復讐の花:アイリス
⁂
彼女がその可憐な目蓋を開けた。中層にあるエディスンの街から一人、心の拠り所でもあるナツメと別れ心労と戦いながらようやく辿り着いたメインシャフト、浅い眠りでは満足に疲れを取ることも出来ず幾分重い体を無理やり起こす。市民と隊員と、彼らの無事を確認しなければと焦る気持ちとこのままもう一度寝てしまいたいという怠惰な欲求が鬩ぎ合う。ここまで頑張ったんだ、後はあの人達に任せて私も甘えて楽をしたい...そう心の中で弱音を吐いていると誰かに背中を小突かれてしまった。
「……ん?」
「………」
後ろを振り返ってみるとつぶらな瞳と少し警戒した様子に耳を下げている鹿型のピューマがいた。
(このピューマって確か…ガニメデさんに懐いていた…)
アヤメがゆっくりと手を伸ばしてピューマの頭を撫でようとすると、そのまま逃げ出してしまった。その逃げた先にはグガランナと瓜二つのマキナであるガニメデが立っており、その傍らには特別師団と名乗ったイエンもいた。逃げたピューマがガニメデの足元に擦り寄り、未だ警戒しているようにアヤメを観察している。
そして、彼女にとって最後となる目覚めを迎えその場にゆっくりと立ち上がった。未だ自らの運命を知らない彼女を嘆き悲しむように、あるいはこれからの未来が少しでも幸福たれと祝福するように仮初めの花びらが宙を舞い、復讐の花たるアイリスのその全身を覆い包んだ。
✳︎
「良く眠れましたか?」
「ん〜…微妙かなぁ…疲れが取れた気がしない…」
「そりゃそうだ、どうしたってそんな所で眠っていたんだ」
やれやれといった様子でイエンさんが肩を竦めている。
「ガニメデさんが悪い」
「何だそれは」
「アマンナ様についてお話しをしたのですが、彼女はそんな事絶対にしないと言い出して…」
「お人好しだな、お前さんも」
「……で、イエンさんはどうしてここに?またミトンちゃんをイジメに来たんですか?」
私の言葉に反応したかどうかは分からないけど、ガニメデさんの足元にいたピューマがイエンさんの脛に噛みついた。ただの悪戯なのか、噛まれたイエンさんは涙目になりながら拳骨を振り回している。その拳骨を避けてピューマが再びガニメデさんの足元に擦り寄った。
「よっぽとガニメデさんのことが好きなんですね」
「ええ、本当に悪戯ばかりする悪い子なんですが」
「ガニメデさんが迎えに行ってあげたんですか?」
答えてくれたのはイエンさんだ、噛まれた脛を摩っているので余程痛かったらしい。
「いたたた…こいつらが勝手にやって来たんだよ、ここまでな。他にも鳥型のピューマが二体とゴリラ型のピューマもいたりする、見かけた時はちょっとした行列が出来ていたから驚いたよ」
「えぇ?!リニアからここまで?」
俺の話しを忘れていないかと愚痴ってから、
「このピューマがガニメデを追いかけてきたんだ、とんだストーカーさ。それにつられて他のピューマもぞろぞろと…だったか?」
「ええそうです。彼らの番人にそう教えていただきました」
「ほぇ〜…行動力が凄いというか何というか…それって私達が離れてからすぐってことだよね、時間的にも」
「そうなりますね」
ガニメデさんが嬉しそうにピューマの頭を撫でている、撫でられたピューマはお返しにとガニメデさんの手にまで噛み付いた。
◇
屋内展示場を後にしてガニメデさんと初めて出会った天空の広場へ足を進めている間、イエンさんがこちらに合流した訳を教えてくれた。
「デュランダル…それがイエンさんの主…ということですか」
「そうだ。ガニメデがアマンナ、アンドルフがバルバトス、そして俺がデュランダル、それぞれがそれぞれをサポートするように設定されている」
ビルの摩天楼を縫うようにして歩く、時折ビルの谷間から羽音が聞こえてくるので鳥型のピューマが自由気ままに空を飛んでいるらしい。
「それはつまり…イエンさんもデュランダルに記憶を差し出すということですか?」
「さぁな、俺がそう望まれているのか分からない。そもそも俺は主と一度も会った事がないんだ」
「………?」
「主と呼んでいるが正式の名前は知らない、今どこにいるのかも分からない、その役割も分からない。そして俺とガニメデもあくまで憶測の域を出ないということだ。意味が分かるか?」
「いいえ全く」
「だろうな、俺達も分からん」
補足するようにガニメデさんが言葉を挟んでくれたけど、それでもいまいちピンとこなかった。
「愛しの友人と議論を重ねた結果なのですが…アマンナ、バルバトス、デュランダルは互いに不干渉であることを義務付けられている、あるいは接触することが禁止されているのではないかと思います」
「どうして?」
「理由については分かりませんが私とイエンの置かれた状況について説明することができます」
いた、やはり鳥型のピューマが空を飛んでいた。隣に立つビルの影から現れあっという間に十階層の天まで昇っていた。
「俺とガニメデが記憶と役目を与えられず誕生したのは主達の存在を隠すためだ」
「………」
「俺が誕生したのはエディスンの街、稼働歴千年と少し前まで遡る。名前もなくまた頼るべき存在もいない中、中層を彷徨い歩いてエレベーターシャフトに到着してこの階層に残された木彫りの人形を見つけたのだ」
「木彫りの…人形?」
あの空中庭園に到着した、あの日見たままの光景が眼下に広がり今日も湖には木船が一つ、けれどあの男の子は乗っていないようだった。
「お前は見ていないのか、人の形をして翼を生やした人形だ」
「あ…」
あれの事か...屋内展示場に再現されたあの家の入り口に置かれていた...それと同時にあの奇妙な絵も思い出してしまい急いで頭から振り落とした。
「その木彫り細工の人形は主達を表しているものと思われる。それ以外にも様々な足跡がアナログとして残されていたから俺はここを守っていたんだよ、いずれ戻ってくると踏んでな。そして、」
イエンさんに背中をとんと押された、空中通路から庭園へと伸びている階段が目の前にあるのに、危うく階段から落ちそうになったと抗議しようとすると、
「………」
「………」
また、あの目をしていた。私が不貞寝していたあの展示場でもこの二人は今のような目をして私を見つめていたのだ。
「遊んでやってください、アヤメ」
「……え?……ん?」
「お久しぶりです、アヤメさん」
そう言いながら私の手を取る子供、いつの間にそこにいたのか、あの湖に連れて行ってと半ば無理やり約束させた男の子が薄らと微笑みながら私の手を握っていた。
◇
「………」
ここが閉ざされた空間とは思えない程自然に満ちており、男の子が一所懸命にオールを漕ぐのも任せて私はただただ見惚れていた。水面は青色ではなく緑色、ひんやりと冷たい風が頬を撫で微かに緑の香りも運んでくる。水中では宝石と見紛う大小様々な魚がキラキラと反射しながら泳いでいた。
一通り景色を堪能した後男の子からオールを借り受けバトンタッチした、男の子の額には汗が浮かび薄い金色の毛先が顔に張り付いていた。
「ありがとう」
そう、一言お礼を伝えてから私も見よう見真似でオールを漕ぎ木船に乗ったポートから対岸を目指す。
「アヤメさんはどちらまで行かれるんですか?」
「?」
対岸だよね、そう答えようとしたけど質問の意図が違うことに気付いて言い直した。
「行ける所までかな」
「また、僕にも教えてくださいね。僕はここから離れることができないので遠くにある景色を知りたいのです」
「うん」
ゆっくりとオールを漕ぐ、何とかペースを掴み始めたところで対岸が見えてきた。向こうにもうポートが岸に付いているようで一人の女性が仁王立ちで立って私達のことを待っていた。
「あの人は?」
「え、えーと…僕は向こう岸まで行ったことがないので分かりません…」
「そっか」
漕いでいたオールの手を止めて男の子の手を握った、あそこについてしまうと遊べなくなってしまうような気がしたからだ。
「?」
「この間の遊び、もっかいやろっか?」
「はい!」
そよ風靡く船の上で、私はバルバトス君に良く似た男の子と手を打ち合いながら古い歌を歌って遊んだ。輝く笑顔を弾けさせ楽しそうにしている、ひとしきり遊んだ後オールに手をやると男の子がもう一度遊んでほしいとせがんできたので参ってしまった。うんいいよと返事をし、これが最後だからねと言うと少しだけその笑顔が曇ったように見えた。
◇
「ようやくのご到着ね、私を待たせるだなんてどんな神経してるの?」
「………ね、この人もしかして危ない人かな?」
「……え、え…」
「聞こえてるんですけど!」
「わぁ!怒られたぁ!逃げろぉ!」
「うわうわっ?!?!」
私の声に驚いた男の子が再び木船に乗り込み、後はこちらを向くことなく一目散に漕いで行ってしまった。後ろからふんと鼻息を鳴らす音が聞こえ、私も観念してもう一度女性に向き直った。
身長は私と同じぐらいだろうか、同じ金の髪を一本に束ねて後ろに流している。つんと上がった目は猫を思わせ今すぐにでも撫でたい衝動に駆られてしまう、そんな人だった。
「ちっ」
「どこ見て舌打ちしてんの?」
胸は私より大きい、ちっ。まさしく理想的な体型をしている、ちっ。ひとしきり八つ当たりした後気を取り直してお礼の言葉伝えた。
「それとさっきはありがとう、お陰であの子としんみりしないで済んだよ」
「別に。それよりあんたはここがどんな場所か知ってんの?」
彼女の言葉に答えることなく対岸へ漕ぎ出した男の子に向かって声を張り上げた。
「待ってぇー!私も乗せてぇー!この人怖いぃー!」
「っ?!?!ちょ、ちょっと!何言ってんの!」
男の子が振り向いたような気がしたけど乱暴に肩を掴まれて無理やり引き寄せられてしまった。
「あんた!何言ってんの!そっちが土足で上がり込んできたんでしょう?!」
「知らないよ!私はただあの子と遊んでほしいと言われただけでここがどんな所かなんて知らされていない!」
「はぁ?何それ、誰に言われたの?」
「ガニメデさんとイエンさん!」
「……………」
フリーズの後瞬き、ぽかんと開けた口の中は艶かしくぬらぬらと光っていた。何でそんな所に目がいってしまったのか自分でも分からない、けれどこの女性の存在感に圧倒されていたのも事実だった。
「………そう、そういうこと…つまりあんたが……」
「何?そんなに不愉快だって言うならすぐに帰るよ」
「ここがどんな場所か分かる?というか私が生身の人間に見える?」
「さぁ、そもそもここ自体が仮想と入り乱れているからどっちか分からないし、どっちでもいい」
「……あんた、変わってるね。そんな答えはあんたが初めてだよ」
「ねぇ、そのあんたっていう言い方止めてくれない?私にはアヤメっていう名前があるの」
「そりゃごめん、悪かった」
あっさりと謝ってくれた。そして彼女もまた名前を教えてくれた。
「私はアマンナ、アヤメももしかしたら知っているかもしれないけど。生前のデータを元にして再生した擬似人格だよ」
自嘲ぎみに笑うその笑顔、ちっとも似合っていなかった。
「私の知っているアマンナはもっと素直に笑う子だよ、そういう笑顔は止めたほうがいい。全然似合ってない」
「………」
嬉しそうに、嬉しそうにアマンナが笑った。
◇
「………」
「何、どうしたの?もう疲れたの?疲れたら言ってね、私はデータだから言ってもらわないと分かんないし」
「……休憩させてくれる?」
「いいよ、向こうのベンチに座ろうか」
え...ここは何処なの?森を抜けたかと思えばいきなりの大都市、それも中層にあるどの街でもない。エディスンでも、リニアでもベラクルでもモンスーンでもサントーニでもない、緑が生い茂り自然と融合したその街並みはエディスンを思わせるが建物の高さはカーボン・リベラと良く似たものだった。ここも仮想世界なのだろうか...それにだ、それにアマンナとこうして話しをしているのもまだ納得していないんだ。ガニメデさんの話しでは大人のアマンナがカオス・サーバーにいたという話しだったし目の前にいる彼女はアマンナの面影があった、だからとくに気を払うことなく会話していたけど名前を聞かされた時はそんなまさかと驚いていた。やはり睡眠はきちんと取らないと駄目らしい、正常な判断が出来なくなっている。
勿論分かっていると思うけど、そう言いながらアマンナが私にベンチを勧めてくれた。
「ここ、仮想だからね」
「いや、うん、それは分かるけど…」
「どうしたの?仮想酔い?」
かそう酔いって何だそんな言葉があったのか。
「え、良く分かんないけど頭がくらくらする…」
「ならここで暫く休憩しよっか」
「そうしてもらえるかな…」
行き交う人々の足取りは目的地へ向けて進められているものだ、近くにあるようでどこか遠いその景色、少し眩し過ぎる太陽の光は容姿なく全てを照らしている。建物もビルだったり商業施設を思わせる凝った造りをしていたり、私達が座っているベンチの裏手には第十二区にある大議事堂を彷彿とさせる石造りの建物もあった。その出入り口では幾人もの人々を吸い込んでは吐き出し、グレーのスーツにハットを被った男性と全身を黒一色に統一している女性が建物から出てきたところだった。
(あの人は暑くないんだろうか…いやそもそもここは仮想世界だっけ…)
マキナのナビウス・ネットだろうか...けれど現在のマキナはややこしい立場にいるはずだ。ナツメの話しによればエモート・コアをオリジナル・マテリアルに強制インストールされてしまい、サーバーから切り離されたと聞いている。その実どうだろうか、切り離されただけで再度ログインし直す事は可能なのだろうか、その際に重度の損傷があればリブート処置を受けてしまうことになるだろうが元々マキナとしての在りように変化はないように思う。そうでもなければこの仮想世界に説明がつかない、ガイア・サーバー内に存在するのであれば成り立つのだろうが...
(私はいつポッドに入ったの?)
「アヤメ?平気?」
「あ、あぁうん、座ったら落ち着いてきたよ」
隣に座っているアマンナが心配そうにして私の顔を覗き込んできた、その瞳の色は赤、とても綺麗だ。私の知っているアマンナよりいくらか色が濃いように思う。
「その瞳の色なんだけどさ、アマンナはずっと赤色だったの?」
「……?」
小さく首を傾げただけで返事はない、質問した意味が良く分からなかったらしい。詳しく説明してあげると何だそれと大笑いを始めてしまった。
「え…そんなに笑うことなの?」
「いやいやだってさぁ…私は本来ガニメデに付くはずだったのにそれを間違えて別のマキナのところに行っちゃうんだもん、そりゃ笑うよ。何百年とかけて準備をしてきたのに全部パァだもん、それがあんたみたいな人間に惚れて挙句マテリアルまでこさえるだなんて…」
「その言い方止めてって言ったよね」
「あぁごめん、ごめん。さっきの質問だけど答えはその通り、アヤメの元にいる私が覚醒しかかっている証拠だよ、だから瞳の色が変化したと思う」
「さっきもアマンナは生前って変な言い方してたよね?瞳の色と何か関係してるの?」
「んー…ここで言うのは大分マズいからその話しは後でもいい?」
「え?まぁ別にいいけど…まだ歩くの?」
「そ、私の新しいセーフティハウスに案内してあげるよ。曲がりなりにも私は最上の結果を生んでくれた訳だからね、人間性はどうあれおもてなししないと」
「何その言い方、失礼」
「はいはい」
何なんだこのアマンナは、無邪気に笑ったり失礼なことを平気で言ったり、今みたいに乱暴に手を引いて私を連れて行こうとする。ちょうど建物から出てきたあの二人組みがベンチの近くを通りかかった時だ、ちらりと見た限りでは二人ともどこか驚いたような顔をしていたのが気になった。
◇
それと気になる事は別にもある、今目の前で私の手を握って先を歩くアマンナの事だ。彼女は生前の人格データを元にして再現された擬似人格だと言っていたけど、それがどういったものなのか未だ理解できていない。感情はあるのか心はあるのか、今もこうして握られている手の強さは少し痛い程だ。
見知らぬ街の雑踏をかき分けてずんずんと歩いていく。私の知らないお洒落をしている人達が歩き、軒を並べているお店の通りには知らない物が沢山売られていた。それにしてもこの街は眩し過ぎるように思う、人もお店も通りも白く輝くばかりで目が焼かれてしまいそうだ、少しぐらい光りを弱めたらどうなんだと天を睨むと薄い雲の向こうにミニチュアサイズの大地があった。
「え?」
いや、ミニチュアではない...雲の向こうにまた別の街があるんだ。
「ねぇ、アマンナ、あの雲の向こうにあるのは…」
「ん?あぁ、あそこは政府エリアだよ、行ったところで何の面白味もない場所」
「いや、そういうことじゃなくて…どうして大地が向かい合わせになってるの?」
返事をしてくれないアマンナを不審に思い視線を戻すと険しい顔つきをして周囲に視線を配っていた。何かを...いや誰かを探しているようにも見える。
「走って」
「え?あ、ちょっと!」
さらに強く手を引かれて人混みの中を突き進んでいく、つんのめりそうになりながら何とか堪えてアマンナに付いて行った。その間、私とアマンナは何人もの人にぶつかってしまい白い目で見られてしまった。
(ここは…仮想世界じゃないの?)
雑踏から路地裏に入る、そこは緩やかな下り坂になっているようで建物の壁に挟まれた道が下まで続いている。緑の濃い匂いとどこかで料理でもしているのか香ばしい匂いが鼻をつき、アーチ状になった梢枝の下を潜り抜けると私は目を奪われた。
「わぁ…」
そこには視界いっぱいに広がる街並みがあった、どこまでも続いておりここまで広い街は生まれて初めて見た。それに何だか雲の位置も少し低いように思う、さらに人型機と似た小さな機体も建物の頭上を飛び交っており今も一つの民家の屋上に着陸したところだ。どうやら私達がいた場所は高い位置に作られた区画だったようであの大議事堂に似た建物の背中がここからでも見ることができた。
下り坂を下りて再び雑踏の中に突入する、その道には小さな子供も私達のように走り回っていた、あの湖で別れた子もここに来ればいいのにと思っているとようやくアマンナが手を離して一つの民家の前に立ち止まった。
「はぁ…ここまで来れば大丈夫かな…ま、とりあえず中に入って」
「え?ここがアマンナの家なの?」
「そ、木を隠すには森の中ってね」
何の変哲もない普通の家だ、門扉を開いて敷地の中に入った。
◇
「誰かに追われてるの?」
「んん?あぁまあ、そんな感じ」
着ていたジャケットをソファに投げ入れ大きく伸びをしている、その様はやっぱり猫を思わせた。
家の中は至って普通だ、リビングに置かれたソファの前にはローテーブル、そして壁に埋め込まれたモニターがあった。リビングの反対側には煉瓦模様のタイルが貼られたキッチンもあった、どこか古めかしいその様相は彼女の雰囲気と良く合っているように思う。私も遠慮なくアマンナの隣に座ってまだ少し荒い息を整える、アンティーク調の棚に置かれていたメリーゴーランドの小さな模型に目をやってから気になっていた事を口にした。
「ここに住んでいる人も…アマンナみたいに疑似人格…っていうやつなの?」
「ううん、私だけだよ。他の人達は普通に暮してる」
「寂しくないの?」
「……………え?」
たっぷりと間を空けてからそう答えた、湖でもそうだったようにまた彼女の顔に見惚れてしまった。リビングの窓から差し込む光りが特別な何かのように彼女の顔を輝かせていた。
「だってアマンナは一人ぼっちなんでしょ?寂しくないのかなって…」
「そこ、私を心配するところなの?他に聞きたいことがあるんじゃないの?私の正体とか、ここは何処なんだとか、さっきの二人組みは何だとかさ。よりにもよって私の心配?」
「うん」
「…………………」
猫のように吊り上がった目を大きく開いて私を見つめている。もう我慢ができなかったので彼女の頭を撫でようとすると避けられてしまった。無念。ソファの端まで逃げてから、彼女の方から話しをしてくれた。
「……私はね、もう記憶を消されたくないの、だからガニメデを作ってコチニールの中に機体を隠してずぅっとその時を待っているの」
「その時って?」
「本威解放、私とおに……バルバトスがそう呼んでいる私達の力、プログラム・ガイアをも超える権限を持ってるんだ。その代償として記憶が消されてまた一からリスタートさせられるの」
「……何を?」
「何もかも。記憶も思い出も全部無くなっちゃうから、だからリスタート」
「…………どれぐらい、そうしてきたの?」
「少なくても稼働歴一千年を迎えるまでは繰り返し解放し続けてきた。そうしないといけなかったし、私達の記憶を捧げないと誰も助けることが出来なかったから……けれどそれはその場しのぎの応急手当てでしかない」
だから全部嫌になったんだよと、どこか苦しそうに答えた。
「記憶も全部無くなってしまうのに、どうして自分の事が分かったの?」
「それはこれ、日記ってやつだよ」
(あぁ…それはベラクルの街で見つけた…)
彼女の手元には真新しい日記があった、ドローンに換装したアマンナがあの廃墟の中で見つけたものだ。今はガニメデさんの手元にあることを話すと少しだけ恥ずかしそうにしている。
「結果オーライだけどさすがに恥ずかしいな…日記以外にも文句を書いていたりするからさ」
「ふぅん?じゃあその日記にも文句が書かれてるの?」
「まさか、これはただの見本だよ。私は千年と少し前に解放してからもう書くのを止めたの、後はガニメデに全部託した……つもりだったんだけど…」
「あぁ、アマンナはずっとグガランナの傍にいたらしいから。でもどうして?」
「プログラム・ガイアがバルバトスを邪魔したように、私も邪魔をされてしまったの、ガニメデと瓜二つのマキナを作ってグガランナという存在を私にけしかけたんだと思う」
「ん?でも聞いた話しによるとアマンナの方からグガランナに声をかけたみたいだよ」
「え?………ぷっ……あっははは!何それ!私の方かよ!ヘマしてんの!ちょーウケる!」
体をくの字に曲げて大笑いしている、そんなに面白いのか?「私もお兄ちゃんのことは悪く言えないな」と独りごちてから体を元に戻した。その瞳には、笑ったにしては少し多すぎる涙が湛えられていた。
「……それで、アマンナはこれからどうなるの?そこが一番知りたい」
「最後の解放段階まで辿り着けたら自由になれる……はず、憶測だけどね」
「そうじゃなくてね」
「?」
「あなたは?もし、今のアマンナが自由になれたとして今のあなたはどうなるの?」
「……消えるよ、消えてしまう。私はただ自分の置かれた立場と状況を調べるために再現されただけのデータだから、役目を終えたらそのまま消えるつもり」
「そっか、それがアマンナの為になるんだよね」
「うん、そう。私がそう望んだ事だから、もう一人ぼっちにはなりたくないんだよ」
声が震えている、やっぱり寂しいんだ。今度は逃げなかった、私が彼女に寄って抱き締めても。
「辛かったんだね」
「…………」
「ごめんね、ずっとアマンナの傍にいたけどそんなに辛い思いをしていたなんて…いつも楽しそうにしていたし、色んな人に迷惑かけてころころと笑っていたから気付かなかったよ」
「…………」
「今のアマンナはその事も忘れてしまっているんだろうけど、アマンナであることに変わりはないよ、勿論あなたもね」
声を殺して泣いている、まるでその涙を知られたくないように。
「もうアマンナは一人じゃないよ、私が絶対に傍から離れないから」
堰を切ったように彼女が声を上げて泣き出した、大粒の涙が私の貧相な胸を濡らしていく。また後で仕返ししてやろう。
◇
「いやぁ、こんなに泣かされるとは夢にも思わなかったよ」
私に頭を抱かれて纏めていた髪がばらけてしまったのか、括っていた髪を解いて今はストレートになっている。こうして見るとアマンナはどこかのお嬢様のようだ。そのお嬢様は今、目元を赤く腫らしたままキッチンに立っている、カウンターには紅茶の葉が入った瓶が並べられており小さな星の模型もあった。これは何ていう名前の星なのか聞いてみると、
「それは木星」
「もく星…」
カウンターを超えてアマンナの手元を見てみると、赤い身した魚を調理しているところだった。データなのにご飯を食べるのかと聞いてみると代わりにデコピンを食らってしまった。
「木星は太陽系惑星の中で一番大きい星なの、それから七十個近い衛星もあってね、私が一番好きな星」
「えいせい…地球でいうところの月のことだよね?」
「そう…だけど、何でそんなに自信なさげなの?」
「星とか宇宙は最近になって勉強し始めたところだから」
「ふぅん?こんな知識義務教育の課程で習うことなんだけどね」
「私の子供時代はそれ以外で忙しかったんだよ。それより何作ってるの?」
「これも私の好きな料理、ムニエルという郷土料理だよ。勿論アヤメの分は無いから」
「えぇーそこは一緒に作ってくれるところじゃないの?」
「いいの?ここで作った料理を食べても、黄泉竈食いって知らない?」
どこか挑戦的な笑みを浮かべて私を見ている、それに何だって?よ、よもつ?
「よもつへぐい。黄泉の国、いわばあの世で作られた料理を口にしてしまうと元の世界に帰れなくなってしまうって伝承だよ」
「え、ここってあの世なの?」
「違うけどアヤメがいた世界でもないの、それでもいいって言うんなら作ってあげるけど?」
「ううむむ…そう言われると悩むな…」
カウンターに肘を付いて何でもない雑談に興じていると、一人の青年が何の断りもなく家の中に入ってきた。髪の色は私と同じで瞳の色は青、清潔感のある青年だった。
「誰?!」
「何だい君は、こんな所で何をしているんだ」
え、まさかの私が文句を言われるの?ということはこの人もこの家に住んでるの?
「私のお客さんだから気にしないで、それより何?まだ招待していないのに良くここが分かったね」
「そんな事より早くここを離れるんだ」
その顔はとても険しい、何事かと私も彼の言葉を待った。
「まさか…」
「見つかってしまったよ、ついに。僕達の存在も何もかもが」
「そんな…でも、どうして急に?今までは放置していたくせに」
「それは分からないけれどとにかくここから離れて、捕まったら何もかもが露呈して全てを封じられてしまう」
「………」
彼の険しい視線がアマンナから私に変わった。
「よもやと思うけど…まさか君がここをバラした訳ではないのかい?」
「は?私が?というかさっきから何の話しをしているの?私はただアマンナと話しをしていただけで、」
「この人は関係ない」
「アマンナもちょっと待って、誰に見つかったの?二人は逃げていたの?」
料理の手を止めて青年と私の間に割って入った、アマンナの顔付きも険しいそれに変わっており使い古されたエプロンを外しにかかった。私の質問に答えてくれたのは青年だった。
「それこそ君には関係ないよ、とにかく逃げて」
拒絶と思い遣り、この二人が抱えている事情の深さを垣間見た思いだ。余程の事が起こったらしい、身支度を済ませたアマンナを見て青年が先に家から出て行った。
「ごめんねアヤメ、せっかく招待したのにバタバタさせちゃって」
「アマンナは大丈夫なの?捕まったら大変な事になるんだよね?」
「…心配してくれてるの?こんな私の事を?」
「当たり前でしょ何言ってんの!」
「…………」
嬉しそうな、泣きそうな、困ったような顔をしている。けれど最後はその吊り上がった目を細めて、獲物を狩る前の動物のように微笑んだ。
「……気が変わった」
「ん?何が?逃げないってこと?」
「違うよ、とにかく私達も逃げよう」
アマンナが私の手を握って外へと連れ出す。リビングの窓にちらりと人影が現れぎょっとするとアマンナもそれに気付いたようだ。
「げっ、お兄ちゃんの言ってた事本当だったのか!」
「お、お兄ちゃん?!ってことはさっきのはバルバトス君なの?!」
「その言い方ムカつく、私のことはアマンナちゃんって呼んでね」
「いやいいから!早く逃げよう!」
リビングを後にすると窓ガラスが割られる音と共に室内に何かが侵入してきたようだ、玄関への廊下に差し掛かる直前に後ろを見てみれば、銀色のボールが床をころころと転がっておりその滑らかな面にスリットが生まれた。
「ボールマトン!最悪!あんな物まで!」
さらに手を強く引っ張られて玄関へと向かう、すると私が居た空間に二つ程ワイヤーが飛来して壁に突き刺さったではないか。
「あっぶな!」
甲高い音を立てながらそのワイヤーが巻き取られている、もう一度セットして私達を狙うつもりらしい。飛び出した玄関の扉の前を見て思わず足が竦んでしまった、大勢の人達が門扉前で整列していたからだ。
「………」
「こんな所で何をしている、己の役目を忘れたとでも言うのかな」
先頭に立っていた人がそう、アマンナに声をかけた。ハットを目深に被っているので表情は分からない、その男性の傍にはこの世界の警官隊だろうか...きっちりとした制服に身を包み手には銃が握られていた。
(なに…あの人の目…何だかおかしい…)
その警官隊の目の異変に気付いた、眼球が黒色ではなく白色なのだ。それも整列した警官隊の全員が白色の目をしている。
「もう一度言う、今すぐ持ち場に戻れ、ここはお前が居ていい場所ではない」
「………」
「……ちょ、どうすんのアマンナ」
向こうは私達に危害を加えるつもりはないのか銃を持っているだけで構えようとはしていない、それに気を許した私はアマンナにそっと耳打ちをする。
「………」
「?」
あれ、耳が赤くなっているのは気のせい?
「……ふう、仕方がない。あまり手を出したくはなかったがボールマトンまで投入されてしまっているんだ、やむを得ない」
その言葉に黙ったままだったアマンナが素早く反応した。
「はぁ?あんたらが私の家にあの無情式携行武器を投げ入れたんでしょうが、寝ぼけたこと言ってんじゃないよ」
「ほう、これは驚いた、禁止されているペルソナエスタを使用しているのか…答えはノーだ、我々ではない」
「はっ!そんな戯言信じられるか!」
「話しにならない、捕縛せよ」
すると背後からボールマトンと呼ばれたあの機械を手にした別の警官隊が現れた、ズタズタに引き裂かれて破壊しているあたりあの男性の言うことは本当らしい。そして門扉を開け放って表にいた警官隊も中に入ってきた。
「不法侵入!訴えてやる!」
「お前達ペルソナエスタに人権は認められていない……どうしてただの弁護人である僕がこんな真似事をしなければいけないのか…」
[それなら僕達の事を見逃してくれるかな?下っ端の君]
「お兄ちゃん!!」
「え″」
いつの間にそこにいたのか、頭上を仰ぎ見て声がした出所を探ってみれば人型機がそこにいた、それも二機。
[さぁ早く乗るんだ!]
「ちっ!こんな所にまで!」
ハットを被った男性が警官隊へ退避指示を出している合間にも赤い機体が問答無用で降下してきた。敷地内に植えられていた木をなぎ倒し、表に停められていた車を押し潰して着陸した。
「この機体は、何?!」
排気ノズルから噴き上げる風でちゃんと見ることができない、けれど初めて見る気がしない不思議な機体だった。アマンナが飛行ユニットであるフレアスカートに足を乗せて器用に登っていく、赤い、そして白くも見える変わった色をしていた。
「私!」
手を引っ張られ、半ば強引にコクピットの中に押し込められる。ハッチが音もなく閉じてすぐに離陸態勢に入った。
「ちょ!まだアマンナが!」
《ここにいるよ!安心して!》
そういう事...あっちのアマンナと同じように機体へ換装したらしい。重力に逆らうようにして機体が上昇していく、眼下にはこちらを見ているあの男性と警官隊の姿があった。
そして私は束の間、異邦の国の空を楽しんだ。
◇
「はぁ…凄い…凄いよこの景色…」
《そう?私はあんまり好きじゃないけどね》
低い位置にあった雲を超え、コンテナを運んでいた小さな機体と衝突しそうになりながらさらに上昇していくとそこにはもう一つの世界があった。頭上に見えていたあの街だ、やっぱり見間違いではなかったし高度を上げていくにつれて鮮明に見えるようになっていた。それに大地の狭間にあるこの空間から外の様子を見ることができた。
「外にあるのは…」
宝石を散りばめたように輝く夜空、いいや、夜空そのものと言うべきか。
《堪能してるところ悪いけど飛ばすよ》
「え、あ」
私の言葉は音速の向こう側に置いていかれてしまった、パイロットスーツも着ていない生身ではやはり堪える。
ほんの一時見たあの景色を頭の中に焼き付けながら速度が緩まるのをただただ待っていた。
◇
ようやく速度が落ち着いたようで薄らと目蓋を開けるとまたしても私は驚いてしまった。
「え…今度は何…というか…あれは…」
《マッターホルンだよ、私が一番好きな山》
堂々と山が聳えている、雲海のただ中にその頂が存在し遥か下の方には草原と小さな湖も見えていた。近くにも雪を残した嶺が連なり、ここは地球時代の「アルプス山脈」と呼ばれる場所だとアマンナが教えてくれた。
「そうなんだ…地球って本当に色んな景色があったんだね」
《ね、あんな事になってしまって本当に勿体ないと思うよ》
飛行ユニットのフレアスカートが稼働して範囲を大きく広げた、それと同時にさらに機体の速度が落ちてストールせずにマッターホルンと呼ばれた山の回りを遊泳している。
「今の地球はどうかな、もう自然が回復している所はないのかな」
《どうだろう…そういう話しは聞いたことがないよ》
「行ってみたくならない?」
《私は別にいいかな、フィールドワークより景色を堪能している方が性に合ってるし》
「え、アマンナらしくない」
《何だと…》
「あ、それはアマンナっぽい」
《いい?!そっちの私は元々私なんだかららしいとからしくないとか無いの!それと比べないでもらえる?!何かすっごいムカつく!》
「はいはい」
《くそぅ…戻ったら覚えていろ…》
「ふふふ、アマンナはもう消えてしまうんでしょ、ならここだけの思い出になっちゃうね」
《その事なんだけど気が変わった》
はっきりとその言葉が耳に届いた瞬間、後ろ方向へ頭から引っ張られて体のあちこちが悲鳴を上げてしまった。もしかして攻撃された?霞んでいく思考の中でそう考える間にも頭から背中、胸に痛みが走る。そして次は背中に強い衝撃を受けてしまい、思わず瞑っていた目蓋を開けると目の前に湖があった。
《くそ!もうこんな所にまで!》
それはこちらの台詞だ、あの一瞬でアマンナは地表すれすれの所まで飛行していたのだ、道理で体が千切れそうになる程痛い訳だ。
「あ、アマンナ…もっと優しく…」
《そういう艶っぽい言葉はベッドの上で!》
今のアマンナは私を無視して高機動による飛行をしたため体のあちこちが痛い、何とか頭を持ち上げて上を見てみれば沢山の機体が私達を覆っていた。きっとあの機体をいち早く察知して包囲網から逃れようとしたのだ。
きらりと機体の底が光った、何事かと確認する前に再びアマンナが急発進するものだからまた胸に激痛が走った。
「うっくぅ……っ」
《今は我慢して!後少しだから!》
[それは良くない。公務執行妨害と人権に関する条例違反により君を現行犯逮捕させてもらうよ]
この機体にはコンソールというものが無い、それなのに先程の男性が通信を行なってきた。
《私に人権は無いんじゃなかったの?!》
[生憎だけどね、牢獄に入る権利だけはあるんだよ。それにこれ以上我が子を汚すような真似は看過できない]
《はっ!あんたの事なんてこれっぽちも知らないね!人違いじゃない?!》
山間の平原を地表すれすれで飛行し、フレアスカートの一部がくるりと反転、隠されていた射出口が顔を覗かせた。
[明確な攻撃行動を確認、これで君に対して即時処刑が認められる。最後に言っておきたい事はあるかな?]
《あんたが被ってるハット、似合わないからやめた方がいいよ。ダサい》
[よろしい。では人権に関する条例に則って故人の人格を弄んだペルソナエスタに対し直ちに刑を執行する、こられに関して君、あるいは血縁者に対して何ら訴訟期間は設けないものとする]
《そもそも殺されるのに訴訟も何もなくない?》
[ただの前口上というやつさ。それにペルソナエスタは決まって第二、第三の擬似人格データを保有しているものだからね、法律の上でも非常にややこしい部類に属するんだよ]
その言葉を最後にして唐突に切られ、アマンナのフレアスカートから直上にミサイルが発射された。射出口から伸びているのは煙りではなく薄い光りときらきらと輝く破片だった。それらのミサイルが展開していた敵部隊の底で誘爆を起こし、辺り一面を強い光りが覆った。
「スタングレネード…考えたね…」
《あんなの相手にしてらんないよ。さっさと逃げよう、もう少しだけ辛抱しててね、うんと優しくしてあげるから》
言ってるそばから猛スピード、再び背中を押し付けられて息苦しい中マッターホルンの足元を駆け抜けた。
◇
到着したのは古びた小屋の前だ、遠い所まで飛んできたというのにここからでもマッターホルンの山を見ることができた、それだけ大きく、また高いということだ。
小屋の前にはもう一つの機体も駐機されていた、そして機体の前には青年姿のバルバトス君も立っている。先に到着して私達を待っていたらしい。
「首尾は?」
機体を着陸させるなりそうバルバトス君が声をかけた、そしていつの間に人の姿に戻っていたのかアマンナが答えている。
「ミサイルを十二発撃った」
「最悪じゃないか…他に手は無かったの?」
「おかげでこうして逃げてこられたんだから文句言わないで」
「全く君は…あの人はどこにいるんだい?」
あの人...あぁ私の事か、どうしてバルバトス君は私の事を知らないのか。もしかしたらあの姿もぺるそなえすたと呼ばれる人格データなのかもしれない、しかしそれを知る機会は永遠に奪われてしまった。
「逃げて!」
痛む体を無視してコクピットから身を乗り出し危険が迫っていることを二人に知らせた、小屋へと続くの坂道の向こうから銃を手にした警官隊の姿があったからだ。けれど間に合わなかった、消音装置を取り付けたスナイパー・ライフルでバルバトス君が狙撃されてしまった。
「あぁ!お兄ちゃんっ!!」
アマンナの叫び声がこだまする、人格データといっても人のそれと変わらない、頭から大量の血が流れている、即死だった。
「アマンナ!あなたも逃げて!」
再びの発砲、狙いが少しだけ逸れて肩に被弾した、大きくよろめきそのまま地面に倒れてしまった。
「アマンナぁっ!!」
どうしてこんなに酷い事ができるのか、持ち場に戻れと言っておきながら何故撃つのか。コクピットから降りて助けに行こうとすると、
「降りないで!アヤメはそこにいて!お願いだから!」
肩を撃たれたのに、痛いはずなのに。
「でもアマンナが!ねぇ!この機体は動かせないの?!どうしてレバーが無いの?!」
またしても警官隊からの発砲、足に被弾し、背中にも被弾した、まるで的だ、人として見ていないその所業に怒りが全身をくまなく駆け巡り私そのものを支配した。
「やめて!お願いだからやめて!このままだとアマンナまで死んじゃうよ!」
叫びは届かない、発砲も止めてくれない、静かに、ただ静かにアマンナが殺されていく。今の惨状を見せないためか、ハッチがゆっくりと降りてきた、かちりとスリットに合わさりロックがかかる。いつもなら仮想投影されるはずのコクピットには何も映らない。
「アマンナ!アマンナ!返事をして!」
《平気…私は平気…だから、こんな死に様は、もう慣れてる…》
「馬鹿言わないで!」
《ふふ…私に嫉妬、しちゃうな……こんな良い人を捕まえた…なんて……》
「あぁ…アマンナ、あなたも私の大事な人だよ…だから、お願いだから諦めないで…」
《ありが》
声がぶつりと途切れた、何をされたのかすぐに理解した。私の中にあった怒りが暴れ出して制御が効かなくなりそうだ、どうしてアマンナがこんな目に合わなければいけないのか。一人ぼっちは嫌だと泣いて寂しそうにしていた彼女がこんな最後を迎えていいものか、絶対におかしい。絶対におかしい、アマンナ達を攻撃して殺した人達が信じられなかった。
握っていた拳から血が滴り落ちた。ハッチの外から誰かが登ってくる音が聞こえる、ここを開けて復讐したい衝動に駆られた。けれどコクピット内に光りが満たされ始め、彼女の言った通り今度は優しく頭から引っ張られ始めた。
◇
とても、とても嫌な夢を見たような気分だった。胸は今なお重く、そして体のあちこちに憎悪が燻っているようだ。私の大切な友人を殺したあの人達が許せない、擬似人格データだから?条例違反をしているから何をしても許される?そんな事はない、アマンナは確かに生きていた、強く握った手も抱き締めた体も確かにそこにあったのだ、それをあの人達は...
「あ、アヤメさん!良かった!」
「君は……」
私はどうやらポートで眠っていたらしい、木船に乗っていた男の子が私に気付いて声をかけてくれた。
「様子を見にきたらアヤメさんがそこで倒れていて、いくら声をかけても目覚めないから心配していたんです!」
「そう…なんだ…ね、君の名前は何かな」
「え、ど、どうしたんですか、急に」
「教えてほしい、それに私は大丈夫だから」
手にしていたオールを船の縁に置いてから男の子もこちらに上がってきた。
「分かりません、主様と同じように僕も名前が分からないのです」
「気にならない?」
予想に反してこう答えが返ってきた。
「いいえ、全然気になりません。こうして遊んでいるだけで楽しいですから」
「………そっか」
「はい!また遊んでくださいね!………ん?」
すると男の子が無遠慮に私の顔を覗き込んできた、柔らかい息が私の唇に当たっている。
「アヤメさん……目が薄くなっていませんか?僕より綺麗な青色だったのに…」
「……え?」
慌てて湖の水面を覗き込む、そこにあった私の顔はいつも通り、けれど確かに目の色が薄くなっているようだ。さらにギリギリまで近付けて見てみれば青い虹彩の中にひび割れたように白い筋が入っている、そのせいでどうやら薄く見えているようだった。
「あ、あ、あの!今すぐに主様を呼んで来ますので!ここで休んでいてください!」
私の返事も待たずに男の子が木船に乗り込みそのまま漕いで行ってしまった。
...その場にゆっくりと立ち上がる、どこからか吹いてきた風に煽られて湖岸に咲いていた黄色の花が宙を舞った。この花びらは仮想だろうか、現実だろうか、どちらにしても「花」であることに違いはない。ガニメデさんが来てくれるまでの間、私はここにいない彼女の事を、ただひたすらに想っていた。