもアヤメだよ!」


「よく言うよ!さっきはツーンってしてたくせに!」


「あれはワザとだよ、アヤメに優しくしてほしかったの!今度は私が優しくする番だから、ね?機嫌直してくれる?」


 ぎゅうっと抱きしめて頭を撫で撫でする、これでも駄目、それなら今度は頬にキスをしてあげる、それでも駄目、全然こっちを向いてくれない。拗ねてつんと尖った唇が目に入る、ゆっくりとアヤメから離れて前に座り直す、小さな波紋が生まれて湯船の中へと広がっていく。じっと私を見つめるその目は明らかに待っていた、あるいは求めていた。


「………」


「………」


 アヤメと見つめ合う、湯気の中にあってもその白い目がはっきりと見えた。私のせいでもあり、私にとっての証でもあるその目。つと、アヤメの頬に手を当てる、その綺麗な頬の形をなぞるようにして這わせ「キスしますよ、いいですね?」という意思表示を込めてくいと顎を持ち上げた。


「初めてじゃないよ」


 掠れるような声でそう言う愛しい人、言わずもがなだ。


「分かってる、悔しいけど」


 鼻先に触れながらそう答えた、脳裏にナツメの顔が浮かんできたがドロップキックを食らわせ頭の中から追い出す。吐息も当たる程の距離、今の私の全てを支配しているのは愛しい人の全てだった。その先端に軽く触れ、もう一度触れて、最後に少しだけ長く触れた。特別な人と交わす特別な行為にはやはり...特別な感慨に満ち溢れていた。

 そっと顔を離す、それだけで何かが抜け落ちていく感覚に囚われてしまった。口の端をゆっくりと上げたアヤメがこう言ってきた。


「次、舌」


「いや…いやいや……それは勘弁して下さいよ……」


 心から弱音を吐いた私を見てアヤメが遠慮なく笑い飛ばした、こういう時はアヤメの方が滅法強い、その点私はてんで駄目、唇に触れただけで頭の中身と胸の内が爆発してしまいそうになるのだ。


「──はあ…おっかしいの、それぐらいは普通じゃないの?」


 ひとしきり笑ったアヤメの目には涙があった。


「そんなの知りませんよ……他所は他所、うちはうち」


「ほんと、アマンナってその辺りはヘタれだよね〜、いちいち顎を持ち上げなくてもいいのにさ。いつでも待ってるよ、私」


「………はい」


 あの日、出会ったばかりの頃にもしてくれたように頭を撫でてくれる、その優しさと包容力にはまだまだ敵いそうにはなかった。

 二人して湯船から上がり、ぺたぺたとだらしなく歩いて脱衣所に向かう。結局グガランナはお風呂場に現れなかった、何かご飯生成機に異常でもあったのだろうか。先に上がっていたアヤメがタオルを頭からかけてぺたんと椅子に腰をかけた、昔からの癖なのかは知らないが、全裸で椅子に座るのはどうかと思う。身も心も唇も満たされた私は未だ満たされていないお腹にご飯を詰め込むため、手早く体を拭いて下着を「ああっ?!?!?」


「何?!急に大声出さないで!びっくりするでしょ!」


「それ私の下着じゃんかっ!!」


「はあ?!そんなわけないじゃん!!」


 何を言い出すんだとかさっきまでの甘い空気はどこへ行ったんだとか色々と考えているうちに下着を掴まれた!


「いやいや!いやいや!」


「何で私のを穿くの?!ド級の変態じゃんか!」


「これ自分で買ったの!体格が似てるからって変な事言わないで!あー延びる延びる!」


 このままでは愛する人に下着を奪われてしまう!色気もへったくれもなく騒いでいると脱衣所の扉がすぱあん!と開かれ新たな変態が入ってきた。


「それは何て言うご褒美なのかしら!」


「アマンナが!私の下着を盗んだ泥棒だったの!グガランナも手伝って!」


「違うっつってんじゃん!」


「え?アマンナの下着に興味は無いわ」


 脱がせようとする手とそれを阻む手がぴたりと止まる、そう、変態の発言によって。


「………」

「………」


 もう、こいつでいいじゃん下着泥棒、どうせ私の心も盗んでいったとか言い出しそう、いや盗ったほうがそれを言うのもおかしいけど。

 結局アヤメの下着は見つからないまま(これは私の下着!断じて違う!)、それにアヤメが頑なになって隠したポッケの中身も分からぬままこの騒動はうやむやになっていった。



.人生泥棒



 初恋の相手と結ばれる確率というものをご存知だろうか。西暦二千年代のある保険会社による調査が行われ、初恋の相手と結婚出来た人は実に百人に一人という結果が算出された。つまり、確率で表すのであれば一パーセントである。

 何が言いたいのかというと、私はその一パーセントに選ばれたということだ。あの日、メインシャフトで出会った彼女、当時は青空を思わせる瞳を湛えていた愛しい人と見事に結ばれたのだ。これで私のエモート・コア、言わんや命、いやいや人生は決まったようなものである、彼女に全てを奪われてしまった。


「けどそれがいい」


「は?」


「何?」


 つい、心の声が口から出てしまっていた、食事を取っていた二人が怪訝に眉を寄せている。アマンナの皿にはこんもりと、アヤメの皿は程々である、私の皿には何も無い、もう食事は済ませた()()()()()()()()()()


「何でもないわ、私の全てをアヤメに奪われてしまって幸せだと思ってね」


 その本人は食べ物を喉に詰まらせ、隣に陣取っているアマンナから乱暴に背中を叩かれている。


「重い、食べ物の味がしなくなった」


「アマンナ、もう少し優しくしなさい、私のアヤメが怪我をしたらどうするの」


「はいはい。それよりグガランナは食べなくていいの?さっきからぐるぐるお腹が鳴りっぱなしじゃん、食べたってのは嘘なんでしょ?」


「─っ?!」


 ...しまった、かまをかけられた。ほんの一瞬だけアヤメと目を合わす、「何があってもバラすな」と釘をさされるがそれを見逃すアマンナではなかった。


「なあに?二人で相談?何かなー私も混ぜてほしいなー」


 昔と全然変わらない、勘の良さだけはピカイチだ。


「…だから、食べたと言っているでしょう?アヤメに恥ずかしいお腹の虫さんが聞かれていないか焦っただけよ」


「ふ〜ん……」


 一切、納得していないのが良く分かる。


「そんな事言ってないで早く食べなさい、艦体のチェックもまだ残っているんだから」


 話題を逸らすべくアヤメが合いの手を入れてくれた。


「ナノ・ジュエルの残りは?もう限界っぽい?」


「そうね……あと一ヶ月ぐらいかしら、一週間待ってもここに現れないなら航路を辿って追いつくしかないわ」


「減るの早いね〜」


「そりゃもう一人ここに居るからね」


「?!」

「?!」


 あ、これはやらかした、何も知らないはずのアマンナがその事を口にしてアヤメと一緒に驚いてしまった。その反応が何よりの肯定、親の仇の頭を取ったかのようにアマンナが食ってかかってきた。


「やっぱり!二人で隠し事してるじゃん!何?!私には言えない秘密?!」


「ちょ、違うよ!アマンナが怖いことを言うから、」


「アヤメがポケットに隠した物と関係してるの?!その人の物だったから隠したんだよね?!」


 ポケットに隠した?...ああ、そうか、あの子が勝手に抜け出して...


「違う!違うから!アマンナの誤解だよ、誤解!」


「だったらポケットの中身を見せて!」


 私そっちのけでやり合う二人、仲間外れにされたと勘違いしているアマンナがアヤメに詰め寄っていた。これ幸いと休憩スペースから抜け出して足早くブリッジへと向かう、もしあの子が勝手に艦内を彷徨いているのなら注意しないといけない。


(どことなくスイちゃんに似ているのよね……)

 

 ブリッジへ向かう道すがら、ここにはいない私達の可愛い妹について考えた。初めて会った時は戦闘機なんていう、馬鹿げた姿をしていたあの女の子が今となっては街そのものを支えるスーパーヒーローにまで成長していた。嬉しいやら寂しいやら、今頃きっと多忙で幸せな毎日を過ごしているに違いない。それもこれも、私と同じようにカサンとアオラに人生を奪われたからだ。

 到着したブリッジ直通エレベーター前、本来なら昇降スイッチをタップして操作するが画面端を二度タップしてエレベーターだけ昇らせた。そして開いた扉の向こうには、艦体とマテリアルを同期させる専用コンソールへと続く道があった。


「あら?」


 その途中、あの子が街から持ってきた大きな種が一つ落ちていた。なるほど、アヤメもこれを見つけて慌てて隠したのだ。アマンナに知られてはならないその相手というのが...


「デュランダル、勝手に彷徨いたら駄目でしょう?アマンナに見つかったらどうするつもりなの」


「!」


 そう、不明機として私達の前に立ちはだかったあのデュランダルが居た。同期用コンソールは決して居住空間ではないが、今となってはデュランダルの巣のように変化していた。球体状に作られたその空間の端には食べ物の包み紙が押し込まれ、スペースから持ち寄ったありとあらゆる読み物が散乱している。やはり姉妹なのか、二人とも片付けができない性分のようだった。


「何で私が彷徨いていることになっているんですか!こうやってちゃんと隠れているではありませんか!」


「ん」


 デュランダルが持ち込んだカーボ...フォレストリベラの種を見せてあげる、すると包まっていた毛布から抜け出しポケットというポケットをひっくり返し始めた。デュランダルは貴族の娘のような出立ちで、綺麗な黒髪もそうだし服装も上品なものだった、それに何より綺麗なのがあの瞳だ、黄金色に輝く目は初めて見るものだった。


「そんな………ない!貴重な取り引き材料が無い!」


「あと一つはアヤメが持っているわ、後で返してもらいなさい」


 つんとした臭いが鼻につきながらも種をデュランダルに渡してあげる。


「ああ、どうも……は!そうやって私を丸め込もうという魂胆ですか!そうはいきませんよ────ったあ……」


「何をやっているのあなたは……」


 慌てて私から離れようとしたものだから、ブリッジから降りてくるコンソールを受け止める台座に頭を打ち付けている、さぞかし痛いことだろう。(>人<;)みたいな顔をして頭を摩っている。


「あなたを丸め込む理由もメリットも無いわ、それよりもちょっとこっちに来なさい」


「な、何ですか──」


「すんすん……やっぱり、今からお風呂に行くわ、付いてらっしゃい」


「何ですか!臭いとでも言いたいんですか!」


「臭い」


(>人<;)



 デュランダルが私の前に現れたのが今から一週間程前、今のように月明かりだけが頼りの夜空にぽつんとその姿を現した。その時はアマンナとアヤメが遊覧飛行を楽しんでいたので艦内にいたのは私だけ、覚束ない様子で飛んでいた不明機もとい、特別独立個体総解決機のうちの一機「デュランダル」が私の艦体に強制着陸を試みた。おかげで第二格納庫は機能不全に陥り、知られるわけにはいかないアマンナには「立ち入り禁止」とだけ説明してあった。

 一緒に湯船に浸かっているデュランダルは私から三人分きっちりと距離を取っている、あんな閉鎖的な空間で一週間近く過ごしていたのだから衣服や髪にどうしたって臭いが付いてしまう。


「どう?湯船に浸かるのはとても気持ち良いでしょう」


「ま、まあまあですね……そもそも熱い水に浸かる意味も分かりませんが」


 減らず口ばかり。


「それで、次の行き先は決まったのかしら?フォレストリベラに居場所を失って、世にも珍しい種を駄賃代わりに飛んで来たのでしょう?買い手は見つかったのかしら」


「う。それは、あれですよ、今は吟味中ですので、おいおいと……」


「鼠クジラの旦那さんは?」


「き、興味が無いって見向きもされませんでした…ま、まあ!その方のお陰でこうしてこの艦体に辿り着けたわけですから!」


 ふん!と私から視線を逸らしたデュランダル。何というか、甘え方が下手くそというか...


「あなたはどうしてこの艦体を頼りにしたの?私達の事が信用できないのよね?」


「そういう訳ではありません、が、手放しで信用したくないのです」


「それはどうして?」


「聞いてどうするのですか」


「どうもしないわ、あなたの事が知りたいだけよ」


「………」


 デュランダルのその困った顔を見ていると、ヤマアラシのジレンマという言葉を思い出した。近付きたいけど自分が持つ棘で傷付けてしまわないかと板挟みにあってしまう心境をさした言葉である、もしくは甘えたいけど裏切られたりしないか、傷付けられたりしないかと尻込みしてしまう気持ち、そのどちらかは分からないが、あの子がこの場から離れようとしないのはそういった気持ちがあるからだろう。


「……分かったわ、無理して聞いたりしないから、そう緊張しないでちょうだい、せっかくのお風呂が台無しだわ」


「………はい」


 お互いに距離を保ちながら、意識しながら暫くの間湯船に浸かっていた。



 迂闊だった。


「うう〜…目が回ります…頭もクラクラします〜…」


「本当にごめんなさい、気が付かなかったわ」


 冷たい水で絞ったタオルを頭に乗せたデュランダル、真っ赤に染まって茹でだこのようになっていた。初めてお風呂に入ったのだから加減が分からなかったのだろう、それに気が回らなかった私のせいでもあった。この子もこの子で我慢せずに言えばいいのにと思うが後の祭りだ。


「あ〜…世界が回るようです〜…」


「体を冷やせば直に治まるから安心して」


 追加のタオルを脇に挟もうとするが、ぺい!と手を払われてしまった。


「そうやって…私を懐柔させるつもりなんですね…そうはいきませんよ…騙されるのは懲り懲りです……」


 熱でうなされているはずのデュランダルが強い光りを宿して睨みつけてきた、どこにそんな力があるのか不思議だ。


「違うわ、あなたの事が心配なのよ」


「そう言って…前も…何度も…利用され続けてきました…私には分かるのです…言葉には、必ず、裏があると……うう〜」


「分かった、何も言わないから今はゆっくりしていなさい」


 この子がテンペスト・ガイアに利用されていたのは知っている。アヤメとアマンナも最終局面でデュランダルの機体を見たと言っていた。特別独立個体総解決機の力は異質かつ強大だ、その力を当てにされ利用され続けてきたデュランダルは人間不信に陥っている、それも無理らしからぬことであった。


(本当に不憫な子……)


 自分がこうならなかったのは一重にアヤメのお陰だ、だからこそ感謝しているという部分もある。人間の浅ましさや卑しさを目の当たりにし続けていたら、きっと自分もデュランダルのようになっていたに違いない。

 だが、それと同じくらいに他者を求める気持ちも良く理解できる、何せ私がそうだったのだから。他者との交わりは必要不可欠だ、たとえマキナであったとしてもそれは変わらない、だからこそこの子を放っておくことができなかった。アヤメには素直に打ち明けた、デュランダルのことを。すぐに了承の返事をしてくれたのも彼女の優しさによるものだ、本当に彼女が私の初めてで良かったと心底思う。

 冷たい感触に身を任せているのか、瞼を閉じて静かにしている。喘ぐように呼吸していたが今はゆっくりと胸が上下していた。


「………何ですか」


 タオルをどけておでこに手を当てる、随分と熱も取れてきたようだ。


「何でもないわ、もう少し寝ていなさい」


「………」


 先に言っておくが心臓が飛び出るかと思った、まさか彼女がそんな登場の仕方をするとは思わなかったからだ。


「──極楽浄土はここですかぁああ!!」


「っ?!」


「ひゃっ?!」


 アヤメだ、さっきお風呂に入ったはずなのにお風呂セットを持ち、アマンナみたいなことを言いながら現れた。急に大声を出されたものだから私もデュランダルもひっくり返りそうになってしまった。


「何と!あの真面目系デュランダルちゃんがまさかの茹でダコ!」


「うるっ、うるさいですよ!急に入ってこないで下さい!」


「アヤメ……驚かさないで……」


「いやあ、お風呂に入ってるって連絡もらったからさ、せっかくだし私も入りたいって思って」


 あははは、と屈託のない笑みをこぼしている。


「アマンナはどうしたの?」


「撒いてきた」


 それは大丈夫なのかしら...


「大丈夫?もう一回お風呂に入れる?」


「この状況を見てよくそんな事が言えましたね!」


 ぐいぐいと押しが強いアヤメ、大変珍しい。私にもそんな感じでぐいぐいと来てほしいのだが...どうやら理由があったようだ。


「デュランダルちゃんの事、色々と聞きたいからだよ。けど普段はツーンで話してもらえないからさ、一緒にお風呂に入れば教えてくれるかなって」


「お風呂に一体どんな効果があるのですか!お風呂場でも何処でも私は話したりしません!」


「え?一緒にお風呂に入るぐらいグガランナとは仲が良いんでしょ?普通、嫌いな人とお風呂に入ったりなんかしないよ」


「………え?そうなのですか?それが……普通の事なんですか?」


「うん」


「やっぱり私の事を騙したのですね!」とか何とか、怒られながらタオルを投げ付けられてしまった。



 おーいおーいと、同期用コンソールに引っ込んでしまったデュランダルに声をかけていたが諦めたようだ。


「駄目だ、完全に怒らせちゃったみたい」


 どうしたものかと頭を掻きながら私の元へとやって来る。


「拗ねているだけよ、そのうち機嫌を直すわ」


 ちなみにどうでもいい話しなのだが、ここ最近になってアヤメは良くスカートを履くようになった、と言ってもロング丈のものであの綺麗なおみ足を拝むことはできないのだが、あの薄い布地の向こうに秘境があるのかと思うと興奮してしまう。


「グガランナあ〜?どこをじろじろと見ているのかなあ〜?」


 そんな...たった一瞬目をやっただけなのに...アヤメも私を見つめてくれていたのかとさらに興奮してしまった。そんなことより。


「デュランダルのこと、これからどうしましょうか…本人は行く当てが無いと言ってうちに来ているけれど…」


 落ち着いた紺の色の裾をひるがえしながら椅子に腰を下ろした、襟元が緩いブラウスの奥を覗かせながら頬杖をついている。


「プロメテウス・サーバーの本拠地は分かってないんだよね?」


 他人事のはずなのに思案顔だ、だから私は優しい彼女の傍にい続けているのだ。


「そうね、それぞれのテンペスト・シリンダーを管理しているというプロメテウスもこの地球上の何処かに存在しているはずよ」


「ううむ…良く理解できていないんだけどさ、アマンナ達はルーターを経由してテンペスト・シリンダーに存在していたんだよね?で、「心焉」って呼ばれているシステムを使ってそのサーバーから独立したって認識でいいんだよね」


「その解釈で間違っていないわ」


 怒られるかと思ったけど、アヤメの頭を撫でてあげるとほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「デュランダルちゃんはどうやって独立してているの?」


「そこが謎なのよね……バルバトスと呼ばれている機体に関してはナツメとプエラ・コンキリオという、言わば代理者がいるから説明がつくのだけど、デュランダルに関してはその相手が不在なのよ」


「まあ…でも本人が元気そうならそれで、いいのかな?ユング・ドラシルの種を取引に使うぐらいだから──ああ、そうだった」


 何かを思い出したように椅子から腰を上げて、開いたままにしてあるメインコンソールに向かって声をかけている。どうやら拾った種を渡す代わりに顔を見せてほしいと交渉しているようだ、程なくして返事がありこちらに来てくれるようだ。

 現れたデュランダルはむすっとした表情を隠そうともせず、挨拶をしたアヤメの言葉を無視してひったくるように種を受け取った。挙げ句にそのまま踵を返そうとしていたのでさすがにデュランダルを嗜めた。


「駄目でしょう、せっかく拾ってくれたのにその態度は失礼よ」


 注意を受けたデュランダルの肩がぴくりと反応した、お風呂上がりの髪を靡かせながら振り向き私のことをキツく睨んでいる。


「言うことがあるでしょう、辛い思いをしたからといって甘えては駄目」


「………その、ありがとう、ございました……」


 何度か口を開き、意を決したようにして感謝の言葉を述べた。アヤメは薄らと笑いながら首を振り、「いいよ」と一言だけ返している。


「これで、いいですか」


 今度は私だ、注意を受けて恥ずかしいのか照れ臭いのか、頬に赤みがさしていた。


「ええ、文句を言っているよりも今のあなたの方が素敵よ」


 心なしか、肩の荷が下りたように見える背中を向けながらデュランダルがブリッジから去って行った。



 マッターホルンに限らずアルプス山脈に連なる山々は、様々な国を横切るようにして聳え立っている。それがたとえマグマによる侵食があったとしてもその様相は変わらず、眼下に広がる()ヨーロッパ中央部を東西に横切るように延びていた。人工的な光りは一切無く、暗黒の大地が横たわっているばかりではあるが、月明かりを受けた嶺だけは悠久の時を変わらず過ごしていたようだった。

 しんと静まり返った艦内を歩き休憩スペースへと向かう、ナノ・ジュエルの残量も少ないため空調設備も切っており艦内は肌寒い、人が使う部屋ではなくメインコンソール内にいるあの子は尚のことであろう。休憩スペースに足を踏み入れ、温かい食べ物と飲み物をいくらか見繕い再びブリッジへ戻る。踵を返した時、誰もいないはずのスペースの入り口に人影が立っていたので息を飲んだ。アマンナだ、あの日、初めてアヤメの家にお泊まりした時に見せた寂しそうな表情をしている。


「こんな時間に食事?」


 アマンナがゆっくりと歩みを進めている、あの子の服装は昔のアヤメを真似たものた、だから時折アマンナとアヤメを見間違えてしまうことがあった。オリーブ色のジャケットにハーフパンツとニーソックス、長い髪はまとめておらずどこか寂しげに靡いているように見えた。


「別にいいでしょう」


 いくばくか、アマンナに対して申し訳ない気持ちを抱きながらもはぐらかすことにした。


「ふ〜ん……隠し事できる性格じゃないって思ってたけど……」


 やはりバレている、その中身まで見抜けなくとも隠し事をされている事には気付いているらしい。


「そんな事ないわ、メリアに託された事も黙っていたでしょうに」


「──ああ、なんだったけ、結合を解く力だっけ?」


「そうよ、私がその気になればアマンナとアヤメを分離させる事が出来る、その為に必要なシステムは全て私の中にあるもの」


「それが何?隠し事と関係しているの?」


 徐々に眉が下がり始めた、余程仲間外れにされるのは嫌らしい。あのアマンナが私に縋るなど滅多にないことだった。


「何でも無いわ、早く寝なさい」


「……アヤメには煙にまかれるしグガランナにははぐらかされるし……もしかして、私に関係していること?」


 鋭い。さあ、どうやって逃げようかと逡巡しているとアヤメもスペースに顔を出した。「一緒に寝ようよ」と誘われ、後ろ髪を引かれながらもアマンナが私の傍から離れ、あとは二人、仲良く手を繋いで肌寒い闇の中に消えていった。



「うう〜…お腹が空きました…どうして現界したら生理現象が起こるのですか…」


「そんなあなたに朗報、食べ物を持ってきたわ」


「!」


 毛布に包まり縮こまっていたデュランダルが驚いた顔を向けている、まあ、私も驚かせようと忍び込んできたわけだから当たり前なのだが。


「私の推測だけど、心焉に限らずサーバーから独立してしまうと人の生理現象を経てマテリアルを維持させていると思っているわ」


「………」


「大丈夫、毒なんか入っていないから」


 差し出したトレーを見つめているだけで手を伸ばそうとしない、拗ねているのか疑っているのか、付き合い始めて日が浅いゆえに判断できないが眉を顰めたまま私へ視線を変えた。


「……どうして優しくするんですか、さっきは怒っていましたよね、あなたにとって大事なのはあの人なんでしょう?」


「放っておけないのよ、あなたのこと」


「それだけなんですか?本当に?私を利用するために懐柔する気なんじゃ…」


「あなたの力を利用する前にアマンナを利用しているわ、特別個体機の力に興味なんて無い」

 

 すると、あれだけ眉を顰みていたデュランダルの目に挑戦的な色が浮かんだ、そしてとんでもない事を口にした。


「……本当なんですか?興味ないんですか?私達の力を使えばテンペスト・シリンダーなんてあっという間に支配出来ます、そこであなたは誰にも邪魔されない理想郷を作ることだって出来ます。それこそアヤメという人と未来永劫暮らせる環境が手に入ります」


「その話しを詳しく!」と聞かなかった私を褒めてもらいたい、意地汚い質問の代わりにデコピンをくれてやった。


「──いたっ!」


「馬鹿なこと言ってないで早く食べなさい、冷めてしまうわ」


「……嫌です」


「食べなさい」


「毒が入っていたらどうするんですか?あなたが入れていなくても、あの二人が入れているかもしれません」


「それなら私も食べてあなたの跡を追いかけるわ、食べなさい」


「……み、見返りを求めない優しさ程、困るものはありません、何も返せません」


「それなら慣れなさい、あなたはうんと優しくされる権利がある、それだけ辛い思いをしてきたんだから。食べなさい」


 二度、三度と言葉を重ねてようやく食べ物に手を伸ばした。心なしか、薄らと瞳が潤んでいるのは私の気のせいだろうか。



.恋泥棒



 無遠慮にも私の頭を撫でてくれやがった、しかし悲しいかな腹ただしいかな、抵抗する気力も理由も無くなってしまった。この人は本当に優しい、今まで会ってきたどの人間、マキナよりも違うようだった。


「どう?お口に合うかしら」


「………ま、まあまあですね」


 素直に「美味しい」と言えない自分が歯痒い、けれど恥ずかしくて本音を伝えることができない。グガランナと名乗るマキナが小さく笑っている、それだけで恥ずかしい、けれど逃げる気にはなれなかった。


「明日は休憩スペースまで食べに来なさいな、こんな所で食べていても仕方がないでしょう」


 とてもジューシーなサンドイッチを飲み込んでから答えた。


「でも、アマ姉が……」


 姉、と付けているが厳密に言えば違う、私達三人には血の繋がりというものがない。けれど、私達三人だけでも家族でいようと──確か、バル兄が言い出したことだった。遠い昔の話しだ。


「二人なら朝から鼠クジラを探しに行くから問題無いわ、私と一緒に行きましょう」


「……うん──は!い、いえ、今のはその、」


「いいから」


 ついタメ口で答えてしまい、瞬間的に頬が熱くなってしまった。穏やかで、緊張もなくて、値踏みされることもなくて、何かを奪われることもない、そんな時間をグガランナさんと共に過ごした。



(ねずみくじらとは…一体何でしょうか)


 熱い水に浸かっている時はつい嘘を吐いてしまったが気になるものは気になる、食事を終えても傍から離れようとしないグガランナさんに聞いてみたが、目元が細くなり始めたので「あ、これはやってしまった」と後悔した。


「さっきは旦那さんと会った、みたいに言ってなかったかしら?」


「あ、いえ、その……すみません知りません」


 どうしてだろう、どうして離れようとしないのか、自分で言うのも何だが面白いことが言えるわけでも、誰かを楽しませる術を持っているわけでもない私の隣はつまらないだろうに。


「鼠クジラというのはナノ・ジュエルをリサイクルしてくれる船の事よ、私達はそのお陰でこうやって旅を続けられているの」


「はあ……いまいちピンときません、見た目が鼠と鯨を足したものだからそう呼んでいるんですか?」


「それはアヤメに聞いてごらんなさい、渾名を付ける達人なのよ」


 何だそれ。


「えーと……ナノ・ジュエルは本来使用量が定められている物ですよね、それが何故テンペスト・シリンダーの外で扱われているのですか?」


「需要があるからに決まっているでしょう、世の中はうんと広いのよ」


「──あ」


 思わず手が伸びていた、自分でも不思議に思った。


「何かしら?」


 何かしらって...話しを切り上げたくせに、私が手を伸ばした理由だって本当は分かっているくせに、何故そう冷たく言えるのか。


「その……」


 言うか言うまいか悩んでいると、


「用足しに行かせてもらえないかしら?いくらマキナでも生理現象には勝てないわ」


「あ!そういう事なんですね!すみませんでした!」


 ひゅっと手を引っ込めすぐに下を向く、離れてほしくないと慌ててしまった自分が恥ずかしい。


「どうせだからあなたも行きましょう」


「は、はい……」


 何だろうか、何と言えばいいのか、良く分からないけれど、この人と一緒にいるのは悪くない、そう思った。

 最初は嫌だった、テンペスト・シリンダーに居場所を失い一番近くに存在を感知したアマ姉の所までやって来て、後の事は何も決めていなかった自分も悪いけど、こうやって何度も優しくされていくうちに私も慣れてしまったのだろうか。


「少しずつでいいわ」


「え?」


 私の心に答えたかのように言葉をかけてきたので思わず聞き返していた、だってまさか、読まれているなんて思わなかったから。


「この艦体にあなたを利用しようなんて思う人はいないの」


「………」


「辛かったでしょう、私も孤独を経験したことがあるから何となく分かるわ、それに加えてあなたは誰かと共に過ごしながら独りを感じていたはず、違うかしら?」


「はい」


 ブリッジを抜けてひっそりと静まっている艦内を歩く、気温は低くて肌寒い、ガラス張りの向こうも月が隠れて暗黒の世界が広がっていた。ついこの間までの私の心を再現したような、けれど雲の向こうに隠れた小さな灯火の存在をようやく知ることができた今の私には、また違ったように見えていた。


「四苦八苦って言葉を知っているかしら」


「知っています、四苦は生老病死の苦しみ、八苦は人付き合いにおける苦しみの事ですよね」


「そうよ、一人における苦しみは四つで済むけれど誰かと共にある苦しみは八つもある。デュランダル、あなたは苦しみの部分ばかりに気を囚われ過ぎなの、ここにいる間だけでも忘れなさいな」


「………はい」


 一度だけ、頭を撫でられた。その温もりと優しさは()()()()()()()()()()()私が最も求めていたものだった。

 だがしかし人生そんなに甘くない、用足しに入った個室の前で私はグガランナさんに笑われてしまう羽目になってしまった。



「最悪です」

 

「ぷっくくく……」


「最悪です〜」


「ごめんなさい、まさかあなたの呻き声を聞くことになるなんて………ぷっくくく」


「まだ笑いますか!」


 汚い話しになるので割愛するが...その、何だ、お花を摘みに行ったら思いの外沢山あったみたいな?今まで()()()()()()だと知らなかった私は結果的に我慢していた事になって...そんな感じである。経験した事がない経験に戸惑い、それが声となって表れてグガランナさんに聞かれてしまったのだ。我慢良くない。

 ひとしきり笑って満足したのか、目に涙を湛えながらグガランナさんが私に振り返った。


「最初会った時は何て真面目な子なんだろうと感心していたのにねえ……まさかあんな声、」


「もういいですから!恥ずかしいから止めてください!」


「それで、あなたはブリッジに戻るのかしら、良ければ私の部屋に来ない?」


「ど、どうしてですか…別に私はあそこでも…」


 あそこはアマ姉に見つからないために過ごしていた場所であって何ら思い入れはない、寧ろ狭い固いし最悪の場所だ。けれどいつものように素直に言えず、つい強がりを言ってしまった。


「そう、あまり無理はしないようにね、いつでも来ていいから」


 額面通りに受け取ってしまった(当たり前だけど)グガランナさんがそう答えてしまったので何も言えなくなってしまった。


(ああ…)


 この時程、自分の性格を呪ったことはない。ブリッジと居住エリアに分かれる道でグガランナさんの背中を見つめ、足元から冷たい空気と暗闇が這い上がってくるのをひしひしと感じてしまった。

 慌ててブリッジへ戻り、借りた毛布をひったくって踵を返したのは言うまでもないことだった。



.ホエール・ホライズン



 夢を見ていた。

人からハーフマキナに変わっても夢は見る、けれどそれは夢とは言えず、録画した映像を繰り返し見ているようなものだった。脳内の記憶整理のためにアウトプットされた心象風景ではなく、ただの繰り返しだ、ナツメの顔や昔のアマンナ、グガランナの姿、街の景色、途切れながらも連続的に続けられて何とも味気ない。

 第三区、私がうんと小さな頃に住んでいた町、両親もいて親友もいて不自由はあったけど何ら不幸が無かった時代。その景色が夢として再現され、けれど夢ではないので動くことができず、ただ見ているしかない映像だ。いつも良く遊んでいた公園に親友が走り回っている、ただの映像だからその跡を追いかけている私の姿だって見ることができる。さらにその跡を...え?誰だ?あんな子いたか...?


(だれ……)


 夢現の境界線が乱れ始める、見たことがない子供の姿を見てしまい意識が覚醒しつつあった。夢のはず、私が見てきた記憶のはずなのに、その子供がくりんと振り返って視線を合わせてきた。


「────、」


 その小さな口が開いた、言葉を発しているが聞き取れない、その目は私を私だとはっきりと認識して喋っている、偶然ではない、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「急なホラーはやめてくださああい!」


 がばりと跳ね起き、記憶から逃げ出した、当たり前だ、だって怖いから。はあはあと肩で息をして呼吸を整える、そうか、マキナの怖い夢はこんな感じかと薄暗い部屋の中に視線を向けた。


「はあ………あれ、アマンナ?」


 隣に寝ていたはずのアマンナの姿が無い、トイレにでも行ったのだろうかと扉の向こうに意識を向けるとズダダダダ!と誰かが走ってくる足音が聞こえてきたので途端に怖くなってしまった。まさかあの子供?!しかしその足音は私の部屋の前を通り過ぎ、さらにあとから別の足音も聞こえ始めてきた。どうやら誰かが誰かを追いかけているらしい。


「あ」



「開けろー!今すぐこの扉を開けろー!デュランダル!隠れても無駄っ!」


 グガランナの部屋の前で声を張り上げているアマンナ、少しくぐもった声で部屋の中から返事があった。


「いーやーでーすぅー!」


 デュランダルちゃん...そうか、アマンナに見つかってしまったのか。扉のドアをがちゃがちゃやっていたアマンナの後頭部に軽くチョップを下ろした。


「やめなさい、壊れたらどうするの」


「アヤメ!アヤメはデュランダルが艦内にいたの知ってたんだよね?!だからグガランナとこそこそやってたんでしょ!」


「だってアマンナが知ったら喧嘩するって分かってたから」


「何それ!いつから?!いつからデュランダルがこっちに来てたの?!」


 鼻息を荒くして問い詰めてくる、そんなアマンナを宥めるため肩に手を置いてゆっくりと語りかけた。


「デュランダルちゃんはれっきとした妹なんでしょ?どうしてそんなに怒るの?デュランダルちゃんもアマンナとは会いたくないって言ってるし、何があったの?」

 

「はあ?私が怒ってる?違うから!私とバル兄から離れていったのはあっち!」


「そうなの?」


 これは意外な展開、てっきり喧嘩別れでもしたものとばかり思っていた。デュランダルちゃんは純粋にアマンナのことを恐れているようだけど...

 アマンナと入れ替わって今度は私が扉の前に立つ、向こうから気配が二つ、デュランダルちゃんと部屋の主であるグガランナだろう。


「今の話しは本当なの?」


「だーれがあなたみたいな小じわが目立つ人に言いますかこの若作り!!」


「──んだと……」


 我も忘れて今度は私がドアノブに食ってかかった!言ってはならない事を言った!万死に値する!立場が逆転したアマンナに止められたのは言うまでもないことだった。



「若作りじゃないからね?気にしなくていいからね?」


「おはようより先に言うの止めてくれないかな」


 結局デュランダルちゃんが部屋から出てくることはなく、自室に引き返し寝直した。そして起き抜けと共にアマンナが言ってくれやがったのでほっぺをきゅいっと抓ってやった。

 朝焼けに満ちた格納庫、横たわった私達の機体は肌寒い空気に晒されながらも夢見ているようだった。お揃いのパイロットスーツに着替えていた私達は、生命線とも言える鼠クジラの旦那さんを見つけるべく機体の立ち上げに入った。ナノ・ジュエルから生成した燃料もそう多くはない、早いところ見つけてしまわないと旅が続けられなくなってしまう。機体の各部位を目視点検しているアマンナに視線を向ける、異常が無かったようで機体のパラメータの確認に入っていた。


「…………ん?何?」


「何でも」


 私の視線に気付いたアマンナがタブレットから視線を上げた、長いまつ毛にも朝焼けの光りが降り注ぎ長い金の髪は薄く透けているようだ、こうして見てみるとどこかのお姫様みたいだ。このアマンナがまた...出会う人出会う人、次から次へと仲良くなっていくものだから見ていられない、いつ鞍替えされるのかと冷や冷やしてしまう。人懐っこい性格は変わらずであっという間に人気者になってしまうのだ。


(なーにが不安だよまったく……人の気も知らないで)


 私は私で機体に乗り込み仮想コンソールを立ち上げる、昨日修理したお陰でフレアスカートの稼働領域も確保出来ているしブースターにも異常は無い。今の地球に鳥はいないのでバードストライクも発生しないが、中和ガスや引火性の気体を多く含んだ雲に突入してしまうと発生する、クラウドストライクは頻繁に起こっていた。雲が重いのだ、通常の雲と違ってあれやこれやと多く含んでいるせいで、エンジン内のファンローターや可燃室に多大な影響を与えてしまい瞬時にダウンしてしまう。そのため雲の絨毯は突き破らず、雲海上の飛行を楽しんでばかりである、地域によって雲の性質も異なるがこの辺り一体は酷いものだった。


「オールグリーン、そっちはどう?」


「私の心が一部イエローだけどモーマンタイ」


「何それ、悩み事?」


「人気者の傍にいるのは辛いってこと」


「分かるわーその気持ち」


 ほんとかよ。


「準備良いよ、ブリッジに投げてくれる?」


「あいあいー」


 投げるとは判断を任せるという意味である、艦体の操作権は全てグガランナが預かっているので通信を取る必要があった。


「ところでさ、アマンナのそのスーツに意味はあるの?どうせ素粒子に分解されて機体に格納されるじゃん」


「気分だよ。気分というものは大切なものなんだよ」


「あいあいー」


 アマンナの真似をして適当に返事を返す、言い方が何だか癪に触ったので無視することにした。アマンナが一度私の頭をぽかりと殴ってからシークエンスに移る、()()()()()アマンナという存在は特別独立個体なのであってマテリアルではない、総解決機も一つのデバイスに過ぎず、お姫様のような人型マテリアルがアマンナの本体ではなかった。


(私もまた変なのを好きになってしまったもんだ)


《聞こえてますよー》


 機体の立ち上げと同期を完了させた後、カタパルトデッキがやおら動き始める、向かう先は開かれた扉の向こう側、成層圏を遥かに超えた真空の宇宙から届く太陽の光りを受けた雲海がどこまでも続いている。


《わくわくするね〜この瞬間》


《私は昨日のキスの方がわくわくしたけどね》


《え、わくわくする場面なの?それ》


《冗談だよ》


 「照れ臭い」「嬉しい」そういった感情が滲み出てくる、アマンナのものだ。厳密に言えば今の私達に冗談というコミュニケーションは存在しない、だって心が繋がっているのだから分かってしまうのだ。


《スルメイカ》


《はいはい》


 カタパルトデッキに蓄えられていく力を感じる、今か今かと飛び出るのを待っているようだ。

 ちなみに「スルメイカ」というのは「これ以上心を覗かないでください」という意味である、互いに繋がっているため見られたくないものまで見えてしまうことがあるので脈絡の無い言葉を告げることによって意思表示を行なうという、私達の鉄則のルールだった。これがもし「たらこ唇」のようにキスに関連する言葉が含まれていた場合、違ってくる。「え?それは誘っているの?」と判断が難しくなってくるのだが...まあ、長い話しになるのでこれぐらいにしておこう、要は「嫌よ嫌よも好きのうち」というどっちやねん!という曖昧な状況を作り出さないためである。

 どこか寝不足ぎみに感じるグガランナの声の下、臨界点に達していたカタパルトデッキが勢い良く飛び出した。


[行ってらっしゃあ〜い……]


 仰向けの状態で外へ出されるので外気に触れると同時に薄青く広がる宇宙が視界いっぱいに広がった。微かに光る星々の下、態勢を立て直し直進飛行に切り替える、今度は朝の光りに照らされた大雲海が視界に収まった。


《気持ち良いね〜》


 私の心を代弁するようにアマンナが感嘆の声を漏らす、全くもってその通り、テンペスト・シリンダーとは比べものにもならない広大な空を自由に飛び回れるのだ、切り刻むように押し寄せる冷気さえも気分を高揚させてくれるファクターにしかならなかった。

 この空域の飛び方には色々ある、クラウドストライクが発生しないギリギリの高度を攻めたり、マッターホルンの頂きを起点にして高度を下げていったり、高山にぶつかった雲は散り散りになりやすいのでその後が飛びやすくなる、まあ、地表付近を飛んだところで巨人がつけた爪痕のような大地しかないため面白味はあまり無い。数千年経っても草木の一本も生えやしないのでマグマの脅威が如何程だったのか、手に取るように分かるというものだ。


《この辺りはユーラシアプレートの境目に近いと言えば近いからね、何かしら関係があるんだろうけど》


 アマンナの言う通り地球の再生度合いに何かしらの規則性のようなものがある、この一帯はまだまだ死んだ大地になっているが再生が始まっている一帯もあるにはある、まあ、地球が元の姿に戻るまで後何年かかるんだっていう話しだけど。


《その頃にはさすがに天国に行きたいですよ、私》


《知らんがな、私はこの世を満足するまで天国に行くつもりはない》


 ふわっと、アマンナの気持ちが上向いた、この体になれたのは紛れもなくアマンナのお陰であるため心を読み取ったのだろう。


《朝露に輝き実るスルメイカ》


《はいは──ぷふっ、何それ、アヤメの合図はいつも意味が分からないよね、それに俳句だし》


《これでも詩人ですので》


 ころころと笑う相棒と共に空を駆け抜ける、どうやら雲の下は大荒れのようで水気を含んだ濃い灰色の雲が所々に紛れ混んでいた。こりゃ下には潜らない方がいいなと思っていると、遥か前方、マッターホルンより先に一つの反応が表れた。


《お、ビンゴだね、こりゃ運が良い》


 白と灰のまだら模様をした一つの雲から勢い良く潮が吹き出した、あのまま宇宙に届いてしまいそうな程に高い、ついで息継ぎをする鯨のようにのっぺりとした黒い背中も現れる。


《やっほー旦那さん、ナノ・ジュエルの在庫はあるー?こっちはそろそろ切れそうだから売ってくれると助かりますー》


 アマンナが気さくにそう伝えると旦那さんから返答があった。


[すまないねぇ!今はそれどころじゃないんだよ!──跳ねろ跳ねろ海中から逃げるんだ!]


《ん?何かあったの?》


 随分と騒がしい、旦那さんが乗組員に向かって怒号を上げている。すると、雲海に覗かせていた背中が再び隠れてしまった。見守るべきか助けに入るべきか悩んでいると、


《ありゃまあ──》


 雲海の中に沈んだ鼠クジラが盛大に雲を散らし、巻き上げ、その巨大な体を高高度まで一気に跳ね上げさせていた。地平線から昇り始めていた太陽を隠す程の大きさだ、アイスピックのように尖った尾ひれの先には鼠が沢山食いついており、さらにその下、円盤型の菌類がその跡を追いかけていた。


《訳ありっぽいね、助けに入ろうか》


[そりゃ有り難い!クソ・ジュエルならいくらでも持って行ってくれ!]


 鼠クジラさんの旦那さんからも了承を得られたのでブースターをフル稼働させすっ飛んで行った。

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